気付かない方が良かった

爆弾は三重にセットされた

今習っている中原派の紫微斗数では、凶を取りこぼさないことを目標に化忌を軸に行運を見て行く。

太陽    
破軍    
天機(科)  紫微    
天府    
乙巳 官禄 丙午 奴僕 丁未 遷移 戊申 疾厄
武曲             
太陰(禄) 
甲辰 田宅 己酉 財帛
天同(権)        
貪狼    
癸卯 福徳 庚戌 子女

七殺    

天梁    
廉貞    
天相    
      
巨門(忌) 
壬寅 父母 癸丑 命宮 壬子 兄弟 辛亥 夫妻

今の大運宮は丁未の遷移宮で大運宮から見た化忌は、私が丁年生まれなので生年化忌と同じく巨門に付く。そして3年後は丁未年で巨門に化忌が三重に付くことになる。巨門化忌は夫妻宮にあるので、この爆弾が爆発した場合には夫妻宮、官禄宮、福徳宮、遷移宮に爆風が飛ぶことになる。

気付かなければ「不知者非罪」だったのだけれども気付いてしまった。何が待っているのやら。

放浪した

高知県立歴史民俗資料館

今日*1高知県立歴史民俗資料館に行ってきた。お目当ては『いざなぎ流の宇宙』の図録だ。いざなぎ流というのは、土佐国物部村(現高知県香美市)に伝わる民間信仰で、その神職である太夫は強い呪力を持つことで知られている。

少なくともちょっと前だと、呪った呪われたが日常茶飯事だったらしい。土御門家が出した陰陽師の免許状が物部村の民家から発見されたことから、陰陽道との繋がりもあったみたいだ。ただ祭式はいざなぎ流独自で陰陽道から出たものはそんなに多くないと思う。

香美市の奥物部美術館が3月末で無期限の休業に入ったので、いざなぎ流関連の展示があるとしたら高知県立歴史民俗資料館くらいしかないだろうと思う。もっとも高知県立歴史民俗資料館の常設展には一部、いざなぎ流の展示があるので独特の御幣とか見たい人は高知県立歴史民俗資料館に行けばなんとかなるだろう。

こんな感じだ。

高知県立歴史民俗資料館は長宗我部おしみたいで、入り口近くに長宗我部元親の像があったりする。

面白いのが屋外展示されている高知の山村の民家で、中に入って見ることもできる。

それと道中、田植えしている所とか田植えの終わった田んぼとか見た。さすがに全国で唯一二期作やってた高知県だけのことはある。

*1:2024年4月10日

魔女についてのFAQと丁寧な回答

『ガチ魔女って、普段何しているんですか?』を読んだ

最近は収納の関係で紙の本はなるべく買わないようにしているのだけど実家にいることもあって、ヘイズ中村&笑夢かぇる『ガチ魔女って、普段何しているんですか? 』を購入した*1

本書は基本的には魔女についてのFAQに対してヘイズ中村さんが丁寧に回答し、それを笑夢かぇるさんが再度マンガにする構成となっている。大事なことなので2回言いましたという感じだ。

ヘイズ中村さんとはそれなりに長い付き合いなので、そんなに目新しい話は無かったのだけど、これまで誤解していたこともあるのが分かった。

女方面の人はもっと個人主義で他人に対して関わらないようにしていると勝手に思っていたけど、そうでもないということが分かった。

魔女って、みんなが幸せになる行動は積極的にやって行こうという姿勢の持ち主だった。菩薩行に近い部分があると思う。

まあ『魔女』ってタームで金儲けしたい人には目障りな本が出てしまったと思う。

なお読者プレゼントに最後の2章を使って危険性の低い魔女術が紹介されているので、それなりに御買得な本だと思う。なお自分勝手なアレンジはしないことだ。オレみたいになるからな。

*1:つまり実家を書庫代りにしているというわけだ。

八代での戦利品

図録を幾つか購入した

3月24日に八代で玄聖院様を御借りして六壬の講義をしてきたのだけど、講義は午後からだったので午前中に博物館の『未来の森ミュージアム』に行ってきた*1。丁度令和5年度冬季特別展覧会の『武将の備え』の最終日だった。展示も面白かったけれども、図録に興味を惹かれるものがあったので幾つか購入した。

この絵は、八代城主二代目の松井興長(おきなが)の像の一部で、『もののふの美と心』展の図録から拝借した。図の全体はもっと縦長で上部にこの図像の由来が漢文で書いてある。

興長が羽織っている陣羽織は、江戸城御手伝普請で功があったことから家光からの拝領の品だ。図録の説明ではこの陣羽織や周囲の武功をしめす品々に焦点が当たっているけれども、占い師としては軍配に目が行く。

中央の円を取り囲むように星と思しき小さな丸が描かれているが、数えてみると28個あった。当然、二十八宿なんだろうと思う。ただこの軍配についての調査は行われていないようで、学芸員らしい人も軍配に何が描かれているのかを把握していないようだった。

小和田著『軍師・参謀 戦国時代の演出者たち (中公新書) 』で触れられているように、軍配には簡易な占いのための機能が付加されていることがあった。

*2
朔望月の日付の吉凶が描かれた酒井忠次の軍配が有名だが、松井興長の軍配もその類だろう。命のやり取りをする戦場では縁起を担ぐことも重要だったし、敵がどのような縁起を担いでいるのかを知って、その裏をかくこともまた重要だった。

