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マラカスがもし喋ったら

2017-04-29

[] 橋爪大三郎大澤真幸「ふしぎなキリスト教」 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

近代=西洋的な社会

キリスト教 ローマ中心西側 カトリック 東側 正教会(オーソドクシー)

西洋=キリスト教型の文明

現代は近代を相対化しなくてはならない時代。

 

第一部 一神教を理解する ー起源としてのユダヤ教

ユダヤ教→キリスト教=ほとんど同じ。

→イスラム教

ユダヤ教を内包する 否定的なものとして肯定する

たった一つだけ違う点→イエス・キリストがいるかどうか。

2017-04-12

[]山本理顕「権力の空間/空間の権力 個人と国家の〈あいだ〉を設計せよ」 (講談社選書メチエ)

目次

はじめに

第一章 「閾(しきい)」という空間概念

 1 "no man's land"とは何か?

 2 ポリスの空間構造、そして「閾」という空間概念

 3 集落調査I──外面の現れ(appearance)

 4 集落調査II──「閾」のある家

第二章 労働者住宅

 1 アルバート

 2 労働者住宅の実験──親密なるもの

 3 隔離される住宅

 4 共同体的居住システム

 5 "物化"という概念

第三章 「世界」という空間を餌食にする「社会」という空間

 1 労働は労苦なのか生きがいなのか

 2 仕事の世界性

 3 世界から社会へ

 4 鳥のように自由な労働者

 5 社会はどのように管理されるのか

第四章 標準化=官僚制的管理空間

 1 一円入札

 2 権力は下から来る

 3 官僚制的統治は空間的統治である

 4 標準的空間

 5 標準化という美学

 6 「1住宅=1家族」システム

 7 搾取されているのは労働力ではない

第五章 「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」

 1 「性現象」のための住宅

 2 模範農場で卵を産む鶏

 3 世界を共有しているという感覚

 4 住民参加による建築の設計、そして反対派

 5 コミュニティという政治空間

 6 選挙専制主義に対する評議会という権力

 7 「地域社会圏」という考え方

あとがき

 

はじめに

 住宅は私的空間である。私たちはその私的空間の中に住んでいる。その私的空間は家族だけの親密な空間である。誰であっても、たとえ公権力であったとしても、その親密な空間を侵すことはできない。その私的空間を私たちは「プライバシー」と呼んでいる。プライバシーとは自由である。私的空間の中の自由である。だから私たちはその自由のために膨大な金額を支払うのである。話たちの一生で手にする収益の大半をそのために費やす。その自由な空間は金銭によって購入されなくてはならないのである。その金銭を支払うことができない人は自由のための安定した空間を手に入れることができないのである。

 自由は私的空間の中にある。そして、その外側はインフラ(ストラクチャー)という網の目で覆われた都市空間である。その網の目は公権力によってつくられる。そして不断に管理されている。公権力とは官僚制的権力である。そのインフラは端末まで緻密に計算された官僚機構によって管理されているのである。交通インフラであり、流通インフラであり、情報インフラであり、エネルギー・インフラである。治水、治山そして防災のためのインフラであり、防犯のためのインフラである。その他、その他、その他のインフラである。そしてすべての公共施設はこのインフラの端末である。インフラは常に増殖する。あるいは新たなインフラがつけ加えられる。そしてそのインフラは官僚機構による行政システムに則って慎重に切り分けられ、それぞれのインフラごとに分割統治されるのである。その分割統治された空間が公的空間である。

 住宅は私的空間である。都市は官僚制的に統治された公的空間である。そしてその私的空間と公的空間とは厳密に区画されている。その区画された両者は、相互に他の一方を排斥するように働くのである。公的空間を管理するその管理機構は私的空間には関与しない。私的空間のその内部には介入しない。私的空間の自由は公権力によって極めて注意深く”保護”されているのである。一方の私的空間の自由は公的空間には何の影響をも与えない。自由は私的空間の中においてのみ自由なのである。つまり自由は私的空間の中に閉じ込められる。その自由を閉じ込めるように設計された空間が住宅という空間である。実際、プライバシー(privacy)とはもともと隔離され閉じ込められた状態を意味していたのである。

 こうして官僚制的に配置され統制された空間を当然のように私たちは受け入れているのである。こうした隔離されたような住宅に住むことで私たちは十分に満足なのだろうか。このように官僚制的に統治された都市空間に住むことは快適なのだろうか。なぜ私たちはそれを受け入れるのか。それは建築空間のつくられ方と大きく関係しているのである。

 

 その空間配置の内側に住んでいる私たちはそれが管理された空間であるということに気がつかない。現に空間の内側に住んでいる私たちからは、その空間が無意識化されるのである。なぜなら空間はただ機能的に配置されているに過ぎないと私たちは思っているからである。空間は機能的につくられていると私たちが信じているからである。建築は機能的につくられる。機能的と言う意味は<役に立つ>という意味である。役に立つということは、私たちの要請に基づいて、その要請に忠実に応えるようにつくられるということである。建築は社会的要請に基づいてつくられる。その要請は必ず何らかの目的をもっている。その目的を実現するために建築という手段があるわけである。建築は目的のための手段である。その手段をつくる、それが建築家の役割である。目的の実現のための手段として、その要請に忠実に従うことがいかにも”機能的”であるかのように、今、考えられているのではないかと思う。その機能的につくられた建築空間に私たちが注意を払うことはない。

 

 建築がこうした考え方によってつくられるようになったのはつい最近である。一九世紀後半あるいは二〇世紀に入ってからである。それまでの建築はそれ自身が目的だった。その外見(appearance)をいかに美しくするかということが目的だったのである。その外見の美の作法を"様式"と呼んだ。建築家は過去の建築様式に精通しそれを美の基準にしたのである。それは地域社会、周辺環境との関係において美しい建築だったのである。

 その様式を否定して機能だと言った。様式という外見の美しさを否定して機能こそ重要だと言ったのである。過去の様式から解放された建築はその周辺環境との関係からも解放されたのである。周辺環境から自由になった。それが近代建築運動の始まりだった。二〇世紀の建築家たちはその発端から痛恨と言っていい過ちを犯したのである。

 それがいかに決定的な過ちであったか、それを厳しく批判したのはハンナ・アレント(1906-75)である。機能的につくられる建築はその建築によって建築家自らを抹殺し、そしてそのような建築によってつくられる社会は徹底的に均一化される。地域社会を破壊する。それがいかに危険なことか。でもその均一化された社会に生きるわれわれにはその危険の意味がわからない。

 社会的要請に従って建築があるわけではない。社会的要請が建築として実現することによって、いかにもそれが社会的要請であるかのように見えるのである。建築として実現される(されてしまう)ことによって、いかにもその要請(命令)に客観性があるかのように見えるのである。その要請が仮に単なる私的な要請(命令)でしかなかったとしても、それが建築として実現してしまうと、その命令が社会的要請であるかのように見える。客観性があるかのように見えるのである。建築のこうした在り方をハンナ・アレントは”物化(materialization)”と言った。社会的要請(命令)が建築のような"物"になる。それが"物化"である。"物化"が要請(命令)の手段になることによって、「要請(命令)」と「その要請(命令)に従って(服従して)つくられる建築」との関係ができあがる。それこそがその社会的要請(命令)に客観性を与えるのだとアレントは言う。"物化"は支配の理論の根本なのである。

 

 手段になってしまったその建築について、抹殺された建築家について、そして破壊された地域社会について、均一化された社会について話をしたいと思う。建築に即して話をしたいと思う。

 建築空間は単なる手段ではない。単に社会的要請という命令に従ってつくられる空間ではない。そこに住む人々の意思、地域社会の人々の意思、それをつくろうとする者たちの意思によってつくられなければならないのである。

 

第一章 「閾」という空間概念

no man's land=閾

実は都市に対して自らを閉鎖してはならなかった。

ネメイン=境界 配分する 所有する 住むという意味

法(ノモス)の語源

ポリス=人口都市

→配分された家に住む

no man's land(between the private and the public)

空間そのものが境界

境界の空間

門→中庭→中庭に面したアンドロン

中庭を囲む空間全体が「アンドロニティス」という空間

private 欠如しているという意 →女、奴隷

(都市の)政治的自由に参加できる人。

閾=敷井(空間的な広がりをもった敷井)

極めて建築的な概念である。「閾」はそこに住む人たちを”結びつけると同時に分け隔てる”ための建築的装置である。

「建築と都市の関係を考えよ」

アレント国家論「人は自然において平等ではなかった。そこで人為的な制度たる法すなわち法律(ノモス)によって人びとを平等にする都市国家を必要としたのであった。平等は、人びとが互いに私人としてではなく市民として会うこの特殊に政治的な領域のみに存在した。」

>>コールハース ジェネリック・シティを読まねばならぬ<<

ヒッポダモス グリッドプラン 平等な市民

アゴラー公共広場=自由に議論する場 ストアに囲まれていた

古代ローマの公衆浴場 テルマ

ポリスは社会主義 皆同じ面積

「政治現象としての自由は、ギリシアの都市国家の出現と時を同じくして生まれた。…それは、市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配(no-rule)関係のもとに集団生活を送っているような政治組織の一形態を意味していた。この無支配という観念はイソノミアという言葉によって表現された。」

