北斗柄の占いについて思うこと このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

北斗七星夜柄長 破軍廻剱曳光芒
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  紫微斗数って占い知ってます?

菅原光雲御宗家が「はてな」さんに削除要請を出したみたいです。(2005-05-26)
御宗家の主張が世間で通用するものなられっきとした刑事事件なんだからケーサツ行くべきでしょう。

バカバカバカのコメントを残した菅原光雲御宗家がやったコメント荒らしの足跡とか
2003-11-102004-04-072004-10-082005-04-102005-04-172005-05-152005-07-04
2005-07-132005-07-14
見て楽しいものでもないですが、光雲御宗家はこういうことをする御仁です。

2011-10-30 黄帝城文化旅游区

涿鹿の野  涿鹿の野を含むブックマーク  涿鹿の野のブックマークコメント

奇門遁甲古典には大抵『遁甲総序』が巻頭にあって、奇門遁甲の創始伝説を伝えている。太白陰経の遁甲総序は割と独特で、黄帝が昼間に符を授けるとの夢を見て盛水*1の陽*2に壇を築いて祭ると元龜*3が巨大な亀を従えて水中から出現して口中の符を置いて去り、残された符から奇門遁甲が生まれたとしている。

その符は材質不明で、皮のようで皮でなく、紬のようで紬ではないものだったらしい。多分、かなり丈夫なものだったのだろう。それには血文字で、

天乙在前太乙在後

あったとされている。後世になると亀が出てくることと奇門遁甲の背景に魔方陣があるせいで洛水に出現した洛書の亀の伝説と混同されるようになってくる。Google Earthとかで黄帝と蚩尤が戦った涿鹿の野を探していたのだけれど、河北省張家口市涿鹿県に『黄帝文化旅游区』があることがわかった。


大きな地図で見る
黄帝城文化旅游区

ここには、黄帝、炎帝と蚩尤を祀った三祖堂や黄帝泉がある。


三祖堂

黄帝泉

それとよくわからないが九龍柱という巨大な建造物がある。


九龍柱

写真はチャイナネットさんから御借りした。

蚩尤は苗族と考えられているので、南方系と思われている苗族も黄帝時代には北京よりもまだ北に進出していたことになる。また遁甲総序で暴虐無残と言われている蚩尤も現在では中国文化の源流の1つを担った存在と評価されているようだ。

太白陰経の遁甲総序が語る伝説が正しいなら、黄帝が築いた壇も『黄帝文化旅游区』の近くにあったのだろう。

*1:場所は今では不明。

*2:東側の意か?

*3:亀の王といったところか?

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2011-10-28 綺麗な挿絵が羨ましい

人体との対応  人体との対応を含むブックマーク  人体との対応のブックマークコメント


人体と十二宮の照応関係を示した図
ベリー公のいとも豪華なる時祷書より)
Wikipediaからリンク

黄道十二宮と人体各パーツとの対応関係をしめした綺麗な絵がある。基本的に頭から白羊宮、金牛宮と並べているわけだ。探しても綺麗な絵が見つからなかったけれども、ハウスと人体各パーツとの対応関係も似たようなもので、1室を頭に対応させて順に下がって行く。William Lillyはその著書『キリスト教占星術』(Christian Astrology, 1647年)の中で、

And as it is the first house, it represents the head and face of man, so that if either Saturn, Mars or South Node be in this house, either at the time of a Question, or at the time of birth, you shall observe some blemish in the face, or in that member appropriate to the sign that then is upon the cusp of the house;as if Aries be in the Ascendant, the mark, mole, or scar is without fail in the head or face;

と語っている。ざっと訳すと、

そしてそれが最初ハウスなので、この1室は人体の頭部、や顔面をあらわします。質問を受けた時刻や、出生時のチャートにおいて、1室に土星火星ドラゴンテールがあると、顔にいくつかの汚点?(黒子やシミ、傷、痣)といったものを観察することになるでしょう。例えば白羊宮が上昇宮であるとすると、間違いなく頭か顔にしるし、ほくろ、または傷跡があります。