*1:すごい雨だった。

*2:安城市歴史博物館『特別展 安城譜代一 徳川の支柱酒井氏 左衛門尉家と雅楽頭家』図録37頁より

射覆を当てた

自信のある結果が当たって気分が好い

いつものカナサキ先生射覆、今回は季節の食材の3択だった。

のどれか?ということで得たのがこの課式。
庚子日の陽日で緒となる干上神が発用に立っているので、ややこしくは無い課式だ。

そして食材であるというのに発用である干上神が日鬼となっている。通常、日鬼は毒物とか食べられないものを表している。
となれば、まず灰汁抜きしないと食べられないタケノコが第1候補ということになる。で、いつものように色を見ると発用の午は、

  • 季節に相なので、この場合は児色で土の黄色。
  • 日干は季節に囚なので、この場合は鬼色で水の黒色。
  • 日干から見て午は囚なので、この場合は鬼色で水の黒色。

ということでタケノコの黄色があっている。タケノコが一部、黒いというのもポイント高い。

それとタケノコで当たっているという手応えを感じたのが間伝格を得たということだった。間伝格は間隔を開けながら伸びていく象だ。逆間伝ではあるけれども、中伝が空亡しているので順間伝と見る。正しく竹だ。ということで読み筋通り当たって非常に気分が好い。

それと紀昀が書いた『閲微草堂筆記』で、古道具屋の主人で六壬の達者であった李鷺汀が、その日一日の自分の身に起こる出来事を占って、

  • 仙人が客として来る。
  • 仙人は竹の杖をついている。
  • 酒を飲んで詩を書いて去る。

判断しているのだけど、竹の杖を読み取ったのは間伝格だったからなんじゃないか?という推測を得ることができた。

4月1日始動

呪法

呪術は古代からの人の営みによって生まれたもので、何故か段々複雑化する傾向がある。多分、

ここまでやったんだから効いてくれるはず。

みたいな思いが複雑化させる駆動力なっているんじゃないかと考えている。

かなり古い出立時の道中の安全を願う呪術に『地五画』がある。これは地面に五を画いて、その中央の土を採り道中携帯するという術式で行われる。問題はこの『五画』に様々な説があることだ。

  • 五芒星
  • 十字
  • 四縦五横

だ。四縦五横は私見では十字を大量に作るためのものだ。『井』を作っているのではないとするために縦横が偶数と奇数の組み合わせになっていると考えている。では十字と五芒星のどちらなのか?については、五画なので五芒星じゃないのかという説はかなり有力だろう。しかし『五』の古い書体を見ると十字であることが分かる。日本語版のウィクショナリーの『』には『五』の古文として、
𠄡
があげてある。『五』は『互』からの仮借として始まり今の書体に変化したのだそうだ。つまり『五画』は『×』もしくは『+』を画くことだったということになる。この知見は大野先生から多くを頂いた結果でもある。

おそらくは十字よりも×だったんじゃないないだろうか。もしそうなら四縦五横も元々は斜めってたんじゃないか?とか斜めってたのの名残が横縦と画く動作なんじゃないか?とか色々考えることができる。

こういう感じで呪術についても調べた結果が幾つかあるので区切りの好い今日から受講生を募集してみようと思う。効くものを集めたので、かなり御高い値段設定にしてあるけれども、それでもという人は『募集要項』からどうぞ。

太陰太陽暦の地域性

少し詳しく書いてみる

以前、『紫微斗数の暦の問題』というエントリをあげたことがある。この太陰太陽暦が持つ地域性の問題についてもう少しブレークダウンしてみることにする。

上皇后陛下は昭和9年10月20日の御生まれなのだが、この10月20日を含む朔望月の朔の時刻は日本標準時だと10月09日の午前00時05分ということになる。世界時だとグレゴリオ暦で10月08日15時05分だ。これを中原標準時にすると10月08日23時05分となる。

世界時(UTC中原標準時(UT+8)日本標準時(UT+9)
朔の時刻 10月08日15時05分 10月08日23時05分 10月09日00時05分

表にすればこんな感じだ。つまり世界時や中原標準時に従う太陰太陽暦ではグレゴリオ暦の10月08日が一日だけれども、日本標準時だと10月09日が一日になる。上皇后陛下の誕生日の10月20日は、中原標準時暦だと十三日だし日本標準時暦だと十二日と太陰太陽暦の日付が変わる。そのため上皇后陛下の紫微斗数の命盤において、中原標準時だと命宮が紫微独守になるし日本標準時だと命宮に巨門が入る。

このことから、透派十三世の張耀文さんは中原標準時に従う太陰太陽暦の方が適合性が高いと主張したわけだ*1
だけど紫微斗数では時刻の十二支に十干が付かないので日付は前日23時で替わる。なら中原標準時だろうと日本標準時だろうと同じ日付けの太陰太陽暦になっているはずなんじゃないの。そして上皇后陛下はどうも巨門の人っぽい。

亡くなった田宮規雄先生は、

占いと科学は違う。別に23時区切りの暦を作成する必要は無い。

みたいなことを言っていたけど、私はそれは不徹底だと考える。ちゃんと23時区切りの暦で比較するべきだろう。

23時区切りの太陰太陽暦を作成した時、グレゴリオ暦の10月20日が十三日になるとしたら、暦の作成地点は UT+7のエリアということになる。経度だと東経105°近辺だ。調べてみるとかっての蜀の首都であった成都市の経度が東経104°05′だ。これはこれで面白い知見だと思う。

*1:皇太子妃殿下だぞ、紫微が相応しいに決まってるだろ、みたいな。