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2015-06-16

アガサ・クリスティー攻略作戦 第一〇二回(執筆者・霜月蒼)

 

アガサ・クリスティー完全攻略

アガサ・クリスティー完全攻略

 すでにご存じのかたもいらっしゃるかと思いますが、本サイトに長らく連載していた《アガサ・クリスティー攻略作戦》が本にまとまり、2014年5月に講談社よりアガサ・クリスティー完全攻略』として刊行されました。それが先般、日本推理作家協会賞の「評論その他の部門」賞を受賞し、また本格ミステリ大賞の「評論・研究部門」を受賞するという望外の栄誉を頂戴しました。

アガサ・クリスティー完全攻略』は、同書刊行の2014年春までに邦訳出版されていたアガサ・クリスティー作品全99作をレビューしたものです。


 ところが。


 2015年1月、新たなクリスティー作品が本になっ(てしまっ)たのである。その名もポアロとグリーンショアの阿房宮(クリスティー文庫)。そうなっ(てしまっ)たからには仕方ない。これをカバーしないと「完全攻略」にならないのである。

 ということで《攻略作戦》、久しぶり、一度きりの再開である。

 行くぞ。


【おはなし】

 エルキュール・ポアロのもとにかかってきた一本の電話。それはミステリ作家アドリアニ・オリヴァ夫人からの一報だった。夫人は郊外の屋敷に招かれ、そこで行われるお祭りのために書き下ろした殺人ミステリ劇の準備をしているのだという。だがどうにも不審なのだと夫人はいう、何かよくないことがここで起きるのではないかと。

 かくしてポアロは同地へ赴く。そして屋敷の主人夫婦にはじまる関係者の人間模様をそれとなく探るなか、祭りは開幕。するとミステリ劇で被害者を演じるはずだった少女が殺害されているのが発見された。相前後して屋敷の主人の妻も失踪していた……


 という「おはなし」を読んで気づかれるかたもおられよう、本作はポアロもの長編『死者のあやまち』の中編ヴァージョンである。正確にいえば本作が先にあったので、『死者のあやまち』が本作の長編ヴァージョンというべきか。

 もともとクリスティーはこれを一種のチャリティーのようなものとして書き下ろし、雑誌掲載するつもりだった。ところが長すぎたためにボツとなり、代わりに書いたのが『クリスマス・プディングの冒険』に収録されている短編「グリーンショウの阿房宮。こちらはミス・マープルもので、題名こそ似通うが、内容はまったく別になっている。


 かくして本作が日の目を見ることはなくなった。しかしクリスティーが本作をあっさり取り下げたのは、長編化する目算があったためであるようだ(このあたりの成立事情については本書巻末にある解説にくわしい)。短編を長いものに書き改めた例は過去にもあって、短編「二度目のゴング」が中編「死人の鏡」に、短編「マーケット・べイジングの怪事件」が中編「厩舎街の殺人」に、短編「黄色いアイリス」が長編『忘られぬ死』に、といったあたりが代表的なもの。短編「舗道の血痕」のように、基本アイデアを長編『白昼の悪魔』に組み込んだケースもあった。

 すべてに共通するのは、短編版ではいささかアイデアばかりが目立って味気なかったものが、人間関係やミスディレクションや伏線の拡充によって、明らかに改善されている点だろう。


 では本作はどうか。


 これがほとんど読み心地に変化がないのである。

 最大の理由は、『ポアロとグリーンショアの阿房宮』は、中編サイズでありつつも、殺人までの人間関係に多くの筆が費やされていて、『ナイルに死す』以来のクリスティー・ミステリの基本構造「ゼロ時間へ towards zero」の流儀で書かれていることだろう。欺し絵めいた人間関係の綾織りや、そこに仕込まれたミステリ仕掛けの精妙さも中編版にすでにある。さきほど挙げた改作例はクリスティーがキャリアの浅い時期に書いたものをヴァージョンアップしたものばかりだった。本作は50年代に書かれたものだから、すでにクリスティー・ミステリの基本形はできあがっていたのだ。

