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2009-12-23

私には『ミレニアム』が「無駄が多い」「薄っぺらい」「嘘臭い」「雑多」な小説とは思えない。あるいは、『ミレニアム』を批判する私という存在の謎 その1(執筆者・小山正)

※編集部注:12月8日に酒井貞道さんから寄稿いただいた「問題提起・ミレニアム三部作は本当に傑作なのか?」について、各論者に反論あるいは擁護の打診を致しましたが、執筆のお約束はいただけませんでした。今回の小山正さんご寄稿が、酒井論に対する最初の反応です。どうぞ、ご覧ください。


 酒井貞道さんの『ミレニアム』批判に反論を書いて欲しいと打診を受けた。さて、困った。「そういう読み方もあるのだなあ」くらいに思っていたし、酒井さんの意見にどうこういうつもりはなかったので、「反論」など考えていなかったのだ。そもそも読書の感想なるものは百人いれば百通りである。賛否両論、いろいろあったほうがおもしろい。


 だが、ここへきて突然の依頼である。反論がなくて寂しいのだという。そりゃ、そうだろうなあ。あんな風に挑発的――というか、力まれて自説を展開されたら、書きたい人だって書けなくなる、というか書きたくなくなる。遊戯精神あふれるミステリに関する意見交換なのだから、コーヒー片手に和気藹々と語るのがふさわしい。しかし、どうしてあんなに戦闘モードなのかしら?(言葉の使い方も「適当に全部ぶち込んだだけ」とか、「無駄が多い」「薄っぺらい」「嘘臭い」「雑多」といった強いフレーズが目立つのも萎える一因だった。言い方に角が立つという人もいて不思議ではない。ちなみに私はそうだった)。はっきりと申し上げるが、誰かと議論をしたいならば、言い出しっぺは謙虚に意見を提示すべきだろう。喧嘩にもやり方があるのだ。


 が、しかし、と思う。文章の中に私の名前も出ていることだし(ご指名恐縮に存じます)、アポナシの訪問であっても礼儀として最低限の対応はしないと申し訳ない。それに、私だって売文書きの端くれだ。助けて欲しいという依頼があれば「お声をかけて戴き毎度ありがとうございます」という気持ちが込み上げてくる。しかも反論者が誰もいないならば、なおさら「そうですか、それは寂しいですね。では僭越ながら不遜私目が引き受けましょう」という気にもなる(少しだけ)。というわけで、ちょっとだけ想うところを書きます。


(つづく)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 下

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 下

私には『ミレニアム』が「無駄が多い」「薄っぺらい」「嘘臭い」「雑多」な小説とは思えない。あるいは、『ミレニアム』を批判する私という存在の謎 その2(執筆者・小山正)


(承前)


 私の場合、『ミレニアム』が本当にすばらしいと思う理由は、単行本『ドラゴン・タトゥーの女』下巻の後書きでも長々と書いたし、昨年刊行された『ミステリが読みたい!2009年版』(早川書房)でもさんざん語ったので、詳細は省略させて戴く。いや、これでは不親切すぎるので簡単に記すと、最初の『ドラゴン・タトゥーの女』は、アガサ・クリスティーの長編『白昼の悪魔』のモデルとなったバー・アイランドのような島を舞台に(!)、衆人環境下の屋敷から少女が忽然と消えるという謎がジョン・ディクスン・カーさながらの不可能興味(!!)で興奮した。そして、倉庫に眠る昔の写真や古い新聞記事といった過去の記録を丁寧に発掘することで謎が徐々に解かれていく過程も、往年の本格推理のような謎解き趣味満点(!!!)で、「調査報道」の手法によるジャーナリスティックな捜査(!!!!)も楽しかった。しかも、事件の背景が一族の親子のあり方や戦時のナチス問題やDVといった諸要素と複雑に絡み、徹底した反体制的ジャーナリズムの視点も加わることで物語が豊穣(!!!!!)になっている点も感心した。とまあ、!!!!!!!が一杯になるほど、私は読書の愉悦を味わったのだ。


