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マラカスがもし喋ったら

2018-08-08

[]篠原雅武「全―生活論: 転形期の公共空間」以文社

全―生活論: 転形期の公共空間

全―生活論: 転形期の公共空間

目次

序章 生活の失調(生活への問い/ 本書の概要)

第1章 公共性と生活(公共領域の衰退が問題なのか/ 監視と放置/ 「開かれた公共性」の陥穽/ 抽象化と停滞/ アソシエーションと公共性/ 分子的領域の失調)

第2章 装置と例外空間(刺激と無関心/ 無関心装置/ 装置と生活様式の変貌/ 装置の非対称的な配備/ 例外空間)

第3章 誰にも出会えない体制(養育の場の失調/ 生産性の論理と子殺し/ 子どもコレクティブという実験/ 生産性の論理からの解放/ 誰にも会えない体制、抑圧/被抑圧の関係性/ 痛みと出会い)

第4章 開発と棄民(植民地主義という関係形式/ 高度経済成長と生活破壊/ 「暗闇の思想」の現代的意義/ 資本への対抗か、反植民地主義か/ 棄民化)

第5章 生活世界の蘇生のために(失調と事故/ 権利をもつ権利/ 消費主義からの覚醒/ 精神の私有化と破局的状況の深刻化/ 廃墟に埋もれた未発の未来/ 生活を織り成す/ 解きほぐすこと)

 

生活=心的とも物的ともつかぬ組織体

高度経済成長 1972 田中美津

「人間の意識を管理していく要領は、人びとに己れは光の中にいる人間だと思い込ませて、闇に目を向けさせないことだ。「痛み」を「痛い」と感じさせないことだ……「痛み」を「痛い」と感じない人は痛くない人ではなく、それをあくまで光の中にいると思い込みたい人なのだ。「痛み」を痛いと感じないように呪文をかけ続けている人だ」

「痛み」を「痛い」と感じさせない体制。

生活を問い直すことの起点となるのは、痛みからの思考である。この世に生きていることの痛みは、生活という組織体の綻び、解体から、生じるものであるからだ。綻び、壊れつつある生活を作り直し、痛みの生じることのないものへと仕立て直さないかぎり、痛みはけっして軽減されず、むしろ、いっそう深刻になる。

感覚を麻痺させるこの体制

 

序章 生活の失調

アンリ・ルフェーブルの日常生活批判

藤田省三の高度経済成長批判

奥田英朗「無理」東北の衰退していく地方都市が舞台

衰退商店街

 

第一章 公共性と生活

公共性=国家から自立した市民的な領域

さまざまな人びとが集まるところに形成される共通世界、複数の人びとをつなぎ、関わらせる、間としての公共領域

藤田省三 私的安楽主義 1985「「安楽」への全体主義」

消費主義 私的なものの肥大化

私的領域/公的領域 両方が荒廃している。

監視社会化

個々人が「観測・分類・統計処理の可能な確率的存在へと還元されている」

ジョルジョ・アガンベン「装置について」

「生きものたちの身振り・操行・臆見・言説を補足・指導・規定・遮断・鋳造・制御・安全化する能力をもつすべてのもの」

「今日では、個人の生において、何らかの装置の鋳造・汚染・制御も受けていないような瞬間はない」

アーレント「暗い時代の人々」、ハイデガーの「存在と時間」に依拠して、

「人間存在についてかれの描くところによれば、現実的もしくは真正なものはすべて公的領域から抗しがたく生ずる「空話」の圧倒的な力によってうちのめされ、こうした「空話」が日常的存在のあらゆる局面を支配し、未来がもたらすあらゆる事物の意味あるいは無意味を予期したり、拒否したりしているのである」

2006年 秋田県藤里町

二幼児殺害事件

金子郁容 1992 「ボランティア」

金子はボランティア活動を巨大システム下での結びつきの間接性、抽象性、閉塞状況を打開していく潜在力を秘めたものとして評価する。

市民からは、伝統や権威に対する批判的対峙の姿勢が失われ、「予定調和的に行政や企業と協働するものとあらかじめ位置づけられてしまっている」

「現状とは別様なあり方を求めて行動しようとする諸個人を捉えて、その行動を現状の社会システムに適合的なように水路づける方策」

朝倉喬司 神戸連続殺傷事件

神戸のニュータウンで育った少年にとって、世界は一般化され抽象化されたものとして存在している。そこに暮らしている人間も同じく、一般化され抽象化されたものとして、生きている。そこでの生活も、一般化され抽象化された、具体性を欠落させたものとして、生きられることになる。

