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2009-02-03

「政治」を「する」ことと「政治」で「ある」こと

東浩紀カール・シュミット読解は誤読が多いとずっと思っていた。

例によって速記者が正しければだが、

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1

カール・シュミット『政治的なものの概念』を何回か取り上げた

何を言っているか

政治は友と敵を分けることだ

友と敵を分けることが政治

誰かが自分の存在を抹殺するかもしれないから相手を抹殺

精神的な意味でも隠喩でもない

「政治は友と敵を分けることだ」とはシュミットは言っていない。

政治的なものは、特有の意味で、政治的な行動がすべてそこに帰着しうるような、それに固有の究極的な区別のなかに求められなければいけない。

(『政治的なものの概念』p14)

カール・シュミットにとって「政治」とは、「道徳」や「経済」とははっきりと分けられなければいけない、「友」と「敵」の区別において見出されるものなのである。それは具体的・存在論的な意味で解釈すべきであるような、現実性と現実的可能性である。

 つまり、「友・敵」対立とは現実に、または現実的可能性として既に存在しているものであって、我々はそれにしたがって結束するかどうかを決定しうるが、「友・敵」の分割そのものは決定しえない。シュミットが危惧していたのは、現実に存在している敵対性・諸対立が、自由主義・議会制民主主義などによって「道徳」や「経済」に回収されてしまうことだった。

結局はすべて、ただ倫理的・経済の両極をめぐるだけの、このような(自由主義的な)定義や論理構成をもってしては、国家・政治を根絶することはできず、世界を非政治化することもできはしない。(p101)

自由主義は、「非・政治化」するから問題なのではなく、そもそも「非・政治化」できないのである。「政治」はいずれにせよあるにも関わらず、それがあたかも無いように行われることが問題なのだ。

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1

自由主義は本質的に非政治的なイデオロギー

何かを批判するときには政治的なイデオロギーになるからこそ、

19世紀20世紀にかけて政治的役割を担ってきた

発想自体はもともと政治に敵対している

友敵を作らないのが自由主義

自由主義で国家を解体していったら人間が人間じゃなくなる

そんなら自由主義・ポストモダニズムにつくべきだ、と僕は考える

ある種のヘタレ

一方では、私たちの社会はこうあるべきだと言いながら、

他方では、しかしこうあるべきだということを他人に押し付けない

そういうへたれた空間世界でしかリベラリズムは存在できない

東浩紀は言っているが、自由主義のような非政治的な立場につこうがつくまいが対立は存在するし、したがってそれは「友・敵」の区別において「政治」と認識しなければならないのだといったのがシュミットである。

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081205/p1

コジェーヴの文章とすごく似ている

ポスト歴史の動物たちの文章に似ている

政治とか国家とか世界全体で一つの国家になることはありえない

その時には人間は友と敵の判断をなくしてしまった

正しいとか儲かるという判断しかすることがなくなり、

倒すとか政治的な意識が消滅

倒すか倒されるか、物理的存在論的になくなるかなくならないか

そういう関係性にあるのが政治

世の中から国家、政治がなくなるなら

経済的、倫理的名関係の中でぐるぐるまったりと生きていくことになる

人類は政治的概念ではなく、またいかなる政治的単位・状況も、人類には対応しえないのである。(・・・)自然法的および自由主義的・個人主義的教義における人類とは、普遍的な、つまり地上の全人類を包括する、社会的理想構造なのであって、闘争の現実的可能性が排除され、いかなる友・敵結束も不可能になったときにはじめて、現実の存在となるような個々人相互の関係の体系なのである。そのとき、この普遍的社会の内部には、政治的単位としてのいかなる国民も、さらには闘争するいかなる階級、敵対するいかなる集団も、もはや存在しないであろう。(p64)