 構成について酒井氏は「ミレニアム三部作のストーリーは、パッチワークの産物である」と述べている。そして、「三長篇とも、読んでいる最中は確かに面白い。次から次に新エピソードや急展開、新要素が繰り出されるからである。しかし場面場面がバラバラに自己主張するだけで、各長篇を一貫する有機的結合は全く感じられない。」と批判する。「各長篇を一貫する有機的結合」という部分が抽象的で、筆者がどのようなものを想起しているのかわからないけれども、少なくとも私には、今回の「パッチワーク」が構造上悪いとは思えなかった。確かに構造はシンプルなのだが、文学史を省みるに、串刺し団子のように段重ねでエピソードを並べ、物語を紡ぎだすのはドストエフスキーの例をあげるまでもなく、過去にもあった作劇法である。しかしラーソンはそれらを単純に並べるのではなく、ひとつのブロックが完結する直前に新しい謎や予想外のネタを配置し、それをフックとして次のエピソードに移るという技を効かせている。数年前に話題になったジェレミー・ドロンフィールドの長編『飛蝗の農場』(創元推理文庫)は、作者が時間の流れや物話の展開を一度バラし、それをバラバラに配置することで小説を再構成していた。これこそパッチワークというべき作品だったが、この作り方は一見マジカルにみえるけれども、実は書く側にとっては簡単なのだ(そうした安易な作劇が見えてしまったゆえに私は高得点が入れられなかった)。それに比べ『ミレニアム』は、エピソードとエピソードのリンクに小技が効いており、それがページ・ターナーの要素にもなっている。


(つづく)

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム2 下 火と戯れる女

ミレニアム2 下 火と戯れる女

私には『ミレニアム』が「無駄が多い」「薄っぺらい」「嘘臭い」「雑多」な小説とは思えない。あるいは、『ミレニアム』を批判する私という存在の謎 その3(執筆者・小山正)


(承前)


 また、酒井氏はジャーナリズムの扱いに関し、

「彼らのジャーナリズムや自分たちの立場に対する楽天的な信頼は、二十一世紀の小説にしてはあまりにも能天気である。これは、わかりやすい悪徳企業や政府権力を敵にしたことで、「何が正義なのか」という葛藤をスキップしてしまったことが大きい。」

 と述べているが、この中で私は「能天気」という部分に違和感を覚えた。本当にそうだろうか? 一貫して反体制を貫き良質の誌面を目指す彼らは、意に反して経済的な危機に直面して翻弄される。これは二十一世紀になって頻発しているメディア危機を象徴するようなヴィヴィッドなエピソードだと思う。そして、仮面をかぶって横行する「経済やくざ」の犯罪告発に失敗し、経済的な困窮のみならず法の鉄槌を受けながらも、それでもなおH・D・ソローの「市民の反抗」さながらに反旗の狼煙をあげる『ミレニアム』編集部の姿勢――これぞジャーナリストの鏡であり、拍手を送りたいほどあっぱれな態度だ。彼らは「何が正義か」というような葛藤はとっくに乗り越え、より複雑な寂寥感とジャーナリストとしての「業」を抱えているのだ。私は、酒井氏が「わかりやすい悪徳企業や政府権力を敵にしたことで、『何が正義なのか』という葛藤をスキップしてしまったことが大きい。」と言うほど単純には、この小説を読んでいない。


 第二部『火と戯れる女』は『ドラゴン・タトゥー』に比べるとミカエルが後退し、リスベットが前面に出ている。リスベットよりもミカエルのファンだった私としては残念だったが、逆にリスベットの個性が強化され、ヒーローの域にまで昇華されていたので、これはこれでスゴい展開だなあと感心した。酒井氏は、彼女のキャラクター性に頼りすぎていると異を唱え、設定要素が6つなのも多すぎるとして、「チート」「アホらしい」とこれまた酷評している。だが私は、人間という存在はそもそも複雑な生き物であるというのが持論なので、リスベットの一筋縄ではいかない複雑な個性には、共感するか否かは別として、充分に魅力を感じた。これを「アホらしい」と言ってしまうと、例えばイアン・フレミングの007の世界だって否定してしまうではないかしら? というのも、この第二部はイアン・フレミングのパロディーさながらに痛快であり、キャラクター小説としても、アクション・ノベルとしても充分おもしろい。本格ミステリテイストから一転して、冒険アクション風味――なんと懐の深い「ラーソン・ミステリ・ワールド」なのだろう!だが、期待に反し第三部『眠れる女と狂卓の騎士』は前半がもたついている。しかし後半は一気にドライブがかかり、物語が凄まじい勢いで展開してゆく。前作ではスーパー・ヒーローだったリスベットが今度はその逆の存在になるという展開も意表をついたものだった。


