登場判定はテレポートじゃないよって話

初日の出

登場判定への不満の一つに「まるでテレポートみたいだ」という意見がある。
このエントリーではそれについて思ったこと考えたことをいくつか書く。


「テレポートみたい」と言われる状況とは具体的にどういうケースなのか?
例えば、前のシーンと次のシーンの場所の物理的な距離が、どう考えても到着するのに数分はかかるのに、登場判定に成功したからというだけで登場できてしまう、そんな状況。
もう一つの例を考えると、そのシーンで描かれる場所は一部の人しか知らないのに、やはり登場判定で難易度以上の達成値を出せたからということで登場できてしまうというという状況。

後者の例では、「土地勘や交通アクセスのしやすさを抽象的に扱うために社会や事情通の能力や技能で判定した」とかそういうことくらいしか思いつかない。
ので、ここではおもに前者の例について考える。


私からの答えを端的にいうと、前のシーンの終了時点と、次のシーンの開始時点との間隔がほぼ一瞬だと決めつけるものではないだろう?というもの。
シーンとシーンの間は数分しか経ってないかもしれないし、一時間ほどの間隔があるかもしれない。
GMが明言しない限り、特定することではないんじゃないか。
シナリオの始まりと終わりで2〜3日かかるようなものだと、シーンの間が2〜3時間くらいないと逆になりたたないような局面もあるのではないか。
さらに、現代ものや近未来もので、舞台となるのが都市部に限定していているのなら、どこからどこに移動しようと数十分もあれば充分だろう。


じゃ、シーンとシーンの経過時間はいつ決めるたらいいのか。
それは「必要になってから決めたらいい」のでないだろう。
あるPCが場面に登場した、そのことから逆算的にシーンの間にかかった時間をなんとなく求めればいいのでは。


あとから決めるってやり方が気持ち悪いって人もいるかもしれない。
そういう人に対しては、シーンとシーンの間の時間や距離を明言したほうがいいだろうな。
シーンとの間が距離が離れていれば登場判定の難易度が上げればいいし、シーンとの間の時間が長ければその分逆に登場難易度を下げればいい。


ただ、シーンとシーンの間の処理を省略するってのがシーン制度の利点なので、現在進行中のシーンの時系列をさかのぼってシーン間の演出するのってどんな利点があるのかというと、かなり疑問が多い。
そもそも自分から書き始めたことなのに、そのプレイ風景を想像してみると、なんか面倒くさいというか気持ち悪いというか、そんなことを思い始めた。


最後に。舞台が現代物なら、まぁ仮にこの解釈でいいとして、じゃあファンタジースペオペといったジャンルならどうなるのかって言われると、結局なんの回答もできないんだけどね。

トーストとピーナッツバターの新しい関係

最近の朝食の食パンに塗っているのは「ふんわりホイップ ピーナッツバター」というもの。
通常のよりお値段が張るだけあって、そこら辺の安物のピーナッツバターとはたしかに一味違う。


ところがここにピーナッツバター特有の問題が発生している。
そうつまり、トーストしてない食パンに塗ろうとしてもうまくいかないのだ。
ピーナッツバターを塗ろうとすると、食パンの表面がダマになってピーナッツバターにくっついていき、ピーナッツバター自体はパンの表面に馴染むことなく、ただ塊のまま食パンの上を転がっていく。
「じゃトーストにすればいいじゃないか」という声が出てくるかもしれない。
しかし私は食パンをトーストにはしたりしない。できない理由があるのだ。
それはなぜか? 食べた後になって胃にもたれるからだ。
いつ頃からそうなってのかは分からないが、トーストを食べたあと20分から30分たった頃、胃がどっしりと重たくなってくる。ただ単に水分をきちんと摂取してないだけかもしれないが。
それを回避するためにも食パンは生のまま食べる。ああいや一応ジャムとかバターとか塗ったりするが。とにかくトースターの機能はもう使うことはないだろう。
とはいえトーストしたほうがピーナッツバターは塗りやすいのは事実。
おそらくだが、トーストの熱が伝わったピーナッツバターが少しだけ溶けることでパンの表面に塗りやすくなっているのだろう。
だがトーストにする訳にはいかない。
そこで考えたのが、「食パンを電子レンジで軽く温める」という手法。ようは食パンの熱がピーナッツバターに伝わればいいのだから。
結論をいうとこれは失敗だった。
食パンはたしかに温まったが、その分水分が失われた。こうなったらもう歯で噛みちぎらないとまともに食べることができない。


