Hatena::ブログ(Diary)

翻訳ミステリー大賞シンジケート このページをアンテナに追加

■7月31日より新サイトでの更新に移行いたします。こちらの旧サイトはまもなく閉鎖いたします■


第八回翻訳ミステリー大賞 決定!!

■各地読書会カレンダー■

※イベントカレンダーに掲載ご希望の方は事務局までメールでお知らせください。
翻訳ミステリー・イベント・カレンダー
イベント内容(案内記事リンク/=関連書アマゾン)


2012-01-20

扶桑社発のひとりごと 20120120(執筆者・扶桑社T)

 

第22回(最終回)


 さて、このコーナーでは、翻訳出版の現場について、あれこれと紹介してきました。

 書籍の利益構造にはじまり、原書の選択と取得、海外の出版事情、著作権などについて裏話をつづけてきましたが、翻訳編集者の具体的な仕事をご説明したところで、ひと区切りという感じ。今回が、とりあえずの最後ということになります。


 あらためて「編集」という言葉について考えれば、辞書的には「ある方針にもとづいて材料を集め、記事や書籍などを作ること」と定義されています。

 翻訳出版においては、「ある方針にもとづいて材料を集める」という部分は、訳すべき原書を決め、読者にどうアピールするかを練り、売りかたを考えるという作業に相当します。いわば「頭」を使う仕事ですね。

 定義後半の「書籍などを作る」という部分は、活字組みを作り、体裁を決め、校正をするといった実際的な仕事にあたるでしょう。これは「手」を使う、面倒で泥くさい作業とも言えますね。

 つまり、編集者とは「頭」と「手」とどちらも使わなければならない職業なのです。この両立が重要だし、必須になります。

 しかも、翻訳編集においては「材料」は自分で作るわけではなく、あくまでほかにいる創作者(原著者と翻訳者)が頼りで、編集者はその裏方です。裏方ではあるのですが、その編集者がいなければ、その本が世に生まれることはない。でありながら、創作の補佐にすぎない……そういう仕事なのです。


 そして、繰りかえし述べてきたように、編集者は出版社のなかにいて、それをビジネスとして成立させなければなりません。

 露悪的に聞こえるかもしれませんが、しかし、本がきっちりと利益を生むことが創作者たちの支えになり、次の新たな創作につながっていく構造なのです。出版社は、これをきちんとまわしていかなかればなりません。それが産業としての出版業の役割です。


 わたしが在籍する扶桑社についていえば、テレビ・ラジオ・新聞関連の書籍といったメインのフィールドを持っています。そんな社のかぎられた一部門にすぎない翻訳出版では、利益を確保してレーベルを存続させていくことがとても重要になります(ほかで儲かっているんだから翻訳もので利益が出なくてもだいじょうぶだろう、などと言われることがあるのですが、そんなはずはないでしょう)。

 また、扶桑社は翻訳ミステリー界では後発組です。ジャンル内で実力も名声も高い老舗出版社が第一線を走っていて、予算的にもそういったところとは戦えませんし、広告も打てませんし、書店さんでの扱いも格段にちがいます。

 あくまで傍流にいながら翻訳出版をつづけていくのは、なかなかむずかしいものです。ここ数年はロマンス小説の読者がレーベルの大きな支えになっていますが、それにくらべてミステリーは部数が激減しています。これは当社だけの問題ではなく、業界全体が危機感を共有しています。

 翻訳ミステリーの読者は減ってしまったのでしょうか?


「国産ミステリーの質が高くなったから翻訳ものを読まなくなったからだ」という意見があります。しかし、日本のミステリーは、むかしから独自の地位を確立していたはず。もっとも、国産の小説が欧米の影響を消化し、いっぽうで読者の棲みわけが進んできたのだといえるかもしれません。

「マニアックな作品ばかりが年間ベストに入ったため、たまに翻訳ミステリーを手に取った読者を遠ざけてしまった」という議論もあります。ふむふむ。ここではとりあえず、年間ベストなら読もうとする読者がいるらしいという点を確認しておきましょう。

「翻訳小説はカタカナ人名ばかりだし、舞台もなじみが薄くて読みにくい」という昔ながらの文句もあります。これは根本的な問題であり、それだけに重要かもしれません。読みにくい要素があり、それが一般の読者にとってハードルになっているのはたしかでしょう。

