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2016-12-20

第14回 番外(リハビリ)編(執筆者・日暮雅通)

 

お詫び(および今回の内容について)

 本欄は“連載”のはずでしたが、純粋に個人的な出来事のせいで1年以上も途切れてしまいました。精神的な打撃に加え、事務的な処理に時間をとられたことが大きな理由ですが、それにより本業もすっかり滞ってしまいました。本欄をお読みくださっていた方々からの催促はもちろん、「ヴァン・ダインの次はまだか」などというお叱りの言葉も再三いただき、申しわけなく思うばかりの1年でした。本欄の(あまり多くはないであろう)読者の皆さんと、拙訳書の(コアな)読者の方々、それにすっかりご迷惑をおかけしてしまった担当編集の方々(特にTS社の方々)に、この場を借りてお詫び申し上げます。

 

 本欄の執筆再開がなかなかできなかった理由には――形式や目的や内容のレベルは違うにせよ――このコラムと似たようなコンセプトの正典総合ガイドブックを2冊、続けて手がけてしまったということもあります。内容がバッティング云々ということではなく、このコラムの書き方、方向性をもう少し変えるべきかもしれないと思いはじめたからです。ただ、あまりこねくり返したり、途中からおかしな方向転換をするのもマイナスだと思うにいたり、このまま再開することにしました。

 が、1年以上のブランクがあると、やはり一種のリハビリが必要のようです。今回は失礼ついでにもう少し時間をいただき、番外編とさせていただきます。前回(第13回「技師の親指」)のラストで「今月の余談」に、「次回は最近刊行されたホームズ/ドイル関係の大型ビジュアル本を紹介するつもりだ」と書きました。その数冊の中に前述の「正典総合ガイド本」2冊が含まれているわけですが、今回はその「余談」がメインになります。

 

新しい時代のホームズ総合ガイドブック

 2009年に起きたホームズ映像化作品の“新しい波”は、多くの新たなホームズファンを生んだと言われる。ワーナー映画のシャーロック・ホームズ、英BBCテレビの『SHERLOCK/シャーロック』、米CBSテレビの『エレメンタリー ホームズ&ワトソン in NY』の3つのシリーズは2017年にも続く予定であるし、ワトスン役が亡くなったため1シーズンで終わったロシアのテレビ版『名探偵シャーロック・ホームズ』や、単発の『Mr.ホームズ 名探偵最後の事件』も、大きな注目を集めた。

 そうした映画・TV作品のヒットのせいで、あるいはホームズ役者の人気のせいで、活字や電子の出版界でもホームズもの小説(パスティーシュやパロディ)が急増した。素人臭い自費出版作品がかなりの数を占めるが、中には光るものもあり、英語圏では10年前の2倍、いや3倍の点数があふれ、まさに玉石混淆の極みといったところだ。

 その一方、著者コナン・ドイル自身のプロフィールから、正典全体やその翻案作品(映像とパスティーシュ)、およびファン活動までを総合的に解説するガイドブックの出版も、この2年ほどで増えている。

 

Sherlock Holmes Commentary The Complete Guide to Sherlock Holmes Sherlock Holmes Handbook Sherlock Holmes Handbook: Second Edition World Of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの世界 ミステリハンドブック シャーロック・ホームズ (ミステリ・ハンドブック) Sherlock Holmes (Pocket Essentials) Sherlock Holmes For Dummies

 

 正典全体のガイドブック、あるいは60編の正典全部に解説(注釈)を与えるレファレンスブックという意味なら、ずいぶん前からつくられていた。古くはD・マーティン・デイキンの Sherlock Holmes Commentary(1972年)や、マイケル・ハードウィックのThe Complete Guide to Sherlock Holmes(1987年)、クリストファー・レドモンドのSherlock Holmes Handbook(1993年。2009年に改訂版)、マーティン・ファイドーの The World of Sherlock Holmes: The Great Detective and His Era(邦訳シャーロック・ホームズの世界』)などがあったし、その後もライリー&マカリスターの The Bedside Companion to Sherlock Holmes(2005年。邦訳『ミステリ・ハンドブック シャーロック・ホームズ)や、マーク・キャンベルのSherlock Holmes(2007年。Pocket Essentialsシリーズの1冊)がある。個々の作品解説はないが、スティーヴン・ドイル&デイヴィッド・クラウダーによる Sherlock Holmes for Dummies(2010年)などは、一種の“シャーロッキアン入門書”だ。

 だが、資料的写真が豊富に入った大型ヴィジュアル本の総合ガイドは、数えるほどしかなかった。それが2014〜2015年の2年間に英米だけで(改訂版も含むとはいえ)6冊刊行されているのだから、ある種の傾向と考えてもいいのではないだろうか。それぞれの切り口は違うものの、いずれも2009年からの新しいホームズ映画の波を意識した本であることは共通している。

“新しい波”である映像化作品に特化した研究書も出版されているが、ここでは総合ガイド本に絞ってそれぞれを簡単に紹介しておきたい。

 

2014年10月刊 Sherlock Holmes: The Man Who Never Lived and Will Never Die(アレックス・ワーナー編、邦訳『写真で見るヴィクトリア朝ロンドンとシャーロック・ホームズ

 2014年10月から2015年4月にかけてロンドン博物館で行われた同名の展示に合わせて刊行された、大型ビジュアル本。直訳すれば「シャーロック・ホームズ――(現実に)存在しなかったゆえに決して死ぬことのない男」とでもなろうか。つまり、「ホームズとその世界の魅力がいつまでも失われずにいるのは、なぜなのか。その点を探り、明らかにする」ことが、展示と本書に共通するコンセプトである。

 1951年の英国祭のおりにセント・マリルボーン区がホームズ展を開催してホームズの居間を再現し、それが現在もシャーロック・ホームズ・パブの2階に残っているのは有名な話だが、英国ではそれ以来60年以上、本格的なホームズ展は開かれていなかった。今回はドイルの原稿やパジェットのオリジナルといったものを展示するだけでなく、当時のロンドンの町並み(事件のあった場所)と現在を比較する展示といった、いかにもロンドン博物館らしいものが見られた。また、映像化作品のコーナーも充実し、ホームズが不滅の人気をもつ理由を多角的にとらえようとしていた。

 その展示自体のカタログ本は、展示が終わったあとの2015年5月に発行されたが、本書自体は会場にも置かれていたし、展示作品の写真も豊富に含んでいたので、むしろこちらがオフィシャルなカタログのような印象を受けたものだ。とはいえ、長い総論的な序章と5つの章――ボヘミアン・ホームズの分析、パジェットのイラストと《ストランド》誌について、当時のロンドンを描いた絵画について、ドイルがホームズを何度も切り捨てようとしたことの分析、サイレント映画時代のホームズについて――から成る本書は、展示自体と同様、多角的な見かたで正典とホームズをとらえようとしている、一種の総合ガイドでもある。

 

2014年11月刊 The Sherlock Holmes Companion: An Elementary Guide(デニス・スミス著、邦訳シャーロック・ホームズ完全ナビ』

The Sherlock Holmes Companion: An Elementary Guide

The Sherlock Holmes Companion: An Elementary Guide

 この本は正統的な正典ガイドブックであり、わかりやすい構造になっている。カラー図版も豊富でレアな写真もある、大型ビジュアル本だ。正典60編すべての作品に関するあらすじやコメント、出版データを書いたページの合間に、コナン・ドイルや正典中のキャラクター、時代背景についてのコラムと、ホームズ俳優や作家へのインタビューがはさみこまれている。

 初版は2009年で、今回第2版として大幅改訂。巻頭に年表を付け、ホームズ自身に関するコラムを増やしたほか、映像化作品に関するコラムも大幅加筆した。BBC『SHERLOCK/シャーロック』の生みの親マーク・ゲイティスへのインタビューが加えられたのも、やはり“新しい波”を意識してのことだろう。正典60編のあらすじは、ネタバレおよび結末を書かない、オーソドックスな形式。

 著者デニス・スミスは正典をよく理解している研究者なので、安心して読んでいられる。だが、もちろんどんな本にも間違いはあるもので、細かな事実誤認や誤植は訳書で訂正してある。

 

2014年12月刊 The Mysterious World of Sherlock Holmes(ブルース・ウェクスラー著)

The Mysterious World of Sherlock Holmes

The Mysterious World of Sherlock Holmes

 その“事実誤認や誤植”をたくさん指摘されたのが、この本であった。ほかの大型本よりさらに少し大きなビジュアル本で、図版を見ているだけでも楽しめるのだが、あまりにもミスが多いということで、複数の読者から辛口批評をもらっている。

 本自体の構成は、ドイル自身のことや正典の発表履歴のほか、当時のロンドン、法医学(犯罪科学)、警察、女性の立場について正典を通じてビジュアル資料とともに紹介し、映像作品や現在のホームズ関係資料(博物館や)、はてはホームズグッズまで、浅いながらも網羅している。正典のストーリー紹介も分析も、ホームズ研究家的視点もないが、総カラー図版なので、とにかく眺めて楽しむにはいいだろう。

 その反面、数多い間違いは、著者の未熟さと編集・校正の粗さをさらしてしまうことにもなった。単純ミスでは、目次のノンブルが半分以上間違っていること、ジョルジュ・シムノンのスペルミス(複数回)、ドイルの娘Maryを“May”と書いていること、ワトスンの名前を“James”と書いていること(わざとか?)、1800年代を18世紀と何度も書いていること、1885年をエドワード朝時代と書いていること、〈緋色の研究〉のイラストを〈ノーウッドの建築業者〉のものとしていることなどが指摘されている。こうしたミスがほぼ全ページにあるというのは大げさだろうが、間違い探しの本として使うのも一興かもしれない。

 もちろん、単純な誤植だけならまだ我慢もできる(多いとできない?)だろうが、著者の知識不足も指摘されている、特に映像化作品の章ではかなりの間違いがあり、「インターネットでちょっと調べればわかること」という指摘もあった。本書に限らず、ほかの分野の入門・紹介書をさまざまに書いてきた人がホームズ/ドイル関係に手を出したときに、よくある失敗と言えよう。