 そんな基本形に忠実な長編が『死者のあやまち』で、いかにもクリスティーらしい精妙さが着実に発揮されている。同時に『死者のあやまち』は、ポアロやオリヴァ夫人のキャラものとしての面白みが盛り込まれてもいた。そんなキャラものの可笑しみも、原型である本作には盛り込まれているのである。オリヴァ夫人の「旧式の軍艦みたいな」服装や奇怪なヘアスタイル、あるいは「オリヴァ夫人がポアロの名前を告げても若いひとは誰も知らなかった(ことはポアロには内緒)」みたい細かなくすぐりまで、この『ポアロとグリーンショアの阿房宮』にはちゃんと書かれてある。

 ミステリ仕掛けをもっと細かく見てみても印象は同様だ――『死者のあやまち』には大胆な演劇的な伏線がひとつあり、クリスティーらしいダブルミーニングを使った心理的な手がかりがひとつあり、メインとなるのはアイデンティティの擬装と人間関係の反転というクリスティーらしい仕掛けで、動機の核心にあるのもクリスティーが幾度もつかってきた「ある問題」となっている。

 これらすべてが『ポアロとグリーンショアの阿房宮』の段階で存在している。だからこの中編版で、《阿房宮での殺人》とでも呼ぶべきミステリは――中編「死人の鏡」のような完成度で――きれいにできあがっているのである。この作品には、一連のプロトタイプである「二度目のゴング」「舗道の血痕」バグダッドの大櫃の謎」のような物足りなさや味気なさは感じられない。

 とはいえ邦訳にして200ページ以上も、本作は『死者のあやまち』より短い。ならばどこがどう違うのだろうか。もちろん『死者のあやまち』のほうが、描写のはしばしの書き込みが密なわけだが、これだけ尺を伸ばすには構造上の差がないとむずかしい。クリスティーはどんな構造上の要素を加えたのか。


 事件発生からあとの展開。それである。


 『死者のあやまち』では、事件発生後、警察の捜査員たちの活動が描かれている。ポアロの調査もまた然り。しかし『グリーンショアの阿房宮』では、そこを大きく省略しているのだ(正確にいうと逆で、そこの部分をクリスティーは加筆したわけだが)。つまり『死者のあやまち』は、「ゼロ時間までのドラマ」「ゼロ時間=事件発生」「捜査」「解決」の4要素で成り立っているが、『グリーンショアの阿房宮』は、「ゼロ時間までのドラマ」「ゼロ時間=事件発生」「解決」の3要素で成り立っているということになる(ちなみに「捜査」に当たる部分に「ポアロのひらめき」が置かれていて、このひらめきは『死者のあやまち』にも活かされているし、解決のカギとなる「ある小事件」も双方に登場するが、『グリーンショア』では短い伝聞情報として到来するのみ)。

 結果、『グリーンショアの阿房宮』のほうがミステリとしての切れ味が上なのだ。この呼吸はちょっと『白昼の悪魔』に似る。『グリーンショアの阿房宮』は、わかりやすいトリックがひとつあるタイプのミステリで、そこを明かすだけで全体の構図が反転する仕組みになっている(ただしクリスティーなので「トリック」それ自体はどうということもないもので、それの及ぼす効果と、それの原因となる人間模様が主役である)。事件発生の余熱が読者のなかで冷めないうちに、トリックが明かされて急転直下の解決がもたらされる。このキビキビした動きが『白昼の悪魔』のシンプルでソリッドな感触を思わせるのである。

 しかし、もっと似ている作品がある。短編「砂に書かれた三角形」『死人の鏡』所収)がそれだ。


 「砂に書かれた三角形」は、クリスティー・ミステリの芯の芯を短編の尺で表現してみせた感のある作品。事件発生のあとすぐに人間関係の反転が明かされて、急転直下の解決に至る。クリスティー・ミステリの基本設計図みたいな趣のある作品だった。