 しかし、どれだけ日本映画がおもしろくても洋画がすたれることはありませんよね。人も場所もなじみがなくても、海外の映画は日本の観客を惹きつけています。それは、邦画とはちがった魅力があるからでしょう。

 そうだとすれば、翻訳ミステリーにも読者を呼ぶ独自の要素があるのではないでしょうか。翻訳ミステリーでしか味わえない特徴とはなんでしょう。


 それを扶桑社のなかで考えて出てきたのが、翻訳ミステリーらしいジャンルの数々でした。ノワール。ホラー。軍事。謀略もの。法廷サスペンス。サイコ。冒険小説。経済ミステリー。歴史謎解き。メディカル・スリラー。コージー。文芸メタミステリー……もちろん日本人作家でもそれぞれのジャンルの優秀な書き手がいますが、海外には作品が数多くありますから、そのなかから選択できるという有利さがあります。

 こうして作ったラインナップには失敗も多かったのですが、意外な成功もありました。たとえば、クイズやショートショートといった軽めの読みものです。

 ケン・ウェバー『5分間ミステリー』(片岡しのぶ訳)という、1作数ページのミステリー・クイズは30万部近く出て、シリーズ累計60万部に達しています。あるいは近年では、ドイツの作家E・W・ハイネのショートショート集『まさかの結末』(松本みどり訳)が12万部を超えるヒットになりました。

 これらは、コアな翻訳ミステリーの読者や批評家のみなさんにはさほど注目されてはいないでしょうが、早川書房さんもその後『2分間ミステリ』シリーズ(ドナルド・J・ソボル/武藤崇恵訳)を出されたのを見ると、こういった本をもとめる読者が相当数いたことがわかります。

 ここで重要なのは、これらの本が、ふだんは翻訳小説を読まないようなかたにも手に取ってもらえたからこそ、部数がここまでのびたのではないか、ということです。

 先ほど言ったように、一般には翻訳ミステリーにハードルを感じている読者が多いのかもしれません。しかし、そういった人たちも、機会があれば読んでみたいと思っているのではないでしょうか。翻訳ミステリーは読みにくそうだが、短くて手ごろなものなら楽しんでみたい、と。

 そういう読者がすこしでもいるのであれば、こういった本が翻訳ミステリーへ入るきっかけになるかもしれません。この本を入り口に、扶桑社の目録を見て、翻訳ミステリーに進む読者がいるかもしれないのです。

 ともかくも、本を手にとってもらうことが、なにより大事な機会といえるでしょう。


 と、いつも以上にまとまりのない話になってしまいましたが、ここで語ってきたのは、あくまで、扶桑社という翻訳ミステリーではちょっと特殊な位置づけの出版社のなかから見た話にすぎません。

 今日も各版元で、それぞれの編集者が、さまざまに考え、模索をつづけていることでしょう。そしてその成果が、書店さんにならぶ翻訳ミステリーの数々なのです。

 この連載では、あえて本というものを出版産業における商品として語ってきました。しかし、ここにつどうみなさんには説明は不要でしょうが、その本という商品の中身は、人を変え、生きかたに影響をあたえる特殊なものです。だからこそわたしたちは、これほどの労力をかけて仕事をしているのでしょう。

 ずっとご説明してきたように、出版社にはいろいろな制約があり、苦労があり、また楽しみがあります。新しい本が世に出るのは、もちろん原著者や翻訳者の努力があってのことですが、編集者が企画を決め、出版社がリスクを負って製作し、販売しているという側面があることも頭の片隅に置いてもらえればと思います。

 けっして出版社の地位を押しつけて言うわけではありません。出版社が生みだした本をひとりでも多くの読者に買っていただくことに、業界全体がかかっているからです。そして、ひとりでも多くの読者に買ってもらえるような本を作ることに、出版社の責任もあるのです。



扶桑社T

扶桑社ミステリーというB級文庫のなかで、SFホラーやノワール発掘といった、さらにB級路線を担当。その陰で編集した翻訳セルフヘルプで、ミステリーの数百倍の稼ぎをあげてしまう。現在は編集の現場を離れ、余裕ができた時間で扶桑社ミステリー・ブログを更新中。ツイッターアカウントは@TomitaKentaro


●扶桑社ミステリー通信

http://www.fusosha.co.jp/mysteryblog/

 