イソノミアはこの都市構造そのもの。

「こうした具体的な建築計画が政治的自由と深く関係していることを古代ギリシアの人びとは良く理解していたのである。アレントが強調するのは、そうした感性が近代社会に住む私たちにいかに欠けているか、ということである。」

「私たちの住む都市空間、建築空間は政治的自由をむしろ拘束するように働いている。ポリスとは逆方向の政治性である。「近代社会」の内側にいる私たちは、その政治性を認識することができない。建築空間を「機能」としてしか見ようとしない。それが私たちが住んでいる「近代社会」の最大の特徴である」

原広司ー藤井明、集落調査

「上の町から見下ろすエーゲ海は夢のように美しい」サントリーニ ギリシア

シバーム イエメン 古代摩天楼

際立つ”外面の現われ”

強い形、美しい形。

「それはそこに住む人たちの意思である。その強い形はこの場所に住み続けるという非常に強い意思表明なのである。」

→建築化された記憶装置だから。

集落は一つの「世界」である。

polis=輪状の壁

 

第二章 労働者住宅

1851 ロンドン万博

ヘンリー・ロバーツ・アルバート館 世界初の住宅展示場

平面計画と動線計画

「労働者」の登場

抽象化された人々のための建築

「労働者住宅に関わることは建築家の名誉を傷つけるものであった。」

当時、住宅問題がいかに深刻か、

「あるべき生活像」

閉じたパッケージ

「いわば、古代ギリシアの「ギュナイコニティス」(女の領域)での生活だけが切り取られて一つのパッケージになったような建築である。その外側と交流するための「アンドロニティス」(男の領域)のような場所はない。」

「ハンナ・アレントはそうした消費的生活を「人間の消費的生命過程」と呼んだ。生命の維持、健康の維持、生殖という人間の生命過程のみが切り取られ、囲い込まれ、それが持続的に繰り返されるような生活が「消費的生命過程」である。消費的生命過程のためのパッケージがつまり、「労働者住宅」である。「閾」を持たない「家」である。」

家族は共同体内共同体。

>>秋葉原事件、捏造された家族、恋愛<<

>>公的領域 私的領域 街にふらっと<<

「その時代に公的領域が非人格的な管理のための空間に変質した。」

「「家」がプライバシー(隔離)のための生命と労働力の再生過程における単なる機能に融解」

>>「家」と「職場」。現代は職場と学校がパブリックな空間。<<

「外側の管理空間から逃避し閉じこもり自らを守るための空間」

「完全に私的(private)な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」(deprived)ということを意味する」とアレントは言う。何が奪われているかというと「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われている」のである。「他人を見聞きすることを奪われ、他人から見聞きされることを奪われる」ということは、自分自身がその周りの人々(他者)と共にいるという実感(リアリティ)が奪われているということである。」

「今の私たちは、私たちの私生活が「なにものかを奪われている」状態であるとは全く思っていない。」

「見られない、聞かれない」ことはむしろ自分たちの権利だと思っている。

→キリスト教の隣人愛が「世界」を否定しているから。 キリスト教→人間を均一化

>>街は、生活は、連携プレー。集団芸術。最上の演劇。<<

>>「そんなもんでいいだろ」自分で自分を疎外している<<

「労働者たちはその労働者住宅に住むことによって、一方で均一な管理社会の住人に、一方で親密な私生活の住人になったのである。」

二月革命を目の当たりにした産業資本家たちは建築空間の政治性を見抜いたのである。労働者を集まらせてはならない。労働者たちが集まる空間を作ってはならない。労働者たちが共にいる時間を作ってはならない。それが労働者都市の住宅計画であった。」

アレントの言うキリスト教的世界観が、具体的に住宅として「物化」された。

エンゲルス 労働者問題 劣悪 →労働者住宅は夢の住宅

ミュルーズの労働者住宅

中野隆生「プラーグ街の住民たち」イラスト

捺染業、織布業などの機械制工場生産

人口2000人 フランスで最初の大規模労働都市

設計者 エミール・ミュレール

いずれのプラン(3種)でも、その住戸へのアクセスはできるだけ重ならないこと、相互に干渉し合わないように配慮されている。

「人びとのあいだに自ずと形成される結び付きを警戒して、民衆の「悪習」をただし、道徳的「頽廃」を阻止する意図が、単一家族向け住宅、直線的配置、広い菜園や庭、狭い道を避けて多用された広い道路、集合の機会をできるだけ制約する共同施設の構造と運営方式、用地全体に広がってバラバラに掘られた井戸といった設計、建設の方針につながっていた」

「それは産業資本家の強い意思である。そこで働く労働者たちをいかに管理するか、それが目的だったからである。管理とは、そこに住む労働者たちを標準化・均一化させることである。そのための管理である。ばらつきのない優れた製品を生産するためには個々の労働者の能力のばらつきをできるだけ標準化・均一化することが必要だったのである。」

分業→入れ替え可能

分業と協業は違う

「二月革命がきっかけだった」

「このような「労働の集団的性格」は…個別性やアイデンティティの意識をことごとく本当に棄て去るように要求する」

「ここでは働く個々の人たちの個性や卓越性はむしろ撹乱要因なのである」

「つまり、ミュルーズの労働者都市は均一化された「労働力」を確保するために計画されたのである。労働者の「個別性やアイデンティティの意識をことごとく本当に棄て去る」ように、そうさせるように労働者都市全体が計画されたのである。労働者の品質管理(人格管理)のためである。こうした計画の中で生み出された住宅が「労働者住宅」である。「1住宅=1家族」の徹底、そしてその相互隔離とそれぞれの住人の均一化である。」

「この労働者たちの徹底した相互隔離の原因の一つはパリの二月革命にあった。「1848年の革命をきっかけに問題の切実さが意識されるようになり、第二帝政下に労働者住宅建設にたいする政府の補助金がつくられると、工業都市を中心にして建設の動きが全国に少しずつ拡大していった」のである。つまり、二月革命を一つの大きなきっかけとして労働者住宅がどのように供給されるべきか、それが強く意識されるようになっていったのである。革命という極めて政治性の高い出来事が、住宅という建築空間に強いインパクトを与えたのである。つまり、住宅はその発端から政治的意図を持った空間だったのである。」

「二月革命を目の当たりにした産業資本家たちは建築空間の政治性を見抜いたのである。労働者を集まらせてはならない。労働者たちが集まる空間を作ってはならない。労働者たちが共にいる時間を作ってはならない。それが労働者都市の住宅計画であった。」

二月革命=「改革宴会」を禁じられた民衆の蜂起

トクヴィル「フランス二月革命の日々」挿絵

社会主義=様々な不平等の是正

二月革命は産業資本家にとって「恐るべき思い出」

 

このような形態に対向する計画 共同体的に住むような住み方

シャルル・フーリエ ファランステール

ファランジュ=「共同社会」

男810 女810

「集会場、パレード広場、情念取引所などによって住民間の相互交流が促され、畜舎、納屋などの農業施設、手工業の作業場、あるいは図書館、教会、劇場、等々を通じて多様な共同活動が保証される」

情念=引力

マルクス→「人間を労働から解放する」

フーリエ→「労働は調和の美学」

「この風景は魔法にかけられている。それは桃源郷でありオリュンポスの神々の住まいだ。」

ファランジュというソシエテ。その中で労働する姿それ自体が美しい。

実現。ギースの集合住宅。オワーズ川のほとり。ファミリステール

ジャン=バティスト・ゴダン(1817-88)

鋳鉄製ストーブをつくる会

 

ミュルーズ 均質性 / ファミリステール 中心性(中庭)お祭りのための場所 1階には商店

「風呂・洗濯室・プール棟」(温水を効率よく使うため)

保育園・幼稚園・学校・劇場

社会主義の実験 フーリエの"societaire" 同じ空間に住むのが大前提

従業員であり、所有者(メンバー)の一員

シテ・ナポレオン マリー=ガブリエル・ブーニュ

社会主義に対する痛烈な批判

「ファミリステールでは喜びもダンスもすべてが予定されている。」

>>プラグマティズム(功利主義、実用主義)イデオロギー<<

「シテ・ナポレオンは住人がその内面まで管理される監視システムであると受けとられたのである」

「1住宅=1家族」

「社会(societe)という新しい言葉と供に、その社会の直接的な当事者になることができるという側面と、従来までの体制の破壊者であるという側面とが錯綜していた時代」

・こうしたフーリエ主義的な住宅計画では、ファミリステールでも見たように、労働者たちを教育し善導しようとする意識が極めて強かったと言っていい。外側から見れば、善導とは彼らを標準的に導こうとする管理主義である。シテ・ナポレオンにおいても、供給側には労働者の管理という意識が極めて強かった。それは、親密な家族をそれぞれに孤立させるようなミュルーズ労働者都市の住宅計画においても同様である。プライバシーをその構成原理とする住宅計画もまた一方の管理システムである。住宅計画とは、この時代、労働者を管理し、そして「諸悪の根源にさかのぼりつつ」彼らを善導するシステムそのものだったのである。ミュルーズ労働者都市においては各住宅は隔離され相互に切り離される。そして、その上位の空間は直接的な管理空間だった。一方のフーリエ主義的な住宅計画では住宅の集合が一つの"association"あるいは"societaire"という中間集団をつくる。その中間集団を管理するという方法である。後者が監視空間、社会主義的空間というレッテルを貼られたために、その後の住宅計画では前者のような計画が中心になってゆく。

