黒、ただ一面の黒(執筆者・柳原孝敦)

 

第4回 黒く塗れ

 
 昨年だったか、フランス出張から帰ってきた同僚の西谷修さんが、当地で話題だったとして、「なんとかというキューバ人が書いた、トロツキー暗殺についてのこんな分厚い小説、知ってる?」と話題を振ってこられた。
 もちろん、知っておりますとも。レオナルド・パドゥーラLeonardo Paduraの『犬が好きだった男』El hombre que amaba a los perros (Barcelona, Tusquets, 2009) のことでしょう。ええ、評判になるに値する、大作でございますよ。前年には彼自身が来日して、この作品を中心にしたワークショップを開催する予定だったのですから。直前に体調を崩して来日はとりやめになったんですけどね……
 
 小説『犬が好きだった男』は、トロツキー一家の逃避行とソ連のスパイとなって彼を暗殺したスペイン人の人生、それに語り手「私」ことイバンがキューバで知遇を得た晩年の暗殺者の話を平行して語った小説だ。ラモン・メルカデールというのが暗殺者の名前だ。トロツキーについては多くが語られているが、この男についてはあまり知られていない、とパドゥーラは述べている。だから「わずかな情報で、歴史的な本質を変えずに造型しなければならなかった」(『毎日新聞』2012年5月14日東京朝刊「新世紀・世界文学ナビ」)と。亡命に亡命を重ねてメキシコにいたるトロツキーの人生も真に迫っているが、ラモン・メルカデールその人の人生が強烈だ。母カリダーや恋人アフリカが共産党員で、共和国側についてスペイン内戦に参戦するという環境で育ったメルカデールが、他ならぬ母の仲介でソ連共産党のスパイになっていくというのだ。カリダーの厳しくドグマティックな人となりと、彼女との葛藤によって人生が決定されることになる息子が痛ましい。
 「何世紀もの間、大切だと言われてきたけれども、単に私たちを隷属させるだけのものを何もかもなげうって」共産党に奉仕することの厳しさを教える母の行動は非情だ。
 

 カリダーは車のドアを開けたが、そこで立ち止まり、また閉めた。
「ラモン、言うまでもないけど、今の話は誰にも言っちゃだめだよ。たった今、この瞬間から、頭に叩き込んでおくんだ。何もかもなげうつ覚悟ってのは、単なる標語じゃないってことを。生き方そのものなんだってことをね」そう言うと若者の目の前で母は、軍用外套からピカピカに輝くブローニング銃を取り出した。2、3歩前に出るとカリダーは、息子の方には目もくれずに訊ねた。「本当に覚悟があるんだね?」
「ああ」とラモンが答えた瞬間、爆弾が炸裂し、閃光が山の遠くの斜面を照らした。カリダーはその間も武器を構えたままで、飼い犬のチューロをファインダーの焦点で捉えたかと思うと、息子が反応する暇もあらばこそ、額に一発見舞ったのだった。犬は鉛の弾丸の衝撃をもろに受けてもんどり打ち、その死体は夜明け時のグアダラーマ山脈の冷気に曝され、冷たくなっていった。