白羊宮のルーラ火星なのでこういう判断になるのだろう。この判断法には数100の実例があると少し先に続けているので、William Lillyはサインよりはハウスを使った人体の特徴の読み方をしていたっぽい。

紫微斗数でも、1室に対応する命宮に天空地劫があると顔に傷があるという判断をするので、他のパーツについてもそういう判断ができるかもしれない。

20111028111602

もっとも東洋占術にはハウスと縁の少ないものも多いので、どちらかといえば十二支と人体パーツの対応になると思う。『三才發秘』では、六合ではなく七合として午子を天頂天底とした上で、巳−未、辰−申、卯−酉、寅−戌、丑−亥を合とするので、午を頭に子を足として高さの順で当てはめて行けば良いのだろう。

ただ『皇帝四季占い』なんかを見ると、単純に高さに合わせているものだけではないようだし、やはり七合って頭で作ったもの十二支はやっぱり六合だろうという気がする。私だったら、頭を午、首に未、子を股間から下腹部、丑を上腹部として、左右上腕に巳と申、肘から先を辰と酉、大腿部を卯と戌、膝から先を寅と亥という感じで六合意識した当てはめをするかな。陳光甡先生もこんな当てはめを使っていて、金口訣六壬の地分を自在にとっていた。陳先生講義ノートに図を描いたはずなんだけど、そのノートが出てこないので記憶と推測で描いたのが自作の当てはめの図だ。

しかし西洋占星術とか西洋錬金術とか、極彩色の綺麗な絵が残っていて羨ましい。

[2011/10/28追記]

玄珠さんから『大六壬金口訣』の「占人身上瘢靨」に以下の記述があると連絡をもらった。

午面未頭子丑足 亥寅為膝巳申肩

辰酉両膊卯戌股 左右東西弁別

「膊」には“ほじし”の訓があり、肩から先の腕全体を指すらしい。陳光甡先生は金口訣六壬をやられる方なので、私の行方不明ノートに描いてあるのは多分これだろう。

2011-10-24 よくわかってない天武天皇の幼少期

謎な御方  謎な御方を含むブックマーク  謎な御方のブックマークコメント

天武天皇が自ら式占を行うような御方であったとなれば、「能天文遁甲*1」で、しかも当時の新式兵器であった槍の使い手でもあった天武天皇個人に俄然興味がわいてくる。特にどのような教育を受けて育って来られたのかが気になる所だ。

しかしながら天武天皇の幼少時の情報は極めて少ない。まず出生年の情報日本書紀にすらないのだ*2。ただ天武天皇の養育の任にあたったのが大海宿禰一族であったことだけははっきりしている。それは天武天皇崩御後の殯(もがり)において、最初に誄(しのびごと)を行った大海宿禰蒭蒲(おおあまのすくねあらかま)の誄が、「壬生」についてのものだったからだ。「壬生」つまり養育である

ところで大海蒭蒲は、鉱山・冶金の技術者だったようで、金山開発のための陸奥派遣されている。つまり天武天皇の養育の任務にあたったのは、鉱山・冶金の技術者の一族であったということになる。古代において、金属の採掘、精錬、加工にあたるものがマジカルな性格を帯びることは割と普遍的にみられる。そのため大海一族が方術の知識もまた有していた可能性があるけれども、今のところは想像の域を出ない。今後のアカデミック研究に期待したいところだ。

20111024002847
ブッダ最後の旅

完全に余談だけれども中村元先生が訳された『ブッダ最後の旅−大パリニッバーナ経』によると、御釈迦さんは旅の途中、鍛冶屋の子チュンダが用意した特別なキノコ料理にあたって命を縮めたらしい。おそらくは老いた御釈迦さんに元気を付けてもらいたいという思いで作った特別料理だったのだろうが、鍛冶屋が絡んでいるので、ただのキノコ料理ではなく、かなり危ない材料を使ったものだったのかもしれない。