5 "物化"という概念

思想は"物化"されることによって共有される

「そうした建築空間のあり方を"活動と言論と思考"の"物化(materialization)"という」アレント「人間の条件」

☆思想家トレカのキーエレメント=キー概念

"活動と言論と思考"は"物化"されない限り、リアリティを持つことがない。"活動と言論と思考"はそのままでは触知できない。活動し、語り、考えられることはその瞬間に消え失せてしまうからである。そうした「触知できないもの」を「触知できる物」に変形することによって、それらははじめてリアリティを得、持続する存在となる。

・建築空間を実際に体験することによって、建築空間と共にその思想をリアルなものとして私たちは感じることができるのである。

e.x. iphoneジョブズの思想

・リアリティというのは他者と共有しているという実感である。それは一方通行ではない。

・こうした"物化"を巡る考え方は、今の私たち自身の考え方である。"物化"を命令する者とそれを執行する者との関係は、今でも私たちを呪縛しているのである。私たちは気がつかないが、でも確実に私たちの内に潜んでいる。そして、その私たちの内に潜むその命令・執行の考え方こそが、管理社会の本質なのだということをアレントは見抜いていた。それがいかに危険なことか。実は、それこそが官僚制的管理社会(国家)の本質なのである。

"物化"に先立って根拠のある"知"があるわけではない。命令はそれが"物化"されることによって、リアリティを得、いかにもその命令に根拠があるかのように見える。それが「支配の理論の根本」なのである。

 

第三章 「世界」という空間を餌食にする「社会」という空間

「分割されているのは労働ではない。人間である。人間が分割されて、たんなる人間の断片にされてしまっている」ジョン・ラスキン「ゴシックの本質」

ゴシック=自由 人間ひとりひとりの自由

「ところが分業化されて「分割された人間」は機械でしかない。「機械へと堕落」した人間はそこに生きている証を持たない」

>>トレカの裏側には人生を。人生も。<<

・「労働」から喜びが失われた産業化社会

・産業化社会とは「人びとがパンを得るための仕事に喜びがまったくないということであり、それゆえに喜びの唯一の手段として富をもとめている」というような社会である。労働する喜びではなくてそこから得られる金銭が目的になった。金銭が価値になった。ラスキンは労働がただ金銭に結びつくようなそうした産業化社会ではなくて、労働することそのものが目的であり喜びであるような世界をつくらなくてはならないという。

ラスキンとマルクス

マルクス=労働は喜びではないという考え。→人間を労働から解放すべき。

「共産主義革命は労働を廃止する」

マルクスにとって、労働は喜びどころか苦役以外の何ものでもなかった。

「労働」=「罰」エンゲルス

生産力の発展→分業

マルクス ほんのわずかな労働(これすらも趣味に) 自由な時間はホビー

「自由の王国」=共産主義

「共産主義社会あるいは社会主義社会では、すべての職業がいわば趣味となる。「今日はこれをし、明日はあれをし、朝は狩りをし、午後は魚釣りをし、夕べには家畜を育て、夕食後には批判をする。彼らはそれぞれ自分の好きなことをするが、そうだからといって狩猟家、漁夫、羊飼い、批評家になるのではない」」(マルクス&エンゲルス「新訳ドイツ・イデオロギー

「同じ仕事を連続してやり続けると、生き生きとしたやる気と緊張が消えてしまう。それらは、活動内容を変えることによって、元気を取りもどし、また息を吹き返すものでもある」(「資本論」)専門化しない。だから「趣味」なのである。労働者が労働から解放されるということは、全ての人がそのような趣味に生きる社会を実現することなのである。

マルクスはフーリエと同じユートピア思想

・この矛盾はマルクスではなくて、むしろ私たち自身の矛盾なのである。私たちは、今、(私たち)労働者にとって労働時間は短ければ短いほどいいと考えている。時間給は高ければ高いほどいい。マルクスと同じように労働は労苦だと考えているからである。でも、ラスキンの言う労働は生の証であった。私たちもまた労働を労苦であると同時に、ときに生の証であると思っている。「仕事が生きがいだ」というのは、やはり私たち(労働者)の一方の実感である。

「労働」と「仕事」を区別せよ。アレント

・マルクスにとっては、労働者の労働力は商品市場で販売される商品である。そして産業化社会とは社会そのものが隅々まで商品市場になった社会なのである。自分自身が労働力という商品だと思っている。それが近代社会(大衆社会、市場社会)である。すべてが労働になったそうした近代社会に私たちもまた、今、住んでいる。だから、労働と仕事の区別が失われてしまっているとしても、その近代社会の内側にいる私たちには、その区別が失われた、ということが分からない。仕事と労働とは違う。

「産業革命は、すべての仕事を労働に置き代えた。」ハンナ・アーレント

マルクス:労働は商品市場で売買される労働力という商品

フーリエ:労働は趣味

ラスキン:労働は製作

"物化"に関わる活動=仕事

ジョバンニ・ピサーノ、ミケランジェロダ・ヴィンチ。私たちは彼らの名前と共にその仕事(a work)を記憶している。

・一方、労働とは何か。「労働」を担ったのは古代ギリシアでは奴隷だった。"あくせく働く"という動詞は英語では"slave"である。「ギュナイコニティス」の労働である。家事労働である。「人間の生命過程」を維持するための労働である。奴隷の労働には自分の意志がない。主人の命令によって主人とその家族の生命を維持する(the maintenance of life)ための労働を日々繰り返す。主人の命令ではなくても、生命を維持するためになくてはならない労働、「生きるための労働」は奴隷的性格を持つと、当時ギリシア人は考えていた。それが「循環する人間の生命過程」にとって必要不可欠な労働だからである。この必要のための労働が労働の本質である。奴隷の労働である。それは人間にとって忌むべきものだった。逆に言えば、「古代の奴隷制は……人間生活の条件から労働を取り除こうとする試みであった」のである。

・「奴隷への転落は運命の一撃によるものであったが、その運命は死よりも悪かった。なぜなら、それとともに人間はなにか家畜に似たものに変貌するからである」(「人間の条件」)。かれらはギュナイコニティスの内側(私的領域の奥深く)に閉じ込められた人たちであった。公的領域に出ることは許されない。労働することによって、単にその肉体が消費されるだけである。労働の後になにも残らない。奴隷とは「見られない聞かれない人」である。見られる権利、聞かれる権利を剥奪(privative)された人である。奴隷たちがもっとも恐れたのは、そうした無名状態にあることだった。「無名状態にあるために、自分たちが存在していたという痕跡をなに一つ残すことなく去らなければならない」"この世界に存在したという証"を何一つ残すことなく死んで行かねばならない、それが奴隷であることの最大の恐怖だったのである。

・そうした労働する奴隷に対して仕事をする者たち(demiourgoi=workman)は「私的領域の外にある公的領域の内部を自由に動いていたのである」

「仕事人」=耐久性

自然←→世界(耐久性)これが人間と動物の違い

アレントのイメージはギリシアのポリス。ポリスは記憶装置であった。

「仕事の人間的条件は世界性である」アレント

世界の「物」をつくること、後世に残る「物」をつくること、それが「仕事」の本来的な意味である。

「ほとんどの活動と言論は、この介在者に係わっている」

「それに対して、近代社会(大衆社会・市場社会)とは物がその「世界性」を失った社会である。物が単なる機能になった社会である。」

「テーブルの周りに集まった多くの人びとが……突然テーブルが真中から消えるのを見る。そうなると、互いに向き合って坐っている二人の人は、もはや、なにか触知できるものによって分離されていないだけでなく、互いに完全に無関係となる」

ミース・ファン・デル・ローエ 「ユニバーサル・スペース」

原広司はそうしたミース的建築空間を均質空間と呼んだ。「物の世界性」が失われた建築空間である。

「仕事も分業化される。分業の対価は時間給という金銭である。その結果、あらゆる「物」の価値は金銭になった。ラスキンが言うように「金銭が価値になった」のである。」

「ところが近代の消費社会はそうした「物」をすべて消費のための商品にしてしまったのである。その消費社会が現にいま私たちがすんでいる「社会」である。」

社会的social=ローマから

社会=「人びとが他人を支配したり、犯罪をおかしたりするとき団結するように、ある特別の目的をもって人びとが結ぶ同盟を意味していた」=社会に普遍性はない。

・「市民社会(civil society)」という言葉が一般化したときに、社会は一般的な意味を持つようになった。私的集団としてではなくて、抽象的な多数者による均質で平板な空間として認知されたという意味である。世界が人間の一生よりも耐久性のある物によってできあがっているとすれば、社会は商品としての物によってできている。そうした社会に生きるわれわれのことをアレントは「社会化された人間」と呼ぶ」