【編集者リレー・コラム】各社編集部発のひとりごと【隔週連載】バックナンバー


5分間ミステリー (扶桑社ミステリー)

5分間ミステリー (扶桑社ミステリー)

まさかの結末 (扶桑社ミステリー)

まさかの結末 (扶桑社ミステリー)

2011-12-30

藤原編集室通信(出張版) 第4回

うしろを見るな


 翻訳ミステリに解説はつきものですが、いわゆる「ネタバレ解説」について文句を言う人がいます。犯人やトリックはもちろん、作品の内容について解説で明かすなんて怪しからん、というのですが、当編集室の考えでは「怒る貴様がおかしいぞ」で、これは文句を言うほうが間違っています。

解説を巻末に配しているのは、作品を読み終わった後に読んでほしいからで、本来「解説」や「あとがき」とは、すでに作品を読んだ人のために書かれるものです。買うかどうかの判断材料として解説を立ち読みする人が(それも少なからず)いる現状をふまえて、解説者の役割は読者にその本を手に取らせること、と仰る方もいますが、それには首をかしげざるをえません。現実にそうした役割を担わされていることは否定しませんが、それが第一の仕事だとは思えないのです。先に読んでほしい文章ならば巻頭に置くでしょう(欧米の本ではintroductionとして前に置くほうが多いですね)。その場合にはもちろんしかるべき配慮が必要ですが、それは「解説」ではなく「前説」です。

 最後に読むべきものを先に読んでしまうのは、ルール違反とまでは言いませんが、ちょっとしたズルには違いありません。あげく「こんなこと知りたくなかった」と後悔するはめになったとしても、文句を言うのは筋違いというもの。最後の頁を読んだら結末が書いてあった、と言うようなものじゃありませんか。(他の作品の犯人をばらしてしまうような行為は、もちろん別の話です。念のため)

 実際、解説を先に覗いてしまう人は少なくありませんし、自分だって時々やってしまうのですが、それが単なる悪癖、ケストナーの言葉を借りれば、「クリスマスの二週間も前に、どんな贈り物がもらえるかを知ろうとして、おかあさんの戸棚をかきまわして見るようなもの」であることは意識しておいたほうがいいでしょう。「本文を未読の方はここから先は読まないでください」という言わずもがなの断り書きは、執筆者や編集部の老婆心であって、本当ならそんな警告は必要ないはずなのです。


 最後の頁は最後に読むものである、という面白くもない正論をぶってしまったのは、「解説」という場が、その作品を読者がすでに読んでいるという前提で論じることができる、貴重な機会だと思うからです。新聞や雑誌の書評、単行本の評論などではこうはいきません。読者が対象となる作品を読んでいるとは限りませんし、手元にあってすぐ読める状態にあるとも限りません。「解説」の場合は、あわてて書店や図書館に走らなくても、ちゃんと作品が付いている。もちろん解説の方が作品に付いているのであって、その逆ではないのですが、とにかく書き手としては、読者がその作品を読んでいるものとして話を進めることができます。

 もちろん、そういう解説が望ましいとか、そうあるべきだと言うつもりはありません。解説者によっていろいろなスタンスがあってよいと思いますし、作品の内容には踏みこむべきではない、というのもひとつの考え方でしょう。たいして言うべきこともないのに、むやみに犯人やトリックを明かされても困りものですし。ただ、「解説」と銘打つからには、「ネタバレ」という本来筋違いな非難を恐れて、作品についてより踏み込んだ議論ができる可能性を手放してしまうのは勿体ないと思うのです。


 しかし、充実した作家論、作品論を読みたい、優れた解説は読書の愉しみをより深いものにする、と思う一方で、それとは矛盾するようですが、「解説」ってほんとうに必要なのかな、カバーや帯の内容紹介と作者紹介程度のものがあれば十分なんじゃないの、という危険な(?)囁きが時に胸をよぎることがあります。

作品については、読者がそれぞれ考え、感じればよいのでは――という思いをあらためてしたのは、今年の話題作、フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』東京創元社)を手にしたときです。お読みになった方は御存じのように、この本には「解説」も「訳者あとがき」もありません。