*1天武天皇即位前紀より。

*2:これは異常な事態で、日本書紀において出生年の情報がないのは、天武天皇を除けばは崇峻天皇のみ。

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2011-10-22

天武天皇の式占  天武天皇の式占を含むブックマーク  天武天皇の式占のブックマークコメント

積恋雪関扉(つもるこい ゆきの せきのと)』という歌舞伎の演目がある。筋立ては荒唐無稽のそのものといっても良いのだけれど、悪役の大友黒主*1は、作中、天を横切る黒雲を見て天下を横領するチャンスが到来したことを知る。

このシーン実は、日本書紀中の天武紀、それも壬申の乱天武天皇御自らが式占で占ったという記述をヒントにしているのではないかという論文がある。

天武紀によると、

将及横河、有黒雲、広十余丈経天。時天皇異之、則挙燭親秉式、占曰、天下両分之祥也、然朕遂得天下歟。

ざっと解釈すると、

天武天皇*2吉野脱出して東国へ向かっている途中、横河*3に来た時に、夜中にも関わらず黒雲が十余丈の広さで天を覆っているのが見えた。天皇はこれを奇異に思って、燭台を掲げて自ら式盤をとり占って言った。

「天下が二つに分かれる象であるしかしどうやら私が天下を取るだろう*4。」

黒雲を見て天下を取るチャンスが来たと占う天武天皇、そして天下横領のチャンスが来たという大友黒主が重なるというわけだ。

しか六壬者としては「親秉式(親しく式を秉(と)りて)」が気になるところだ。調べたところ太陰太陽暦で六月二十四日の夜半のことであったらしい。夜半なので既に二十五日であったと思うが、天武天皇がどちらの日で占ったのかはわからない。ただ月将は勝光(午)なので返吟課が出たであろうことは間違いない。天地返吟、「天下両分之祥」と言って良いだろう。

もっとも天武天皇奇門遁甲を能くした御方なので、遁甲卜占で占ったのかもしれない。その場合は丙子刻の遁甲盤であったろう。局数がわかれば遁甲盤を出すこともできる。不確かなのは承知の上で拆補*5を使ってみる。月将が勝光、節気は大暑になる。拆補では大暑中元で陰一局になり、以下のような遁甲盤が得られる。







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乙癸





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奇門遁甲で最も良い盤は、

  • 主に好く
  • 客に好く
  • 自分に好く
  • 向きも好い

を満たすものであるけど、この場合は主と客の比較になる。また実際の戦闘はまだまだ先なので山向主客の判断も必要ない。

天武天皇が以下のような判断をされたどうかは不明だが、近江朝に反旗を翻した御自身は「客」なので時干落宮を見ると驚門とはいえ丙−戊の飛鳥跌穴*6に天冲で潜行向きの九地がある。主である近江朝が日干として乙を見れば生門とはいえ、騰蛇に天芮で癸−丁の騰蛇妖嬌を含んでいる。どちらかと言えば客に有利だろう。