「「社会科化された人間」とは賃労働者である。」

「ラスキンの言うように分割されて断片化された人間として社会の中にいる。「賃労働に従事する」というのはそのような意味である。私たち自身のことである。」

「社会とは賃労働者の社会であり、賃労働者によって生産される商品を消費する社会である。」

 

「閾」によって家は世界の中にあることができる。労働者住宅ではその「家」から「閾」が失われて、「住宅」と呼ばれるプライバシーのための空間になった。

19世紀の労働者住宅から始まった「住宅」という建築空間はそこに住む人びとをいかに管理し、いかに規律を守らせるようにするか、それが供給する側の主題だったのである。

・分業化された労働は消費される商品を作るための労働である。自分の分担はとなりの分担との足し算である。全体で一人の人間であるかのような「一者性(oneness)」のそのほんの一部を担うものでしかない。毎日同じ分担を繰り返す労働では、自分という個性の痕跡を残さないことが最も重要である。ばらつきのない均一な商品をつくるためである。「個性や卓越性はむしろ撹乱要因なのである。労働力の均一性のために消してしまわなくてはならないものである」

マルクス 労働力とは「人間の血と肉」

「だから労働力は、あたかも砂糖(という商品)と同じように一商品である。一方は時計で測られ、他方は秤で測られる。」

アーウェル川、テムズ川の悪臭

「不潔と飲酒癖もアイルランド人がもちこんだ。」

「街路に面した間口は、商売する人びとにとって非常に重要であったので、すべての人びとに与えなければならなかった」

小売店 ブティーク

サン・ジミニャーノアッシジドブロブニク

中世都市の街並みはブティックによってつくられていた。

ギルド集団の助け合い、職種ごとの守護聖人

中世都市 自治権と自足性、井戸か泉による給水

食料品市場 教会

=世界

それは「世界」と呼ぶことができるような空間的特質を備えていた。

=店、アトリエが「閾」「世界」をつくるものをつくる世界

"worth"「物自体の「生来的な」客観的価値」

その都市のその店にしかない"ブランド"を手に入れるために。

教会には多くの巡礼者たちが、聖人像(idol)に会うために。

中世都市はその空間全体がアトラクションだった。

「消費されない物(brand)」をつくりだす「都市」あるいは都市それ自体が持つ空間の魅力。

プルードン 家と竈 vs エンゲルス 鳥の如くに自由なプロレタリアート

↑これが間違い

「世界の特定の部分に自分の居場所を占めること」

=財産 =政治体に属すること

つまり、財産という概念が、「人間をその場所に縛りつける家と竈」から「自分の肉体が持っている労働力」に移り変わったとアレントは言うのである。家と竈は「世界」の中にある。「世界」とは、ポリス、そして中世の都市、そして私たちがみてきた集落のような"外面の現われ"を持ち「外部の者に対する異質性の表現、内部の者に対する同質性の表現」が実現しているような空間である。その世界の中の「家と竈」である。「家と竈」を所有することが「世界」という空間の中でその共同体のメンバーになることだったのである。「家と竈」が財産だったというのはそのような意味である。「家と竈」が財産であるような「世界」から「労働力」が財産であるような「社会」に変わったというのである。その社会の住人は賃労働による労働者である。社会とは市場社会である。その市場社会において「自分の肉体が持っている労働力」を商品として金銭と交換する、それが労働者である。鳥のように自由な労働者である。その労働者のための空間が社会である。そして実際、建築家たちはそうした「鳥のように自由な労働者」のための建築を設計するようになっていったのである。機能的な建築である。「世界」という意識そのものが近代の建築家からは失われていったのである。

 

産業資本家による管理空間←→「1住宅=1家族」

家族=近代国家の基礎単位

ウルリヒ・ベック 個人化

他の中間集団はない >>会社以外<<

すべての国民が賃労働の従事者あるいはその家族であるということを前提にして国家のシステムは成り立っている。

国家が家族の模写になっているという意味は、国家そのものがただ金銭的利益を目的として運営されているという意味である。全ての人が生きるためにのみ働いているような社会である。社会の統治システムが「国家規模の『家計』」に変形してしまったからである。国家がただ経済(金銭)のために運営される。

>>たかが経済(家計)。民族は幻想<<

建築空間の側から言えば、家族は"親密な関係"として、周辺から隔離されて密室化された「1住宅=1家族」という空間に住んでいる。

「閾」のない隔離され密室化され孤立した私生活のための場所である。

その空間においては、すべての物が金銭に還元される。市場社会である。

というよりも、均一化、画一化された建築空間が画一化された社会をつくる。

政治体に参加する仕組みを持たない。

「社会(society)」とはもともと「ある特別な目的を持つ人々」による私的集団。「ある特別な目的」=金銭。

単一の巨大家族の成員であるかのように振る舞うよう強要される。

社会=単に商品が流通するための空間。パッケージ化=「苦痛なき消費、努力なき消費」

「資本家は地球上の他の部分に前資本主義的な土地を探し求め、それをしも資本蓄積過程に引き込むことを余儀なくされるのであり、いわばそれはその外部にあるものいっさいを餌食とすることになる」ローザ・ルクセンブルク

世界はなくなったのではない。世界を認識する眼を失った。

後進社会、伝統社会=克服されるべき空間。「前資本主義的」

「社会」は「世界」を解体してそのいっさいを餌食とする。

周辺環境とは無関係なパッケージ。

 

第四章 標準化=官僚制的管理空間

標準化=官僚制的管理空間

公営住宅の設計者 1000円 10円入札。狂気。

2011年、50億円の総工事費。

八王子都営長房北団地 426戸 1万円

都営上石神井四丁目団地 99戸 1万円

都営西尾久八丁目 92戸 1000円

都営船堀一丁目第二団地 240戸 1000円

都営花畑七丁目団地 280戸 10円

都営南蒲田二丁目団地 1円

→標準的なものを造れ(いいものを造るな)プロポーザルやコンペはなし。

都営戸山団地だけでも2010年孤独死12人

全国 09年度 少なくとも1191人

UR 65才以上472人

「1日に四人弱の高齢者が孤独死」毎日新聞

高齢者に限らない。多くの人たちの孤立化はますます深刻になっているのである。つまり、高齢化、孤立化は社会問題なのである。そしてそれは住宅の供給の仕方の問題なのである。今までの標準的、定型化した住宅が問題なのである。

東京都都市整備局の官僚主義

プロポーザル→118万

「権力は下から来る」フーコー

「統治の最も社会的な形式は官僚制である。」

中心はない。特定の個人ではない。司令塔はいない。「局地的破廉恥」=合理性はない。

いかにも合理性をもつかのように認識されてしまう。

人格を持たない非−主観的命令が「社会的要請」であると装う。

その命令が客観性を持ち合理性があるかのように認識されてしまう。

何故そのように認識されるか?その命令が"物化"されるから。

>>子供に負けないように遊ぶ<<

 

・人格を持たない非ー主観的命令は、「社会的要請」であるという装いを持つ。…仮にその命令に根拠がなかったとしても、それでも、その物(建築)は”現実的”にできあがる。できあがってしまうことによって、いかにもその命令が社会的な合理性(客観性)を持つかのように認識されてしまうのである。

・逆に言えば、命令が社会的要請として認識されるために”物化”というプロセスが極めて重要な働きを果たすのである。官僚制はそれを”執行”する役割を果たす。

・"物化"とは”活動と言論と思考”という「触知できないもの」を「触知できる物」に変形すること。

・都営住宅、標準化。

・命令はそれが”物化”されることによっていかにもその命令に客観的な根拠があるかのように見える。客観性を装う。それが「支配の理論の根本」なのである。

・アレントは人格(主体=主観)を持たないその官僚制的行政を「無人支配(no-man rule)」と呼ぶ。

・「主体=主観」のない支配。

・被支配者は均一化・画一化されている。

・労働者はユニークな自分を示してはならない。

「画一主義(社会)」は「ギリシアの平等(世界)」とは全く異なる。

他人と違うことを示さねばならない

取り換え不可能性

>>社会に出る準備とは画一主義、数値化への準備<<

・労働と仕事の違いが失われて、全ての人の価値が労働力であるとみなされる社会では、平等はそのまま画一化・均一化である。

・このような社会では、労働者たちは「個別性やアイデンティティの意識をことごとく本当に棄て去る」ことを要求される。

・ユニークであること、卓越していることはむしろ社会的平等によっては撹乱要因でしかない。

人間→労働力

・繰り返すが、古代ギリシアではそのように労働すること、つまり生命を維持するためにのみ労働することは「奴隷化されること」に等しいとみなされていた。

・「官僚制的行政」においては考えないこと、つまり「思考欠如」が執行人の原則

思考することを求められていない。思考停止が推奨される。

・「社会は、それぞれの成員にある種の行動を期待し、無数の多様な規則を押し付ける。そしてこれらの規則はすべてその成員を「標準化」し、彼らを標準に従うように行動させ、自発的な活動や優れた成果を排除する傾向をもつ」

behavior=慣例に則った行動、標準化された行動

命令する側と服従する側との間に、「無思想性」という相互関係が成立する。

この「無思想性」という相互関係こそが官僚制的支配の本質

アーレント「官僚機構にとらわれてしまった人間はもうすでに有罪なのだ」

命令する側とその命令に服従する側とは共犯。

"物化"というプロセスによって、支配と服従の関係は無意識化される。

標準的空間ー国民を標準化するための住宅政策

・「そして、こうして標準化された住宅に住むことによって、その住人もまた自らを他の住人と同じ標準化された住人として認識するのである。」「実際、住宅は国民を標準化するための最も重要な"規律・訓練"装置だったのである。」フーコー

