いじめ/ファシズム/引きつった笑い

ジャック・バウアーと緊急時の倫理

http://d.hatena.ne.jp/flurry/180009
では、拷問に関する懸念や重箱の隅をつつくような差異で拷問を区別しようとすることに対する、以下の回答――人気があり表面的には説得力のある――についてはどうであろうか。
「何を空騒ぎしているんだい? たった今、合衆国が拷問を行うことを公認したってだけじゃないか。少なくとも合衆国は黙認状態でつねに拷問を続けてきたし、他のあらゆる国家も拷問を行ってきたんだ。むしろ今の僕らは以前よりも偽善的では無くなったんだよ」
これに対しては以下のような単純な反問を返すべきだろう。
「そのことが合衆国政府の声明が意味する唯一のことだったら、『なぜ』彼らは拷問を公認したんだ? 以前からそうしていたように、黙って拷問を続けていれば良いじゃないか」
「語る内容」と「語るという行為」との間に存在する、解消できない裂け目――たとえば「あなたはそのように語るけれど、でも、『なぜ』あなたはそのことを公然と私に語るのだろうか?」のような――は、人間の発話に内在しているものである。
 たとえば我々は皆、知人の話が退屈でバカバカしいことを婉曲に伝えるために「それってとても興味深いね」(“That was very interesting.” )という言い回しを用いることができることを知っている。もしその代わりに「退屈でバカバカしいよ」と公然と知人に語ったとしたら、彼は驚愕するだろう。何かを公言するという行為は決して中立なものではない。語るという行為は語った内容それ自体に影響を及ぼすのだ。
同じことが、最近、政府が拷問を行っていることを公認したことにも当てはまる。ディック・チェイニーが拷問の必要性についての猥褻な声明を行うとき、我々は問うべきであろう。
「なぜあなたはそれを公言するのか?」
まさにそれこそが我々が為すべき質問である。あなたにその声明を行わせているのはいったい何者なのか? 「24」に関して本当に問題であるのは、番組が伝えているメッセージではなく、メッセージが公然と認められているという事実である。この事実は、倫理的・政治的な基準に関して我々が深く変化していることの嘆かわしい徴候なのだ。

■節子!それいじめじゃなかったわけやない!ただの不感症や!
まあ、世の中からいじめがなくならないのがよく分かったという気がする。というのは、

ニコニコ大会議でいじめがあったとかなんとか。
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20080708/1215450117
学校のいじめられっこもさ、
ごくたまに、みんなが注目するステージにあがらざるを得なくなって
でも、そこで得意の科目や、芸を披露できるもんだから
そのときはいじめと同じ時のヤジでも、
みんな大ウケして、本人もまんざらじゃない健全な空気なんだよね。

[web][think]友人がニコニコ大会議に行って来た話を書いたら第二の大会議が巻き起こってしまったの話
http://d.hatena.ne.jp/magoshin/20080707#p1
実感としては、1つの事実に対する、大まかな、そして決して相容れることのない感覚の違いに起因して、このような二次会議が起こってしまうのかなと思いました。「参加した人」と「参加してない人」、それと「構造を見る人」と「内容を見る人」の、それぞれお互いに理解できない感覚差。

ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」
http://d.hatena.ne.jp/shamano/20080706/1215340247
また、ネットの一部では、すでにこの件を「いじめ」として断じる人たちも次々と出てきているようです。しかし、これはあくまで個々の主観的な印象によってブレが出てきてしまうので、永遠にこの手の論争には決着がつかない、ということはじゅうじゅう承知の上でいえば、当日この会場にいた主観的な印象では、ちょっと「いじめ」と呼ぶのは少し言葉が強すぎるのではないかと思っています。これは大変にセンシティブでややこしい問題で、本来の「いじめ」問題にも同様の問題がまとわりつくわけですが(いわゆる、《周りはいじめているつもりはなくても、いじめられている側は著しく傷付いていた》といった解釈のズレをめぐる問題のことを、ここでは指しています)、基本的に当日の雰囲気は、「いじめ」というよりは、お笑いでいうところの「いじり」くらいの感覚に近く、少なくとも「いじめ」という言葉が一般にはらんでいるような、過剰で息苦しいまでの陰湿な雰囲気とでもいうべきものは、当然ではありますが、この質疑応答のときには流れていなかったです。基本的には、「笑って流せる」ような雰囲気だったということです(そして実際に笑って流されていった)。*1

