法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

『藤子・F・不二雄のSukoshi Fushigi 短編シアター』宇宙船製造法/ひとりぼっちの宇宙戦争

スタジオぎゃろっぷ制作のOVAシリーズ第1巻*1。少年向けから大人向けまで、さまざまな藤子F短編を各巻50分2話でアニメ化し、冒頭に原作者のインタビューを収録。
原作者は『宇宙船製造法』の元ネタとして『十五少年漂流記』をあげ、それが初めて読んだ小説と語る。『ドラえもん』の「人間ブックカバー」は、原作者の体験が反映されたものか。


「宇宙船製造法」は、突然の事故で無人惑星に不時着した少年たちが、生きのびようとして秩序を構築していこうとする。そこで誰が主導するかで争いが起きるが……
1979年が初出の少年漫画を、1990年にアニメ化。望月智充監督がコンテも担当して、監督の妻の後藤真砂子が作画をつとめる。脚本は雪室俊一
まず原作の魅力は、ひとりひとりの異なる理想や信念が小さな社会を構築しながら、それが衝突を生んで圧政につながっていくという寓話性にあった。
惑星で生きのびるための最善をつくそうとする優等生の志貴杜が特にわかりやすい。先頭に立って苦労や努力を重ねるリーダーとして一貫しつつ、やがて現実的でない目標は切りすてるようになり、秩序を守るため独裁者になっていく。その行動は理性的でありつつも、少年たちの社会に不満が鬱積していく。
最初にリーダーとなる堂毛も、独善的に支配して暴力をふるうだけのようで、行動で序列を決めようとする思想に一貫性がある。志貴杜とリーダーの座を争う最初の戦いでは、銃をもちながら手下にあずけて、あえて殴りあいで自身の強さを思い知らせる。その後の反抗に対してはリーダーとして銃を使おうともするが、全員に離反されて拘束された後は、規則にしたがうようになる。肉体労働で全員が不満をもらす場面でも、志貴杜とともに黙々と率先して働くようになる。
比べてOVAは、少年たちが個人的な事情で動く場面が多くて、ただ無力なキャラクターの漂流劇という側面が強い。それでも、御守りにすがるアニメオリジナルキャラクターなどは原作で描かれなかった宗教の象徴という読解もできる。しかし志貴杜の優等生ぶりが大きく後退したのは、原作の寓意性を損なっている。
OVAの志貴杜は、頭脳労働するリーダーとして先述の肉体労働には参加しない。少年たちが不満をもつ展開への伏線ではあろうが、そもそも苦労をさけて現場を知らないというリーダーの問題は、当初の堂毛と重複しており、あらためて描く必要はないだろう。
さらに理想をいだきつづける小山との対立において、仲間の少女のひとりと恋人関係だったというオリジナル描写を追加。もともと原作でも少女キャラクターは補佐的な役割しか与えられていなかったが、だからといって古典的な三角関係に当てはめるだけでは、主体的に行動していないことにかわりない。むしろ少女のクライマックスでの行動が、過去の遺恨によるものであるかのように矮小化されてしまった。
現実だけを見ようと自制する志貴杜と、理想をいだきつづける主人公の小山が、たがいを最も信頼して協力しつつも、それぞれの信念に殉じて対立していく物語の妙味。野蛮な王ゆえに暴力のなかに気高さを見せる堂毛の凄味。それらがOVAからは失われてしまった。
どうしても女性キャラクターを活躍させたいなら、志貴杜を少女化するようなアレンジをすれば良かった。その展開で現在にアニメ化すれば、志貴杜のキャラクターは大人気になるに違いない。いや性別を変えずとも、ていねいに1クールくらいでアニメ化すれば、全キャラクターの女性人気は凄まじいものになると確信している。


「ひとりぼっちの宇宙戦争」は、新聞部でUFOネタをとりあげようとして挫折した少年が、そのUFOによって地球支配をかけた闘技士に選ばれる。公平をきすため、少年のコピーが敵となる……
こちらはほぼ原作通りに映像化。盾に乗って空中移動できるようなアレンジはあるが、あくまでアクションを増やすための改変であって、物語の構造は変わらない。
尾鷲英俊と末吉裕一郎の二人原画で、作画も上々。建設中のビルでの戦いなどは手がこんでいた。ただ、普通の住宅街が侵略の最前線となる面白味を引きだすために、もっと前半の日常で後半の舞台を印象づけるアレンジもほしかった。