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はにらぼだいありー

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2015-05-28

生い立ちと記憶

1982年 誕生

田舎の農家の長男として生まれる。
尚、父は5人姉弟で姉4人の末っ子長男
もはや十字架を背負っているレベルの長男として育て始められる。

1987年 四倉第二幼稚園入園

スイミングスクールに通いはじめる

喘息であることが判明していたため、スイミングスクールに通わされる。
水泳も嫌いではなかったが、スイミングスクールの直ぐ側にあるショッピングセンター
DIYコーナーにある電池や豆電球やエナメル線を見るのが楽しみだった。
更に、併設していた体操教室にも通わされたため、
マットや跳び箱が人並みにできたり、側転ができたりすることはあまり知られていない。

「電気とかに使う頭があったら並ぶっていうことをすればいいのに」

当時、親戚のおじさんに貰った電池や豆電球で遊び始めていたせいで、
幼稚園の遊び時間にお絵かきノートに書く絵は、電池電球コンデンサトランジスタばかりだった。
学研まんがひみつシリーズ「電気のひみつ」は隅から隅まで暗記していた。
単一電池から単五電池、角型006pまで、規格名と電圧を図鑑のように書いていた。

ある日、事件が起きる。
通っていた幼稚園ではおやつの時間として、肝油を一個配られる。
これは先生が教卓のところに持ってきて、順番に並んでもらうのが決まりだった。
並ぶ方向がきちんと決まっているわけではなかった。
その日はたまたま自分が一番最初に机の前についた。
しかし、次と、次の子は机の別の場所についた。そして列はその方向に伸びた。
先生はその列の方に肝油を配り始めた。
俺は抗議した。「なぜそっちに配るの?」
先生はただ、「列に並びなさい」と言った。悲しくて涙目になった。
それだけだったら、こんなに覚えていないだろう。

後日、自分はいつもの様に乾電池を書いたノートを見せて、教室の後ろのほうで
同じクラスのT.WとZ.Hに、これが電池だ、電気とはすごいものだ、ということを説明していた。
その他にも数名がよく話を聞いてくれていて、ひろみつの電気教室だ、とも言われていた。

その時、教室で2人の先生が世間話をしていた。
Y.K先生と、S.S先生だ。
Y.K曰く、「あの子は、あんな電気のことばっかりで頭がいいみたいだけど、
列に並ぶとかそういうことには頭がつかえないみたいだ」と。

教室の後ろのほうで夢中で絵を書いて話をしている幼児が
そんな話を聞いているなんて思っても居なかったんだろう。
当時、担任のY.Kより、隣のクラスのS.S先生のほうが優しかったのでよく話していた。
その先生に、そんなことを言われたのが物凄くショックだった。
「電気教室はもう終わりだ」
そう言って、書いていた絵を途中でしまった。先生は気がついたんだろうか?
その後、どこに向かったかわからないが、その教室にはもう居られないと思った。
それ以降、電気教室は二度と開かれなかった。

まぁ、オームの法則を知っている幼稚園児は、異端だと思うけど。

いじめられたらやり返せ」

幼稚園時代、別にデブというわけではないだろうが、
体が大きかったせいで、不当にデブ扱いされることがあった。
知る限り、俺が21kgだった時、同級生のT.Sは26kgはあったし、
名前を逆に読むとおにく だからといじめられがちなK.Sは35kgはあった。
が、何故か、デブと扱われることがあった。
ある日、砂場に水の道を掘り、すぐそばの水道から水を流して遊んでいると、
T.WとZ.Hがやってきて「ひーろーみーちでーぶ!」と妙な節を付けた歌を歌いながら
砂場の砂を蹴飛ばして俺にかけ続ける。
ひろみつじゃなくてひろみちと言われるのも気に入らなかった。
でぶと言われるのも納得がいかなかった。
そこで黙ることなく、先生に言いつけたところ、
「やられたらやり返すんだ」と言われた。
更に、気を利かせたんだかどうか知らないけど、先生は自宅に電話をしてくれたが、
「やられたらやり返せと指導しましたので」と聞いたと母に言われた。

やられたらやり返さないといけないんだ。何も悪いことしてないのに。

1989年 大浦小学校入学

テトリスの思い出

2年生ぐらいの頃、地区(隣組の上の組織)子ども会のクリスマス会があった。
少し離れた集会所に子どもたちが集まって、なんかパーティ的なものがあったんだと思うが、
そこに同級生ゲームボーイを持ってきていて、テトリスをやらせてくれた。
俺はその時までそれを触ったことがなかったのでわたわたした手つきでテトリスをやった。
当然、数列消すのがやっとでゲームオーバーになった。
それを後ろから見ていた同級生Z.Sの母親は言った。
「頭がいい子は、こういうゲームはできないんだよ」
どういうつもりだったんだろうか。

