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2015-04-24

翻訳家交遊録 7(執筆者・戸川安宣)


乾信一郎さん


 今回は乾信一郎さんについて書いてみたいと思います。

 この度、歌人でSFファンでもある広島の天瀬裕康氏が「悲しくてもユーモアを 乾信一郎の自伝的な評伝」を纏められ、それを拝読させて戴きました。

 綿密な調査の許に書かれた本稿は、乾信四郎と書いて、かんしんしろう、と読ませるつもりだったが気恥ずかしいので信一郎にした、などというペンネーム誕生秘話をはじめ、トリビア情報が満載。その翻訳者としての筆名は、本名の上塚貞雄に始まり、乾信四郎を経た乾信一郎名義が最も使用頻度が高く、そのほかに小田勝平、山町帆三、吉岡龍、岩田文生、失名氏、高樹十四夫などがある、等々、実に示唆に富んだ内容でした。乾さんご自身に、『「新青年」の頃』(1991年 早川書房)など、断片的な回想録はありますが、天瀬さんの労作が上梓されることを祈ってやみません。

 これを読んで発見したのは、おそらくぼくがお仕事をさせていただいた翻訳家の中で、一番キャリアの長い方が、乾さんだったのではないか、という事実でした。

 職業翻訳家のトップランナーである大久保康雄氏が単独訳を出されたのは、おそらく昭和6年(1931年)刊のポール・トレント『共産結婚』(尖端社)が最初でしょう。となると、乾さんが本名の上塚貞雄名義で、〈新青年〉誌の昭和3年5月号にP・G・ウッドハウスの「写真屋の恋」とE・P・バトラーの「守り神」を掲載したほうが早いことになります。

 このとき乾さんは未だ青山学院大学の3年生、弱冠22歳でした。この翻訳で、38円40銭の原稿料を得たといいます。大学卒の初任給が35円程度という時代でした。乾さんはさらにその翌年にはユーモア小説を書いて〈新青年〉に掲載され、作家としてもデビューを果たしたのです。その後、〈新青年〉誌の呼び物の一つとなったユーモア・コント「阿呆宮」の執筆も、乾さんの代表的な業績でしょう。

 これを機に、乾さんと博文館や当時同社の編集者であった横溝正史とのつきあいが始まります。そして同社の渡辺温谷崎潤一郎宅に原稿依頼に行った帰り、夙川の踏切で事故死したため、代わりに博文館の編集者となり、〈講談雑誌〉や〈新青年〉の編集長を歴任することになるのです。探偵小説が思うように書けなくなった時、横溝正史に人形佐七などの捕物帖を書いたら、と持ちかけたのはぼくなんだよ、とは乾さんから伺った逸話です。

 1938年、乾さんも同社を退社して筆で立つ決意をします。以後、放送作家やユーモア、動物ものの作家として活躍するようになり、1960年代後半からは翻訳を主な仕事とされるようになります。

 それ以前の訳書ではP・G・ウッドハウスなどのユーモア小説の翻訳がやはり目を引きますが、一番気になるのは1951年、雄鶏社から上梓されたF・W・クロフツ『マギル卿最後の旅』です。というのも、探偵小説好きだった折口信夫が生前最後に読んだ本がクロフツのこの本だった、と何かで読んだことがあるからです。『マギル卿最後の旅』は戦前の1937年に日本公論社から邦訳が出ていますが、乾訳は折口の亡くなる二年前の刊行ですから、時期的にはぴったりな気がします。折口信夫が最後に読んだ本が乾さんの翻訳であったという可能性は、極めて高いのではないでしょうか。

 さて、ぼくが担当させていただいたのは、E・D・ビガーズのチャーリー・チャンの追跡』Behind that Curtain (1928)、とG・K・チェスタトン『探偵小説の世紀 下』A Century of Detective Stories (1935) に収録されたやはりビガーズの「一ドル金貨を追え」The Dollar Chasers (1924) という長めの中編でした。創元推理文庫からはその前に、マッカレーの『地下鉄サム』が出ています。これは〈新青年〉時代からなさっていた訳稿を1956年から刊行していた「世界大ロマン全集」の一巻に収めさせて戴いたものの文庫化で、1959年7月、創元推理文庫創刊間もない時期に上梓されました。大ロマン版には、これも乾さんが戦前おやりになったウッドハウスの「専用心配係」が併載されています。