 実はこの本、2007年末に刊行された本の新版なのだが、2007年版の AmazonUK を見ると別の版元の出版で、しかも版元名に The Sherlock Holmes Museum の名が併記されていた。あのベイカー街にあるホームズ博物館である。2014年版でも Amazon の解説には This is the official book of the Sherlock Holmes Museum at 221B Baker Street, London と書かれてある。ホームズ博物館が宣伝用を兼ねて出版させたのだろうか。だとすると、掲載されているホームズの居間の写真のほぼすべてがホームズ博物館のものであり、ロンドンのホームズ・パブとスイスのローザンヌにある正統的な居間の写真がまったくないことも、うなずける。

 

2015年5月刊 Sherlock: The Fact and Fiction Behind the World's Greatest Detective(マーティン・ファイドー著)

Sherlock

Sherlock

(↑が表示されない場合には こちら)

 

 タイトルは違うが、前出の本 The World of Sherlock Holmes: The Great Detective and His Era(邦訳シャーロック・ホームズの世界』)の改訂版。デニス・スミスの本と同様、最近の“波”に合わせて図版と文章を変えたのだが、図版差し換えは全体にわたっており、がらりと違う本になった印象を受ける。レン・デイトンの写真が歳をとっていて笑えたりするが(笑っちゃいかんか)、内容もしっかりしている。

 著者はオックスフォード大出身のディケンズおよび切り裂きジャック研究家だが、若干もってまわった書き方をするので、内容とのバランスを考えると、もうちょっと読みやすくしてほしいところだ。ホームズとドイルの年表から始まり、ホームズの生涯、ドイルの生涯、正典の概略(60編全部でなく単行本単位)、当時の犯罪事情、推理小説の歴史、ファン活動など、ひととおりのガイドになっている。

 

2015年10月刊 Sherlock Holmes's London: Explore the city in the footsteps of the great detective(ローズ・シェパード著)

 これはほかの本と毛色が違い、各章がロンドンのそれぞれの地域、および郊外に当てられ、図版を豊富に使いながら当時のようすを解説したものだが、当然ながらそのつど正典(および映像化作品)との関係が記述されるので、ベイカー街をはじめスコットランド・ヤードもアヘン窟もテムズ川もすべて出てくる総合ガイドとなっている。当時のロンドンを知るというコンセプトでは前述したアレックス・ワーナーの本に近いが、ヴィクトリア時代の事物からBBC『SHERLOCK/シャーロック』の画像まで、ビジュアル的にも楽しむことができる。

 日本版はまだないと思うが、台湾版が出ていることを、先日台北最大の書店で確認した。ちなみに、この本を含め、今回紹介する本のほとんどが、Co-production(国際共同出版)という形式で刊行されたもので、印刷・製本は中国でされている。

 

2015年10月刊 The Sherlock Holmes Book(デイヴィッド・スチュアート・デイヴィースほか著、邦訳シャーロック・ホームズ大図鑑』

The Sherlock Holmes Book: Big Ideas Simply Explained

The Sherlock Holmes Book: Big Ideas Simply Explained

 その国際共同出版で非常に有名な出版社、Dorling Kindersley による、Big Ideas Simply Explained というヒット・シリーズの1冊。編著者は英米で有名なシャーロッキアンであり、ホームズ戯曲やパスティーシュの作家であり、ミステリ作家。私も年に1回は会う人物だが、特にそのユーモアのセンスが秀でた、かなりの才人だ。そのせいもあって、非常にバランスのとれたビジュアルガイドに仕上がっている。もともとこのシリーズは素晴らしいデザイナーによるオリジナル図版と、ユニークでわかりやすい年表形式が売りなので、その両方が融合してできた作品と言えよう。ただ、これまで書いたように、間違いをゼロにすることは難しい。ここでも事実誤認や単純誤植をかなり直すことになった。日本の編集・校正者なら見逃すはずがないというようなケースが多いのだが……。

 本書の最大の特徴(?)は、正典60編について結末(ネタバレ)まで書いてしまったという点にあるだろう。おそらく、ホームズ物語はすでに古典であり、なおかつ、その分析や面白さ、重要さの指摘をするには結末まで書かねばならないという理由によるのだろう(訳書では冒頭にネタバレ注意の警告をしている)。シャーロッキアン向けの研究書では当然許されることとはいえ、訳者としてはまだビクビクものである……。

 

2016年9月刊 名偵探與柯南:銅せ梔妻源件簿(蔡秉叡/Sai Hei Ei著)

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 What's Visionというシリーズの1冊らしい。「らしい」というのは、私が台湾語を読めないため推察になっているからだが、台湾の中国語は日本の漢字に近いものを使っているので、推察がしやすい。しかも豊富な図版を通じて、本書が台湾オリジナルであることがわかる。正典60編のプロット紹介のほか、著者がその手の学者らしく、ヴィクトリア時代のカルチャーや事物その他についてのエッセイも豊富に入っている。

 なお、帯および序文に「ホームズ誕生130周年」、帯に“Sherlock and Conan”とあり、カバーにはホームズと名探偵コナンのシルエットがある。う〜む。

 

2016年9月刊 About Sixty: Why Every Sherlock Holmes Story is the Best(クリストファー・レドモンド編)

 最後に、前出Sherlock Holmes Handbookの著者が編集した異色作を。なんと、「正典は60編すべてが魅力的なのであり、ひとつひとつがベスト・ストーリーなのだ」というコンセプトのもとに、60人のシャーロッキアンおよび作家がそれぞれひとつの正典作品を選び、「私はなぜこの作品がベストだと考えるか」を書いたものだ。ビジュアル大型ガイド本ではないし、入門書という位置づけもできないが、60編すべてに言及するという意味では、注目作である。

日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

 1954年千葉市で生まれ、千葉大のそばで育つ。翻訳家(主に英→日)、時々ライター。ミステリ関係の仕事からスタートしたが、現在はエンターテインメント小説全般のほか、サイエンス&テクノロジー、超常現象、歴史、飲食、ビジネスのNFと、児童書まで幅広く翻訳。2017年は数年越しの訳書がいくつか出る予定。とはいえ、海外イベント参加が3つあるので、今から気を引き締め中。 個人サイト(いわゆるホームページまたはブログ)は、まだ構築中。家訓により(笑)SNSFacebookTwitter、LINEその他)はしない。

 

Mr.ホームズ 名探偵最後の事件 [Blu-ray]

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Sherlock Holmes Commentary

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The Complete Guide to Sherlock Holmes

The Complete Guide to Sherlock Holmes

Sherlock Holmes Handbook

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Sherlock Holmes Handbook: Second Edition

Sherlock Holmes Handbook: Second Edition

World Of Sherlock Holmes

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Sherlock Holmes (Pocket Essentials)

Sherlock Holmes (Pocket Essentials)

Sherlock Holmes For Dummies

Sherlock Holmes For Dummies

 

 

日本人読者のためのホームズ読本:シリーズ全作品解題(日暮雅通)バックナンバー

2015-09-22

第13回「技師の親指」(執筆者・日暮雅通)

 

注意!

 この連載は完全ネタバレですので、ホームズ・シリーズ(正典)を未読の方はご注意ください。

 このコラムでは、映像作品やパスティーシュ、およびコナン・ドイルによる正典以外の作品を除き、全60篇のトリックやストーリーに言及します。(筆者)

 

■資料の部の原則(このコラム全体で使う略称)

 SHシャーロック・ホームズ

 JW:ジョン・H・ワトスン

 SY:スコットランド・ヤード

 B=G:ウィリアム・ベアリング=グールド(研究者)

 ACD:アーサー・コナン・ドイル

 BSI:ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(団体)

 SHSL:ロンドン・シャーロック・ホームズ協会

 正典:ACDの書いたホームズ・シリーズ(全60篇)

 JSHC:日本シャーロック・ホームズ・クラブ

 BHL:The Black-Headed League(黒髪連盟……JSHCで最初にできた支部)

 

●お詫び

 このコラムは「毎月更新」をうたっていますが、このところ私的な事情により更新できない月が生じてしまっていることを、お詫び致します。私自身の健康状態もさることながら、別途の問題もありまして……。

 

 

■第13回「技師の親指」■

【1】資料の部

  • 原題……The Adventure of the Speckled Band (Strand Magazine英・米両版)/ The Spotted Band (New York World)

/略称:ENGR

 その他、明治・大正・昭和初期の訳に「片手の機関師」「殺人水圧機」などがある。

/略称:「技師」

  • 初出……Strand Magazine 1892年3月号(英)、Strand Magazine1892年4月号(米)、シンジケート配給によるアメリカの各新聞(1892年4月)
  • 初出時の挿絵……シドニー・パジェット(英・米『Strand』)
  • 単行本初版……The Adventures of Sherlock Holmes 1892年10月14日(英)、1892年10月15日(米):シャーロック・ホームズの冒険』
  • 事件発生・捜査年月……1889年9月7日(土)(B=G)。研究者全体で1889年7月〜9月が多い(15人中14人)。ワトスン自身は「1889年夏」と書いている。
  • 登場人物(&動物)
    • SH、JW
    • 依頼人……ヴィクター・ハザリー(水力技師、二十代なかば)
    • 被害者……ヴィクター・ハザリー
    • 犯人/悪役……ライサンダー・スターク陸軍大佐(ドイツ人らしい)
    • 警察官……ブラッドストリート警部(SY)、私服刑事(SY)
    • 若い(年輩でない)女性キャラ……エリーゼ(スターク大佐を「フリッツ」と呼ぶ、正体不明の美しい女性。ドイツ人らしい)
    • その他……鉄道車掌(ワトスンの患者。グレイト・ウェスタン鉄道所属と思われる)、アイフォード駅[架空]のポーター、ファーガスン(大佐の秘書兼マネージャー、イギリス人。別名ビーチャー医師。)
    • 実際には登場しない人物……ハザリー事務所の事務員、ジェレマイアー・ヘイリング(水力技師、一年ほど前に消息不明)

 

  • 執筆者……JW

 

  • ストーリー(あらすじと構成)