 『グリーンショアの阿房宮』は(ミステリ仕掛けに違いはあれど)、「砂に書かれた三角形」の改良版のような風合いの作品になっているのだ。「砂に書かれた三角形」は、「ゼロ時間までのドラマ」を無理やり短編の尺に押し込んでいるせいで、どこかデッサンの狂った感じがあったが、これが中編の尺ゆえに解消されている。しかし急転直下の解決のキレのよさは保たれていて、つまり「『ゼロ時間へ』式ミステリ」の最小のかたちが『グリーンショアの阿房宮』ではないかという気がするのだ。クリスティー・ミステリから、不要なものをギリギリまで削ぎ落とした「基本設計図」が、これではないかという気がするくらいに。


 だが、ここで言っておくべきは、『死者のあやまち』が単なる水増しではないという点である。後半にクリスティーが書き加えた部分は、事件捜査・情報収集以外にもある。事件に深くかかわることになった「ある人物」の描写がそれで、これがぐっと深まっているのだ。『死者のあやまち』解説で横井司氏も書いているように、これは横溝正史のある長編を強く連想させる(氏は題名を挙げていないが、私は【反転開始】犬神家の一族【反転終了】を思い出した)。

 クリスティーの長編ミステリには、例えば『鏡は横にひび割れて』『五匹の子豚』『ホロー荘の殺人』『終りなき夜に生れつく』のように、犯人や事件の焦点となる人物の仄暗い陰影が持ち重りのする読後感を与える傑作が多数ある。『死者のあやまち』にも、それと同じ味わいがあるということだ。

 初読時、わたしはそこにあまり意識的ではなかった。むしろ『死者のあやまち』の軽快な読み口に注目していた。だが今回、ミステリとしての衝撃度を増した『ポアロとグリーンショアの阿房宮』を読んだのちに再読することで、『死者のあやまち』の新たな側面に気づいた格好になる。重たい悲劇性。そして骨格にあったミステリ仕掛けの鋭利さ。それがわたしが重きを置かなかった『死者のあやまち』の側面である。

 すぐれたミステリは再読に堪えるということだ。「謎=解決」の関心が薄れたがゆえに浮かび上がる物語の魅力。『死者のあやまち』もまた、クリスティーの小説巧者ぶりが発揮された快作だったのである。


 『死者のあやまち』のレビューで、わたしは、「クリスティーのミステリはどんな感じのものか?」と問われたら『死者のあやまち』をさしだすのも一興である、というようなことを書いた。いま、『ポアロとグリーンショアの阿房宮』を経て『死者のあやまち』を再読し、あの問いへの答えとして『死者のあやまち』をさしだすのは、ひょっとすると完璧な回答なのかもしれないと思いはじめた。

アガサ・クリスティー完全攻略

アガサ・クリスティー完全攻略

五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

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アガサ・クリスティー攻略作戦・関連記事

2014-07-15

クリスティーに異形の正義を探る―― 『アガサ・クリスティー完全攻略』書評(執筆者:巽昌章)

 

アガサ・クリスティー完全攻略

アガサ・クリスティー完全攻略

 

  クリスティーには妙に分かりにくいところがある。トリックが面白い、論理が緻密といった紋切り型の言葉でとらえるわけにはいかず、かといって、古きよき英国を親しみやすく描いたなどと呼ぶには、その凄みはあまりに悪魔的である。だから、とりあえずこういっておこう。クリスティーという作家が体現しているのは、小説を支配し尽くすことのおそろしさなのだと。小説は書きようで、同じ出来事を明るくも暗くも書くことができ、読者を笑わせたり泣かせたりすることができる。大衆作家クリスティーは、多くの読者に愛されながら、その「書きようでなんとでもなる」という単純な可能性を、おそろしいほどに突き詰めたのだった。彼女の仕組む謎解きの特色もそこにあるだろう。

 

