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2016-10-19

【横山秀夫『64』CWA賞結果発表】日本ミステリー英語圏進出の「その後」(5)(執筆者・松川良宏)

 

◆インターナショナル・ダガー賞、受賞作決定!

 

 この連載《日本ミステリー英語圏進出の「その後」》は、横山秀夫『64』(ロクヨン)の英訳版が英国推理作家協会(CWA)インターナショナル・ダガー賞(最優秀翻訳長編賞)にノミネートされたことをきっかけに始めたものであった。

 そしてノミネートから5か月弱が経過した10月11日(日本時間の12日未明)、ロンドンで開かれたダガー賞晩餐会においてついにその受賞作が発表された。受賞作はピエール・ルメートル『天国でまた会おう』(英訳題『The Great Swindle』)。ルメートルはこれで3度目の受賞(かつ、2年連続受賞)となる。

The Great Swindle

The Great Swindle

 

 『64』は残念ながら受賞を逃したが、晩餐会に出席した横山秀夫はその直後、日本の報道陣に対して以下のようなコメントをしている。

 

横山秀夫さん「64」、ダガー賞ならず(朝日新聞デジタル、2016年10月12日)

 

ロンドンで開かれた授賞式に出席した横山氏は、「最終候補の5作品に選ばれて光栄だった。死ぬ前にもう1回くらい作品をひっさげて(英国に)来られれば」と笑顔を見せた。

 

横山秀夫氏「64(ロクヨン)」、ダガー賞逃す(読売オンライン、2016年10月12日)

 

横山さんは、ロンドンのホテルで開かれた発表会場で「壁は厚かったが、一回で大きなものをつかんでしまうのは自分の生き方としてはイレギュラー。もう一度作品をひっさげて来られればいい」と話した。

 

横山さん「64」受賞逃す 英推理作家協会翻訳部門(日刊スポーツ[ロンドン共同]、2016年10月12日)

 

横山さんは授賞式後「残念は残念だが、特別な時間を過ごさせてもらった。最終候補に残ったことで満足している」と笑顔を見せ「日本に戻ったら次々に作品を書いていく。もう一度授賞式に来られたらうれしい」と話した。

 

 横山秀夫作品の英訳は今のところ、米国『エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン』2008年5月号に訳載された短編「動機」("Motive"、ベス・ケーリ訳)と、今回の長編『64』のみであるが、今後も英訳が続くのはまず間違いないだろう。インターナショナル・ダガー賞への再度のノミネート(あるいは、短編賞へのノミネート)を期待したいところである。

 

※長編は2006年から英語作品と翻訳作品が別々に審査されるようになったが、短編は現在も英語作品と翻訳作品が一緒に審査される。今年の短編賞には翻訳物ではイタリアのアンドレア・カミッレーリ、ベネズエラのアルベルト・バレーラ=ティスカ(スペイン語作家)の作品がノミネートされていた。受賞はアイルランドのジョン・コナリー。

 

 

◆ダガー賞晩餐会の様子と事前のインタビュー動画

 

 『ハヤカワミステリマガジン』に毎年レポートが掲載されるアメリカの「エドガー賞晩餐会」と異なり、イギリスの「ダガー賞晩餐会」はその様子が日本ではあまり知られていなかった。今回は横山秀夫とともに日本から担当編集者が同行し、その様子をTwitterで写真つきで逐一レポートしている。「こちら」のTogetterでツイートをまとめているので、ぜひご覧いただきたい。貴重な資料である。

 

 なお、ダガー賞晩餐会の前にロンドンで共同通信の取材に応じた横山秀夫は以下のように語っている。毎日新聞の「こちら」のページでこの取材時の動画を見ることもできる。

 

横山秀夫氏「驚きしかない」ダガー賞の最終候補に(日刊スポーツ[ロンドン共同]、2016年10月11日)

 

横山秀夫さん(59)が11日、受賞者発表を前にロンドン市内で共同通信の取材に応じ「驚きしかない。候補に残ったことで満足している」と心境を語った。

(略)

横山さんは海外で高い評価を得ていることについて「組織のしがらみを受けて思い悩むのは世界共通」とし、「読者に問い掛けたいのは『素の自分とは何か』。作品が自分を見つめ直すきっかけになってくれればうれしい」と語った。

 

 『64』は今後、2017年2月にアメリカ版、2017年5月にオランダ語訳版が刊行予定。また、フランス語とイタリア語への翻訳が決まっているというのは以前の記事にも書いたが、受賞作決定前後の一連の報道で、ドイツ語訳が出版予定であることも明らかになった。各地でそれぞれどのような評価を受けるのか、今から楽しみである。

 

(下のamazonリンクは順にイギリス版、アメリカ版、日本の文庫版)

Six Four

Six Four

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

 

 

 

◆インターナショナル・ダガー賞、連続ノミネート記録

 

 さて、受賞作の発表を受けて、日本のミステリーファンからは「英国推理作家協会はルメートル好きすぎだろ」などといった反応が見られた。確かに、「4年連続ノミネート、3度目の受賞、2年連続受賞」というのは驚異的である。ただ、実はこれはルメートルが最初ではない。同じフランスの作家、フレッド・ヴァルガスもインターナショナル・ダガー賞で「4年連続ノミネート、そのうちの3度受賞、そして2年連続受賞」という偉業を成し遂げている。

 フレッド・ヴァルガスの現在までのインターナショナル・ダガー賞における「成績」は、ノミネート7回、受賞4回。連続記録は、4年連続ノミネート(2006年〜2009年)、2年連続受賞(2006年・2007年)である。ただヴァルガスは、長編賞(ゴールド・ダガー賞)から翻訳長編部門(インターナショナル・ダガー賞)が独立する前の最後の年、2005年にもノミネートされているので、実質5年連続ノミネートともいえる。

 

  • フレッド・ヴァルガスのインターナショナル・ダガー賞連続ノミネート(&受賞)
    • 2005年 『裏返しの男』(ゴールド・ダガー賞)ノミネート
    • 2006年 『死者を起こせ』受賞
    • 2007年 『Wash This Blood Clean From My Hand』受賞(東京創元社より近刊)
    • 2008年 『This Night's Foul Work』ノミネート
    • 2009年 『青チョークの男』受賞

 

裏返しの男 (創元推理文庫)

裏返しの男 (創元推理文庫)

死者を起こせ (創元推理文庫)

死者を起こせ (創元推理文庫)

青チョークの男 (創元推理文庫)

青チョークの男 (創元推理文庫)

 

  • ピエール・ルメートルのインターナショナル・ダガー賞連続ノミネート(&受賞)
    • 2013年 『その女アレックス』受賞
    • 2014年 『悲しみのイレーヌ』ノミネート
    • 2015年 『傷だらけのカミーユ』受賞
    • 2016年 『天国でまた会おう』受賞

 

 カミーユ・ヴェルーヴェン警部シリーズは英訳版も邦訳版もアレックス→イレーヌ→カミーユ、という順で刊行されたが、原著の刊行順(&作中の時系列順)は『悲しみのイレーヌ』『その女アレックス』『傷だらけのカミーユ』である。未読の方はこの順に読むことをお勧めする。カミーユ警部シリーズはこの三部作で完結。『天国でまた会おう』はノンシリーズ作品である。

 

 

 ルメートルは2013年に『その女アレックス』で初めてインターナショナル・ダガー賞にノミネートされ、初受賞(フレッド・ヴァルガスの『Ghost Riders of Ordebec』と同時受賞)。それから現在まで毎年ノミネートされており、4回中3回受賞している。この記録を見ていると逆に、ルメートルが受賞できなかった2014年の受賞作、アルトゥーロ・ペレス・レベルテ(スペイン、1951- )『The Siege』(スペイン語原題『El Asedio』)が気になってくるが、この作品は邦訳はない。

 

The Siege

The Siege

 

 

◆ヴァルガス、ルメートルを生んだコニャック・ミステリー大賞

 

 フレッド・ヴァルガスピエール・ルメートルも、フランスの公募長編新人賞であるコニャック・ミステリー大賞(Prix du Roman Policier du Festival de Cognac、1984年〜2007年)を受賞してデビューした作家である。ヴァルガス(1957- )は1986年に未邦訳の『Les Jeux de l'amour et de la mort』で受賞してデビュー、ルメートル(1951- )は2006年に『悲しみのイレーヌ』で受賞してデビューしている。ヴァルガスのほうが6歳年下だが、小説家としてはヴァルガスのほうが20年先輩ということになる。

 同賞からデビューした作家はほかに、1987年に『第四の扉』で受賞したポール・アルテ(1955- )、1991年に未邦訳の『La Bostonienne』で受賞したアンドレア・H・ジャップ(1957- )らがいる。ポール・アルテの英訳状況については連載「第4回」を参照のこと。

 

 

 

 

◆インターナショナル・ダガー賞、ノミネート回数ランキング

 