なお、天武天皇が御自ら式占を行った記録については、既に五行学歴史年表・日本篇(1)で取り上げられていた。さすがだ。

またこの天武紀の記録については、夜半にも関わらず黒雲が見えたということで、なんらかの火山活動の結果ではないかという視点から研究もある。

*1六歌仙の1人。名前が悪役っぽい。実際の大友黒主こんな感じ

*2:実際にはこの時点では壬申の乱戦闘が始まっていないので大海人皇子が正しいだろう。

*3:今の名張川のことらしい。

*4:「近江から命を狙われたから仕方なく立ったのだ」どころか、端からやる気満々な印象を受ける

*5:二至から繰って行かないといけない超神接気よりも、日干支と実際の節気から局数が出る拆補の方が戦場向きだと思う。

*6:標準的な奇門遁甲の干の剋応では戊と甲は同じ扱いになる。

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2011-10-18 補足二題

陰陽道』が指すもの  『陰陽道』が指すものを含むブックマーク  『陰陽道』が指すもののブックマークコメント

前回のエントリで、

陰陽五行に基づいた方術としての呼称ではなく、国家機関名称としての『陰陽道』だったというわけだ。

について、高橋圭也さんから以下のような指摘をもらった。

 まず、村山修一先生が著書で述べている「中国陰陽道」という形のものはなく、つまり中国朝鮮半島陰陽道なる語が使われた形跡は全然ないのです。

 これは歴史読本11月号に寄稿した拙文の「陰陽道と都の鬼」でも述べた通り、9〜10世紀頃に我が国の陰陽寮を中心として出来た独自の言葉です。

何にせよ『陰陽道』は日本独自の用語であることは間違いないだろう。しかしながら『陰陽師』については、私の理解はまだ中途半端ものだったらしい。高橋さんから以下の指摘を受けた。

 また、最初は「陰陽師」も陰陽道部門に属する人間たちを対象にしていましたが、そのうちに皇室祭祀を中心にしていた神祇官の卜部の祭祀の補助くらいしかしていなかった陰陽寮が次第に祭祀活動を活発化させはじめ、と同時に律令制の崩れもあって公的な活動以外の有力貴族の私的な占い祓い陰陽道が請け負うようになりました。ですが、下級官吏の陰陽道人間にはあまりにも多いご褒美の多さと政治的な優遇処置を受けられるので、他の三道部門(天文暦道漏刻)の人間たちも六壬式占を学び、祓いの活動を始めたのです。

 それゆえ、陰陽寮に属して陰陽、つまり六壬式占を使い、祓いをする人間全員を「陰陽師」と呼ぶようになったのです。

 ですから、「昔、天文博士安倍晴明という陰陽師有りけり」という一見矛盾した表現も昔は何の抵抗もなく受け入れられていたわけです。

まり少なくとも平安−鎌倉期においては、陰陽寮に属していて六壬を使い、御払いをする。この3つの条件を満たす者、それが『陰陽師』であったというわけだ。

新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる  新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるを含むブックマーク  新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるのブックマークコメント

これは足柄山の麓から甲斐酒折宮に到った日本武尊命が、東国での出来事を振り返って「新治から筑波を過ぎたが、幾夜寝たのだったかな」と詠んだものだ。これを聞いた火の番の翁は、

日々並べ、夜なら九夜、昼なら十日を

と合わせている。「日数はというと、九夜が過ぎました。十日目の昼です。」くらいの意味だろう。このことから日本武尊命の時代には、「夜が明けて日が変わるとされていたことがわかる。」と古文の授業で習ったことがある。チベットの暦なんかでも日の境界に、日の出の時刻を採用している。

この夜が明けて日が変わるという感覚は、平安時代でも一般的だったようで、先日の藤原頼長の日記についての追記に、

可能性としては、実際には日が改まっていたにも関わらず、頼長がそのまま二十六日の深更と記述したことが考えられはする。

と書いたのだが、頼長にとっては夜明け前、つまりまだ二十六日のままだったわけだ。これについても高橋圭也さんから以下の指摘を頂いた。

さらに日本では1日の終わりを翌日の夜明け前までとし、夜が明けてから翌日が始まると考えていましたから、今回の頼長の日記の日は「26日」でよいのです。

ただ安倍泰親が課式を作成したとしたら、辛未日で作ったのか壬申日で作ったのかは、今の私の知識では不明なままだ。もう1つ、丑刻で天地盤を作ると天地が全て会の関係になり、人死の占いにはなりそうもないんだよな。

2011-10-16 本来の『陰陽道』とは

君たち、陰陽道ってものを誤解してるだろ  君たち、陰陽道ってものを誤解してるだろを含むブックマーク  君たち、陰陽道ってものを誤解してるだろのブックマークコメント

