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2013-11-25

『インフェルノ』への道(その3)(執筆者・越前敏弥)

「その1」はこちら

「その2」はこちら


   

 ダン・ブラウンのラングドン・シリーズ第4作インフェルノの刊行まで、いよいよあと3日。連載「インフェルノへの道」はきょうが最終回となります。

 KADOKAWA公式サイトには、プロモーションムービーのほか、津川雅彦さん、荒俣宏さん、わたしの3人のコメント動画、さらには小森純さんがナビゲーターをつとめた発売記念イベントの動画がアップされています。

 また、11月30日(土)の午後1時から、荒俣宏さんとわたしの刊行記念トークショーがおこなわれます。会場は、AmazonのKindle Fire HDX の発売日(28日、『インフェルノ』の発売日でもあります)から表参道に特設される〈Kindle エンタメステーション〉。詳細についてはこちらの案内をご覧ください。

インフェルノ (上)  (海外文学)

インフェルノ (上) (海外文学)

インフェルノ (下) (海外文学)

インフェルノ (下) (海外文学)

 言うまでもなく、インフェルノは、ダンテの『神曲』〈地獄篇〉を下敷きにした薀蓄満載のノンストップ・スリラーです。あらすじはこちらにまとまっているので、きょうはインフェルノをより楽しむためのいくつかの関連書の内容と、これまでシリーズ全作にかかわってきた訳者から見た読みどころを紹介します。


 まずは関連書から。すでに刊行されているものと、これから刊行されるものがあります。


【1】ダン・ブラウン徹底攻略』ダン・ブラウン研究会/著(角川文庫)

インフェルノも含めたダン・ブラウンの全6作品の詳細なガイドブック。もちろん、重大なネタバレなどはありません。未読のかたにとっては興味を掻き立てられる入門書であり、既読のかたにとっては興奮を追体験できる楽しい読み物になっています。正直なところ、短期間でここまで充実した本ができあがるとは予想もしていませんでした。謎の「ダン・ブラウン研究会」というのは、当サイトによく寄稿してくださる某氏も含めた数人の連名です。また、わたしがかつて当サイトに書いた連載「『ロスト・シンボル』への道」からクイズやフリーメイソン探訪記などが転載されています。


【2】『やさしいダンテ〈神曲〉』阿刀田高/著(角川文庫)

やさしいダンテ<神曲> (角川文庫)

やさしいダンテ<神曲> (角川文庫)

 著者独自の解釈を随所に織り交ぜながら、『神曲』の流れを現代の日本人にもわかりやすく紹介してくれます。聖書やギリシャ・ローマ神話なども噛み砕いて解説した著書で定評のある阿刀田高さんが2011年にお書きになった、『神曲』入門書の決定版です。


【3】『謎と暗号で読み解くダンテ『神曲』』村松真理子/著(角川oneテーマ21

 長くダンテの研究に携わってきた東京大学准教授が今年書きおろしたダンテ入門書。上述の『やさしいダンテ〈神曲〉』があらすじを網羅していく構成であるのに対し、この本は全体をざっと一覧しながらも文学史的・社会的に重要な部分を詳述し、韻文としての『神曲』の魅力を最大限に伝えるようにつとめています。

 この本と著者の村松さんについては、翻訳百景のブログにもう少しくわしく書きました。


【4】インフェルノ・デコーデッド』マイケル・ハーグ/著、国弘喜美代/訳(角川書店)

 本国アメリカでもインフェルノのガイドブックがいくつか刊行されていますが、これは簡潔な内容と豊富な図版を特徴としたすぐれたものだと思います。ダンテについてはもちろん、インフェルノ作中で重要な役割を占めるボッティチェルリの〈地獄の見取り図〉、マルサス人口論、トランスヒューマニズム、ヴェッキオ宮殿、ボーボリ庭園、サン・マルコ寺院などについて、さらに知りたい人のための本なので、こちらはインフェルノ読了後にお読みになることをお薦めします。


