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2013-03-28

北上次郎の質問箱・第四回の回答・後篇(執筆者・霜月蒼)

「北上次郎の質問箱」第四回 霜月蒼さま ジャック・リーチャーは本当に カッコいいですか?

 

北上次郎の質問箱・第四回の回答・前篇(執筆者・霜月蒼)

 

【承前】

 

 1986年、北上次郎『冒険小説の時代』を読んでいたわたしは、ある作家の新作についての評に引っかかりをおぼえた。その作家とは――


 クライブ・カッスラーである。


 問題の書評は、1982年に邦訳されたカッスラーのダーク・ピット・シリーズ第5作『マンハッタン特急を探せ』をとりあげたものだった。このシリーズは「国立海中海洋機関(NUMA)」なる機関の特殊任務担当ダーク・ピットが、海にまつわるさまざまな陰謀と戦うという人気作品。このシリーズについて北上次郎は、代表作タイタニックを引き揚げろ』を高く評価しつつも、以降邦訳された『氷山を狙え』『QD弾頭を回収せよ』といった作品について、一貫して違和感を表明してきた。そして続く邦訳『マンハッタン特急を探せ』に関する書評で、ダーク・ピット・シリーズは北上次郎のいう「冒険小説/活劇小説」には属さない小説であると確信したと記していた。

 一方でわたしは新潮文庫版のダーク・ピット・シリーズをすでに読んでおり、アリステア・マクリーンやデズモンド・バグリイの作品と同じような昂揚を感じ、「ダーク・ピットかっけー!」と思っていた。つまりダーク・ピット・シリーズが冒険小説であることを毫も疑っていなかったのである。そこに、他ならぬ北上次郎が苦言を呈したのであるから、わが動揺はいかばかりであったか。

 とはいえ、わたしもまだ15歳かそこらである。「そうかダーク・ピット・シリーズは冒険小説ではなかったのか」と、すなおに北上次郎の定義にしたがい、自分の脳内の小説マップのなかの「冒険小説」の境界上のところにダーク・ピット・シリーズを配置した。この定義を受け入れたうえで、小説を読んでいこう、と思ったのである。そしてそれは、以降、現在までつづく。――だから前篇で記したように、わたしは北上次郎が『質問箱』で言わんとしたことが100%わかるのである。


 ただし問題なのは、ジャンルがどうであれ、わたしにとってダーク・ピットがカッコよかったということなのだ。その「カッコよさ」は、ジャック・リーチャーの「カッコよさ」、スーパーヒーローの「カッコよさ」と同じものだ。――ダーク・ピットをめぐる1986年の問題と、ジャック・リーチャーをめぐる2013年の問題は、まったく同じなのである。

 

 では北上次郎をして「クライブ・カッスラーは冒険小説ではない」と確信させたのは何だったのだろう。

 その核心部分を、北上次郎『マンハッタン特急を探せ』の一場面に求めている。主人公ダーク・ピットが冒険行の途中で水をたたえた立坑で溺死しそうになる、という場面である。著者カッスラーは、溺れるダーク・ピットの意識が途切れる瞬間に場面を切り替え、しばし別の物語を語ってから、ふたたびダーク・ピットの物語に戻る。この間にピットは危地を脱している(その経緯はあとで語られる)。

 冒険小説としてみたとき、ここが『マンハッタン特急を探せ』の、そしてダーク・ピット・シリーズの決定的な欠点だと北上次郎は記す。曰く、冒険小説であるならば、主人公が危機と格闘するさまを描かなくてはならず、ピットの死闘を描かずにすませたのは、カッスラーが「主人公の苦闘」よりも「おもしろい物語を展開させること」を優先しているせいではないのか。

 つまりカッスラーは「物語主義」に軸足を置いており、それは「冒険小説/活劇小説」の本質と相容れないというのが北上次郎の意見だった。ダーク・ピットへの北上次郎の違和感と、今回のジャック・リーチャーへの違和感は同じものだろう。


 北上次郎と「物語主義」といえば、やはり『冒険小説の時代』に収録されている北方謙三の初期傑作『檻』についての評言を思い出さずにはおれない。

『檻』は、スーパーの店長として静かに暮らしていた男が、ひょんなことから、眠らせたはずの暴力衝動をめざめさせてしまい、それに引きずられるように徐々に破滅してゆく、という小説である。いま「ひょんなことから」と書いたが、この「ひょんなこと」というのは、主人公の経営するスーパーにチンピラによるイヤガラセが相次ぎ、主人公がそれを解決しようとする、という冒頭の部分。だが、このエピソードは本筋と関係ない。『檻』という小説を駆動する主人公の暴力衝動を起動するためだけに、この冒頭のエピソードがある。