 
 愛する犬を暴力的に奪い、人格を否定し、行くべき道を示唆するこのやり方は、まるで洗脳だ。『犬が好きだった男』というタイトルはレイモンド・チャンドラーの短編から取ったものだそうだけれども、語り手の前に「犬好きの男」として姿を現す晩年のメルカデールのあり方に説得力を付与するエピソードだ。
 昨年公開されたオムニバス映画『セブン・デイズ・イン・ハバナ(フランス、スペイン、2012/DVDはパラマウント ホームエンタテインメント ジャパン、2013)では監修者や執筆者としてすべてのエピソードの脚本に加わったパドゥーラは、多方面で活躍中の現代キューバを代表する作家だ。雑誌(『すばる』2004年11月号)に一度短編「狩猟者」とインタヴューが掲載されたが、この短編では、日本の俗語で言うなら「ハッテン場」というのだろうか、同性愛者たちがパートナーを求めて集う公園で、男あさりをしつつも失った恋人を忘れられない人物を描いている。
 キューバは1959年の革命後、特に1970年代、同性愛者の作家たちを言論統制下に置いた。レイナルド・アレナスなど、日本でも紹介されている一部の作家たちは、そのために苦しみ、カストロを呪詛したものだ。90年代に入って、やはり日本にも紹介されたセネル・パス『苺とチョコレート』野谷文昭訳、集英社、1994/映画版DVD:トマス・グティエレス・アレア、フアン・カルロス・タビオ共同監督、アップリンク、2001)などが禁を破って同性愛者を扱い、時代の変化を感じさせた。「狩猟者」に併載されたインタヴューを読んでいると、パドゥーラがパスの同世代として、新しい時代に切り込んでいっているとの自覚と自負を強く持っていることがわかる。そういえば『犬が好きだった男』で晩年のメルカデールと知り合う語り手の「私」は書けずに悩んでいる作家で、言論統制の時代をかなりあけすけに批判している。こうしたことが許される時代になったのだと、感慨を新たにする要素だ。
 しかし、ところで、この書けずに悩む作家という存在、何かを思い出させる。
 ……そうだ! マリオ・コンデだ。レオナルド・パドゥーラのミステリー・シリーズの主人公で、警察を辞めて作家になろうとしながらも、書けずに悶々とする探偵だ。このシリーズのものからは、一冊、翻訳が出ている。『アディオス、ヘミングウェイ(宮崎真紀訳、ランダムハウス講談社、2007)だ。タイトルはたぶん、武器よさらばを意識しているのだろう。『ヘミングウェイよさらば』。
 ハバナ郊外にあるフィンカ・ビヒア、つまりアーネスト・ヘミングウェイの住居、現在では彼の博物館として観光名所化しているその場所で、40年ほど前のものと思われる白骨化した死体が発見された。その事件の捜査を依頼されたのが、元警官のマリオ・コンデ。こうした場合、当然のことながら、第一に疑われるのがヘミングウェイその人。しかし、友人で彼にいろいろとよくしていたカリヒート・モンテネグロも疑わしい。コンデはまだ生き残っている関係者に聞き込みを重ねたり、かつてアイドルのように憧れて読んだヘミングウェイを再読したりしながら、40年前を想像していく。そんな話だ。謎解きというよりは、フィクションの形を借りたヘミングウェイ論と見てもいいかもしれない。あるいは、最大の謎はヘミングウェイの人となりだと言いたげな作品。
 フィンカ・ビヒアを見て回り、ヘミングウェイには「マゾの気があったにちがいない」、「ヘミングウェイにはマゾだけでなく、サドの気もあるかもしれない。なにしろ、家じゅうの壁に掛かる剥製の首は、無益に血をまき散らすことや快楽のための暴力を異常なほど好む性癖をひけらかしているも同然だからだ」と推論するコンデは、彼に捜査を依頼した警部補のマノロに、「そのあいだにお前にやってもらいたいことがある。『大きな二つの心臓の川』を読んで、感想を聞かせてほしい」と頼む。こうしてヘミングウェイの再読へと読者を誘う役目も果たしている。
 「大きな二つの心臓の川」(新潮文庫ヘミングウェイ全短編1』高見浩訳では、「二つの心臓の大きな川」)は「ニック・アダムズもの」という自伝的な要素の強い連作短編のひとつで、ニックが川で鱒釣りをする、というただそれだけのストーリーなのだが、作家のいわゆる「氷山の理論」の格好の例のひとつだ。語られない水面下の事実が、ほんのわずかに水面に姿を現した記述を支えているという、そういう理論の実践だ。鱒釣りのし方は微細を穿って描かれるのだが、肝心の事実(ニックは戦争で傷を負った)にはひと言も触れないものだから、読者はそれを想像するしかない。二部にわかれた長めの短編であるこの作品では、前半で川を力強く泳ぐ鱒に元気づけられた(「鱒が動くにつれて、ニックの心臓も引き締まった。遠い日々のあのさまざまな感動がよみがえってきた」)ニックが後半、釣った鱒を殺す場面が強烈な印象を残すことになる。「鱒はひくひく震えて、硬直した」。
 ヘミングウェイ双極性障害だったとはよく言われること。躁と鬱とが交互したり交錯したりするこの病気の一方の局面でマゾヒズムを、もうひとつの局面でサディズムを体現していた、というのがマリオ・コンデ、あるいはレオナルド・パドゥーラの推論だということだろうか? 実際「二つの心臓の大きな川」は作家の二面性の両極端を垣間見た気にさせる短編だ。
 ヘミングウェイの二面性に対応するかのように、マリオ・コンデの、あるいは、パドゥーラのヘミングウェイに対する態度も曖昧で両義的だ。キューバ人作家とはほとんどつき合わず、「ただ本音をいえば、スペインに住みたかった」と言うヘミングウェイを、使用人は「ろくでなし」と呼ぶし、コンデも「どんなちっぽけな手がかりでもいい、ヘミングウェイを有罪に導く証拠を見つけてやる。あれだけの不義理をやってのけた人間だ」として捜査を引き受ける気になるのだ。
 キューバの作家たちの、キューバを愛したとされるこのアメリカ人作家への思いは複雑だ。ノルベルト・フエンテスヘミングウェイ キューバの日々』(宮下嶺夫訳、晶文社、1988)のような大部の研究書やシロ・ビアンチ・ロスキューバヘミングウェイ(後藤雄介訳、海風書房、1999)のような概説書、アレホ・カルペンティエール春の祭典(拙訳、国書刊行会、2001)のようにその一部にヘミングウェイを登場させた小説など、様々な立場から様々に扱われてきた。パドゥーラの『アディオス、ヘミングウェイ』はこれらキューバ人作家によるヘミングウェイものの中でも特別な1冊だろう。
 