 きわめて抑制されたスタイルで書かれたこの作品には、読み終えると誰かに猛烈に話したくなるところがあり(私はそうでした)、訳者の方にも語りたいことが沢山あるはずなのですが、あえてそれを封印してすべては作品に語らせ、その先は読者にゆだねる。小説の最後の一文とともに本を閉じる潔さ、その余韻にはどんな名解説もかないません。こういうストイックな造りの本を前にすると、本篇が終了したあとに解説者が登場して作品を論じるのが、なんだか野暮な行為にさえ思えてきます(それはそれで楽しいんですけどね)。この魅力的な、さまざまな読み方が可能な短篇集に、「あえて」解説をつけなかった編集者の決断に拍手を贈りたいと思います。


藤原編集室(ふじわらへんしゅうしつ) 1997年開室、フリーランス編集者。《世界探偵小説全集》《翔泳社ミステリー》《晶文社ミステリ》《KAWADE MYSTERY》と翻訳ミステリ企画をもって各社を渡り歩く。たまに「解説」を書くことも(「怪説」になっていないとよいのだけれど)。現在、J・D・カー『蝋人形館の殺人』(創元推理文庫)を校正中。ツイッターアカウントは@fujiwara_ed

本棚の中の骸骨:藤原編集室通信


犯罪

犯罪


●すごいよ! シーラッハさん――『犯罪』をめぐる冒険(6月28日)

●ドイツミステリへの招待状3(12月19日)

2011-12-09

 扶桑社発のひとりごと 20111209(執筆者・扶桑社T)

  

第21回


 前回は、編集者のチェックについて(言い訳まじりに)説明しました。校正作業というものは、じつはジャンルは問わずおなじような事情ではないかと思います。

 そこで今回は、翻訳ならではの問題についてお話しします。


 翻訳編集でよくぶつかるのが、原文に誤りがある、という事態です。

 まず、あきらかに事実と異なる記述。街の描写が地理的におかしい、とか、歴史的な記述で、その時代に存在しないものが描かれている、とか、なにかについて説明されているが、確認してみたらその内容が事実とちがう、とか、そういったことです。

 さらに困るのは、物語世界内での矛盾。座って話していたはずの人物がいつの間にか立っている、といった単純な齟齬から、この人がこの時間にここにいるはずはないでしょう、といった深刻な欠陥まで。そういえば、アクション・シーンで、前のページで殺したはずの人物が次のページでふたたび襲いかかってきた、なんていう事例も経験しています(もちろんゾンビ小説じゃないですよ)。

 いや、こういうことって意外にあるんですよ。つまりは、作家のミスを、原書の編集者・校正者が見のがしてしまったということなのでしょう。

 このような、明らかに誤っている記述があった場合、どうすべきなのでしょう?


 著者を尊重し、原文のとおりに訳すべき。……というところですが、そうもいかないのです。

 もちろん、歴史的・文学的価値のある作品であれば、そのまま訳すほうがよいでしょう。著者の記述に寄り添って翻訳し、原文の誤りについては注などを付す、という対処が望ましいですね。

 しかし、わたしたちがたずさわっている翻訳エンターテインメントの場合、そういった矛盾はできるだけ取り除くのがふつうだと思います。

 それでは著者の意図を曲げるのではないか、と言われれば、たしかにそういう面もあります。それでも、できるかぎり直すんです。

 最近では、電子メールなどで原著者やエージェントと連絡が取りやすくなりましたので、なるべく疑問点を投げて答えてもらうようにします。最後まで連絡がつかない場合もありますが、基本的には編集者と翻訳家さんとで相談し、修正する方向で対応します。


 原書があっての翻訳なのだから忠実に訳しておけばいいのに、なぜそんなことをするのか。

 それは、わたしたちが、出版社として日本の読者にむけて作品を提供しているからです。もとは外国で書かれた小説ですが、それを日本語で読める独立した作品として作りあげ、出版しているのです。

 ですから、その作品内に矛盾やまちがいがあっては、欠陥品です。したがって、わたしたちは、原書のミスであっても、できるかぎり修正して、誤りのないようにすべきだと思うのです。それは、けっして原著者の意図をねじ曲げるているのではなく、むしろ「翻訳編集」という作業のなかにふくまれている仕事なのではないかと考えます。


 翻訳文について細かいことをいえば、表記法はあまり凝らないほうがいいかもしれませんね。たとえば、独特な漢字の遣いかたなどはなるべく避けて、ごく一般的な表記にすべきでしょう。原文に目だった特徴があればべつですが、そうでない場合には、翻訳での色が出すぎてしまいます。