 結婚後まもなく、パディントン駅近くで開業医をしていたワトスン。朝の7時だというのに、彼のもとに親指を切断された青年が連れて来られた。水力技師ヴィクター・ハザリーと名乗るその男によると、親指は自分を殺そうとした相手に、大型の肉切り包丁のようなもので切りつけられたのだという。

 警察に話したところで信じてもらえない出来事だと聞いて、ワトスンはホームズのもとに彼を連れて行く。3人で朝食をとったあと、ハザリーはその驚くべき体験を話し出した。

 水力技師として独立したものの、ほとんど仕事の来ない彼の事務所に、ライサンダー・スターク大佐と名乗るドイツ訛りの痩せぎすの男が仕事の依頼に来たのは、前日の夕方のこと。大佐の依頼は、調子の悪くなった水圧プレスの原因を調べるというものだった。絶対に秘密を守るという条件で、その晩のうちにバークシャー州まで来てくれれば、通常の十倍の報酬を払うというのだ。

 大佐の説明では、自宅の土地に漂布土という貴重な粘土の層が見つかったが、それが両隣の所有地に広がっているので、まず自宅の漂布土を掘り、それを売って両隣の土地を買いたいのだという。漂布土を掘るのになぜ水圧プレスを使うのか、いまひとつ納得できないハザリーだったが、仕事がない身の悲しさ、報酬につられてパディントン発の終列車に乗ることになった。

 大佐の指定するアイフォードという駅に降り立ったのは、午後11時過ぎ。迎えに来た大佐の馬車でさらに1時間ほど、たっぷり12マイルくらいを走り、ようやく屋敷に着くと、出迎えたのは外国語をしゃべる美女だった。大佐の部屋で待つあいだ、その美女はふたたび姿を現わし、「手遅れにならないうちに帰って」と、かたことの英語でハザリーに懇願する。

 だが、強情な性格のハザリーは、その警告を無視してしまう。大佐およびそのマネージャーと称するファーガスンとともに屋敷の上の階へ登っていくと、4階あたりにある四角い小部屋そのものが、水圧プレスの内部、つまり圧搾室だった。部屋の天井がピストンの下側の面になっているのだ。ひととおり調べて動きの鈍い原因を報告したハザリーが、さらに調べてみると、鉄製の床一面に金属の薄片がこびりついている。ということはつまり……。

 そのとき、水圧プレスの本当の使いみちに気づかれたと知った大佐は、圧搾室のドアを閉めて彼を閉じ込めてしまい、プレスを作動させる。ゆっくりと降りてくる天井をランプの光で見たハザリーは、恐怖の叫び声を上げて大佐に懇願する。

 だが運よく彼は、圧搾室の壁が木製で、その羽目板の一部がめくれていることに気づいた。そこに体当たりして、からくも圧搾室から脱出する。気がつくと彼は、先ほどの美女に手を引っぱられていた。彼女と一緒に廊下を走り、らせん階段を降りる。一方大佐も、ファーガスンと二手に分かれ、ハザリーたちを追っていた。最後の手段として3階の窓から飛び降りようとしてぶら下がるハザリーに、斧のような巨大な肉切り包丁を持った大佐が迫る。

 なんとか飛び降りたつもりのハザリーだったが、親指がばっさりと切り取られており、その出血のせいで気絶してしまう。気がついてみると、すでに夜は明けかけ、屋敷の建物も庭もない。いつのまにか彼は、アイフォード駅の目と鼻の先にいたのだった。

 話し終えたハザリーは、3時間後にふたたびアイフォードへ向かうこととなった。今度はホームズとワトスンのほか、スコットランド・ヤードのブラッドストリート警部と私服刑事も含めた、総勢5名だ。警部の話では、大佐たちは大がかりな贋金(コイン)づくりで知られる一味で、水圧プレスを使って銀のかわりにする合金をつくっていたのだという。

 車中で警部たちは、屋敷の場所を議論した。ハザリーの言う駅から12マイル離れた場所が、どの方向にあたるかだ。しかしホームズは、馬車の馬が疲れていなかったことから、6マイル走って6マイル戻った、つまり屋敷は駅のすぐ近くであると推理する。

 はたしてホームズの言うとおりであったが、駅に着いた一行の目に入ったのは、屋敷の燃える煙だった。ハザリーが圧搾室に残したランプによって、火事になったらしい。結局建物は丸焼けとなり、消防士たちが見たのは機械装置の残骸と3階の窓枠に残った親指だけだった。大佐たちは偽の銀貨を馬車に乗せて逃走したらしいが、行方はいっさいわからなかった。屋敷の庭の足跡からすると、ハザリーを運んだのはあの美人とファーガスンらしい。親指を失って何も得られなかったと嘆くハザリーにホームズは、すばらしい語り手となれる経験を得たのだと言って、慰めるのであった。

 

  • ストーリー(ショートバージョン、あるいは身もふたもないあらすじ)

 水力技師として事務所を開いたヴィクター・ハザリーは、開業したてのコナン・ドイルのように客の来ない日々を過ごしていた。そこへ現われたのが、ドイツ訛りの怪しい人物、ライサンダー・スターク大佐。バークシャー州の自宅にある水圧プレスの調子が悪く、見てくれたら通常の十倍の報酬を払うという。水圧プレスの使いみちというのがまた、いかにも怪しかったが、背に腹は代えられぬハザリー、アイフォード駅から馬車で延々と走って大佐の屋敷に到着すると、すでに真夜中であった。

 いきなり現われ、帰れと警告する外国人美女。疑り深い目つきのガリガリに痩せた大佐。その仲間でイギリス人らしいが陰気な小男のファーガスン。暗い屋敷をどんどん登っていった先の小部屋は、水圧プレスのピストンの中だった。故障の原因をつきとめるとともに、水圧プレスの真の目的は偽コイン用の合金つくりだと悟ったとたん、ハザリーは圧搾室に閉じ込められる。押し潰されるのをからくも脱出、例の美女に案内されて逃げたものの、窓から飛び降りる寸前、大佐の持った斧のような刃物で親指を切断されてしまう。だが、飛び降りたあたりで気絶したはずの彼は、気がつくと駅のすぐ近くにいた。

 その早朝ロンドンに戻ったハザリーを、ワトスンがベイカー街に連れてくる。話を聞いたホームズは、ヤードの警部たちと大佐の屋敷にかけつけるが、アイフォード駅に着いてみると、屋敷は煙と炎を上げて燃える真っ最中。贋金づくりの一団は行方知れずだし、ホームズは屋敷の場所を推理しただけで、一切は徒労に終わる。

 

  • 事件の種類……殺人未遂と通貨偽造
  • ワトスンの関与……ホームズに依頼を仲介、捜査にも同行。
  • 捜査の結果……未解決。贋金づくり一団が屋敷にいたことはわかったが、逃走先不明。見つかったのは大量のニッケルとスズ、それにハザリーの親指の残骸。

 

  • ホームズの変装
    • なし
  • 注目すべき推理、トリック
    • 馬車の馬が元気で毛もつやつやしていたということから、屋敷は駅のすぐそばであり、ハザリーを乗せたあと12マイル走ったのでなく6マイル走って6マイル戻ったのだ、というホームズの推理。
  • 本作に出てくる“語られざる事件”(ホームズが関わったもののみ)
    • ウォーバートン大佐の狂気の事件
  • 注目すべき(あるいは後世に残る)ホームズのせりふ
    • 「経験は間接的に役立つものです。あなたはこの経験を人に話すだけで、これから一生のあいだ、すばらしい語り手としての名声を得ることができるんですよ」(ハザリーに)
  • 注目すべき(あるいは有名な)ワトスンのせりふおよび文章
    • ホームズはドレッシング・ガウンを着て朝食前のパイプをくわえ、『タイムズ』の私事広告欄に目を通しながら、居間の中を歩き回っていた。そのパイプの中身は、前の日に吸った葉の燃え残りを暖炉棚の隅でたんねんに乾かしたものである。

 →ドレッシング・ガウン、パイプ、新聞の私事広告欄(『タイムズ』に限らない)というのは、いずれもホームズの象徴(アイコン)。前日の燃え残りを乾かして吸うというのも、ホームズらしさのひとつ。

 

  • 正典における位置づけおよび書誌的情報

『冒険』所収の短篇は12篇だが、ドイルはまず6篇を依頼されて書き、それで終わりにするつもりだった。それが『ストランド』誌上で人気沸騰したため続篇執筆を懇願され、一篇につき50ポンドという破格の原稿料で引き受けた。このあたりのことは以前も書いたかもしれないが、その後半6篇を執筆したのは1891年10月から11月にかけてで、うち一篇がこの「技師」だった。ドイルが医院を始めたばかりの客が来ない時期のことが、独立して事務所を始めたハザリーの境遇に反映されているようだが、ドイルのもらった「一篇につき50ポンド」の原稿料がハザリーの「ひと晩で50ギニー」につながったかどうかは、定かでない(1ギニーは1ポンドとほぼ同じ価値をもつ)。

 

◆今月の画像

f:id:honyakumystery:20150917112946j:image:w240 f:id:honyakumystery:20150917175615j:image:w180

【左:今月の画像(1)】“Times”のagony column

【右:今月の画像(2)】神戸異人館「英国館」ホームズの部屋に展示してある“親指”

 

 

【2】コラムの部

  • この作品のどこが面白いのか(あるいは面白くないのか)

 一番の特徴(?)は、正典中で極めて珍しい、「ホームズがほとんど何もしない」事件であるという点だろう。また、ホームズたちも警察官も犯人を見ていないし、犯罪があった(らしい)と示唆する証拠は、屋敷の窓枠に残された親指と、親指をなくしたハザリー青年でしかない。後述するように、ハザリーの語る話には数々の疑問が残り、本当にそんな事件があったのかどうか、疑えばきりがないだろう。

 だとしても、水圧プレスの圧搾室に閉じ込められて天井のピストンが降りてくるという恐怖(盛り上がりはいまひとつだが)や、斧のような肉切り包丁を手に迫るスターク大佐の狂気、大佐に従いながらもハザリーを助けようとする美女の存在など、ホラー要素のあるエンターテインメントとして楽しめる要素は、いろいろとある。

