holalaの日記

2018年09月30日(日)

お知らせ


 このブログが利用している はてなダイアリーは来年の春をもって終わるとのこと。そこで下記に移転することにしました。こちらを訪問してくださるようにお願いいたします。

 引っ越し先 👉

  

 holalaのブログ



はてなダイアリーさん、長らく利用させてもらい、ありがとう。

2018年09月25日(火)

私が教会に行くようになったきっかけ


 私は教会の礼拝に誘われ、受洗に至りました。誘われたときから受洗まで数年かかりました。途中で礼拝に行かなくなった時期もありました。私が教会の礼拝に行くようになった経過をお話しします。


 私は大学卒業後コンピュータの会社に入社し、あるプロジェクトに配属されました。そこに一年先輩のHさんがいました。一緒に楽しく仕事をしました。可愛がってくれて楽しかったです。Hさんがある時、「おい堀江、お見合いしないか」と言うのです。彼の父の友人の妻のYさんが相手を紹介してくださいました。HさんがYさんのところに一人で行くのが恥ずかしいので僕に同行を求めたのです。彼もお見合いし、私もお見合いしました。私はまだ若かったので、真剣に結婚を考えることができませんでした。今思えば、結婚するには精神的に未熟であったと思います。結婚するとはどういうことかが分かっていなかったのです。


 お見合いの労をとってくださったYさんが実はクリスチャンでした。Yさんが僕を伝道集会に誘ってくださいました。東京杉並区にある教団の大宮前教会です。伝道集会で話を聞いて、信じれば救われるなんて話がうますぎる、信じて救われるなら苦労しないよ、これはまゆつば物、と受けとめて、教会には行かないと内心決意して帰ったのです。しかしその日、教会が火事になったのです。幸いぼやですみました。ぼやとは言え、驚きました。これは何かの縁だと思って、教会の礼拝に通い続けることにしました。青年会の活動にも参加しました。聖書を一緒に読むことが楽しかったです。クリスマスの時、夜キャロリングをして教会に戻ってきてお汁粉を食べたことを思い出します。


 大宮前教会に通っていたある日M(満丸茂)牧師から洗礼を受けませんかと言われ、会社の帰りに教会に行きました。先生と向き合って座った時、僕は「灰皿はありませんか」と聞きました。M牧師は「灰皿はありませんが」と言いながら、お皿を出してくださいました。そして僕はタバコを吸いました。「洗礼を受ける気持ちはありませんか」と問われ、僕は「罪がどういうことか分かりません」と答え、「それならまだ洗礼は早いですね」と言われてその場はお開きとなりました。後に東久留米教会の礼拝に出るようになりますが、礼拝が終わって教会の玄関から出てタバコで一服していたら、牧師夫人が出てきて、「こんなところで喫煙してはダメよ」とたしなめられたことも覚えています。


 私を礼拝に誘ってくださる方がおられたので、教会に行くようになりました。友人、知人を教会の礼拝に誘うことは伝道の第一歩だと思います。

2018年09月17日(月)

 先日、『信徒の友』(信仰の月刊誌10月号)を見ていたら、ひとつのニュースがありました。北海道の春採(はるとり)教会と釧路教会が合併したとのニュースです。釧路教会として存続するとのことです。私が神学校を卒業して最初に赴任したのが三重県鳥羽教会です。前任の牧師は春採教会の招聘を受けて移動されました。「故郷伝道をしたい」とのことでした。それで春採(はるとり)教会のことが記憶に残りました。


 信徒の友を見ていると、時折、教会合併の知らせが掲載されています。教会を支える信徒の数が少なくなり、教会の活動が維持できなくなって合同するケースが増えています。教会は高齢化しており、今後の先行きが心配になります。


 伝道について考えていることを書いてみます。


 伝道をするには、四つのことが必要となります。伝道する人、伝道される人、伝道が行われる場、伝えるべきメッセージです。効果的な伝道は、信仰者の集い(数名から多くて10名)に未信者を招き、聖書を中心にした語り合いがなされ、信仰に生きることがどういうことかを伝えることができることです。信仰に生きている信仰者の姿を見せることです。いきなり未信者の人を礼拝に導くのは敷居が高いですが、少人数の集いなら誘いやすいです。未信者の人が信仰に関心を持つようになれば、礼拝にも導かれます。


 大切なことは、少人数の集いで、信仰に生きることについての分かち合いがなされることです。信仰に生きる本音が語られることです。同じ状況に生きている信仰者が聖書と仲間によって支えられて生きている姿を未信者の人が見れば、関心を持つに違いありません。信仰を持つ人も持たない人も、みな同じような問題や課題をかかえて生きています。人は自分は問題なく生きているような顔を他者に見せますが、実際には悩みを抱えているものです。ひとりで苦しんでいることがままあります。同じ悩みをもつ信仰者が信仰を支えとして、どのように生きているのかを伝える、それが証しとなります。立派な信仰者の姿を見せる必要はありません。ありのままでいいのです。自分の失敗を話せるといいですね。恥じる必要はありません。その正直さは神さまに祝福されます。信仰者の一生懸命生きている姿が伝われば、伝道できたことになります。伝道は伝えることであって、相手を信者にすることではありません。人の心を変えるのは神の働きです。伝えつつ祈ります。これが伝道です。


