法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

軍艦島にかぎらず、さまざまな意味で「遺産」には負の側面がある

軍艦島をはじめとして、「産業遺産」として記憶されつつある炭鉱。
その遺産の負の側面が指摘されることへの反証として、美しく楽しい記憶の証言がもちだされることが少なからずある。
炭鉱に朝鮮人差別がなかったという産経記事が、方城炭鉱の事務員の証言を使っていて、見えている景色のちがいに頭をかかえた - 法華狼の日記
それを論じた木村至聖『産業遺産の記憶と表象 「軍艦島」をめぐるポリティクス』を読んだところ、興味深い情報がいくつかあったので、要約するようにまとめておく。


先ごろ世界遺産の一部として登録が決まった長崎県端島、通称軍艦島も、当時としては近代的で先進的な生活が何度となく語られている。
急傾斜の炭層ゆえに機械化が困難で、だからこそ職人の技術が重用されたこと*1。海中炭鉱ゆえ安全な採掘深度に限界があり、結果として労働者が別炭鉱に再就職できる余裕がある時代に閉鎖されたこと*2
さらに、閉鎖環境ゆえに閉山とともに完全な無人島となり、廃墟化する過程が住人として体験されなかったこと。これは自治体として破綻したことで知られる夕張などと大きく違うところだ。
廃墟が観光資源として成立する時代になって再注目されたことで、現在の風景が良い記憶をさまたげないこと。これは後述するように、外部からと内部からでは違う感覚もあるようだが。
そうした複合的な理由から、他の炭鉱に比べて美しい記憶が語られやすいようだ。


もちろん過酷な労働環境における心身の傷や、戦時期の強制労働問題は軍艦島も例外ではない。
韓国映画『軍艦島』を利用した歴史の否定がおこなわれつつある - 法華狼の日記
労働力や資材の不足をおぎなうため、職人として熟練していない朝鮮人や中国人、さらに外国軍捕虜も動員された。そうしてかき集められた労働者と、それ以前からの勤続者には距離が生まれたという*3
そうした乖離が端島でさらに拡大しても不思議ではない。端島で発見された1925年から1945年の死亡者の記録から、朝鮮人の死亡率が日本人よりはるかに高く、その内容も病死や事故死だったことが明らかになっている*4
正の側面と負の側面は、裏腹であって矛盾ではない。一方がもう一方の反証に必ずなるわけではないのだ。


しかし木村氏によると、そもそも美しく楽しい記憶をもっている当事者は、それゆえに「遺産」となること自体に葛藤をおぼえる傾向があるという*5。自分が生きてきた活気ある場所が、滅びてしまった姿を見たくないし、衆目にさらしたくない気分があるのだろう。
他の地域を見ても、三池炭鉱は採掘がつづいていた1990年ごろから文化庁による近代化遺産の調査がはじまったことで、嫌がられたという。遺産という言葉そのものが「非常にマイナスのイメージが強かった」ともいう*6
ゆえに先んじて廃鉱を博物館化した夕張においては、地域のイメージアップを目的として運営され、大規模な施設ながら負の側面が言及されない観光施設となった*7。歴史の記憶が意識された三池にしても、朝鮮人労働者が望郷の念を落書きした押入れの戸を展示したり、負の側面をふくむ証言映像を上映したりしつつ、博物館全体としては明るい技術革新をテーマにしている*8


ちなみに軍艦島世界遺産にするNPOをたちあげた人物は、炭鉱マンの親をもちつつも、自身は子供としてくらした立場だった*9。それも生まれ育った場所ではなく、小学6年生から高校卒業までの思春期だけをすごした場所だという*10

 これが僕らのふるさとであり、また日本の近代化産業遺産でもあるということを、元島民の人たちは考え及ばないんですよ。そこまでいけたのは僕がここで生まれてないからいけたんだよ。

その記憶の場所を保存することこそが目標であり、世界遺産にする活動も手段にすぎなかったという*11

X氏は、「大学の先生でも何でもなしに一般の市民だった人間が世界遺産という言葉を使い始めたときはすごく違和感あった」と語る。それでもX氏は「産廃(産業廃棄物)」として朽ち果てようとしていたふるさとを守るための唯一の方法としては、「世界遺産」しかないと判断したのである。
 だが当初は地元だけでなく、元島民の理解さえなかなか得ることができなかったという。

 炭鉱の島を世界遺産だって、一番反発強かったのはここ(端島)の島民ですよ、……そんなことありえないと。また長崎の市役所とか県庁とか色々まわって、こういったこと考えてるっていったときに、……まったく相手にされなかった。

さらに、世界遺産になる場所として呼称される「軍艦島」という言葉は、「端島」に住んでいた島民は使わないと語っていたという*12。2007年の聞き取り時点では、高島出身の軍艦島ガイドのY氏ともども、強制労働の歴史を表に出しづらい葛藤も語っていたともいう*13
いうまでもないことだが、表に語られる証言が、記憶の全てではないのだ。

*1:これは良かった記憶と悪かった記憶の距離を広げ、現在に明るい記憶を語らせやすい要因にもなるだろう。

*2:前掲書153〜154頁。以下に注記する頁も同著から。また、引用内引用には引用枠を足す。

*3:81頁。

*4:160頁。

*5:157〜158頁。

*6:118〜119頁。

*7:115〜116頁。

*8:119〜122頁。

*9:158頁。

*10:210頁。

*11:208〜209頁。

*12:210頁。

*13:157〜158頁。