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2016-10-05

ピエール・ルメートル『傷だらけのカミーユ』(執筆者・橘明美)

 

 

 ピエール・ルメートルのヴェルーヴェン警部シリーズは三部作で、今回の『傷だらけのカミーユ』で完結します。三部作というのは次の三作(物語の順)。

 

  • 『悲しみのイレーヌ』原題 Travail soigné(丁寧な仕事)
  • 『その女アレックス』原題 Alex(アレックス)
  • 『傷だらけのカミーユ』原題 Sacrifices(犠牲)

 

 このうち『その女アレックス』『傷だらけのカミーユ』の二作品で、ルメートルさんは英国推理作家協会賞のインターナショナル・ダガー賞を受賞しました。カミーユ・ヴェルーヴェンの担当事件を描いた作品はほかにも短い番外編がありますが、「人間カミーユのドラマ」はこの三部作で終わっています。

 ヴェルーヴェン警部シリーズには二つの顔があり、一つはサスペンスフルな犯罪小説、もう一つはカミーユの葛藤の物語だということができるでしょう。前者としては作品ごとに個別に楽しむことができ、また三部作を読み通せば後者もじっくり味わえます。犯罪小説としてはいつも大胆な仕掛けがあって驚かされますが、その一方で、事件の展開や捜査の合間にカミーユの心の葛藤が細やかに描かれているところもシリーズの魅力の一つです。

 

 さて、その完結編ですが、『その女アレックス』は主人公のカミーユがやりたくない誘拐事件を“無理やり担当させられた”ところから始まりましたが、『傷だらけのカミーユ』はその逆で、本来なら担当外の強盗事件を“強引に担当する”ところから始まります。それは、たまたま強盗の現場に居合わせて事件に巻き込まれたアンヌという女性が、カミーユの恋人だったからです(え、イレーヌのことはもう忘れちゃったの? いえいえ。そのあたりはぜひ作品のなかで……)。カミーユは上司に嘘をついて事件を担当し、アンヌを守ろうとしますが、嘘が嘘を呼んで泥沼にはまり、孤独な戦いを強いられます。しかも犯人は執拗にアンヌの命を狙ってきます。それはなぜなのでしょう? カミーユはアンヌを守りきれるのでしょうか? 今回もハラハラドキドキの展開が待っています。

 

 日本語に比べると、フランス語の語りは言葉の情報が多くなる傾向にあります。それは、言葉を削ることで焦点を絞るだけではなく、油絵のように言葉を塗り重ねることで焦点を絞ることもできる言語だからです。多くのフランス人がおしゃべり上手なのも、そこがポイントかもしれません。

 ルメートルさんもサービス精神旺盛なおしゃべり上手です。昨年の秋に来日されましたが、普通に話しているだけで次々冗談が出てきて、時にはどこまで冗談なのかわからなくなることもあります。けれどもただのおしゃべりではなく、周囲への気配りや、求められたものにきちんと応えようとする真摯な姿勢が印象的でした。言葉が湯水のようにわいてくるけれど、それをコントロールすべも心得ていて、そこがかっこいいのです。(また、愛妻家なところはカミーユと同じでした)

 

 ルメートルさんのおしゃべりの特徴は作品にも表れていて、言葉は多いのに、場面を切り出すテクニックが巧みなのでテンポが落ちません。むしろ言葉を燃料にして加速する場面もあり、そういう個所を訳していると息継ぎができなくて酸欠になります。酸素ボンベを買おうかと思ったくらいです。

 『傷だらけのカミーユ』も冒頭からいきなり“酸欠”の語りで始まります。そして犯人とのデッドヒートが繰り広げられるのですが、いつものように、劣勢に立たされたカミーユがどこから、どうやって攻めに転じるかが見ものです。

 

 また今回カミーユは、何人もの人物とのあいだで“言いたいことを言えない”状況に置かれます。かつての上司ル・グエンとも、部下のルイとも、恋人のアンヌとも……。そういう場面のセリフのやりとりには泣かされます。