 ここを北上次郎は、北方謙三が「物語主義」に堕していないとして高く評価した。後年、北方謙三は『檻』の主題と流儀を発展させ突きつめて心理小説的ノワールとでもいうべき作品、『擬態』『煤煙』などの傑作を送り出すことになる。これらの作品では、主人公の外部にある状況や、主人公が外部に向けてアウトプットする行動よりも、主人公の内部で状況に導かれて生じるものや、アウトプットを導き出す心理のほうに重点は置かれている。


 こうした北上次郎の問題意識を象徴するのが「70年代の壁」という語である。『冒険小説の時代』『冒険小説論』の双方で、北上次郎はこの言葉を用いて冒険小説の一問題について考察している。「70年代の壁」とは、この時代以降の冒険小説が、その舞台背景や陰謀の様相に凝りはじめた結果、主人公の肉体/身体に根ざした迫真性が失われたことを指す。これを解決するためには肉体性に立ち戻らなくてはならないと北上次郎はいう。

「背景」と「肉体」――主人公の「外部」と主人公の「内部」――「物語」と「心理」。

 北上次郎がリー・チャイルド/クライブ・カッスラーを通じて問題視するのは、物語主義と肉体性の相克である。つまり、「主人公が物語の進行に奉仕する」のがチャイルド/カッスラーであり、「主人公を描くために物語がある」のが北上次郎のいう冒険小説なのである。主人公=冒険者が、プロット進行のための装置であるのかどうか――「狂言回し」であるかどうか、が問題なのだ。

「物語」と「心理」の問題を、前回わたしが書いた「感情移入できるヒーロー/できないヒーロー」の二分法と合わせてみると、こう言い換えることができる――ある物語のなかで展開する活劇に、「読者が心理的に当事者として関わる」か、あるいは「一歩ひいた場所から観客として観る」かという違い。北上次郎が「冒険小説/活劇小説」というとき、それは前者を指す。活劇を通じて活写されるヒーローの内的ドラマを重視するか、あるいはヒーローを通じて推進される物語りを重視するか、ということである。


 わたしは本サイトでの『アガサ・クリスティー攻略作戦』第九十一回『死への旅』を扱い、「冒険小説/活劇小説は、つきつめれば心理小説である」と書いた。これは北上次郎の「肉体性」の重視と同じことを言っている。つづけてわたしが書いているように、「小説というのは言葉で紡がれるものであるから、『肉体性』は、視点人物の『感覚/心理』を通じてしか描けない」からだ。

 この「心理小説としての冒険小説」は、読者が主人公とシンクロして『活劇』の当事者として物語に関わっているタイプのものを指し、ここで心理描写は、主人公の心理を読者に共有させるツールになっている。翻って、ダーク・ピット=ジャック・リーチャー=スーパーヒーローの物語はどうか。これらは危機の(デスペレートな)心理の描写を欠いているがゆえに、読者は主人公の外側に立って、その行動を見守る立場にとどまる。このとき「カッコいい!」というカタルシスの感情を読者にもたらすのは、「肉体性=心理描写」ではなく、それと対置されている「物語性」ということになるのだろう。これは前回わたしが記した「復讐小説のカタルシス」ということだ。主人公の内面の切迫ではなく、「設定=物語構造」に導かれるカタルシス。


 さて、長い長い回り道を経て、ここでひとつの結論を出すことができる。

 わたしは『アウトロー』におけるジャック・リーチャーをカッコいいと思った。一方でディック・フランシスのシリーズの主人公たちをカッコいいと思っている。このふたつの「カッコよさ」は別種のものなのである。

 一方で日本でいう「冒険小説」は、英語では「thriller」、つまり「thrillをもたらすもの」になるが、わたしが双方に感じた「カッコよさ」は、この「thrill」の果てにもたらされる感情という意味では同一のものでもあるのだ。

 ここにある二種類のヒーローと、それぞれの「カッコよさ」。「thriller」と「冒険小説」。北上次郎は、古今のthrillerを精査した結果、thrillerから冒険小説を峻別したといえそうだ。そして『冒険小説論』などによって、「物語の狂言回しとしての活劇ヒーロー」をしりぞけ、「読者が心理的にシンクロするタイプのヒーロー」の物語を「冒険小説」と位置づけた。