 そのほか、ドレの挿絵と詳細な訳注が満載の『神曲〈完全版〉』平川祐弘/訳、河出書房新社)、新装版として島田雅彦・三浦朱門・中沢新一3氏のエッセイが掲載された『神曲』(地獄篇・煉獄篇・天国篇、三浦逸雄/訳、角川ソフィア文庫)、謎解きを主眼とした入門書『誰も書かなかった ダンテ『神曲』の謎』(ダンテの謎研究会/著、中経の文庫)、『天使と悪魔』以降の全作でバランスのよい解説書を書いてきた著者によるインフェルノの「真実」』(ダン・バースタイン&アーン・デ・カイザー/著、青木創/訳、竹書房)なども、よかったら手にとってみてください。


 つづいて、インフェルノの読みどころを3点。


【1】大法螺話と禁断の結末

 ダン・ブラウンの最高傑作としてこの連載の「その1」で紹介した『デセプション・ポイント』について、杉江松恋氏は『海外ミステリー マストリード100』(重版おめでとう)に、「"もっとも壮大な法螺話の構造を持"ち、"度肝を抜かれること請け合い"」と書いています。インフェルノも、法螺話としてのスケールの大きさではそれに負けていません。得体の知れなさではこれまでのどの作品をもしのぐ「大機構」という謎の組織がいったい何をやらかそうとしているのか、そこに陰謀や秘密結社などとはおよそ縁遠そうなWHO(世界保健機関)がどうからんでくるのか、特に下巻にはいると、上巻ではまったく予想もつかなかった展開になります。これまでのダン・ブラウン作品に見られたややワンパターン気味の構造とはまったくちがう、とてつもない大仕掛けが施されていると申しあげておきます。

 そして、ミステリーとしては禁じ手と言ってかまわないであろう奇想天外な結末は、おそらく賛否両論を呼び起こすことでしょう。


【2】『神曲』がテーマに選ばれた必然

 上述の『謎と暗号で読み解くダンテ『神曲』』のあとがきには、著者の村松真理子さんがダ・ヴィンチ・コードをはじめて読んだとき、『神曲』が使われているのを感じたというくだりがあります。これを見て、わたしはちょっと驚きました。というのも、ダ・ヴィンチ・コードにはダンテや『神曲』や〈地獄篇〉に関する直接の記述はまったくないからです。

 先日、村松さんと会ったとき、なぜそんなふうに感じたのかを尋ねたところ、薔薇や円や球体へのこだわり方が『神曲』全般、特に〈天国篇〉のクライマックスに非常によく似ているから、という答が返ってきました。

 なるほど、言われてみればたしかにそうです。そして、もしそうだとすると、つぎの『ロスト・シンボル』も、薔薇こそあまり出てこないものの、円や球体を聖なるものとして扱うという点では一段とその傾向が強いと言えます(中盤に出てくるシンボルや、終盤のテンプル会堂の場面を思い出してください)。

 また、3や9などを「聖なる数」と見なす考え方がラングドン・シリーズの諸作に出てきますが、今回のインフェルノでもそれは何度も見られます。『ロスト・シンボル』ではフリーメイソンの聖数として33が幾度となく言及されましたが、『神曲』のカント(歌)の数が三部作の各篇とも33であるというのは、たぶん根底のところで通じるものがあるのでしょう。

 今年のはじめ、ラングドン・シリーズ第4作のテーマがダンテの『神曲』だと聞かされたときには、あまりにも唐突に感じられたものですが、こうして見ると、意外でもなんでもなかったというわけですね。


【3】日本版だけのちょっとしたサービス?

