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2013-02-13

エトス・ノモス・福島

 福島第一原子力発電所(フクイチ)の事故から早2年が経とうとしている。「国民」は次々と新しいニュースに沸く。やれ中国から有毒ガスが飛んでくる、朝鮮の核実験によって放射能が飛んでくると他国への排外感情を満たし、核実験などと比べ物にならない多大な放射能がつい最近この国において撒き散らされたことなど忘却したようである。いまだその場所においては被曝労働を伴う収束作業は続いており、避難と補償についても解決に向かう道筋はついていないにもかかわらず。

*** 

 フクイチの事故を問題にするうえで、福島/フクシマという「場所」への問いは避けて通れない。

原発事故による被害は複合的な被害であり、その中には福島という「場所」の被害も含まれているのだ。なぜ福島という「場所」が被害にあったのか。それはけして偶然ではない*1。開沼博を読むまでも無く、それは中央と地方におけるさまざまな構造的な権力関係によっていたのだ。その意味で、被害は3.11以後にはじめて発生したのではなく、3.11以前からあらかじめ予定されていたのである。もし、命さえあれば「場所」はどうでもいいというのであれば、なぜ東京に原発が無かったのか。大阪に原発がなかったのか。わたしたちは最初から被曝してよい「場所」とそうでない「場所」を区別していた。*1

この文章を書いたのは1年以上前だが、こうした問題提起はその後の「反原発」運動において、大局的にはスルーされ続けているように思える。

 「エートス福島」(http://ethos-fukushima.blogspot.jp/)というプロジェクトは、政治的背景や実践においてきわめて胡散臭いものではあるが、「場所」の問題を等閑視する反原発運動に対して突きつけられた挑戦であるといえよう。

エートスって何? あえて言葉で説明してみると、、、

住民が自主性を持って、生活と環境の回復過程に関わって行く活動。

エートスって何?  もうちょっと説明してみると、、

地域住民の生活スタイル、食生活、農林水産業での手法、工業生産、社会的または法的制約、援助、補償体制等々を考慮し、住民のそれぞれの視点を共有しながら問題に対処するのが特徴。

エートスって何? 熟語で言ってみる、

地域に密着した、現実的な放射線防護文化の構築。

エートス活動を行う事で、どんな良い事があるの?

住民自身が自らのおかれた状況を理解し、計測し、自分なりの解釈をする事ができるようになれば、個人・集団で、放射能汚染への対応をどう改善して行くのかを自分たちで見つけ出し「現実的な放射能との共生」が可能になる。*2

このような「エートス」の精神に対しては多くの具体的な反論があり、その多くは正当なものだと思う。しかし、このプロジェクトの本質とは、福島/フクシマという「汚染地域」で住むことにある。このことについて本質的な批判が加えられているだろうか。少なくとも自分の乏しい見聞においては知らない。

 「エートス福島」の「エートス」とは、上記サイトによれば、”「エトス(信頼)とパトス(感情)ロゴス(論理)」アリストテレスの説得のための3つの要件のうちの一つ”であるという。おそらくこれは『弁論術』からの引用だろうが、そもそもはベラルーシで行われたプロジェクトの福島バージョンである。この紹介により、「エートス福島」は、事故以来おおいにその価値が問われることになった「科学コミュニケーション」の問題として取り上げられることとなった。

 そもそものベラルーシ・エートスがどのような意図によって名付けられたかはわからない。だが、このプロジェクトの概要からすると、「エートス」ということばはより公法的観点によって捉えられるべきだと思う。そもそも古代ギリシャにおいてエトス(ethos)ということばは「慣習」という意味があり、ノモス(nomos、法)と関連することばであった。たとえばプラトンは成文化された法に対して「書かれざる父祖のエセー(慣習、ethe:エトスの複数形)」があると述べている*3。アリストテレスも『政治学』においてエセーとノモイ(nomoi、ノモスの複数形)の関係について述べている。彼によれば、成文法と調和したノモイよりも、エセーに調和したノモイのほうがより効力があるのである。

 ノモスという言葉はネメイン(nemein、分配する・放牧する)という動詞から来ており、場所の概念と関係している。このノモスの場所概念に注目して『大地のノモス』という分厚い本を書いた公法学者もいたほどである。われわれがある「場所」に住むということは、ノモス(法)やエトス(慣習)に基づいて暮らすということである。逆に古くからの”書かれざる” ノモスやエトスによって、われわれはそこに住み続ける、ということもあるかもしれない。そのようなノモスやエトスを破ることが、人によっては「命を守」るために移住するという正義を果たすことと、二律背反的状況に置かれるとしたら?