【ただし、thrillerにおけるダーク・ピット的な人物の行き着く果てに、トム・クランシーの生んだ「ジャック・ライアン」という人物の問題があるのはたしかである。これについてはオレン・スタインハウアー『ツーリスト』解説に「ジャック・ライアン症候群」として記したのでここでは詳述しない。要するにダーク・ピット=ジャック・リーチャーもジャック・ライアンも物語を駆動させるための「道具」ではあるが、ピット=リーチャーは日本語でいう「キャラ」たり得ている一方で、ジャック・ライアンは「キャラ」よりも抽象化された「記号/装置」である、という点に違いがある。北上次郎と異なり、わたしは「ピット=リーチャー」と「ジャック・ライアン」には決定的差があるとみているということだ。

 さらについでにいえば、『死への旅』は、主人公像がジャック・ライアン的に空虚であることに加え、物語も、それによるカタルシスを導くに足るほどの切迫性を持っていないということになる。冒険小説としてはもとより、『死への旅』は、あらゆる意味でthrillerとして評価できる基準に達していないのである】


 とくに国産の冒険小説をみるとき、北上次郎以降に生み出された作品のほとんどは、その「冒険小説観」を設計図として書かれた。これは日本における「本格ミステリ」が、江戸川乱歩による「本格探偵小説観」のもとに生み出されていったのと同じ構図である。この影響関係を無視して「冒険小説」という4文字を冠した作品を論じるのは現実を見失っているといっていい。


 ツイッターでの議論をまとめたTogetterに、「フィクション作品のハッキング描写は次の演出を考えてもいい時期ではないだろうか」というまとめがある。

 http://togetter.com/li/31899

 これは、「映画でのハッキングは矢鱈とキーボードを叩いてウィンドウを大量に開いているけど、それは現実にそぐわない」というものなのだが、ページの下方にあるコメント欄をご覧いただけば、そこに「小説にはもっとリアリスティックな描写がある」という意見がいくつかあることがわかる。この「ハッキング」を「アクション」として観ると示唆的だ。

 現実に即したハッキング行為は、アクションとしてビジュアル的に地味なのであろう。だから映像作品においては、「ハッキングをアクション/動作として面白くするための虚構」が必須になってくる。しかし小説においては、いかにビジュアル的に地味なハッキングというアクションでも、それは行為者の心理を通じて描かれるがゆえに、行為者の心理による豊穣な意味づけが加わる。

 エンターキーを指先でヒットする行為は、映像的には「エンターキーを指先でヒットする」という行為以上のものではない。しかしそれは、文字によって描かれるとき、もっと多彩なニュアンスを獲得することが可能だ。これが小説というものの魔法である。映像に心理は盛り込めない。

 だが他方で映像は、見事な体技や美しい運動を、それ自体として写しとることができる。カーチェイスや格闘の壮絶や、美しい風景や光を盛り込むことは、文字列にはできないのだ。

 そう、その意味で、映像がもたらすセンセーションは、ダーク・ピット=ジャック・リーチャーに感じるカッコよさに似る。わたしたちは心理を共有しない観客だからだ。スーパーヒーロー物語が、小説よりも映画やコミックやアニメのほうで隆盛であることと、このことは無縁ではないだろう。


 つまりこういうことだ――北上次郎が「冒険小説」と呼ぶ物語には、どんな小さな行為をもthrillingなものにし、最終的に「カッコいい」という光輝をもたらす、小説特有の言葉のマジックが息づいているのである。

 そしてわたしがそういう小説を愛していることは言うまでもないだろう。

 

冒険小説の時代 (集英社文庫)

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アウトロー 上 (講談社文庫)

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アウトロー 下 (講談社文庫)

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檻 (集英社文庫)

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擬態 (文春文庫)

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煤煙 (講談社文庫)

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【不定期連載】北上次郎の質問箱 バックナンバー

 

【読書日記】アガサ・クリスティー攻略作戦【隔週更新】 (霜月蒼)バックナンバー

2013-03-15

北上次郎の質問箱・第四回の回答・前篇(執筆者・霜月蒼)


「北上次郎の質問箱」第四回 霜月蒼さま ジャック・リーチャーは本当に カッコいいですか?