このように私は、『ミレニアム』はここ数年を代表するミステリの話題作であり、知的興奮の書だったと思う。しかもスウェーデン近現代史の光と翳を描く巨大な全体小説の傑作であった。海外で2100万部以上売れているというのも納得できるし、わが国でも各種ベスト10で上位に食い込んだのは当然といえよう。もっとも読者数が多いから良い、というのではない。けれども『ミレニアム』に関して言えば、良・質ともに奇跡的に優れた逸品だったと思う。


それにしても――と思う。せっかく議論をするならば、もう少し楽しくやりたいなあ。異議申し立ては大事なことだし、論壇風発は今の翻訳ミステリ業界には必要なことだとおもうけれども、ウィットとエスプリを忘れずに、粋に話し合いたいものである。ちなみにこの原稿の巻頭の長いタイトルは、この文章を書いていてふとよぎった心境です。やれやれ。

 最後に蛇の足を。せっかく『ミレニアム』の話題なのでその関連である。北欧ブームが続いているけれども、『ミレニアム』のスティーグ・ラーソンに次ぐ北欧のメガヒット犯罪小説作家が、アイスランドの小説家アーノールダー・インドリダーソンである。彼の〈レイキャビック・ミステリー〉シリーズはもっか欧米でジワジワと人気を高めており、要チェックだ。CWA賞も受賞したし、いずれわが国でもしょうかいされると思われるが、また「本当に傑作?」なんて批判されてしまうかな?


 小山正 

酒井貞道氏「ミレニアム三部作は本当に傑作か?」

http://d.hatena.ne.jp/honyakumystery/20091208/1260199078

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 下

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 下

2009-12-08

問題提起・ミレニアム三部作は本当に傑作なのか? その1(執筆者・酒井貞道)

 スティーグ・ラーソンのミレニアム三部作は、多くのプロの書評家が絶賛し、web上で見かけるアマチュアのレビューも大半が肯定的だ。

このブログでも状況は同じである。北上次郎氏いわく、今年の翻訳ミステリは、スティーグ・ラーソンのミレニアム三部作で決まりらしい。「2009年、私のベスト10暫定版」で登場した評論家9名中、実に6名がこの三部作の名前を挙げたのだ(しかも小山正氏も、実質的にはミレニアム三部作を年間ベストと断じている)。

『ミステリが読みたい! 2010年版』では総合1位、『文春ミステリ・ベスト』でも見事1位を獲得。この分では『このミステリーがすごい! 2010年版』で高順位に付けるのもほぼ確実である。翻訳ミステリー大賞の一次投票でも、確実に名前が挙がるだろう。

 しかし本当にそこまで素晴らしい作品だろうか? 個人的には重大な疑問が二点ある。一つは構成上の問題、もう一つはキャラクター造形である。

 まず構成の点から。ミレニアム三部作のストーリーは、パッチワークの産物である。

 三長篇とも、読んでいる最中は確かに面白い。次から次に新エピソードや急展開、新要素が繰り出されるからである。しかし場面場面がバラバラに自己主張するだけで、各長篇を一貫する有機的結合は全く感じられない。作品全体がうまく一つの像を結んでおらず、実に薄っぺらいのだ。途中のどのエピソードでも良いので複数をばっさりカット、それこそ百ページ単位で削ったとしても、多分全く問題はないし、読後感もそう変わるまい。これをどう考えるかだが、素直に解釈すれば「無駄が多過ぎる」ということになるはずである。

