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法華狼の日記

2018-04-11

[][][]転生した異世界現代文明知識をつかって活躍するパターンで

「主人公がそのまま転生したのではなく、異世界の肉体に現世の記憶だけがあるという展開はどうだろう?」

「憑依パターンだな。多くはないが珍しくもないぞ」

「そしてその肉体は実は魔王であり、進んだ文明の知識を利用するために主人公の記憶を自分にコピーしていたという真相」

「うん? どこかで聞いたおぼえがあるぞソレ」

「そして魔王としての記憶や感情がよみがえってくるが、主人公の人格はそれに必死であらがおうとするのがクライマックス」

「ナントカ計画とかいうロボットアニメやんけ!」

「あっ……ああ……前例のないアイデアって難しいね」

「まあ、どっちかというと、物語のパターンを逆から見ようとしているシナリオライターがすごいんだろうけどな」

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「ちなみに、ファンタジーへの逃避を批判する前編に、ファンタジーをオーソドックスに描いた後編というパターンも書いているぞ」

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2017-12-29 上げたのは1日後

[][][][]異世界シャワーをめぐる論争を見ていて、必然性や呼称の軽視にもやもやする

小説であれば、それを形成する文字ひとつひとつ、改行の位置から文字のひらきかたまで、必然性をもって配置されるべきだという理想論もあるはずだ。

ディテールをくわしく書きこんだり、それを作品世界の構築に奉仕させることだけが必然性ではない。本筋に関係なければ徹底的に省略することも必然性ある描写をするための要件だ。

時には、単独では完成度の高い描写であっても、他の描写との整合性を考えた時、克明に表現するべきだったか悩ましい場合もある。最近に見たひとつの映画も、最も魅力的な場面が物語の整合性を下げていた。

『FLU 運命の36時間』 - 法華狼の日記

スケールが大きくなっていく物語を、きちんと映像として支えられているところもすごい。首都ソウルベッドタウン盆唐の協力をえたことで大規模な撮影がおこなえたこともあるだろうが、とにかくVFXの技術力が高くて、ひとつの都市に恐怖が蔓延していく情景を高い説得力で見せられていた

ただ残念ながら、隔離地域や収容人数の規模に比べて、探し人の発見が容易すぎる場面が多かった。数十万人が隔離された空間的スケールを見事に表現できているからこそ、物語の都合が目立った感がある。同じ脚本でも日本映画として作ったならば、せいぜい数百人規模の一区画くらいのスケール感になり、すぐ探し人にたどりついても不自然には感じなかったろう。

この映画の事例は、すべての描写にドラマとして必然性をもたせようとした結果、偶然が多用されて不自然になったという問題でもある。必然性は作為と紙一重なのだ。

また、不自然とまでいかなくても、必然性を示す描写がテンポを壊してしまったり、あくまで脇筋なのに本筋より悪目立ちしてしまうこともある。


ちなみに論争になっている『JKハルは異世界で娼婦になった』は話題になったころ序盤だけ読んで中断しているが、とりあえず導入はうまかったと思っている。

JKハルは異世界で娼婦になった - ハル17才の就活

 あたしがこっちの世界に来てまず一番ウケたのが避妊具が草ってことで、「やべ、草生える」って爆笑したら、「生えませんよ」とマダムは真顔で言った。

「スキネ草も知らないの? もうかれこれ30年も前に錬成されてこの辺じゃどこの薬草屋にも売ってるけど。ずいぶん田舎から出てきたのねえ」

これは、必然性ある描写という意味では、WEB小説として完璧に近い導入だと思う。

最初の一文で異世界に来た説明を処理して、そこで主人公が何をするかという本筋までにおわせる。定番となった描写に字数を消費しない良さがある。

主人公のボキャブラリーや興味関心の対象もわかる。主人公の興味関心のありようから、たぶん異世界文明の解明や構築という方向で期待するのは難しいだろう、とも予想できる。

会話対象のマダムの台詞から、作者が一人称主人公を相対化できているし、異文明へそれなりの敬意をもっているという安心感もある。おそらくスキンからネーミングしていることから、この物語における固有名詞のこだわりのラインもメタなレベルでわかる。

そうしたことを説明口調でつめこむのではなく、ギャグ形式におりまぜていることから、ずいぶん書きなれた作者だ、とは思った。ただ、そのうまさで書かれた内容は、あまり好みではなさそうだったが。


そうした描写の必然性のひとつとして、呼称の選択というものもある。必ずしも間違いとはいえなくても、雰囲気を壊す呼称というものはある。

たとえば『JKハルは異世界で娼婦になった』の主人公が異世界の正確な呼称を使いたがるかというと、たぶんシャワーに機能が近いなら「シャワー」と呼ぶだろうな、という印象はある。私個人としては、たとえば鉛管の先から落ちる冷たい水で汚れをこすりとる、といった描写が好みだが、それを一人称で表現しようとすれば主人公の性格が変わることはさけられない。