 ですから、チャーリー・チャンの追跡』と「一ドル金貨を追え」は、東京創元社として乾さんに訳し下ろしをお願いした初めてのお仕事だったことになります。ビガーズはその前にチャーリー・チャンの活躍』Charlie Chan Carries On (1930)を佐倉潤吾さんの訳で刊行し、これがよく売れていました。たまたまこの翻訳をお願いした1970年頃、チャーリー・チャンものが揃ってPyramid Books から復刊されたのを、銀座のイエナだったか、日本橋の丸善だったかで見つけ、それならもう一冊くらい出そうか、と検討し、『カーテンの彼方』の訳題で既訳のあったこの作品を乾さんに依頼した、という次第でした。

 1972年2月の刊行、ということは前年の春頃お願いしたのではないでしょうか。ぼくが入社した年の終わりか2年目の初めではないかと思われます。そんな頃にもう企画を立てて、翻訳家の先生に依頼をしていたとは、ちょっと自分でも意外な感じがしますが、洋書店の店頭でPyramid Booksのペイパーバックを見かけ、纏めて購入したことはよく覚えていますから、これをやりましょう、と編集部長の厚木に持ちかけて企画を通して貰ったに違いありません。

 久し振りに書架からチャーリー・チャンの追跡』を取り出してみると、1ページ目から割り付けの寸法を間違えていて、赤面ものの一冊でした。

 乾さんのお宅は駒込病院のすぐ近くで、御茶ノ水駅前から駒込病院行きの都バスに乗って行ったことを覚えています。先生のお宅には飼い猫のほかに置物やら縫いぐるみやらの猫があちこちにあるばかりでなく、庭には近隣の猫が集まってきていて、宛ら猫屋敷の感がありました。

 そして乾さんご自身はというと、長身痩躯の身体にチェックのジャケットを召して、昭和初期のモボというのはこういう人のことか、という正にモデルのような方でした。

 天瀬さんのお書きになったものによると、乾さんは1906年の5月、アメリカのシアトルで生まれ、小学校に入るため、ご両親の里の熊本に戻ったとのことですが、興が乗ってお話しになる内に、巻き舌のべらんめえ口調になるところがまたニューヨーカーならぬ新青年人という趣で、微笑ましくそのお話を拝聴したものです。

 乾さんの訳業を概観すると、ユーモアものと動物ものが目に付くのは当然のことでしょう。ジョイス・ポーターのドーヴァー警部ものが廻ってきたのもそのためでしょうが、その一方でアリステア・マクリーンからマイクル・クライトン、あるいはトマス・トライオンと非常に幅広いジャンルの小説を手がけておられます。さらにアンソニー・バージェス時計じかけのオレンジA Clockwork Orange (1962) や、ジョージ・バクストの『ある奇妙な死』A Queer Kind of Death (1966)といった前衛的とも言える作品を60代半ばに訳しておられます。時計じかけのオレンジは主人公の少年たちの言葉が難解で、ロシア語を元にし、しゃれや言葉遊びの横溢するこの会話文に手を焼いたことを、あとがきで吐露しておられます。『ある奇妙な死』はファロウ・ラブという黒人でゲイの刑事を主人公にした三部作の第一作なのですが、とうとうこの第一作しか邦訳は刊行されませんでした。売れ行きの関係かと思われますが、実はこの連作には三部作に亘る仕掛けがあって、そういう意味でも第一部しか訳されなかったのは、誠に残念というしかありません。ビートルズの「抱きしめたい」を「君の手を握りたい」といった具合に訳されたりしているところはあったと思いますが(その辺は、編集者がフォローすべきだったのでは)、乾さんの訳は、非常に意を尽くしたものだったと思います。