 小学校の頃、わたしは角川文庫の西村寿行作品に付された北上次郎による解説を読んで、世の中には小説を筋道だって評する人間がいると知ったのである。あの体験がなければわたしは今ここにおらず、北上次郎が80年代に冒険小説ブームを起爆していなければ、やはり今ここにいなかっただろう。

 あれから30年。まさかその北上次郎氏から、まさか「活劇小説」について論争を挑まれようとは。おそるべき光栄である。まずそのことを記しておきたい。身に余る光栄です。

 そんな北上次郎氏が相手なのであるから、『質問箱』に対して、真正面からガチで返答を記すことにする。おかげで長くなってしまったわけだが、弟子が師匠に手合せ願うということで読者諸賢には諒とされたい。


 じつのところ、北上次郎が『質問箱』で記している『アウトロー』およびリー・チャイルド作品観に、わたしはほとんど同意する。もっとも北上次郎とは異なって『前夜』だけが傑出しているとは思わないし、『キリング・フロアー』と『警鐘』と『アウトロー』は(じつはそれぞれに美点は違えつつも)同等に快作だと思っているのだが、それは小さなことだ。北上次郎が言わんとしていることは100%解る。

 つまり、リー・チャイルド作品を収めるべき箱は、『狼殺し』をはじめとするクレイグ・トーマスの作品や『ブラック・ラグーン』、スティーヴン・ハンターの『真夜中のデッドリミット』、あるいはディック・フランシスの『大穴』や『証拠』や『度胸』の収まっている箱とは違うのではないか、ということ。そこに異論はないのである。

 ならば何が問題なのか。七福神レビューでわたしが記した「アクション」、「カッコいい」、「ヒーロー」という語。それをめぐる意見の相違なのだ。


書評七福神の一月度ベスト発表!


 さて、リー・チャイルドのジャック・リーチャー・シリーズのことを、わたしは「スーパーヒーロー譚」だと思っている。リーチャーは、クレイグ・トーマスの描くリチャード・ガードナー(『狼殺し』)やパトリック・ハイド(『闇の奥へ』他)、あるいはディック・フランシスのシッド・ハレー(『大穴』他)、広江礼威のロベルタ(『ブラック・ラグーン』)といったキャラよりも、スーパーマンやバットマンに近い存在なのである。

 さらにいうと、わたしの脳内でリーチャー・シリーズは、往年のディーン・R・クーンツ作品――『ライトニング』や『戦慄のシャドウファイア』の頃の――と同じフォルダに分類されている。すなわち、「どきどきするけれど、確実にハッピーエンドが待ち受けている小説」のフォルダ。リー・チャイルドの新作を手にとるとき、わたしはそういう期待――あるいは安心感――をもって読みはじめる。

 けっして負けないスーパーヒーローがもたらす明朗快活なカタルシス。それを期待して、わたしはリーチャー・シリーズを読んでいる。


 「ジャック・リーチャーがスーパーヒーローであること」には北上次郎も異論はないはずだ。じっさい、『質問箱』で引用された書評のなかで、北上次郎はリーチャーを「ケタ外れに強いスーパーマン」と評している(ここでの「スーパーマン」は一般名詞としての「超人」の意)。ここまでは見解が一致している。

 しかし、ここを分岐点に、わたしと北上次郎の意見は対立する。さきの「質問箱」には、

 もちろんアクション小説の主人公は最初から勝つことが決まっている、と言うことも出来る。しかしそれは結果であり、その結果にいたるまでのハラハラドキドキこそがアクションの利き目ではないか。

 とある。その「ハラハラドキドキ」が『アウトロー』にはない、ゆえに『アウトロー』(=ジャック・リーチャー)を「カッコいい」と評するのに違和感をおぼえる、と。だが、本当にそうだろうか。スーパーヒーローの物語はカッコよくないのだろうか。

 そんなことはないはずだ。というよりむしろ、「スーパーヒーロー」とは、「カッコよさ」の記号として生まれたはずではないか。その「カッコよさ」と、北上次郎のいう冒険小説/活劇小説のヒーローの「カッコよさ」はどう違うのだろうか。


 ヒーローには、読者が感情移入するヒーローと、感情移入しないヒーローがいるのではないか。北上次郎のいう「ハラハラドキドキ」は、ヒーローの苦闘に感情移入し、その内面とシンクロしていることを指している。