そうした雰囲気づくりという意味で気になった作品というと、第一次世界大戦から第二次世界大戦くらいの技術レベルの文明を舞台とした『とある飛空士への追憶』に、露出度の高い水着の呼称として「ビキニ」が登場して面食らった記憶がある。多くの地名や固有技術は架空の名称を徹底的に設定していただけに、一種の翻訳として解釈できる*1とは考えつつも、違和感をおさえられなかった。物語世界が遠未来という可能性がにおわされるようになってからも、その一部分だけ「ビキニ」という単語が使われたことの違和感は残った。他の場面では「水着」と呼んでいたからだ。露出度の高さを表現するためであっても、たとえば「紐水着」などではいけなかったのか*2

「ビキニ」にかぎらず、翻訳として理解できる単語にできるだけ置きかえてほしいという気分はある。そうしないなら、そうしないだけの必然性が読みとれるようであってほしい。わざわざ「芋」ではなく「ジャガイモ」や「サツマイモ」と表現する時、その理由はなぜか。それぞれの食味や植生が物語において意味があるのか。逆に異世界が現実と大きくは違わないという伏線になっているのか……


もちろん、こうした必然性や呼称の雰囲気づくりは、関連しつつも総合的に評価されるものであって、ひとつの描写で作品の位置づけを決められるものではあまりない。

それを理解した上で、象徴的な描写を事例として示すことはあるし、ひとつの描写にこだわることが無意味だとも思わないが。

*1:その観点から、こちらの匿名記事に対しては、異世界言語を使わないのであれば完全に日本語訳することこそ異世界らしさに一貫性がある、と考える。はてな匿名ダイアリー

*2そもそも劇中の状況ならば、下着のたぐいで水浴びする展開が自然だったようにも思う。

2017-07-08

[]『メロディ・リリック・アイドル・マジック』石川博品著

音楽で幻覚を見る体質に苦み、学校で疎外されてきた少年ナズマは、逃げるように進学した高校の学生寮にアイドルが集っていることを知る。

アイドルに(相撲部屋のように)かわいがられ、以前と変わらず幻覚に苦しむナズマだったが、ひとりの少女の歌に初めて美しい幻を見る……


2016年7月にダッシュエックス文庫で発売された、「アイドル」をテーマとしたライトノベル。小ネタをちりばめて読みやすく軽やかな青春小説として楽しく読了した。

メロディ・リリック・アイドル・マジック | ダッシュエックス文庫

地下アイドルが隆盛する地域を舞台として、AKB48を思わせる国民的アイドルLEDを敵視する文化で、ひとつのアイドルが生まれるさまを描いていく。

音楽や歌で幻覚を見るナズマと、アイドル結成に巻きこまれるアコの視点を、章ごとに切りかえて、たがいの内心と外面のギャップで楽しませつつ、そのズレのすきまからアイドルという概念が抽出されていく。アイドルはそうなることを選んだ瞬間にアイドルであり、それ以外の根拠など必要ないという思想が、物語として説得的に示される。

普通ならナズマの共感覚的な設定は、アコの歌の素晴らしさを文章で表現するギミックとして使われるだろう。しかし小説の記述を信用するならば、アコの歌はうまくても突出していない。アコの歌がナズマを救うことに理由はなく、しかしそれゆえに、ただアコがアイドルとして歌うだけで充分なのだという力強いメッセージになる。

もちろんナズマという特異な一個人だけに意味があるのではなく、アイドルになることでアコ自身も自由になる。LEDの外見や技術の稚拙さを揶揄してきた物語に見せて、うんうんそれもまたアイドルだねという見解を示していく。芸能界に認められなくてもアイドルだし、芸能界に認められてもアイドルとは限らない。ただそれだけのこと。

過去のしがらみと罪悪感にとらわれつづけていたアコは、かつて持っていたはずのアイドルとしての根拠が虚構だったことを最後に知らされる。しかし、その情報に今さら何の意味もないことを、その時のアコも読者も知っている。それが痛快だった。


念のため、アイドルらしいパフォーマンス描写が楽しい物語であることも間違いない。公私にわたる地下アイドルの傍若無人なふるまいは読んでいて素直に楽しい。

しかし最後の最後に、アコはアイドルとしてのパフォーマンスすらしなくても、その空間に認められるだけでアイドルがアイドルたりうることを証明する。その証明の手段は、ひとりの観客だった時と何も変わらない。