 ご存じのとおり、ダン・ブラウンの作品にはいくつもの暗号が登場します。インフェルノにもいくつか盛りこまれていますが、過去のシリーズ3作に比べて暗号自体は小粒かもしれません。

 そのかわり、本筋とはあまり関係ないところで、作者は『神曲』がらみのちょっとしたことば遊びをやっています。これはあまりにもさりげないので、原書を読んだ読者の何分の1かは、おそらく気づかなかったはずです。

 翻訳でいちばん苦労したのはそこでしたが、あれこれ工夫した結果、日本語版については、最後まで読んだ人はかならずその遊びに気づくように処理したつもりです。どうぞお楽しみに。


 思えば、前作『ロスト・シンボル』では、作者の精神世界への興味がかなり強まったため、ダン・ブラウンはもうエンタテインメントを書かないのではないかとちょっと危惧したものです。しかし、蓋をあけてみると、インフェルノは以前と同じくサービス精神たっぷりの娯楽作品であり、ほっとしました。とはいえ、この作品の後半で扱われる社会問題は、多少の誇張はあるとはいえ、今後われわれが真剣に考えていかざるをえないものでもあります。


 最後に、インフェルノのあとがきや、関連サイトや紹介記事、キーワード検索などでこのサイトを訪れてくださった皆さんにひとこと。このサイトは、翻訳ミステリーを愛する翻訳者・編集者・書評家などが完全なボランティアで運営しています。ダン・ブラウンの作品以外にも、翻訳フィクションの面白い作品の情報が満載なので、あれこれ記事をお読みになって、ご自分に向いていそうな作品をいくつも見つけていってください。

 あまりにも多くてどれを読んだらいいかわからないときは、まずはこれまでの翻訳ミステリー大賞受賞作をお薦めします。この賞は、日本じゅうの翻訳者がみなさんに読んでもらいたい作品に投票した結果をもとに決められています。

 過去の受賞作は以下のとおりです。


 第1回(2010年)『犬の力』ドン・ウィンズロウ/著、東江一紀/訳、角川文庫)

犬の力 上 (角川文庫)

犬の力 上 (角川文庫)

犬の力 下 (角川文庫)

犬の力 下 (角川文庫)


 第2回(2011年)『古書の来歴』(ジェラルディン・ブルックス/著、森嶋マリ/訳、武田ランダムハウス)


 第3回(2012年)『忘れられた花園』(ケイト・モートン/著、青木純子/訳、東京創元社

忘れられた花園 上

忘れられた花園 上

忘れられた花園 下

忘れられた花園 下


 第4回(2013年)『無罪』スコット・トゥロー/著、二宮磬/訳、文藝春秋

無罪

無罪


 また、全国の読書会の課題書なども参考になると思います。これまでの読書会関係の情報はここここにまとまっています。

 今後も当サイトをどうぞよろしくお願いします。

越前敏弥

(えちぜんとしや)。1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景


月替わり翻訳者エッセイ バックナンバー 

神曲【完全版】

神曲【完全版】

デセプション・ポイント〈上〉 (角川文庫)

デセプション・ポイント〈上〉 (角川文庫)

デセプション・ポイント〈下〉 (角川文庫)

デセプション・ポイント〈下〉 (角川文庫)

2013-11-18

『インフェルノ』への道(その2)(執筆者・越前敏弥)

「その1」はこちら


 警察官はしばしば、アホウドリの教えにしたがわなくてはならない――この愚かな鳥は、浜辺の人間たちの手や棍棒による破滅が待ち受けているのを知りながら、屈辱の死を迎える危険も辞さず、砂浜へ卵を産みにいく……。その点は警察官も同じである。すべての日本人は、警察官が卵を完全にかえすまで、けっして邪魔をすべきではない。


 これはエラリー・クイーンの国名シリーズ第1作『ローマ帽子の秘密(謎)』の冒頭にある引用文です。これを書いたとされる日本人の名前は、タマカ・ヒエロ(原文は Tamaka Hiero)。どちらが苗字でどちらが名前なのかはわかりません。アホウドリの教えを説く謎の日本人タマカ・ヒエロ氏の著書『千の葉』からの引用文は、つぎの『フランス白粉の秘密』にも載っています。


 その後、国名シリーズを読み進めていくと、第8作『チャイナ橙〜』では、さらにパワーアップしたマツォユマ・タユキ(原文は Matsuoyuma Tahuki。タフキ?)なる日本人の著書が紹介されます。


