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2009-05-21

鳩山だからこそ

 別に改憲派の鳩山由紀夫を応援する義理は何もないのですが、党首が鳩山由紀夫になったことで民主党の政権交代は遠のいたという、何を根拠に言ってるのかわからない言説については、選挙特番大好きなわたくしとしては文句を言っておきたいと思います。

 事実は、民主党が政権交代を確実なものにするためには、よほどのことが無い限り鳩山を選択するのが最善であったということです。なるほど、確かに岡田のほうが直近の「民意」を獲得することはできたでしょう。しかし、そもそも民主党は「民意」の支持をあまり必要としない政党なのです。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5231.html

f:id:hokusyu:20090522005500g:image

もちろん投票率の違いも見なければいけませんが、ここ数回の選挙においては一見して分かるとおり基礎票においては民主党は自民党を上回っており、自民党のほうがいわゆる「風」だのの選挙をしているわけです。小選挙区の投票傾向はもちろんこれとは若干異なるでしょうが、まあ似たようなものです。そして郵政のような突風はさすがに今回は吹かないでしょう。とするならば、重要なのは「風」を得ることよりもむしろその配分、つまり票割りや他党との選挙協力であって、それにふさわしいのは単独政権にこだわる岡田よりも小沢路線の選挙戦術を継続する鳩山であることになります。

 さらに、西松以降の世論調査では民主党と自民党の支持率はほぼ拮抗状態にありますが、そもそも拮抗しているという時点ですでに民主党は圧倒的に有利なのです。

http://www41.atwiki.jp/giinsenkyo/pages/15.html

http://www41.atwiki.jp/giinsenkyo/pages/18.html

これらを見ればわかるとおり、あの2007年参議院選挙直前でさえ、政権の支持率は30%あり、また政党支持率でいえば民主党は自民党にトリプルスコアをつけられていました。ところが、結果は周知のとおり民主党の圧勝であったのです。その理由は、民主党自体は支持していなくても自民党はイヤ、政府はイヤという潜在的野党支持者の受け皿に民主党がなっていることなどがありますが、ともかく西松事件のようなことがあると民主党の支持率はヒトケタまで落ち込むというのが常識であって、下がっても平均して20%代を維持しているというのは、今まででは考えられなかったことです。小沢辞任と鳩山就任で民主党の支持が回復したことが驚きであるという論調がありますが、論理的に考えればこれは当然の話で、なぜ不思議がるのかわかりません。つまり、不信感をもたれていたのは小沢一郎個人にたいしてであって、小沢一郎の路線、つまり2007年参議院選挙の路線が否定されたことは一度だってなかったからです。逆にいえば、麻生降ろしが成功したとしても、小泉ブームのようなトレンドはもはや回復しないでしょう。あのときは、確かに森の支持率はヒトケタでしたが、自民党の支持率は一貫して30〜40%あったからです。内閣支持率と自民党支持率が拮抗するような、現在の状況とは違うのです。

 さらに、自民党の地方組織の崩壊や地方自治体選挙における民主党の躍進は(まあ千葉とか大阪とかポピュリズム選挙にはあいかわらず弱いですが)、民主党に好材料以外のものを提供しません。「風」しだいで大きく振れてしまう大都市圏を別にすれば、民主党の都市部での優位に変化は無いのに加え、郡部においても地盤を確保し始めたということです。もちろん、こうした地盤固めに対して小沢一郎の選挙戦術が大きな影響を与えていることは言うまでもありません。

 以上のことから、民主党は普通に選挙をやれば勝てるのであり、普通に選挙できるのは岡田ではなく鳩山であったわけです。さらにいえば、民主党は自民党に普通の選挙をやらせたいのであって、麻生を降ろして奇策を行うきっかけをつくる岡田を選出するのは賢明ではありませんでした。そこにおいて「民意」は無視されたわけですが、まあ「民意」の答えが「俺たちの麻生」だったりするわけですから、そんなものは無視されても仕方がないのではないでしょうかね。

2009-05-06

柴村仁、見下ろす、落語

 柴村仁が嫌いである。

 いやまあ、本人は「会えばいい人」なのかもしれないが、彼女の書いたものはことごとく嫌いなものが多い。

 ぼくが読んだ限りにおいて、彼女の小説のスタイルについては次のような印象を持っている。つまり誰かが死んだこと、または何かが失われたことがまず強烈なインパクトとして存在していて、その事実を中心に物語が回っていく*1。『プシュケの涙』がまさに典型的だが、『我が家のお稲荷様』もそうで、あの話の構造は要するに死んだ母親の縁で胡散臭い奴らがわらわらやってきて、死んだ母親の話をして帰っていくというものだろう。死んだ母親が物語の中心にあって、ことあるごとに母親が死んでいるということが思い出さされるのだ。