ところで闘争の現実的可能性は人間が決定しうるとシュミットはいっていない。「闘争の現実的可能性が排除され、いかなる友・敵結束も不可能になったとき」というのは「人間は友と敵の判断をなくしてしまった」のとはまったく違う。闘争の現実的可能性があれば人間は友・敵結束するのであって、逆になければ結束はできない。社会的理想構造たる「人類」によって、闘争の現実的可能性が無くなるのではなく、闘争の現実的可能性がなくなったときにのみ「人類」は現実の存在となるのである。

 つまり、人間が友や敵の判断することをやめれば政治はなくなるということをシュミットはまったく言っていないのだ。「友・敵」の区別を人間が「正しく」行わなくても、現実に存在する諸対立にしたがって友・敵結束は行われるのであって、「経済的、倫理的名関係の中でぐるぐるまったり」などはありえない。

http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1

政治のなくなった世界は人間が人間である限り来るわけはないと思っている

でも僕は素朴に良いんじゃないかと思う

「良いんじゃないか」と言われても、政治は「良いんじゃないか」でなくなりようがないのだから「良いんじゃないか」と言うことで政治がない世界は来ないのだ。

 確かにシュミットは国民国家システムの先に有るシステムを考案していた。いわゆる「グロース・ラウム」理論であるが、「グロース・ラウム」が国家の延長線上にあるか、それともポスト国家的なものかは議論がある。しかしいずれにせよそれは歴史的なものの延長(「具体的秩序思考」)によって構築されるのであって、したがって「政治」は否定されておらず*1、また「歴史の終わり」を前提にしていたコジェーヴとはまったく異なるのである。

 ところで、このような誤読―友・敵区別は「ある」ものではなく「する」ものであるという誤読―は、単なる偶然でなく、おそらく東浩紀や、彼のような思考をする人々が本質的に持つ誤謬に根ざしていると考える。つまり、彼らにとって「政治」とは「ある」ものではなく「する」ものなのだ。いわば彼らは、何かどこかに「政治」という場所があり、そこに近づかないようにすることで「非政治的」になれると考えているようだ。あらゆる「政治的」対立ないし「政治的」(に見える)態度は、その人間が「政治的」になることによって生じるのであって、「非・政治的」に振舞ってさえいれば「政治的」対立は存在しないか、「非・政治的手段」(たとえば工学!)によって解消されると信じているのである。

 村上春樹の受賞問題や立命館の写真撤去問題もこれと同根である。「はてサ」を批判する人たちは、「はてサ」が「政治」に近づきたくない人たちを無理やり「政治」に近づけようとしていると見ている。しかし、いわゆる「はてサ」―id:mojimojiさんやid:font-daさんをここでは含めておく―が前提にしているのは、「はてサ」あるいは「非・政治的」な人々がそう望もうと望むまいと、状況は既に「政治的」であるということである。それはカール・シュミットが言ったことでもあるし、シャンタル・ムフ*2も『政治的なものの再興』あるいは『カール・シュミットの挑戦』で議論しようとしていたことであった。

■敵対関係について

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080512/p1

シャンタル・ムフは自由主義者ながらシュミットの議論を受け止めつつ、ハーバーマスの「討議民主主義」のような自由主義的な民主主義を批判します*1。

実際今日、人道主義というレトリックは、政治的な力関係に取って代わりつつある。そして西洋自由主義は、共産主義の衰退とともに、敵対関係(antagonism)が根絶されたと考える。「再帰的な近代」(reflexive modernity)の段階に達するとき、倫理は政治に取って代わりうる。友と敵という政治の伝統的な形態が、「旧来の友・敵関係を超えた同一性」の発展によって、終焉を迎えつつあると言われる。国際的に行使されうる民主主義の「審議的」あるいは「対話的」形態の諸条件がすでに整ったと主張されるのである。しかし残念なことに、「政治的なもの」に固有の闘争が根絶できないこと、また政治的なものが法の「外部者」であること、こういったシュミットの主張は、これら全てが希望的観測にすぎないことを暴露するのである。

シャンタル・ムフ編『カール・シュミットの挑戦』序章「シュミットの挑戦」)

