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2012-03-08

「一般意志」とは何か

 紙屋研究所の紙屋氏が東浩紀の「一般意志2.0」をdisっているのだけれど、何か本質を外している気がします。

■架空インタビュー2.0 『一般意志2.0』ふたたび

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20120306/1331001376

特に違和感をもったのが、「差異の総和」について書いている部分。

――「差異の和」のくだりですね。

 そうです。岩波文庫の桑原・前川訳の方で紹介します。

これらの特殊意志から、相殺しあう過不足をのぞくと、相違の総和として、一般意志がのこることになる。(岩波版p.47)

 この最後の部分「相違の総和として、一般意志がのこることになる」は、フランス語の原文では「reste pour somme des différences la volonté générale.」となるので、東訳よりも桑原・前川訳の方がいいと思いますね。

 この箇所の解釈は明快でして、個々人のさまざまな利害や思惑という「違い」の部分をぜんぶ足し合わせて、プラス・マイナスで相殺してしまうと、共通の利益部分だけが残る、という意味です。

 特殊意志、つまり個々人の利害や思惑を単純に積み重ねるだけでは、個々人の利害の集積にしかならないけども、過不足分を相殺するという算術操作をすると、それが「共通の利益」というものを残すことになるんだという意味ですよね。これは先ほどの「一般意志の内実=人々の共通利益」という解釈と整合的です。非常にわかりやすい。

 ところが東さんはこの部分を「差異の和が残るが、これが一般意志である」と訳しているために、あたかも共通部分ではなく差異部分が残っているかのような印象になってしまっています。

ぼくはフランス語ができないので英語版を参照したところ、「差異の総和」は「sum of diffrences」になっていました。うーん。これはやっぱり「差異の和」つまり共通部分が残っているのではなくて差異が残ってるんだと思いますよ。

 だれそれの個人的事情にすぎない特殊な意志を取り除いても、残るのは「差異の和」であり、それを一般意志とルソーは呼びます。ルソーは一般意志を共通善(common good)とも言っていますね。共通善が「差異の和」であるとすれば、共通善って結局何なん?となってしまうと思います。ですが、そこで共同体の成員すべてにおける具体的「共通の利益」なるものがあるのだ、と考えるのは短絡的です。ルソーが言っているのは果たして、たとえば「この森を村の共有地にすれば村人みんなの利益になる」とかそういうことなのでしょうか?

 

 ルソーはリスボン大地震においてヴォルテールライプニッツの最善説(まあ「起きてることは全て正しい(byカツマ)」みたいなやつ)に激怒したとき、ヴォルテールに対して「まあまあまあまあまあ」と宥めるような手紙を送っています。曰く、「起きていることはすべて善」なのではなく、「起きていることはすべて”全体にとって”善」なのであると考えればいいんじゃない?と。つまり特殊的に起こる不幸は否定しえないが、「一般的な不幸」については否定しうるというのです。もちろんヴォルテールがそんなことで納得するはずはないのであって、怒りの矛先が今度はルソーに向くという何かネット上でよくある論争めいた話になっていくのですが、それはまたべつのお話です。

 ともあれ、そもそもなぜ世界が善か悪かが問題になるのでしょうか。キリスト教徒にとって世界は全知全能の神が創造したものですが、全知全能であるはずなのに、なぜか世界には明らかな悪や不幸が存在している。この問題は長年かれらを悩ませ続けてきました。潜勢力という考え方もそこから生まれたものです。そもそも世界においてある現象が起きるのは、神が直接働きかけたものなのか。いやそうではない。優れた王様とは優れた制度や法をつくる王様のことであり、下々の一挙手一投足にいちいち口を出す王様のことではない。同様に、神は世界を創造しそこに君臨する。だが統治しない。かわりに摂理がある。世界で起こる様々な現象は、神の摂理によって起きるのです。

 しかし、摂理には、この世界に現前しているもの以外にもさまざまな摂理がありえたはずです。なぜこの摂理なのか?それは、あらゆる摂理の中で最善のものだからに違いない。なぜなら神は善であり、その神がこの摂理を選択したのだから。ゆえに、摂理がもたらす予定調和によって個々にみれば不幸としか言いようのない現象がおきたとしても、他の摂理によって支配された可能世界と比べたとき、この世界が最善なのだ。これが、最善説の考え方です。

 ところで、神の摂理のことを神の一般意志とよぶことがあります。ちなみに神の特殊意志もあって、それは奇跡と呼ばれます。

 