 

 純文学も負けていません。イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』に登場する日本人作家の名前は、タカクミ・イコカ。読んでいて思わず、わたしの姉弟子にあたる翻訳者の高橋恭美子さんを関西あたりへ誘ってあげたくなったものです。


 100年ほど前にアメリカで活躍した謎の日系人コラムニスト、ハシムラ東郷は、「出っ歯で眼鏡で目が吊りあがった顔」「卑屈ながら考えを曲げない」という日本人像の原型を作ったとされています。当時はかなりの人気を博し、早川雪洲主演の映画まで作られましたが、実際には白人作家がそのコラムを書いていて、架空の人物だったそうです。ハシムラ東郷については、こんな研究書まで出ています。

ハシムラ東郷

ハシムラ東郷

 そのハシムラ東郷も、日本人から見れば苗字がふたつで、おかしな名前なのですが、西洋人にとっては、かなりの日本通の人でも苗字と名前がごちゃごちゃになることが多いようです。


 この点は、われらがダン・ブラウンも同様です。第1作『パズル・パレス』で敵役をつとめる天才日本人科学者の名前は、エンセイ・タンカド。ほかに、トクゲン・ヌマタカという日本人も登場します。全文の記述から考えて、タンカド、ヌマタカのほうが苗字なのは明らかなのですが、どういう漢字をあてたらよいか、想像もつきません。

 訳出の際には、編集者と相談し、もっと日本人っぽい名前にさりげなく変えたらどうかという話が出たのですが、実はこのタンカド(Tankado)という名前が別の語のアナグラムだという趣向があったため、手を加えることができず、結局そのまま訳すことになりました。


 月日が流れ、長らく待たされたラングドン・シリーズ第3作『ロスト・シンボル』の英文原稿がわたしのもとに届いたのは2009年の9月13日。本国での発売より2日前のことでした。いつもと同じく、のっけから読者の心をつかむ展開にわくわくしていたとき、冒頭から数十ページ進んだあたりで、目を疑うものが見えました。そこで颯爽と登場したCIAの女性局長の名前はこうだったのです。


   Inoue Sato


 ダ、ダン先生、日本のことをいろいろ勉強したって、この前のインタビューで語っていらっしゃったのでは?

 通常、ある程度の売れ筋の本の場合、翻訳者のもとへは本国での刊行より半年前に英文原稿が届けられるもので、その場合は、こちらから訂正を促すことも可能です。でも、このときは極秘で作業が進められていて、本国刊行とほぼ同時でしたから、どうにもなりませんでした。

 さあ、どうする?

 さすがにイノウエ・サトウのまま訳すわけにはいきません。ちなみに、井上佐藤さんというBLコミックの作家のかたがいらっしゃるようですが、おそらく偶然だと思います。また、そのころは角川書店の社長が井上さん、角川ホールディングスの社長が佐藤さんでしたが、まさかおふたりに敬意を表したわけでもないでしょう。

 当時の翻訳学校のクラスで、この『ロスト・シンボル』を教材に扱っていたので、どう処理すべきかを生徒に尋ねたところ、圧倒的多数が「井上サト」にしたらどうか、と答えました。すでに原書でこれを読んでいた人たちのネットへの書きこみも、それが主流でした。

 しかし、残念ながら、全体を読めば、サトウのほうがまちがいなく苗字なのです。それでも強引に変えてしまうという手も、普通の翻訳書の仕事ではありうるのですが、『ロスト・シンボル』は映画化がほぼ確定していたので、音声でサトウと呼ばれることを考えると、入れ替えるわけにもいきません。

 こういう場合、もうひとつの手立てとして、苗字しか訳さずに名前をすべて省略するという方法があります。でも、運の悪いことに、1か所、パソコンのログイン画面でユーザー名としてこの人の姓名が表示される場面があり、そこはどうしてもフルネームを示さなくてはなりません。