 日本では、芥川賞直木賞の二分法のせいか、「大衆文学」と「純文学」の区別が支配的だと思われていた。ミステリーや暗黒小説は、「大衆文学」に分類された。この区別はいまだに支配的なのだろうか? まだこれにこだわっている人はいるのだろうか? けれども、ラテンアメリカ文学の〈ブーム〉を牽引したカルロス・フエンテスは、ダシール・ハメットレイモンド・チャンドラーを、「我々の行く先を示してくれた指針」のひとつに挙げていた。国際記号学会初代会長にして中世スコラ学研究者のウンベルト・エーコが書いた薔薇の名前(河島英昭訳、東京創元社、1990/原書は1983)は世界に多大なインパクトを与えた。エーコばりの歴史ミステリー作家として登場したスペインのアルトゥーロ・ペレス・レベルテには『フランドルの呪画』(佐宗鈴夫訳、集英社文庫、2001)、『ナインスゲート』(大熊榮訳、集英社文庫、2004)など、多くの翻訳が存在するが、その彼は、スペイン王立アカデミーの言語部門メンバーとして辞書や文法書を編纂する名誉職を持つ、今や大作家だ。
 レオナルド・パドゥーラも、先に挙げたインタヴューなどを読んでいると、マリオ・コンデものをはじめとするミステリー、あるいは『犬が好きだった男』のような暗黒歴史小説の分野に切り込みつつ、そこからキューバの文学を世界の文学の流れに拮抗させようとしているような野心がうかがえる。世界の文学は暗黒小説によって、ノワールによって、塗り替えられるのだ。
 


柳原 孝敦(やなぎはら たかあつ)1963年鹿児島県奄美市出身。スペイン語文学翻訳家。おもな訳書:カルペンティエール春の祭典』、ボラーニョ『野生の探偵たち』(共訳)、バルマセーダ『ブエノスアイレス食堂』、アイラ『わたしの物語』
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