2005-12-24
■[学び]使徒の働き23章
23章はパウロがエルサレムの議会(サンヘドリン)において弁明をした記事と、彼に対する陰謀から彼がカイザリヤに移送される場面が描かれています。この2つの記事を通して、神の摂理と人の努力について教えられます。
議会でのパウロの弁明
議会においてパウロは必要十分な証しをしました。彼は「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活してきました」(1節)と証ししました。それは、嘘偽らざる彼のこれまでの人生でした。また、彼は「私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」(6節)と叫び、自分の証ししてきたことの本質を語りました。前日に宮においてパウロの証しを聞いたユダヤ人にとっては、これで十分でした。
イエス様の現れ
その夜、イエス様が「パウロのそばに」(11節)立ってくださいました。イエス様はパウロに全部で4回現れておられます。その中でこの時が最もパウロのそばにいて下さいました。主の証しを堅く立てた後、私たちにすぐに賞賛が与えられるとはかぎりません。パウロのように、兵営の中で、孤独に監禁されるようなことが多いものです。しかし、主イエス様は私たちのすぐそばにいて下さり、私たちを慰め励ましてくださる御方です。
神の摂理と人の努力
その時、イエス様はパウロに「ローマでもあかしをしなければならない」と告げられました。パウロはこの後、ローマに行くことが神の御心であったのです。
しかし、その直後に起こったのは、パウロ殺害の陰謀でした。その動きを知ったパウロの甥は、すぐにパウロに知らせました。この時、神の御心だから、という理由で、何もせずに神様に委ねるということもパウロにはできたでしょう。しかし彼はそうはしませんでした。甥を千人隊長のところに遣わし、甥は隊長に対してはっきりと陰謀を告発したのです。
神のご計画は確かに人の意図を越えて実現します。しかし、だからといって何もせずに手をこまねいているのは、クリスチャンにとってふさわしくない、ということを教えられます。私たちは神の御心を実現すべく、それぞれができることを誠実に、熱心に行うべきなのです。
パウロの甥はそのことをよく示します。彼は陰謀を知ったとき、自分に累が及ぶと考えて、何もしないということもできたでしょう。しかし彼は自分のできる最善のことをしました。それは誰もができることでした。「行って、告げる」ということです。私たちも、神様の福音が広まるために、それぞれができることを勇気を持ってなすべきだと教えられるのです。
maeda takashi
2009/11/26 19:26
今のほとんどの教会で述べ伝えている福音は、薄められており、誰も自分の十字架を担わなければ、弟子になることさえ出来ないのはご存知の通りです。主がパウロと一番交わられたのは、荒野での3年間であり、パウロはこの3年間に必要な知識を得たのだと認識しております。私はパウロ兄やリックジョイナー師のように第三の天で主と交わる光栄には浴しておりませんが、幻の内に主のお姿を見(ヨハネ14:21参照)、疑問等がある時は、何度も聖霊様が横に立って、色々教えて下さいました。ですから少し言わせて頂きますと、主の戒めであるマタイの5〜7章を、主への愛をもって守ることが出来るようにならないと、主は現れて下さらないし、自分で勝手にこれが御心に違いないと思って行動してしまうところに問題があると思います。
2005-11-27
■[学び]ヤコブの歩みから
イエス様の弟であるヤコブは幸いな歩みをしたクリスチャンでした。彼の歩みを通して、いくつかの模範を覚えます。
ヤコブの歩み
彼は(他の兄弟たちも同じでしたが)、イエス様が十字架にかかられる前はイエス様を信じていませんでした(ヨハネ7.5)。イエス様の十字架の時、母マリヤはそばにおりましたが、兄弟たちはいません。あるいは弟子たちと同じように、イエスの弟であると知られることを恐れて、隠れていたのかもしれません。
しかし、復活された主イエスはヤコブに特別に現れてくださいました(Iコリント15.7)。これは個人的な現れでした。復活された主が個人的に現れたのは、ペテロとヤコブとパウロの3人だけです。ヤコブへの現れが特別なものだったことが分かります。彼を信仰に導くための、特別な恵みだったのかもしれません。
その後彼は、イエス様の昇天の後、エルサレムの2階座敷に集まった使徒たちと一緒に、心を合わせて祈っています(使徒1.14)。母マリヤも他の兄弟たちも一緒でした。彼らは皆、息子あるいは兄であったイエス様を自らの救い主として信じたのです。他の兄弟たちはヤコブやマリヤの話を聞いて、信仰に入ったのかもしれません。
ヤコブはクリスチャンとして幸いな歩みを続けました。使徒の働き15章で、教理上の重要な会議がエルサレムの集会で行われましたが、4人の者が発言した中で、ヤコブは最後に発言し、彼の判断が会議の結論となりました。彼はエルサレムの集会において重要な位置を確保していました。
そしてガラテヤ書2.9では、ヤコブはエルサレム集会の「柱」として重んじられていることが分かります。ヤコブは幸いな進歩を遂げた、クリスチャンでした。
ヤコブの特徴
彼の歩みから3つの模範を教えられます。
1.環境の重要性
ヤコブの育った家庭はおそらく厳格なものでした。父ヨセフは「正しい人」(マタイ1.19)でした。母マリヤも神様の御心に従順に従う人でした(ルカ1章)。その二人が築いた家庭は、おそらく愛に裏付けされながらも、厳格であったと思います。
ヤコブが書いた「ヤコブの手紙」はクリスチャンの行動が正しいものであるべきことを教えています。聖霊は厳格な彼の性格を用いて、クリスチャンの行動という主題を扱った聖書をヤコブに書かせたのかもしれません。
2.栄光の主を見上げる
ヤコブが改心したおそらく直接の理由は、復活されたイエス様が直接彼に現れたからです。彼はその時のイエス様の姿を終生忘れなかったことでしょう。兄であった時はその言動に疑問を感じていた彼でしたが、その自分にイエス様は特別の恩寵を持って現れてくださったのです。ヤコブはイエス様の恵みと、またその栄光の姿をずっと心にとどめていたと思います。
エルサレム集会はたびたび迫害に遭いました。そして多くの兄弟たちが散らされていきました。その中でヤコブはエルサレムにとどまったのです。そして困難な中にあっても集会のために歩み続けました。彼のそのエネルギーは、主イエス様から目を離さなかったことによるのでしょう。
3.みことばに親しむ
エルサレムでの会議の時、主要な発言をした4人の中で、みことばを引用したのはヤコブだけでした。彼は聖書によく親しんでいたようです。そのために、今までの考え方ではとうてい理解できないことをペテロやバルナバ、パウロが説明した時、それが神様の御心であることをみことばによって確認することができました。ヤコブの「判断」はみことばに基づく正しい判断でした。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119.105)