 ここでヒントとして日本のスーパーヒーローの代表格「ウルトラマン」の物語を見てみたい。

 ウルトラマンもののエピソードは、全30分のほとんどを怪獣なり異星人なりが地球を破壊するさまが占めるのが基本で、ウルトラマンの到来は最後の数分間である。ウルトラマンは事態が危機的になったときに神のように飛来し、怪獣を打ち倒す。観客はウルトラマンに感情移入するよりも、怪獣に蹂躙され、ウルトラマンに救われる地上の人間たちの立場で、その活躍を観て、喝采する。そもそもウルトラマンは地球の外から飛来した宇宙人、絶対的なエイリアンであるから、人間的な感情移入の依り代にはなりにくい。

 けっして倒れることのないスーパーヒーローは、多かれ少なかれ、そういう立場にいる。スーパーヒーローは敵を必ず倒す。そこは最初から織り込みずみだ。だからウルトラマンのエピソードで「怪獣との戦い」は毎回そう大差はない。そもそも戦いはつねに3分に限定されている。だからここの部分は「お約束」であるのだ。このことはバットマンでもスーパーマンでもアヴェンジャーズでも変わらない。

 しかしそれでもスーパーヒーローの戦いにはカタルシスがある。そこにはある種のカッコよさがある。そうでなければスーパーヒーローの物語がかくも普遍的に愛されることはないはずだ。そこにあるカタルシスとはどんなカタルシスであるのか。


「敵をぶっ倒すカタルシス」。それであろう。「敵をぶっ倒してくれるカタルシス」と言ったほうが正確だ。つまりこのカタルシスは復讐小説のカタルシスに近い。スーパーヒーローものよりもリアリズムに寄ったものでいえば、『必殺仕事人』のカタルシスと言ってもいい。スーパーヒーローは憤懣を抱く作中の被害者(=読者)に委託されて、加害者を討つということである。

 しかし北上次郎は言う、

 その結果にいたるまでのハラハラドキドキこそがアクションの利き目ではないか。

 左様、「負けるかもしれないけれど勝つ」というのが活劇小説のカタルシスの根幹ではある。だが、上記の「スーパーヒーロー物語≒復讐譚」のドラマを考えると、「負けるかもしれない」という部分、「ハラハラドキドキ」を担う部分、それは活劇の最中にあるのではなく、活劇に先立ってあるということになる。その事前の蓄積が、読者と物語の内部に憤懣の圧力を溜めてゆき、最後の「神のごときヒーロー」の到来によって一気に解放される。

 リー・チャイルドの『アウトロー』でいえば、それは最後の対決までの「無差別狙撃事件の調査と謎解き」部分にあたる。ウルトラマンで顕著なように、個々のエピソードの綾は、「最後の数分間」に先立つ部分のバリエーションにある。そこで展開する物語によって、「最後の数分間」が帯びる「意味」は変わってくる。それはときには残虐な怪獣をうち倒すものとなり、ときには悲しい出自を負った異星人をやむなく排除するものとなる。キーポイントは、「対決までの物語」にある。

 リー・チャイルドは、そこに手を決して抜かない。北上次郎も、

「精緻なプロット」や「律儀な謎解き」、さらに「手がかりを緻密に拾ってゆくプロセスはガチのミステリ」であり、「クライマックスは痛快」であることはいい。

 と、そこには同意している。『アウトロー』の悪辣な陰謀と、その精緻な解明きのプロセスは、黒幕の非情なやり口を明らかにする。ここでわたしたちは、「陰謀」への怒りをためこみ、それをリーチャーが打ち倒すことを待望するのである。

 リーチャーが、手がかりを拾いながら一歩一歩、陰謀の全容へ迫ってゆくプロセス自体が、「主人公が困難をひとつひとつ越えながら敵に迫ってゆく」という活劇の構造になっていることも、リー・チャイルドの巧さだろう。さきほどの感情移入の問題に戻るなら、ここで読者はリーチャーに感情移入するのではなく、リーチャーのそばでそれを見守る者の感情にシンクロしていることになる(そう、その意味でリーチャーはホームズ、読者はワトソンであり、このことはクラシカルな名探偵ミステリがスーパーヒーロー物であることを暗示している)。シリーズ第三作『警鐘』は、物語全体の興趣が「リーチャーが迫ってくる」というプロセスに置かれていて、そこに多彩なアイデアが満載されている。