 ぼくが思うに(思うに、というかこのようなルソー解釈は既に存在するのですが)、ルソーの一般意志についての議論は、既に存在した神学的議論の蓄積を前提にしています。この立場からみて、「一般意志は差異の和である」ということはどのように解釈しうるのか。たぶん、こうです。神の摂理は、個々には様々に異なった諸現象としてあらわれる。では、そうした諸現象から何らかの目的とか意図が導きうるでしょうか?当然そんなことは不可能です。重要なのは、そうした諸現象によって、神の摂理が現前しているということです。同様に、一般意志が「はい!差異の和!ドン!」と出てきたことによって、それ自体から何らかの目的や意図(なすべきこと)が導けないのは当然なのです。重要なのは、一般意志が現前するということだからです。ここで転倒が発生します。つまり、一般意志そのものから何らかの意見が導かれることはないので、一般意志を手段として統治を行うことは出来ません。しかし、一般意志は定義により善です。よって、統治の目的が、一般意志を現前することになるのです。

 ルソーは、「表出(再-現前)された人格が現前したとき、もはや代表者は存在しない(in the presence of the person represented, representatives no longer exist)」と述べています。上の解釈に従えば、この意味がはっきりと理解できます。つまり、いまや一般意志として現前している人格は、さきほどの転倒によって、ヒエラルキーの最上位にあります。たとえばキリスト教会においては神そのものを何かによって「代表」させることが禁じられているように、ヒエラルキーの最上位にあるものを代表することは不可能なのです。

 一方、ルソーによれば一般意志は市民(国民)を「代表(represented)」したものです。しかし一般意志は共通善なのであって、これは代議制のようにそれぞれの集団ごとに代表者を選ぶあり方とは異なっています。このような代表のあり方を、カール・シュミットは「上から(auf oben)の代表」とよびました。この「代表」性を権威付けているのは、選挙やそのほかの方法による手続き的正当性ではなく、代表の「形式(フォルム)そのものなのである、とシュミットは言っています*1

 

 さて、「一般意志2.0」がほんとうに恐ろしいのは、まさにここにあるのです。東浩紀は、(おそらく意識的にではないと思いますが)一般意志の議論をある意味でこのうえなく「正しく」理解しています。東浩紀にとっての一般意志=民意は、定義により「善」です。もちろん、わたしたちは実際の「民意」とは、沖縄に基地を押し付け、犯罪者をつるせつるせと叫び、朝鮮学園いじめに喝采し、歴史修正主義者を政治家として当選させるものであることを知っています。しかし、東浩紀にとっての民意とは、一般意志としての民意であり、「国民」を代表しているのです(少なくとも、実際の民意との剥離に気づかないくらいにはマジョリティの匿名性に安住しているとはいえます)。かれにとって現在の日本政治における一番の問題は、政治家がそのような民意を捉えきれなくなったことにつきます。かれが希求する一般意志2.0のシステムとは、かれ自身何度も言っているようにグーグルやニコニコ動画そのもののことではなく、民意=一般意志を現前させるシステムのことであり、そのようなフォルムのことなのです。

 はて、みなさん。常識的に考えて、このようなシステムを「民主主義」とよぶことができるでしょうか。シュミットはできるといいます。彼は、独裁と民主主義は両立すると述べました。「投票の結果を国民意志とよぶか、「拍手と喝采」による独裁を国民意志とよぶか、その手続きは重要ではない。「国民意思は、当然つねに、国民意思である。意思がどのようにして形成されるのか、ということが重要なのである」。わたしたちは、このような考え方によって成立した政治体制を、何と呼ぶかすでに知っています。

 

 一般意志2.0については、ニコニコ動画で国会中継したらいいとかそういうどうでもいいところ*2にばかり注目が集まっていますが、もっと根本的なやばさ(酷さ)はぜんぜん議論されていないのであって、あずまんが橋下と結びつくところなどはまさにこの点にあると思うのですが、総スルーってところにこの社会やべえと思います。

 

 

社会契約論 (岩波文庫)

社会契約論 (岩波文庫)

*1:ルソーとシュミットと東浩紀については前もかいたのだけれど全然反響がなかったので再掲載。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20091226/p1

*2:まあ「アホか」という点でどうでもいいのですが。そんなことをすればどんな酷いことになるかkmiuraさんがすでに指摘しています。http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20080707#p2

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