天瀬氏によると、乾さんの長年に亘る訳業の中で、「将来に残したい名訳を三つ挙げる」とすると、それはマッカレーの『地下鉄サム』、バージェスの時計じかけのオレンジ、そしてアガサ・クリスティー自伝』だろう、と言っておられます。

 クリスティの自伝は早川書房から1978年、2巻本の単行本として刊行されました。ある日、ぼくがお宅におうかがうと、乾さんは待ち構えていたように奥様にあれを、とおっしゃり、ひとつ頷かれた奥様が奥の部屋からハードカバーを二冊持ってこられ、今度こういう仕事をしたので、ぜひ読んでみてください、と渡してくださったのが、アガサ・クリスティー自伝』でした。そのときの乾さんの誇らしげなお顔が忘れられません。クリスティ晩年の作品を何作か訳された乾さんにとって、ミステリの女王の自伝を訳したというのは、格別に嬉しい仕事だったことでしょう。

 2000年(平成12年)の1月29日、93歳でお亡くなりになりました。


戸川安宣(とがわ やすのぶ)

1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。


これまでの「翻訳家交遊録」はこちら


「新青年」の頃

「新青年」の頃

時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)

時計じかけのオレンジ 完全版 (ハヤカワepi文庫 ハ 1-1)

2015-03-13

翻訳家交遊録 6(執筆者・戸川安宣)


■北欧ミステリ・フェス2014

 昨年の11月22日に、立教大学で「北欧ミステリ・フェス2014」という催しがあり、スウェーデンからカラミ・レックバリ、そしてフィンランドからレーナ・レヘトライネンという二人の女流作家が来日し、それに翻訳家の柳沢由実子、ヘレンハルメ美穂、古市真由美三氏と作家の堂場瞬一氏が加わって、杉江松恋氏の司会進行の許、4時間近くに及ぶ充実したイベントとなりました。

 来日したふたりの作家の話もさることながら、三人の翻訳家の苦労噺が聴けたのも、この日の収穫でした。三人三様で、彼我の文化、習慣の違いを念頭に置きながら、どのように訳文を作っていくかの苦労が語られました。それは英語をはじめ、これまで翻訳に携わってきた人たちが悪戦苦闘してきたことです。その意味でも、この日の翻訳家のお話は、改めてわが国の翻訳の流れを再確認したように思え、大変新鮮でした。

 北欧のミステリというと、なによりも1971年から角川書店で翻訳され、一世を風靡したマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーのマルティン・ベック・シリーズが思い出されます。もっと古い話をすれば、小酒井不木が紹介、翻訳をしたドゥーゼ(ドゥーセ)という作家がいます。そして小酒井訳のドゥーセがドイツ語からの重訳であったように、マルティン・ベック・シリーズの高見浩訳も英語からの重訳でした。ぼくなどはスウェーデン語の翻訳家というと、『スウェーデン語四週間』の著者であり、子どもの頃胸躍らせて読んだカッレ君のリンドグレンを訳した尾崎義さんが真っ先に頭に浮かびます。しかし、いずれにしても北欧の言葉を翻訳する人は限られていました。

 その事情は他の言語についても言えます。仏、独、伊、西などの言語の翻訳者はたくさんいらっしゃいますが、ことエンターテインメントをリーダブルな日本語に置き換える方は極めて限られていました。

 例えば警察官の役職名にしても、アメリカのsergeant、lieutenant、captain、inspectorを、日本の警察制度のそれと照らして巡査部長、警部補、警部、警視……などと訳し分け、sergeantはさらに刑事畑であれば部長刑事――所謂デカ長という訳語を当てる、イギリスであればcaptainがなくてinspectorが警部、そしてsuperintendentが警視、といった訳語の選択は永年の蓄積によって築き上げられたものなのですが、そういう財産がゼロ、と言わないまでもほとんどない言語の作品については手探り状態と言って良かったのです。