「ハラハラドキドキ」の末の「活劇」。溜めこんだ圧力の一挙解放――スーパーヒーロー物語の快感、復讐物語のカタルシス、任侠映画における「殴り込み」の痛快。こうした局面では、登場人物たちが行動で事態を解決するという「行動それ自体」「活劇それ自体」がカタルシスであり、「スーパーヒーローがスーパーヒーローであること」こそがカッコよさであるのだ。そこに内省や苦悩といった面倒なものは存在しない。

 だからわたしは『アウトロー』を「理屈ぬき」で「痛快」だ、と評したのである。その点で、ジャック・リーチャー・シリーズに寄せる期待と、かつてのディーン・R・クーンツ作品への期待は重なりあうのだ。


 だが、わたしは『アウトロー』を「冒険小説」「活劇小説」と明快に呼ぶことをためらった。一方で昨日アップされた「2月の七福神」原稿に記したようにわたしは、まったくアクション要素のない『護りと裏切り』に「冒険小説」の相貌を見出している。この差は何であるのか。

 『アウトロー』をカッコいいと評したわたしの根拠はすでに上記で述べた。しかしそれだけでは、今回提起された問題の半分しか語っていない。

 問題のもう半分――わたしにとって冒険小説とは何であるのか、というのを記さなければならないだろう。北上次郎に向かって投げたボールは、いま放物線の頂点にある。そこから北上次郎の手へと戻ってゆく後半の軌跡を、わたしは記さなければならない。


 そして、ここでわたしは思い出す――1986年、15歳だったときのことだ。

 わたしは北上次郎の名著『冒険小説の時代』を図書館で借りて読んでいた。北上次郎の冒険小説への熱っぽい愛が充填された同書に激しく読書欲を煽られていたわたしだったが、ある箇所で「ん?」と思ったのである。そこでは、ある作家のある作品が俎上に上げられており、北上次郎は疑問を投げかけていた――これは冒険小説ではないのではないか、この主人公は冒険小説のヒーローではないのではないか、この作家は冒険小説作家ではないのではないか、と。そこに当時のわたしはひっかかりをおぼえた。このひっかかりは、今回の問題に直結するものだった。

 そう、2013年に火蓋の切られた論戦の種は、27年前の1986年に蒔かれていたのだ。

 その問題の作家とは誰であったか。

(つづく)


アウトロー 上 (講談社文庫)

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アウトロー 下 (講談社文庫)

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前夜(上) (講談社文庫)

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前夜(下) (講談社文庫)

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新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)

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新装版 キリング・フロアー 下 (講談社文庫)

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警鐘(上) (講談社文庫)

警鐘(上) (講談社文庫)

警鐘(下) (講談社文庫)

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狼殺し (河出文庫)

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ブラック・ラグーン 1-9巻 セット (サンデーGXコミックス)

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真夜中のデッド・リミット〈上巻〉 (新潮文庫)

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真夜中のデッド・リミット〈下巻〉 (新潮文庫)

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大穴 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-2))

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度胸 (ハヤカワ・ミステリ文庫 フ 1-5 競馬シリーズ)

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闇の奥へ〈上〉 (扶桑社ミステリー)

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闇の奥へ〈下〉 (扶桑社ミステリー)

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ライトニング (文春文庫)

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ウルトラマン Blu-ray BOX I

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ウルトラマン Blu-ray BOX II

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ウルトラマン Blu-ray BOX III (最終巻)

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必殺仕事人2010&2012 [Blu-ray]

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冒険小説の時代 (集英社文庫)

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2013-03-07

第四回:霜月蒼さま ジャック・リーチャーは本当に カッコいいですか?(執筆者・北上次郎)

アウトロー 上 (講談社文庫)

アウトロー 上 (講談社文庫)

アウトロー 下 (講談社文庫)

アウトロー 下 (講談社文庫)

 

 1月の七福神 を見て、びっくりした。霜月蒼が推薦作として、リー・チャイルドの『アウトロー』(小林宏明訳/講談社文庫)をあげ、次のように書いていたのだ。

 

 いまもっとも日本で過少評価されている作家はリー・チャイルドだと思うのです。カッコいい!と理屈抜きで思わせるヒーロー像とアクション、精緻なプロットと、律儀な謎解き。読めば確実にスカッとできる安心のエンタメとして、本当ならディーヴァーやコナリーとともに毎年の新作を待ち望まれるべきシリーズなのだ! 犯人が見え見えの無差別狙撃事件に隠された真相を暴く本作も、狙撃現場で手がかりを緻密に拾ってゆくプロセスはガチのミステリ、クライマックスは痛快の極み!