そこでまた逆転の発想だ。
温めるのはパンのほうではなく、ピーナッツバターのほうを温めればいいのだ。
適量を小皿に取り、電子レンジで1分ほど温める。それを食パンに塗る。
これで「ふんわりホイップ」なピーナッツバターの本領発揮だ。
なめらかな触感、ボリューム感あるしっかりとした風味。
ピーナッツバターの新しい世界基準の誕生だ。


ということを朝食4日分を犠牲にしてようやく結論づけたときには「ふんわりホイップ ピーナッツバター」はもう二食分しか残っていなかった。

創作として軸がぶれている

ドラシティを制作するとき、一番ズレてはいけない軸、守らなきゃいけない核の部分、それは「香港アクション映画をみんなで撮影する」ということ。

なぜ「香港アクション映画」なのか?
行為判定のテンポのいいコンボのシステムが、香港アクションや格闘ゲームの雰囲気にちょうどいいと思ったから。

では「香港アクション映画」とはなにか?
ワイヤーアクションの多用。
キレのある伝統武術によるアクションと勧善懲悪のシンプルなストーリーライン。
ジョン・ウー作品なら二丁拳銃と鳩、といったところか。
代表的な作品をリストアップして、香港映画の最大公約数的な要素を抜き出すことは、たぶんそこまで難しくない。

それでは、なぜ香港で「香港映画」が作られるようになったのか?
香港映画が生み出された、その土地柄というか背景というか、そういうものがあるのだろうか?
ドラシティの舞台設定を作るにあたって、そういった「香港映画が生み出された素地」というものを持ってこなくてはいけないのではないか、最近はそういうことを考えている。

なんかのドキュメンタリーで見たことだが、ナイジェリアの映画産業はすごいことになっているらしい。
ナイジェリアのノリウッド映画が世界第3位だとかいやもう第1位だとかニュースでやっていた。ソースは見失った。


ハリウッドにしろ、香港にしろ、ムンバイにしろ、ナイジェリアにしろ、その地だからこそ映画産業が花開いたという共通の要因はなにかあるのだろうか?


そのこととは別においといて、もともとドラシティはメタ視点の色が強い。
アンケートにも「協力して映画を撮ってるみたい」と書いてもらったことがある。
技能グループにも<撮影>なんてものがあるくらいだしね。

カッコよく死ぬために、必要なことってなんだろう

 最近の思考実験のテーマの一つに、「PCを積極的に死に向かわせる」「PCが死んでPLが喜ぶ」そんなゲームはプレイできないものか?と考えている。

 ちなみに今回は、前回の「トーキョーN◎VAは本当に好き嫌いが別れるのか」の続きのようなものです。


 トーキョーN◎VAというゲームは、あえて端的な言い方をすると「生き残ることよりもスタイルを貫くことを大事にする」という側面を持っている。

 「スタイルを捨てるくらいなら死んだほうがマシ」なんて言ってみたいセリフだが、結局は死亡は避けるべきもの、積極的に自PCを殺すようにしむけることはまずしない。
 トーキョーN◎VAも古い版ではPC同士が対立することも珍しくなかったんだけどねー。



 なぜ「PCが死んで逆に盛り上がるようなシステム」を考えているかというと、理由は以下のとおり。

(1)「たとえ死んでも守りたいものがある」という状況をロールプレイしたい。

(2)ゲームバランスを間違えても、セッションの失敗とさせない。
GMの調査ミスのためか、単純にダイス目が悪かったかもしれないが、それらのせいでPCが死んでも、大成功とまではいわなくてもいいから、少なくとも失敗とみなさなくてもすむような、そんなシステムを考えたい。