 そこで、不慣れな翻訳者より達者な英語の、あるいはフランス語の翻訳家に重訳を頼む方が、リーダビリティという面に於いて効果的でした。

 もう一つは、売れ行きの問題です。専門書よりも一般書、ノンフィクションよりフィクション、文学書よりエンターテインメントのほうが売れるのが一般的で、その中で言語別にみると英語(就中アメリカの作品)が圧倒的に優位に立っています。ということで、自然と専業翻訳家はほとんど英語の翻訳家ということになってきます。例えば、数少ないフランス語の専業翻訳家、矢野浩三郎さんや長島良三さん、飯島宏さんなども、フランス語だけではなかなか食べていけず、同時に英語の翻訳をなさっています。あるいは大学で語学教師をするといった、副業(どちらが正業かは別にして)を持っている方も多いのです。

 ところで、重訳における最大の問題は、日本語訳が依拠する翻訳書の出来です。翻訳について各国で考え方の違いがあり、例えばアメリカは翻訳大国でありながら、翻訳者の地位は必ずしも優遇されているとは言えません。報酬も買い切りが殆どだと聞いたことがあります。

 端的な例が、マルティン・ベック・シリーズでありました。高見浩さんが英語版を基に翻訳していたときのことです。このシリーズは著者のヴァールーとシューヴァルがスウェーデンの現代史を各三十章の十巻、計三百章で描く、という構想の下に書き出されたはずです。ところがある巻の英語版が届いたので開いてみると、二十九章しかなかったというのです。おかしいと思った高見さんが版元を通して問い合わせ、スウェーデン語の原本を取り寄せてみると、ちゃんと三十章あるのです。おそらく英訳がいつもより冗長になってページ数が増えたため、物語の展開に不要と思えた一章を丸ごとカットしてしまったのだろうと判断したそうですが、さてではどうするかということになり、スウェーデン語に堪能なある学者にその一章を直訳してもらい、それに高見さんが手を入れて完成させた、という楽屋噺をうかがったことがあります。

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 ぼくも英訳版を基に、スウェーデンのミステリの翻訳書を一冊作ったことがあります。ヤン・エクストレームという本格物を得意とし、「スウェーデンのカー」と言われた著者の『誕生パーティの17人』という作品でしたが、翻訳をお願いした後藤安彦さんが翻訳しながら疑問に思われたように、登場するキャラクターの名が、シャーロットやチャールズといった具合にあまりにも英語風な名前の人が多かったのが気になりました。たまたまスウェーデン側のエイジェントと知り合いだったので、直接問い合わせてスウェーデン語の原本を送ってもらいました。すると登場人物のほとんどの名前が違うのです。要するに、黒岩涙香のやり方で、英米人に抵抗のないように英語風に改変していたのでした。そればかりでなく、誤訳ではないかと思われる箇所が随所にあり、スウェーデン語―英語の辞書を片手におかしな所をチェックしていくと、そのほとんどが英訳者の誤読によるものでした。端的な例を挙げれば、英訳版では、舞台となる屋敷が二階建てなのか三階建てなのかはっきりしなかったのです。そこでスウェーデンのエイジェントに疑問点を質したところ、それを著者に廻してくれたものとみえ、しばらくするとエクストレーム本人から丁寧な返事が届きました。それによると、登場人物の名前の改変は、スウェーデン人の名前が英米人には馴染みがないからだろう、と理解のあるところをみせ、その上で一人一人の読み方を発音記号を付けて教示してくれたのです。さらに簡単な見取り図を書いて、舞台となった屋敷が三階建てで屋根裏部屋があることなども教えてくれました。

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 こういうことがあると、翻訳はあくまでも原典からの直接訳が一番、という当たり前のことが、改めて痛感されました。どの言語にも練達の翻訳家が数多く輩出してほしい、と願わずにはいられませんでした。

 その意味でも、近年のスウェーデンを初めとする北欧諸国、ならびにドイツのミステリ界の興隆は、絶好のビジネスチャンスです。これまでエンターテインメントの翻訳で、商売になるのは英語とフランス語と言っていた常識が覆りつつあります。他言語を勉強されている方、この機を逃す手はありません。