「いじめ」っつーか「いじり」だろ
http://d.hatena.ne.jp/massunnk/20080707/p1
小学校中学校で友達いじって遊んでたら「それ、いじめだろ」とか言う人がいて「こいつ寒いな」て感じですかね。

節子!それ当事者による冷静な分析やない!単なるいじめっ子の言い訳や!
・・・というのは、いじめ問題を語るうえで割と自明にしていい事柄だと思うんだけど、共有されてないのかなぁ。
「いじめじゃねぇよちょっといじって遊んでただけだよ外野からものを言うなよまったく委員長や大人はうるせぇなぁ空気よめねえんだなぁ」みたいな台詞は、ぼくが脚本家でベタな学園ドラマ担当することになったら間違いなく入るテンプレ台詞だとおもうんですがどうなんでしょう。少なくとも何のエクスキューズもなしに、これがいじめだという説にたいする対抗言論になりうると思っているとしたらちょっと引く。
冒頭の引用にもあるように、「本人もまんざらではなかった」という評価は、もちろん本人の増田
http://anond.hatelabo.jp/20080706112744
によって強調されるわけだけど、ごめん、いじめられっ子がいじめに対してまんざらでもないようにふるまうことって、ものすごく典型的ないじめの光景だと思うんだJK。いじめを発見するのが難しい理由ってまさにここにあるわけじゃん?報復を恐れて、あるいはいじめられたという現実によって自尊心が傷つくのを恐れて、いじめられた側はほとんど自分がいじめられている事実を申告しない。

このリアルタイム性&匿名性を持った告発者の発言、実際に受けてみると、
率直に言ってかなり面白い。
別に強がりとか自虐とかでなくて。だって、考えてみてよ、可視化された率直な感想の、リアルタイムな集合体を、
芸能人や政治家みたいな有名人ではなく一般市民の立場で世界初で見ることが出来たんだよ。
パラダイムシフトが起きた瞬間を体験出来た人間が、世界中にどれだけ居ると思う? そのパラダイムシフトを
体感出来たのは、世界でオレだけだと思うし、実際のところ見てて自分でも面白がれた。
 