・「"物化"というプロセスが無意識化されることによって、その「社会」は官僚制的に支配されるのである。でも、私たちは支配されていることに気がつかない。フーコーの言う規律・訓練装置とはそのような、支配されているという意識が無意識化される装置なのである。」

労働者の標準化と一致して、建築の標準化

>>この「世界」の豊かさを、我々は1/10も味わっていないのではないか

バタイユ連続性、見田宗介燦々とした太陽<<

・「社会というものは、いつでも、その成員がたった一つの利害(金銭という利害)しかもたないような、単一の巨大家族の成員であるかのように振舞うよう要求する」

・国民の標準化は官僚制的社会の統治システムの根幹だった。

ワイマール共和国にできたバウハウス(国立デザイン学校)。

→個人の卓越性ではなく、大量生産の上質さを求めた。

・「機械の作業能力に合わせて対象物を設計するというのは、手段=目的カテゴリーの完全なる転倒」である。

手段に目的が従属する。

バウハウスは全体主義に対して無力だった。

全体主義(支配)はナチズムやボルシェヴィズムだけを指すわけではない。

官僚支配が既に全体主義(支配)なのである。

知識人や芸術家の精神的活動の物化。

全体主義国家というのは「純粋な行政(官僚性的行政)」による国家である。社会の統治システムが「国家規模の『家計』に変形」されてしまった国家である。つまり社会化された国家である。そしてその国家が「超人間的家族の模写」であるように運営される。全ての国民がその超人間的家族の一員であるように「規律・訓練」される。それが極限にまで推し進められた国家である。そこでは社会的要請はそのまま国家的要請である。社会の要請に忠実に従うような方法を編み出した建築家たちは、それがそのような国家権力であったとしても、その国家的要請に対しては全く無防備だった。バウハウスのそうした建築家たちに対してアレントは極めて批判的だった。社会(国家)に対する迎合は自らの主体性を否定することになるからである。

その主体性、「知識人や芸術家のイニシアティヴ」こそが「全体主義」にとって「単なる政治上の敵よりも大きな脅威となる」とアレントは考えていた。主体性とは意志の力である。他の何者とも取り替えることができない私という主体の意志である。この全体主義が「精神的活動の高度な形式をすべて徹底的に抑圧するのは、理解できないものに反撥するという自然な感情よりももっと深い原因から出ている。全体的支配は完全には予見し得ないような行為を認めることができないから、どの生活領域にも自由なイニシアティヴを許せないのである。それ故に、権力を手中に収めた全体主義運動は、たとえ運動に共感を寄せる者であろうと才能と天分に恵まれた人々をすべて容赦なく追い払って、その後に山師と馬鹿を据えざるを得ない」

全体支配はナチズムやボルシェヴィズムだけを指すわけではない。官僚支配が既に全体支配なのである。そしてそれを社会的要請であるかのように錯覚する「馬鹿」、あるいは意図的にその錯覚を利用して、官僚支配に迎合する「山師」が既に全体支配の一員なのである。

 

2.

フーコー「権力は下から来る」

「局地的破廉恥」

「命令はそれが、"物化"されることによっていかにもその命令に客観的な根拠があるかのように見える。客観性を装う。それが「支配の理論の根本」なのである」

 

3 官僚制的統治は空間的統治である

官僚制的支配は無人支配である

「社会という空間」は「経済的に組織された空間」であった。経済的に組織された空間(金銭という価値が唯一の価値になった空間)においてはすべての人びとは等しく賃労働者である。「生きるために」(マルクス「賃労働と資本」)働いている人びとである。私的利益のために働いている人びとである。社会においては「人びとが共有するものは、ただ、その私的な利益だけである」。そして、その私的利益を「相互に保護するために政府が任命される。したがってこのような政府だけが共通のものであった」。私的利益を相互に保護する役割が政府の役割である。保護の原理は平等である。その平等の原理を守ること、それが「権力の合理性」の根拠を保証しているのである。社会全体の利益を平等に分配するという合理性である。でも、政府が単に金銭の分配という役割をのみ担うのだとしたら、それはもはや政府とは呼べない、とアレントは言う。「私たちが伝統的に国家とか政府とか呼んでいるものは、ここでは、純粋な行政に席をゆずる」。純粋な行政とはその行政の「継続性・持続性」以外の特定の目的を持たない、特定の人格(主体=主観)を持たない、単なる金銭の機械的な分配者でしかないという意味である。つまり官僚制的行政のことである。その官僚制的行政が「純粋な行政」である。アレントは人格(主体=主観)を持たないその官僚制的行政を「無人支配(no-man rule)」と呼ぶ。しかし、この無人支配は、その人格的要素を失っているからといって、支配を止めたのではない。統治の最も社会的な形式は官僚制である。したがって、慈悲深い専制主義と絶対主義における一人支配(one-man rule)が民族国家(nation-state)の最初の段階だとすれば、官僚制はその最後の統治段階である。ここから知られるように、無人支配は必ずしも無支配(no-rule)ではない。実際、それはある環境のもとでは、最も無慈悲で、最も暴力的な支配の一つとなる場合さえある」。「主体=主観」のない支配、つまり「無人支配」が成り立つためには、一方で被支配者が均一化・画一化されていなくてはならない。そうでなくては機械的な分配が成り立たないからである。

ポリスという世界は「平等なる者」の場所であると同時に、一方では「人びとが、他人と取り換えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所」だったのである。

ポリスは世界という空間である。多数の平等なる者の中でユニークな自分を示さなくてはならない空間である。その「世界という空間」に対して「社会という空間」における平等は均一化であり、画一化である。労働と仕事の違いが失われて、全ての人の価値が労働力であるとみなされるような社会においては、平等はそのまま画一化・均一化である。「何らかのかたちで賃労働に従事しないような消費者や市民など、不労所得者(利子生活者)以外には存在しない」とみなされている社会においては、その賃労働に従事する労働者は単なる労働力でしかないのである。このような社会では、既に述べたように、労働者たちは「個別性やアイデンティティの意識をことごとく本当に棄て去る」ことを要求される。ユニークであること、卓越していることはむしろ、社会的平等にとっては撹乱要因でしかないのである。社会という空間は「人びとが、他人と取り換えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所」としてあるわけではない。自分自身を他人と同じ画一的な労働力の一単位として認識する(しなくてはならない)空間なのである。

労働市場に持ち込まれて売られるのは、個人の技能ではなく「労働力」となる。この「労働力」は、生きている人間ならだれでも、だいたい同じくらいの量をもっている」。

繰り返すが、古代ギリシアではそのように労働すること、つまり生命を維持するためにのみ労働することは「奴隷化されること」に等しいとみなされていた。賃労働による労働者である。都営住宅の設計者のことである。

「純粋な行政(官僚制的行政)」においては考えないこと、つまり「思考欠如(thoughtlessness)」が執行人の原則なのである(因みに、「イェルサレムのアイヒマン」では、その同じ言葉が「無思想性」と訳されている。その「無思想性」こそが、アイヒマンが「あの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だった」)。そしてその命令に従う設計者もまた「無思想性(思考欠如)」を求められる。なぜなら、彼らは単に賃金を得るために働く均一化された労働者の一人だから(にすぎないから)である。標準化された労働の従事者だから(にすぎないから)である。卓越は求められていない。思考することを求められていない。均一な労働力の一単位でしかないのである。「社会という空間」は「卓越を匿名化」するとアレントが言うのはそのような意味である。

「社会は、それぞれの成員にある種の行動(behavior)を期待し、無数の多様な規則を押しつける。そしてこれらの規則はすべて成員を「標準化(normalize)」し、彼らを[標準に従うように]行動(behave)させ、自発的な活動や優れた成果を排除する傾向をもつ」。"behavior"とは慣例に則った行動のことである。標準化された行動のことである。官僚制の局地的端末において命令に従って設計者が標準設計に基づいて設計するという行動のことである。命令する側とその命令に服従する側との間に「無思想性」という相互関係が成立するのである。この「無思想性」という相互関係こそが官僚制的支配の本質なのである。官僚制はその官僚制の内側にのみ「無思想性」が内在しているわけではない。それを敷衍する制度なのである。「官僚機構にとらわれてしまった人間はもうすでに有罪なのだ」とアレントは言う。命令する側とその命令に服従する側とはすでに共犯なのである。設計者は「業者」として官僚制的支配の「無思想性」に組み込まれる。思想を求められない。「無思想性」そのものが無意識化されるからである。その無思想性が「すでに有罪」であるにもかかわらずそれに気が付かない。有罪であるという意識そのものが無意識化されるのである。

"物化"というプロセスが官僚制的に支配されることによって、支配と服従の関係それ自体が無意識化されるのである。

>>「社会」から「世界」を奪還せよ。<<

 