■後藤安彦さんの思い出

 さて、ここで後藤安彦さんについて、お話ししておきましょう。

 後藤さんは生来の脳性麻痺のため、ほとんど独学で語学を学び、翻訳家となられた方です。大変博学な方で、何度目かにお伺いした時、「ところで戸川さんは岡山の戸川と関係があるのですか」と尋ねられ、びっくりした覚えがあります。歌人で、『沈め夕陽』などの歌集があり、また『短歌でみる日本史群像』という本も遺されています。障害者運動も精力的に行い、本名の二日市安のお名前で『私的障害者運動史』などの著作があります。

 ぼくが初めて後藤さんの翻訳に接したのは、たしか1960年代の〈ヒッチコック・マガジン〉ででした。そして推理作家の仁木悦子さんと結婚されます。翻訳のお原稿を戴きに上がると、最後には必ず仁木さんが書斎から出てこられ、少しお話をして帰るのが常でした。後藤さんには、仁木さんとの想い出を綴った『猫と車イス 思い出の仁木悦子という本があります。因みに、大誘拐の著者、天藤真さんに、『遠きに目ありて』という連作推理の傑作がありますが、これは後藤さん、仁木さん夫妻との交遊から生まれた作品で、この作品集を創元推理文庫に入れる際、後藤安彦さんに解説を書いて戴きました。1986年に仁木さんに先立たれますが、可代夫人と再婚。2008年、急性肺炎で逝去されました。78歳でした。

 翻訳はミステリが主で、早川書房ではトマス・チャステイン、東京創元社ではジョン・ガードナーが、後藤さんの翻訳として忘れられない作家でしょう。また、足利光彦名義でポルノ小説の翻訳もされていました。

 後藤さんは、訳注などは訳文中に挿入せず、噛み砕いた、読み易い訳文を心がけた方です。そのため、原書より若干長めになる傾向がありました。


戸川安宣(とがわ やすのぶ)

1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。

潜入!北欧ミステリーフェス2014!【地の巻】 (執筆者:マライ・メントライン)

これまでの「翻訳家交遊録」はこちら

笑う警官 (角川文庫 赤 520-2)

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フィンランド語四週間

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短歌でみる日本史群像

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私的障害者運動史 (1979年) (たいまつ新書)

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猫と車イス―思い出の仁木悦子

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大誘拐―天藤真推理小説全集〈9〉 (創元推理文庫)

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遠きに目ありて 天藤真推理小説全集

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2015-02-06

翻訳家交遊録 5(執筆者・戸川安宣)


■菊池光さんの想い出


 フランシスの競馬シリーズや、パーカーのスペンサー・シリーズの翻訳家、菊池光さんが亡くなって(2006年6月16日)、早いものでもう8年になります。

 菊池さんが突然、翻訳家として鮮烈なデビューを飾ったのは、昭和43(1968)年、ギャヴィン・ライアルの『もっとも危険なゲーム』(ハヤカワミステリ)ででした。当時ぼくは大学のミス研と全国的なミステリファンダムSRの会に入っていて、早川書房や東京創元社にちょくちょく顔を出していました。その頃、早川書房のミステリ部門責任者はのちに作家となる常盤新平さんで、たぶん『もっとも危険なゲーム』が出た直後だったと思いますが、これは菊池さんの持ち込み企画だ、ということをうかがった覚えがあります。ライアルはひきつづき『深夜プラス1』が出、さらに菊池さんは競馬シリーズの初紹介作品『興奮』を訳し、当時のミステリファンを熱狂させました。実際、菊池さんの翻訳する作品はどれも面白かったし、そのほとんどの作品は菊池さん自身がセレクトしているらしい、という噂が、菊池光という新進翻訳家に一層の箔を付けることとなったのです。

 そして44年、ぼくはSRの会の機関誌「SRマンスリー」に菊池さんを引っ張り出しました。新橋演舞場前の料亭を予約し、東京近郊の会員数名が菊池さんを囲んでお話をうかがいました。その中で印象的だったのは、菊池さんがイギリス作家の作品の底に流れるunderstatmentということを強調されたことでした。そのお礼に、静岡のお宅までうかがいました。その頃、菊池さんは完全に通訳は辞めていましたが、まだ公務員住宅に住んでいて、勝手にクーラーなど入れられないんですよ、とこぼしていたのを思い出します。