 正典の短篇は“一発ネタ”が多いという感想を抱くかも知れないが、19世紀中頃から後半は、これで充分だったのだろう。本篇を読んで、ウィルキー・コリンズ「恐怖のベッド」(ギャンブルで儲けた男が胴元に眠り薬を盛られ、天蓋付きベッドで窒息させられそうになる)や、ポーの短編「陥穽と振子」を思い出す人も多いだろう。

 珍しいといえば、ワトスン自身が依頼人をホームズに仲介するというのも、正典中では珍しい(ほかには「海軍条約文書事件」がある)。

 

  • ホームズの報酬/事件後の可能性

 資料の部に書いたように、この事件は未解決のままになっている。つまりホームズの報酬はないどころか、アイフォード往復の交通費の分だけ、持ち出しになったことだろう(警察が捜査費用の中から出してくれたのなら別だが)。

 ハザリーが面と向かってホームズに事件捜査の依頼(自分を殺そうとした犯人を捕まえてもらう依頼)をし、報酬を約束したわけではないのだが、ワトスンから「問題解決をお望みでしたら」とホームズへの相談を勧められ、「ホームズさんが引き受けてくださるのなら、すばらしい」と答えているので、「依頼人」という立場とみなしていいだろう。

 それにしても、数時間前にかさばる箱を馬車に積んで去った、イングランドの片田舎ではとんでもなく目立つこの一行について、ホームズがまったく手掛かりを得られなかったというのは、理解に苦しむ。この事件はワトスンの記述を信じるなら1889年夏、年代学研究者たちによれば1889年の7月〜9月に起きたのだが、ワトスンはそれから「きょうまでずっと」、犯人たち一味の消息はまったくないと書いているのだ(発表されたのは1892年3月、執筆されたのは1891年の秋)。それとも何か理由があって、ホームズはこの一件にその後関わらなかったのだろうか?

 

  • 邦題の話題

 本作については、特に翻訳上の問題はない。新旧ほとんどすべての訳者が「技師の親指」とストレートな邦題にしている。もちろん、児童向けはさまざまなバリエーションがあるが、一般向けも、もう少し読者を惹きつけるようなタイトルにしてもいいかもしれない。

 

  • シャーロッキアーナ的側面

 冒頭、ワトスンがハザリーを221Bに連れて行くと、ホームズはドレッシング・ガウン姿で『タイムズ』の私事広告欄(agony column)を読んでいる。これは直訳すると「苦悩のコラム」で、行方不明の身内や友人を捜すための尋ね人広告が多かったことから、そう呼ばれた(画像参照)。これが出てくるのは、『ストランド』の連載では今回が初めて。それ以前には『署名』に1カ所あるのみだ。次回の事件「独身の貴族」に出てくるのはpersonal columnなので、拙訳では「消息欄」としてある。日本では「三行広告」という言葉があるが、それを訳語にすることができるかどうか、難しいところだ。

 ところで、ハザリーの語るような出来事は本当にあったのか、彼のでっちあげということはないのか……そういう疑いが生じるのは、以下のように数々の疑問点(矛盾点)があるからだ。

 

【1】水圧プレスを見に行くとき、帽子をかぶっていったほうがいいかと聞いたハザリーは、機械が家の中にあると聞いて大佐の部屋に置いていった(はず)。彼はそのまま3階の窓から飛び降り、パディントンに戻ってワトスンを訪ねたのに、ワトスンが診察室に入ると、本の上に帽子が乗せてあった。血だらけだったはずの服の問題もあり。

【2】窓枠にぶら下がっているハザリー(パジェットのイラスト参照)の親指は、その位置からして、切り落とされないのでは?

【3】エリーゼとスターク大佐は同郷(同じドイツ人?)であり、しかもエリーゼが大佐を「フリッツ」と(おそらくはファーストネームで)呼んでいることから、親しい間柄だと考えられる。すると、大佐がハザリーを殺そうとしているような緊急時に、二人がドイツ語でなくわざわざ英語で会話をしているのは、なぜだろうか。ハザリーは彼女が「英語で叫んだ」とわざわざ言っている。

【4】アイフォード駅で大佐が現われたとき、ハザリーは I found my acquaintance of the morning と言っているが、事務所に大佐が来たのはハザリーが引きあげようとする夕方。

【5】圧搾室からハザリーが脱出するときの問題。水圧プレスの側面(壁)が木製で、めくれていた羽目板が降りてくる天井に押されて反り返り、そこに体当たりしたら身体が外に出て、羽目板はまた閉じたという。そういうことが可能だろうか。そもそも、偽銀貨用に銀以外の合金をつくるためニッケルとスズをプレスにかけるというが、そんな材料でいいのだろうか。

【6】「窓という窓、すきまというすきまから炎が吹き出す」状態で、消防士たちは3階の窓枠に親指を見つけたりできるものだろうか。火がおさまってからだとすると、「屋根は落ち、建物全体が完全な廃墟と化していた」ので、親指も燃えていた?

 

 また、ハザリーが水圧プレスから脱出してランプから火が回ったのは日付が変わってあまりたっていないころだが(11時15分に馬車が来て1時間後に屋敷に到着、まもなく水圧プレスを見ている)、ホームズたちは朝食後3時間ほどたってレディングで乗り換えの列車に乗っているから、アイフォード駅に着いたのは昼に近い。そんなに時間がたってもまだ火は真っ盛りだったのだろうか。

 

 このほかにも挙げればきりがないが、たとえば【2】については、別の解釈もできる。

 その際、シドニー・パジェットのイラストをそのまま信じてはいけない。問題の部分は、『ストランド』誌では“hanging by the hands to the sill”(両手で窓敷居にぶら下がった)、イギリス版単行本では“hanging with my fingers in the window slot and my hands across the sill”(指を窓の溝にかけ、両手で窓敷居にかけてぶら下がった)とあるのだ。まあ、パジェットの絵はそのあと力尽きて(あるいは大佐の武器を避けようと)片手になった、というのかもしれないが。

 それはともかく、窓敷居に浅く指をかけてぶら下がる場合は、親指が横にまっすぐ伸びるのが自然だろう。そうすると、武器をまっすぐ振り下ろしたとき親指が切れるとは考えられない。だが、窓敷居の幅が広ければ、手のひらと親指は窓敷居の平らなところに置かれるかたちになるし、あるいは腕を敷居の上に伸ばしていて、四本の指を敷居の内側に引っ掛けているのであれば、当然親指は敷居の上に乗ることになる。この可能性は、すでに二人の海外シャーロッキアンが指摘していることだ。

 また、親指がほかの四本の指と違ってまっすぐ伸ばされていたとしても、大佐の武器の振り下ろし方によっては、切断されるのではないだろうか。つまり、大佐はまずハザリーの頭を狙って確実に殺そうとするが、パジェットの絵のように頭が下がっていれば、まっすぐ窓枠に振り下ろさず、半円を描いて身を乗り出すようにして頭を狙う。これが失敗して、窓枠の外側を刃物が打てば、左手の親指だけ落とすことになるのではないだろうか。

 なお、大佐の使った武器は butcher's cleaver、つまりブッチャーの肉切り包丁(のようなもの)であり、振り下ろせば指の骨など簡単に切れるものだと思われる。

 また【4】は、例によってワトスンの書き間違いとするしかないようだ。日本語版ではそれぞれの訳者が工夫して矛盾を解消しているはず。たとえば創元推理文庫深町眞理子訳では、「夕方きた男」としてある(拙訳は「例のやせぎす男」)。

 

  • ドイリアーナ的/ヴィクトリアーナ的側面

 本作品の犯人ライサンダー・スターク大佐(Colonel Lysander Stark)と、ひと文字違いのライサンダー・スター博士(Dr. Lysander Starr)という名が、ホームズの架空の文通相手として正典「三人のガリデブ」に出てくる。シャーロッキアン的に言うなら、ホームズが架空の人物をつくるときに「技師の親指」事件に影響されたということになるだろうし、ドイリアン的に言うなら、ドイルが無意識に過去の作品の人物名を使ってしまった(もともと正典を書く際に無頓着なことが多かったから)ということになろう。

 ホームズたちが朝食に食べたベーコン・エッグなど、飲食に関するヴィクトリアーナは、ここではあまり取り上げないので、関矢悦子シャーロック・ホームズと見るヴィクトリア朝英国の食卓と生活』を参考にされるといいだろう。

 

  • 翻訳に関する話題
    • Dr. Becher

 スターク大佐の“マネージャー”であるファーガスンの別名は、Dr. Becherだった。拙訳(光文社文庫)は「ベッカー博士」となっているが、今考えるとこれは不適切な訳だ。ドイツ的な読みなら「ベッヒャー」だし、ここではイギリス人という設定で、駅長もイギリス人の医師だとして話しているのだから、「ビーチャー先生(医師)」ないし「ビーチャー博士」が適切だろう(深町訳はビーチャー博士)。

 オックスフォード大学版全集の注釈には、「マインツ大学医学部教授でミュンヘン大学化学研究室長も兼任していたヨハン・ヨアヒム・ベッヒャー博士(1635-82)の名をとったものだろう」とある(河出書房の日本語版は“ベッカー”)。確かにベッヒャーという人名は多いし、ドイツ語でマグカップのこともBecher(ベッヒャー)という。

 一方、英国の障害競馬〈グランドナショナル〉の難所の名、“ビーチャーの川”のもとになった(1839年の第1回競技でこの川に落ちた)、Captain Martin William Becher という人物がいる。イギリス人で、読みは「ビーチャー」。ドイルが彼を意識していたという可能性はあるだろうか?

