さよならを言うたびに(執筆者・大久保寛)

 

第2回

 
 7年ほど前に腎臓がんになった。 
 腎臓がんというとマイナーなので、肺がんや胃がんと違って、あまり話題になることもないが、意外にこの病気で亡くなっている有名人も多いのである。
 作家の中上健次氏、作詞家の阿久悠さん、元大関北天佑、哲学者の池田晶子さん、フリーカメラマンの鴨志田穣氏……
 がんというやつは、運良く死なずにすんだとしても、一生ものというか、絶えず再発転移の危険がつきまとうので、術後の経過観察が欠かせない。
 そんなわけで、11月14日(月)は約1年ぶりに大学病院に行く日なのである。
 血液と尿の検査、それに胸と腹のCTを撮るというのがいつものパターン。去年までは年2回やっていたが、今年からようやく年1回になった。今回も何事もないといいのだが……
 腎臓がんは進行がゆっくりなので、15年くらいたってから再発転移が見つかった例もあるという。僕の場合、左の腎臓に9センチあまりのがんが見つかり、ステージ2だったので、ある程度の危険はある。左の腎臓の全摘出手術を受けたので、右の腎臓しか残っていない。そいつがだめになったら確実にお陀仏である。そのうえ、肺にも1センチちょっとの小さながんが見つかっている。健康診断気分で定期的に検査を受けて、必要ならすぐに手術しちゃえばOK、まあ、そんなふうに開き直っている。
 
 ただ、がんになって確実に変わったことがある。
 いつこの世にさよならをしても後悔しないように、やりたいと思ったことをやり残さないよう心がけるようになったことである。
 たとえば、子どもの頃から憧れていた囲碁を五十の手習いで始めたり、学生時代にやっていたジャズベースを再開したり、と踏ん切りがつかずにいたことをどんどん積極的にやるようになった。
 そして、きわめつけは、訳書の『ライラの冒険──黄金の羅針盤』が映画化されたとき、声優デビューしてしまったことだろう。
 といっても、昔から声優に憧れていたとかそういうことではない。ただのミーハー的好奇心や悪ノリでやったのでもない。がんになると、いつ何時どうなるかわからない。せっかくのチャンスだから、なんでもいいから妻と2人の子どもに思い出になるものを残しておこうと考えたのである。僕に何かあったときに、映画のDVDに僕の声が入っていたら、家族へのユニークなボイスメッセージになるだろう。
 そのボイスメッセージがどんなものかというと──セリフは2つある。
 主人公のライラが暗闇を走って逃げるシーンで、市場の男③が「あと二つ 持ってきて」
 ライラが船に乗り込むときに、ジプシャンの船乗り①が「出発するぞ! 錨を上げろ!」
 


大久保寛(おおくぼ かんORひろし)。早稲田大学政経学部卒業。訳書に、プルマン『黄金の羅針盤』、コルファー『アルテミス・ファウル』、スケルトン『エンデュミオンと叡智の書』、クーンツ『ファントム』、クラムリー『ダンシング・ベア』など。東京都中野区生まれ、埼玉県在住。
 
黄金の羅針盤〈上〉 ライラの冒険

黄金の羅針盤〈上〉 ライラの冒険

黄金の羅針盤〈下〉 ライラの冒険 (新潮文庫)

黄金の羅針盤〈下〉 ライラの冒険 (新潮文庫)

エンデュミオンと叡智の書 (新潮文庫)

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ファントム〈上〉 (ハヤカワ文庫NV―モダンホラー・セレクション)

ファントム〈上〉 (ハヤカワ文庫NV―モダンホラー・セレクション)

ファントム〈下〉 (ハヤカワ文庫NV―モダンホラー・セレクション)

ファントム〈下〉 (ハヤカワ文庫NV―モダンホラー・セレクション)

ダンシング・ベア (ハヤカワ・ミステリ文庫)

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