 通訳時代のお話も、断片的にですがうかがいました。経団連会長の土光敏夫さんなどから名指しで通訳を務めていた後輩の河合裕さんを紹介してくださったのも菊池さんです。欧米と日本の一番の違いは匂いだ、と菊池さんはおっしゃっていました。ニューヨークなどでは男の吸う葉巻と女の化粧の匂いが街中に充満している。それが日本にはない、と。

 翌年、ぼくは東京創元社に入社し、今度はいきなり翻訳家と編集者という関係でお会いすることになりました。その当時、翻訳権仲介業の日本ユニ・エイジェンシーが翻訳家のエイジェント業にも手を伸ばし、東京創元社にも何人かの人材を斡旋してきたのです。池央耿、高見浩といった新進翻訳家の中に菊池さんもまじっていて、ぼくが担当することになってお目にかかったとき、菊池さんはほーっ、と意外そうな顔をされました。ただし、東京創元社は早川とは違って、菊池さんのやりたいものではなく、こちらからこれをやってくれますか、という形でお願いする仕事ばかりでした。最初に何を依頼したか覚えていませんが、想い出すままにざっと書名を上げてみましょう。

 フレドリック・ブラウン『殺人プロット』、ハドリー・チェイス『クッキーの崩れるとき』ほか、ロス・マクドナルド『暗いトンネル』、エリック・アンブラー『暗い国境』、ジョン・ブラックバーン『小人たちがこわいので』ほか、テッド・ウィリス『チャーチル・コマンド』、M・D・ポースト『アブナー伯父の事件簿』、エドワード・D・ホウク(ホック)編『風味豊かな犯罪』、ジェームズ・パタースン『モスクワ・オリンピック襲撃』、H・R・ハガード『黄金の守護精霊』、ジョージフ・ディモーナ『核パニックの五日間』……

 菊池さんの訳業の中では、角川で出されたジョン・チーヴァーなどに並んでかなり変わった部類に属すると思います。なんといっても、ハガードからポーストまでやっていただいたのですから。菊池さんは文句一つ言わず引き受けてくださったのですが、ごくたまに作品のプロットに触れ、これは破綻している、と指摘されることがありました。逆に気に入っていただいたのはブラックバーンだったと思います。ぼくは自分が企画したシャーロック・ホームズのライヴァルたちシリーズの一冊、ポーストの訳業が気に入っています。アブナー伯父の西部小説風な雰囲気が、菊池さんの訳文で良く活かされたと思うのですが。

 忘れられないのは1980年に刊行したジェームズ・パタースンの『モスクワ・オリンピック襲撃』です。アメリカでオリンピック開催直前に、ヒットを当て込んで刊行された企画ものの作品でしたが、ソ連(現ロシア)のアフガニスタン侵攻に反対した西側諸国などが参加をボイコットし、この作品は見事に夢物語となってしまったのです。

 もう一つ、菊池さんというと思い出すエピソードは、やはりユニの紹介でお願いすることになった佐和誠さんと組んで、デストロイヤー・シリーズをやっていただくことになっていたのです。当時、先に名を挙げた池・高見コンビでマック・ボラン・シリーズを刊行したように、シリーズ物を二人がかりで交互にやってもらおう、と考えていました。神楽坂でお二人の訳者と厚木、ぼくの四人で酒席を設けたのですが、そこでは和気藹々と佐和さんが先に始めることに決まったのです。ところが、できあがった原稿を見ると、これがまったくの佐和調で、菊池さんにこれに合わせていただくのはちょっと難しいのでは、と思われたのです。菊池さんも第一巻のゲラを読んで逡巡し、佐和さんも自分の色を出し過ぎた、とひたすら平身低頭。結局これは佐和さん独りでやっていただくしかない、ということになりました。そういう裏事情があったのですが、これが菊池さんが先ということになっていたら、菊池版デストロイヤーが見られたわけです。