 ちなみに、大佐の呼び名「フリッツ」はFritzで、フリードリッヒやフレデリックの愛称。美女のほうはEliseで、英語読みならエリザベスの愛称のエリーズ(またはイリース)だ。

    • plugs and dottles

 物語の冒頭部分、ホームズが前の日に吸った煙草の燃え残りをパイプに詰めて吸っている、というくだり。正典原文は“..... smoking his before-breakfast pipe, which was composed of all the plugs and dottles left from his smokes of the day before ..... ”だ。

 このplugには辞書を見ると「噛み煙草」という意味があり、オックスフォード大学版の注釈などには 'plugs' are pieces of tobacco pressed into a cake or stick; 'dottles' are the parts that remain after a pipe has been smoked. (plugsは塊ないし棒状に固めたタバコであり、dottlesとはパイプで吸ったあとの残り)と書かれているので、「噛み煙草やパイプ煙草の燃え残り」を乾かして詰めている、という意味にとる方もあろう。しかし噛み煙草というのは通常の煙草とは異質であり、乾かしてパイプで吸うことは、いくらホームズでもしないと思われる。

 一方、dottle はネットの訳で「喫煙後にパイプの火皿に固まって残された、部分的に燃えたタバコの残り」などとあるが、Collins English Dictionaryを見ると the plug of tobacco left in a pipe after smoking(パイプを吸って残った煙草の断片、かたまり)とある。ここでの plug は、「断片」とか「詰め物」という意味だ。

 だからここは、「前日に吸ったすべての plugs and dottles」と、大きなくくりで解釈すべきだろう。正典に言及している海外のパイプマニアのブログなどでも、「この plug は火皿から掻きだしたときにくっついた燃え残りのかたまりを言っているのだろう」と書かれている。パイプスモーカーならよく知っていることだが、葉の種類により、どうしても水分が出て完全に吸い切らないことはよくあるし、唾液の多いスモーカーだったり、急いで吸ったりすれば、途中で消えることもある。そうした場合、普通は再度火をつけるわけだが、火皿に少しだけ残っているのであれば、それを掻きだして新たな葉を詰め替える。このときの掻きだした葉が、水分や火でかたまったりしているわけだ。

 したがって、「前の日に吸ったあらゆる種類の煙草の葉を集めて乾かす」という意味にとってもかまわないものの、紙巻き煙草の吸いさしとパイプ葉の燃えさしを混ぜることはないと思われるので、やはり「前の日にパイプで吸った燃え残りの葉をすべて集めて、乾かした」という意味合いにしたほうが、無難だと思われる。

    • civil practice

 これはさらに冒頭、ワトスンが「もとの開業医に戻り、ホームズを残してベイカー街の部屋を引き払った」と書いている部分だ。

 civil practiceをネットで調べると、法律関係で使われることが多いようで、「民事訴訟(裁判)の実務」や「民事訴訟の手続き」などという意味が見られる。この場合は「刑事」に対する「民事」という対比だろう。

 一方、辞書によればcivilは「軍人・官吏」に対する「一般、民間」、つまり“military”←→“civil”である。正典の「技師」冒頭でワトスンは、“I had returned to civil practice”と書いており、これについて研究者のフィリップ・ウェラーは、ワトスンはかつて“military practice”に就く前にバーツ(セント・バーソロミュー病院)で“civil practice”に就いていたのだと解釈している。つまり「軍隊付きの医師」に対する「民間病院の医師」ということだろう。しかし、ボヘミアの冒頭近くでもワトスンは同じように“I had now returned to civil practice”と書いており、この場合は文脈からして明らかに「開業医に戻った」という意味になる。したがって「技師」の場合も、素直に「開業医」としてよいのではなかろうか。ただ、ネットのWeblioなどでは“civil practice”←→“private practice”という対比も見られ、これをあてはめるなら「公共(?)の仕事」対「個人的な仕事」となろうか。とすると、「病院の勤務医」対「個人開業医」という解釈が成り立つのかもしれない。

 

 今回は“シャーロッキアーナ的重箱の隅つつき”と、翻訳者以外は眠ってしまうような(ふつうの読者に向かないような)訳語ばなしが多くなってしまったが、お許し願いたい。「ベッカー博士」→「ビーチャー先生」の拙訳訂正は、次の重版がもしあったら、させていただきたい。今後もこの連載が自分の訳の妥当性をチェックする場となっていくことは必至であり、なんともお恥ずかしいかぎりだが、いい機会だと自分では考えている。

 

◆今月の画像

f:id:honyakumystery:20150917175249j:image:w240 f:id:honyakumystery:20150918094843j:image:w240

【左:今月の画像(3)】シドニー・パジェットの挿絵(窓枠にぶら下がるハザリー)

【右:今月の画像(4)】水圧鍛造プレス機の構造

  

★今月の余談★

 残念ながら、今回は余談を書いている余裕もない。前回は今年注目のパスティーシュをいくつか紹介したので、次回は最近刊行されたホームズ/ドイル関係の大型ビジュアル本を紹介するつもりだ。

 

日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

 1954年千葉市生まれ。翻訳家(主に英→日)、時々ライター。ミステリ関係の仕事からスタートしたが、現在はエンターテインメント小説全般のほか、サイエンス&テクノロジー、超常現象、歴史、飲食、ビジネス、児童書までを翻訳。2014年は旅行が多く仕事が滞りがちだったが、2015年は果たして汚名返上なるか?

 個人サイト(いわゆるホームページ)を構築中だが、家訓により(笑)SNSFacebookTwitterその他はしない方針。

 

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

夢の女・恐怖のベッド―他六篇 (岩波文庫)

夢の女・恐怖のベッド―他六篇 (岩波文庫)

 

日本人読者のためのホームズ読本:シリーズ全作品解題(日暮雅通)バックナンバー

2015-07-01

第12回「まだらの紐」(執筆者・日暮雅通)

 

注意!

 この連載は完全ネタバレですので、ホームズ・シリーズ(正典)を未読の方はご注意ください。

 このコラムでは、映像作品やパスティーシュ、およびコナン・ドイルによる正典以外の作品を除き、全60篇のトリックやストーリーに言及します。(筆者)

 

■資料の部の原則(このコラム全体で使う略称)

 SHシャーロック・ホームズ

 JW:ジョン・H・ワトスン

 SY:スコットランド・ヤード

 B=G:ウィリアム・ベアリング=グールド(研究者)

 ACD:アーサー・コナン・ドイル

 BSI:ベイカー・ストリート・イレギュラーズ(団体)

 SHSL:ロンドン・シャーロック・ホームズ協会

 正典:ACDの書いたホームズ・シリーズ(全60篇)

 JSHC:日本シャーロック・ホームズ・クラブ

 BHL:The Black-Headed League(黒髪連盟……JSHCで最初にできた支部)

 

●今回の変更点

 これまで、【1】資料の部に「物語および構成のポイント」、【2】コラムの部に「作品の注目点、正典における位置づけ、書誌的なことなど」という二つの項目を設定していましたが、双方の内容が重複する傾向にあるため、改訂します。

 今回から、【1】資料の部の最後に「正典における位置づけおよび書誌的情報」を客観的データとして付け、【2】コラムの部では冒頭に「この作品のどこが面白いのか(あるいは面白くないのか)」という項目をたてて、注目点などを語ります。

 

 

■第12回「まだらの紐」■

【1】資料の部

  • 原題……The Adventure of the Speckled Band (Strand Magazine英・米両版)/ The Spotted Band (New York World)

/略称:SPEC

 その他、明治・大正・昭和初期の訳に「毒蛇の秘密」「不思議のあばらや」「怪しの帯」「金庫の毒蛇」「毒蛇」「飛模様の紐」などがある。

/略称:「まだら」

  • 初出……Strand Magazine 1892年2月号(英)、Strand Magazine1892年3月号(米)、シンジケート配給によるアメリカの各新聞(1892年2月)
  • 初出時の挿絵……シドニー・パジェット(英・米『Strand』)
  • 単行本初版……The Adventures of Sherlock Holmes 1892年10月14日(英)、1892年10月15日(米):シャーロック・ホームズの冒険』
  • 事件発生・捜査年月……1883年4月6日(金)(B=G)。日がいつかはまちまちだが、研究者のほとんどが1883年4月説。ワトスン自身は「1883年4月の初め」で、「ベイカー街で(ホームズと)いっしょに部屋を借りて独身生活を送っていたころのことだ」と書いている。

【光文社文庫拙訳の初刷からいくつかの版は「1882年4月初め」と、誤植のままでした。この場を借りてお詫び致します。】

  • 登場人物(&動物)
    • SH、JW
    • 依頼人……ヘレン・ストーナー(32歳)
    • 被害者……ジュリア・ストーナー(ヘレンの双生児の姉、30歳で死亡)
    • 犯人/悪役……グリムズビー・ロイロット博士(ヘレンとジュリアの義父、医師)、沼毒ヘビ(ロイロットの飼いヘビ。殺人の凶器役)
    • 警察官……なし
    • 若い女性キャラ……なし
    • その他……なし
    • 実際には登場しない人物……ファリントッシュ夫人(「オパールの頭飾りに関する事件」でホームズに助けられたことのある女性)、ストーナー少将(ベンガル砲兵隊。ヘレンたちの父、故人)、ストーナー夫人(ヘレンたちの母、故人)、ホノーリア・ウェストフェイル(ストーナー夫人の妹)、海兵隊の少佐(ジュリアの婚約者)、パーシー・アーミティジ(ヘレンの婚約者)、インド人の使用人頭(ロイロットに殴り殺された)、ストーク・モーランの鍛冶屋(ロイロットに川へ投げ込まれた)、ロマの一団【バンド】(ロイロット家の土地に野営している)、ヒヒとチーター(ロイロットがインドから輸入して屋敷の庭で放し飼いにしている)

 

  • 執筆者……JW

 

  • ストーリー(あらすじと構成)

 ジュリアとヘレンのストーナー姉妹は、亡くなった母親の再婚相手である医師のロイロット博士と一緒にインドから帰国し、サリー州にあるロイロット家の屋敷に住んでいた。母親の遺産はすべてロイロットに譲られ、姉妹は彼の管理のもとに暮らしていたが、彼女らが結婚すれば毎年一定額の金をもらえることになっていた。