まあかく言う私も一昨年に高橋圭也さんの『陰陽講釈』の講義を聞くまでは、誤解していたのだから他人に説経できる立場ではないのだけど。

中世陰陽道研究泰斗である小坂眞二先生は、陰陽道について以下のように語っている*1

陰陽道とは、日本律令官制で陰陽寮に配された陰陽博士陰陽師が所管する国家機関について、九世紀ごろより使用されだした呼称である

晴明の『天文道』も同じように「天文博士が所管する国家機関について」の呼称だったのだろう。陰陽寮以外でも大学寮の『明経道』、『明法道』、『算道』その他がある。

陰陽五行に基づいた方術としての呼称ではなく、国家機関名称としての『陰陽道』だったというわけだ。

定気法二十四節季に基づく四柱推命大運計算  定気法二十四節季に基づく四柱推命の大運計算を含むブックマーク  定気法二十四節季に基づく四柱推命の大運計算のブックマークコメント

啓蟄1957/03/06 05:10:09
出生1957/03/22 04:45:00
清明1957/04/05 10:18:52

以前、このはてな日記大間違いの大運計算披露してしまったわけだけど、落ち着いて考え直してみた。三命通会によれば1ヶ月が10年に対応している。この1ヶ月を正節から次の正節までの時間解釈すれば、二十四節季が定気だろうが恒気だろうが大運計算が可能になる。私の場合、出生日時とその前後の正節はこんな感じだ。

啓蟄−出生15.98253472日
啓蟄清明30.21438657日

啓蟄−出生と啓蟄清明までの時間はこうなる。啓蟄清明の30.21438657日が10である3652.422日に相当しているので、啓蟄−出生は1932.025371日に相当する。出生日時にこの日数を加えると1962年07月06日05:22が得られる。従ってこの日時から壬寅の大運が始まって、後は節月の実際の長さには関係なく1ヶ月10年ということで3652.422日を加えていけば良いことになる。

ところでこの機会に完全に定気法二十四節季に基づいた、四柱推命を作ってみようとしたのだけれども、蔵干をどうするかで挫折した。できれば十干それぞれに太陽黄経36°を割りつけたいのだが、そうすると孟支の余気と仲支の余気について、仲支の余気の方が孟支の余気よりも6°大きくないといけないことがわかった。

*1:「『占事略決』の渉外・伏吟・返吟の三課」東洋研究167号(2008年1月)37頁の『付記』より引用

2011-10-14 安倍泰親と悪左府

そうか悪左府 そうか悪左府かを含むブックマーク  そうか悪左府かのブックマークコメント

先日の『指神子の占例』について、安倍泰親の答申が正式な天文奏であったのかどうか知りたくなって陰陽道家の高橋圭也さんに問い合わせてみた。すると早速の返信を頂いたのだが、高橋さんからは以下の指摘があった。

それで高橋さんからのサジェスチョンに従って、「神道大系論説編16陰陽道」の「安倍泰親朝臣記」を調べてみた。この記事は安倍泰親から出た正式な文書を集めたものだ。調べた範囲では久壽二年には泰親は天文奏を行っていない。つまり泰親の天変判断は私的な依頼によるもので、重大な規則違反であり事件化されれば遠島ものだったらしい。

ところで件の記事だが、

久壽二年七月廿六日辛未、深更月犯太白、即使人問泰親、使者歸來云、泰親立地仰天、 廿七日壬申、泰親、月犯太白天子惡、〈先帝崩象歟〉母主惡、〈關白殿北政所、將薨象歟、〉立太子皇子歟、

『〈先帝崩象歟〉』や『〈關白殿北政所、將薨象歟、〉』の『〈〉』でくくられているのが頼長の感想ないし判断であるのなら、『天子惡』で鳥羽法皇が近々崩御する可能性に思いが到らなかったことが頼長の命を縮めてしまったといえるだろう。

藤原頼長悪左府といわれながらも権力を保っていられたのは、鳥羽法皇の信任があってのものだったわけで、次年の鳥羽法皇薨去以降の頼長は急速に権力を失い、結局のところ崇徳上皇をかついで保元の乱を起こすまで追い詰められてしまう。保元の乱で頼長は首に矢を受けて、それが元で命を失った。