・朝倉はこの殺傷事件を、少年が生きていた状況の具体性のなさを露呈させたものとして捉える。そしてそれは、じつは私たちが生きていた、「「人間」にまつわる経験の逆転」という状況を露呈させただけではなかったか。

・私たちは、抽象化=具体性の欠如が徹底化されて行き着くところまで行き着いてしまっただけでなく、それにともない、その先が展望できなくなってしまった状況を生きるようになっている。

柄谷行人「日本人はほとんど政治的意見や思想的意見をもたない。ただ、話題がインテリアとかファッションのような「「家」の内部の生活をより豊富にし得ること」になると、異様なほどに洗練を示し、且つ雄弁になる。」

ドゥルーズ=ガタリ(ガブリエル・タルドの議論に依拠して)

集団表象と分子的領域にかんする区別。

集団表象=社会、国家、共同体など

分子的領域=新年と欲望(情動的なもの)

分子的領域の開放が課題。集団表象の問題とは別次元。

 

第二章 装置と例外空間

・情報という名の雑音。情報統制というよりはむしろい情報過多。過剰な刺激、雑音が撒き散らされていくさなか、感覚は麻痺し、本当のところいったい何が起こっているのかわからなくなる。

・このような、過剰な刺激、雑音による感覚の麻痺がいったいどういうことであるのかは、ショッピングモールにいけばよくわかる。多数多様な刺激にみちた閉鎖空間は、現実世界の動向から逃れ、何も起こらない世界を生きているのだという幻想を醸成し、人々の感覚を麻痺させていく空間の典型であるといえるだろう。

J・G・バラードの小説「千年紀の民」が提示する世界観によれば、ショッピングモールに具現化された空間の論理は、いまや惑星のいたるところに、有無をいわせずひろまりつつある。惑星の総体が、潜在的にはショッピングモール的なものになりつつある。多くの人が知らぬ間に、ショッピングモール的な空間を成り立たせている論理とでもいうべきものにしたがって生活するようになっている。

・「大量虐殺戦争、世界の半数が貧窮で、残る半数は脳死状態で夢遊病者のように彷徨っている。われわれはそのくだらない夢を購入してしまい、いまでは目覚めることができない。」(1996「コカインナイト」)

・バラードは、この状態を、脳死状態、夢遊病者の状態だという。無関心、無感覚、現実世界の衰微としかいいようのない状態が人びとのあいだに蔓延しているということだ。無関心、無感覚は、雑音的な余計な刺激が過度に撒き散らされている状況下で、半ば条件反射的につくりだされているのではないか?

・無関心の蔓延

・「原子力都市」矢部史郎柏崎市そのものに漂う無関心。柏崎市に対する東京の無関心。

・この無関心は、近代人の酷薄さ、公共的徳の劣化といったことだけでは、説明がつかない。矢部は、この無関心が、メディアによる嘘と秘密の全域的・恒常的な利用によって維持されているという。「嘘と秘密の大規模な利用は、人間と世界との関係そのものに作用し、感受性の衰退=無関心を蔓延させる。」

・鈍感になるように働きかける空間。

・私たちの生活様式そのものが、無関心と無感覚の論理に浸潤されつつある。

・ティクーン(Tiquun)ウェブサイト「装置」

この論考によれば、現代人はまず、世の出来事に無関心になっている。世界に対し疎遠な状態、世界が欠如した(world-poor)状態にある。

・車社会

・装置の論理に忠実にならねば生きていけない状態において普通に生きていこうとするなら、それをかき乱す出来事には鈍感にならざるをえない。むしろ、それに鈍感になるほうが、生きていくうえでは楽なのだ。

・装置が維持する円滑性、安定性はじつのところは作為的に創出された人工物である。

アガンベン「現代の装置の特質は、主体化プロセスを欠いていること、脱主体化しか起こらないこと。」

・「膨大な脱主体化プロセスによって貫かれた、惰性だけで動く生気のない身体たちの群れ」

・高度成長 大量生産 大量消費 人間の経験のあり方が、根本的に変容していく。

・洗濯機一つとってもそうである。桶に水をはり、洗濯機をいれ、洗濯板でゴシゴシ荒い、すすいで絞って干すという一連の動作が、自動洗濯機の導入によって省かれる。水に手を浸すことによる「冷たい」という感覚が、石けんによる手荒れが、ゴシゴシすることによる疲労が、すべて除去される。藤田はこれを「不快の素の一切をますます一掃しようとする「安楽への隷属」精神が生活を貫く」過程と把握する。そこでは、物との相互交渉、驚きにみちた対面といった可能性が、回避され、除去され、排除されていく。