 もっとも、翻訳ものでは独自の送り仮名を見ますね。「現れる」よりは「現われる」、「行う」よりは「行なう」のほうが一般的です(最近はそうでもないですか?)。教科書的には正しくないのですが、これは読みやすさを優先した結果なのでしょう。


 と、まあ、編集の現場について書いているとキリがないのですが、じつはこのテーマになってから、いままでにない反響がありました。

 知りあいの翻訳者さんたちからいろいろと感想をうかがったのですが、そこでわかってきたのは、ここで書いてきたような翻訳編集のやりかたが、最近では一部で変質してきたらしいということでした。

 つまり、わたしたちが常識と思っていた編集者の仕事が、じゅうぶんに行なわれていない場面があるようなのです。

 編集者の仕事ぶりが悪いと、翻訳者さんの側に、編集への不信感が生まれます。これでは共同作業がしにくくなるばかりか、実質的に意欲も質も落ちる結果になりかねません。

 翻訳者さんからうかがって、浮かびあがってきた編集者側の問題は、ふたつ。1)編集者が翻訳を勝手に直してしまう。2)編集者がなにもしない。


 最初の問題については、翻訳では編集者の権限が強めに認められてきたという伝統があります。じっさい、わたし自身もけっこう無断で直してしまった時期がありましたし、これは特例中の特例ですが、この訳文ではとてもチェックして修正していては間にあわないので、こちらで直させてください、と頼んだこともあります。

 しかし、その手の入れかたがひどくなっているようなのです。

 訳文は、訳者さんの苦心の賜物。出版翻訳を生業とするプロフェッショナルが、何ヵ月もの時間をかけて一文一文を日本語化して積みあげた成果です。それを、編集者だからといって無断で手を入れてしまっていいのでしょうか。

 編集者から見て疑問や提案があれば、その旨を訳者さんに伝え、よりよくする道を探りましょう。翻訳出版においては、もちろん翻訳者さんがいちばん大事な存在ですが、そこに編集者、校正者がくわわってこその作業です。それでも、できあがった本に表示されるのは、原著者と翻訳者さんの名です。編集者は裏方にすぎません。裏方は裏方として、サポート役として働くべきでしょう。


 それとは逆なのが、2番めの問題。

 完璧な訳文なので編集者がチェックする部分がない……などということはありえないでしょう。それは、翻訳の良し悪しではなく、翻訳者さんが作った訳文を編集者というちがう人間が見れば、異なる視点から提案が出るのがふつうだ、といったことです。これは、どれほど訳文の質が高くても生じるはず。

 もし、なんのチェックもなければ、翻訳者さんにとっては自分の完全だと訳文が認められてよかったということになるのかもしれませんが、さて、どうでしょう。むしろ、編集者が訳文に熱心に取り組んでいないように思えるのではないでしょうか。

 これでは、作品の質をさらに高める努力がたりないのではないでしょうか。


 なんだか、ずいぶん偉そうな書きぶりになってしまいました。不快に思われたら、すみません。

 もちろん、このシンジケートにかかわっていらっしゃる編集者さんたちはプロ中のプロですから、いま述べたような問題とは無縁。むしろ、ごく一部の、翻訳ミステリー以外の出版社で起こっている問題のようです。

 しかし、耳にした翻訳者さんたちの経験をうかがうと、危機感がつのります。

 翻訳者については、業界の先達に学びながら育成される環境が確立しましたが、編集者はそういった育てかたがうまくいっていないのではないか。これが、最近あらためて気づいた問題です。

 わたし自身もC級の編集者でしたし、こんなことを言える立場ではないのは承知のうえですが、翻訳編集の仕事に劣化が見られるのであれば、業界全体にかかわることなので、心配になった次第。これは、シリアスな事態です。


扶桑社T

扶桑社ミステリーというB級文庫のなかで、SFホラーやノワール発掘といった、さらにB級路線を担当。その陰で編集した翻訳セルフヘルプで、ミステリーの数百倍の稼ぎをあげてしまう。現在は編集の現場を離れ、余裕ができた時間で扶桑社ミステリー・ブログを更新中。ツイッターアカウントは@TomitaKentaro


●扶桑社ミステリー通信

http://www.fusosha.co.jp/mysteryblog/

 

【編集者リレー・コラム】各社編集部発のひとりごと【隔週連載】バックナンバー