もし頼長が鳥羽法皇薨去の予感をもって手を打っていたなら、薨去以降も権力を保った可能性はあるわけで、もしそうであったなら保元の乱自体が発生していなかったことになる。結果、武士の台頭は大幅に遅れたことだろう。多分天変判断を行った泰親にとっても、ここまで歴史的に重要な天変判断であったとは想像もできなかっただろう。

2011年10月15日付記

玄珠さんからコメントをもらって気になったので、天文シミュレータステラナビゲータで確認してみたところ、丑刻に月が昇ってきたときには既に金星が月の陰に入っていたことが確認できた。

この蝕はユリウス暦1155年08月26日の午前2時頃には発生していたのだが、大きな問題が1つあって、この日は久壽二年七月二十六日ではなく二十七日に対応している。可能性としては、実際には日が改まっていたにも関わらず、頼長がそのまま二十六日の深更と記述したことが考えられはする。

しかし台記記述の正誤のチェックが必要になったことには変わりがない。なので実際の課式や天地盤がどうなっていたのかは、今のところ不明である

2011-10-13 六壬神課二題

では私ならどうみる  では私ならどうみるを含むブックマーク  では私ならどうみるのブックマークコメント

他人様の間違いを指摘するだけではなんなので、東京近辺で東関東大震災の発生時刻から出した六壬地盤と四課三伝をイベントチャートに読んでみることにする。前日のエントリの通り、地震のあった時刻はすでに申刻となっている。以下は既に起こった震災の、被害を知った上での後理屈になっていることに留意して読んで欲しい。











































































































 




































四課三伝全てが土支で稼穡*1格となった。これは地面や大地で何か起こる象とみて良いだろう。干上神は日財とはいえ、日干乙の木行の墓であって凶、しかも季節に死である。そしてそれがそのまま発用にたっている。つまり大地で起こる凶事、第一感は地震だろう。また三伝の天将で唯一吉である太陰が乗じているのは戌なのだが、戌は空亡して力がない。つまり助けるものが四課三伝にないということだ。

そして天地盤において災厄をしめす疾厄宮には玄武が乗じた徴明亥が臨んでいる。これは明らかに水害を表している。津波液状化現象をしめしているのだろう。また隠れた災禍をしめす辰宮に陰火である騰蛇が来ているのは、地震に関連して発生した原発メルトダウンをしめしていると読めなくもないだろう。

以上、正しく東京作成した天地盤や課式の方がラディカルだというのが私の印象だ。なお天盤戌の下の未は8なので8×5=40、復興には最低でも40ヶ月はかかるということだろう。

指神子の占例  指神子の占例を含むブックマーク  指神子の占例のブックマークコメント

國分秀星さんのサイトであるThe Warrior of Astrology”に『陰陽道の金星』というちょっと面白いエントリがあがってた。

これは久壽二年七月二十六日*2の深更*3に発生した月が金星を蝕した星蝕についてのエントリである安倍泰親はこの蝕を占って、天皇、母主や皇太子についての凶兆と判断したのであるが、國分秀星さんは金星が指す将軍について触れられていないのは何故かと疑問を呈しつつ、西洋占星術立場からこの星蝕を見るとどうなるかを解説している。

私なんかだと、そら六壬使って将軍は関係ないと出たからに決まってるじゃん、とすぐに結論してしまうわけだけど、六壬について知らないなら仕方がない。

ところで安倍泰親は『指神子(さしのみこ)』と呼ばれた達人で10に8、9は当てた人だと言われている。また時に当時の六壬常識から外れた判断をして、またそれが当たる人だったらしい。

ところで國分秀星さんのエントリからMCが金牛宮にあって太陽処女宮にあることが分かるし、該当エントリ古事類苑の該当記事へのリンクがあるので、星蝕があった日が辛未であったこともわかる。そこで六壬の天地盤と課式を立てて、指神子が星蝕をどう読み解いたか考えてみたい。一応、古事類苑の記事を引用しておく。