***

 プラトンの『クリトン』は、この正義(ディケー)とノモスとの緊張関係を描写している。新しい哲学を若者に説いたために都市の有力者に恨まれ、死刑の罪をでっちあげられたソクラテスに対して、友人のクリトンは亡命を促す。友人として君を見殺しにするのは忍びない、と。それに対してソクラテスは、「正しいことだけをすればよい」という。ソクラテスはでっちあげの罪で死刑になったのだから、不正を受けている。しかし、不正をなされたからといって自分も不正なことをしてはいけない。ソクラテスによれば、「ポリスのノモス」を破るのは不正なのである。

国法はこう言うだろう(・・・)まあ、いずれにしても、いまこの世からおまえが去ってゆくとすれば、おまえはすっかり不正な目にあわされた人間として去ってゆくことになるけれども、しかしそれは、私たち国法による被害でなくて世間の人間から加えられた不正にとどまるのだ。ところが、もしおまえが、自分で私たちに対して行った同意や約束を踏みにじり、何よりも害を加えてはならないはずの、自分自身や自分の友だち、自分の祖国と私たち国法に対して害を加えるという、そういう醜い仕方で、不正や加害の仕返しをして、ここから逃げていくとするならば、生きている限りのおまえに対しては、私たちの怒りが続くだろうし、あの世へ行っても、私たちの兄弟たる、あの世の法が、おまえは自分の勝手で、私たちを無にしようと企てたと知っているから、好意的におまえを受け入れてはくれないだろう。*4

このくだりはしばしば「悪法も法」ということを説明するさいに引用されることがあるが、ソクラテスはそんな単純な話はしていない。ソクラテスは世間の人間から不正を加えられたのであって、「国法(ポリスのノモス)」から不正を加えられたのではない。たとえばフランスのノモスがフランス革命由来の「自由・平等・博愛」であるとする。他方でフランス人は(日本人と同様)悪い法律をつくることもあるし悪い判決を下すこともある。しかしそのことによって「自由・平等・博愛」というノモスそのものが不正をなしたとはいえないのである。古代ギリシアにおいて、ノモスの起源は神々に置かれる。また、ピンダロスは「ノモスは人間と神々の王である」と述べた。自分が不正を受けたからといって逃亡し、そのノモスを踏みにじるのは、大きな不正となるのである。

 このくだりについて、全体主義の論理に引きずられかねないとして批判するのは簡単だ。しかし今考えなければいけないのは、たとえ汚染地であろうと、ノモスあるいはエトスに従ってそこに住み続けるということは不正ではない可能性があり、そのような選択をした人たちに避難を要求することが不正である可能性がある、ということである。

 しかし、このような議論に不満を持つ読者もいるかもしれない。たとえば、ある場所に住み続けるというノモス・エトスが正統なものであるという根拠はない。それは地方の醜い同調圧力に根ざした単なる因習に過ぎないのではないか?と反論する方もいるだろう。確かに、エートス福島がつくりあげようとしている具体的な「エートス」は、個々において既に多くの批判が寄せられているように、胡散臭いものであることは確かである。だが、たとえ汚染された場所であってもある場所に住み続けるというノモス・エトスそのものが不正であるとは誰にもいえないだろう。それを不正であると言ってしまうことは、三里塚のたたかいをはじめとする国家あるいはグローバル市場の暴力にたいして世界中で行われている闘争を否定することになるだろう。そしてこの「場所」に関わるノモス・エトスの正統性がある限り、エートス福島は自らの正当性の場を確保し続けるだろう。