 泣かされるといえば、ルイの人柄にもぐっときます。相変わらずダンディーで、頭も切れるのですが、それだけではないところがルイのルイたる所以です。

 さらに、カミーユの飼い猫ドゥドゥーシュも存在感を増していますので、そのあたりもどうぞお楽しみに。

  

橘明美(たちばな あけみ)

 さまざまなジャンルを渡り歩いている無節操な翻訳者。読者としてはピーター・トレメインのファン。フィデルマのようになりたかったが、根性も頭脳もなくてだめだった。

 

『傷だらけのカミーユ』文藝春秋サイト(冒頭の「立ち読み」ができます)

 

■担当編集者よりひとこと■

 

 ええっもうカミーユ・シリーズおしまいなの? と思った皆さん。ですよねえ。僕もそう思いました。超もったいないじゃないですか。「こち亀」の中川みたいな富豪刑事ルイとか、ケチなのに密かに男気のあるアルマンとか巨漢上司のル・グエンとかキャラも立ってるし、チーム・カミーユに注目くださっている読者もたくさんいるわけで、ねえ、もったいないじゃないですか(憤慨)。

 

 去年お会いしたルメートルさんの意志は堅いようでした。「カミーユについて書けることは全部書いた」ということで……。

 

Irene: The Gripping Opening to The Paris Crime Files Alex: Book Two of the Brigade Criminelle Trilogy Camille: The Final Paris Crime Files Thriller (The Paris Crime Files)

 日本語版のタイトルに「カミーユ」の名を入れてほしい、というのはルメートルさんの要望でした。カミーユ・シリーズはイギリスでも(奇しくも日本語版と同じ刊行順で)翻訳されていますが、英題は原著刊行順で並べると、『IRENE』『ALEX』『CAMILLE』。これが気に入ったので、日本語版でも踏襲してほしいということでした。過去2作で犯罪にまつわる地獄めぐりを強いられたカミーユが、ついにタイトル・ロールになる――このあたりにも、彼の物語を閉じようというルメートルさんの思いが読み取れます。

 

 内容も『CAMILLE』にふさわしく、カミーユ警部が軸になっています。『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』で、カミーユはあくまで警察の一員として事件との最初の関わりを持ちます。ですが、本書ではカミーユと事件は冒頭1ページ目から不可分なもので、いわば本書は「カミーユ警部自身の事件」。叙述は謎めいた襲撃犯の一人称と交互になっているものの、『悲しみのイレーヌ』以上に焦点をカミーユに合わせて、ルメートル氏は語り進めてゆきます。ルメートル氏らしい「仕掛け」も、カミーユの内面と響き合って、これまで以上にロマンティックでセンチメンタルな味わいを増幅していると思います。これでシリーズ完結、というのは残念ではありますが、「カミーユの物語は語りつくした」とルメートル氏が言っていたことを考え合わせると、このラストにこめられた感情は、字面以上のものをもって迫ってきます。

 

 さて最後に。多方面から、「ウィキペディアとかをみると『その女アレックス』『傷だらけのカミーユ』の間にもう一作あるじゃねえか適当な出し方すんな文春!」という声をいただいております。『その女アレックス』『悲しみのイレーヌ』の刊行が前後したことが原因かと反省しますが、未訳の作品は(橘明美さんも書いていらっしゃるように)カミーユ警部シリーズ番外編という趣の中編作品。もちろん邦訳刊行するつもりですが、一冊の本とするには尺が足りず、現在、ベストな方法を検討中です。

 

 カミーユ・ヴェルーヴェン警部の遍歴を描く長編小説は『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』『傷だらけのカミーユ』の三部作で完結し、ルメートル氏によれば、彼の物語は語り尽くされました。最後に彼がどこにたどりつくのか、見届けいただけますと幸いです。

  

文藝春秋 N)   

 

  

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