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法華狼の日記

2017-11-04

[][][]「モリカケ問題の風評被害」といった主張をすることは、ニセ科学やニセ医療の問題に注意するつもりはないということ

いまだ保守速報やnetgeekが信頼されている現状を憂えているkazugoto氏*1と、反論するchronekotei氏のやりとりが目に止まった。

朝日新聞が保守速報などより影響力があるかわりに責任も強く問われるという理路までは、chronekotei氏に同意できる。

しかしその理路を採用するならば、政府や与党の説明責任も強く問われるべきだ。引用されているツイートともども、責任の軽重が恣意的適用されている。


取得や認可の透明性が確保されていなかったことは、それ自体が批判されてしかるべきことだし、朝日新聞の当初の報道もそうだった。

学校法人に大阪の国有地売却 価格非公表、近隣の1割か:朝日新聞デジタル

地元の豊中市議が昨年9月に情報公開請求したところ、財務局は売却額などを非公表とした。朝日新聞も同年12月に公開請求したが、今年1月に同じく非公表とされた。国有地の売却結果は透明性と公正性を図る観点から、1999年の旧大蔵省理財局長通達原則として公表するとされている。だが、財務局は取材に「学園側から非公表を強く申し入れられた。公表によって学校運営に悪影響が出るおそれがある」と説明した。

記事の引用にあるように、まず地元市議の批判的な動きが一部で知られており、朝日新聞が報じた時点で後追いという印象すらあった*2


そもそも公有地の取得が疑問視される以前から、森友学園の幼稚園では排外主義的な教育がおこなわれ、反医療主義も明らかになっていた。

自然の力のみに子供の病気をまかせようとする幼稚園 - 法華狼の日記

教育勅語賛美な幼稚園が、御都合主義的に排外主義的な陰謀論を展開していた - 法華狼の日記

愛国的な教育がなされる幼稚園として産経新聞著名人肯定的に評していた時期があり、それに対する批判や告発がまずあった。

金銭面での疑惑がもちあがるまで事態は動かなかったが、それでも森友学園を方針転換にいたらしめた結果は、まだしも良かったと思っている。

とうとう教育勅語の問題で塚本幼稚園に劣った日本政府 - 法華狼の日記

野党や報道による追及がされなければ、森友学園は順調に小学校を開いただろうし、応援していた組織や著名人が切断処理することもなかったろう。

認可に透明性を確保しないのであれば、教育機関として信頼をおけないという評価は妥当なものだし、それを風評として退けたいなら払拭する責任は認可した側にある。

森友学園への追求を風評被害と主張することは、排外主義や反医療主義への加担に他ならない。


なお、chronekotei氏が反人道的かつ反学術的な思考で動いていることは下記ツイートで明らかなので*3、あまり個人を追及しても意味はないだろう、という諦念はある。

こう主張するchronekotei氏が、ツイッターのプロフィール欄で「男女両性の公平な共存を望むリベラルフェミニスト」と自認していることが不思議でならない。

ちなみに国際的コンセンサスの参考として国連関係の評価を見ると、一定の肯定はされつつ元慰安婦への名誉回復等が不充分と批判されつづけている。記念碑の建立は問題視されていない。

国連の拷問禁止委員会も、日韓合意の見直しを勧告 - 法華狼の日記

国連の自由権規約委員会が、従軍慰安婦問題における日本政府への評価をさげる - 法華狼の日記

chronekotei氏のような主張が広まれば、日韓合意の形骸性をあらわにし、現代日本は反人道的かつ反歴史学的だという国際的な評価がかたまるだけだろう。

s3731127306s3731127306 2017/11/05 09:09 >日韓合意は壊れてもいいんですよ、国際的コンセンサスとして韓国側が一方的に悪いって認識になるなら。

「帝国の慰安婦」を読んで間に受けていたりしていても、驚きませんね。
この本をめぐる“事件”ですが、素人目に見ても、事態がさらに悪化したらしいです。
朴氏の賛同者が反論本を出したのですが、その本には批判論者の実名がなんと1カ所しか出てこないそうです。これはもう、意味のある反論をする責任を投げ出したと思われてもしかたがないでしょう。
ttp://readingcw.blogspot.jp/2017/09/blog-post.html

私が首をひねるのが、もし仮に、あくまで仮定ですが、朴氏個人が故意とあのような問題のある主張をしたとしても、どうして日本側の多数の知識人(この単語は時代遅れかもしれませんが)がこれほど熱心に賛同するのか、どうにも納得しきれないことです。敗戦後の日本社会において脱植民地化のための取り組みが達成されなかったことが議論の大前提だというのはまったくそのとおりだと思うのですが、はたしてそれだけで批判は十分なのだろうか、1980年代以降の問題を考えないといけないと考えるのです。この観点については、「「慰安婦」バッシングを越えて」収録の中西新太郎氏の論考を参考にしています。

私の関心から一例をあげると、1980年以降、いわゆる「国民国家論」が日本においても受容されましたが、それが「慰安婦」問題では解決に役立つどころか、上野千鶴子氏や四方田犬彦氏らのように、日本国家免責論にすすんで協力してしまっている。私は「国民国家論」は正しいとは思いますが、それだけでは絶対に不足なのではないか。「国民・民族としての日本人の責任」というのが厳然と存在するのだが、「国民国家論」がそれを免責するように働いてしまう。私は、日本軍「慰安婦」問題が解決できない大きな理由のひとつは、歴史修正主義というのもあるが、それと関係してもう一つ、「民族虚無主義」があると考えています。うすうす歴史的事実が存在したとわかっているのに認められないのは、「どうせ侵略を反省できなかった日本民族(あえてこう書く)がこれからも反省できるはずがない」というシニシズムがあるからではないだろうか、と。だからこそ、陳腐な”宣伝戦“とやらにたよるしかなくなるのではないか、と考えています。
 かなり大きな話になってしまいました。ただ、現代的歴史修正主義における「宣伝」の過大評価の裏にある、“自信のなさ”についての判断は、それほど間違っていないだろうと考えています(自画自賛かもしれませんが)。

参考にした資料を紹介しておきます。時間があればお読みください。
「[寄稿] 映画『国際市場』に描かれない解放」
ttp://japan.hani.co.kr/arti/opinion/19371.html
「揺らぐ「内鮮一体」像 」←(朝鮮支配における日本側の”自信のなさ”)
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110009685237
「日韓体制下の民衆と「意味としての歴史」 」: 梶村秀樹の韓国認識と歴史認識←(咸錫憲という思想家について。)
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/120005640857

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