みことばに親しみ、みことばをいつもいただいて歩むことの大切さを改めて教えられます。
2005-11-26
■[学び]使徒の働き19章
使徒の働き19章はパウロの第3回伝道旅行の拠点となった、エペソでの働きが記されています。その中で、19章には2つの「集会」が対照的に記されています。1つはエペソに起こされた神の集会、もう1つは群衆による「集会」です。
エペソの集会
目的
エペソに起こされた神の集会は、「悔い改め」(4節)て、「イエスを信じ」(4節)、「聖霊」(6節)の導きに従う者の集まりであることがわかります。
行動
彼らはみことばを証しし(8〜10節)、模範となる行動を示し(11〜19節)、聖別をして(19節)、歩みました。
結果
「主のことば」(10節・20節)はますます広まっていったのです。
群衆による「集会」
目的
この「集会」は、人間の欲望を達成するために集まり(25節)、神様以外のものを奉じていました(27節)。
行動
彼らは集まった目的を知らず(32節)、みことば以外のもの(この場合は法律)の支配に服しました(27節)。
結果
「集会」は「混乱状態」(32節)に陥り、最後には外部の圧力に屈したのです(41節)。
真の神の集会のあり方を教えられるとともに、その集会が健全な歩みから離れる際の特徴も教えられます。教訓とすべきです。
2005-08-13
■[学び]使徒の働き4章
使徒の働き4章では、ペテロとヨハネが捕らえられ、議会に引き出されて証しをする場面があります。ペテロの3回目の証しです。そして、そのあと、最初の迫害が起こります。
ペテロの証し
ペテロの証しには4つの特徴があります。
- 自分が語る相手の目的をよく見極めている
- 相手への愛に基づいている
- みことばによって相手に確信を与えている
- 相手に対する勧めがある
これらの特徴は、私たちが公の場面や個人的な場面で証しをする際に、やはり考慮に入れておくべき事柄でしょう。私たちも主イエス様を証しする時は、(1)相手が何を求めているかを考え、(2)相手への純真な愛に基づき、(3)みことばによって自分の語る内容を説明し、(4)相手に対して具体的に勧める、ということが必要だと思います。
最初の迫害
使徒4章では最初の迫害が起こります。それは指導者たちの言葉による脅し、でした。次にそれは、使徒たちを捕らえ、むち打つという、肉体に対する苦痛に発展します。最後にそれは、ステパノの殉教という、命への危害へと発展します。しかし、ペテロは恐れることなくみことばを宣べ伝え続けました。それは、
- 彼が復活したイエス様に直接にお会いした、目撃者であったこと
- そのイエス様が、人を恐れるのではなく、神様を恐れるべきであると教えられたこと
以上の2つがあると思います。
彼にとって、復活したイエス様を見たということは、何にも勝る力の源です。しかも、復活によって、イエス様の語られたみことばが絶対的に真実であることも証明されています。ペテロには恐れるものはありませんでした。
伝承によると、ペテロは逆さ十字架にはり付けられて殉教した、と伝えられています。恐ろしい死に方ですが、ペテロはひるむことはなかったのでしょう。彼を愛されたイエス様のもとに行くことを望んでいたのですから。
2005-07-30
■[学び]使徒の働き3章
今日は使徒の働き3章を学びました。
3章から2つのことを学びます。1つは、クリスチャンの成長について、もう1つは、ペテロの証しの方法についてです。
クリスチャンの成長
彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。(2.7~8)
3章では、ペテロが生まれつき足のきかない男をいやす記事が記されています。この男のいやしが行われる箇所が7~8節です。ここに記されている順番は大変重要であると思います。なぜなら、それは人が救われて、キリストのしもべとして生活するようになる順序がきちんと示されているからです。
この奇跡は、以下の順番で行われました。
- ペテロが男の右手を取ると、男の足とくるぶしが強くなる
- 男は立ち、歩きだす
- 男は神を賛美し、宮に入る
これは、まさにイエス様の足跡に従うためには「生まれつき足のきかない」者であった私たちが、強められてイエス様に従っていく過程と一致しています。すなわち、
- イエス様が我々に力を与えてくださる
- イエス様を信頼して、我々が歩きだす
- イエス様の導きや守りを体験し、さらに神様への賛美へと導かれる
注目すべきことは、イエス様のしもべとしてふさわしい力を身につけるために私たちが努力する、のではないということです。そうではなく、私たちには救われた時点ですでに豊かな力が与えられています。後はそれを発揮するだけなのです。
ペテロは生まれつき足のきかない男をいやした時に弱々しい足を与えて、「これから上手に歩けるように練習しなさい」と言ったのではありません。彼は最初から完全な足を与えて、最初から男をおどりあがることができる者としたのです。要は、男がペテロの言葉を信じて、立ち上がるかどうかでした。
私たちも同じです。どんなに困難なことがあるように見えても、イエス様に信頼を置いて、勇気を出して歩いていくべきです。
ペテロの証しの方法
3章にはペテロの証しの2回目が記されています。彼の証しには一つの特徴があります。それは、「聞いている人の知りたいことを説明する」ということです。
しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。(2.13~14)
この人(足をいやされた人)が、ペテロとヨハネにつきまとっている間に、非常に驚いた人々がみないっせいに、ソロモンの廊という回廊にいる彼らのところに、やって来た。
ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。(3.11~12)
ペテロの公の証しは全部で5回あります。その全てにおいて、彼は自分が語ろうとしている人々が何を知りたがっているかをきちんと把握して、その人々の疑問を解く形で語り始め、そして福音を語っています。ペテロは非常に明確なメッセージを相手に語っていると言えます。これは、我々もぜひ見習いたいところです。
2005-07-24
■[福音]尊敬すべきイエス・キリスト
イエス様の高い身分について
私たちはイエス様についてどのような思いを持っているでしょうか。イエス様は確かに愛に充ち満ちた御方です。イエス様は神の御子であられるのに、私たちの罪のためにご自身の尊いいのちを捧げてくださり、私たちの身代わりに神様の裁きを受けてくださいました。そして、悔い改め、イエス様を主と認めた者を分け隔てなく受け入れてくださいます。イエス様は間違いなく愛の深い御方です。
と同時に、イエス様はきわめて高い身分を持っておられる御方であり、私たちの尊敬を受けるに全くふさわしい方であることも認めるべきです。イエス様はこれまでに存在したあらゆる人よりも高い高い身分と位におつきになった御方です。
「キリストは、神のみ姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2.6〜8)