…精神弱い人がこれを食らっても大丈夫か、という意見に対しては、正直わからんね。引き篭もったり首吊ったりする
可能性も否定出来ない。

節子!それ「率直にいってかなり面白い」やない!いじめを内面化しただけや!
想像力を働かせましょう。まああの場で質問したら何かは書かれると分ってたとしてもです。はい、大画面に自分がうつって「ハゲ」ってかかれました。そしてなんと会場はそれに呼応して大爆笑するではありませんか。カメラもズームインしてきます。あなたはギョっとします。これはいじめじゃないか?いじめじゃないか?いやいじめではない。断じていじめではないんだ。周りは笑っているじゃないか。楽しめないのは周りが悪いんじゃなくて自分が(ry…。
次第にあなたは自分自身が自分の肉体を離れて高いところから見下ろしていることに気づきます。そのことによってあなたは「実際のところ見てて自分でも面白がれ」る視点を獲得します。そのことによってあなたは「だって、考えてみてよ、可視化された率直な感想の、リアルタイムな集合体を、芸能人や政治家みたいな有名人ではなく一般市民の立場で世界初で見ることが出来たんだよ。パラダイムシフトが起きた瞬間を体験出来た人間が、世界中にどれだけ居ると思う?」という、まったく自己が介在していない「客観化された」分析を自分自身に対して行うことができます。はい、いじめの内面化の完成です。いじめを内面化したあなたは、いじめを自分もあたかも楽しんでいるかのようにふるまいます。それを見ていじめる側は「これはいじめじゃなくていじり」という視点を余計強めるのです。本当は「…精神弱い人がこれを食らっても大丈夫か、という意見に対しては、正直わからんね。引き篭もったり首吊ったりする可能性も否定出来ない。」のはあなただったかもしれませんが、あなたはいじめを内面化することで乗り切りました。しかしあなたは精神が強くて乗り切ったわけではありませんから、「大丈夫」じゃなかったあなたもいるわけです。この一文はそっちの「あなた」に向けてかかれているのです・・・。
この問題の解決のためには、事前にこのように「いじられ」る可能性をはっきり明示し、そして質問者などの参加者は「笑われ」るのではなく「笑わせ」ることを心がけるべきであるという主張がある。しかし、ぼくには「自分は笑われているのではない笑わせているんだ」という自己欺瞞を獲得するために必死に道化に走る演者の引きつった笑顔しか思い浮かばないんだがどうだろう。
もちろん本当のところはわからないけどね。でも「本当のところはわからない」で思考停止することこそが、まさにいじめの擁護と助長に繋がっているということもしっかり指摘しておきたい。なにしろナイーブに「本人が納得しているから問題が無い」とするコメントが現状多すぎるんで。
■あのー、それ普通に「ファッショ」なんですけど
というか、多くの「ニコニコ大会議」擁護派が今回の件はたいした問題じゃないとしたがる問題*2というのがあって、それはまたid:kmiuraさんが正しく指摘したように、今回の件が単なるいじめではなかったことを意味する。

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080707
これはいじめではない。パネラー、観衆が一同ニコニコしながら(なにしろニコニコ大会議なのだから)、わかってやってるんです、ベタなんです、とかくなる排除を公然と行う。これは実に民主的にしてファッショだ。

"ハゲのおっさん"問題はいじめではなく、一見いじめの構造に見えるが実はそれはニコニコ動画のニコニコ的構造の一部を取り上げてみたにすぎない。ゆえに、その一部を取り上げて「PTA的に」吹き上がるのではなくもっとニコニコ動画の可能性を見よ、というわけである。

友人がニコニコ大会議に行って来たの話
http://d.hatena.ne.jp/magoshin/20080704#p1
場の空気を読んで、思っているけど黙っておくというのは、相手のためというより、自分がそこで目立つのが恐いという心理の方が強いと思う。その会場で誰かが当人に向かって大声で「ハゲ!」なんて言ったら、白い目、痛い厨房を見る目で見られてしまうに違いない。だけど、その場に居ない、名前も姿も見えない単なる「意思」が、「ハゲw」とモニターに表示させることは、同じ人間なのに、全く違う意味と効果を持っている。それは誰のものでもない、「ニコニコ動画に関わる"みんなの意思"」になるんだと思う。*3

ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」
http://d.hatena.ne.jp/shamano/20080706/1215340247
どうしても、このイベントは会場で絶対にナマで見ないといけない、と思っていたからです。そして、その直感は間違っていなかったと思います。
(…)
 ちなみに、当日のイベントは、本当に会場の熱気と臨場感があまりに圧倒的で、言語化しようとすればその全てが言い尽くせずに零れ落ちてしまうような、すばらしいものだったと思います。特に、運営の皆様、本当にあれはお世辞でも社交辞令でもなく、すばらしかったです。また、あのようなイベントが開催される日が来ることを、「ニコ厨」の一人として、願っています。
(…)
普通のイベントで、あれだけ野次が飛んでいたら、それは「異様」だと思うはずなのに、当日はけっこう「ライト」に受け入れられていたのは、それが普段から見ている「ニコ動」と同じようだ、と感じてしまっていたからに違いない。*4