(本文)
久壽二年七月廿六日辛未、深更月犯太白、即使人問泰親、使者歸來云、泰親立地仰天、 廿七日壬申、泰親、月犯太白天子惡、〈先帝崩象歟〉母主惡、〈關白殿北政所、將薨象歟、〉立太子皇子歟、

(読み下し)
久壽二年七月廿六日辛未、深更ニ月太白ヲ犯ス、即チ人ヲ使シ泰親ニ問ウ、使者歸リ來リテ云ク、泰親地ニ立チ天ヲ仰グ、 廿七日壬申、泰親、月太白ヲ犯スハ、天子ニ惡ロシ、〈先帝崩ノ象歟〉母主ニ惡ロシ、〈關白殿北政所、將ニ薨ズルノ象歟、〉立太子皇子歟、

(大意)
久壽二年七月二十六日辛未の日の夜更けに月が金星を隠す星蝕があった。(凶兆であるので)人を使わして安倍泰親に占わせた。使者が帰ってきて言うには、泰親は地に立って天を仰いだとのことだった。二十七日壬申に泰親から以下の答申があった。月が金星を蝕するのは天皇に悪いことがあります。〈先帝が崩御したことの象徴か?〉位の高い母に悪いことがあります、〈關白殿の北政所が亡くなろうとしていることか?〉皇太子かもしれません。

この時刻の課式は近代六壬であれば別責課をとるが、安倍泰親の時代には別責課はまだなく昴星課を取ったはずであること、また当時は寅刻から昼貴人となるので、天地盤と課式は以下のようになる。












































































































 




































おそらく泰親は星蝕から凶事であるとの前提に立って、どのような凶であるかを推測していったはずだ。課式は昴星課で発用午を制するものがない上に東の地平線1室に臨んでいることが凶事を裏付けている。そいて一課が大吉(丑)だが墓神、しかも坐空で脱気となっている、また上昇宮において発用午に勾陳が乗じている。これらから人死は避けられないというのが泰親の読みだったのではないだろうか。泰親は地面に降り立って天を仰いだとされている。

ではどこら辺りから天子惡、母主惡、立太子皇子歟」が出てきたのだろうかと考えると、

を引っ張りだしたのではないだろうか。

泰親のこの不吉な占いは、その次の年に鳥羽上皇崩御という形で実現してしまう。

*1:稼穡の表記を『稼稷』と間違えていたので訂正した。

*2:同エントリによればユリウス暦1155年8月26日らしい。

*3:と言いつつ寅刻にあったので早朝というべきか。

玄珠玄珠 2011/10/15 11:27 『唐開元占経』に引かれた各種緯書・星占の書を観直してみましたが、やはり泰親の断はそれらに依ったものではなさそうでした。課からすると、辰の天剛が丑の父母に乗じ発用が囚によるところから来ているのかもしれません。天獄課の異説に基づいているというわけで。ただ「深更」でもあり、本当は丑刻の方が適切のような気もしますね。

hokuto-heihokuto-hei 2011/10/15 22:29 気になってステラナビゲータで確かめてみたところ、丑刻に月が昇ってきたときには既に蝕が起こっていたようです。少し考え直してみます。

玄珠玄珠 2011/10/18 22:43 それと泰親は実占ではどの貴人法に依ってたのかも問題になるかと。

hokuto-heihokuto-hei 2011/10/18 23:05 そうか、泰親が子息に略决を伝授したときの写本を写した京大本には、貴人法についての付箋がありましたね。

2011-10-12 学研のムーって書いたもん勝ちなんかね

これはちょっと見過ごせないな  これはちょっと見過ごせないなを含むブックマーク  これはちょっと見過ごせないなのブックマークコメント

私の知っている範囲内では、皇極経世書と同じくらい長いスパンで占うことができる術に太乙神数がある。最近ムーに、太乙神数を使って東日本大震災を読んでみたという記事が出たという話を聞いたので、ちょっと調べてみた。