 むろん、こんな抽象的な言い方では何を言ったことにもならない。大事なのは個々の作品をしっかり読んで、「書きよう」を探ることである。霜月蒼アガサ・クリスティー完全攻略』はまさにその愚直な実践であり、いたるところにこの作家の「書きよう」が発散する凄みを発見している。霜月氏はもともとハードボイルドやノワールを好んで取り上げる評論家だが、そんな人が、いわば畑違いのクリスティーに徒手空拳で挑んだことからくるミスマッチの面白さがここにはある。しかし、それは決して見当外れということではなくて、対象との間に距離を感じているからこそ、ここまで作家の「書きよう」とその魅力に肉薄できたのだろうと思わせる。

 たとえば、第一作『スタイルズ荘の怪事件』について、霜月氏はこう述べる。

 

『スタイルズ荘の怪事件』は、言い換えれば推理を紡いでゆくプロセス自体をストーリーとした小説なのである。謎は冒頭で提出されたものに限られず複数提出される。冒頭の謎が、推理や手がかりの収集を経て、別の謎に姿を変えもする。容疑者たちのイメージも尋問や対話によって変動する。あるいは一見なんでもない描写に伏線や手がかりを仕込む。こうすることでクリスティーは「本格ミステリという物語」を確立した。(p.12)

(編集部注:太字部分はじっさいには傍点)


 こういう書き方は意外にできないものだ。私たちは、謎や推理やトリックが小説の部分品として「ある」と考えがちなので、それらを流動するプロセスとして眺め、プロセス自体が物語を形成するとみなすところにはなかなか行き着けないからだ。この一節は、クリスティーにとどまらず、本格推理長編の「初心」をうまく言い当てたものだと思う。

 

 こうした霜月氏の持ち味がもっともよくあらわれているのは、クリスティーの小説を貫くテーマを正義という言葉でとらえようとしているところである。とりわけ、正義をもたらす峻烈な「復讐の女神」としてのミス・マープル像を提示したくだりは、この本の眼目と言ってよいだろう。といっても、霜月氏はクリスティーが勧善懲悪だからすばらしいなどと述べているのではない。本書を読み終えたときに残るのは、むしろ、クリスティーにとって正義とは何だったのだろうという問いである。クリスティーの正義は、あるときには狂気と一体のグロテスクな姿をのぞかせ、あるときには必殺仕掛人的な痛快さをもたらす。しかも、そうした様々な正義の姿を演出しているのは、悪魔のように小説を支配し、思うがままに読者を操ることのできた作家ではないか。私たちはクリスティーが作品の随所に残した「正義」の刻印をたどって、彼女の考えにたどり着こうとするが、そのとき、その刻印ははたして信用すべき手掛かりなのだろうか、正義も悪もこの天才の筆先の戯れではないのかという背筋の寒くなるような疑惑を道連れにせざるをえない。

 

 こうしたクリスティーという作家の得体の知れなさを痛感させるのが、オリエント急行の殺人』そして誰もいなくなったが双子のようだという指摘である。一方はまずまず勧善懲悪、他方は暗澹たるバッドエンドと印象は正反対なのに、霜月氏の言うとおり、この二冊は確かに似ている。テーマを共有しながら、それを軸にして対照的な姿を与えられているのだ。だが、このふたつを一組としてとらえ、さらに戦後の諸作品へとつなげてゆくことによって、クリスティーの作品世界は不気味なひろがりをみせることだろう。絶海の孤島に殺人者の狂気を封じ込めたかのような『そして誰もいなくなった』。事件が終われば乗客たちは広い世界へと散ってゆく『オリエント急行』。だが、もし両者が双子であり、悪魔的な作家の「書きよう」によって異なる姿を見せているのだとすれば、開かれたこの世と悪夢の孤島は等価なのかもしれず、殺人者に宿る狂気もまたこの世のいたるところに潜んでいるかもしれないのである。

 

巽 昌章(たつみ まさあき)

 京都大学推理小説研究会出身。推理小説評論家と称しているが、ほとんど開店休業状態。

 

