少し詳しく書いてみる
以前、『紫微斗数の暦の問題』というエントリをあげたことがある。この太陰太陽暦が持つ地域性についてもう少しブレークダウンしてみることにする。
上皇后陛下は昭和9年10月20日の御生まれなのだが、この10月20日を含む朔望月の朔の時刻は日本標準時だと10月09日の午前00時05分ということになる。世界時だとグレゴリオ暦で10月08日15時05分だ。これを中原標準時にすると10月08日23時05分となる。
世界時(UTC) | 中原標準時(UT+8) | 日本標準時(UT+9) | |
---|---|---|---|
朔の時刻 | 10月08日15時05分 | 10月08日23時05分 | 10月09日00時05分 |
表にすればこんな感じだ。つまり世界時や中原標準時に従う太陰太陽暦ではグレゴリオ暦の10月08日が一日だけれども、日本標準時だと10月09日が一日になる。上皇后陛下の誕生日の10月20日は、中原標準時だと十三日だし日本標準時だと十二日と太陰太陽暦の日付が変わる。そのため上皇后陛下の紫微斗数の命盤において、中原標準時だと命宮が紫微独守になるし日本標準時だと命宮に巨門が入る。
このことから、透派十三世の張耀文さんは中原標準時に従う太陰太陽暦の方が適合性が高いと主張したわけだ。
だけど紫微斗数では時刻の十二支に十干が付かないので日付は前日23時で替わる。なら中原標準時だろうと日本標準時だろうと同じ日付けの太陰太陽暦になっているはずなんじゃないの。そして上皇后陛下はどうも巨門の人っぽい。
亡くなった田宮規雄先生は、
占いと科学は違う。別に23時区切りの暦を作成する必要は無い。
みたいなことを言っていたけど、私はそれは不徹底だと考える。ちゃんと23時区切りの暦で比較するべきだろう。
23時区切りの太陰太陽暦を作成した時、グレゴリオ暦の10月20日が十三日になるとしたら、暦の作成地点は UT+7のエリアということになる。経度だと東経105°近辺だ。調べてみるとかっての蜀の首都であった成都市の経度が東経104°05′だ。これはこれで面白い結果だ。