4.標準的空間

実際、第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて、そして第二次世界大戦後の日本において、住宅は国民を標準化するための最も重要な”規律・訓練”装置だったのである。

標準的空間、国民を標準化するための住宅政策。

「規律・訓練がおこなう最初の処置は、空間への各個人の配分である。そのため、規律・訓練はいくつかの技術を使用する」「いくつかの技術」とは建築の平面計画、動線計画における設計技術である。それは以下のように設計される。

(1)「規律・訓練は、閉鎖を、つまり他のすべての者には異質な、それじたいのために閉じられた場所の特定化を要求する」

(2)「各個人にはその場所が定められ、しかもそれぞれの位置には一個人が置かれるのである。集団(グループ)ごとの区分をさけること、集団中心の配置をばらばらにすること」

→密室。コミュニティをつくらせない。

標準化された住宅のその"物化"というプロセスは、官僚制的支配の空間化(建築化)である。そしてその空間の中では、それが官僚制的に支配されているということが無意識化されるのである。なぜならその空間は社会的要請によってできあがっているからである。そのように認識されてしまうからである。"物化"というプロセスが無意識化されることによって、その「社会」は官僚制的に支配されるのである。でも、私たちは支配されていることに気がつかない。フーコーの言う規律・訓練装置とはそのような、支配されているという意識が無意識化される装置なのである。

 

5 標準化という美学

バウハウス=機械で大量生産しやすい物。

MUJI

→ヘルマン・ムテジウス

「芸術」の分離

「機械がつくる物」ザッハフォルム(必然的な形)

「規格化」と「ザッハリカイト」(機械美学)

「優れた工業製品は社会の要請に忠実に従うこと」

☆全体主義国家=社会の統治システムが「国家規模の家計」に変形されてしまった国家。つまり社会化された国家。

→そこでは社会的要請はそのまま国家的要請である。社会に対する迎合は自らの主体性を否定する。

 

※この辺重複。

 

国策としての集合住宅

建築の標準化=住人の標準化。→地域性を喪失させる。

☆ヒルベルザイマーの都市

ジョルジュ・デ・キリコの絵のように顔のない人びと。

複製される建築。ベンヤミンの「いま」「ここ」

ミュルーズの労働者住宅

「一つの住宅に一つの家族が住む」という管理の方法が、労働者の管理に極めて有効だという管理空間の発見。

その管理空間が国家規模にまで拡大されたのである。それは家族をプライバシーという檻の中に閉じ込めるという方法。

外側との関係を持たない空間構成である。

「1住宅=1家族」システムである。

それまでの「家」は公的空間の中にあった。既に述べたように「家」それ自体が公的領域(public realm)と私的領域(private realm)の相互の関係を調停する役割を担っていたのである。その家からプライバシーのための空間(private sphere)だけを切り取って、それを家族のための「親密な空間」として孤立させるような空間構成である。「閾」(no man's land)を持たない空間システムである。「親密な空間」は「循環する生命過程」のための空間である。生命を産んで育てるための空間であり、自らの生命過程を守るための空間である。その空間図式は、一つの家族という親密な関係をその外側から切り離すような住宅の図式である。住宅はその外側との関係を持たない。住宅の外側は公的空間ではなく単なる管理空間になってしまったのである。住宅は「社会」という管理空間の中にある。そうした住宅に住むことによって、その住人はプライバシーという考え方がいかに重要かを学び、その親密な関係の中にいることが幸福だと思うようになっていったのである。「彼らは、自分の家の四つの壁に取り囲まれ、衣装箱とベッド、テーブルと椅子、犬や猫や花瓶に囲まれて幸福になれるうのである。」(アーレント「人間の条件」)

「1住宅=1家族」システムの性格

(1)一つの住宅に一つの家族が住む(住宅の画一化・標準化。家族の画一化・標準化)。

(2)一つの住宅は極めて閉鎖的につくられる(プライバシーの確保)。

(3)隣り合った住宅は相互に干渉しないようにつくられている(コミュニティの排除)。

(4)その住宅に住む家族は自足性の高い自立単位である(家事労働、つまり「循環する生命過程」に奉仕する労働は女の役割であるという倫理観と共に住宅がある)。

(5)その住宅に住む家族は労働力の再生産の単位である(「循環する生命過程」の持続性。つまりヒト(種としての人間、類としての人間)の持続性)。

(6)賃労働による労働者のための住宅である。

産業革命以前の都市の住居システムとは全く異なるシステムである。あまりにも違う。それまでの住宅は生産の場所であった。他者を招き入れる場所であった。公的空間がその内部に組み込まれていた。ところがこの住宅は単なる私的空間でしかないのである。他者を招き入れるための特別な空間がない。ただ孤立した住宅である。家族という単位の徹底した孤立化である。

「仕事」の協業と「労働」の協業。

☆「搾取されているのは卓越した仕事をしたいという意志である」

なぜこのようなことが起きたのか。建築の設計という仕事は本来その場所の特性、使う人たちの固有性と共に考えられるべき仕事であった。それを標準化された「労働」に置き換えようとしたからである。「世界という空間」を「社会という空間」に置き換えようとした。「世界という空間」をつくる「仕事」を「社会という空間」をつくる「労働」に置き換えたのである。

物をつくる人はたとえ労働者として扱われていたとしても、でも、実際にはこの社会の中に「できれば耐久性のある物をつけ加え」たいと思っている。その耐久性のある物によって自分が生きていた証を残したいと思っている。「世界の物」をつくりたいと思っている。

搾取されているのはその卓越した仕事をしたいという意志なのである。「社会という空間」はそうした意志をことごとく均一化・画一化して、それを労働力と名づけて、労働力の対価としての賃金(はした金)に換えてきたのである。その意志の搾取が「社会」を発展(経済成長)させる大きな推進力になってきたのである。基本設計を一円で入札した設計者も、それでも、できれば「いま」、「ここに」しかないものをつくりたいと思って応札したのではないかと思う。そのような意志をことごとく奪い取ってきたのが「社会という空間」だったのである。

 

私たち(労働者)は賃労働者として、「他人によって見られ聞かれる」権利を奪われ、この世界に「存在していたという痕跡をなに一つ残すことなく去らなければならない」。それが「社会という空間」である。

でも、その「社会」の中にあっても、それでも、私たち(労働者)は、「何らかのかたちで」自分は「万人の中で最良の者であること」を示したいと思っている。実際の私たちは労働力を時間で売る労働者などでは決してない。単なる賃労働者などでは決してないのである。

「この私の主張を支持するものはほとんどない」。なぜなら私たちは「労働」と「仕事」の区別が失われた「社会という空間」(経済的に組織された空間)に住んでいるからである。「社会という空間」の内側にいて「社会」を見ているからである。「世界」を見ることができないのである。

その「社会」の内側にいる限り、「世界という空間」は過去にあって、現在は失われた空間であるようにしか見えない。「世界という空間」を設計しようとする者は単に空想的であるかのようにしか見えない。でも、それは決して失われていない。「世界」は過去に存在して今は失われた空間ではない。今でも「世界」は私たちのすぐ身近にある。標準化された官僚制的管理空間に対立する空間である。私たち自身のための空間である。そしてそれは私たち自身の強い意志によって、未来に向けて構想され設計されなくてはならない空間なのである。

 

第五章 「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」

1 「性現象」のための住宅

「地域社会圏」

ミュルーズの労働者住宅以来、住宅の相互隔離はそこに住む労働者を管理するためのものであった。今の日本の住宅も同じ目的によってつくられているのである。でも、そのような空間に住む私たちは、それがいかに特殊な空間なのかということを全く意識していない。こんなにも閉鎖的な形式の住宅が戦後、大量に供給され、こうした住宅こそが標準的な家族のための標準的な住宅だと私たちが考えるようになったからである。こうした住宅が大量に供給されることによって「1住宅=1家族」という形式が標準的住宅として内面化され(刷り込まれ)ていったのである。「1住宅=1家族」は平等という思想の"物化"である。すべての住宅は他と同じ住宅として供給されてきたのである。標準的な住宅である。そこに住む私たちもまた他の家族と同じ標準的な家族としてそこに住んでいる。私たちはこうした住宅に住むことによって自らを標準化された家族として仕立て上げていったのである。

この「社会という空間」の中では多数の他者と"共にいる"という意識が徹底して排除される。すべての他者はそれぞれにただ私的な利益を目的とする他者なのである。多数性とは逆の同一性としての他者である。

住宅はまさにそのような、世界を共有しているという感覚を剥奪するものとしてつくられ続けてきた。

→他者と隔離する装置

そうした完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠なものが「奪われている(deprived)」ということを意味する。すなわち「世界」を奪われている。「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティ(共通の感覚)を奪われている」、「私生活に欠けているのは他人である。逆に、他人の眼から見る限り、私生活者は眼に見えず、したがって存在しないかのようである。私生活者がなすことはすべて、他人にとっては、意味も重要性もない。そして私生活者に重大なことも、他人には関心がない」。こうした現象をアレントは「孤独の大衆現象」という。