お前は1935年ニュルンベルク党大会に出席した党員の手記か!
まあ過去の歴史的事件にあてはめて、というよりもむしろ一般名称としてのファッショ的事態といったほうがふさわしいだろうか。ニコニコがファッショと親和性があるというのは初音ミクの話をしたときに一度指摘したのだが、今回のニコニコ大会議はまさにそのような事態であろう。
ベンヤミンファシズムの本質を「政治の耽美化」であるという。ニコニコ動画においてそれは「おもしろ化」である。まさに「ニコニコ」がスローガンなのである。あらゆるものをおもしろくすることこそが「ニコニコ的現実」に他ならない。たとえば、国会中継をニコニコ化すべきだという意見がある。なるほど、国会中継をみんな見るようになるかもしれない。しかしそれはおもしろ化された国会中継であって、政治が行われている場としての国会中継ではない。それは何をもたらすか?単純である。つまり、郵政選挙なんかよりもっと酷い事態だ。kmiuraさんが指摘するように、

ちなみにもしワタクシが政治家でスターリニストだったら上記のニコニコメソッドをさっそく採用するだろうなあ。小泉が発明したみたいなタウンミーティングを設定して、大画面にうつしだし、リアルタイムで匿名とされる人々のコメントを流す。で、都合の悪い人の発言があるたびに、あらかじめ雇っておいたコメント職人に「出っ歯なおせよ」「ヅラか」とか発言の内容とは関係ないコメントを打ってもらう。徹底的にこれやったら、まあ、なんつうか結果はみえてますな。まさに排除。

世の中の「おもしろ化」を実現するにはいくつかの操作を必要とする。イベントで質問者に"ハゲ"とやじるのは「おもしろい」。しかし、リベラルな市民社会においては「普通のイベントで、あれだけ野次が飛んでいたら、それは「異様」」なのである。そこで、彼らは―まさにアガンベンがファッショの特徴として指摘した―二重の秩序、つまり従来とは別の新しい秩序をもたらすのである。いわゆる「ニコ動の空気になれていなければ」つまり「ニコニコ動画の空気」である。
新しい秩序が正当化されうるには、なんらかの例外状態の導出が無ければならない。もちろんニコニコ動画の場合は「技術」に他ならない。(確かに今までの秩序では"ハゲ"と野次るのは禁止されていたかもしれない。しかし、ニコニコ動画のような技術が出来てしまっては、もはや"ハゲ"と野次るのを禁止することは不可能である。我々はこの現実の中で生きていかなければいけない…)たとえばドイツでは御用法学者たちが「自生的秩序」と呼んだものがまたここでもつくられているのである。
よって、ニコニコ動画という技術自体は悪くないという擁護は誤りである。技術が空気を肯定する根拠になっているとするならば、技術は全く免罪ではないのである。
そしてもちろん、この新秩序の正当性を強化しているのは、まさにこれもファシズムの特徴であるのだが、ニコニコ動画、ニコニコ的現実の「新しさ」―それが本当に新しいかどうかはともかくとして―である。ニコ厨のページに飛べば、ニコニコ大会議がいかに新しいものであったかという興奮と熱狂をいくらでも読むことができるのである*5*6
というわけで、まあニコニコ動画内でファシズムやってる分にはいいです。都市対抗野球みたいなもんですね。ただ、間違っても社会のニコニコ現実化みたいな恐ろしい破滅的計画はくわだてないでください。ああ、20歳未満はニコニコ動画禁止にするべきだと思います。ニコニコ現実なんてファシズム思想は、有害以外の何者でもありませんので。

*1:強調は引用者

*2:「いじめ」という定義自体を批判するんじゃなくて、「いじめ」と定義するとそれは「いじめ」だった「かのように」思われるから自重しろという人ってなんなんだろうね。"ハゲのおっさん"の心情よりも、自分の遊び場のイメージが悪くなるほうが嫌なだけなんだろうけど

*3:強調は引用者

*4:強調は引用者

*5:ちなみにこういうこと書くときまってニコニコは新しくないよ派が沸いてくるのだけど、その立場の人は頼むからまずニコニコは新しいよ派と殴り合って撲滅してからこっち来てください。

*6:参考:http://jp.youtube.com/watch?v=UxvmcYtWZss&feature=relatedの6:37秒あたりから