 そこで大切なことは、聖書を読み、信仰の歩みをし、自分の信仰の歩みの実際を話すことができる信仰者の存在です。このような信仰者を育成すれば、伝道は進展すると私は信じています。教会では聖書を学ぶ場が大抵ありますから、このような信仰者を育成すればよいと思います。牧師が聖書の解説をし、質疑がなされるだけの集会では、育成はむずかしいと思います。


 伝道できる信徒の育成が急務です。


 教会では一度、信徒に対して、伝道したい相手に誰がいるのか、アンケートをとってみるといいと思います。

2018年09月11日(火)

 一昨日の日曜日、和歌山県のG教会の礼拝の奉仕に出掛けました。奈良から天王寺天王寺くろしおという特急に乗ります。終点は白浜温泉です。観光客が少し増えてきたかなという印象です。朝5時半頃に目が覚めたせいか、家に帰り夕食を済ませたら、どっと疲れが出ました。


 思いがけない失敗をしました。毎日コーヒーの豆をひいてコーヒーを淹れていますが、ひいた粉をドリッパーにセットしたフィルターに入れるのに、なんとサーバー(ドリップしたコーヒーを溜める入れるポット)に入れてしまったのです。ボォッとしてポットに。

[] 20:38

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

説教を聞くにはここをクリック

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(クリックして音声ファイルをダウンロードしてお聞きください)

聖書 ローマ 4:1〜12

説教 義とされる幸い

2018/9/9

→信仰によって義とされる、これはキリスト教の基本的な教え、

そして中心的な教えです。

イエス・キリストが私たちを罪から救うために

十字架で死んだくださったことを信じる人は、

信じるだけで、その罪を赦され、

神さまはその人を義としてくださる、

つまり罪人とは見なさず、

正しい者と見てくださるという教えです。


→普通、罪の赦しを受けるためには償いが必要です。

刑務所にいる受刑囚が、

私はイエス・キリストを信じ罪赦されているから、

解放してくれなどといってもそれは通りません。

罪は償ってこそ、赦される、これが普通の考えです。

しかしイエス様を信じるだけで、何の償いもなしで、

神さまの教えを一切守らずとも、罪赦されるというのです。

にわかには信じられない教えです。


→特にユダヤ人つまりイスラエルの人々はそうでした。

彼らは神の民と呼ばれました。

その彼らには割礼という儀式がありました。

生まれて八日目の男の子に割礼を施しました。

割礼というのは、男性の性器を覆っている皮の部分を切る儀式です。

なぜそんなことをするかというと、

神の民であるしるしを体につけるためです。

しかもそれは神さまの命令なのです。


→イエス様が復活され天に帰られた後、

弟子たちはイエス・キリストを最初はユダヤ人に宣べ伝えました。

やがて異邦人、つまりユダヤ人でない人にも宣べ伝えました。

すると割礼を受けていない異邦人もイエス様を信じるようになりました。

ユダヤ人キリスト者の中には、

異邦人は割礼を受けるべきだと主張する人がいました。

割礼は神の民であるしるしなのですから、異邦人クリスチャンにも必要だというのです。

割礼はユダヤ人に対する神の教え、戒めでした。

でもイエス・キリストを信じる人は、何の行いなしで、

神の教えを一切守ることなく義とされるとパウロは語るのです。

割礼は必要ないというのです。


→私はクリスチャンが、神さまの戒めを守らなくちゃ、と言うのを聞くと、どうしてと思います。

神さまの教えを一切守ることなくても、

イエス様を信じて罪赦され救われるのですから、

なぜ、守らなければいけないと考えるのか不思議なんです。

なぜ守らなければいけないと考えるのでしょうか。

今日の聖書パウロは、

一切の行いなしで義とされることを強調しています。

続きを読む

2018年09月06日(木)

 昨日靴屋に行きました。昨日は相談だけです。僕の足の親指は巻き爪なのです。歩き方がよくないのです。右足は外反母趾になっています。程度は小さいと思いますが、膝に痛みが時々生じるのです。テレビの健康番組を色々見ていて、対処しなければならないと思いました。登山に行き、下山の時に膝が痛むのは避けたいのです。たまに階段を下りるとき、チクッと痛みを感じることがあります。


 インターネット奈良市にある靴屋の検索をしました。とある靴屋のホームページを見ると「〜万円出すとおつりがきます」と書いてあります。今はいている靴では、正しい歩き方ができないので、思い切って買うことにして、靴屋に行き、事情を話しました。あなたの靴のサイズは幾つですかと聞かれたので、答えました。すると「違いますね」と言われ、測ってもらいました。その店では、あるメーカーの靴を紹介してくれるのですが、僕のサイズに合う靴はないというのです。僕の足は自分で思っているよりも縮んでしまったのです。ショックでした。ベターな靴がありますと言われました。取り寄せますので、明日来てくださいということで、今日靴屋さんに行き、購入してきました。


 人は案外靴に無関心なのだと思いました。ネットで検索すると外反母趾やその他の理由で足に悩みを抱えている人がいることが分かりました。そういう人のための靴を提供する靴屋さんがいることも分かりました。靴というと、量販店へ行って、足にあう靴を買えばいいと思っていましたが、そういうとき、自分の足より大きい靴を人は買うそうです。そしてあわない靴を履いて生活をします。さらに靴屋さんに勧められたのは、靴下の選択です。五本指に分かれている靴下をはくようにとのことです。