「社会という空間」は金銭を唯一の目的とする空間である。それは官僚制的に管理された管理空間である。一方で「1住宅=1家族」はその社会の中にあって、「親密なもの(the intimate)を保護するという最も重要な機能をもつ」場所なのである。保護とは外側から管理されるという意味である。

家族が性現象に押収された。

廊下=街路と同じ。

マルクス「労働」と「生殖」は生命過程の二つの様式。

労働者住宅を供給する産業資本家にとって、あるいはその後の民族国家の統治者にとって、労働者はその産業あるいは国家の発展のための最も重要な労働力であった。その労働力は常に再生産されなくてはならない。そのためには管理された「性現象」の場所が極めて重要だったのである。「性現象」は管理されなくてはならなかったのである。

☆一方の管理される労働者の側からは労働という活動様式は「自然の定められた循環の中に留まり、甘んじてその循環を経験できる唯一の様式であり、ちょうど、昼と夜、生と死が、相互に交替するように、人間も、それと同じ幸福で目的のない規則性をもって、働き、休み、労働し、消費することのできる唯一の様式である」。平穏の内に一定の労働力として日々の生産の規則に組み込まれる。そして、その日々の「労働の苦労と困難は、自然の繁殖力によって報われる。いいかえると、「苦労と困難」によって自分の勤めを果たした者は、将来、子孫を残すことによって自分も自然の一部に留まることができるという静かな確信を抱くのである」。自分もまた「循環する生命過程」の中にあるという確信である。子孫を残すことが、"労働力の一単位としての(そしてそれ以上の価値を持たない)労働者"の未来に対する唯一の確信であった。子孫を残すための家族でありそのための住宅である。それは外側と一切関わりを持たない徹底して私的な空間である。それが住宅である。自らプライバシーの中に閉じこもる究極の「避難所」として完成したのである。外側からは管理のための隔離施設として、内側からは自ら閉じこもるプライバシーのための密室として住宅は設計されてきたのである。

労働者は未来に残す物をつくりたいという自分たちの精一杯の"やる気"を搾取され、その苦労と困難はプライバシーのための住宅に住むことによって癒やされるのである。

 

2 模範農場で卵を産む鶏

「棚状の平行六面体は、横長、縦長があるが、それらは保管庫や倉庫の棚のように列をなして並べられるのである。住民は生産者の役を果すだけだ。子供の生産と仕事の生産の役を。そして夜になると彼は棚に仕舞われるのだ」、「この公営住宅は正に合理的に赤ん坊を生む施設として建設されたもので、公営住宅の住民はそれを自覚することなく、特別な棚に入れられていること、彼ら自身社会のための再生産動物で、模範農場で卵を生む工場の鶏と何ら変るところがないのではないかと思われた」(ミシェル・ラゴン「巨大なる過ち」)

>>朝、太極拳をする<<

団地、コンクリートの2DK。安心してセックスが出来る。

原武史「団地がつくった新しい日本人の生活」

住宅は27年で取り壊される 子供を社会に送り込めば役割は終わる

自分たちが存在していたという痕跡をなに一つ残すことなく去らねばならないことを恐怖したのはかつての奴隷たちだった。「孤独の大衆現象」というのは労働者の奴隷化そのものである。

 

3 世界を共有しているという感覚

「世界」=他者の存在を実感すること。

コモンセンスとは空間を共有しているという感覚である。

コモンセンスとは、他者と共に同じ空間の中に居て、それを共有しているという感覚である。

「リアリティ」とは、その共有された空間の中で、他者もまた私と同じように感じているはずだという「共感の感覚」である。

「私が知覚するものが実在的である[リアリティがある]ということは、一方では、私と同じように知覚する他人がいるこの世界と、この知覚されたものがつながっているということによって保証されるのである」

つまり、「世界という空間」の内にあって、そこで私と同じように知覚している他者を感じる、という"共感の感覚"がリアリティという感覚である。その感覚は他者と共に居るこの「世界」によって保証されているのである。「見る、触る、味わう、嗅ぐ、聞く」という私の五感は非常に私的なものである。「その感覚作用の質や程度を他人に伝えることができない」。それにもかかわらずその私的な感覚にリアリティ(他者と共感しているという感覚)を確信できるのは、他者と共有する「世界という空間」の内にいるからなのである。

政治的生活というのは、他者と共に住む「世界という空間」の中で「他人によって見られ聞かれる」生活である。「この空間を奪われることは、リアリティを奪われることに等しい。……人間にとって世界のリアリティは、他人の存在によって、つまり他人の存在が万人に現われていることによって保証される」のである。労働者住宅においては、そのリアリティが住宅の中に閉じ込められたのである。それはその住人が政治的生活を奪われたに等しい。それこそが統治する側の意図だったのである。

「ポリスは各個人に……その私的な生の他に、或る種の第二の生、つまり政治の生を与える」

「私生活の自由」≠自由

☆リアリティとコモンセンス

「ミュルーズの労働者住宅のその均質な配置計画は、できるだけ住人同士が出会わないように細心の注意深さで計画された」

「住民の政治参加をできるだけ妨げるように住宅は作られ、配置されてきたのである。」

権力を奪われている

リアリティのある生活、政治、生き方

「世界」=単純に自然ではない。それは宇宙や連続性と言えばいい。

「世界」=「素晴らしい街」

ここで釜利谷の画像

「活動と言論の舞台、人間事象と関係の網の目の舞台、活動と言論が生みだす物語の舞台」小学校建築

群馬県邑楽町のエピソード

 

5 コミュニティという政治空間

「1住宅=1家族」はコミュニティをつくらない

「社会という空間」は「1住宅=1家族」という居住システムをその前提としている。「1住宅=1家族」は賃労働者のための住宅である。それは官僚制的に統治される空間の中にある。住人たちは住宅というプライバシーの中に閉じ込められ、隔離される。それは「他人によって見られ聞かれる」権利を失った空間である。「1住宅=1家族」による空間は、自ら行うべきことを自ら決定することのできる空間ではない。その住宅は政治的生活から排除され、「親密なるもの」の内に隔離された住宅である。そうした住宅によって構成された「社会という空間」は「集団(グループ)ごとの区分」、つまりコミュニティを作ることはない。「集団中心の配置をばらばらにすること」が規律・訓練装置の技術なのである。「社会という空間」は「1住宅=1家族」という密室のような住宅を供給することによって成り立っているのである。その集合のシステムは均一化であり画一化である。そして、相互に隔離された配置計画であった。

現存化(actualization)とは、他者と共にいる空間の中で「自分をはっきりと際立たせ」るという意味である。"自分は今ここにいる"という意思表明である。コミュニティは空間を共有しその中で自分自身を現存化しようとする意志と深く関わっているのである。"common sense"とは他者と共に空間を共有しているという感覚であった。それは空間の中に受け身でいるのではなくて、一つの空間を共有しようとする意志、その中で自らを際立たせようとする意志(actualization)と関わっているのである。

「受け身のままでいなければならない」ような状態にした。

タウンシップ、ウォード(区)人口2000−3000 小学校区 1万人

もっとも小さな行政単位であり、生活の単位

>>社会に反抗する人間に金を与えない。社会に迎合する人間に金を集める仕組<<

タウンシップ、小さな単位ではあるが強い自治権をもっていた。

トクヴィルはフランスの政党政治のオルタナティブを示した。

アレントはウォード・システムに最大の評価を与える。アレントは代議制(リプレゼンタティブ・ガバメント)という政治システムの致命的な欠陥を、彼女が生きた時代の体験によって痛感していたからである。「すべての権力は人民に由来するが、彼らがそれを保持するのは選挙の日だけである。選挙がすめば、権力は人民の支配者の所有物となる」というような権力制度をジェファーソンは「選挙専制主義(elective despotism)」と言った。それは「自分たちが敵として闘った暴政と同じくらい悪いものであり、あるいはそれ以上に悪いものと考えていた」。

ウォード・システム→住人たちは必ず何らかの仕事を持ち、ウォード自体が経済的なコミュニティであった。そしてウォード内の様々な案件の決定に参加する。その案件に特化した評議会がつくられる。いくつもの評議会がつくられるわけである。住人は常に何らかの評議会のメンバーなのである。

「ウォードではすべての住民が政府に関わるのである。裁判官、保安官、パトロール、学校、貧困救済、道路のようなインフラ、陪審員の選択等である。……ニューイングランドでタウンシップと呼ばれるこれらのウォードは、政府にとって必要不可欠の原則である。完璧なる自治の執行、その持続性のために考えだされた最善の発明である。」(Samuel Kerchevalへの手紙)

完全な自活

1871 パリ・コミューン

議会以外の権力が極端に失われている

多数派の独裁

 

6 選挙専制主義に対する評議会という権力

「法律学的に言えば官僚制とは法による支配とは反対の、政令による支配である。……政令はつねに匿名であり、個々のケースについて理由を示すことも正当化も必要としない」

「法令の支配のもとに生きる人間は、彼らを統治しているのがそもそも何なのか、もしくは何ぴとなのかを全く知らない。なぜなら政令はそれ自体つねに理解し難く、それを理解し易くする筈の事情や意図については、官僚制はあたかも最高の国家機密であるかのように黙して語らないからである」