・利便性の追求と不快の除去

モブ・ノリオ「ダンスクラブ摘発を考える」

装置化=都市空間の浄化

貴重な集いの場であるクラブ空間の消滅

ジョン・バージャー 2011 ロンドン暴動

「8月8日、子どもたちは暴動をおこした。なぜならば、彼らには未来もなく、言葉もなく、行くべきところもなかったからだ」。彼らは、消費主義に絡めとられた都市空間では不可視であり、存在しえないものとして扱われている。

・単一の流動的な市場へと呑み込まれていく都市空間は、消費のための区域と化した。そこで消費者は

「消費しないかぎり、茫然自失していると感じるか、もしくはそう感じるようにさせられる」。消費することではじめて、自分が何をしているか、どこにいるかを実感できるようになる、というわけだ。

・暴動を起こした若者たちは、この消費者の茫然自失状態において、完全に無視されている。知覚されない状態にあるものへと追いやられている。

・装置に絡めとらえぬものがある。だが装置は、これを執拗に絡めとろうとする。痛みが、辛さが、現れないようにする。感覚させないようにする。それでも、痛みは打ち消しえないものとして、執拗に残存する。

・(ショッピングセンター)この空間は、その外部を寂れさせていく。装置化が及ぶ範囲は、自足した空間内部に限定されるが、この限定は、その外を寂れさせるということと裏腹の関係にある。

・富田克也、相澤虎之助 2007「国道20号線」。甲府の国道沿いでは、90年台後半に、風景が変わった。まずはドンキホーテができ、さらに消費者金融のATMが、イオンといったショッピング施設ができた。つまり、どこにでもある均質的な風景へと変貌した。だが、富田と相澤が着目したのは、風景の均質性ではない。むしろこの均質性の隙間に現れた「やばいもの」である。

・パチンコ店と道路を渡った向かいの駐車場のなかに併設された消費者金融

・齋藤純一「近さ」「親密さ」

・西川長夫「植民地なき植民地主義」。グローバリゼーションは、第二の植民地主義。「植民地は世界の到る所に、旧宗主国や覇権国の内部においても形成されうるからである。新しい植民地の境界を示しているのは、もはや領土や国境ではなく、政治的経済的な構造の中での位置である」

・これに対し現代においては、植民地主義的状況が、植民地的関係性が明示されないやりかたで、グローバリゼーションというイデオロギーのもと、世界のいたるところに形成されつつある。

「「われ買う、ゆえにわれあり」という信条と所有的個人主義とが一体となって、表面上は刺激的だが、奥底では空虚な、偽りの満足の世界」デヴィッド・ハーヴェイ新自由主義

 

第三章 誰にも出会えない体制

・養育という相互性の回復は、弱さ、依存ということの意味の問い直しを不可欠とするが、これは合理性、効率性を第一義とする管理機構に侵蝕される社会とは別の社会をつくりだす原点となりうる。

・海と出会う話

・田中美津「いのちの女たちへ」。「<結婚こそ女の幸せ><子供こそ女の生きがい>という耳ざわりのいい言葉がさしのべられれば、女という女のほとんどが、メスとして生きる道に、活路を見出そうとするのは<女の意識性の低さ>故の問題では決してあるまい。」

・生産性の論理のもとでは、男も女も、痛みを痛いと感じることができないようにさせられている。たとえ痛みが生じていても、それを痛いこととして感じさせない装置が、いたるところに配備されている。痛みから目を背けさせ、鈍感にさせる、無関心にさせる、そういう装置が配備されている。

・それが田中のいうコレクティブ(集合体)である。つまり、「出会えない体制の中で、最大限の出会いを追求していく場」

・子供コレクティブ=「母子一体化幻想」を破壊するための実践(実験)。

・「だが、まちがえないでほしい。子供と「共に」生きるんじゃない。子供と共に「生きる」んだ。」

・女同士、背を向け合って生きている不毛から抜け出したい。日常の暮らしでいかに自分たちが背を向け合っているか、分断されているか、出会えないかを、痛感しつつ共に生きる。そこで、いかなる共同体が可能であるかを共に問う。

→共同保育所

・生活の失調は、制度や構造の不調というのでは捉えられない。それゆえに、この失調は、普段は知覚しがたいところで進行している。虐待や殺害などというようにして何かが起こってしまうことでしか、顕在化しない。

