コンセプトをもつということ

新聞のよいところは自分が興味をもって探しに行かなくても向こうから勝手に情報がやってくるということかもしれない。
昨日の朝日新聞の増刷にスノーピークの山井さんが出ていた。独自の製品で、ゆっくりとアウトドアのブランドを築いた人だ。燕三条という日本の加工技術の先端地で現在も開発的な製品をリリースしている。
自分が使っているのは鍛造のペグ。激しく重いのが難点だが地面を選ばない。鍛鉄というのは適度な粘性があってなおかつ十分に堅牢なのだ。河原でのタープ設営にどれほど役に立ったか。モンベルの辰野勇もそうなのだが、製品についての透徹した考え方に惹かれる。ブランドとはそういうものを指すのだろう。有名ブランドといわれた瞬間、その価値がねじ曲がって、有名であることに価値を置くようになる。
以前に、建築の記事を見ていて、建築とは建築技術ではなくコンセプトなんだと設計士が書いていた。どういうすまいを作るのか。それがなければ建築にならないという。今気づいたことではないのだが、コンセプトという言葉に引っかかった。
建築やものづくりのような創造性の高い仕事の基礎は、才能もあるのだろうけれど、教育なのだろうと思う。それをふまえると、教育ではコンセプトを作ることをやっているのだろうか。子供たちの作品のひとつひとつにコンセプトがあるはずなのだが、それがよく見えない場合が多い。どう描くか、どう作るか、そのことで何を表現して、どんな作品になって現れるのか、そうしたところがよく見えない。こうやってこうすると言われて、それをよく表現しましたという作品が、まったく少なくない。
考え方の中心にあるもの、コンセプトでも、思想でも、意志でも何でもいいんだが、表そうとするもののの本体をじっくり問い詰めている時間が、残念ながら教育では萎んでしまったにだろう。わかりやすくあっさりとはっきりした答えを手っ取り早く提示することではなく、悩んでいることそのものをまるごと担保されるような、そういうものを僕は教育とか、学びと呼びたい。