 

 この文章の後ろ3分の2はいい。あえて異をとなえない。問題は前半の、特に3分の1だ。具体的には、「カッコいい!と理屈抜きで思わせるヒーロー像とアクション」という箇所だ。まさか霜月蒼がこんなことを書くとは思ってもいなかった。

 だって、リー・チャイルド『アウトロー』の主人公ジャック・リーチャーはイヤになっちゃうくらい強いんだぜ。03年に『反撃』が翻訳されたとき、私は次のように書いた。

 

「快調なアクション小説ではあるものの、残念ながら緊迫感に欠けている。主人公がケタ外れに強いスーパーマンなので、活劇のカタルシスがないのだ。これでは辛い」

 

 もちろん、今回の『アウトロー』でも、ジャック・リーチャーは強い。どうやっても負けようがない。すべての戦いで、戦う前から彼が敵を倒すことはわかっている。本人もそう思っていて、読者もそう思っている。そんな活劇が面白いと思いますか? もちろんアクション小説の主人公は最初から勝つことが決まっている、と言うことも出来る。しかしそれは結果であり、その結果にいたるまでのハラハラドキドキこそがアクションの利き目ではないか。近年の大傑作『暗殺者グレイマン』を見よ。あのスリリングなクライマックスを見よ。ところが『アウトロー』には、そういうスリルが一かけらもない。

 誤解なきように書いておけば、リー・チャイルドの作家としての才能を否定するわけではない。たとえば09年に『前夜』が翻訳されたとき、たっぷり読ませると私は評した。それはこの作品にアクション場面が少なく、リー・チャイルドを読むときのいつもの違和感(つまり、アクションに活劇のカタルシスがないこと!)がなかったからでもある。アクション以外のところはかなり読ませるのだ。それは私も認めよう。だから、書かなきゃいいじゃんアクション。

 問題は、アクションに興味のない人がこの『アウトロー』を褒めるのならまだ理解できるが、霜月蒼だぜ。これがショックだ。本の雑誌の10年3月号(321号)の書評特集に寄せた私のエッセイ「いま、霜月蒼がすごい!」は、ブラック・ラグーンというコミックを紹介した彼の日記を読んだときの驚きがもとになっている。クレイグ・トーマス『狼殺し』を連想すると書いたあと、そのとき彼はこう締めくくった。

 

「銃撃と活劇を好むすべての読者に、これを読めとおれは命じる」

 

 おお、大変だ、とこれを読んで私はすぐに立ち上がり、その『ブラック・ラグーン』を買うために書店に急いだのだが、トーマス『狼殺し』とコミック『ブラック・ラグーン』を愛する人が、なぜこの『アウトロー』を褒めるのか。

 いや、「精緻なプロット」や「律儀な謎解き」、さらに「手がかりを緻密に拾ってゆくプロセスはガチのミステリ」であり、「クライマックスは痛快」であることはいい。そういうことを褒めるなら、私も特に異をとなえない。しかし、この主人公ジャック・リーチャーがカッコいいヒーローであるというのだけは、霜月蒼の口から聞きたくない。それだけはやめてくれ。私の好きな活劇は、貴君も好む活劇だ、とずっと信じていたいから。

 

新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)

新装版 キリング・フロアー 上 (講談社文庫)

新装版 キリング・フロアー 下 (講談社文庫)

新装版 キリング・フロアー 下 (講談社文庫)

反撃〈上〉 (講談社文庫)

反撃〈上〉 (講談社文庫)

反撃〈下〉 (講談社文庫)

反撃〈下〉 (講談社文庫)

前夜(上) (講談社文庫)

前夜(上) (講談社文庫)

前夜(下) (講談社文庫)

前夜(下) (講談社文庫)

暗殺者グレイマン (ハヤカワ文庫 NV)

暗殺者グレイマン (ハヤカワ文庫 NV)

本の雑誌 321号

本の雑誌 321号

BLACK LAGOON 1 (サンデーGXコミックス)

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ブラック・ラグーン 1-9巻 セット (サンデーGXコミックス)

ブラック・ラグーン 1-9巻 セット (サンデーGXコミックス)

狼殺し (河出文庫)

狼殺し (河出文庫)

活字競馬 馬に関する本 究極のブックガイド (競馬王新書)

活字競馬 馬に関する本 究極のブックガイド (競馬王新書)

 

【不定期連載】北上次郎の質問箱 バックナンバー

 

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