論理の蜘蛛の巣の中で

論理の蜘蛛の巣の中で

■千街晶之氏特別寄稿書評『アガサ・クリスティー完全攻略』刊行によせて

■アガサ・クリスティー攻略作戦【番外編】(執筆者・霜月蒼)※『アガサ・クリスティー完全攻略』刊行記念寄稿

2014-06-11

千街晶之氏特別寄稿書評『アガサ・クリスティー完全攻略』刊行によせて

「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の名物連載であり、書籍化が期待されていた霜月蒼氏の『アガサ・クリスティー攻略作戦』が、ついにアガサ・クリスティー完全攻略』として講談社から函入りの美麗本で刊行された。クリスティーの作品99冊すべてに目を通し、その書評を書くという、前例のない大変な企画である。

アガサ・クリスティー完全攻略

アガサ・クリスティー完全攻略

 著者の霜月蒼氏はミステリファンならお馴染みの批評家だが、その守備範囲はハードボイルド、ノワール、冒険小説、ホラーといったあたりが中心だ。その霜月氏が、英国本格ミステリの女王アガサ・クリスティーという、今までの評論活動とは縁遠い存在に着目し、その全作品に目を通すという取り合わせの妙味が、この企画の成功の理由のひとつだ。ガチガチの本格ファンにすら、戯曲や旅行記まで含めてクリスティーの全作品を読んでいるというひとがどれだけ存在するだろう(かなりのファンを自負している私ですら読み残しがある)。エラリイ・クイーンやジョン・ディクスン・カーのファンと較べると、クリスティーのファンは熱く語りたがるタイプが少ないため、広く読まれているわりにクリスティーの魅力というのはなかなか伝わりにくい。更に、霜月氏も指摘しているように、クリスティーを語る従来の言葉の多くが、彼女の作品のミステリとしての核心に触れるものではなかったというのも否めない。その点、本格を守備範囲としていない霜月氏が、自分なりにクリスティーの魅力を見出し、それを自分の言葉で表現していこうとする一種のドキュメンタリーとしても本書は貴重なのだ。

 本書のもうひとつの成功の理由は、(ポアロやマープルといったシリーズ別になっているところはあるとはいえ)クリスティーの作品をほぼ発表順に追っている点だろう。私もそうだが、早い時点でクリスティーの作品に馴染んでいる読者は、まず代表作を読み、そこから他の作品へと手を広げてゆくものではないだろうか。本書の場合、霜月氏は発表順に読んでゆくことによって、クリスティーの作家としての成長、あるいは変化を捉えることが出来た。例えば『杉の柩』『アクロイド殺し』『三幕の殺人』の延長線上にある試みだとする見方はかつて存在しなかったのではないか。


 また、『ナイルに死す』などの有名作品の美点を巧みに指摘しつつ、あまり話題にならない『死との約束』(一応、映画になってはいるけれど)や『死の猟犬』『忘られぬ死』などを傑作として称揚しているあたりも、従来のクリスティー論にないユニークな部分だし、『ひらいたトランプ』などの失敗作からもクリスティーという作家の本質を捉えようと試みている点も注目すべきだ。霜月氏のすべての意見に賛同し得るわけではないにせよ(特に『予告殺人』への低評価には同意し難い。ネタばらしになるため具体的には書けないが、私見ではこの作品の美点は、謎解きの構成や犯人の意外性にあるのではなく、殺人者の心理的な歪みが生み出す怖さと悲劇性にあると考えるからだ)、美点の的確な指摘と欠点への容赦ない裁断は読んでいて清々しい。

 霜月氏ならではの視点だと思ったのが、ミス・マープルをキャシー・マロリーや草薙素子の源流としての「正義のヒーロー」と捉える見方である。これには虚を衝かれたが、確かに『ポケットにライ麦を』などにおけるマープルは仮借のない怒りで正義を実現しようとするキャラクターだった。噂話が好きな田舎のおばあさん的なイメージで想起されがちなマープルの新たな魅力を浮かび上がらせたのは、ハードボイルドや冒険小説に親しんでいる霜月氏の、ヒーローというもののありようへの日常的な思索の賜物なのだろう。