1〜6年まで 宿題は一切やらなかった

家に帰ると母親が別に買ってきた計算問題集や漢字ドリルをやらせていた。
「教科書ワーク」というものだったと思う。

小学校1年生

1年生の時、一番最初のテストは一番早く仕上げて満点だった。

宿題というものが出るようになった。

母親は商業高校出身で、算盤と暗算がある程度出来て、東京証券会社に勤めていたことがあった。
同級生は何人か、同級生Y.Sの母親がやっているそろばん教室に通っていた。
が、うちでは母親が買ってきたそろばんの問題集をやらされた。
その他にも、算数と漢字の問題集をやらないといけなかった。
それより簡単な宿題は、やる気が起きなかった。
簡単な計算ドリルや漢字の書き取りだった。
宿題は、学校に行って居残りをして片付ければすぐに終わるものだった。
が、ほとんどやっていかなかった。
家では問題集をやらないと叩かれるから。
問題集と母親がつきっきりで叩きながら字を練習させたお陰で、字はかなり綺麗になった。
2年生までは、校内書写展で金賞を取り、学校から数名選出される書写展に送付されていた。

小学校3年生

小学校3年生の時、家で問題集をやっているのに、宿題をやっていかないことについて
担任と母親の間で連絡帳を通じてのやり取りが何度かかわされた。
びっしり書かれた連絡帳を毎日やりとりさせられるのが苦痛だった。
この担任は、4年まで担任だったが、結局、宿題はあまりやっていかなかったと思う。

小学校4年生の時、妹が使っていたセーラームーンRの下敷きを貰い、
学校に持って行って使ったところ、一部の男子にいじめられるようになる。
が、別にいじめをする同級生のことなどあまり気にしなかった。

当時、小学校では男子はサッカードッジボールが主流だったが、
あるとき女子の中で長縄が流行り、ソッチのほうが面白そうだったの混ぜてもらって遊んでいた。
すると、クラスの男子が一斉に無視をするようになったが、別に気にしなかった。
そんなある日、帰り支度中に教室後ろのロッカーからランドセルを取り出そうとしたところ、
念のためと入っていた小銭がランドセルからこぼれ落ちた。

すぐそばに居た隣のロッカーの所有者、Y.K、クラスの中心的声の大きさだった、は
「あっ!おかねだ!もらい!」と言い出した。
俺は、そのお金に対して何の執着もなかったし、くれと言っているのだから、と
「あげるよ」と言った。Y.Kは、驚いた顔をした。

「お前はいいやつだな。いじめるのをやめる。ただ、女子と遊ぶんじゃない。」と言われた。
この時、女子と遊んでいたせいでいじめられていたことを知った。

この頃、毎年夏休みに3〜5泊の家族旅行が行われるようになった。
それに加え、家族旅行の日程や道程、立ち寄ったSAのスタンプやレシート、写真を
A3の色画用紙に貼り付けて、「旅行記」というものを作成することが母親によって義務付けられた。
更に、5泊であれば原稿用紙40枚分ぐらいの旅行記作文を書かなければいけなかった。
原稿用紙の途中で大きな間違いがあったら、紙の先頭から書き直しをさせられた。
文章はほとんど母親がその場で口述していた。
色画用紙20枚ほどの旅行記と作文を穴あけパンチ、綴紐で閉じる。
それを始業式に持って行って担任に出さなければいけなかった。もちろん、宿題ではない。
提出したものは、教室の後ろのロッカーの上に飾られたので、興味深く見る人もあった。
一体何の意味があったのだろうか。

小学校5年生

小学校5年生、転機が訪れる。
当時、水泳の県大会で入賞したり、自分で色々な実験をしたりして、
その成果を友人や先生に話すのが好きな、話し好きな少年だった。
ある日、確か委生物員会活動の時間、水槽の水換えをしながらに、
用務員のおじさんにいつもの話をしていたら
通りがかった担任でも何でもない音楽教師ババアT.Oに
「そんなこと自慢してどうするんだ。自慢高慢馬鹿のうち、って言うんだぞ」
と言われた。
最初は何を言っているかわからなかった。が、どうやら、俺が普段話していることは
バカのやることだし、周りが不快に思っていて話を合わせているだけだからやめろ、ということか、
ということが理解できた。

その日以来、先生に学校以外の話をするのはやめた。
嬉しかったこと、楽しかったこと、人に話していいことと悪いことがわからなかった。
だから、急に口数が減った。人と何を話したらいいのかわからなかった。
家でもあまり話さなくなった。完全に、分かり合った一部の人と以外、プライベートは話せなくなった。