これはイエス様の謙遜さを表す有名なみことばです。しかし、これには次のみことばが続きます。
「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2.9〜11)
このようにイエス様は地上の誰よりも高い位にお就きになっておられる方です。誰も到達することのできない神様の右の座に着座された御方であり、無限の権威と絶対の主権を持っておられます。この御方に対して、私たちは心からの賛美と尊敬の念を抱かざるを得ません。しかもそれは、イエス様ご自身が最高の謙遜を示されたからなのです。
集会の主であられるイエス様
集会は、このような高い位につかれたお方であるイエス様が臨在される場所ですから、権威ある場所です。
「そして、一同の心に恐れが生じ、……」(使徒の働き2.43)
私たちがイエス様と共に歩みたいと願う動機には、イエス様が愛の深い方であるから、というものがあります。同時に、イエス様が尊敬に値する素晴らしい御方であるから、というものもあるべきです。私たちは優れた能力のある人が身近にいたら、その人を尊敬し、さらにその人からさまざまなことを聞きたい、と願うでしょう。イエス様に対する私たちの思いも同じです。私たちはイエス様のすばらしさを味わい、そこから多くを学び、さらにこの方への尊敬の念を深くして、この方に近づいていくのです。
2005-07-23
■[学び]使徒の働き2章
使徒の働き2章では次の2点について考えます。1つ目は聖霊降臨という歴史的に画期的な事実について。2つ目は集会の権威についてです。
聖霊降臨について
2章では聖霊降臨の記事が記されています。この聖霊降臨という事実は、聖書の時代区分から見てきわめて画期的な出来事です。この聖霊降臨を境にして、真に新約聖書の時代が始まると言えます。恵みの時代、福音の時代の始まりです。それは今日まで続いている、きわめて特別に祝福された時代です。
旧約の時代でも聖霊は降りました。しかし、それは必要に応じて時々であったり、ある個人に対してであったりしました。したがって、必要が満たされれば聖霊はまた取り上げられましたし、その個人が召されれば、聖霊は共に取り上げられました。つまり、旧約の時代とは、聖霊が常には働いていない時代である、と言えます。
これに対して、新約の時代の特別な点は、聖霊が一度降臨し、その後ずっととどまっている、ということです。イエス様の昇天から10日後、ペンテコステの日に聖霊は降臨しました。それは人々にはっきりと分かるように、大きな音と共に降臨しました。そして、聖霊に満たされた人々は他国のことばで話し出しました。いわゆる「異言」という奇跡です。しかし、この「異言」はユダヤ人のための証しの奇跡であることに注意しておきましょう。
「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、」(2.5)
このように、異言が与えられたのは、その時周囲にいたのがユダヤ人であったからです。彼らへの証しのために異言がありました。したがって、今日、しかも異邦人である我々には、「異言」などという奇跡は起こりえません。それはすでに役目を終えた働きです。
さて、この時を境にして、聖霊はこの世に降ってくださいました。そして、信じる者の中に内住してくださいます。また、信者の集まり、すなわち集会の中で働いてくださいます。この聖霊は、イエス様が空中再臨される時まで地上にとどまります。このような時代は、未だかつて全くありませんでした。現在はきわめて祝福された時代なのです。
集会の権威について
ペテロの証によって救われた者たちは、共に集まって交わりを始めました。キリストの「集会」が初めて誕生した瞬間です。そして、その時、とても重要なことが起こりました。
「そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行われた。」(2.43)
重要なのは「恐れが生じ」たという箇所です。集会とは人々が恐れを感じるべき場所なのです。この「恐れ」とは恐怖心のことではなく、神様への、また主イエス・キリストへの畏敬の念のことでしょう。集会が誕生し、聖霊が強力に働きました。イエス様の約束の通り、集会にはイエス様が臨在してくださいます。そして、イエス様の権威が示された時、人々の心には畏敬の念が生じたのです。
このような集まりはこの世にはありません。集会は単なる仲良しクラブではありません。そこはイエス様が臨在される神の宮であり、神様の栄光とイエス様の権威とが満ちているものです。もちろん私たちは集会に集うことを喜び楽しみます。しかし、単に楽しいだけではなく、集会にはその権威にふさわしく集まるべきであることを教えられます。
candy
>しかも異邦人である我々には、「異言」などという奇跡は起こりえません。それはすでに役目を終えた働きです。
とお書きになっていられますが、
神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです
と書かれてある御言葉や、そのほか、コリント人への手紙12章から出てくる多くの威厳についての御言葉をも否定なさるということでしょうか。
本当に異言は終わったものであるとするなら、これらの勧めはいったい何のために書かれたものなのでしょうか。
ブログを読ませていただき、とても教えられることがたくさんありました。でも、イエスさまの権威の前に、主が今でも信じる者に恵みとしてお与えくださっているものだとするなら、それを終わったこととしてしまうことは、本当にその権威に服していると言えるのでしょうか。もしその恵みが変わらずにあるするなら、それを求めないとするなら、主はあえて押し付けるような方ではありませんが、素晴らしい恵みをミスすることにはならないでしょうか。
あなたの信じたとおりになりますように・・という主のお言葉は今でも変わらない・・そう思っています。
>集会にはその権威にふさわしく集まるべきであることを教えられます。
その権威を認めること、それは御言葉に対しても変わらないことだと思います。
どうぞ私のことばというよりも、主イエスご自身にお聞きくださればと願うばかりです。
beulah
candyさん。
コメントをありがとうございます。しばらく更新をしていないでおりますが、このようにコメントをいただけるのはとても嬉しいことです。
さて、ご質問の件についてお答えいたします。
ご質問は異言についてですが、この異言について「聖書は何と言っているか」考えてみます。
まず第1に、「異言」とはユダヤ人に対して示される奇跡的な出来事だということです。
最初に「異言」が聖書に出てくるのは使徒の働き10章46節です。「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」これは異邦人のコルネリオにも聖霊が注がれたことをユダヤ人であるペテロに明確に示すための働きでした。他の箇所を見ても、「異言」はユダヤ人に対して、それが神の御業であることの証拠としての奇跡です。異邦人に対して示されたことはありません。
第2に、この「異言」という出来事は、今日では「やんでしまった」ということです。
