国旗・国歌に対するリベラルな解答

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080327-OYT1T00837.htm
http://www.sankei-kansai.com/01_syakai/sya032703.htm
教育基本法が改正されたせいもあってか、最近愛国心教育をしなければならないという声が強い。だが、その愛国心の中身のほうはいまだ不明である。愛国心教育の支持者に愛国心とは何ぞやと問うてみても、愛国心はけして軍国主義のことでは無いのであって脊髄反射のように反対する左翼は……と左翼批判をはじめるばかりで肝心の愛国心については答えてもらえない。
同様のことは国旗・国歌問題についても言える。国旗・国歌は尊重すべきだという人に理由を問うと、国旗・国歌が国家を象徴しているからだという。だが、ではその国家とは何かと問い返すと、国旗・国歌を尊重しない教師は反日であると繰り返すのみであってやはり答えはもらえぬのだ。尊重するもせぬも尊重するものが何か知らなければ判断のつきようが無いと思うのだが、彼らは歌を歌うかどうかだけで尊重しているかしていないかわかるそうだから、もちろん国家についての深い見識を持っているに違いなく、私はそれをかねがね拝聴したいと思っているのだがいっこうに教えてはくれぬのである。
さて、非才な私には国家とは何ぞやという難しい問いについては答える術を持ち合わせていないのであるが、こと日本国家に関して言えば、それを答えることができる。いや、正確に言えば文字が読める人間ならば誰でもこたえることができるのである。なぜなら、日本国家はある文章によって明確に規定されているのであって、それを我々は日本国憲法と呼ぶ。日本国憲法は日本を自由主義と民主主義の国と規定しているから、すなわち愛国心とは自由で民主的な日本を愛するということでなければならない。また日の丸と君が代は自由で民主的な日本の象徴であるとみなされるのである。つまりハーバーマスが言う「憲法愛国主義(Verfassungspatriotismus)」である。Verfassungは日本語で言えば「国体」だが、わが国においてこの言葉が背負っている不幸な歴史を考えるとこの言葉は使うことが出来ない。しかし意味は要するに、愛国心の対象は国民国家=Nationにあらず、国家の理念型=Verfassungであるということである。
ところで、日本国憲法が施行されて以来、60年にわたってわが国は自由と民主の理念にそって運営されており、その実績によって我々がどれほどの恩恵を受けているかを考えれば、よもやこの2つの理念を愛することに反対する者はいないと思う。まして、この2つの理念を党名に記す政権政党の支持者ならば当然、愛国心の対象は自由で民主的な日本であることを理解しているだろうし、日の丸君が代も自由と民主の象徴であることに依存は無いはずである。
では国旗・国歌に反対する人々は、自由と民主に反対しているのだろうか?そうではない。彼らも当然自由と民主について賛成しているのである。実際、彼らは軍国主義を批判しているではないか。ただ彼らは、日の丸・君が代軍国主義の象徴であると誤解しているだけなのだ。確かに戦前の擬似立憲制のもとでは、日の丸・君が代は反動的なものであった。ただ、コレに対して日本の為政者だけを責めるのは不公平であって、ホブズボームによれば1870年代以降、日本だけでなく、世界中どこでも、国旗・国歌は不幸にも「想像の共同体」のナショナリズムに利用されてきたのである。たとえばフランスの三色旗は共和主義のシンボルであったが、この時代以降、右翼の王党派も三色旗を振るようになるのである。1871年に統一されたドイツの国旗は、自由主義の象徴黒・赤・金ではなく、プロイセン軍国主義の象徴黒・赤・白であった。ちなみにナチスハーケンクロイツも黒・赤・白である。しかし、もはやそのような時代ではない。ドイツには黒・赤・金が再び翻っているし、フランスのトリコロールも反政府デモにさえ翻っている。つまり自由主義のシンボルとして。そして日本も1947年を境に、日の丸・君が代は自由と民主の象徴に生まれ変わったのだ。彼らはそれに気付けていないのである。なぜ気付いていないのか?それは、国旗・国歌が「強制」されているからである。卒業式や入学式における国歌の演奏は、19世紀の古いナショナリズムの伝統であって、自由と民主の象徴にはふさわしくない。さらに、日本政府は日の丸・君が代について自由と民主の象徴であると表明するのをためらっているし、それどころか君が代の「君」は天皇であるという解釈を出しているのである。彼らが危惧するのも当然なのである。
しかし私が不可解なのは、この自由と民主の象徴が、教育現場において、指導要領の改訂によってさらに「強制」されようとしているということである。なるほど確かに教育に「強制」はつきものかもしれぬ。しかしそれは人間社会を営んでいくうえでどうにも仕方の無い妥協であって、そのことによって我々が自由と民主を諦めたなどという誤解はけしてするべきではない。まして、「強制」されようとしているのは自由と民主の象徴であり、それを「強制」しようとすることは少し考えればまったく滑稽でばかげたことだと理解できるはずだ。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/11/09/990906i.htm
を見れば、自由と民主の理念を理解している諸国は、そのようなばかげた真似は行わないという賢明さを持ち合わせていることがわかると思う。逆に、国旗・国歌が残念にも強く強制されている国は、まだ自由と民主がもたらす恩恵に気付けていない国が多い。また、わが国の前首相が「価値観を等しくする国」と呼んだアメリカ合衆国では、
http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk195a2.htm
のような判決が出ている。もちろん日本の愛国者たちもこの事例を参考にして賢い選択を行っていただけるに違いないと期待している。