***

 では、われわれはいかにしてエートス福島に反対しうるのか。「場所」に関わるノモス・エトスの正統性を認めたまま、エートス福島の「エートス」を批判するためにはどうしたらいいのだろうか。ひとつの可能性があるとすれば、ノモスの根拠となる福島/フクシマの「場所」が、3.11以前と以後で大きく揺らいだことに着目することだろう。原発事故/放射能被害によって、福島/フクシマは汚染され、それまでのノモス・エトスを適用することが困難になった。このような例外状態において、エートス福島は例外状態のノモス・エトスを作り出し、適用しようとしているのである。つまり、例外状態の常態化が行われている。

 しかし、福島エートスが覆い隠そうとしてもできない毀損したノモスがあるのである。少なくともフクイチ30km圏内においてはそれは2年弱ずっと現前しており、それを否定したい人々を悩ませてきた。ここで『クリトン』の議論を逆照射することができる。福島/フクシマのノモスの毀損は、ノモス内在的に生じたものではない。ノモスを毀損したのは人間であり、それは原子力発電所事故という人間の不正によってもたらされたものなのである。

 人間の責任、というものをノモスと区別することによって、この毀損したノモスについていまいちど考えることができる。ノモスが毀損したからといってそのノモスを一部の「反原発」運動のようにそれをガラクタとして廃棄することは、さらに不正を重ねることになる。また、福島エートスのように新たなノモスを注入することによって無理やり継ぎ接ぎすることもできないのである。

 人間とノモス・エトスとの関係を再構築することによって、福島エートスの欺瞞をつくことが出来るようになるだろう。そして、福島/フクシマのノモスは単独で成立しているわけではない。東京のノモスがあり、大阪のノモスがあり、日本のノモスがある。それぞれのノモスがそれぞれと密接に関わっている。人間の責任を諸ノモスの関係と結びつけて考えるとき、「場所」(の違い)の概念は無視できない。「運動」は今からでもじっくり考えるべきだろう。

 

*1:「弔いと生政治」http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20111116/p1

*2https://docs.google.com/document/d/15SldUQh3M9g1Lv5B8NB-XzWTFQFwZSBlIFsRu_xojwI/edit?hl=ja

*3:『法律』7巻

*4:「クリトン」『プラトン?』田中美知太郎編より

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2013/02/14 19:53 福島エートスが「新たなノモスを注入することによって無理やり継ぎ接ぎすること」と断ずる根拠が明示されていないように思える。
「政治的背景や実践においてきわめて胡散臭い」とあるが、それは根拠になりえるのかい?

被害者であり主体的な活動者に対して、外から「おまえらのエートスは不自然な接木だ」といってしまうのはたいへんなことであるように思える。
サイードって読んだことないけど、そういうこといってたんじゃないの?

hokusyuhokusyu 2013/02/15 00:34 ぼくは現地の住民が主体的な選択としてその場所に住み続けることを否定しません。
しかし、エートス福島のプロジェクトは非常事態の常態化を目指すものであって、
その意味でエートス福島が措定する新たなノモスが知の権力を背景とした原初的暴力を前提としている、という、
科学コミュニケーションに関する批判は一定の正当性を持っていると思います。
聞くところによれば、福島に残って反原発や避難者支援の活動をしている人に対しても
その団体が直接関与しているわけではないとしても、
少なくともそれがつくりだしているノモスによって、抑圧的環境がつくられているようです。
こうした分断状況について、安易な肯定はできないでしょう。
ただ、このエントリではエートス福島に対する批判は試論にとどまっており、
本題は「場所」の問題に無頓着な反原発派は
安易にエートス批判をするべきではないという趣旨なのでご理解ください。

tikani_nemuru_Mtikani_nemuru_M 2013/02/15 21:14 「エートス福島のプロジェクトは非常事態の常態化を目指すもの」
正直な所その判断根拠がわからない。
だが
僕のバイアスのせいで見えていないだけかもしれない。

抑圧性、パターナリズム、同化などについての議論にまで手を広げる余裕も力量も僕にはないので
とりあえずは了解とさせて頂きます。

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