holalaの日記

2018年08月13日(月)

[] 17:55

 暑い日が続きます。昨日はG教会に説教の奉仕でした。暑さのためか、体が疲れているのか、本を読んでいるつもりで寝入ってしまい、バタンという本が落ちる音で目が覚めました。この時点で注意しておけばよかったのですが、また本を読み始めました。するとまた寝入ってしまい、目が覚めたら、特急が降りるべき駅に停車しています。焦りました。ドタバタと電車の中を走り、慌てて降りました。神さまが起こしてくださったのだと思います。感謝です。寝過ごさなくて本当によかったです。こんなこと、生まれて初めてでした。


 あらかじめ特急券を購入するとき、日が当たらない席を取ろうとしたのですが乗ってみたら日が当たる席で、がっかりしました。これはD席でなくA席を指定すればよかったのに、確認しなかったためで、ぼけたわけではありません。でも失敗したことには間違いありません。


 実は前回は、出かける準備をしていたとき、行きの切符はテーブルに置き、帰りの切符は鞄の中に入れたのです。しかし家を出るとき、テーブルの上に置いた切符を忘れてしまい、駅について気づきました。できていたことが少しずつできなくなるのでしょうか。でも私は「ぼけたのかな」という言葉は、口にしません。

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聖書 ヨハネ 1:6〜13

説教 私は神の子

2018/8/12

→「あなたは何者ですか」と質問されたら、あなたは、

どうお答えになりますか。

今日の聖書の少し後、

19節以降にヨハネという人物が登場します。

彼は洗礼者ヨハネと呼ばれます。

彼はヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていました。

すると人々は、

「あなたはだれなのです。あなたは自分を何だというのですか」と質問します。

あなたは何者なのか、と質問しているわけです。

人々に洗礼を授けているからです。

では「イエス・キリストを信じるあなたは何者ですか」と聞かれたら、

どう答えられるでしょうか。

今日の聖書によれば、その答えは、

「私は神の子です」。これが答えです。

イエス・キリストを信じるあなたは、神の子です。

自分が神の子であることに喜びを感じられるでしょうか。

イエス・キリストを信じる私たち一人一人は、神の子です。

このことについて聖書から聞いてみたいと思います。

→このヨハネ福音書は、

他の福音書と比べて一つの特徴があります。

この福音書においてイエス様は、御自分が何者であるかを繰り返し語っていることです。

たとえば、

「私は命のパンである」(6:35)。

「私は世の光である」(8:12)

「私は復活であり、命である」(11:25)。

「私は良い羊飼いである」(10:11)

「私は道であり、真理であり、命である」(14:6)。

そして「私を信じる者は永遠の命を得る」と約束しておられます。


→それゆえ、イエス様を信じるとは、

イエス様がこのような人であることを信じることとなります。

イエス様と出会った人たちは、

イエス様がこのような方であると信じるかどうか、

信仰が問われたのです。

ヨハネ福音書に登場するユダヤ人と呼ばれる人たちは、

イエス様がそのような人物であることを認めず、

信じようとしなかったことが書かれています。

ヨハネ福音書イエス様が何者であるかを語り、

このイエス様を信じる者には永遠の命が与えられると

私たちに語りかけています。


→そしてこのイエス様を信じる者は、

12節によれば、

「神の子となる資格が与えられた」とあります。

資格が与えられ、神の子となったのです。

私たちイエス・キリストを信じる人たちは、

「あなたは何者ですか」と聞かれたら、「神の子です」と

答えることができます。

あなたは神の子、どう思われますか。

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2018年08月10日(金)

 先週は、奈良高畑教会のCS夏期学校、そして孫たちがみな奈良に集合して夏休みの時を過ごしました。孫たちはみな夏期学校に参加し、充実した夏期学校でした。忙しい思いと、孫たちの成長を見る幸いを与えられました。


 夏期学校は六甲山YMCAを会場として行われました。ちょっと驚いたのですが、ミケランジェロ作成のモーセ像がありました。もちろん本物ではありません。でもこれを見ながら、モーセのことを思いめぐらしているうちに、私たちは証人に囲まれているとの聖句が思い起こされました。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、(ヘブル12:1)


 モーセは、神の呼びかけを受けて、イスラエルの民をエジプトから解放する指導者となりました。出エジプトの出来事を思いめぐらし、神と格闘するかのように歩んだモーセの生涯を思い起こし、聖書には、信仰に生きた証人が沢山いることにあらためて気づきました。そして思いました。「神に対するあらゆる疑いは、捨てていい」と。

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↑モーセ像

夏期学校では成人科もあり、私はそこに参加しました。ルカ福音書の放蕩息子の物語を読んで、各自感想を語りました。人それぞれの受けとめ方があり、自由にそれを語り合うことはよいことだと思いました。人を知ることは興味深くうれしいことです。