 もともと気性の激しいロイロットは、ロンドンでの開業をあきらめてサリー州に戻ってから、さらに凶暴になり、村の厄介者とみなされていた。つきあう相手は屋敷の敷地に野営させているロマの一団くらいしかいず、インドから取りよせたチーターとヒヒを庭で放し飼いにしていた。

 その後、姉のジュリアは海兵隊の少佐と婚約したが、結婚まで二週間というころ、不可解な事件が起きた。ある夜、ジュリアの悲鳴に続いて、低い口笛と重たい金属が落ちるような音が聞こえたため、ヘレンは隣の部屋に駆けつけた。寝室からよろよろと出てきた姉は、右手にマッチの燃えさし、左手にマッチ箱を持っている。そして「まだらのバンドが!」ということばを残し、意識を失ってしまった。義父ロイロットも反対隣の部屋から飛び出してきたが、ジュリアはしだいに衰弱して死んでしまう。

 遺体に外傷はなく、毒物も検知されなかった。しかも部屋は内側からカギがかかっていて、窓は太い鉄棒の鎧戸、煙突は大きな壷釘でふさがれているという、一種の密室だ。「バンド」という言葉が庭にいたロマの一団【バンド】のことなのか、何かの紐【バンド】のことなのかも、わからなかった。

 それから2年、今度はヘレンが結婚することになった。ところが、屋敷の工事の都合で、姉のいた部屋、つまりロイロットの部屋の隣で寝ることになる。そこへ、またしてもあの口笛の音が。ぞっとしたヘレンは、夜明けに屋敷を抜けだしてホームズのもとへ相談に来たのだった。

 ところが、相談を終えたヘレンがベイカー街を去るのと入れ替えにやってきたのは、当のロイロット博士だった。ヘレンのあとをつけてきた博士はホームズを脅しにかかるが、当然のことながら無駄に終わる。

 その日の午前中、登記所に行ったホームズが突きとめたのは、当初千ポンド以上あったヘレンたちの母の年収が相場の下落で750ポンド以下となっていること、そして姉妹が結婚したら博士は年に250ポンドずつ払わねばならないということだった。

 夕方までサリーへ戻らぬロイロットの留守をねらって、ホームズとワトスンは屋敷の調査をすることになる。ヘレンの部屋、つまり亡くなったジュリアの使っていた部屋は、確かに説明どおりだった。しかし、家政婦の部屋へ通じているはずの呼び鈴は、引き綱を引いても鳴らなかった。その引き綱がくくりつけてある通風口は、外でなく隣の部屋に通じている。そして、床板に釘付けにされたベッド。博士の部屋も質素なものだったが、大きな鉄の金庫とその上に載ったミルクの小皿が不可解だった。

 すでに謎を解いたらしいホームズの要請は、ヘレンと入れ替わって彼とワトスンが彼女の部屋でひと晩過ごすことだった。

 まっ暗な寝室でひたすら待ちつづける2人。朝の3時を過ぎたころ、突然通風口の方角で光がさして消えた。続いて金属の焼けるにおい。30分後には沸騰したヤカンの蒸気のような音。そのとたん、ベッドの端に座っていたホームズが飛び起きてマッチをすり、ステッキで呼び鈴の綱をめった打ちにした。

 その少しあとから聞こえてきたのは、男の恐ろしい悲鳴だった。隣のロイロットの部屋へ行くと、そこにはドレッシングガウン姿の博士が、天井をにらむようにして座ったまま息を引き取っていた。額には褐色の斑点でまだらになった紐【バンド】、つまりヘビが巻き付いている。博士はこの猛毒のヘビを操ってヘレンを殺そうとし、ホームズに打たれて戻ったヘビに逆に噛まれてしまったのだった。

 

  • ストーリー(ショートバージョン、あるいは身もふたもないあらすじ)

 早朝にベイカー街を訪れた依頼人、ヘレン・ストーナーは、姉のジュリアが謎の死を遂げたときと同じ口笛が夜中に聞こえたため、サリー州からやってきたのだった。姉妹の母親は再婚相手の医師ロイロット博士に全財産をゆずったあと、鉄道事故死していた。

 その財産は年に千ポンドという収入を生むが、姉妹が結婚したらそれぞれに年250ポンドを払わねばならない。ロイロットがそれを阻止しようとするのは、「花婿の正体」事件のときのように明らかだった。

「凶器」はインドから取りよせた猛毒の“沼毒ヘビ”。しかもミルクを飲み金庫で生活し、口笛で言うことをきくという、驚くべき存在である。姉ジュリアの結婚が近づくと、ロイロットは夜中に隣の自室から彼女の部屋へ、通気口を使ってそのヘビを放ち、うまく噛みついたところで口笛によって呼び戻した。部屋は内側からカギがかかっていたので、殺人かどうかの決め手がないまま、迷宮入りしてしまう。

 次に妹の結婚が決まったときもその手を使ったのだが、放ったヘビが必ず噛むとはかぎらない。口笛に気づいたヘレンが相談に来たことで、ホームズは現地へ赴いた。彼は密室殺人の謎を解いただけでなく、ヘレンの部屋に来たヘビをステッキでしたたか打ったため、ロイロットが“飼いヘビ”に噛まれて死ぬという結果になったのだった。

 

  • 事件の種類……(義父による娘の)殺人および殺人未遂
  • ワトスンの関与……調査に同行。ロイロット屋敷での不寝番で博士の死に遭遇。
  • 捜査の結果……解決。依頼人は無事だが犯人は死亡。ただ、凶器となったヘビは死なずに金庫へ戻されたので、その後現場に来た州警察の警官たちが噛まれた可能性もある。

 

  • ホームズの変装
    • なし
  • 注目すべき推理、トリック
    • 事件冒頭でヘレン・ストーナーに関して行うホームズの推理(ドッグ・カートで泥道を長く走ってからけさの汽車で来た)
    • スタンフォード大学の研究サイト“Discovering Sherlock Holmes”にある『ストランド』版への注釈では、ベイカー街にロイロットが現れる直前にホームズがワトスンに話して聞かせるくだり――「夜中に口笛が聞こえたこと、博士と親しいロマの一団がいたこと、……(中略)……以上の事実をつなぎあわせれば、謎に対するひとつの説明になるんじゃないだろうか」というせりふから、その説明には無理な点があるというワトスンの指摘に対して「その無理な点が致命的なものか、あるいはなんとか説明のつくものなのかを確かめたいんだ」と答えるところまでについて、こう評価している。

「このくだりを読むと、ホームズの整然とした仕事の進め方がよくわかる。彼は事実を手に入れる前に理論付けしてしまうことを避けながらも、今あるわずかな事実のひとつ、つまり金物の落ちるような音を説明するため、鎧戸の鉄棒がもとのところにはまりこんだ音かもしれないという理論を組み立てる。しかしロマが何かをしたかしなかったかという、それ以上の憶測をしようとはしない。ホームズが試行錯誤の末しだいに真実へ近づいていくことがサスペンスを盛り上げ、読者の興味を高めていくのである」

  • 本作に出てくる“語られざる事件”(ホームズが関わったもののみ)
    • ファリントッシュ夫人のオパールの頭飾りに関する事件
  • 注目すべき(あるいは後世に残る)ホームズのせりふ
    • 「こちらは親友で、仕事上の相棒でもあるワトスン博士です。彼のまえでは、ぼくと同様、どんなことでも気がねなくお話しください」(ヘレン・ストーナーに)
    • 「ぼくにとっては仕事そのものが報酬でしてね」(ヘレン・ストーナーに)
    • 「そもそも、医者が悪事に手をそめると極悪人になる傾向がある」(ワトスンに)
    • 「暴力は暴力の報いをうけ、ひとを陥れようと穴を掘る者は、みずからその穴へ落ちるというわけだ」(『旧約聖書』「伝道の書」第10章第8節および『旧約聖書』「箴言」第26章第27節のアレンジ)
  • 注目すべき(あるいは有名な)ワトスンのせりふおよび文章
    • 彼(ホームズ)は金をもうけるためでなく、探偵としての腕をふるいたくて仕事をしていたので、異常なできごとや奇怪な進展を見せそうなものでないと手をつけなかった。

 

  • 正典における位置づけおよび書誌的情報

 コナン・ドイルのオリジナル原稿では、ジュリアとヘレン姉妹の名字はロイロットとなっていた(オックスフォード大学版全集のリチャード・ランスリン・グリーンによる注釈)。また、コナン・ドイル自身、この作品がお気に入りで、1900年にすでにそれを公言していたが、1927年に自選12作を選んだ際も第1位に挙げている。

 なおドイルはこの「まだらの紐」を自身の手で戯曲にしており、かなりの人気を得た。その脚本は現在、正典でなく「外典」扱いになっている。

 

◆今月の画像

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【左:今月の画像(1)】グリムズビー・ロイロット博士(シドニー・パジェット画)

【右:今月の画像(2)】Leslie Klinger編The Illustrated Speckled Band (1910年の戯曲)

 

 

【2】コラムの部

  • この作品のどこが面白いのか(あるいは面白くないのか)

 後述するように、この作品に対しては、非常に多くの疑問点が提示されている。だが、そんなことに関係なく子どもから大人まで人気の一作となってきたのも、周知の事実である。これまでにも書いてきたことだが、ホームズものに現代ミステリの基準を当てはめるのは、無理があるのではないだろうか。120年以上前に『ストランド』を読んだ人たちが、どう面白がったのかを考えるべきだろう。そもそもホームズの“推理”自体、強引なものが多い。ところが読者がそれに驚かされ、論理的な謎解きと科学的知識による探偵を礼賛したのは、ドイルの書き方のうまさに負うところが多いと思う。

 ただ、ドイルが書いていた時期にも読者から誤りの指摘はあったわけであり、「名馬シルヴァー・ブレイズ」の競馬問題をはじめ、アバウトな筆のドイルが当時から責められていたことも、また確かである。多少の破綻があろうと、謎の提示と雰囲気作りやストーリーはこびのうまさ、それにホームとワトスンのコンビの魅力で、払拭してしまう……ひょっとすると現在の人気作品にも、そういう傾向があるかもしれない。

 

