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2011-01-11

初心者のためのディック・フランシス入門(執筆者・五代ゆう)

 

 数年前、私は自分が審査員を務めていたとあるライトノベル新人賞のパーティの二次会で、となりに座った受賞者の若い作家に、「これから読んでおくといいお薦めの本はありますか」と訊かれた。私はすぐに答えた。

「ああ、それならディック・フランシスがお薦め。……語り口やストーリーの上手さはもちろん、なにしろ粒揃いの職人魂という点でフランシスに勝る作家はいないし、競馬そのものに限らず、さまざまな職業や業界に関する取材の細かさもすばらしい。今たぶん三、四十冊かそれくらい出てると思うから、帰りにでも本屋に寄って、目についたので面白そうなのをどれでも買えばいいよ。できれば四十冊ぜんぶ読めばいい、保証するから」

 ところが彼は微妙な顔をしている。はっきり言ってドン引いていた。

 何が悪いのかわからず戸惑う私に、「五代さん、五代さん」とそばにいた友人の作家さんが気の毒そうに袖を引いた。

「あのですね、普通、いくら面白いと言われてもいきなり『四十冊ある本を読め』と言われたら、まずそこでええっと思ってしまうものなんですよ」

 えー、そうかなあ、と今でも私は思う。この世にまだ読んでいないおもしろい本が少なくともあと四十冊あるということは実にすばらしいではないか。私としては、できれば読んだ記憶をすべてなくし、最初から全部読み返したいほどであるのに、なんでまたそこでドン引くのだろう。

 まあそれは私事である。ディック・フランシス『競馬シリーズ』は、翻訳ミステリ者なら知らない者はいないと思われる名シリーズだ。

 しかし、まったく知らない人にとってはまず、『競馬』とシリーズ名についているところで「えー競馬? 俺(私)、競馬ってよくわからないし、ギャンブルの話はちょっと……」と思われがちな部分がある。それは否定しない。

 ここではっきりさせておきたいが、フランシスの神髄はむろん、白熱するレース展開の描写や、芝生や泥のにおいが伝わってくるような騎乗の描写、騎手として常に危険と隣り合わせで生きることの意味、などにあることは間違いない。

 だが『競馬』とタイトルについていても、主人公自身がいつも騎手だったり、馬主だったりするとはかぎらない。むしろ、ほかのさまざまな職業(画家、コック、酒屋、教師、探偵、小説家、銀行取締役、保安調査員、政府の諜報員、等々)についていて、その物語に競馬がからんでくる、と言ったほうが正しい。

 だから『競馬』とシリーズ名についているからといって敬遠しないでほしい。競馬について何も知らなくてもフランシスの小説は十二分に楽しめるし、競馬についての描写は思わず拳を握りしめるほどの迫力と臨場感に充ちている。騎手を主人公にした場合はもちろん、ほかの職業について書かれた部分も、詳細なリサーチのおかげで一種の情報小説の趣すらあり、さまざまな思わぬ知識を得ることができる。しかも話は面白く、主人公は常にたいへん魅力的である。ここがまたすばらしい。

 フランシスの主人公〈私〉は、言ってしまえばほぼすべて同一人格であり(※同じ人間である、という意味ではない。複数作に出てくる主人公は『大穴』『利腕』『敵手』『再起』のシッド・ハレーと、『侵入』『連闘』のキット・フィールディングのみである)同じ人格の持ち主が名前と職業、立場、状況を変えて登場するのだが、彼らは常に冷静かつ知的で、自己抑制を知っており、自らの正義と矜持を堅持し、精神的なタフネスと快いユーモアの感覚を兼ねそなえた、英国ジェントルマンの理想型である。時には恐怖に震え、苦痛に呻くことがあっても、彼らは決して屈しない。人生の不公正という壁にぶち当たっても挫けることなく、悪を追求する手を緩めようとしない。不撓不屈、という表現は、まさにフランシスの主人公たちのためにあるようなものである。

 そしてその不屈の男が悪を追いつめていく物語に引きこむ最初の一行、これには読むたびに感嘆させられる。最初の一行をひねり出すことほど、物書きにとって難しいことはないのである。しかもたった一、二行で、主人公とその状況と物語への興味を一気に引き出すとなると、これはもう至芸に近い。二、三の例をあげよう。

 

 私は父の五番目の妻を心底から嫌っていたが、殺すことを考えるほどではなかった。(『黄金』)

 

 私は、これまでに四人のスポーツ記者が断った仕事を引き受けたが、その時は腹が減っていたのだ。(『標的』)

 

 アート・マシューズが、ダンスタブル競馬場の下見所の中央で、一発の銃声とともに、あたりに血を飛び散らせて自殺をとげた。(『度胸』)

 

 ゴードン・マイケルズがいつもの服装のままで噴水の池の中に立っていた。(『名門』)

 

 私の名はピーター・ダーウィン。

 誰もが訊くので真っ先に申し上げておく、ちがう、チャールズの血縁ではない。(『帰還』)

 

 ……挙げるときりがないのでこんなところで済ませておくが、ほんの一、二行のさりげない文章でぐいと物語に読者を引きずりこむフランシスの腕にはいつも舌を巻かされる。あとはぜひ自分で手にとって、フランシスの手練の技を確かめていただきたい。