 あれこれ考えていたとき、かつて同業者から聞いたある話を思い出しました。作品名は忘れてしまいましたが、Toshibaさんという日本人が登場する小説を訳すことになり、さすがに東芝さんではまずいので、トシバさんにしたとかなんとか(そう言えば〈バック・トゥ・ザ・フューチャー2〉にはフジツウさんが出てきます)。

 そうか、トシバさんの手で行こう、それしかない――そう腹をくくったわたしは、最後の手段として、日本語版では「イノエ・サトウ」という女性にこの役割をつとめてもらうことにしました。ただし、あまり目立たないように、原文で11か所あったフルネームのうち、最初の1回と、さっき書いたログイン場面、合わせて2回だけそのまま訳し、あとは苗字だけにしてあります。

 え、漢字はどう書くかって? 自分では「伊之江」というちょっと古風な字をあてて訳しましたが、この人のキャラクターからすると「猪栄」などのほうが合うかもしれません。読む人が自由に脳内で補完してください。


 ダン・ブラウンは徹底的なリサーチをして情報満載の作品を書くタイプの作家ですが、それでもたまにこういうことをやらかしてくれます。ただ、それを言うなら、どの作家の作品を手がけるときも、小説の翻訳には、大なり小なり、そういった尻ぬ……いや、連係プレーが付き物。なんと言っても、血湧き肉躍るノンストップスリラーですから、細かいところで読者が集中できなくなるようなことを避けるのは、こちらの仕事のうちです。それに、こういうスリルがあるから、この仕事をやめられない、というのも、半分本音だったりします。


 でも、ダン先生、今後の小説で日本人を登場させるときは、ぜひ事前にご相談くださいね。


 次回は、11月28日にいよいよ刊行されるインフェルノの読みどころや関連書などを紹介します。先週末にインフェルノ公式サイトが更新されました。この作品の魅力についてわたしが話している動画もあります。6分と長めですが、よかったらこちらをご覧ください。


「その3」はこちら


越前敏弥

(えちぜんとしや)。1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景


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冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

ハシムラ東郷

ハシムラ東郷

インフェルノ (上)  (海外文学)

インフェルノ (上) (海外文学)

インフェルノ (下) (海外文学)

インフェルノ (下) (海外文学)

2013-11-11

『インフェルノ』への道(その1)(執筆者・越前敏弥)

             

        

        

 ダン・ブラウンのラングドン・シリーズ第4弾インフェルノが11月28日に刊行されるので、今月の月曜枠ではそれに向けての記事を3回書かせていただきます。題して〈インフェルノへの道〉。まだごく少数ながら、見本ができ、きのうの夜に紀伊國屋書店新宿本店でカウントダウンイベントがありました。


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 とはいえ、刊行まで間があるので、第1回のきょうは、当サイトのリレー連載〈初心者のための作家入門講座〉の一環として、「初心者のためのダン・ブラウン」。


これまでの〈初心者のための作家入門講座〉はこちら


 まあ、こんな記事を書かなくたって、ダン・ブラウンは初心者にも読みやすい作品ばかり書いているんですが、このサイトの読者は、最初から本好きの人が多いはずなので、超初心者向きのものということではなく、むしろある程度ミステリーを読んでいる人向けのものはどれか、という立場で書いてみます。


 ダン・ブラウンがこれまでに書いた作品は6作。実はそれ以外に、公式サイトなどにはまったく情報がない2冊のユーモア本("The Bald Book"と"187 Men to Avoid")がありますが、どうもご本人がふれられたくない過去のようなので、ここでは無視します。


  パズル・パレス(1998)

  天使と悪魔(2000) ラングドン・シリーズ第1作

  デセプション・ポイント(2001)