 インターナショナル・ダガー賞を複数回受賞しているのは、現在までのところフレッド・ヴァルガス(4回受賞)とピエール・ルメートル(3回受賞)だけである。ノミネート回数のトップ3は以下のとおり。

  • インターナショナル・ダガー賞へのノミネート回数(2006年〜2016年)
    • 1位 7回 【仏】フレッド・ヴァルガス(受賞4回)
    • 2位 5回 【伊】アンドレア・カミッレーリ(受賞1回)
    • 3位(2名)4回 【仏】ピエール・ルメートル(受賞3回)、【南アフリカ】デオン・マイヤー(受賞ゼロ)

 

 イタリアのアンドレア・カミッレーリ(1925- )は日本ではあまり知名度がないが、ノミネート回数はルメートルよりも多い。5回ノミネートされているものの、その5作のうち邦訳された作品は皆無である。

 カミッレーリの邦訳書はハルキ文庫から2冊出ている。邦訳出版は『悲しきバイオリン』が先だが、もし読んでみようという方がいたら、原著の刊行順(&作中の時系列順)に従って先に『おやつ泥棒』を読むことをお勧めする。

 

 

 南アフリカのデオン・マイヤー(デオン・メイヤー)(1958- )は今年も含め4回ノミネートされているが、まだ受賞したことはない。南アフリカにはロジャー・スミスやローレン・ビュークスなど英語で執筆するミステリー作家もいるが、デオン・マイヤーはアフリカーンス語(オランダ語の「子孫」にあたるアフリカの言語)で執筆する作家である。2012年のノミネート作『追跡者たち』のほか、『流血のサファリ』『デビルズ・ピーク』が邦訳されている。

 

流血のサファリ 上巻 (RHブックス・プラス)

流血のサファリ 上巻 (RHブックス・プラス)

 

 ノミネート回数「3回」の作家にはスウェーデンのヨハン・テオリン(受賞1回)、アンデシュ・ルースルンド(受賞1回)、スティーグ・ラーソン(受賞ゼロ)、ノルウェーのジョー・ネスボ(受賞ゼロ)、アイスランドアーナルデュル・インドリダソン(受賞ゼロ)がいる。

 アーナルデュル・インドリダソンはインターナショナル・ダガー賞の受賞こそゼロ回ではあるが、長編賞が英語作品部門と翻訳作品部門に分かれる以前の最後の年、2005年に『緑衣の女』でゴールド・ダガー賞(最優秀長編賞)を受賞している。

 

※第1次候補(ロングリスト)への選出もノミネートとしてカウント。2015年までは最終候補しか発表されていなかったが、2016年からまず第1次候補(ロングリスト)が発表され、ついで最終候補(ショートリスト)が発表されるという形式に変更になった。

※アンデシュ・ルースルンドは、ルースルンド&ヘルストレムでノミネート2回(受賞1回)、ルースルンド&トゥンベリでノミネート1回。

 

 

 

◆インターナショナル・ダガー賞の隠れた「4年連続受賞者」

 

 インターナショナル・ダガー賞を、実は4年連続で受賞している隠れた人物がいる。いや、「隠れた」もなにも、これは筆者が当ブログでインターナショナル・ダガー賞に言及する際にちゃんと紹介してこなかったというだけなのだが……。

 インターナショナル・ダガー賞は、作品の著者だけでなく翻訳者も受賞者となる。従来、英語圏では翻訳小説はあまり好まれず、翻訳家の地位も低かった。作品が翻訳物だと「ばれない」ように、翻訳者名が表紙に記載されないということは今でもしばしばある。

 

※日本では作家の名前を見れば、その小説が日本語で書かれた小説なのか、あるいは翻訳物なのかはほぼ判別できるが、英語圏ではカズオ・イシグロ、ナオミ・ヒラハラ、ジョー・シャーロン(チウ・シャオロン、裘小龍、Qiu Xiaolong)といった非英語圏にルーツを持つ英語作家も多いため、著者名だけではその作品が英語で書かれたものか翻訳物か判別できない。

 

 インターナショナル・ダガー賞は、翻訳者の貢献を正当に評価する。そして、そんなインターナショナル・ダガー賞を翻訳者として4年連続受賞しているのが、アイルランド人のフランク・ウィン(Frank Wynne)である。フランク・ウィンはピエール・ルメートル作品の英訳者であり、2013年に『その女アレックス』、2015年に『傷だらけのカミーユ』、2016年に『天国でまた会おう』で受賞している。――では、2014年は?

 2014年には、彼が英訳した『悲しみのイレーヌ』はノミネートはされたものの受賞には至らなかった。ただ、実はこの年の受賞作であるアルトゥーロ・ペレス・レベルテThe Siege(スペイン語原題『El Asedio』)の英訳者もフランク・ウィンであった。彼はフランス語→英語の翻訳家であり、スペイン語→英語の翻訳家でもあるのである。

 英国推理作家協会のインターナショナル・ダガー賞のページには、今年の受賞者としてピエール・ルメートルと翻訳者のフランク・ウィンの写真が同じサイズで掲載されている(リンク)。

 

 インターナショナル・ダガー賞を複数回受賞しているのはフレッド・ヴァルガス(4回受賞)とピエール・ルメートル(3回受賞)しかいないと書いたが、正確にいえば、ほかに翻訳者としてフランク・ウィンが4回(かつ4年連続)、Sîan Reynoldsが4回受賞している。Sîan Reynoldsはフレッド・ヴァルガス作品の英訳者である。

 

 

◆『64』の英訳者、ジョナサン・ロイド・デイヴィズの訳業

 

 横山秀夫『64』の英訳者であるジョナサン・ロイド・デイヴィズ(Jonathan Lloyd-Davies)の訳業もここに記しておこう。主なものは以下のとおりである。

 

 

 鈴木光司『エッジ』英訳版は、ギリアン・フリンゴーン・ガールという強敵をおさえて2012年度シャーリイ・ジャクスン賞(長編部門)を受賞している。

 

Edge

Edge

Gray Men

Gray Men

Nan-Core

Nan-Core

 

 

◆来年のインターナショナル・ダガー賞へのノミネート資格がある作品は?

 

 インターナショナル・ダガー賞はイギリスで1年間に出版された翻訳長編で、かつ出版社がエントリーの届け出をした作品が審査対象となる。その届け出が可能なのは英国推理作家協会によって公認された出版社に限られるが、同協会は公認出版社の一覧や、公認されるための条件をネット上では示していない。そのため、どの作品がエントリー資格を持っているのか、筆者にはよく分からないというのが正直なところである。(一方でアメリカ探偵作家クラブは、公認の出版社[=エドガー賞に作品をエントリーすることが可能な出版社]の一覧をネット上で公開しており、公認されるための条件等もサイトで示している。たとえば自費出版系の出版社や、設立されてから日が浅い出版社などは公認されず、従ってそのような出版社から刊行された刊行物はエドガー賞の審査対象にはなりえない)

 次回のインターナショナル・ダガー賞の対象は2016年4月〜2017年3月にイギリスで翻訳出版された長編である。その条件に当てはまるものとしては、たとえば松本清張『聞かなかった場所』の英訳『A Quiet Place』(イギリス版 2016年6月刊)があるが、これを出版したBitter Lemon Pressが作品をエントリーする資格を持っているのかは不明である。

 

A Quiet Place

A Quiet Place

聞かなかった場所 (角川文庫)

聞かなかった場所 (角川文庫)

 

 このように、「ある作品のエントリー資格の有無」はよく分からないのだが、エントリーされた作品を知ることはできる。ダガー賞の公式サイトで、エントリーされた作品の一覧が公開されているからである。来年のためのエントリーもすでに始まっており、インターナショナル・ダガー賞へのエントリーは2016年10月16日現在までに23作品(リンク)。日本の作品では、誉田哲也ストロベリーナイトの英訳『The Silent Dead』(ジャイルズ・マリー訳、2016年5月刊)がエントリーされている。ストロベリーナイトは姫川玲子刑事シリーズの第1作。第2作ソウルケイジの英訳出版も決まっている。

 また、邦訳のある作品ではピエール・ルメートル『死のドレスを花婿に』(英訳題『Blood Wedding』、英訳:フランク・ウィン)がエントリーされている。仮にこの作品が来年ノミネートされれば、ルメートルは5年連続のノミネートということになるが、果たしてどうなるだろうか。

 

The Silent Dead (Reiko Himekawa)

The Silent Dead (Reiko Himekawa)

ストロベリーナイト (光文社文庫)

ストロベリーナイト (光文社文庫)

 

 ほかに日本で知られた作家では、ラーシュ・ケプレルの未邦訳作品『Stalker』(スウェーデン語原題同じ/ヨーナ・リンナ警部シリーズ第5作)、ネレ・ノイハウスの未邦訳作品『To Catch A Killer』(独原題『Die Lebenden und die Toten』/刑事オリヴァー&ピア・シリーズ第7作)などが現在までにエントリーされている。

 ラーシュ・ケプレル(スウェーデン)のヨーナ・リンナ警部シリーズは日本では第3作まで邦訳されている。

 ネレ・ノイハウス(ドイツ)の刑事オリヴァー&ピア・シリーズは日本では第3作『深い疵』、第4作『白雪姫には死んでもらう』、第1作『悪女は自殺しない』の順で邦訳されており、今月末、第2作の邦訳『死体は笑みを招く』が刊行される。

 

催眠〈上〉 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

催眠〈上〉 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

深い疵 (創元推理文庫)

深い疵 (創元推理文庫)

 

 

 

◆前回の記事の補足――アメリカの編集者が日本の東野圭吾ファンに薦める作家は?