2017-06-03

[][]「会社のもっさりした女オタクが許せなかったのに」という匿名エントリの件

アノニマスダイアリーに投稿された下記エントリが、1000以上のブックマークを集めている。

会社のもっさりした女オタクが許せなかったのに

私が働いている会社には女性社員が100人ほどいるのだけど、

廊下ですれ違うたびに「今日ももっさりしてるな……」と思う数人がいて、

その数人の一人が彼女だった。

自分の気持ちを解釈できない書き手が、それを読者に問う文章で終わっている。

ブックマークでは初期は創作された百合エッセイという解釈が多く、やがて嫉妬だという解釈が増えていく。

はてなブックマーク - 会社のもっさりした女オタクが許せなかったのに

百合話と嫉妬話は排他ではないはずだが、女性の嫉妬というコメントは同時に百合を否定しがち。

私は素直に百合と思ったが、この解釈は百合という評価のブックマーク経由で知った先入観も大きいとは思う。


そしてエントリが創作だということを明かすエントリがnoteに書かれていた。

バズる増田のつくりかた|ひらりさ|note

昨日の昼休みにふと「久しぶりに増田でも書くか」「女同士の百合っぽい感情ネタをいい感じに表したい」ということをつらつらと考えて、以下の増田を書いた。

自分で「創作」と断じている人も多かったが、コメント欄やTwitterで「この女本当にムカつく」「マウンティング」「これを百合と断じるオタクの安直さ」と怒り狂っている人などもいて、完全に「百合」のつもりで書いていた作者(?)としてはなかなか新鮮な気持ちになりました。

ということで作者の意図は百合だったわけだが*1、もちろん物語の解釈そのものは作者をはなれて読者が勝手にしてもいい。

むしろ実話ではないから実在の人物を傷つけまいと安心できることから、解釈の自由度が増したともいえるかもしれない。


ただ、明らかに百合と解釈するしかない部分が匿名エントリにはある。

匿名で吐き出したエントリとしては珍しく、「会社のもっさりした女オタクが許せなかったのに」というタイトルが最初からつけられている。それが創作らしさを感じさせるわけだが、ポイントは「許せなかったのに」という表現だ。

単純に、その感情が現在のことならば「許せない」と表記するだろう。「許せなかった」という表現ならば、過去は許せず今は違うかもしれないという解釈と、エントリを書く時点より過去に起きた体験として過去形にしただけで今も許せていないという解釈ができるかもしれない。

そして、過去のネガティブな感情に「のに」をつければ、文章を書いた時点では反転してポジティブな感情を持っていると解釈するしかない。つまり、国語的に解釈すれば嫉妬よりも百合と読みとるのが自然だろう。

つまり途中の文章を読み落としても、タイトルさえ目にしていれば、百合と読みとることは難しくないはずだ。


念のため、創作ではなく実話と解釈するならば、細部の表現まで意味をこめることはなく、もっと自由に読解できるという考えはある。

とはいえ、明らかに百合と解釈するしかない部分がある一方、嫉妬と断言できる部分は見当たらない。

嫉妬でしかないとコメントした人々が、それぞれどのようにその解釈にたどりついたのか、純粋に興味がある。


ただひとつ思いあたるのは、創作された登場人物が、どちらも性的指向は男性らしい記述があること。

彼氏がいるときは、休日の服装には彼の好みを取り入れる(ちなみに現在はフリー。相手の地方赴任で遠距離恋愛になってしまった彼氏と自然消滅して以来、今のところ彼氏はいない)。

最近、先輩が婚活アプリで出会った男性について話すときに、胸がチクチクする自分にも気づいてきた。

百合は狭義の同性愛のみという思想もないではない*2。まず百合という解釈が却下されて、その代わりの解釈として嫉妬という解釈が好まれたという順序ならば、同意はしないが理解はできる。

*1:このnoteのエントリが前半まで嘘をついていて課金で読める後半では作者ではないことを明かしたりなどしていない、と信用するならば。

*2:もっとも、かつて異性とつきあっていたが今は別れたというのは狭義の同性愛作品でもよくあるパターンだが。

2016-09-13

[][][][]二重国籍報道をめぐる蓮舫氏に対して、ハリーポッターを使って批判した三浦瑠麗氏の意味不明さ

まず三浦氏*1は、蓮舫氏が差別的な状況におかれていることは想定しながら、「今回の機会を自分のためだけにスピン」と批判する。

しかし今回の蓮舫氏に限れば、たとえ個人の権利だけを主張したとしても、境界線上にある他者の権利にむすびつく。権利の主張において他者の権利を阻害しなければ三浦氏の批判はなりたたない。