  ダ・ヴィンチ・コード(2003) ラングドン・シリーズ第2作

  ロスト・シンボル(2010) ラングドン・シリーズ第3作

  インフェルノ(2013) ラングドン・シリーズ第4作


〈初心者のための作家入門〉では、まずどの作品から読むといいかを書くことが多いようです。ダン・ブラウンの場合、よくあるまちがいとして、ダ・ヴィンチ・コードがシリーズ第1作と思われがちなので、いや、『天使と悪魔』から読んでください、というのが初心者へのごくふつうの薦め方でしょうが、このサイトの読者のかたは先刻ご承知でしょうし、逆に歯応えのある作品のほうをお望みでしょうから、きょうはノン・シリーズの2作目にあたる『デセプション・ポイント』をご紹介します。実のところ、いろいろな意味で最も完成度が高く、作者の技巧がほどよく凝縮されているのはこの作品だと思います。

デセプション・ポイント〈上〉 (角川文庫)

デセプション・ポイント〈上〉 (角川文庫)

デセプション・ポイント〈下〉 (角川文庫)

デセプション・ポイント〈下〉 (角川文庫)

 国家偵察局(NRO)の局員レイチェルは、大統領へ提出する機密情報の分析に携わっていた。現在、ホワイトハウスは大統領選の渦中にあるが、レイチェルの父セクストンは現大統領の対立候補だった。選挙戦の最大の論点は米国航空宇宙局(NASA)に膨大な予算を費やすことの是非であり、NASA擁護派の現職よりも批判派のセクストンが優勢となっていたが、レイチェルは家族を顧みない父と断絶状態にあった。

 そんなとき、北極で地球外生命体が発見されたという情報が大統領陣営にもたらされる。レイチェルは大統領から指示を受けて北極へ行き、そこで海洋学者トーランドをはじめとする科学者のチームとともに真偽のほどをたしかめるべく調査をはじめるが、信じられないような数々の謀略の深みにはまり、生命の危険に何度もさらされる。大統領選の情勢が二転三転するなか、レイチェルやトーランドははたして生還できるのか? そして、地球外生命体はほんとうに存在するのか?


 この作品をイチ押しにする理由をいくつかあげてみましょう。


(1) スピード感と蘊蓄のバランス

 本来矛盾するはずのこのふたつの要素が両立するのがダン・ブラウンの特徴ですが、小出しに傾けられる蘊蓄がストーリーの必然からかけ離れることなく、一体化していて、中途半端に読み飛ばすことができないという点では、おそらくこの作品がいちばんです。

 蘊蓄の中身も、ラングドン・シリーズで多く見られる文化・芸術・歴史方面だけでなく、大統領選やホワイトハウス、生物学や化学や雪氷学、潜水艦や兵器など、多岐にわたっています。


(2) 巧妙な伏線

 ページターナーであるためによく見逃されるのですが、読者をミスリードするためのさりげない叙述や、伏線の張り方、小道具の使い方など、ダン・ブラウンはどの作品でも実によく工夫を凝らしています。この『デセプション・ポイント』でも、再読すれば、序盤から周到な罠がいくつも仕掛けられていることにお気づきになるでしょう。

 これは訳者泣かせの特徴でもあります。ひとつの単語が二重の意味を持ったり、台詞の話者が見かけとちがったりという場合は、訳文の処理で通常の何倍も神経をつかわざるをえません。


(3) 推論の切れ味

 ダン・ブラウンのほかの作品はすべて、暗号がいくつも用意されていて、読者は主人公とともにそれを解いていく趣向になっていますが、『デセプション・ポイント』だけは暗号と呼べるものが出てきません。そのかわり、地球外生命体が存在するか否かについての仮説が中盤にいくつか立てられ、それぞれを検証していきます。この過程がきわめて独創的かつ明快で筋道立っていて、本格的なミステリーの醍醐味を堪能できます。いちばんのカタルシスが得られるのは、おそらくこの部分です。


(4) ふたりのヒロイン

 お決まりと言えばお決まりですが、ダン・ブラウンのすべての作品に、魅力的なヒロインが登場します。ヒロインの年齢が比較的高いのは、ダンの妻ブライズが12歳上であるせいという説もありますが、それはともかく、『デセプション・ポイント』では、大統領側主人公レイチェルのほかに、対立候補側の秘書ガブリエールという女性が登場し、読者の興味はこのふたりがそれぞれの窮地をどうやって脱するかに惹きつけられます。対立する両陣営のヒロインに同等の感情移入をさせるという離れ業は、この作品だけのものです。