・日常生活に課された分断と敵対の体制、これが人間的なものを脅かしていると、田中は直感的に把握していた。それは、人間性が生産性の論理へと絡めとられ、馴致されていくことである。男らしさの論理は、人間を、労働力商品へと仕立て上げ、そこでとり乱さずに生きていくよう、自己凝固を強いる。それに対し、女らしさの論理は、女を子産み機械に仕立て上げていく。家事育児に、女を縛り付け、それに満足することを強いる。

第四章 開発と棄民

西川「いまでは植民地主義が「継続」していることを指摘するだけでは足りないだろう。それは形を変え、より強力に、したがっていっそう危機的な形で世界を支配しているのだから、そして危機的な形で世界を支配しているのだから。そして危機的な状況において真実が姿を現わすという真理はここでも正しいのではないだろうか。私たちはここまで来て、植民地領有は植民地主義の特定の段階を示すものであって、植民地主義は必ずしも領土としての植民地を必要としないのでは、という一見不条理な、だがおそらくはきわめて本質的な問いに直面せざるをえない。」

・次第に洗練されてきた支配の関係形式が、全世界を覆い、日常生活のいたるところに浸透し、人間の生活形式を徹底的に変えていく。

エメ・セゼールが「植民地主義論」で提起した、植民地化=物象化という方程式は、けっして過去のことではない。それは現在、私たちが日々経験していることである。セゼールがいうには、植民地化する者と植民地化される者のあいだには、「いかなる人間的接触もなく、あるのは支配と屈従の関係であり、その関係は植民地化する側の人間を一兵卒、曹長、看守、鞭に変え、原住民側の人間を生産のための道具に変える」。さらに、この支配と屈従の関係におかれた被抑圧者である原住民の側では、社会が形骸化し、文化が踏みにじられ、土地が奪われ、宗教が蹂躙され、芸術が壊滅させられていく。抑圧された人間が生産道具へと変えられ、生活世界が破壊される。

甲田寿彦 産業公害について、「煉獄のような産業公害がなぜ私たちを脅かすのか。脅かす人間と脅かされる人間がどうしてつくられたのか。脅かされている人間の忍従と犠牲によって、脅かす人間の経済繁栄が保証されて来たことに、やがて私たちは中央と地方の同心円的な関係を見出すであろう。」

・開発も、一種の植民地化である。植民地なき植民地主義の典型であるといっていい。国家総体なるものが、地方に対し、忍従と犠牲を強いる。国家は経済成長し、豊かになっていくかもしれぬが、その豊かさは、地方における生活破壊を必然的に引き起こしていく。そこでは、植民地主義的な関係形式が強制されているのだ。

・高度成長期から70年代にかけて、日本列島各地では、ニュータウンが建設された、均質的で人工的な虚構のような街なみである。だが、このニュータウンが建設され、地方出身者をはじめとする若い夫婦が住まい、子供を育てて暮らし始めたまさにそのとき、農村や漁村では、大規模な開発による生活破壊が進行していた。その破壊は、そこに暮らしている人々の心身を、蝕んでいくものだった。

ニュータウンの拡張にともなう列島の虚構化、消費社会化がすすむ裏では、あまりにも惨い破壊が、着々と進んでいた。それは、ニュータウンに普通に暮らしているかぎり、なかなかみえてこないし、感覚されることのない現実であった、ニュータウン的なものの成立と農漁村の開発=破壊は、抑圧/被抑圧の関係にあったといえるだろう。開発による破壊の痛みは、ニュータウンでは感覚できない。それは、開発がまさに行なわれている現地でしか、感覚できない(だが現地でも、補償金のせいで感覚できなくさせられるのだが)。

・ニュータウンの人工性、虚構性 → 若林幹夫「郊外の社会学」

豆腐屋 松下竜一 暗闇の思想 配達の途中 河口の橋を渡るとき、橋上から、周防灘の沖に向かって開かれた風景を眺めていた。色んな種類の鳥の風景。

稲葉振一郎 動物化

宮本常一「<島>をめぐる方法の苦闘」

柄谷行人 資本主義の対抗運動は 生産しない(働かない)ことと、消費しないこと

ネオリベラリズムと表裏一体のナショナリズム。「われわれ」意識を経済的な豊かさで下支えすることが困難になりつつある。

「われわ日本国民」まず、同化(暴力)の限りを尽くし強制的に日本国内に居住させた236万人余の朝鮮人を、異族の民として分離する。さらに天皇をはじめとする上層の日帝本国人を守る為に、島民の四分の一の命を奪った沖縄、そこに生存した沖縄人民をあっさりと棄民する。こちらは米国への天皇からの貢ぎ物であり沖縄の二次使用であった。