 個々のエピソードはそれなりに楽しめるので、ミレニアムがゴミだと言うつもりはない。しかしそれらのまとめ方に難があるのだ。杉江松恋氏は「(各)要素を他の作品と比較してみたら、一歩譲るところだってあるだろう。だが、そうした形で欠点をあげつらって批判しても本書の場合はあまり意味をなさない。複合体として優れた小説だからだ」と説くが、私は全く逆の見解である。各要素は合格点だが、複合体としては完全にアウト。面白そうなエピソード、緊迫感が強そうなシチュエーション、カッコ良さそうな情景を思い付き、それらを取捨選択せず適当に全部ぶち込んだだけとしか思えない。さすがに並べる順番は多少考えたようだが、それはミステリにおいては当然のことであり、特に加点すべき理由にはなるまい。小説とは、要素が多彩であれば良いというものではない。各要素自体が良ければそれで面白くなるものでもない。それらをどうつなげ、いかにまとめるかが重要である。ミレニアム三部作はこれに失敗している。古山裕樹氏は「多彩なアイデアが豊富に詰め込まれた」と説くが、私に言わせれば「豊富」ではなく単に「雑多」なだけだ。

(つづく)

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 下

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 下

問題提起・ミレニアム三部作は本当に傑作なのか? その2(執筆者・酒井貞道)

(承前)

 以上のように構成だけでも十分やばいのに、ミレニアム三部作はキャラクター造形でもやらかしてしまっている。

 三部作に統一感は希薄だが、実は一つだけ、全体を結合し得る要素がある。それが主人公リスベット・サランデルである。彼女は三部作全体のストーリーとテーマに深く関与し、作品の中心そのものと化している。読者の方もこれを敏感に感じ取っているし、本書を賞賛する書評家も多くの場合サランデルに魅入られているようだ。

 しかし、この人物の設定はあまりにも嘘臭い。以下、彼女の特徴を並べよう。

  1. スーパーハッカーである
  2. にもかかわらず、荒事も得意な行動派(というか不死身)である
  3. ツンが非常に強いツンデレ
  4. 女性迫害に抗う誇り高き人物
  5. にもかかわらず、日本で言う制限行為能力者(旧・禁治産者)である
  6. その出自で、冷戦期のノルディック・バランスの歪みを一身で体現する

 こうして並べてみるとわかりやすいが、あまりにやり過ぎであり、設定が明らかにチートである。どれか1個だけ、せめて2個だったら私も特に気にはならなかっただろう。しかしこれら全部だもんなあ。正直なところを申し上げれば、サランデルに対しては感情移入どころかアホらしさしか感じない。本来重いはずの作品テーマに比して、作者の得手勝手な都合が透けて見えるようで、ドン引きしてしまった。

 極端に言えば、スティーグ・ラーソンはサランデルに、「印象深いけれど、ちょっと影のある善玉キャラクター」が持つ典型的な要素を複数持たせている。この点で、彼女もまたストーリーと同様にパッチワークの産物といえよう。そしてその裏にあるのは、「この程度に設定しておけば、ストーリーを楽に動かせ、読者に感情移入させ、しかも社会の暗部に切り込んだことになるだろう」という安直な創作姿勢なのではないか。

 そしてより深刻な問題となるのは、先述のとおり、三部作のさまざまな構成要素を結合するモノが、サランデルしかないということだ。彼女に魅力を感じるどうかで、作品全体の評価がガラリと変わってしまう、これはつまり、サランデルに魅力を感じない「だけ」で、作品が楽しめなくなることを意味する。


 もう一方の主人公ミカエル・ブルムクヴィストの方にも問題は多い。彼とその雑誌《ミレニアム》は社会正義を標榜している。しかし彼らのジャーナリズムや自分たちの立場に対する楽天的な信頼は、二十一世紀の小説にしてはあまりにも能天気である。これは、わかりやすい悪徳企業や政府権力を敵にしたことで、「何が正義なのか」という葛藤をスキップしてしまったことが大きい。善玉は善玉、悪は悪とはっきりしっかり分かれた素晴らしい世界においては、相手を一方的に糾弾すれば足りるのだから、作者としても登場人物としても、こんなに楽なことはあるまい。しかし小説としての底が浅くなるのは避けられない。三部作全体ではかなり長い話なのだから、他にいくらでもやりようはあったはずなのだが。

 なお、ここで「お前はエンターテインメントに何を求めているのだ」と言われても困る。ご大層にも社会正義を作品の中心に据えたのは、他ならぬ作者自身である。その扱いが軽薄であったなら、批判に晒されて当然だろう。