 霜月氏ならでは――といえば、個人的に本書で印象的だったのは、ミステリとしての構造に対する怜悧な分析とは別に、『五匹の子豚』という小説の真の凄みを指摘するくだりである。こういったところで氏の文章は無類のイメージ喚起力を発揮する。続く『ホロー荘の殺人』の、ガーダ・クリストウの仄暗い肖像を浮かび上がらせる筆さばきも同様だ。分析の鋭さや蓄積された知識を武器とする批評家はいくらでもいるが、霜月氏のように、文章力でダークなイメージを喚起し得る批評家は極めて稀だということは、いくら強調してもしすぎるということはない。


 さて、数ある書評の中で最も衝撃的なのが、クリスティー晩年の怪作『フランクフルトへの乗客』についての文章である(本書では5つ星満点で各作品に★★★★とか★★といった採点がされているのに、この作品だけ「BOMB!」なのだ)。「昔読んだけど、なんだかよくわからないしそんなに面白くもなかった」程度の記憶しか残っていなかった私などは、「え、『フランクフルトへの乗客』ってそんなに凄まじい話だったっけ?」と再読したくなったほどだ。霜月氏の紹介によるとこの作品は「ブラックパワーもアフリカの独立運動も学生運動もヒッピーもネオナチもひとくくり」に扱い「現代芸術や現代思想すらも悪の組織による陰謀のツール」と見なす誇大妄想的な陰謀論と、「差別主義を老白人たちのヒロイズムとして描いた」ヘイト・スピーチ的な「狂気の書」であり、そこから浮かび上がるクリスティーの姿は「敵を虐殺したあとの廃墟にレース編みのクロスをあしらって心底から幸せそうに微笑む老女」に他ならない。

 ただし、この評からは、晩年のクリスティーがどうしてそのような小説を書いてしまったのかはわからない(『愛国殺人』の評に記されているように、クリスティーがしばしば底の浅い床屋政談に走りがちだったとしても)。例えば、『第三の女』における若者文化の理解ある描き方と『フランクフルトへの乗客』の若者憎悪のあいだに何があったのか(両作の発表年はたった4年しか違わないのだが)。『カーテン』や『ポケットにライ麦を』などに顕著だと霜月氏が指摘するクリスティーの清冽で健康な正義感と、『フランクフルトへの乗客』の狂気の域に達した独善とは実は紙一重なのか。霜月氏はそのあたりについては答えてくれないので、本書から読者が思い浮かべるクリスティー像は分裂したものにならざるを得ない。個々の作品の評で構成されている本なので仕方がないとも言えるのだが、そのあたりに少々踏み込んでくれたなら、本書は更に読み応えのある批評になり得たのではないか。

 ついでなので、気になった細かい点に触れておくと、22ページでロナルド・ノックスを「ノックス卿」と記しているけれども、普通こういう表記はしないのではないか(ノックスは高位聖職者だが貴族ではない)。また149ページには、「舞台を岡山なり箱根なりに移せば、そのまんま横溝作品になる」というくだりがあるけれども、岡山はともかく、箱根はあまり横溝正史作品の舞台というイメージはない。『犬神家の一族』に言及している点から推測すると、長野と混同しているように思えるのだが。


 最後は少々不満も書いたけれども、本書が広く読まれるべき良質な批評書であることは、「翻訳ミステリー大賞シンジケート」の読者にとっては改めて説くまでもないことだろう。何より、これほどクリスティーの作品を読みたくなる(再読したくなる)ガイドはかつて存在しなかった。本書によって、クリスティー作品の魅力に開眼する読者が増えることを期待したい。

ひらいたトランプ (クリスティー文庫)

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予告殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

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第三の女

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■アガサ・クリスティー攻略作戦【番外編】(執筆者・霜月蒼)※『アガサ・クリスティー完全攻略』刊行記念寄稿