 

IN★POCKET 2016年 9月号

IN★POCKET 2016年 9月号

 

 前回紹介した『IN☆POCKET』2016年9月号(9月15日発売)の巻頭特集東野圭吾は海外でも大人気! 加賀恭一郎、NYへ行く。」から拙稿東野圭吾による現状打破〈ブレイクスルー〉・日本ミステリー英訳出版の現在」と東野作品の英訳者、アレクサンダー・O・スミスへのインタビュー東野圭吾作品翻訳者から見た、日本語英訳の難しさと魅力」の2つがネット上で読めるようになった(講談社のネットメディア「現代ビジネス」への転載/タイトルは変更されている)。拙稿は当連載の「出張編」のようなものとして楽しんでいただければと思う。

 

 

 ネットで読めるようになるのはこの2つだけだと聞いているが、特集はほかに以下のような内容で構成されている。

 

  • アメリカ、韓国、中国、台湾の東野作品担当編集者(あるいは出版責任者)へのQ&A
  • 英米の書評の抜粋紹介
  • 文藝春秋の海外版権担当者に聞く『容疑者Xの献身』エドガー賞ノミネート(2012年)前後のエピソード
  • 各国版の装幀比べ

 

 拙稿では東野作品のアジアでの人気についてはあまり触れていない。これは各国編集者へのQ&Aおよび「各国装幀比べ」を見ればアジアでの人気については十分に知ることができるからである。また拙稿ではたとえば、東野圭吾が「日本のスティーグ・ラーソン」などと評されていることに言及していないし、各作品が具体的にどのような言葉で評されているのかも紹介していない。これも、特集内のほかの記事を読めば分かるからである。拙稿はあくまでも「特集記事のうちの1つ」ということを前提に書いたものなので、やはり『IN☆POCKET』本誌で特集全体を読んでいただけると幸いである。

 

 前回の記事で以下のように書いた。

 

アメリカの編集者への質問、「日本の東野圭吾ファンの読者にオススメする、アメリカの作家を教えてください」に対する回答などは、国内ミステリーファンにも翻訳ミステリーファンにも非常に興味深いのではないだろうか。なんと答えているかは、ぜひ現物を入手して確認していただきたい。

 

 すでに2016年10月号(10月14日発売)が書店には並んでおり9月号はバックナンバーになってしまったので、この答えだけはここに書いておこう(もっとも、9月号の入手はまだ可能である)。アメリカの東野圭吾担当編集者、キース・カーラは以下のように答えている。

 

質問3 日本の東野圭吾ファンの読者にオススメする、アメリカの作家を教えてください。

 

 そうですね、有名なアメリカの犯罪小説家でプロットのスタイルが似ている、ジョン・ディクスン・カーエラリー・クイーン。それにアガサ・クリスティもお薦めです。もっと新しいところでは、心理描写や動機を盛りこむタイプの北米の作家、ルイーズ・ペニー、ジャクリーン・ウィンスピア、ウィリアム・ケント・クルーガーがあげられるでしょう。

 

 東野圭吾という作家がアメリカでどのように見られているかが分かる興味深い回答である。東野圭吾の作風はどこか黄金時代の作家を思わせる、というのは英米で比較的多くのミステリー読者に共有されている感覚のようだ。『悪意』が英訳された際、米国『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に載ったレビューには、東野圭吾ドストエフスキー流の心理的リアリズムと、アガサ・クリスティーやE・C・ベントリーを思わせる古典的な探偵小説の謎解きとを融合させる作家だが、『悪意』はその最良の例だ」(拙訳/リンク)と書かれている。これは同紙で長年書評の執筆を務め、ロス・マクドナルドの評伝『Ross MacDonald: A Biography』(2000年エドガー賞最優秀評論・評伝賞ノミネート)を執筆したことでも知られるトム・ノーランによる評である。

 

 

 また編集者のキース・カーラは「『容疑者Xの献身』がハリウッドで映画化されるとしたら」という質問に、探偵役の湯川学(ガリレオ)にベネディクト・カンバーバッチ(シャーロック!)、刑事の草薙にデイヴィッド・テナント、湯川と対決する数学者の石神にアルフレッド・モリーナ、という配役案を出している。

 ――と、特集記事の内容を書いてしまうのもさすがにここまでにしておこう。重ねて申し上げるが、非常に充実した特集になっているので、ぜひ『IN☆POCKET』本誌を読んでいただきたい。

 

 なお、キース・カーラは2012年のインタビューで彼が最初に担当した東野作品、容疑者Xの献身についてこんなふうにいっている。「『容疑者Xの献身』の真相は見抜けなかったし本当に驚いた。ミステリーを読んでいて真相に驚いて声まであげたのは、12歳の時にクリスティーの『そして誰もいなくなった』を読んで以来だったよ」(ブログ「Janet Reid, Literary Agent」、2012年10月1日付けエントリー)。

 

 

◆まだまだ尽きぬ「その後」の話題

 

 『64』のインターナショナル・ダガー賞ノミネートをきっかけに、以前の寄稿「日本のミステリー小説の英訳状況」(2013年11月)の「その後」を紹介するということで始まった当連載、同賞の結果を載せた今回をもって終了――とできれば綺麗だったのだが、話題はまだ尽きそうにない。文中で「次回以降」に紹介すると予告したものだけでも、東野作品の英訳状況(『IN☆POCKET』でほぼ書いてしまったが)、島田荘司とジョン・パグマイアのEQMMプロジェクト、Bento Books&早川書房による企画「ハヤカワ・ワールドワイド」があるし、それ以外にも清涼院流水が主宰する英語圏進出プロジェクト「The BBB」の進展、集英社の日本小説英訳・電子出版レーベル「Shueisha English Edition」の休止と復活、桜庭一樹赤朽葉家の伝説』英訳版のジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞ロングリスト入り、アンソロジー『HANZAI JAPAN』のローカス賞ノミネート、英国ディテクション・クラブと本格ミステリ作家クラブの交流、などの話題がある。

 というわけでこの連載はもうしばらく続くが、どうかお付き合いいただければ幸いである。

 

ミステリーズ!  vol.79

ミステリーズ! vol.79

 

※英国ディテクション・クラブと本格ミステリ作家クラブの交流については、10月11日発売の東京創元社ミステリーズ!』2016年10月号(vol.79)に芦辺拓によるレポート大英図書館で「本格」を語ろう」が掲載されている。

 

     

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。論創ミステリ叢書『金来成探偵小説選』(2014年6月)解題執筆。ほかに「日本作家の英米進出の夢と『EQMM』誌」(『本格ミステリー・ワールド2015』)、「日本作家の英米進出の現状と「HONKAKU」」(『同2016』)。マイナーな国・地域の推理小説をよりメジャーな世界へと広めていくのが当面の目標。

 

【毎月更新】非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると(松川良宏)バックナンバー

 

【毎月更新】中国ミステリの煮込み(阿井幸作)バックナンバー

2016-09-21

【横山秀夫『64』CWA賞最終候補記念】日本ミステリー英語圏進出の「その後」(4)(執筆者・松川良宏)

 

 前回の記事の末尾で予告したとおり、今回は綾辻行人十角館の殺人有栖川有栖『孤島パズル』の英訳版を刊行したアメリカの出版社「Locked Room International」について紹介するが、その前に現在書店に並んでいる講談社『IN☆POCKET』2016年9月号(9月15日発売)の紹介をさせていただきたい。

 

The Decagon House Murders

The Decagon House Murders

 

 

 

◆『IN☆POCKET』2016年9月号について

 

IN★POCKET 2016年 9月号

IN★POCKET 2016年 9月号

 

 『IN☆POCKET』2016年9月号の巻頭特集は東野圭吾は海外でも大人気! 加賀恭一郎、NYへ行く。」と銘打たれており、英語圏での評価を中心に、東野作品の海外での受容について取り上げている。主なコンテンツは以下のとおりである。

 

  • 東野作品の英訳者であるアレクサンダー・O・スミス氏へのインタビュー
  • アメリカ、韓国、中国、台湾の東野作品担当編集者(あるいは出版責任者)へのQ&A
  • 英米の書評の抜粋紹介
  • 文藝春秋の海外版権担当者に聞く『容疑者Xの献身』エドガー賞ノミネート(2012年)前後のエピソード
  • 各国版の装幀比べ