 それで、なぜそういった喪失を中心とした物語(くーきょなちゅうしん、とか言いたければ言えばいい)が嫌いかというと、そうした物語はたいてい「見下ろす視線」というものを構造として保有しているからだ。

■ 脳内ワセダ、見下ろす、残酷さ。

http://d.hatena.ne.jp/flurry/20080313#p1

僕の数少ない経験から得られた脳内高田馬場というのは、街を見下ろすひとが随分と多そうな街なのですが。というのはともかく、「エキゾチックで、胡散臭い 人が胡散臭いまま生きる」ことと、その胡散臭く見える人やその人の周辺の人が街を見下ろす視線を持っていることは何の矛盾も無く両立し得るように思いま す。

取り返し不可能な欠如というものを目の前に突きつけられてわれわれは、どうしようもなく、無力さにただうなだれるしかない。ただ、そのうなだれることこそ最も人間らしいありようであると言いたがる人たちがいて、それは「胡散臭さ」のような人間の不完全性を愛でる嗜好と結びついている*2。だが、不完全性を愛でるということはそれ自体が倒錯したものなのだ。たとえば、「お前のブサイクなところが好きなんだよ」という言葉に漂う何様感と同じで、あるものは不完全である(だがそれがいい)というとき、必要になってくるのは、その不完全性なるものを上から見下ろす視線である。もっと言えば、そうした上から見下ろす視線自体が、欠如や不完全性を愛でる心性を生み出しているのではないか?オリエンタリズムの視線においては西欧中心主義と異文化を愛でる態度が表裏一体であるように、人間の不完全さ、おろかさ、ままならなさを愛でる態度の根源に、ものごとを序列化せんとする確固たる視線があるのではないだろうか。

 『プシュケの涙』はまさに「自殺した」一人の生徒を中心にまわっていく物語であるが、二部構成になっていて、その構成自体が生徒の欠如を絶妙に浮かび上がらせるようにつくられている。それは悪趣味なぐらい残酷なのだが、その残酷さは作者自身も自覚的なように思える。むしろ、このような残酷な視線を通してこそ「生きた」物語というものが生まれるのだという確信すら、作品自身、あるいはこの作品をほめる人の文章から感じられるのだ。

 このあたりは好みの問題かもしれないが、このような自身の残酷さへの安住などといった、見下ろす視線にたいする開き直りは、ぼくは好きではない。

 ぼくが落語が好きな人をあまり信用していないのも、彼らがまさに「落語は不完全な人間のありようを生き生きと描いて〜」などと言い出しかねないからだ*3。人の醜さ、人間の業みたいなものをまるごと肯定するのが落語なんだ、と落語家、あるいは落語好きはよく言う。でも、そういった落語の持ち上げはたいてい、上で述べたようなオリエンタリズムな視線と「起きてることは全て正しい」的な薄っぺらい人生訓のグロテスクなミックスでしかないといつも思う。落語そのものが見下ろす視線の産物であるとまでは自分は落語研究者ではないので言わないし、言うこともできない。ただし、経験上、少なくとも落語が好きな人には人間の不完全さ、胡散臭さ、おろかさ、のようなものを積極的に[見下ろして」いこうとする態度をとる人が多いと思っている。それに、立川談志というひとはまさに「不完全な、悪としての人間こそほんとうに人間らしいし、そのような人間を描くのが芸である」というようなロジックで自分の差別心を正当化しているようにしか見えないので大嫌いである*4

なんていうか、頭悪い人ですよね。いいから他人にやさしくなれよ。残酷なことするなよ。でも、こういう人って、すべてを捨ててもその視線だけは持ち続けようとするからなあ。そして、その頭の悪さと心中するの。

 世の中において、残酷さというものは確かに存在する。しかし、わたしはその残酷さを愛する(肯定する)と言明するとき、現実に存在する残酷さと「わたし」の視線を通してみる残酷さ、とのあいだに発生する断絶については、もっと考察されていいようにおもわれる。「世界は美しくなんかない」*5が深イイ話としてもてはやされるのは、マーケティング的にいえば中学校までだったはずではないか。

*1:そーゆー話はもちろん柴村仁に限らないが、当然、他のも嫌いである。

*2:一方サヨクは・・・という人もいるけど、ダメ人間サイコーなんて、むしろ今風のサヨクが言いだしそうなことでしょう。

*3:実際言い出されてもいる。

*4:そのようなものが芸であるなら、芸が禁じられる世の中と、芸の名の下に差別が行われる世の中と、どちらが息苦しいかというと当然後者であろう。

*5:これは柴村仁じゃないけど