第五十四回はブラッド・スミスの巻(執筆者・片山奈緒美)

 
 はじめての単行本の訳書が出てまもなくのことだ。たぶん2002年の年末だったと思う。当時、札幌に住んでいたわたしは、市内の翻訳学校の忘年会におよばれした。まだ新しいその学校で翻訳を学ぶ人たちに、プロになった経験談を話してあげてほしいと言われて出かけていった。


 宴会にはその学校で講師をなさっていた翻訳者の石田善彦さんもいらっしゃった。そして、わたしの鞄からのぞいていたブラッド・スミスの『明日なき報酬』を見つけて、読んでくれているんだねと喜んでくださった。主人公と相棒の関係がいいんだよね、最近の自分の訳書のなかではかなり気に入っている作品なんだ――病みあがりでまだ本調子ではないなか、お気に入り作品の味わいを熱く語ってくださった。


 実はある編集プロダクションの依頼でブラッド・スミスの新作 All Hat をリーディングしています、こちらも味のあるいい作品ですねとお伝えすると、そうでしょう、この作家はいいよ、僕もいま読んでるんだ、また訳したいなあとさらに熱っぽく作家の魅力をお話しされた。翻訳学校の生徒さんたちが正座をして石田さんの語りを聞いていたようすが妙に印象に残っている。


 干支が一巡するほど前の話だし、あの編集プロダクションは以前とは違うかたちになってしまったので、もういいでしょう。今回はそのAll Hat をご紹介したい。


All Hat

All Hat


 秋のカナダ。2年ぶりに刑務所を出たレイは生まれ故郷の小さな街に戻り、友人のピートの農場に落ちつく。ふたりとも40歳近くになり、白髪が目立ちはじめた。ピートの農場はトウモロコシ栽培など農業の傍ら競走馬を育てており、いまは出産間近の牝馬の世話で忙しい。


 昔レイの恋人だったエタは父ホーマーの介護をしながら父の農場を管理していたが、不慣れな農場経営は赤字続きで、病院で看護助手としても働いていた。そこに目をつけた地元の大地主スタントン家の長男ソニーが、あの手この手でホーマーの農場を手に入れようとする。町のあちこちの土地を買い占めて事業を興し、ひともうけしようと企んでいたのだ。


 そのスタントン家の牧場には、ジャンピング・ジャック・フラッシュという北米最高の呼び声が高い四歳馬がいた。数々のレースで優勝してきたこの名馬の世話をしているのはスタントン家の厩舎担当のジャクソンだ。素行が悪く残虐なソニーが大切な名馬に何かしでかさないよう目を光らせている。


 冒頭からいわくありげなにおいが漂う。レイが犯した罪、エタの苦悩、農場経営に苦しむピート。家に引きこもりがちで、おばのメアリ宅で世話になっているレイの妹エリザベスはどんな問題を抱えているのか。脚をひきずりながら杖をついて歩くソニーは金儲けしか頭になく、それを厩舎からじっと見つめるジャクソンなど、当主アールを頂点にした富豪スタントン家の複雑な人間関係も何やら深い事情がありそうだ。


 そうした登場人物それぞれが、大きな苦しみとかすかな希望を抱いて日々の営みを続ける。罪を犯した者、邪悪な心の犠牲になった者、金に困っている者、ありあまる金よりも手に入れたいものがある者。日々の苦しみから逃れる小さな安らぎを得ようにも、何を心のよりどころにすればいいのかすらわからない人々の姿はあまりに切ない。


 競走馬の飼育で生計を立てる人々が多いカナダの田舎町の情景を淡々と描写しつつ、会話で個々のキャラクターをたてていく。行間に描かれている故郷や過去への想い、家族への愛情や友情が味わい深い。


 一方でレイの内面には刑務所に入る原因にもなった、決して消えることのない激しい復讐心が燃え続けている。しかし、仮出所中の身ではおとなしくしているしかない。そこで暴力のかわりに、ピートやエタも巻き込んで競争馬を使った痛快な復讐を計画。映画《スティング》のポール・ニューマンロバート・レッドフォードかと思うような大博打を打った――


 忘年会でご一緒したあと、石田善彦さんとは何度かやりとりさせていただいた。ときおり電話をいただいて、「いま××(作家名)の最新作をリーディングしてるんだけど、読んだ?」と唐突に質問された。最新作は未読ですが、その前の作品は読みましたなどと答えると、あらすじや感想を詳しく聞かれることもあった。わたしから必要な情報を得たあと(あるいは得られないときも)、ご自分の最近のお気に入り作品について熱く語り、ありがとうありがとうと何度もお礼を言ってから、じゃあね、と電話を切るお茶目なかただった。


 石田さんが旅立たれてから何年も経つのに、なぜいま急にこの本のことを書こうと思ったのかわからない。それにしても、いまだに翻訳されていないとは残念だ。ただ、ずっと気になっていた作品をこうしてご紹介する場をいただいたことを感謝したい。



片山奈緒(かたやま なおみ)

翻訳者。北海道旭川市出身。リンダ・O・ジョンストン著『愛犬をつれた名探偵』ほかペット探偵シリーズを翻訳。カリスマ・ドッグトレーナー、シーザー・ミランによる『あなたの犬は幸せですか』介助犬を描いた『エンダル』、ペットロスを扱った『スプライト』など犬関係の本の翻訳にも精力的に取り組む。JKC愛犬飼育管理士、和ハーブインストラクター。最新訳書は『スーパーストーリーが人を動かす 共感を呼ぶビジョン&アクション』(日経BP社)。
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