candyさんがお示しになったコリント人への手紙第1の13章8節に「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。」とあります。「異言」の賜物は今日ではやんでしまったものです。
それはなぜか、同じ10節に「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。」とあるのが理由です。この「完全なもの」とは新約聖書を指します。つまり、新約聖書が完成していなかった時代に、聖霊が働いておられるのを証拠立てるものとして異言の賜物は必要でした。しかし、新約聖書が完成し、神様の御心がその中に十二分に示されることになった時に、異言の賜物は「やんでしまった」のです。
したがって、今日の時代には異言の賜物はありません。いえ、不必要なのです。神様の御存在も神様の御愛も、聖書を読むことで十分に理解できますから。
ご指摘のコリント人への手紙第112章に示されている聖霊の賜物はほとんどが今日では「やんでしまった」ものだと考えられます。しかし、賜物を秩序正しく用いるべきであるというパウロの教えはもちろん今日でも有効です。
聖霊の賜物についての教えは、コリント人への手紙第1の12章から14章までを全体として理解することが大切だと考えています。
candy
ご丁寧なコメント、心から感謝すると共に、この出会いを備えてくださった主を褒め称えます。
今でも異言があるのか、それともそれは終わってしまったものなのか・・・
「現在私が言えることは、異言で祈るクリスチャンもいるし、異言で祈らないクリスチャンもいるということだけです。異言で祈るべきか、祈らないべきか、あるいは現代において異言はあるのか、ないのか、と言った議論は主に委ねたいと思います。
ここでも聖書の生の御言葉を見てみると次のようにあります:
異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、誰も聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます・・・預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことを禁じてはいけません(1コリント14章)。
私はこれらの御言葉を解釈する意図はありません。ただこの御言葉どおりを受け入れたいと願います。
私自身について触れますと、異言でよく祈ります。特に自分では何をどう祈ったら良いのか分らないとき、あまりにも自分の置かれた状況が緊迫しているとき、御霊により頼みますと、自分の知性では理解できない言葉あるいは音が口から出ます。その時私の霊は混乱した思いから解放されて心に平安・安息・喜びが満ちてくるのを感じられます。そのような時、わたしの知性は何をどう祈ってよいのか分からないのですが、聖霊は最適のとりなしの祈りをして下さるのです。ただし互いに異言を語り合うクリスチャンと共にいる時以外には、自分一人の場合が多いです。相手によっては時にわたしの異言がつまづきとなり得るからです。
そして間違えてはいけないのは、クリスチャンであればみな異言を語るべきだとか、異言を語れない者はクリスチャンではないなどということはありません。異言とはあくまでひとつの賜物ですから、ある人はそれを受けており、ある人は受けていないのです。キリストの体には様々な機能が分かち与えられているのです。」
(キングダムフェロシップHPより抜粋) http://www.kingdomfellowship.jp/frame.html
抜粋した記事は、私自身の内に与えられている確信と同じです。そして、私自身も異言で祈ります。
不思議に与えられる神の御手の力によって幾度も支えられ、その御力におおわれ続けてきました。ただお証としてそのとこをお分かちできればと書き込みさせていただいた次第です。
でもそれ以上に、このサイトやブログを通して、あなた様の信仰に触れ、また教えられ感謝しています。
何よりも、イエスを愛する思いにおいて一つであることには何の変わりもなく、むしろ兄弟姉妹として交わる喜びに与りたいとと願っています。
今日もイエスの十字架、死と復活の内にとどまらせて下さり、豊かないのちの内に歩ませてくださるイエスの御霊を仰ぎつつ、祝福を祈ります。
candy
beulah
こんにちは。再びのコメントをありがとうございます。
さて、candyさんのコメントに対する私の見解を記すためには、以下の4つの点を明らかにしなければなりません。
1.そもそも「異言」とはどういう現象なのか
2.コリント人への手紙第1の12章〜14章はどのような位置づけにある箇所か
3.「異言」と集会(教会)とはどのように関わるのか
4.「異言」と個人の信仰生活とはどのように関わるのか
以上の4点です。順を追って、簡潔に述べます。
まず第1点目の「異言」とはどういう現象なのか、ということです。
聖書における「異言」とは「外国語を話す」という現象です。つまり、人がそれまでに習得したことのない外国語を奇跡的に話す、という現象を指します。
使徒の働き10章46節では「彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。」とあります。このことから、「異言」はその語る内容が他の者に理解できたことがわかります。したがってこれは、使徒の働き2章で起こった出来事と同じです。聖霊が降臨した時、信者たちは「いろいろな国ことばで神の大きなみわざを語」(2.11)りました。これが「異言」の具体的な説明です。
2番目の、コリント人への手紙第1の12章〜14章の位置づけについてです。candyさんが引用されたホームページに記されている箇所のすぐ後に、「ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」(14.40)とあります。したがって、この12章〜14章で教えられている聖霊の賜物についての教えは、公けの集会において賜物をどのように用いるべきかという問題についてのことだとわかります。つまり、コリントの集会では公けの集会で賜物の用い方について混乱がありました。未信者の方が来ているのに、信者たちは異言(外国語)で祈っていたのです。そこでパウロは、「適切に、秩序をもって」行うよう勧め、異言を語ることを控えるよう教えました。
3番目に、「異言」と集会(教会)との関わりについてです。2番目に述べましたように、異言は確かに初代教会の信者たちには与えられていた賜物でした。しかし、その時であっても、信者の徳を高めない異言(外国語)は慎むようにと教えられています。まして、「異言」の賜物がやんでしまった現在においては、公けの集会において異言を語るべきではありません。
4番目に、「異言」と個人の信仰生活についてです。このことに関しては、聖書は何も語っていないと思いますので、確定的なことは申し上げられません。しかし、私個人の信仰として、公けの集会において、もはや「やんで」しまっている異言を、個人の信仰生活において用いることはふさわしいことではない、と信じております。