2018年08月06日(月)

 イエス様は、最も大事な戒めとして、神を愛することをあげました。また弟子のペトロに三度、「あなたは私を愛するか」とお尋ねになりました。神を愛するとは何を意味しているのでしょうか。具体的にどうすることなのでしょうか。イエス様を愛するとは、具体的にどうすることなのでしょうか。


 ヨハネの手紙の一5章3節にはこう書かれています。

神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。


 神を愛するとはどうすることなのか、イエス様を愛するとはどうすることなのか、ずっと考えながら信仰生活を送ってきました。人によって答えは違うでしょう。信仰者は、自分の答えを見つけて生きることが大切であると思います。愛することは、喜ばしい行為です。


 私にとって、神さま、イエス様を愛するとは、その言葉を愛し、その言葉に従うことです。それゆえに、聖書に親しみ、そこから神さまの語りかけを聞き、それに従うことが、神さまを愛することであると思うようになりました。人はいつも新しい人生を生きています。明日は未知の日です。新しい人生を御言葉によって生きる、それが神さまを愛すること、イエス様を愛することです。天に召されるまで、デボーションをし、聖書に聞いていきたいと願っています。


 私が聖書から神様の語りかけを聞くことについての実際は、リンク集の「御言葉に生きるための提案」をご覧ください。

2018年07月27日(金)

 オーム真理教の死刑囚の死刑執行が行われました。これで13人の死刑囚全員の死刑執行が行われたことになります。新聞に執行された6人の名前、入信の経緯、罪状が書かれていました。その中の二名が、松本元死刑囚の著書を読んで入信したと書かれていました。


 教えに感銘を受けて入信し、修行し、やがて信仰の名において殺傷事件を起こすに至りました。中に入ると理性が正常に働かなくなるような状況があったのでしょう。真っ直ぐに突き進んでしまいました。一人だけ、岡崎一明死刑囚は、坂本弁護士一家殺害に関与した後、脱会しています。


 高学歴であった彼らオーム真理教の信者が、立ち止まり、このまま歩んでいいのか、と考え直すことはできなかったのかと思います。真理に自分をささげるのですから、その真理が間違いのない真理であるかどうか、吟味できなかったのかと思います。それができない雰囲気、あるいはマインドコントロールがあったのでしょうか。


 私も若い日、生き方に悩み、さまざまな本を読みあさりました。そして人に誘われてキリスト教会に行き、やがて洗礼を受け、牧師にまでなりました。そして福音を宣べ伝える働きに人生を献げました。私は仏教に帰依する考えは持ちませんでした。解決できないときはキリスト教会に行こうと考えていましたが、自分で行く前に人から誘われました。今思えば神さまの導きです。聖書が真理であるとの確信は、時間の経過とともに深められてきました。


 教会の伝道はどうしたら盛んになり、多くの人を救うことができるのでしょうか。救いを求めている人は確実にいるのです。

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↑タカネスミレ(秋田駒ヶ岳 2018/7/3)

2018年07月24日(火)

7月22日、一ヶ月ぶりにG教会での説教奉仕です。暑い一日でした。電車から空を眺めていると、空が澄んで、高く見えました。説教準備の時、ロイドジョンズ牧師の『ローマ書講解3:20〜4:25』を参考に読みました。これを読んでいるとワクワクしてくるのです。こんな経験は初めてでした。聖書の意味が明らかになってくるのが、こんなに気持ちを高ぶらせるのかと驚きました。

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↑車窓から 和歌山市付近

[] 17:56

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聖書 ローマ3:21?26

説教 信仰によって義とされて

2018/7/22

→信仰によって義とされる、

これは繰り返し教会の中で語られてきたことだと思います。

繰り返し聞いてきたことですが、初心に返り、

このことの意味を聖書から学びたいと思います。


→このローマの信徒への手紙の最初に大切なことが書かれています。

1章16節には、

「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。

福音は信じる者に救いをもたらす神の力だというのです。

福音は神の力、これは是非、心に刻みたいと思います。

さらに17節には、

「福音には、神の義が啓示されています」。

今日はその神の義がテーマです。


→このローマの信徒への手紙の1章18節には深刻な言葉があります。

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、

神は天から怒りを現されます」。

不信心と不義に対し、神は天から怒りを表されるというのです。

神の怒りを受ければ人間は滅びます。

この神の怒りからの救いがこのローマの信徒への手紙のテーマになっています。

1〜3章は、ユダヤ人も異邦人も、つまりあらゆる国民もみな、罪の下にあり、

神の怒りを受けるべき存在であることが語られています。

そして今日の聖書は「ところが今や」と語り

人類の歴史が新しい局面に入ったことを告げています。

つまり、罪を犯し続け、

神の怒りを招いてしかるべき人間に対して、

神の救いのわざが起きたというのです。

イエス・キリストの出来事です。

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