ムフは、(それは必ず達成しうる)最終的な合意を目指して討議を続けていくという民主社会ではなくて、けして合意しえない複数の集団が存在することを認めることこそ、民主社会の大前提だというのです。自由主義が「敵対関係」を排除してきたことによって何が起こったでしょうか。テロリズムや暴動―もちろん2005年パリ暴動が参照されるべきです―つまり、自由主義者たちが「非合理的なもの」の突発的現象と呼んできたものの表出であって、これはスラヴォイ・ジジェクが主張する「ポスト政治的な」自由主義的寛容の行き詰まりなのです。

「政治的」であることをのぞまなくても―「政治的」闘争を不可視化し続けていても「政治的なもの」と距離を取ることはできないとしても、だからといってわれわれはいわゆる政治的行動を取ることを義務づけられはしない。しかし、我々の営み、「政治的」状況を前提としたもろもろの営みは、その「政治的」状況と関わりあっているひとつのあり方なのである*3サルトルは、人間とは状況に拘束された存在だととらえた。名著『図解雑学サルトル』から引用する。

アンガージュマンとは何か?

 サルトルは、人間が自由な存在である、というが、同時に、人間は誰しも自分の生きる時代の状況(→p106)に拘束されている、とも言う。

 たとえば、戦争の時代に生きる人間は、戦争と無関係に生きることはできない。安全な場所に逃げて戦争と無縁な生活を送る人もいるかもしれない。しかし、そういう人でも、戦争があったからこそ「戦争から逃げる」という選択がありえたのであり、やはり戦争という状況と無縁ではない。サルトルは「戦争から逃げる」ということも「戦争に関わる」一つのあり方だ、と言うのである。

 そして、サルトルが言うアンガージュマンとは、人間は時代の状況から逃れられないという事実を直観し、その状況の中でどのように行動するかを能動的に選択していく、ということなのである。したがってそれは、時代的状況とめいっぱい「関わって」生きること、と言ってもいい。そして、戦後のサルトルの生き方は、まさにそうしたものだったと言える。

永野潤『図解雑学サルトル』p130)

状況の「外」にいるか「内」にいるかは既に問題にされていない。人間は状況から逃れられない。「はてサ」が「観客席はない」と言うとき、たいていの場合は、「観客席から降りて闘技場に来い」という意味ではなく、「あのー、それ普通に闘技場の中なんですけど*4」という意味で使っていると考えてもらってよい*5。たとえば、村上春樹が問われているのは、政治的にふるまうか非・政治的にふるまうかでは無く、イスラエルによるパレスチナへの空爆という具体的状況にどう関わるかというあり方の問題である。サヨクはよく「政治的なもの」の忌避を批判するが、それは「政治的なもの」に寄ってこないことを批判しているのではなく―なぜならば、どのような態度を取ろうがすでに「政治的」なのだから―望もうが望むまいが現に存在する「政治的」状況にたいする「関わり方」のあり方として、「政治的なもの」を忌避するという態度を批判しているのである。おそらく、このようなことを前提として「はてサ」の文章を読んでいけば、致命的な誤読は生じないだろう……と思いたい。

<参考文献>

*1:たとえば「グロース・ラウム」同士の対立が想定されているとされる

*2:東は彼女をも誤読している。ムフは「人間は必ず公的な敵を作るんだ」(http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1)とは言っていない。ムフは、「政治」を認識しない、たとえばロールズなどのような「敵対性」を認識しない自由主義は失敗すると批判した。「敵対性」は「つくる」ものなどではなく、前提として解消できない「ある」ものなのである。「政治」がreturnするのではなくて―それは初めから存在し続けている―、「政治的なもの」というシュミット的な理論がreturnするのである。

*3:「自由」だ!!!