 

 アメリカの編集者への質問、「日本の東野圭吾ファンの読者にオススメする、アメリカの作家を教えてください」に対する回答などは、国内ミステリーファンにも翻訳ミステリーファンにも非常に興味深いのではないだろうか。なんと答えているかは、ぜひ現物を入手して確認していただきたい。(あと、実は拙稿も載っております。『IN☆POCKET』公式サイトで冒頭が読めます。)

 

 『IN☆POCKET』でインタビューに答えている日英翻訳家のアレクサンダー・O・スミス氏は、現在までに英訳されている東野圭吾の6作品のうち、『秘密』を除く5作品を訳した方である(ガリレオシリーズの容疑者Xの献身』『聖女の救済』『真夏の方程式/加賀恭一郎シリーズの『悪意』/ノンシリーズ作品の白夜行)。インタビューの中では、翻訳の際にどのような工夫を凝らしているかといった話題も面白いが、日本語英訳者になったきっかけなどスミス氏自身のエピソードもなかなか興味深い。

 スミス氏は東野作品のほか、小説では栗本薫グイン・サーガ小野不由美十二国記京極夏彦姑獲鳥の夏光瀬龍百億の昼と千億の夜宮部みゆきブレイブ・ストーリー(全米図書館協会バチェルダー賞受賞)、伊藤計劃『ハーモニー』フィリップ・K・ディック賞特別賞受賞)などを英訳している。また、漫画では鳥山明Dr.スランプ西義之ムヒョとロージーの魔法律相談事務所上条明峰『SAMURAI DEEPER KYO』など、ゲームではファイナルファンタジーシリーズタクティクスオウガ逆転裁判 蘇る逆転逆転裁判4などを英訳(ローカライズ)している。

 

The Guin Saga Book 1: The Leopard Mask

The Guin Saga Book 1: The Leopard Mask

Twelve Kingdoms - Paperback Edition Volume 1: Sea of Shadow

Twelve Kingdoms - Paperback Edition Volume 1: Sea of Shadow

The Summer of the Ubume

The Summer of the Ubume

Ten Billion Days and One Hundred Billion Nights

Ten Billion Days and One Hundred Billion Nights

Brave Story (Novel-Paperback)

Brave Story (Novel-Paperback)

Harmony

Harmony

 

 スミス氏は2012年、ほかの日英翻訳家らとともに「Bento Books」という出版社を立ち上げている。先月、この出版社からは森晶麿『黒猫の遊歩あるいは美学講義』(第1回アガサ・クリスティー賞受賞作)の英訳版が刊行された(訳者は連載第2回で京極夏彦巷説百物語等の英訳者として紹介したイアン・M・マクドナルド氏)。スミス氏自身は現在は皆川博子『開かせていただき光栄です』を英訳中であり、Bento Booksから刊行の予定である。Bento Booksの出版活動については、次回以降の記事で改めて詳しく紹介する。

 

黒猫の遊歩あるいは美学講義

黒猫の遊歩あるいは美学講義

 

 

◆世界中の不可能犯罪物を刊行するアメリカの出版社「Locked Room International」

 

 さて、そろそろ予告した本題に入ろう。前回の記事では、島田荘司占星術殺人事件の英訳改訂版を出版したイギリスのミステリー叢書プーシキン・ヴァーティゴ》(2015年9月創刊)を紹介した。

 占星術殺人事件は2004年に日本の出版社、IBCパブリッシングから最初の英訳版が出ている。そして英訳改訂版は、当初は《プーシキン・ヴァーティゴ》ではなくアメリカの出版社「Locked Room International」(以下、LRI社)から刊行される予定だった。

 

The Tokyo Zodiac Murders (Pushkin Vertigo)

The Tokyo Zodiac Murders (Pushkin Vertigo)

 

 LRI社(公式サイト)はアメリカ在住のイギリス人、ジョン・パグマイア(John Pugmire)が立ち上げた出版社で、2010年に出版活動を開始している。ジョン・パグマイアは不可能犯罪物、特に密室物のミステリーの熱烈なマニアで、現代フランスで不可能犯罪物を書き続けているポール・アルテの長編を英訳し、アメリカの出版社に持ち込んだりしていた。しかし刊行を引き受けてくれる出版社は見つからず、それならばと自分で設立したのが、LRI社である。

 そのようなわけで、LRI社は当初は彼が訳したポール・アルテの作品を出版していたが、そのうちフランスのほかの作家の不可能犯罪物も英訳刊行するようになり、今では日本やスウェーデンの不可能犯罪物を翻訳出版したり(これは別の人が英訳している)、忘れられた英語作品を復刊したりと、徐々に出版活動の範囲を広げている。

 

 ジョン・パグマイアと島田荘司の間に交流が生まれたのは、IBCパブリッシング版占星術殺人事件を読んだパグマイアが島田荘司に連絡を取ったのがきっかけだった。その後、LRI社で占星術殺人事件の英訳改訂版を出そうという話になり、パグマイアによる改訂作業が進められていた。そんな折にイギリスのプーシキン社から声が掛かり、パグマイアからの勧めと手助けもあり、占星術殺人事件英訳改訂版はプーシキン社から刊行されることになったのである。プーシキン占星術殺人事件には、エディターとしてジョン・パグマイアの名が明記されている。この辺りの経緯は、『本格ミステリー・ワールド2016』(南雲堂、2015年12月)の巻頭言、島田荘司「「HONKAKU」船出の時」に詳しい。

 なお、ジョン・パグマイアと島田荘司の2人が組んで、日本の名作短編を米国エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン』に紹介していく「EQMMプロジェクト」が現在進行中であり、甲賀三郎「蜘蛛」や大阪圭吉「寒の夜晴れ」(かんのよばれ)が英訳掲載されたりしたが、このプロジェクトについては次回以降の記事で改めて紹介する。

 

 やや脱線するが、占星術殺人事件の最初の英訳版を刊行したIBCパブリッシングからは先月末、『英語で読む江戸川乱歩短篇集』という本が刊行されている。「IBC対訳ライブラリー」という英文と和文の両方を収録するシリーズの1冊で、人間椅子(トム・クリスティアン訳)、「D坂の殺人事件」(モーガン・ジャイルズ訳)、「心理試験」(マット・トライヴォー訳)の3編を収録。3編ともすでに英訳があったものだが、この本に載っている英訳文は新たに別の訳者により訳し下ろされたものである。

 なお、この本で「D坂の殺人事件」を訳したモーガン・ジャイルズ氏に伺ったところ、英訳にあたっては江戸川乱歩の「声色」を英語で伝えることを最も重視したそうで、日本の英語学習者向けの英訳だからといって、難しい構文やフレーズは使わないようにしよう、という判断はあまりしなかったとのことである。

 

 

 

◆LRI社から刊行された最初の日本作品、綾辻行人十角館の殺人

 

The Decagon House Murders

The Decagon House Murders

 

 LRI社から最初に刊行された日本の作品は、綾辻行人十角館の殺人の英訳版『The Decagon House Murders』(2015年6月)である。英訳者はオランダ人のウォン・ホーリン氏(「ウォン」が名字/ご本人の希望により日本語文中では「姓-名」の順で記す)。ウォン氏は日本の「初期新本格」をテーマにした修士論文の執筆のために京都大学に留学し、京都大学推理小説研究会(かつて綾辻行人法月綸太郎が在籍)にも所属した人物であり、法月綸太郎「緑の扉は危険」の英訳「The Lure of the Green Door」(米国『EQMM』2014年11月号掲載)で翻訳家デビュー。『The Decagon House Murders』が最初の英訳書であった。

 英訳版十角館の殺人は刊行前に早くも注目され、米国『パブリッシャーズ・ウィークリー』誌により「ベストサマーブックス2015」ミステリー・スリラー部門の9冊のうちの1冊に選ばれる。以下にその9冊の一覧を示す。同誌には発売前に著者インタビューも掲載された(リンク)。

 

  • 『パブリッシャーズ・ウィークリー』ベストサマーブックス2015、ミステリー・スリラー部門(リンク

 

 またその後、同誌が年間を通じての優秀作を選出する「ベストブックス2015」ミステリー・スリラー部門の1冊にも選ばれた。毎年10冊前後が選ばれており、この年は十角館の殺人を含めちょうど10冊が選出されている。以下にその一覧を示す。「ベストサマーブックス2015」と共通するのは3冊である。

 

  • 『パブリッシャーズ・ウィークリー』ベストブックス2015、ミステリー・スリラー部門(リンク
    • 綾辻行人十角館の殺人
    • ドン・ウィンズロウ『ザ・カルテル』
    • ポーラ・ホーキンズ 『ガール・オン・ザ・トレイン』
    • ジェイムズ・リー・バーク『House of the Rising Sun』
    • スティーヴン・ドビンズ『Is Fat Bob Dead Yet?』
    • チャールズ・マッキャリー『The Mulberry Bush』
    • ニック・ストーン『The Verdict』
    • Lili Anolik 『Dark Rooms』
    • Jax Miller 『Freedom's Child』
    • Hester Young 『The Gates of Evangeline』