以上、聖書から教えられることと、私の信じていることについて述べました。個人の信仰であっても、聖書の教えに支えられてこそ意味があると思います。「しかし、聖書は何と言っていますか。」(ガラテヤ書4.30)聖書の権威を認めて、その教えに従うことが信仰生活の土台だと信じています。
2005-07-17
■[学び]聖書の「勇士」について
聖書にはいくつかの箇所に「勇士」が登場します。
「勇士たちはみな、立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。」(第1サムエル31.12)
この「勇士」たちは、何の武勲もあげていません。しかし彼らを聖書は「勇士」と呼んでいます。そこで、聖書では「主君を愛して勇敢な働きをした者」を「勇士」と呼ぶことが読み取れます。
この原則は次の箇所にも見られます。
「すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。」(第2サムエル23.16)
この勇士たちは、ダビデが占領されているベツレヘムの井戸の水を飲みたい、と口に漏らした言葉を聞き逃さず、危険をも顧みずにベツレヘムの井戸の水を持って来ました。彼らはベツレヘムを占領しているペリシテ人を倒すこともしませんでした。ある意味では無謀なことをして、井戸の水だけを汲んできました。しかし、聖書は彼らを「勇士」だと呼ぶのです。ここからも、主君への愛によって勇敢に行動する者が勇士だと言えます。
「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。」(第2テモテ2.3〜4)
クリスチャンの一つの称号は「キリスト・イエスの兵士」です。その兵士はこの世のことに重きを置かず、主のための戦いに専念します。その動機は、「徴募した者(=イエス・キリスト)を喜ばせるため」です。クリスチャンが良き兵士として働くためには、主君であるイエス様への愛が動機となることが教えられます。
「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(第2テモテ4.7〜8)
パウロは自分の人生を振り返って、自分は「勇敢に戦」った、と述べています。その報いとして「義の栄冠」が彼には約束されています。しかし、「主の現れを慕っている者」にも同じ栄冠が与えられる、と述べています。従って、彼の勇敢に戦った人生の動機もやはり、主への愛、によるものだと分かります。
しかし、これに続く箇所では、信仰の歩みをやめてしまったデマスのことが記されています。彼は「今の世を愛し」(10節)てしまった、と書かれています。デマスは主イエス・キリストではなく、世を愛してしまったために、勇士にはなれませんでした。
主の勇士として歩むために、イエス様への愛をさらにもち続けたい、と教えられます。
2005-07-16
■[学び]使徒の働き1章の学び
今日から「使徒の働き」の学びに入りました。
「使徒の働き」全般について、3つのことを覚えます。
1.「使徒の働き」の区分について
「使徒の働き」は1章8節が全体の区分を表しています。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
これに従うと、(1)エルサレムでの働き(1〜7章)、(2)ユダヤとサマリヤ全土での働き(8〜12章)、(3)地の果てにまでの働き(13〜28章)ということになります。
さらに、(1)パートでは主にペテロが、(2)パートでは特にピリポが、(3)パートでは特にパウロが、それぞれ活躍します。しかし、全体としては聖霊ご自身が働いていると言えます。
2.「神のみことば」について
「使徒の働き」には神のみことばの広がりについて3カ所言及されています。
- 「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。」(6.7)
- 「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。」(12.24)
- 「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」(19.20)
これらは、使徒たちの働きによることはもちろんですが、それぞれの箇所の直前には集会が健全に建て上げられることの記事が記されています。従って、集会が健全であることによって、みことばがますます広がっていくことが分かります。
3.教会(集会)の発展について
「使徒の働き」には教会(集会)の発展について言及されています。
- 「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(2.47)
- 「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり築き上げられて平安を保ち、主を恐れかしこみ、聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」(9.31)
- 「諸教会」(15.41)、(16.5)
最初の2章47節は、「仲間」と訳されている箇所はKJVでは「church」となっています。この箇所が、地上で「church」と言われるものが出現した最初です。
ただし、原語では「教会(教える会合)」という意味合いは全くなく、「信じた者たちの集まり」という意味を表す語が使われています。従って、正確には「集会」などと訳すべきでしょう。
これらの箇所も、使徒たちの働きによって、集会が大いに発展していった経過が読み取れます。
さて、「使徒の働き」1章は3つの部分に分けられます。それらからいくつかを覚えます。
1番目は、この「使徒の働き」はたった一人の人のために書かれた、ということです。筆者はルカです。彼はテオピロという人物に宛てて、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書きました。この2書は章数で言えば新約聖書の5分の1になります。これだけの紙数を費やしていることから、いかに一人の人が信仰に導かれ、健全な歩みをすることが尊いことかが分かります。
2番目は、人を導くものについてです。1章ではイエス様の昇天が描かれます。そして2章では聖霊降臨の場面が続きます。しかし、その間に10日間ほどの期間が存在します。その期間はイエス様も聖霊も地上におられない時間です。それでも、人を導くものは聖書のみことばです。使徒たちは、ユダの欠員を埋めるようとしました。ペテロがそのように導かれたのは旧約聖書のみことばによります。どんな時代であっても、人を導くものは聖書のみことばです。
2005-07-10
■[福音]私たちが救われる過程について
サムエル第一25章には、後にダビデの妻となったアビガイルと、その前の夫であるナバルの記事が記されています。このナバルとアビガイルは、私たちが救われることになった過程についていろいろと教えてくれます。その中から3点を考えます。
1.ナバルの愚かさについて