 まず最初に読むとすれば、とりあえず無難にシッド・ハレー三部作(異論もあるかもしれないが、私は『再起』でのハレーの再登場はファンサービスだと思っている。『敵手』でハレーの物語は見事な完結を見ており、あれ以上つけ加えることは何もない……それに、三部作というのは、常に物語にとっていちばんいい数字だ)『大穴』『利腕』『敵手』を読み、それから適宜自分の好みで好きな作品をつまみ読みしていくのがよろしかろう。私の好みで言うなら、『本命』、『度胸』、『興奮』、『反射』、『直線』、『横断』、『標的』、『黄金』あたりだろうか。ことに、新米小説家を主人公にした『標的』は、フランシスの小説観がほの見えるようで、書き手としてはまことに興味深い。

 

 さて、ここからいささかセンチになることを許していただきたい。

 私がディック・フランシスと出会ったのは大学時代のことだから、もう二十年になる。

 学生の常で、金はないが暇だけは売るほどあった私は、あの緑色の背表紙の文庫を(根気よく古本屋を漁って)すべて買いそろえ、年に一度の新作ハードカバーを、慄えるような思いで待ちこがれた。お金が入ると、文庫も新しいものに買い直した。

 当時、ネット書店などというものは存在しなかったから、発売日に財布を握りしめて、わくわくしながら新刊翻訳ミステリの棚へ行く興奮と期待感はすばらしかった。歯切れのいい二文字のタイトルと特徴的な装丁は、魔法の呼び声で一目で読者を引き寄せる。胸をとどろかせながら帰りの電車の中で袋を開け、ぱりぱりの本を開く喜びは、家にいてもかんたんに新刊を手に入れることができる現在では少しばかり薄れてしまった。

 それでもフランシスの作品は、私にとってこの二十年間、すべての作家を抑えて別格の存在だった。ゆうゆう二馬身引き放しての、きらめく本命チャンピオン馬だ。私の本棚に専用の棚を持っているのはフランシスと、ドロシイ・L・セイヤーズだけである。仕事場の机からすぐ目につくところには、東京の紀伊国屋で手に入れたフランシスの直筆サイン入りカードが、ほかの宝物(新品同様のほんものの立川文庫、『ドグラ・マグラ』の初版復刻本、皆川博子さんのサイン入り本等)といっしょに並んでいる。フランシスは私の空に輝く堂々たる一等星であり、その地位はこの二十年間、一度もゆらいだことはなかった。

 しかしその星は2010年2月14日、流星となって、ターフの外へ駆け去ってしまった。

 姿すら写真でしか見ていない相手が、いつの間にかどれだけ人の心に深く食いこんでいるかは不思議としかいいようがない。私はたぶん、ディック・フランシスは神のような存在で、いつまでもいきいきと若々しく、私たちにすばらしいミステリを読ませてくれるのだと、無意識のうちに信じていたのだと思う。フランシスの出ない新年など信じられないし、これからもしばらくは、そろそろフランシスの新作の頃だと考えて、もうそんなことは起こらないのを思い出してぎょっとし、落胆する年が続くのだろう。

 しかし人間はいつか悲しみにも欠落にも慣れる。これはフランシスが教えてくれたことである。人間はさまざまな悲しみや苦痛、喪失や落胆に耐え、やがて新しい道へと踏み出していく。後ろには常に幸せな思い出があり、振り返ってなつかしく思うことはあっても、前へ進む足をとめる理由にはならない。

 私たちには四十冊に及ぶ宝石のような本がある。一冊取って開けば、たちまち朝の放牧場の風の匂いや、トップを争う馬たちの駆けぬけるレースの歓声、身体を突きあげる疾走の感覚、勝ち鞍をあげる歓喜の瞬間がもどってくる。肉体的、精神的な苦痛や危機や恐怖に対して、どのように立ち向かうかを示してくれるヒーローがいる。彼らは不滅であり、永遠であり、馬場の向こうに走り去ってしまったフランシスが遺してくれた最高の遺産である。私たちは折にふれてそれを読み返し、ディック・フランシスという希有の作家と同時代を生きたこと、その作品を読みつづけることができることを、深く感謝する。

 私の好きな一冊、『横断』において、主人公トー・ケルジイは電話でしか話したことのなかったある老夫人の死を知って、非常な悲しみを覚える。彼は胸中にひとり呟く、『懐かしい、懐かしいミセズ・ボードレア、グッドナイト。静かに行って下さい。あの良き夜に心安らかに行って下さい』

 同じ言葉を、私はフランシスに対して捧げたいと思う。懐かしい、懐かしいディック・フランシス、グッドナイト。静かに行って下さい。あの良き夜に心安らかに行って下さい。紆余曲折あったのち、私はあなたと同じ小説家の端くれになりましたが、あなたの星は今でも私の目の先に、励ますように燃えています。

 グッドナイト、ディック・フランシス。さようならは言いません。あなたの遺してくれたものはずっと私の手と心の中にあります。そこに示された真の高貴さと勇気と矜持とを心に秘めて、私たちはこの先をまた、歩いていくのでしょうから。

 

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五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

〔著作〕

パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『骨牌使いの鏡』富士見書房/『晴明鬼伝』角川ホラー文庫 等

 

書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。

どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。

おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

 

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矜持 (競馬シリーズ)

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大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

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利腕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12‐18))

利腕 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12‐18))

敵手 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

敵手 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))

興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))

度胸 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-5 競馬シリーズ)

度胸 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-5 競馬シリーズ)

 

 

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