 

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

十角館の殺人 <新装改訂版> (講談社文庫)

 

 時間的に前後するが、英訳版の発売翌月の2015年7月には米国『ワシントン・ポスト』紙で、ピューリッツァー賞も受賞した高名な文芸評論家、マイケル・ディルダが十角館の殺人を絶賛(リンク)。記事中で彼は「honkaku」という言葉の意味や歴史を紹介し、「もっと多くの『ホンカク』に出会えることを心待ちにしている」(I myself look forward to discovering more “honkaku”)と書いている。

 

本から引き出された本

本から引き出された本

 

 英訳版十角館の殺人には、日本の本格ミステリーの歴史や、その歴史の中での十角館の殺人という作品の意義などを記した島田荘司による巻頭解説「「十角館の殺人」という実験」が収録されている。これは先にも言及した『本格ミステリー・ワールド2016』の巻頭言、島田荘司「「HONKAKU」船出の時」で全文引用されており、日本語で読むことができる。

 また、『本格ミステリー・ワールド2016』には綾辻行人インタビュー「『十角館の殺人』英訳版刊行とその反響」(聞き手・つずみ綾)や、英訳者であるウォン・ホーリン氏が日本語で寄稿したエッセイ「翻訳とHONKAKU」も掲載されており、綾辻ファンなら見逃す手はない。

 

本格ミステリー・ワールド2016

本格ミステリー・ワールド2016

 

 綾辻作品の英訳は、十角館の殺人以前に短編「心の闇」『Another』があった。「心の闇」は日本の出版社、黒田藩プレスから2012年に出版された日本SF英訳短編集第3弾『Speculative Japan 3』に収録。その後、2013年にアメリカのライトノベル/コミック系の出版社から『Another』の英訳が電子版のみで刊行された(上巻が2013年3月、下巻が同年7月)。電子版の売れ行きがよければ紙版も刊行すると当初から出版社のサイトで告知されていたが、売れ行きは好調だったらしく、2014年10月にめでたく紙版が出版された(こちらは分冊ではなく全1巻)。

 また、今年5月には『Another Episode S / 0』も刊行された。これは綾辻行人の小説『Another エピソードS』の英訳に、清原紘の漫画「Another 0」の英訳も併せて収録したものである。

 

Another (light novel)

Another (light novel)

Another(上) (角川文庫)

Another(上) (角川文庫)

Another Episode S / 0 (light novel)

Another Episode S / 0 (light novel)

Another エピソード S

Another エピソード S

Another 0 (角川コミックス・エース)

Another 0 (角川コミックス・エース)

 

 

 

◆綾辻作品の他言語訳と東アジアでの影響力

 

 フランスではアメリカより6年早く、2009年に十角館の殺人の翻訳版『Meurtres dans le Décagone』が刊行されている。また今年になって『Another』の仏訳も刊行された(2分冊/4月に上巻、6月に下巻)。

 

 十角館の殺人は筆者の知る限りで、英語、フランス語、中国語、韓国語、ベトナム語に翻訳されており、ブルガリア語訳も出る予定である。前回の記事で書いたとおり、ブルガリアでは島田荘司占星術殺人事件もつい最近刊行された(8月末発売予定と書いたが、やや遅れて9月12日の発売となったようである)。また、今年4月にはブルガリア語版の岡本綺堂『半七捕物帳』も刊行されている。3冊とも同じ出版社からの刊行だが、ブルガリアにちょっとした日本ミステリーブームが起こりつつあるのだろうか。

 

 『Another』は(これも筆者の知る限りで)英語、フランス語、中国語、韓国語、ベトナム語、タイ語、ブラジルポルトガル語に翻訳されている。

 また、清原紘による漫画版『Another』は小説版以上に多くの言語に訳されており(たとえばドイツ語、イタリア語、スペイン語、ポーランド語)、スペイン語版は2014年10月、バルセロナマンガフェア最優秀青年漫画(Mejor Seinen Manga)賞を受賞している。このときの対象は2013年9月1日〜2014年8月31日にスペインで出版された漫画で、ファンの投票により受賞作が決定した(情報源[スペイン語])。受賞者(漫画版の作画を担当した清原紘)には「?」と「!」をあしらったこのようなトロフィー(?)が贈られた。

 

Another

Another

 

 台湾で実施されている島田荘司推理小説賞の第1回(2009年)受賞者である寵物先生(ミスターペッツ)(1980年生)は、ミステリーを書くきっかけになった作品は十角館の殺人だと島田荘司との対談で語っている(リンク)。また、中国の推理作家・御手洗熊猫(みたらい ぱんだ)(1988年生――ということは、1987年に刊行された『十角館の殺人』より若い!――)は十角館の殺人の影響下に、短編「二十角館の首なし死体」を執筆している。韓国でもソン・ソニョン(1974年生)という推理作家が十角館の殺人へのオマージュとして2015年に『十字館の殺人』を発表している(韓国のネット書店)。十角館→十字館というもじりが可能なのは漢字文化圏ならではである。これらはみな東アジアの作家だが、今後、東南アジアや欧米からも、十角館の殺人に影響を受けた推理作家が登場してきたりするのだろうか。占星術殺人事件の影響を受けて本格ミステリーを書いたアイルランド人ノワール作家が実在するのだから、起こりえないことではないだろう。

 なお、御手洗熊猫の短編「二十角館の首なし死体」は中日翻訳家の稲村文吾氏がすでに日本語に訳しているそうなのだが、今のところは公開の予定がたっていないようである。読みたい方は、ぜひ稲村文吾氏に要望・応援のお便りを! 中国ミステリー界の鬼才・御手洗熊猫の作品は短編「人体博物館殺人事件」が稲村文吾氏により翻訳され、Kindleで販売されている。

  

虚擬街頭漂流記 (文春e-book)

虚擬街頭漂流記 (文春e-book)

犯罪の赤い糸

犯罪の赤い糸

 

 

◆LRI社の日本作品第2弾、有栖川有栖『孤島パズル』

 

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 

 今年(2016年)5月にはLRI社より有栖川有栖『孤島パズル』が英訳出版された。英題は『The Moai Island Puzzle』で、著者名の表記は「Alice Arisugawa」となっている。訳者はウォン・ホーリン氏。十角館の殺人以前にも英訳があった綾辻行人とは違い、有栖川有栖はこれが初の英訳作品である。英訳版十角館の殺人と同じくこちらも島田荘司が巻頭解説を書いており、その原文は本年末に刊行される『本格ミステリー・ワールド2017』に掲載される予定。

 

 先ほども登場した文芸評論家、マイケル・ディルダは米国『ワシントン・ポスト』紙に寄稿した「夏の隠れた名作11選」(2016年7月27日)で『孤島パズル』を挙げている。これはミステリーに限らず、また小説にも限らず、ディルダが新刊から11冊を選出したものである。ほかの選出作で邦訳のあるもの、気になるものをいくつか挙げておく。

 

  • パトリック・クェンティン『The Puzzles of Peter Duluth』
    • ダルース夫妻シリーズの中短編4編「死はスキーにのって」「Murder with Flowers」「ポピーにまつわる謎」「ニュー・フェイス殺人事件」を収録。
  • アン&ジェフ・ヴァンダミア編『The Big Book of Science Fiction』
    • 1200ページ超のSFアンソロジー。日本の作品では荒巻義雄「柔らかい時計」(Soft Clocks)、筒井康隆「佇むひと」(Standing Woman)、梶尾真治「玲子の箱宇宙」(Reiko's Universe Box)を収録。
  • ジュール・ヴェルヌ『1835年の司祭』(未邦訳/英題『A Priest in 1835』、仏原題『Un prêtre en 1835』)
    • ヴェルヌが19〜20歳のとき(1847年〜1848年)に書いた最初の長編。ポーの強い影響下に書かれたロマンティック・スリラー小説。「推理」についてのポストモダン的な考えも示されているという。今年初めて英訳が出た。
  • イタロ・カルヴィーノカルヴィーノの文学講義―新たな千年紀のための六つのメモ』
    • 邦訳あり。今年、新たな英訳が出た。
  • Con Lehane 『Murder at the 42nd Street Library』(ミステリー小説)

 

 LRI社からは今後も日本作品の英訳出版が続くのか、続くとしたら誰のどの作品が刊行されるのか、新しい情報がもたらされるのが楽しみである。

 

 

 

◆Locked Room Internationalの現代フランス作品

 