この人の名はナバルといい、彼の妻の名はアビガイルといった。この女は聡明で美人であったが、夫は頑迷で行状が悪かった。彼はカレブ人であった。(Iサムエル25,3)
ナバルは全く愚かな人物として聖書は証言しています。彼のどんな点が愚かだったのでしょうか。その第一のことは、彼がダビデを軽蔑したことにあります。
ナバルは大変裕福な人でした。多くの家畜を飼い、この場面では羊の毛の刈り取りの祝いをしていました。実は彼がこの富を満喫できたのは、ダビデたちが彼の家畜を守っていてくれたからでした。それなのにナバルはそのことを知らなかったばかりか、ナバルの所にやってきたダビデの使者たちに対して、「ダビデとは、いったい何者だ。エッサイの子とは、いったい何者だ。」と言って、ダビデを軽蔑しました。自分の財産を守ってくれた恩人を認めず、しかも軽蔑するとは、なんと愚かでしょうか。
しかし、これは多くの人々のしていることと同じです。人々も、自分のいのちが誰によって支えられているか知りません。神様が日々私たちのいのちを守っていてくださるというのに、私たちはその神様を知ろうともしません。しかも、その御子であられるイエス様について、「イエスとは、いったい何者だ。」と軽蔑しているのです。
2.アビガイルの賢明さについて
彼女はダビデの足もとにひれ伏して言った。「ご主人さま。あの罪は私にあるのです。どうか、このはしためが、あなたにじかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばを聞いてください。」(25.24)
アビガイルのもとに若者のひとりが来て、ナバルの言ったこととダビデがナバルを滅ぼそうとしていることを告げました。これは、私たちが神様から離れて危険な状態にあることを警告する聖霊の働きを示していると思います。
さて、アビガイルの賢さはその対応にあります。彼女は警告を受けると「急いで」行動を起こしました。彼女は躊躇などしませんでした。すぐにダビデの所に行き、そして彼に謝罪と取りなしを願うのです。
この時、アビガイルの言った「あの罪は私にあるのです」という言葉は尊いものです。人は自分の罪を認めたがりません。すぐに他人のせいにします。よく聞く言葉に「原罪」というのがあります。アダムが罪を犯したので、全ての人は罪人となったということです。これは確かな真理なのですが、ただ、この「原罪」という言葉を振りかざす人々には、「アダムが罪を犯したのであって、自分の責任ではない」という考えがあるように思います。しかし、そうではありません。確かに、アダムが罪を犯したために、全ての人には罪を犯す性質が受け継がれました。しかし、あなた自身が実際に罪を犯して、神様の前に罪人となっているのです。あなたの罪はあなた自身の責任です。それを言い逃れすることはできません。
アビガイルは夫ナバルの罪を自分の罪としました。これは大変幸いな判断だったと思います。私たちも自分の罪を素直に認めることにより、初めて悔い改めに導かれます。
3.アビガイルとダビデの結婚
この後、ナバルは神様に打たれて死に、残されたアビガイルはダビデの求婚を受け入れて、彼の妻となります。
女性が再婚する時、もしも前の夫が生きているのに再婚をしたら、それは姦淫の罪です。しかし、夫が死んだならば、その女性が再婚をしても何の問題もありません。以前の結婚の契約は夫の死とともに解消されたからです。この事実は、人が救われる時に起こることをよく表しています。
人がイエスさまを救い主と信じて受け入れる時、その人は罪に対して死んだことになります。イエス様が十字架にかかって死なれたように、その人もイエス様とともに死に、罪に対して死にました。したがって、罪の奴隷であった身分から解放されたのです。
そしてその人は今度はイエス様とともに新しい歩みに入ります。イエス様が墓を打ち破ってよみがえられたように、その人もイエス様とともによみがえり、イエス様と結び会わされて新しいいのちを生きるのです。
私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(ローマ人への手紙7.4)
アビガイルがダビデと結婚したことは、私たちが信じ救われて、新しいいのちを生きることになったことをよく表しています。クリスチャンは真に幸いな伴侶を得て、新しい歩みをする者です。
2005-07-09
■[学び]マタイの福音書28章の学び
今日はいよいよ、マタイ伝の最後、28章を学びました。
28章はイエス様の復活の記事が記されています。その復活の記事から、以下の3つのことを考えます。
- イエス様の復活を否定する3つの説
- イエス様の復活の、クリスチャンにとっての意味
- 復活されたイエス様の、クリスチャンへの命令
1.イエス様の復活を否定する3つの説
私の知っている限りでは、イエス様の復活を否定する説は3つあります。
1つ目は、マタイ28章に記されている「弟子たちがイエス様の死体を盗んでいった」というものです。しかし、これはあり得ません。イエス様の墓には強固な封印が施されていました。また、番兵たちが墓の番をしていました。よって、弟子たちが墓の中に入り込むことはできません。後でその番兵たちは祭司長たちから金をもらって、自らの不忠実な仕事ぶりを証言することになるのですが、考えてみると滑稽なことです。
2つ目は、「イエス様は十字架上で仮死状態に陥っただけである」というものです。しかし、これもあり得ません。仮にそうだとしても墓の封印を解くことはできません。また、十字架上のイエス様に対して、兵士たちが死んだことを確認しようとして脇腹を槍で突き刺しています。これでは仮死状態に陥る余地はありません。
3つ目は、「死んだのはイエス様によく似た兄弟か、別人である」というものです。もちろん、これもあり得ません。イエス様によく似た人物の存在など、聖書はもちろん、当時のどんな資料を見ても記されていません。人間は、イエス様の復活をよほど認めたくないのでしょう。とんでもない説を考えつくものです。
私たちは自分で見てはいない事実を確認するためには、それを見た人の証言を聞いて判断します。イエス様の復活は、多くの人々の証言によって今日に伝えられているものです。それは疑いようのない事実です。
2.イエス様の復活の、クリスチャンにとっての意味
イエス様の復活は単なる「事実」だけにとどまりません。クリスチャンにとっては、自分の信仰の根元です。
私が天地創造を信じることができるのは何故でしょうか? 自分は救われていると確信できるのは何故でしょうか? イエス様に頼る生涯に間違いはないと信頼できるのは何故でしょうか? 全て、イエス様の復活が根元にあります。イエス様はご自分のみことばの通り復活されたのです。ですから、その復活を告げる聖書のみことばの全てが真実であると断言できます。また、そのイエス様が約束されたことですから、私の救いは確実です。また、死を打ち破った御方が私の主ですから、私の主への信頼は盤石です。全ての根元はこのイエス様の復活にあるのです。
3.復活されたイエス様の、クリスチャンへの命令
そのイエス様は復活された後に、弟子たちにこう命じられました。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28.18〜20)