・自分も「国の発展」に貢献し、その担い手として、国民として包含されているという自負が、開発のために自分たちの生活世界の推力が失われるという現実を見えなくさせる。この乖離、矛盾が、日本国民という幻想に絡めとられた意識において、隠蔽されてしまう。

・松下「豊穣なる本物を喪い、その薄っぺらな代替物が氾濫しているにもかかわらず、それと馴れゆき、逆に本物には耐え切れぬほどに精神は衰弱し始めている」。

これにともない、それは棄民されうる被支配者だという自覚も、希薄になっていく。国民へと包含され、絡めとられていく過程で、こうした自覚は否認されてしまう。

・田中美津と松下竜一は、70年代前半という、やはり経済成長の負の問題が激しく問われた時期に、別の生き方を模索した先駆者であったといえるだろう。二人ともに、痛みを痛いこととして感知しようとするところから、思考し、行動した。棄民であること、被支配者であること、であるがゆえに民衆であること、こうした自覚がその核心にあった。

 

第五章 生活世界の蘇生のために

アリストテレス「事故[=偶有性]は実体を露にする」

ポール・ヴィリリオ「「実体」の発明は「事故」の発明でもある」

原発事故 殺人事件

・覚醒とは、眠り込んでいる状態からの目覚めを意味するのだろうが、ではいったい、私たちはどのような微睡みの状態を、これまで生きてきたのだろうか。さしあたり、それは消費主義だったと、考えることができるのではないか。日本の消費主義、それは資本主義的な経済システムの転換(生産から消費主導の経済発展への転換)だったというだけでなく、「シラケ」ること、シニシズムの蔓延である。

マサオ・ミヨシ「オフ・センター」

「体系的に脱歴史化された日本の集団的非個人は、西洋もそれ以外も含めて全世界の国民や国家を、自己を空虚にし、理想もなく、目的も喪失した生産と消費、そして白日夢のディストピアへと導きつつあるように思える」

・シニシズムとは、消費主義により創出されたこの空虚、没理想状態を基礎とする精神状態である。シニシズムはけっして価値中立的ではないし、醒めた現実認識でもない。シニシズムは、消費資本主義というシステムが絶対に揺らぐことのないものだという信念に根ざす、一種のイデオロギーである。

・消費主義の蔓延のもとで、いったい何が忘却されたか。何が隠蔽されているのか。まずなによりも、それは、抵抗の(あるいは覚醒の)記憶である。

市場原理主義の元、教育や保育をはじめとする公的なものの私有化/商品化、労働力のいっそうの商品化、土地の商品化。

>>これを逆戻りさせるべき<<

進歩史観的な消費論=消費者欲求の絶え間なき変化は進歩であり、基本的には肯定すべきである。ここに兆しつつある「時代の感性」を信じなくてはならない、という言説の支配、コントロール。フーコー案件。

・「経済成長は行なわれよ、たとえ世界は滅びようとも」というわけだ。破局的状況のありうべき帰結を想像させないようにする装置は、今後もますます配備されるし、さらなる進歩を遂げるかもしれない。3.11のショックの凄まじさは、想像力の目覚めのきっかけとなったが、それとは真逆の、なおも微睡ませようとする思想的傾向性が、いっそう強化されるはずだ。

3.11は、進歩という強風のもとで進行していた廃墟化の実相を、あらためて突きつけた。

これが破局的事態であるというのは、ただ単に原発の危険性に異議申し立てするだけでは十分でない、ということだ。この消費社会化という進歩主義により絡めとられ、微睡まされ、貧困化しつつあった想像力を、目覚めさせる好機とすべきである。

・藤田「戦後、国家の崩壊が持つ明るさ。欠乏が却って空想のリアリティを促進し、混沌が逆にコスモス(秩序)の想像力を内に含んでいた。」

・人を「出会わせ」、生活を再活性化する。その回路、場の創出こそが、切に求められている。

伊藤計劃「ハーモニー」<父性>と<母性>

・惑星に依拠した全体性(planet-based totality)

 

あとがき

岡崎京子リバーズ・エッジ」 あたし達は 何かをかくすために お喋りをしてた

何かとは何か

 

8/23読了

 

山形浩生の批判。

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