 LRI社から、ポール・アルテ(1955- )の作品は現在までに12冊(11長編と短編集1冊)が刊行されている。細かく紹介していくとそれだけで連載1回分ぐらいの分量になってしまいそうなので、その12冊の一覧はTogetterにまとめておく(リンク)。このうちの6長編と短編集収録作の半数ほどは未邦訳である。逆に、邦訳があって英訳がない作品としては、『カーテンの陰の死』『狂人の部屋』『殺す手紙』および中編「赤髯王の呪い」がある。

 現代フランスで唯一の不可能犯罪専門作家、ポール・アルテ綾辻行人と同じ1987年にデビューしている。黄金時代の探偵小説復興という同じ志を持った作家が同年に日本とフランスでデビューしているとはなんという偶然だろうか。

 

The Fourth Door

The Fourth Door

 

 LRI社から英訳出版された現代フランス作品はアルテ以外に、ジャン=ポール・テレック(Jean-Paul Török、1936- )『モンテ・ヴェリタの謎』(未邦訳/仏原題『L'énigme du Monte Verita』、2007年)がある。ビル・プロンジーニ激賞の密室物である。Webサイト「風読人(ふーだにっと)」のかつろう氏がLRI社版を読んでレビューを書いている(リンク)。

 

The Riddle of Monte Verita

The Riddle of Monte Verita

 

 

◆Locked Room Internationalのフランス古典作品

 

 フランスの古典作品では、1930年代に密室・不可能犯罪物の長編を1ダースほど発表したというノエル・ヴァンドリー(Noël Vindry、1896-1954)の作品が2作刊行されている。どちらもアルー判事シリーズの作品。

 ノエル・ヴァンドリー(「ノエル・ヴァンドリ」とも表記)は2013年11月に「ROM叢書」で、同じくアルー判事シリーズの『逃げ出した死体』(小林晋訳/仏原題『La Fuite des morts』、1932年)が翻訳出版されたが、サイトを見るとすでに完売だそうである。

 

  • The House That Kills (未邦訳/仏原題『La Maison qui tue』、1931年)
  • The Howling Beast (未邦訳/仏原題『La Bête hurlante』、1934年)

 

The House That Kills

The House That Kills

The Howling Beast

The Howling Beast

 

 また、さらに時代を遡った1871年の作品、アンリ・コーヴァン(Henry Cauvain、1847-1899)『マクシミリアン・エレール』(未邦訳/仏原題『Maximilien Heller』)の英訳版もLRI社から刊行されている。この作品は作者の死後に『L'Aiguille qui tue』と改題されて出版されており、LRI社の英訳版のタイトルはそれに基づく。変わり物の青年マクシミリアン・エレールと医師の「私」が密室内の毒殺事件の謎を解くという物語で、コナン・ドイルのホームズ&ワトソンの造形に影響を与えたのではないかともいわれる作品である。松村喜雄『怪盗対名探偵 フランス・ミステリーの歴史』晶文社、1985年6月 / 双葉文庫、2000年11月)の第1部第9章「密室について」にこの作品のあらすじ紹介がある。ミステリー研究同人誌『ROM』117号(2003年)には小林晋氏によるレビューが載っている。

 

The Killing Needle

The Killing Needle

 

 LRI社から英訳出版されたフランス作品は基本的にすべてジョン・パグマイアが訳したものだが、ポール・アルテの短編集『The Night of the Wolf』のみRobert Adeyとの共訳である。フランスの古典作品では、1930年代に密室物を含む長編探偵小説を数作発表したガストン・ボカ(Gaston Boca、1903-2000)の作品の英訳出版も予告されている。

 

 

◆Locked Room Internationalのスウェーデン作品

 

Hard Cheese

Hard Cheese

 

 スウェーデン作品は、ウルフ・デュアリング(Ulf Durling、1940- )が1971年に発表した密室物、『Hard Cheese』(未邦訳/スウェーデン語原題『Gammal ost』)が刊行されている。この作品も『ROM』117号(2003年)に小林晋氏によるレビューが載っている(仏訳版の『Pour un bout de fromage』に基づくレビュー)。ひょんなことから知り合った探偵小説マニア3人は毎週探偵小説談義のための会合を開いていたが、そんなとき近隣で実際に密室殺人事件が発生。探偵小説マニア3人が密室について語り尽くす、という作品だそうだ。

 かなりマニアックな内容のようだが、1971年のスウェーデン推理作家アカデミー最優秀新人賞の受賞作でもある。なおこの作家は2010年にはスウェーデン推理作家アカデミーより巨匠賞を授与されている。

 

 

◆Locked Room Internationalの台湾作品

 

 台湾からは林斯諺(りん しげん、Szu-Yen Lin、1983- )の2006年の長編『雨夜莊謀殺案』が翻訳出版される予定である。この作品は2015年に改稿版が『雨夜送葬曲』のタイトルで刊行されている(台湾のネット書店)。邦訳はない。

 筆者は未読なので、中日翻訳家の稲村文吾氏に許可を取ってレビューを引用掲載させていただく。

 

林斯諺『雨夜送葬曲』(稲村文吾氏のブログ「浩澄亭日乗」、2016年7月24日

台湾の山奥に建つ、上空から見ると「雨」の字の形をした館「雨夜莊」(見取り図)へ、一年前にそこで起きた一家殺害事件を再調査するため哲学者でもある名探偵・林若平が招かれる。しかしその晩、同時に館を訪れていた大学生グループの一人が視線と鍵による二重の密室から首なし死体となって発見される。その後も、豪雨によって交通が途絶した館の中で、学生たちが次々と密室状況で命を落としていく。

 

2006年に『雨夜莊謀殺案』のタイトルで刊行された第二長篇が再刊行されたもの。館ものの定型を真正面から受け止めた作品だが、それぞれの思惑を秘めた登場人物たちの視点を頻繁に切り替えていくことで、密室殺人と事情聴取が続くシンプルな展開に変化が付けられている。続発する密室殺人の一つ一つが相当に不可能性が高く、一体どうやって解決するのかと思ったら――なるほど。解決編には一つの事実でバラバラだった謎の大部分が氷解する妙味があって、発想のスケール自体はそれほど大きくないが、細かい伏線を重ねていくことでそれがむしろ現実味を演出するものとして立ち上がってくる。

(中略)

「コード型」から台湾で生まれた成果(意外と例は少ないのだ)としては出色のものの一つだと思う。

 

 この作家は、米国『EQMM』2014年8月号に短編「羽球場的亡靈」の英訳版「The Ghost of the Badminton Court」が掲載されており、2016年5月号にも短編が掲載されている。米国『EQMM』に作品が載った、中国語圏の最初の(そして現在のところただ一人の)作家である。「羽球場的亡靈」は稲村文吾氏により邦訳され、「バドミントンコートの亡霊」としてKindleで販売されている。

 

 

 

◆LRI社による忘れられた英語作品の復刊

The Derek Smith Omnibus

The Derek Smith Omnibus

 

 LRI社から刊行された英語作品は、今のところデレック・スミス(1926-2002)の作品集成『The Derek Smith Omnibus』(2014年刊)のみである。長編の『悪魔を呼び起こせ』パディントン・フェアへようこそ』『Model for Murder』(未邦訳)およびショートショート「The Imperfect Crime」(未邦訳)を収録。このうち『悪魔を呼び起こせ』以外の作品は英米では未出版であった。3長編はどれも不可能犯罪物だが、「The Imperfect Crime」はそうではないとのこと。

 翌2015年には、『悪魔を呼び起こせ』(Whistle Up the Devil)パディントン・フェアへようこそ』(Come to Paddington Fair)はそれぞれ別個でも購入できるようになった。

 

Whistle Up the Devil: A Detective Story

Whistle Up the Devil: A Detective Story

Come to Paddington Fair

Come to Paddington Fair

 

 『悪魔を呼び起こせ』は日本では1999年に国書刊行会《世界探偵小説全集》の1冊として森英俊氏の翻訳で刊行されている。またパディントン・フェアへようこそ』は2014年8月に「ROM叢書」の1冊として宇佐美崇之氏の翻訳で出版されたが、すでに完売とのことである。今後の商業出版物としての再刊を期待したい。

 

 

 

◆前回の記事の補足と、『群像』2016年9月号について

 

 前回の記事の補足を1つしておく。イギリスで昨年創刊されたミステリー叢書プーシキン・ヴァーティゴ》は表紙デザインが凝りすぎているためどうにも文字が読みづらく、一部で不評の声があがっていた。そして2016年5月以降の刊行作品ではデザインが一新されている、ということを書いた。そのときは知らなかったのだが、それ以前の刊行作品(2015年9月の創刊から2016年4月までに刊行されたもの)も新デザインの表紙が作られているようである。増刷時などに順次入れ替わっていくのだろう。島田荘司先生ご本人が、今年5月にプーシキン占星術殺人事件新表紙の画像をツイートしていたのだが、すっかり見逃していたのである。

 なお同ツイートによれば、占星術殺人事件はイタリア語版の出版のオファーも来ているとのことである。

 