*4:だから、あなたのそのような振る舞いは当然、中の人の振る舞いとして判断されますよ。ていうかしますよ。

*5:違う意味で使っている人がいたらごめんなさい。

あむばるわりああむばるわりあ 2009/02/04 22:37 アクティヴィストにならないという選択も政治的な選択であるというのはあたり前の話ですよ。
あらゆる決定・決断は趣味的・恣意的になされるわけで、必然的にバイアス=党派性を帯びます。
いまさらそのことに気付いて言い募っても、東には何も届かないのではないでしょうか(最新の講義レポを読んでも、そこはおおよそ踏まえられている)。
非アクティヴィスト批判にはもっともな理由があって、ガンガンやっていいんだなどと独り合点し、
周囲に迷惑をかけて「政敵」を増やすばかりではどうしようもない。

それに、そもそも「東問題」とは、
絶対的正義(無謬的認識・正しい価値観etc.)なんて存在しないのになに吹き上がってんだよ(笑)という東の認識をめぐるものでしょう。
あなたの指摘は的を外しています。
そして、これに反論するには絶対的正義を論証しなければならないわけで、つまり端的に不可能なんです。
絶対的正義の存在を前提とし、しかも自らの側にそれがあるとする(おそらく東はそう見ている)「はてサ」の認識と手法に、致命的な非有効性・無力さ・勘違いを見取るのは、
なにもエキセントリックなことではなく、穏当かつ妥当な「読解」であると思います。

真摯に考えるべきなのは、
「はてサ」連中がなぜ一向に支持を得られないのか、なぜ党派として勝利できないのか、なぜ嫌われるのか、ということでしょう。
政敵と同じように、自分もまた決して正義ではあり得ないという事実、自己の相対性をしっかり受け止めるべき。逃げちゃダメだ。

t 2009/02/04 23:06 物凄いブーメランを投げている人がいると聞いて飛んできました。
いや、あんたこそ「逃げちゃダメ」だろ。

hokusyuhokusyu 2009/02/04 23:07 うーん、ごめんなさい。ぶっちゃけ、東はどうでもいいんです。
どうせアカデミズムには戻れないだろうし、お仲間集めて内輪で「評論」をやっている限りはそれこそ無害なので。
ただまあ、ああいう連中のシンポジウムに若者がン千人集まるという日本の知的状況は気持ち悪いとは思います。
あと、僕の知っている限りはてサで自分の立場にたいして、「道徳」的意味としての絶対的正義を付与した人はいません。
もちろん、関わる個別「政治的」問題が道義的に問題にされる場合は、道義性において批判はします。
ただし、「政治」は原則的には「絶対的正義」が属する「道徳」のカテゴリとは区別されているのであって(これもシュミットの指摘です)、
それを前提にしてはじめてそこに「ある」「政治的なもの」を指摘できるわけです。
これは論理的に言ってそうだし、「はてサ」はみんな前提にしてます。
で、もし、東がそれを読み取れてないとしたら、それこそあたまわるいですよね。マジで。
あと、左翼ならともかく、「はてサ」は何をもって勝利というのかわからないんですけどw
おおっぴらに「政治的」主張をすれば好かれたり嫌われたりするのは当然で、実際好かれたり嫌われたりしてます。
別にあんまり気にしてません。

pomoponpomopon 2009/02/04 23:28
>絶対的正義(無謬的認識・正しい価値観etc.)なんて存在しないのになに吹き上がってんだよ(笑)
じゃあおまえが(笑)ってる場所はいったいどこなんだよって話でしょw

あむばるわりああむばるわりあ 2009/02/04 23:36 絶対的正義を前提にしなくても、「異論」とぶつかれば自ずと政治は出来しますよ。
おのおのがイデオロギーを掲げ、闘争し、勝敗が決し、誰かがヘゲモニーを握る。別に複雑なことではありません。

「はてサ」にしてみれば、たとえばイスラエルあるいは「エルサレム賞」などは絶対悪なのでしょう。
そしてそれを批判する自分を正義の側に置いている。正義など存在しないのだから、要する夢を見ている。
この欺瞞はファシズムにつながっている。