(5) バカミス度の高さ

 動機とトリックのアンバランスはよく「バカミス」という呼称のもとに珍重されます。ダ・ヴィンチ・コードの冒頭でソニエール館長がわざわざみずから全裸死体になるシーンなども、この範疇にはいるのかもしれません。詳細はネタバレになるので書きませんが、『デセプション・ポイント』はこの点でもダン・ブラウン全作品中の白眉だと言えます。「あんなことのためにあそこまで……」と言いたくなるということでは、ジャック・カーリイ『百番目の男』に匹敵すると断言します。


 というわけで、これだけ傑作の要素を具えた『デセプション・ポイント』ですが、原著の刊行当時はあまり話題になりませんでした。ひとつには、大手出版社への移籍を果たしたのがつぎのダ・ヴィンチ・コードだったという事情もありますが、それより大きな理由は、この本が出たのは2001年8月であり、翌月に同時多発テロが起こったからでしょう。この時期はフィクション、ノンフィクションを問わず、期待作が総倒れとなりました。そして、愛国心の高揚が求められたこの時期には、NASAや大統領選をめぐる腐敗や陰謀をテーマにしたこの作品はお呼びではなかったようです。

 ダン・ブラウン自身も、この作品にはひときわ愛着があるらしく、映画化に際してのシナリオをみずから執筆しています。まだ本格的なことはほとんど決まっていないようですが、6作のなかではまちがいなく最も映画向きの作品でもあるので、期待はいや増します。


 ところで、新作のインフェルノについては、上記の5つの要素はどの程度期待できるのか。独断で採点させてもらえれば、(1) が○、(2) が◎、(3)と(4) が△、(5) が◎といったところでしょう。今回は比較的仕掛けが地味ではないかという印象で静かにはじまりますが、後半になると、奇想天外な大仕掛けの連続となります。そして、読み返してみると、その伏線が冒頭部分からいつにも増して多く仕込まれているのがわかります。

 最新作インフェルノは、過去の5作のどれにも似ていない、ダン・ブラウンの新境地と呼ぶべき作品です。そして、禁断の結末は、まちがいなく賛否両論を呼び起こすでしょう。もう少しくわしく内容を知りたい人のために、今週から全国の書店に10ページ程度のこんなフリーペーパーを置いてあるので、見つけたらご自由にお持ちください。

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 ところで、これまでシンジケート後援の読書会で、課題書としてダン・ブラウンの作品を採りあげたことは一度もありません。最も課題書向きなのもこの『デセプション・ポイント』にちがいないので、これをやろうという読書会があったら、教えてください。全国津々浦々、どこへでも参上しますよ。


 次回はダン・ブラウン作品にまつわる翻訳上の四方山話などを紹介する予定です。


「その2」はこちら

「その3」はこちら 

越前敏弥

(えちぜんとしや)。1961年生。おもな訳書に『解錠師』『夜の真義を』『Yの悲劇』『ダ・ヴィンチ・コード』など。趣味は映画館めぐり、ラーメン屋めぐり、マッサージ屋めぐり、スカートめくり。ツイッターアカウント@t_echizen。公式ブログ「翻訳百景


月替わり翻訳者エッセイ バックナンバー 

インフェルノ (上)  (海外文学)

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インフェルノ (下) (海外文学)

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ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)

ダ・ヴィンチ・コード(上) (角川文庫)

ダ・ヴィンチ・コード(中) (角川文庫)

ダ・ヴィンチ・コード(中) (角川文庫)

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天使と悪魔 (上) (角川文庫)

天使と悪魔 (上) (角川文庫)

天使と悪魔 (中) (角川文庫)

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天使と悪魔 (下) (角川文庫)

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百番目の男 (文春文庫)

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