群像 2016年 09 月号 [雑誌]

群像 2016年 09 月号 [雑誌]

 

 さて、記事の冒頭で講談社『IN☆POCKET』2016年9月号の紹介をしたが、最後に講談社の出版物をもう1点紹介したい。すでに「次号」が発売されてしまっているのでバックナンバーまで揃えている大型書店以外には置かれていないが、文芸誌『群像』2016年9月号(8月6日発売)である。この号に載録されているシンポジウム「作家と翻訳家」(2016年3月11日実施)は、湊かなえ『告白』桐野夏生『OUT』伊坂幸太郎ゴールデンスランバー等の英訳者であるスティーヴン・スナイダー氏も参加しており、ミステリーの話こそ出ないものの、日本の小説の英語(やフランス語)への翻訳事情に興味のある方は必読である。

 

『群像』公式サイトより(リンク

シンポジウム「作家と翻訳家」

小川洋子堀江敏幸松浦寿輝と、それぞれの作品を翻訳しているスティーブン・スナイダー、アンヌ・バヤール=坂井、辛島デイヴィッドが、沼野充義の司会で、創作と翻訳の楽しさ、苦しさを語り合います。

 

 辛島デイヴィッド氏は日本で「形而上学的推理小説」という売り文句で刊行された松浦寿輝『巴』(ともえ)の英訳者。この作品はフランスの作家、A・D・G(アー・デー・ジェー)の『おれは暗黒小説だ』などを思わせるノワール小説で、フランスでこそ受けるのではないかと個人的には思うが(そして実際、日本の文化庁の事業でフランス語に翻訳はされたようなのだが)、残念ながら出版にまではいたっていない。

 辛島氏はほかに筒井康隆時をかける少女なども英訳している。島田荘司の短編「発狂する重役」の英訳者でもある(米国『EQMM』2015年8月号掲載)。

 

Triangle (Japanese Literature)

Triangle (Japanese Literature)

The Girl Who Leapt Through Time

The Girl Who Leapt Through Time

 

 アンヌ・バヤール=坂井氏はフランスで第3巻まで出ている石田衣良池袋ウエストゲートパークシリーズの仏訳者である。このシリーズは英訳書は出ていないが、第1巻の第1話池袋ウエストゲートパークのみ、日本文学英訳アンソロジー『Digital Geishas and Talking Frogs』に収録されている。

 

Ikebukuro west gate park

Ikebukuro west gate park

    

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

f:id:honyakumystery:20130322132816j:image:small:left

 アジアミステリ研究家。『ハヤカワミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。論創ミステリ叢書『金来成探偵小説選』(2014年6月)解題執筆。ほかに「日本作家の英米進出の夢と『EQMM』誌」(『本格ミステリー・ワールド2015』)、「日本作家の英米進出の現状と「HONKAKU」」(『同2016』)。マイナーな国・地域の推理小説をよりメジャーな世界へと広めていくのが当面の目標。

 

【毎月更新】非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると(松川良宏)バックナンバー

 

【毎月更新】中国ミステリの煮込み(阿井幸作)バックナンバー

2016-08-10

【横山秀夫『64』CWA賞最終候補記念】日本ミステリー英語圏進出の「その後」(3)(執筆者・松川良宏)

 

 今回の記事では、世界の古典的名作ミステリーを英訳出版するイギリスの叢書プーシキン・ヴァーティゴ》(2015年9月創刊)を紹介するが、その前にまずは先日発表されたインターナショナル・ダガー賞の最終候補(ショートリスト)に触れておきたい。

 

 

 

◆【祝】横山秀夫『64』、インターナショナル・ダガー賞最終候補入り

 

 横山秀夫『64(ロクヨン)』が英国推理作家協会賞(CWA賞)の翻訳作品部門、すなわちインターナショナル・ダガー賞の「第一次候補」8作に選出されたのは今年の5月21日(日本時間)だったが、それから約2か月後の7月28日、ついに英国推理作家協会により同賞の最終候補(ショートリスト)が発表された。その結果は新聞やテレビでも報道されたので多くの人がすでにご存じかとは思うが、『64』は見事、最終候補5作のうちの1作に残った。英国推理作家協会賞のどの部門においても、今までに日本の作品がノミネートされたことは一度もなかった。今回の『64』の第一次候補入り、そして最終候補入りは、米国における2004年の桐野夏生『OUT』エドガー賞ノミネート、2012年の東野圭吾容疑者Xの献身エドガー賞ノミネートと並ぶ、日本ミステリー史上に残る快挙といえよう。

 

 最終候補5作は以下のとおりである(未邦訳作品は英題を示す)。インターナショナル・ダガー賞のその年のノミネート作がすでに邦訳されているということは今までにもあったが、日本語で読めるのが3作品もあるという状況はかつてなかった。受賞作が発表される10月11日までに3作を読み比べて自分なりの「推し作品」を考えておくと、受賞作発表がより楽しめるのではないだろうか。

 

  • 【日】横山秀夫『64』
  • 【仏】ピエール・ルメートル『天国でまた会おう』
  • 【独】ザーシャ・アランゴ『悪徳小説家』
  • 【独】Cay Rademacher 『The Murderer in Ruins』
  • 【南アフリカ】デオン・マイヤー(デオン・メイヤー)『Icarus』

 

Six Four (English Edition)

Six Four (English Edition)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

64(ロクヨン) 上 (文春文庫)

 

 過去の受賞作の一覧は連載第1回で示したので省略するが、国別で示すと、インターナショナル・ダガー賞が2006年に始まって以来、受賞したのはフランス7作品、スウェーデン2作品、イタリア1作品、スペイン1作品である(2作同時受賞が一度あったので、2015年までの10年間で受賞作は計11作になる)。受賞作が仮にピエール・ルメートル『天国でまた会おう』以外になれば、いずれかの国にとっての初受賞ということになる。日本か南アフリカの作品が受賞すれば、ヨーロッパ以外からの初の受賞ということにもなる。

 

 最終候補に残れなかったのはなぜか3作ともスウェーデンの作品である(未邦訳作品は英題を示す)。

 

  • ヨハン・テオリン『夏に凍える舟』
  • アンデシュ・ルースルンド&ステファン・トゥンベリ『熊と踊れ』(早川書房より9月刊行予定/英題『The Father』)
  • Leif G.W. Persson 『The Sword of Justice』

 

 

 ヨハン・テオリンは2010年に『冬の灯台が語るとき』でインターナショナル・ダガー賞をすでに受賞しており、アンデシュ・ルースルンドも2011年にベリエ・ヘルストレムとの共著『三秒間の死角』で受賞済みである。そのあたりが勘案されたのかもしれない――と最初は思ったが、よく考えると最終候補に残ったピエール・ルメートルは2013年に『その女アレックス』で受賞、2015年に『傷だらけのカミーユ』(文春文庫で10月刊行予定)で受賞と、すでに2度もこの賞を受けている。ということは、選考委員の趣味嗜好でたまたまこういう結果になってしまったのだろうが、スウェーデンの人々(そして世界中の北欧ミステリーファン)にとっては結構ショックな結果だったのではないだろうか。なお、『熊と踊れ』は深緑野分氏がツイートで絶賛している作品であり(リンク)、刊行が楽しみである。

 

 

 

 

◆世界の名作ミステリーを刊行するイギリスの叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》

 

 さて、今回の記事の本題に入ろう。2015年9月、イギリスのプーシキン社(Pushkin Press)がミステリー小説の新叢書プーシキン・ヴァーティゴ》(Pushkin Vertigo)を創刊した(「Vertigo」は「めまい」の意)。出版社のサイトに掲載された紹介文によれば主に1920年代から1970年代の世界の名作ミステリーを出版する叢書で、これにより初めて英訳された作品も多い。2016年8月10日現在までに14冊が刊行されている。

 創刊ラインナップは以下の4冊であるが、皆さんは表紙からタイトルと著者名を読みとれるだろうか? 装幀は高名な装幀家のジェイミー・キーナン(Jamie Keenan)が手掛けているが、イギリスの推理作家イアン・ランキンは創刊時にTwitterで、タイトルと著者名が分かりづらいと写真付きでツイートしている(リンク)。

 

※4冊中、最後の1冊は日本未紹介の作家の作品。

 

The Tokyo Zodiac Murders (Pushkin Vertigo Book 4) (English Edition)

Vertigo (Pushkin Vertigo) (English Edition)

Master of the Day of Judgment (English Edition)

The Disappearance of Signora Giulia (Pushkin Vertigo Book 3) (English Edition)

 

 正解は上から順に、

 

  • Soji Shimada, The Tokyo Zodiac Murders
  • Boileau-Narcejac, Vertigo
  • Leo Perutz, Master of the Day of Judgment
  • Piero Chiara, The Disappearance of Signora Giulia

 

 日本語で示すと、

 