 ところで、この「まだら」と同じ「ホームズが早朝にワトスンを起こして事件が始まる」パターンとしては、「アビィ屋敷」が有名だろう。こうした事件の始まり方は、それだけで魅力的とも言える。また、「ホームズとワトスンが不寝番をして犯人の出かたを待つ」というのも、「赤毛」以来の人気パターンだ。

 とはいえ、シャーロッキアンは手を抜かない。たとえばジェイムズ・ホルロイドは、依頼人のヘレンが急いで到着したことを知っていたのなら、なぜホームズはワトスンを起こす前に着替えなどして時間をむだにしたのだろう、という疑問を呈している。いつものドレッシングガウンでいいだろうし、若い女性相手だからということなら、ワトスンを起こすのはハドスン夫人にまかせればよかったのではないか、と。

 だが、ホームズは急ぎの客が女性と知ってまず着替え、そのあとでワトスンにも知らせようと思いついた……ということはないだろうか。この次の作品である「技師の親指」を見ると、ドレッシングガウンで客を迎えることもよくあったようだが、やはり若い女性が相手の場合は違うのかもしれない。また、ホームズのせりふ「けさはみんな同じ目にあっているんだ。まずハドスンさんがたたき起こされ、彼女がぼくを起こしてうっぷんをはらし、最後にぼくがきみを起こしたというわけだ」を見ると、着替えたあとに自分のうっぷんをワトスンではらしたくなったのだという可能性も、なくもない。

 

  • ホームズの報酬/事件後の可能性

「一、二カ月して結婚しましたら自由になるお金ができますので、相応のお礼をさせていただきます」と言うヘレンに、ホームズは「ご都合のいいときに実費だけお支払いいただくことでかまいません」と答えた。しかしその少しあとで、ヘレンはさらに「母はかなりの財産持ちで、年に一千ポンド以上の収入がありましたが、それをそっくりロイロット博士にゆずってしまいました。ただし……(中略)……もし結婚したら、毎年一定の額のお金を二人とも(ロイロットから)もらうという条件になっていました」と続けている。

 一方、その日の午前中に登記所へ行ったホームズは、死亡当時の母親の(投資物件による)年収は1100ポンド近くあったが、農産物の価格低下で750ポンド足らずになったこと、姉妹は結婚したらそれぞれ年に250ポンドずつをもうらう権利があることを、調べてきた。

 つまり、姉ジュリアとロイロットが死んだいま、ヘレンは年に750ポンド弱の収入を得た。「抵当でがんじがらめ」とはいえ、屋敷と土地があるのだから、ホームズにはたっぷり謝礼をしただろうと考えられる。しかも、ロイロット自身の年収は約1450ポンドあったはずだという計算をした研究者(Lionel Needleman)もいるくらいなので、それを相続したヘレンは、かなり裕福だったのではなかろうか。

 そうしたことから、シャーロッキアンの中には(もともと刺激の強い突飛な説を出せばいいと思っている輩も多いせいか)、最後に財産を独り占めしたこのヘレンが真犯人だったという説をとなえる人も多い。こうした異説の応酬については、あとの項目で述べることにする。

 ただ、厳密には「独り占め」でなく、ヘレンには予備役で棒給が半分になっていた婚約者がいたので、結婚後は彼もこの屋敷に住んだであろうと思われる。

 さらに言うなら、「まだら」の事件記録の冒頭でワトスンは、「(内密にしておくという)約束をかわした婦人が先月急死した」と書いている。つまり、『ストランド』にこれを発表した1892年2月の前月、1892年1月に、ヘレンは死んでしまったということだ。事件から9年後、ロイロット家とストーナー家の財産はすべて、夫のパーシー・アーミティジに渡ったと考えられる。

 

  • 邦題の話題

 資料篇でお気づきと思うが、明治・大正期は、「毒蛇」をタイトルに使ってしまう完全ネタバレ題名が多かった。現代の邦題「まだらの紐」にしても、厳密な意味ではネタバレに近いという意見がある。ジュリアのせりふにある「バンド(band)」が「紐、ベルト、帯」と「群れ、一団、楽団」の二つの意味をもつため、読者はタイトルだけではどちらなのかわからず、ホームズも当初は迷うことになるのだから、それを最初から「紐」としてしまうのはまずいというわけだ。

 こうした二重の意味をもつ語がタイトルの場合、邦訳として対応できる手法としては、(1)原語そのままのカタカナを使う(「まだらのバンド」)。(2)日本語にしてカタカナのルビをつける(例「まだらの紐【バンド】」)。(3)まったく違う題名にする(例「死を呼ぶ口笛」)。などがある。

 しかし「まだらの〜」はやはりタイトルに使いたいので、(3)は除外しよう。さらに実際問題として、「まだらのバンド」を邦題にするのは無理がある。したとしても、日本の読者がカタカナ表記の「バンド」から連想するのは、ほとんどが腰に巻くベルトであろう。バンド=紐という発想はあまりないし、「まだら」という語からは「楽団」を想起するのも難しい。

 残るは(2)だが、タイトルに「バンド」というルビが振ってあったとして、いったいどのくらいの読者が「紐」と「一団」の二重性を考えるだろう。読者としては、ジュリアがダイイングメッセージとしてその言葉を吐いたとホームズが聞くとき、(ルビによって)彼女の言う「バンド」には「紐」と「一団」の二つの意味があるのだとわかれば、それほどの問題はないのではなかろうか。英語で読む読者は「まだらの紐」と「まだらの一団」の両方を頭に置くとしても、日本人読者は最初に「まだらの紐」と聞いて、いったいどんな紐なのだろう、「まだら」というところに意味があるのだろうか、と頭をひねる。それでもけっこうな謎である。さらにジュリアのメッセージの段になって、「バンド」の二重の意味をヘレンが言っているくだりを読めば、ホームズの迷いも共有できるのではないだろうか。

 

  • シャーロッキアーナ的側面

「報酬/事件後の可能性」の項目で触れた、シャーロッキアンたちの異説を書いておこう。ただ、ひとつひとつを説明すると長くなるので、結論だけを列挙するにとどめたい。どうしても気になる方は、ちくま文庫のホームズ全集や Leslie Klinger 編の The Sherlock Holmes Reference Library など、シャーロッキアンの説が載っている正典を参照されたい。

    • ヘレンがジュリアとロイロット博士を殺し、また自分たちの母親も殺した。
    • ヘレンと許されざる交際をしていたホームズが、その障害を取り除くためロイロット博士を殺した(ロイロットは求婚者を脅かしていただけだった)。
    • ヘレンが犯人であり、この事件記録はモリアーティがホームズの信用を貶めようとした計画であった。
    • ホームズはヘレンがジュリアを殺害し、さらにロイロット博士を殺害するのを、幇助した。
    • ヘレンは、逆上したロイロット博士をワトスンが正当防衛で撃ち殺してしまうという筋書きを描いていた。
    • 遺産をねらったヘレンが自室に蛇を隠しておき、紐を伝わせてロイロット博士の部屋に侵入させて殺害した。
    • ロイロット博士が財産目当てで妻を殺害してから、彼と義理の娘たちは反目した結果、毒殺による殺し合いとなった。ヘビはホームズが事件を隠蔽するために偽装工作として使った。
    • グリムスビー・ロイロット博士はヘレンとジュリアの義理の父ではなく、本物の父親であった。
    • ヘレンは最初のワトスン夫人であった。

 

 いかがだろう。さらに、前出の Lionel Needleman はこう説いている。

    • ロイロットは年に約1450ポントの収入があったので、姉妹を殺す動機はなかった。
    • ジュリアの身体を調べた医師が何も発見できなかったのは、ヘビに噛まれなかったからだった。つまりロイロットはヘビを使わなかった。
    • ホームズがステッキでヘビをたたいたとき、ワトスンは何も診ていない。呼び鈴の綱にヘビなどいなかったのだが、ワトスンは言えなかった。
    • 実は、ロイロットは性的関心により義理の娘の部屋を覗いていただけだった。ヘレンの部屋からの物音に驚いた彼は、手にしていたヘビを放してしまい、無実を証明する前に心臓発作で死んでしまった。

 

 さらに言うなら、ロイロットは最初から財産を独り占めできたはず、という考えもある。1882年に「既婚女性財産法」が変わるまで、英国では夫が妻の全財産を管理することができた。そしておそらく娘たちに毎年250ポンドを支払うという妻の要求も、無視することができた。とすれば、殺人や殺人未遂などを犯す必要はなかったというのだ。

 これはF. D. Bryan-Brown の説だが、この法律がらみのことは関矢悦子氏シャーロック・ホームズと見るヴィクトリア朝英国の食卓と生活』でも触れられている。

 

 以上のほか、「沼毒ヘビ」そのものについても、ヘビは牛乳を飲んだり金庫で生活したり口笛で呼び戻されたりしないなど、さまざまな疑問点が出ている。あまりにいろいろ言われると、もうたくさん、と言いたくなる方もいるだろう。そういう方のために、非常にシンプルな「突っ込み」をひとつ。

 ヘレンの証言では、事件の晩に寝巻きで部屋を出てきたジュリアは、「右手にマッチの燃えさしを持ち、左手にマッチ箱を握っていた」という。では、「どちらの手でドアの鍵をあけたのだろう?」

 

  • ドイリアーナ的/ヴィクトリアーナ的側面

 ドイル自身この作品を気に入っていたことは、前述した。彼は1891年10月29日付けで母親に宛てた手紙の中で、この作品を「スリラー」と呼んでいる(コナン・ドイル書簡集』)。日本では「スリラー」=「怪奇もの」というイメージが強いが、英国では犯罪小説やスパイ小説などでサスペンスを伴うエキサイティングなストーリーを指し、ホラーとは区別されている。その意味でドイルは当然の表現をしたのだろうが、日本での人気が『バスカヴィル家の犬』にも似たホラー味や不気味な雰囲気に支えられてきたことは、否めない(特に児童向けホームズものの場合はそれが顕著だった)。