(3)普通とは違うことをしたい
「PCは殺さないようにするもの」という常識を破れないものか、それでいてTRPGとして楽しめるものはないか。割りと左道な理由。


 ではなぜ「PLは自分のPCを死なせたくないのか」

(1)担当するキャラクターがいなくなると、ゲーム中ヒマになるから。
(2)愛着を抱いたキャラが死ぬのは悲しいから。
(3)ゲーム的には敗北だから

対策(1)ヒマにさせない方法
 → 1.1.すぐに別のキャラクターで遊べる。
  → 1.1.1. PCは死んでも転生できる。または、PCにはクローンがいる。
  → 1.1.2. 豊富なサンプルキャランターが用意されていて、その他の追加設定(ライフパスなど)もすぐ簡単に終わる。
  → 1.1.3. 新しいキャラとして途中でセッションに参加しても、シナリオの途中からスムーズに入っていける方法をなにか考えてみる。
 → 1.2. 自分のPCがシーンにいないとき、NPCや敵を担当する。
  → 1.2.1 田中天氏のようなプレイスタイルをシステムに組み込むような何かを考えてみる。

 転生できるとかクローンがいるとか、どっかのシステムで見たような・・・。

対策(2)キャラへの愛着があるため
 → 2.1.過度の愛着を持たせない。
  → 2.1.1.洋ゲーによくあるような「もともとよく死ぬシステムである」ということを参加者に徹底時に周知しておく。
 → 2.2.逆に、愛着を持つがゆえに、死ぬ時くらい自由に演出したいと思わせるような何か。
 → 2.3.キャラへの愛着よりもべつの何かに愛着をもたせる。
 → 2.4.キャラへの愛着よりもミッションを果たすことに高いモチベーションを与える。

 死亡するタイミングをPLが決められるというのもどっかであったようなシステムだな。

対策(3)普通PCの死亡はゲーム的には敗北だから
 → 3.1. 死亡がゲーム的な敗北とは限らないことにしたい
  → 3.1.2. PCが生き残ることよりも、ミッションを果たしたことに経験点を与える。このケースでは自動的にプレイヤー経験点を適用することになる。
 → 3.2. 自分のPCが目的を果たさなくても、別の誰かやパーティが目的を果たせばよい




 ここまで思考実験を続けて、エントリーを書き進めて、途中で気がついた。
 これって『クトゥルフ神話TRPG』の正気度や、『刑事魂』の"殉職率"があれば、十分再現できてるじゃないか。
 PCが死んでも楽しめるシステムを作るには、そう思わせるための仕組みを持つ世界観の題材を探すことが大切なんだな、という結論に達した。

「なぜトーキョーN◎VAは好き嫌いがはっきり別れるのか」というエントリーを読んで思ったこと

「なぜトーキョーN◎VAは好き嫌いがはっきり別れるのか」
http://www.rpgjapan.com/old/topic17.xml

ちなみにリンク先を開いた原文はエスケープの問題のため読みづらいので、以下の手順でHTMLファイルを作り直してほしい。
・全角の"<"を半角の"<"に置換
・&amp;を&に置換
・&lt;を<に置換


 NOVA初プレイの印象が悪かった、という人の感想として、「生き様と現実のはざ間で悩むロールプレイ」を期待していたら、実際はただの超人無双だった、というのがプレイ後の感想だった、というのが載せられている。

 N◎VAというゲームでは、自らのスタイルを貫くこと、そしてそれを演出したりロールプレイしたりするのはそれほど難しくない。

 もう単純に「生き残ることは目的ではない」と、そうシステム本に書かれているからだ。ただ、2ndには書いてあるが、Revolution以降には明記されてなかったような。「NOVAはキャラが死ぬリスクをもつスリリングなゲームだ」とかそういうふうに書かれていたような。ただ裏表紙には「スタイルを貫く者だけが生き残る」と書かれているので、"スタイルを貫くこと"も"生き残る"も両方ともアピールしているのかもしれない。
 シナリオも最近になるほど、普通に生き残るのが前提のエンディングになっていると思う。
 話はずれるが、版があがるごとに演出のテンプレートについて割かれているページ数が減っているのは、個人的にはなんだか残念に思う。