 おまけにサランデルの強烈なケレン味に押されて、ミカエルの存在感は特に第二作以降、希薄化してしまう。チート主人公に作品全体が寄りかかる構図は、第二作以降さらに強まってしまうのだ。


 キャラクターについては、非常に興味深い書評がハヤカワミステリマガジンの2009年9月号(第643号)に掲載された。川出正樹氏と吉野仁氏によるクロスレビューである。あそこではお二人とも、リスベット(またはブルムクヴィスト)の言動や魅力から、作品の本質を看破するという手法を選択された。しかし登場人物に全く感情移入できない私には、お二人の言うことは何一つ響かない。はっきり言えば、どちらもオーバーリードにしか見えないのである。これが意味することはただ一つ。川出氏と吉野氏といった書評の名手であっても、「キャラクターに魅力を感じるか否か」という、読者の個人差が極めて大きくゆえに書評時の扱いも慎重を要する事項に依拠してしまうほど、ミレニアム三部作はキャラクターに多くを頼った作品なのである。ハイリスク・ハイリターンな小説手法なので一概に悪いとばかりは言えないことは認めるが、小説としてバランスが悪いことだけは指摘しておきたい。

 本当に素晴らしい作品とは、たとえキャラクターに共感できなくても、なお楽しめる作品を言う。ミレニアム三部作は、キャラクターに共感できなくなった途端に、全ての粗が露呈してしまう。そんな作品を賞賛することは、私には絶対にできない。

(つづく)

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム2 下 火と戯れる女

ミレニアム2 下 火と戯れる女

問題提起・ミレニアム三部作は本当に傑作なのか? その3(執筆者・酒井貞道)

(承前)


 以上、長々と書いて来たが、私の見解を簡単にまとめると、構造・キャラクターいずれの面から言っても、ミレニアム三部作は志が低い。女性への暴力や国家権力の理不尽、そして最終的に打ち出される社会正義の実現など、三部作に用いられた各モチーフが本来持っていたテーマ性・メッセージ性は、作者による安易な作劇とキャラクター造形のために、過度に単純化されている(そしてそれは、作者自身が身を置いた「ジャーナリズム」の世界の常套手段でもある)。これでは「ザッツ・エンターテインメント!」と思考停止でもしない限り、傑作と呼ぶのは躊躇せざるを得ない。ましてや二十一世紀ベスト、オールタイム・ベストなど論外である。


 ただしこれは私の読解であって、別の意見も当然あろうかと思う。それはそれで構わない。しかしミレニアム三部作が「突っ込み所のない作品」だとはどうしても思えないのである。誰も彼もが絶賛している現状は、作品の決して高くない完成度を考えれば、不健全ですらあるだろう。

 最終的に、誉めるなら誉めるで構わない。酒井貞道は何も読めてないよねという結論に至っていただいても結構である。しかし業界にミレニアム絶賛の空気が蔓延しているのは間違いない。それに流されている人はまさかいないとは思うが、先入観のない冷静な目でミレニアム三部作に接し、各人なりの「ミレニアム観」を確立していただきたく、「他人が誉めたものをわざわざ貶す」という品のない行動に走った次第である。ご無礼の段は平にご容赦のほどを。

 酒井貞道

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 下

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 下

【編集部より】

 酒井氏の問題提起、いかがでしたでしょうか。論者の方からの、本稿に関する反論の寄稿をお待ちしております。また「翻訳ミステリー大賞シンジケート」は、翻訳ミステリー界のさらなる発展に寄与する話題であれば、随時議論の場を提供いたします。商業誌などではなかなか誌面を割きにくい内容であっても、ご相談に乗らせていただきます。どうぞご利用ください。

 編集人・杉江松恋

12月23日 小山正氏「私には『ミレニアム』が「無駄が多い」「薄っぺらい」「嘘臭い」「雑多」な小説とは思えない。あるいは、『ミレニアム』を批判する私という存在の謎 その1(執筆者・小山正)/【随時更新】ミステリー陪審席【討論歓迎】」http://d.hatena.ne.jp/honyakumystery/20091223/1261496312