 オックスフォード大学版全集のリチャード・ランスリン・グリーンによる注釈では、グリムズビー・ロイロット(Grimesby Roylott)博士の名字は当時のクリケット選手の名からとったというドイルのスピーチ(1921年)が紹介されている。だが、彼のスペルは Rylott なので(選手の名は Arnold Rylott であり、ドイルのスピーチ文も Grimesby Rylott )、そのままでなく、アレンジしたものだということがわかる。

 一方、Roderick Easdale は著書 The Novel Life of P G Wodehouse(2014年)の中で、当時はクリケット選手の名をフィクションの登場人物に使うことが多かったと述べ、その例としてホームズものの人物名をいくつか挙げており、ロイロット(Roylott)博士はレスターシャーのクリケット選手アーノルド・ライロット(Rylott)の名を“改変”したものだと述べている。これこそまさに、ランスリン・グリーンの言う選手であろう。

 河出書房版(文庫でないほう)の訳文ではこの Rylott も「ロイロット」となっているが、その前の戯曲の説明部分ではドイルが正典から変更した名前 Rylott をロイロットと表記しているので、クリケット選手のほうは単なるケアレスミスであろう。

 この「ロイロット」のアレンジについては、Forebears というネットのファミリー・レコード調査サイトが、ある程度参考になる。Roylott という名字は1881年の時点でイングランドに5名いたのみ。現在は絶滅しているらしい。他方、1881年に Rylott はアメリカとカナダに190名、Rylatt ならイングランドほかに500名、Rylett はイングランドに189名いたという数字も挙げている。

 

  • 翻訳に関する話題

 サリー州へ向かうとき、ホームズはワトスンに「ポケットにリヴォルヴァーをしのばせて」いけと言っている。鉄の火かき棒を簡単にねじ曲げるような男が相手なのだから、銃を使ったほうが話がつけやすい場合もある、というわけだ。

 このときホームズは、そのリヴォルヴァーを“An Eley's No. 2”と呼んでいる。ジャック・トレイシーはシャーロック・ホームズ大百科事典』の「Eley Bros.(イリー)」の項目で、「銃器の弾薬製造会社。〈まだら〉でホームズがワトスンに“イリーのナンバー2”と言っているのは、イリーの弾薬(cartridges)を使うウェブリー・ナンバー2リヴォルヴァーのことを指しているのであろう」と書いている。また小林宏明『図説銃器用語事典』(早川書房)にも、「英国の老舗弾薬メーカー。競技用弾薬、ショットガン(散弾銃)の装弾などで有名。1820年代にエレー兄弟が興した」という説明がある。

 つまり、弾薬(薬莢ではない)のことを言うだけで、ワトスンにもどの銃のことを言っているかがわかったわけだ。

 このワトスンの銃がどんな種類のものだったかも、シャーロッキアンのあいだでは諸説ある。だがここでは、イリーの弾薬の箱には「どの銃に使えるか」という文字が書かれてあるので、箱に大きく書かれている「イリー」を、小さく書かれている「ウェブリー・ナンバー2用」の代わりに言ってしまった、という解釈が妥当と思われる。ウェブリー・ナンバー2はポケット・リヴォルヴァーで、現代人のポケットには少々大きいが、ワトスンのポケットには十分だった。

 この銃の表記について、拙訳の光文社文庫版は説明足らずになっており、申し訳ない。今後機会を見つけて何らかの加筆をするつもりだ。

 ちなみに、“Eley”をネットの発音サイト(複数)でみると、「イーリー」と「イーレー」の二つがあるが、比率としては「イーリー」のほうが多いようだ。

 

◆今月の画像

f:id:honyakumystery:20150625144207j:image:w240 f:id:honyakumystery:20150625144208j:image:w240

【左:今月の画像(3)】ウェブリー・ナンバー2リヴォルヴァー

【右:今月の画像(4)】グラナダTV『シャーロック・ホームズの冒険』で通気口から降りるヘビ

 

  

★今月の余談★

 今回は今年の秋にかけての新作(注目)パスティーシュを紹介したい。自費出版サイトとAmazonのおかげで雨後の竹の子のごとく繁殖した出来の悪いパスティーシュでなく、ちゃんとした出版社とちゃんとした編集者が出す書籍だ。もちろん、評価は読者それぞれの好みによって変わると思うが。

  • The Big Book of Sherlock Holmes Stories edited by Otto Penzler (Pantheon, 2015年10月刊)
The Big Book of Sherlock Holmes Stories

The Big Book of Sherlock Holmes Stories

 まずは、かのオットー・ペンズラーがついにホームズ・パスティーシュ・アンソロジーを編んだ。古典から新作まで短篇83作を盛り込んだ928ページにわたる超大作だ。ウッドハウスやO・ヘンリーのようなクラシック作家、ローリー・キングやダニエル・スタシャワーなどのホームズもの作家、そしてアン・ペリーやスティーヴン・キング、ニール・ゲイマンといった現代ミステリ作家の作品まで入っている。

 実は今年1月のBSIウィークエンド(NY)でペンズラーの書店に寄ったとき、いつものように地下の「内輪客用」本棚を漁っていたら、この本のゲラ(あるいはマニュスクリプト)が置かれているのを発見、ちらっと垣間見たのであった。あとで本人に聞くと、2016年刊とのことだったのだが、今年10月刊に早まったらしい。もし日本で出すとしたら、問題は既訳の古典も多いという点だろう。いや、古典でなくても、この手のアンソロジーの場合、現代作家の既訳が入っていることもよくある。分厚さも問題だが……。

 

  • Mycroft Homes by Kareem Abdul-Jabbar and Anna Waterhouse(Titan Books, 2015年10月刊)
Mycroft Holmes (Hard Case Crime)

Mycroft Holmes (Hard Case Crime)

 アメリカの伝説的バスケットボール選手、カリーム・アブドゥル=ジャバーが映画脚本家と組んで書いた長編パスティーシュ。超有名人とあって、今年1月に刊行を発表したとき、『ニューヨーク・タイムズ』や『ニューヨーカー』に記事が載った。彼いわく、「NBAのルーキーだった40年以上前に初めてホームズものを読んで、人の見えないところに手掛かりを見つける彼の能力に魅了された。その観察力はバスケットボールのゲームにも応用でき、私を優れた選手にしてくれた」。ふ〜む。そうは言ってもねぇ。小説を書くのは初めてで(自伝とスポーツ関係の本はある)、共著者が映画の脚本家兼プロデューサーってんだから、なんともはや。いや、だからといって面白い作品にならないとは言えない。まずは読まなくては。若き日のマイクロフト・ホームズを主人公としたこの長篇、どこまでホームズファンやミステリファンに受け入れられるのか。楽しみだ。

 ちなみに、やはりというか、今年1月のBSIディナーに彼も正体されて出席していた。2メートル18センチという身長はアメリカ人の中でも図抜けていて、しかも数少ない黒人なので、非常に目立っていた。

 

  • Art in the Blood by Bonnie MacBird(HarperCollins, 2015年10月刊)

 三つ目はハリウッドで長年映画の脚本から俳優、監督まで幅広く活動し、ドキュメンタリー脚本でエミー賞もとった女性の、初長篇ミステリ。彼女も二、三年前からBSIで会っており、去年別の出版社からこの作品を出すと聞いていたのだが、版元を大手に変えて刊行することになったらしい。今年の1月にSHSLディナー(ロンドン)で会ったとき、ハーパーコリンズから出すのだとうれしそうに言っていた。

 1888年暮れ、切り裂きジャックを追うのに疲れ果てたホームズのもとに、フランスから美人歌手が依頼にやってくる。美術コレクターである伯爵とのあいだに生まれた息子が、失踪したというのだ。フランスへわたるホームズとワトスンは、事件の裏に国際的な美術品強盗の陰謀が隠されていることを知り、さらに大がかりな展開となっていく……。

 どこまで読ませるものになるか。上の作品同様、最近は映像関係のライターがホームズ・パスティーシュを書くケースがかなり増えているが、手ごたえあるものを期待したい。

 

  • The Mammoth Book of the Adventures of Moriarty edited by Maxim Jakubowski(Robinson, 2015年10月刊)

(*上記アマゾンリンクが表示されない場合は以下リンクを参照してください)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1472135776/honyakumyster-22/

 

 最後は知る人ぞ知るアンソロジスト、マキシム・ジャクボウスキーの新アンソロジーだ。これまた、かの有名な“Mammoth book”シリーズのひとつとして、「モリアーティしばり」の短篇集となる。このシリーズということは、おそらくオリジナル(書き下ろし)パスティーシュばかりのはず。592ページは前出のペンズラーのアンソロジーと比べると薄く感じてしまうが、相当な分量のはずだ。

 いや、こちらは残念ながら……ジャクボウスキーには今年会っていない。

 書き下ろしアンソロジーといえば、この2年ほど、SFやファンタジーの作家が書いたホームズ・パスティーシュのアンソロジーが増えている。スチームパンクをテーマにしたホームズもの長篇も続いており、そのあたりの新たな(?)流れは、いずれどこかで書かなければならないだろう。実は小川隆さんのサイトで最近のスチームパンク・ホームズの流れを書くことになっているのだが、どうにも時間がとれずにいて……ああ、不義理ばかり。

 

日暮 雅通(ひぐらし まさみち)

 1954年千葉市生まれ。翻訳家(主に英→日)、時々ライター。ミステリ関係の仕事からスタートしたが、現在はエンターテインメント小説全般のほか、サイエンス&テクノロジー、超常現象、歴史、飲食、ビジネス、児童書までを翻訳。2014年は旅行が多く仕事が滞りがちだったが、2015年は果たして汚名返上なるか?

 個人サイト(いわゆるホームページ)を構築中だが、家訓により(笑)SNSFacebookTwitterその他はしない方針。

 

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

シャーロック・ホームズの冒険 (新潮文庫)

The Sherlock Holmes Reference Library: The Adventures of Sherlock Holmes

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The Novel Life of P.G. Wodehouse

The Novel Life of P.G. Wodehouse

シャーロック・ホームズ大百科事典

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図説 銃器用語事典

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日本人読者のためのホームズ読本:シリーズ全作品解題(日暮雅通)バックナンバー