 そのあと、菊池さんは神戸に引っ越されました。そして大阪で翻訳学校の講師を引き受け、ランキンなどの翻訳で知られる延原泰子さんたちを育てたのです。

 デビュー以来、菊池さんはコンスタントに年4、5冊の翻訳を仕上げていました。多作、多産の作家や翻訳家は、とかく拙速という印象を与えがちですが、菊池さんについて言うと、きちんとした生活管理の上にその仕事は成り立っていました。菊池さんは朝が早い。6時前には起きて、朝食までの間に一仕事されます。昼を食べると、昼寝をして夕方までまた机に向かい、晩酌後はテレビで野球を観戦したりして、仕事はしない――こういうスケジュールで月に20日は仕事をされていました。厚さにもよりますが、1冊を2月から3月で仕上げていたのです。そういう日課を知っていましたから、ぼくは朝一番に連絡を取りました。当時の東京創元社は9時−5時のきちんとした勤務態勢で、ぼくはたいがい8時半には出社していました。編集者としてのぼくが菊池さんにかわいがられたのは、一にぼくが早くから社にいて、朝から連絡が付くからでした。菊池さんは一つ翻訳があがるとそれを持って上京し、それから暫く休みを取る。静岡に住んでおられた頃は伊豆に、関西在住の頃は淡路島に、甥御さんや姪御さんを呼んで遊びに行かれました。菊池さん自身は釣りを愉しんでいたようです。そして帰るとまた次の翻訳に取りかかる――そういうスケジュールのきちんとした翻訳家でした。編集者にとって、一番ありがたい翻訳家は、仕事の期日のきっちりした人です。菊池さんはそういう意味でピカイチでした。

 こうして、ライアル、フランシスに始まり、ロス・マクドナルド、ジャック・ヒギンズ、ロバート・パーカー……単発でも、『シロへの長い道』『ディミトリオスの棺』『生き残った一人』『羊たちの沈黙』『懐かしい殺人』ヒッチコック最後の映画になるはずだった『短い夜』……と、ちょっと思い出すだけでも大変な数の作品を手がけたのです。

 ぼくが翻訳について一番議論した翻訳家は菊池さんだったかもしれません。菊池さんの翻訳は、端的に言うと原文からなにも足さない、なにも引かない、を原則としていました。原文の会話の間にHe said, ないしShe said,が挿入されていると、菊池さんはこれを「彼は言った、」「彼女は言った、」と読点をつけて訳されました。ぼくにはこれが馴染まず、生意気にもクレームを付けました。日本語で「言った」と言い切るのなら句点で止めるべき。読点にするなら、例えば「と彼は言って、」とすべきでは、と。そうですか、と言って菊池さんは東京創元社の仕事では句点で止めることを赦してくださったのです。

 大阪にお尋ねしたとき、それなら教室を覗きませんか、とお誘いを受けました。そこでサイマル主催の翻訳教室にうかがったのですが、東京の編集者が来てくれたと言って二十分ほど話をさせられました。それをそばでにこにこしながら聞いておられた菊池さんが、終わってからほう、少し考え方が変わられましたね、とおっしゃいました。どんなところを指して菊池さんがそう言われたのか、今もってわかりません。

 仕事のお付き合いがなくなってからも、菊池さんは新茶の季節になると、忘れずにお茶を送ってくださいました。亡くなった2006年にも頂戴し、そう言えば最近、新しいお仕事に接していない気がして、いつものような葉書のお礼ではなく、少し長めの手紙を認めました。新茶の季節だから、5月か6月のことだったと思います。それを読んでいただけたのかどうか。享年81でした。


戸川安宣(とがわ やすのぶ)

1947年長野県生まれ。立教大学文学部史学科卒。1970年東京創元社入社。2012年定年退職。主な著作『少年探偵団読本』(情報センター出版局 共著)。日本推理作家協会本格ミステリ作家クラブ、SRの会会員。


これまでの「翻訳家交遊録」はこちら

深夜プラス1 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 18‐1))

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興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))

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羊たちの沈黙 (新潮文庫)

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羊たちの沈黙〈上〉 (新潮文庫)

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羊たちの沈黙〈下〉 (新潮文庫)

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