日本においては、多くの専門家集団は官僚制的権力の末端に位置づけられて、官僚制を補完する勢力になってしまっている。

「建築士」という資格の欺瞞。

専門家集団は官僚制的権力(国家権力)から独立していなくてはならない。専門家集団は官僚制的権力の側にあるのではない。「地域ごとの権力」の側にある。

・でも、それ(区。ウォード)に着手するのは今の日本では極めて困難なのである。「社会という空間」に住んでいる私たち自身がそれを求めないからである。自由は「1住宅=1家族」という私的空間の中にある。「公的権力に参加しそれを共有することなしには、だれも幸福であり自由であるということはできない」と言えるような空間に住んでいないからである。

「人民の自由はその私生活の中にある」。それが内面化されているのである。「1住宅=1家族」という相互隔離システムが内面化されてしまっているのである。既に述べたように私たちは「自分の家の四つの壁に取り囲まれ、衣装箱とベッド、テーブルと椅子、犬や猫や花瓶に囲まれて幸福になれるのである」。私たちがそれ以上の自由(住み方)を求めないからである。それは「1住宅=1家族」という住宅に住む人びとが政治参加(公的権力への参加)から排除されているという以上に、その排除されていることに無自覚になっている、ということである。私たちは私たちの日常の生活は政治参加とは全く無縁だと思っている。「1住宅=1家族」に住む私たちは、「日々自分は政治統治者である」とは全く思っていない。

この無自覚は私たちが、隣に住む人たちとは全く無関係に住むことができるような住宅に住んでいることと深く関わっている。「四つの壁に取り囲まれた」生活は隣人とは無縁である。「1住宅=1家族」は「他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティ[共感の感覚]を奪うように設計されているのである。既にのべたように、リアリティが奪われるということは、政治に参加しようとする意志が奪われているという意味であった。

その政治に参加する意志が奪われた空間は、「経済的に組織」された社会の中の商品でしかない。市場社会の中の単なるパッケージ商品なのである。住宅はその住人のためにあるのではなく、国家的な規模の経済的利益のためにある。今、住宅は私的に購入する商品である。それが国家政策なのである。既に消費財以上のものではなくなっているのである。住宅は素早いスピードで消費される。その消費のスピードが国家的な経済に貢献するからである。そうした状況は日本では2000年前後を境にして急加速しているのである。

1世帯=1.97人(2014年) 破綻

居住専用地区に居住専用住宅をつくるという従来までの考え方は全く役にたたない。それは単に私生活の場所、循環する生命活動の場所、プライバシーのための場所でしかないからである。「地域社会圏」は「公的権力に参加」する空間でなくてはならない。それは"ウォード"のような空間である。

20世紀に建築家や計画者たちが発明した居住専用地区という空間それ自体が異常な空間だったのである。それはそこに住むすべての人たちを、「私的生活」に閉じ込めるような空間だった。それはただプライバシーを守るという単一の目的をもった空間である。政治的生活を奪われた空間である。多様性は全くない。多様性という意味は居住専用ではなく、多様な活動の舞台でなくてはならないという意味である。

もともと経済行為と住空間は一体だった。boutique。見世、店。

それぞれに個別の家がなぜ相互に関係することができたのか。なぜ一定の都市住宅を構成することができたのか。その「見世」が「公的領域」に属する空間だからである。それは都市の側に属する空間だったからである。つまり「閾」である。bottega(boutique)は「閾」であった。

「見世」において経済行為を行うことが都市(地域社会)を関わることだったのである。「閾」による活動に関わらない限り都市のコミュニティ(政治的権力)に参加することができなかったのである。

建築それ自体が都市と関わることのできる空間的構造を持っていた。

つまり、都市自治体(コミュニティ)に参加することが可能であるように建築そのものが設計されていたのである。

そうした経済行為と一体になったような住宅は、わずかに「商店街」として残されているだけで、その多くは失われてしまった。居住以外の何も目的も持たない賃労働者のための住宅は、それが相互に関わり合って都市を構成することはない。ただそれぞれに孤立してそこにあるだけである。その居住専用住宅が私たちの標準になってしまっているのである。その孤立して隣の住宅と相互に関わることのない住宅がいかに特異な住宅か、私たちはもはやそれを考えてみようともしないのである。

マンションでは商売を住人が許さない。

マンションはプライバシーとセキュリティがその商品価値。

「地域社会圏」はコミュニティが"物化"された空間。

団地の再生(リノベーション)は全員が住み開き(商売)すること。

☆「地域社会圏」は空間的な提案である。その地域に固有の空間の提案である。「地域ごとの権力」を保持するための空間である。でも、こうした従来までの標準から逸脱した空間的提案はユートピアのようにしか受け止められない。私たちは、今現にある空間のうちにあってそこに過不足なく収まっていると思っているからである。空間は社会の要請に忠実に従ってここにある。特別な目的の下に設計されてここにあるとは思ってもいないからである。それは、私たちが今いる空間にいかに閉じ込められているか、いかに今の空間に拘束されているか、ということを逆に良く示しているように思う。社会という空間の内側に住んでいる私たちは、その内側から社会を見るという視点しか持つことができないのである。そこで体験している空間は標準化された空間である。それは官僚制的権力の「合理性」(フーコー「知への意志」)を維持するために標準化されているのである。その標準化された空間を批判的に眺めることは極めて難しい。どこにでもある標準的な空間はその空間を意識的に眺めることができないからである。標準的空間は空間を無意識化させるのである。その空間の無意識化は、官僚制的権力に対する無意識化なのである。

>>ディズニーランドを設計するよりも、一人一人が蜂起、変な動きをする街の方がいい<<

官僚主義社会は「横の繋がり」を許さない。

「社会は経済的利益のために組織されている。」

「その空間は美しいか?」

「地域ごとの権力」は官僚制的統治に対する反権力の可能性。

官僚制的権力は空間の統治である。空間の無意識化である。もしそうだとすればその官僚制的権力に対して「地域ごとの権力」は地域に固有の空間を発見することである。そしてそれを設計することなのである。地域の固有性という思想は"物化"されることによってはじめてそこに住む人々によって共有される思想になるのである。

アレントはそれを「生の重荷」(循環する生命過程)と言った。その「生の重荷」に耐えることができるのはなぜか。どのように耐えてきたのか。「それは人びとの自由な行為と生きている言葉の空間、ポリスであった」。ポリスとはそこに生きる人たちを永遠に記憶する空間である。その空間に対する信頼が個々の人たちの「生に輝きを与えることができたのであった」。「おまえの生は輝かしい生であった」という称賛がいつまでも記憶される空間である。それが「世界という空間」である。

ポリスは過去にあって既に失われた空間ではなおい。「世界」は今生きている私たち自身の意志によって未来の住人のために設計されなくてはならない空間なのである。これからやってくる住人のための空間である。空間は未来の住人に引き渡す権力なのである。

 

あとがき

邑落町での屈辱、怒り。小田原、天草。

俺が勝手にトレカを作っていい。

ほんの少しの差別。ほとんど気がつかない程の差別 → 微分化された暴力

「知は行為に先行する」という支配の理論

「官僚機構にとらわれてしまった人間はもうすでに有罪なのだ」その無意識がすでに有罪なのである。

→知は行為に先行しない。ものをつくる行為は服従ではない。ものをつくる行為に先だって知があるわけではない。

「美しさ」

美しい建築はその周辺環境と共に美しい。

建築は人々が自らの意志によって自らを具現化(actualize)させるためにある。

具現化とは「自分をはっきりと際立たせ」ること。

「世界」は自由と平等の舞台。

岩波「思想」互盛央。

アレントの著作には常に具体的な空間が背景にある。彼女は今の社会の矛盾をその矛盾の根幹から説明しようとしているのである。根幹という意味は"空間的に"という意味である。

今の日本は多くの私たちが考えているよりももっと厳密に管理された官僚制国家である。そうとは気づかないほどに、非常に巧みにそして緻密に官僚制的に統治されている。その統治技術の中心が"物化"のプロセスを支配することなのである。その"物化"のプロセスから遠ざけられている私たちは、だから、その統治の実感がないのである。インフラを設計し、建築を設計し、そして"物化"の中心にいつもいなくてはならないのは地域社会の住人たちなのである。私たち(地域社会の住人)はその設計に参加する権利がある。それ以上に義務がある。官僚制的権力から独立した私たち(専門家)のイニシアティヴは地域社会の住人 

 

18/4/10 読了

2017-04-09

[]「バンコクナイツ」

バンコク トゥクトゥク EDM 屋台 ビール 沈没組 寺院

アヘン ガンジャ 里見機関

イサーン 東北 ノーンカーイ 出稼ぎ

僧侶と軍隊

欧州人 戦争 日本人

ヴィエンチャン ラオス

お金がない

夜 月 森

メコン川

海 HIV

資本主義 都市と自然 刺激中毒

[]「堀部安嗣建築の鼓動」

本町荘

静謐 立ち去りがたい建築

町医者の記念館

テラス

客船 ガンツウ

落ち着き シック

洋菓子店

仏壇と書庫

夜 明かり 

静と動 光と闇 生と死

そのリズムが人の鼓動とシンクロする

ルイス・ カーン ソーク研究所