 「スタイルを貫くこと」を最も端的に表しているのは経験点の計算の仕方だろう。
 経験点が与えられるのがキャストではなくプレイヤーというのが、「べつに今回のキャラが死んでしまっても構わんし〜」と思わせることができる。
 また、スタイルの権化である「神業」を使うたびに経験点に変わる。
「アクトに最後まで参加した」のも、キャストではなくあくまでプレイヤーのほうだしね。



 一方で「生き様をとるか現実に妥協するかを悩むロールプレイ」が実現できるかというと、たしかに難しいだろう。
 N◎VAというシステムではできない、という以前に、それができるほかのシステムにまず出会ったことがないのだが。


 今ちょっと考えをまとめているローカルルールのアイデアとして、2ndのスタイル判定と制御判定を組み合わせたロールプレイ評価システムを考えている。
 制御判定は「ときには失敗するのも悪くない」みたいなことがシステム本に書かれている。
 制御判定に失敗することを「現実とのハザマに悩む」というロールプレイにつなげることはできるかもしれない。



 最後に、「なぜトーキョーN◎VAは好き嫌いがはっきり別れるのか」の話の筋について。
 N◎VAファンは積極的にN◎VAの面白さを伝えようとしてないような、そんな傾向を感じた。
 N◎VA信者も、N◎VAがアクの強いシステムだということに自覚的なのか、「伝わらないなら伝わらないでもいいし」というスタンスも見える。

トーキョーNOVAの制御値について思うこと

 トーキョーNOVAのサプリメント、『アウターエッジ』や『ストレイライト』には"ブランチ"というシステムが掲載されている。
 そのブランチについて調べたいことがあってネットで検索していたとき、非常に興味深いページを見つけた。

  トーキョーN◎VA The Detonation−データ編 − http://zinnia.soregashi.com/nova/review/nova1.html


 トーキョーNOVA第4版が第3版からどう変わったのかや、第4版がどのようなプレイ環境に変わっていくのかが書かれている。とくに「なぜ変更されたのか」についての理由を考察している点が興味深い。
 いや、これから第五版の発売が予定されてるのに第三版の話をするのも何だけど。

 で、あらためて思うのだ、'有利'のルールが撤廃されたのに、制御判定ってなんで残ったんだろう? 正直、もうなくてもよくね?
 制御判定を使うシチュエーションがよく分からんってのは前々から思っていたことなんだけど。
 制御値を受け値として使うのにも、山札から判定する方式と統合してもよさそうなもんだけど。たとえば、受け値として使うときは山札から引いてそのスートの能力の制御値を受け値にする、とか何とか。


 イヤイヤイヤ、制御判定それ自体はスゲー好きなんだよ。
 演出としても面白いし。
 初めて出会ったときは衝撃を受けた。
「自分自身を常に律することができるとは限らない」
「欲求や理性や感情が自らのコントロールを外れることがある」
 こういうのは成功しても失敗しても面白い。
 制御判定に成功すれば、常に自分の欲望を抑圧できるハードボイルドタッチな演出ができる。
 失敗すればしたで、欲望や情に流される人間味溢れる演出ができる。
 ただこういう演出って自己完結的になりやすく、他PLへ向かってこだわりを伝えるには充分とは言えない。

 だからこそ、もっと具体的な制御判定の用法を示してほしかった。 本文読んでも演出くらいしか例が挙げられてないし。
 たとえば特技やアウトフィットとして「マイナーアクションで制御判定をしてメジャーアクションで〜〜の効果」というのがあってもいいのでは?
 特技のほぼすべてに数値的ルール的な効能が付加されたのを、どこかのブログで"デジタル化"と呼んでいたけど、'有利'のルールもデジタル化できたのかもしれない。特技やアウトフィットで「〜〜のとき、○点の有利を与える」というように。もしくは『テラ・ザ・ガンスリンガー』のように技能レベル5以上になったとき超えた分だけレベルを足すとか。


第4版が発売されてからもう何年も経ち、これから第五版が発売されるというのに、いまさらこんなこと言うのもなんだけど。

・アウターエッジ>http://www.amazon.co.jp/dp/4047276979
・ストレイライト>http://www.amazon.co.jp/dp/4907792794