ここに、クリスチャンへの命令が記されています。クリスチャンは世の人々の所に「行って」福音を宣べ伝えなければなりません。そして、人々をキリストの弟子とする必要があります。それは大変な仕事です。私にできることでしょうか? 尻込みしてしまいます。
しかし、実は恐れる必要はありません。私が福音を宣べ伝えれば、人々はキリストの弟子となるのです。何故ならば、イエス様はいっさいの権威を持っておられる方だからです。人々がキリストの弟子となるのはイエス様の権威によります。私の語り方の善し悪しにはよりません。人が救われるのはイエス様の力によるのです。ただ、その人の所へ福音を持って行く必要があります。それが私のなすべきことです。
クリスチャンには大変な力が与えられています。と言うよりも、クリスチャンはイエス様の権威を帯びた、全権大使なのです。クリスチャンの素晴らしい立場を教えられます。
2005-07-02
■[学び]マタイの福音書27章後半の学び
今日は、マタイの福音書27章の32節から66節までを覚えました。ここには、イエス様の十字架の場面がマタイ独特の観点から語られています。
イエス様の十字架というのは、いくつかの点で他の十字架刑とは異なる、超自然的なものでした。以下の3点について覚えましょう。
1.イエス様の十字架が異常に短い時間で終わったこと
十字架刑は人間の手足を釘で打ち付けて十字架上にぶら下げ、不自然な姿勢をとらせ続けることによって、苦しみを長引かせながら死に至らしめる、という刑です。人類史上、最もむごい死刑の方法だと言われているものです。したがって、十字架に架けられた人間は長い間苦しんで死ぬのが通常でした。一般的(少しおかしな表現)には死ぬまでに数日かかるものでした。そこで、イエス様の時には、翌日がユダヤ人の過ぎ越しの祭りに当たっていたため、罪人を十字架上に残しておかないようにするために、他の二人は足の骨を折って、早めに死ぬように処置がとられました。しかし、その時、イエス様はすでに死んでおられたのです。イエス様の十字架は午前9時頃から始まり、午後3時頃までの6時間の出来事でした。これは際だって短い時間でした。それはすなわち、イエス様の苦しみが尋常のものではなかったことをよく物語っています。
2.イエス様の十字架の後半3時間は超自然現象の連続だったこと
イエス様の十字架の記事は4つの福音書の全てに記されています。その4つ全てが、イエス様の十字架の6時間を2つの部分に明確に分けて描写しています。
前半の3時間は、人間がイエス様を苦しめた時間です。マタイ27章には、「道を行く人々」「祭司長、律法学者、長老たち」「いっしょに十字架につけられた強盗ども」の3種類の人々がイエス様を嘲笑した言葉が記されています。イエス様はローマ兵士によって十字架に釘付けにされ、さらに人々から罵声、嘲笑を受け続けられました。この前半3時間は、人がイエス様を苦しめた、と言えるでしょう。
しかし、後半の3時間は明白に異なります。それは次のようにして始まりました。
「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。」(マタイ27.45)
前半と後半とを分ける明確な区別は、「全地が暗くなった」という超自然現象です。ルカの福音書には「太陽は光を失っていた。」と記されています。私は、この3時間はまるで夜のようになったのだろうと想像しています。ちょうど皆既日食のようです。しかし、皆既日食はせいぜい20分くらいで終わるものですが、この時は3時間も続いたのです。太陽が中空にあるというのに、それは光を失ったのです。
ところで、なぜ太陽は上るのでしょうか? そんなことは当たり前だと思われますか。しかし、イエス様は、それは神様の私たち人間に対する恵みの故だ、と教えてくださいました。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5.45)
太陽が上るのは当たり前のことではありません。それは神様が私たちを愛し、恵みを施そうと考えてくださったからです。太陽が昨日と同じように今朝上ってきたということは、神様が私たち一人一人を今日もこよなく愛してくださったからに他なりません。太陽の光は、神様の愛によってもたらされたものなのです。
ということを前提にすれば、イエス様の十字架の後半で太陽が光を失ったのは、神様が愛をお注ぎにはならなかったこと、すなわち、神様ご自身がイエス様を苦しめられた時間であったことを知ることができます。
何故でしょうか。イエス様は神の御子です。神様に最も愛されたお方であり、またご自身も神様に忠実に仕え続けられた御方です。全く罪のない、完全なお方です。聖書は、「罪の支払う報酬は死です。」と教え、私たちが死ぬのは自分の罪によることを示しています。しかし、イエス様は全く罪のない御方でした。それなのに何故神様から苦しめられ、想像を絶する苦しみを受けられて、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という悲痛な叫びを上げられました。いったい何故でしょうか。これを合理的に説明する方法はただ一つ、イエス様はご自身の罪の故ではなく、他の人の罪を背負って、身代わりに死の裁きを受けてくださった、ということです。その「他の人」とは、私たち一人一人のことです。
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53.5)
イエス様が十字架にかかられたのは、他でもない、あなたがご自身の罪を認めて、イエス様を救い主と信じ受け入れて、救いを得るためです。
3.イエス様の十字架の後で、多くのものが開かれたこと
イエス様の十字架の前半3時間では、全ての人々が心を閉ざしました。しかし、イエス様が十字架の御業を完成された後、様々なものが開かれました。
- 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けました
- 地震が起き、岩が裂けました
- 墓が開いて、聖徒たちの多くがよみがえりました
- 異邦人で、死刑執行の責任者である百人隊長の心が開かれました
- 弟子であることを人々に隠していたアリマタヤのヨセフの勇気が開かれました
これがイエス様の十字架の力です。イエス様の十字架は多くのものを開き、また、信じる全ての者に対して門戸を開いておられるのです。
2005-06-28
■[学び]エゼキエル書34章の学び
この箇所では、エゼキエルに示されたイスラエルの指導者たちへの言葉が記されています。その中でエゼキエルは、彼ら指導者たちを「偽りの羊飼い」として描き、彼らへの裁きを語ります。と同時に、神様が「真の羊飼い」となられて、イスラエルの民を集め、導き、養うことが示されています。
ここから、真の羊飼いであられるイエス様の働きの、もう一つの側面を覚えることができます。
イエス様はこう言われました。
「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネの福音書10.11)