この頃、チック体動が現れるようになる。
肩を動かす、首をひねるなどの動きが多かった。
母は、当時喘息で通っていた小児科でそれを伝えたところ、ストレスが原因ではないか、と言われた。
が、それ以上原因を追求することはなかった。

小学校では、S.Tを筆頭に「びっくりしゃっくりせき出病」と言われてからかわれた。
が、出るもんだからしょうがない。
しばらくして、あまりにもからかわれるので、頭に来てそいつの腹に軽くパンチを入れた。
S.Tは逆上して椅子を振りかぶり、俺の頭に振り下ろした。

ものすごく痛かったわけではないが、あたったところを触ると、血が出ていた。
保健室から菅波整形外科に連れて行かれ、3針縫い、そのまま早退したと思う。
その日、S.Tがその母親に連れられて謝りに来た。
頭を切ったため、毎日行かなければいけなかった水泳は、2週間ぐらい休むことになった。
その日は、水泳を休んだおかげで初めてレイアースアニメをオンタイムで見れた。
腹にパンチを入れられて、痛かったので、というが、その大小として椅子を振り下ろすのは
ずいぶんひどいなぁと思いつつも、別に相手をそれ以上どうこうする気はなかった。
明日から、また同じクラスメイトとして変わりなく、という母親同士の言葉を持って解散となった

小学校6年生

男性教師に宿題をやってこないことをしつこく咎められる用になる。
授業が始まって、数十分、ひどい時は授業時間まるまる立たされてなぜやってこないのか責められた。
「お前のせいで授業時間が無くなったじゃないか」と言われたので、
俺が宿題をやってこないことと、授業時間が無くなったことに関係はない、と言ったところ
おもいっきり殴られた。

改めて、「宿題は俺の役に立たない」と主張したところ
「宿題やらないならテスト全部100点取れ」と言われたので、
20回ぐらい100点取りつづけたら
ある日突然ぶん殴られた。さとうかつひろ、許さない。


ある日、学校のトイレで小便をしていると、ふと上機嫌になったので
割と大きな声で歌っていた。エコーが気持ちよかった。
すると、担任他1名の教師がトイレにやってきた。廊下の反対側の職員室まで聞こえていたらしい。
「なんだひろみつか。誰が歌っているのかと思った。どうしたんだ。」といわれた。
「いや、なんとなく。特に理由があるわけではない」と答えた。
「そうか。まぁみんながびっくりするから、トイレで歌うのはやめてくれ」と言われた。
「わかった。」そう答えた。

あれ、何この卜部さん。
なんかどっかの回路がちょっと変だったんだろうか。

虚言癖発動(UFOがよく見えた)
空を自由に飛びたいな

小学校に七夕集会というのがあって、各クラス笹一本、短冊を一人一つ書いてぶら下げ、
体育館に全部集合というのがあった。
4年生の時である。特に願うことなどないわ、と思ったが、
誰かが叶えてくれるなら、「空を飛べるようになりたい」と書いた。
水泳をやっていた人にありがちだが、すごい低空飛行で飛ぶ夢をよく見ていたので、
そのぐらい飛べてもいいんじゃないかな、と思った。

翌日、担任の先生が何かを心配して自宅に電話をかけてきたらしい。
悩み事か何かがあるんじゃないかと思ったらしいが、母が一笑に付したらしい。
まぁ、実際そうだったんだが、実は心のなかに解決できない何かがあったんじゃないか、とも思っている。


どうやら、小学校4年生で七夕に空を飛べるようになりたい、と書くのはNGらしい。

1995年 四倉中学校入学

最初の定期テスト

中学校始まって最初の定期テスト中間テスト
四倉中学校は、田舎の大浦小学校と街の四倉小学校の2つの小学校から子供が来るので、
このテストの結果でカーストが決まる。
十番中学校では(※セーラームーン)成績が廊下に張り出されていたので、
それと同じように貼りだされて、見事一位を取ってカースト最上位へ行こうと思っていたのだが
どうやらその前の年から張り出しをやめてしまったらしい。
更に、結果は5教科計469点で2位という結果。ショックを受ける。
まぁ別に隠すもんでもないから適当に2位だったわーとか行ってたら
一位を取った街の小学校の女子がクラスまで誰が2位なのかを確認しに来て仲良くなった。

尚、小学校でも頭がイイというのは普通に知られていたが、そこまでとは思っていなかったらしく
(小学校で塾に行ってたり、くもんをやってた連中は大したことない点数しか取っていないし)
同じ小学校の女子が俺と同じ塾に行き始めたりとする衝撃もあったらしい。

その後、例の1位女子に教科書を貸すことがあったが、帰ってきた教科書に
「教科書ありがとう。本当にセーラームーン好きなの?」
と書いてあって、人の噂話こえーと思ったりした。

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