たぶん三浦氏は、ローザ・パークス事件に対しても同じように批判するのだろう。その行動に対する社会の潮目が変わるまでは。

公民権運動の先駆者ローザ・パークスさんの遺品を競売へ 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

1955年12月にバスで帰宅途中、白人に席をゆずることを拒否したため、市条例違反で逮捕された。しかしこの事件が公民権運動に火をつけ、パークスさんは公民権運動の象徴となった。

しかも「日本と国交のある中華人民共和国の国籍法上は国籍は自然消滅している」という説明は、蓮舫氏個人の主張ではない。たとえば国籍法の専門家の奥田安弘氏も一説として言及している。

「国籍」とは何か?――蓮舫議員をめぐる議論をきっかけに改めて考える / 奥田安弘×荻上チキ | SYNODOS -シノドス-

1972年の日中国交回復の後ですから、日本政府は中華人民共和国政府を正統政府として承認しています。つまり、日本政府の立場では、中華人民共和国の国籍法を適用すべきだというのが公式見解です。そこには「帰化や届出によって外国の国籍を取得した者は自動的に中国国籍を失う」と書かれているので、蓮舫氏は日本国籍しか有していない、という見方もできます。

奥田氏は他にも蓮舫氏と国籍をめぐる状況の難しさを、具体的に指摘している。それは個人が自身の置かれた状況を簡単に認識や要約ができないほど複雑だ。

もちろん三浦氏個人が納得しないのは自由だが、専門的な一説を「こじつけ」と評価して、「失望しか生みません」とまで批判するなら、なんらかの根拠が必要だろう。


また、国家として日本政府にも認められていない台湾がかかわる問題で「国家というくくりしか、共同体の最終的なくくりはない」と三浦氏はいう。

そして三浦氏は文化が決定的となる社会を説明するため、『ハリーポッター』を持ちだしてきた。

私自身は物語内容を映画や間接情報でしか知らないが*2、それでも三浦氏の要約か結論のどちらかが間違っているとしか思えない。

一般的に、物語内の社会状況やキャラクターの自認は作者の思想と同一ではないし、そのまま物語における真実性を意味するわけでもない。物語というものは、作者の意図をはなれた読解すら許すものだし、文学研究とはそういうものだ*3

あくまでたとえ話であるから虚構と現実の混同は目をつぶるとしても、一般論にもとづいて考えると、三浦氏の「間違いありません」という断言には根拠が足りない。

民意で維持されている現状を説明するまでならわかる。しかし、その現状を変えようとする動きを現状の存在をもって「甘すぎる」と評するのは、現状を維持しようとする主張そのものだ。

そうした差別的な状況を維持しようとする社会を民主主義と呼ぶにいたっては、何もかもが転倒している。権利を勝ちとろうとする動きのひとつひとつが民意を変えうる力となるのであって、民意は固定されたものではない。

現実の日本社会も、あらゆる政策が国民の多数決だけで決定されるわけではない。最近でも婚外子国籍訴訟のように裁判所の違憲判決が政策に影響をあたえたことがある。

婚外子の国籍確認訴訟で、国籍法の婚姻要件を違憲と判断−最高裁 | ヒューライツ大阪

三浦氏の主張は、敗戦による外圧まで女性に選挙権がなかった大日本帝国がふさわしい。


また、少なくとも私が見た映画シリーズでは、最終的に「性格悪いスリザリン」という固定観念をゆるがして終わった。

現実味を出す設定として階級制をもちこみつつ、階級を懐疑して終わったなら、その物語が階級制度を文化やスタイルとして決定的に位置づけているとはいえない。

その結末を三浦氏が無視している理由はなぜだろうかと思ったら、スリザリンをめぐる逆転を、男女差別をうちやぶった背景のみに位置づけていた。

ここで三浦氏はスネイプがスリザリンだということは説明しない。ハリーが最後に示した結論も無視されている。

三浦氏の要約による『ハリーポッター』シリーズは、あたかも差別的な文化を基盤として差別をひとつだけ壊した物語のようだ。

それとも原作小説を読めば、三浦氏の主張するように蓮舫氏を「リーダー」から除外すべきというメッセージが読み解けるのだろうか。

*1:はてなIDはid:lullymiura

*2:斜め読みをしたことはある。また、三浦氏自身が原作者を「最たるリベラル」と評しているので、原作が映画より大きくリベラル性が後退していることはないだろう、と仮定して話を進める。

*3id:saebou氏のツイートを紹介しておく。saebouさんのツイート: "マジレスですが、文学研究者の本当の仕事は著者の意図を無視したり、著者の意図を理解した上で無視したり、著者が意図していなかったようなものをテクストから引きずり出すことです。著者の気持ちを考えてたら研究なんかできません。"