まずイスラエルあるいは「エルサレム賞」を憎悪する自分を疑うべきでしょうね。
自分は何を抑圧し、排除し、殲滅したいのか、真摯に見つめ直すべき。

>pomopon
私は東ではありませんが、異論が混ざり合う場、できれば共存する場ではないでしょうか。


まあとにかく、正義を標榜する人間は信用しない方が安全でしょう。

pomoponpomopon 2009/02/04 23:43 >異論が混ざり合う場、できれば共存する場ではないでしょうか。
ああ、「19世紀の貴族のサロンみたいな場所」のことですねw

hokusyuhokusyu 2009/02/04 23:44 イスラエルも「エルサレム賞」も絶対悪だとは考えてません。
mojimojiさんはことあるごとに、イスラエルを絶対悪みたいにして糾弾するのやめようって言ってます。
あれは正義あれは悪と机上でぽいぽいわけて、そのリストにしたがって批判するしないを決めているわけではないです。
それはボイコット運動にしても同様です。
「本当に大切なことに理由はあってはいけない」は「絶対的正義」ではありません。「絶対的正義」は理由だからです。
そうではなくて、我々は皆自由だということです。その自由において、
イスラエルやエルサレム賞の「状況」と、それに対して自分はどのように関わっていくかという関係性の中に批判という行為があるわけです。
ていうか、さっきのコメントで「絶対的正義」誰も信じてませんって言ってるのに、決め付けでコメントするのはアレですか。
もしかして、あたまわるい人ですか。別にいいですけど。

あむばるわりああむばるわりあ 2009/02/04 23:50 「本当に大切なことに理由はあってはいけない」と信じることによって絶対的正義にコミットしているつもりになってしまっているんですよ。
「本当に大切なことにも理由があるかもしれない」となぜ考えることができないのか。
というか「本当に大切なことに理由はあってはいけない」って思考放棄の表明でしかないですよ。おそろしい。
粘り強く考え続けましょうよ。

hokusyuhokusyu 2009/02/05 00:44 ああ、あなたには難しかったかごめんなさい。
でもこれ超重要なんですよ。→にエントリあるからぜひ読んでね。
なんなら、お友達にも紹介してください。
みんなで広げようはてなサヨクのワ!

あむばるわりああむばるわりあ 2009/02/05 00:51 結局この話は自然権にいきつくんでしょう。
で、「本当に大切なことに理由はあってはいけない」などというのは、
たとえばオバマが大統領就任式で語ったような人権神授説的な、
非論理的な、きわめて頭の悪い話になる。

hokusyuhokusyu 2009/02/05 16:08 人権神授説はとても論理的だと思いますよ。同意はしませんが。
やっぱり正義は正義だときちんと言わなければいけない。
でも、それと「絶対正義」であるということはまったく別の話です。

なまえなまえ 2009/02/06 01:58 絶対的正義とは確かに言ってないが、そう見えるように振舞っている(から嫌う人が必要以上に多い)可能性というのは考えておくべきでは? 嫌われる理由を「政治的なことをおおっぴらに主張しているから」だけだと思っているわけではないよね?
実際そう見えることは多いです。頭悪いと言われるだけかもしれませんが。

hokusyuhokusyu 2009/02/06 03:11 うーん、ていうか人間は自由なんです。
はてサが嫌われているんじゃなくて、あなたが(もしくは誰かが)はてサを嫌っているんです。
はてサが絶対正義を標榜しているように見えるんじゃなくて、あなたが(もしくは誰かが)そう見ているんです。
もし、はてサが嫌われていることが問題だと感じるのならば(ぼくはそう思いませんが)、
まずあなたがはてサを好きになればいいし、はてサの言っていることを正しく読み取るようつとめれば良いのではないでしょうか。
それは全然難しくないことのはずです。少なくとも村上春樹がエルサレム賞を辞退するよりは簡単でしょう。

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