これは、羊飼いであられるイエス様の一つの側面を強調しています。それは、私たち罪人のためにイエス様ご自身が命を捨ててくださる、ということです。
イエス様がこのようにして私たちの身代わりに死んでくださいましたから、私たちは滅びから救い出されました。しかし、救い出された私たちはその後どうなるのでしょうか? その場に放り出されて、後は勝手にせよ、と言われているのでしょうか。
そうではなく、さらに私たちはイエス様によって集められ、養われるのだということが、エゼキエル書から見て取れます。
「まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。」(エゼキエル34.11〜12)
エゼキエル書34章に、「わたしの羊」という表現が10回、「わたしの群れ」という表現が3回繰り返されているのは大変に象徴的です。神様はそれほどにイスラエルの民を愛し、そして偽りの羊飼いである指導者によって散らされてしまった人々を神様ご自身が集め、養い、平安を与え、導かれます。それは、イエス様の私たちクリスチャンに対する御働きの姿でもあります。
私たちはイエス様によって滅びから救い出され、そしてイエス様によって今も養われている者なのです。イエス様をますますよく覚えるべき必要を知らされます。
2005-06-26
■[福音]真の知恵
箴言1章7節
「主を恐れることは知識の初めである。」
これは、聖書における「賢さ」の原則です。人間は様々な賢さを求めます。学校での成績、「賢い消費者になること」など…。しかし、真の賢さは、神様の御心を知り、神様を恐れることです。
初代のイスラエルの王サウルは、ペリシテ人と戦って劣勢になった時、民が恐れて離れていこうとし、また来るはずのサムエルの到着が遅れたのを理由に、自ら神様に全焼のいけにえを捧げてしまいました。その彼に対してサムエルは「あなたは愚かなことをしたものだ。」(第1サムエル13.13)と言いました。サウルは、全焼のいけにえを捧げさえすればよい、と考えたのかもしれません。しかしそれは、彼の身勝手な考えでした。いけにえを捧げるには神様の定めた方法に従わなければなりませんでした。すなわち、神様が立てられた祭司を通さなければならなかったのです。
ここに、人間の陥りやすい愚かさの典型的な姿を見ることができます。人間は自らの価値ある何ものかを示すことによって神様に近づこうとします。例えば捧げものや、修行することや、悟りを開こうとすることなどです。しかし、神様にとってそれらのものは何の価値もありません。人間には価値あるものであっても、神様にも価値があるとは限りません。神様の価値の基準は別の所にあります。
それでは、何によって神様に近づくのか? それは、神様ご自身が用意された方法を人間が受け入れて、それに従うことです。神様が用意された方法とは何か? それはイエス様がはっきりこう言っておられます。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネの福音書14.6)
神様が備えられた道はただ一つ、イエス・キリストを救い主として認め、受け入れることだけです。
2005-06-25
■[学び]マタイの福音書27章1〜31節
この箇所では、イエス様の5回の裁判のうち、2回の場面が描かれます。3回目である議会での裁判と、5回目であるピラトによる裁判です。しかし、マタイでは、議会での裁判の様子よりも、その外で行われていた、イスカリオテのユダの記事の方が表立って描かれています。
ここでは、人間の闇の部分がよく描かれています。ユダは自らの罪を悔いました。しかし彼は、その解決を自分で責任を負おうとしたのです。人間は自分の罪に責任を自ら負うことはできません。彼は間違った道を選んでしまいました。
また、指導者たちの限界も描かれています。ユダヤの祭司長、指導者たちは、ユダがイエス様を売ろうと相談を持ちかけたときは喜んで話に乗ったというのに、彼が罪を後悔して相談しにくると、「我々の知ったことか。自分で始末することだ。」と、自分たちは責任を負おうとはしません。またピラトも、イエス様に何の罪もないことを認めていながらも、民を穏便に治めるために、「この義人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と、これまた責任をとろうとはしません。これが、人間の指導者の限界です。
しかし、主イエス様は違います。イエス様は「あなたは神の子、キリストか。」と尋ねられた時だけ、「そのとおりです。」とお答えになり、それ以外には何一つ弁明をされませんでした。そして、罪のない、正しい方であるのに、私たちの罪の責任をご自身が背負って、十字架に進んでくださいました。イエス様こそ、真に責任を全うされる、真実の救い主です。
2005-06-21
■[学び]エゼキエル書33章
エゼキエル書33章を学びました。
エゼキエル書は33章からイスラエルの復興の預言が始まります。しかし、33章にはエゼキエルが再び預言者として再任命されたことと、エルサレムが崩壊した直後のイスラエルの民への警告が語られます。
その中で神様は、「正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことができない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。」と語られました。つまり、その人を救うのはその人自身の正しさによるのではなく、その人が悔い改めるかどうかだけにかかっている、ということです。
私はこれを、イスラエルが復興するための条件を示していると思います。イスラエルは将来、たしかに復興します。しかし、それは自分たちの正しさや行いによるのではありません。あくまでそれは、彼らが自分たちの罪を認め、それを悔い改めて神様に立ち返るときに起こることです。復興には行いではなく悔い改めが必要なのです。
今日は、そのようなことを教えられました。
2005-06-19
■マタイの福音書26章
昨日、マタイの福音書26章の後半部分についての学び会がありました。
26章は、最後の晩餐の場面、イエス様がゲッセマネの園において神様に祈る場面、イエス様の逮捕の場面、裁判の場面、そして、ペテロの否認の場面が記されています。今回は、ゲッセマネからペテロの否認まででした。
この箇所でイエス様は、ご自分が逮捕される理由を2回、述べておられます。1つは弟子たちに対して、もう1つは群衆に対してです。その答えは、「聖書が実現するために」というものでした。
イエス様はゲッセマネにおいて神様に祈られました。その時、イエス様は「わたしの願うようにではなく、みこころのように、なさってください。」と祈られたのです。イエス様はご自分の願いではなく、神様の御心を優先されました。そして、その御心に従っていくことを示されました。
それが実際に人々に対して表明されたのが、先の「聖書が実現するために」というみことばです。神様の御心は聖書の中に表されています。従って、イエス様は神様の御心に従われることを、聖書を実現するというみことばによって表明された、と言えます。