件の記事は今年の7月号にあった。『衝撃の「風水予言」』というタイトルで40頁から始まっている。ライターは山道帰一氏だった。太乙神数と風水にどういう係わりがあるのかはしらないけれども、そういうタイトルだった。この記事は六壬の話が導入部に使われていたのだけど、この六壬にいくつかの見過ごせない問題点があったので指摘しておく。

まず東日本大震災2011年03月11日14:46:18の東北地方太平洋沖地震によるものである。記事において山道氏は、

この課式は、筆者の住む東京を中心に作成されたもので、

と書いているが、東京日本標準時に比べて19分程進んでいるので、東京における地震発生の時刻は、既に申刻に入っている。ところが件の課式や六壬地盤は未刻で作成されている。ということで、六壬地盤や課式は「東京を中心に作成され」たものではないということがわかる。

ただこの天地盤や課式を作成したのは、山道氏の四柱推命師匠の1人である、鍾進添公なので、全部台湾の時刻に置き直したのかもしれない。ただ未刻としても、以下の記述はあまりに酷い。

また、日支の卯と時支の未は、相冲といわれる大凶の位置関係にあり、「破」となる。

卯と未の関係は普通は会を取るだろう。卯と未が冲とは聞いたこともないし、十二支の相互関係の1つである「破」にもならない。亥−卯−未がそろって三合会局って鍾進添公が得意な四柱推命*1でも当たり前の話だろう。

もう1点、41頁に課式と天地盤があげてあるのだが、この天地盤は正しくない。この天地盤における天将の配布は逆布になっている。しかし乙日の昼貴人は申であり、申の地盤は未刻で辰になる。地盤が亥から辰までは順布なので、鍾進添公の作成した課式において、中伝丑には青龍が乗じるのであって白虎は乗じない。従って以下の記述は端的に言って誤りである

また中伝の「白虎」が発動すると、一〜四課との組み合わせから、「重喪」「絶気」「財離」という不吉な象意が導き出される。

これだけでもウンザリするのだけれど、一課干上神が申、日干が乙であるところから、「日鬼臨干」としているのだけれども、乙の徳は庚であり庚が奇宮する申は日徳でしょうに。たかだか1頁半くらいの中で、六壬についての記述にこれだけ酷い間違いがある文章は初めて見た。これが間違いでないというなら、記事をセンセーショナルにするために術理をネジ曲げたとしか考えられない、そういう記事だ。

ということで、鍾進添公と山道帰一氏の六壬に信をおくことはできない。

*1:子平でも八字でも良いよ。

2011-10-02 最近気が付いたこと

最近気が付いたこと1  最近気が付いたこと1を含むブックマーク  最近気が付いたこと1のブックマークコメント

ふうちんさんの「東の散歩は効きます!」のエントリを読んで思ったのだけど、八方位各位に意味を持たせて、何度も使って運を積み上げて行くというのは、奇門遁甲*1メインの人間からは絶対出てこない発想だと思う。奇門遁甲は一発勝負で使うものであって、運気の蓄積なんてものには使えないものからだ。

まあどちらにせよ、ふうちんさんは21日で再就職先をつかんだわけで、ふうちんさんの気学が「どこぞの出版社副部長部長にするのに3年もかかるような自称奇門遁甲」とはずいぶん格が違うことがわかる。

2011年10月03日追記

こういうのがちゃんとした気学の使い方の一例だそうだ。

最近気が付いたこと2  最近気が付いたこと2を含むブックマーク  最近気が付いたこと2のブックマークコメント

対人関係や交渉事であれこれ策を巡らせるのに、相手の運勢を読んでみたところで大した意味がないことに気が付いた。まずは自分の運気が問題なのだ。

*1中国で標準的な奇門遁甲であって、透派遁甲やその亜種ではない。

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