  • 【日】島田荘司占星術殺人事件
  • 【仏】ボアロー&ナルスジャック『めまい』(別題『死者の中から』
  • 【オーストリア】レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』
  • 【伊】ピエロ・キアラ『ジュリア夫人の失踪』(仮) ※未邦訳

 

めまい

めまい

最後の審判の巨匠 (晶文社ミステリ)

最後の審判の巨匠 (晶文社ミステリ)

 

 イタリアのピエロ・キアラ(1913-1986)はこれが初の英訳書だそうで、邦訳もなく日本でも知られていない作家だが、ボアロー&ナルスジャック、レオ・ペルッツという巨匠とともに島田荘司の作品が創刊ラインナップに選ばれるとは驚きであり、またうれしいことである。

 

 

 島田荘司占星術殺人事件は2004年に最初の英訳版(ロス&シカ・マッケンジー訳)が日本の出版社より刊行されており、英語圏の密室・不可能犯罪物マニアに好評をもって迎えられていた。アイルランド人のノワール作家(かつ不可能犯罪物の愛好家)、エイドリアン・マッキンティー(Adrian McKinty、1968- )が自身の選ぶ《密室・不可能犯罪ミステリーベスト10》占星術殺人事件を第2位に挙げ(英『ガーディアン』紙、2014年1月29日)、なおかつ占星術殺人事件に影響を受けてノワールと密室の謎解きを融合させた長編『In the Morning I'll Be Gone』(2014年、未邦訳)を執筆したということは、以前の寄稿で紹介した(非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると 第12回 グーディス、密室、ボリウッド)。この作品はショーン・ダフィー刑事シリーズの第3作で、ダフィー刑事は密室ミステリーの古典作品に言及しつつ捜査を進めていくという。

 やや話がそれるが、昨年末に刊行されたショーン・ダフィー刑事シリーズの第5作『Rain Dogs』も密室物だそうで、出版社による紹介文には「一人の刑事が生涯で二度も密室の謎に直面するなんていうことがあるだろうか?」(what detective gets two locked room mysteries in one career?)という文言が使われている。『Rain Dogs』は今年の英国推理作家協会イアン・フレミング・スティール・ダガー賞(広義のスリラー小説が対象)の最終候補にも残っているが、ほかの最終候補者はドン・ウィンズロウ、リー・チャイルド、ダニエル・シルヴァ、ミック・ヘロンという錚々たる面々である。いまだ邦訳のないエイドリアン・マッキンティーも、ぜひとも邦訳を期待したいところである。

 

 

 英訳占星術殺人事件(2004年版)はエイドリアン・マッキンティーの寄稿が『ガーディアン』紙に掲載される以前からすでに新刊では入手不能の状態となっており、英米のAmazonで古書に高値がつくなどしていた。せっかく英国の大手紙で紹介されても簡単には手に入らない状態だったわけである。それが、その約1年半後に新叢書《プーシキン・ヴァーティゴ》の1冊として英訳改訂版(訳者は同じ)が刊行され、容易に入手できるようになったのは幸いなことであった。なお、島田荘司作品の英訳はほかに米国『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』に掲載された「Pの密室」(2013年8月号)と「発狂する重役」(2015年8月号)がある。

 プーシキン占星術殺人事件(御手洗潔シリーズ第1作)は売れ行きも好調だそうで、今後同叢書から御手洗潔シリーズ第2作『斜め屋敷の犯罪』が出る可能性もあるそうだ。その実現と、島田荘司作品のさらなる英訳に期待したい。

 島田荘司プーシキン占星術殺人事件のプロモーションもかねて、今年(2016年)2月末にイギリスを訪れている。27日にはロンドンで中村文則とトークショー、28日にはバースで吉田恭子(英語で小説を書く日本人作家/立命館大学文学部教授)とトークショー、29日にはリーズで再度中村文則とトークショー。島田荘司中村文則というと、広大なミステリーというジャンルの中でも対極にいるような作家に思えてしまうが、脳科学などの共通の興味もあってか意気投合したそうで、帰国後にも2人で対談イベントを開催したりしている(2016年7月10日、広島県福山市にて)。中村文則の英語圏での受容状況については連載第2回を参照のこと。

 

 

Disorientalism

Disorientalism

 

 プーシキン占星術殺人事件は2015年9月に刊行されているが、残念なことに今年の英国推理作家協会賞の審査の対象になっていない。連載第1回でも書いたが、英国推理作家協会賞は期間内にイギリスで英語で出版された作品で、なおかつ出版社がエントリーをした作品のみが審査対象となる。プーシキン社はもともとミステリー系の出版社ではない。そのため編集者が英国推理作家協会賞の仕組みを知らなかったのか、あるいは賞に興味がなかったのか、それとも何かほかに理由があるのか――その辺りは分からないが、《プーシキン・ヴァーティゴ》の作品は今年の英国推理作家協会賞にエントリーされていないのである。仮にエントリーされていたとしてどうなっていたかは分からないが、審査の対象にすらなっていないというのは誠に残念なことである。

 

 さて、最初に書いたとおり、プーシキン・ヴァーティゴ》は2015年9月の創刊から現在までの約1年間で14冊が刊行されている。日本の作品は今のところ占星術殺人事件だけである。そのほかの作品を言語圏(or国・地域)、作家別にまとめておく。

 

 

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のドイツ語圏作品

 

Master of the Day of Judgment (English Edition)

Master of the Day of Judgment (English Edition)

最後の審判の巨匠 (晶文社ミステリ)

最後の審判の巨匠 (晶文社ミステリ)

Little Apple (English Edition)

Little Apple (English Edition)

Saint Peter's Snow

Saint Peter's Snow

聖ペテロの雪

聖ペテロの雪

 

  • レオ・ペルッツ(1882-1957)
    • 『最後の審判の巨匠』(1923年)
    • 『Little Apple』(未邦訳/独原題『Wohin rollst du, Äpfelchen...』、1928年)
    • 『聖ペテロの雪』(1933年)
  • アレクサンダー・レルネット=ホレーニア(1897-1976)
    • 『I Was Jack Mortimer』(1933年)※60年ほど前に邦訳が雑誌掲載されている

 

 ドイツ語圏からは1920年代〜1930年代の作品が採られている。

 創刊ラインナップ4作のうちの1作、レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』江戸川乱歩がデビューしたのと同じ1923年の作品で、幻想小説味が濃厚ながら、扱われるのは密室内での変死事件という異色作。ペルッツの作品は近年、垂野創一郎氏が精力的に邦訳に取り組んでいる。未邦訳の『Little Apple』『最後の審判の巨匠』の訳者あとがきで垂野氏が『どこに転がっていくの、林檎ちゃん』というタイトルで紹介している作品。

 アレクサンダー・レルネット=ホレーニアの『I Was Jack Mortimer』(独原題『Ich war Jack Mortimer』)は『探偵倶楽部』1954年1月号に「姿なき殺人者」のタイトルで訳載されている(伊東B析彩、著者名表記「アレキサンダー・レルネット=ホレニア」)。走行中のタクシー内で客がいつの間にか撃ち殺されているという謎を扱った作品である。レルネット=ホレーニアはほかにもいくつか邦訳があり、最近では「夢想と論理が織りなす、世の終わりのための探偵小説」「反ミステリの金字塔」という惹句で「奇書」好きの耳目を集めた『両シチリア連隊』(原著1942年)が邦訳されている。これも垂野氏による翻訳である。

 

夜毎に石の橋の下で

夜毎に石の橋の下で

ボリバル侯爵

ボリバル侯爵

 

 レオ・ペルッツもアレクサンダー・レルネット=ホレーニアもオーストリアの作家。ドイツ語圏の古典ミステリーの話題になるとドイツの作家は影が薄くなりがちで、たとえば日本でそれなりに知名度のあるドイツ語圏の古典ミステリー作家というとフリードリヒ・グラウザー(1896-1938)やフリードリヒ・デュレンマット(1921-1990)、バルドゥイン・グロラー(1848-1916)が挙げられると思うが、それぞれスイス、スイス、オーストリアの作家である(デュレンマットは戦後の作家)。ドイツの古典ミステリー作家としては、ジョー・ジェンキンズ・シリーズで知られるパウル・ローゼンハイン(1877-1929)や『妖女ドレッテ』で知られるワルター・ハーリヒ(1888-1931)がいる。2人とも戦前に邦訳されて人気を博したが、現代の日本ではほぼ忘れ去られてしまっているといっていいのではないだろうか。新訳や再評価が望まれるところである。

 

 

 

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のフランス作品

 

Vertigo (Pushkin Vertigo) (English Edition)

Vertigo (Pushkin Vertigo) (English Edition)

めまい

めまい

Bird in a Cage (English Edition)

Bird in a Cage (English Edition)

Crush (Pushkin Vertigo)

Crush (Pushkin Vertigo)

The Executioner Weeps (Pushkin Vertigo)

The Executioner Weeps (Pushkin Vertigo)

 

  • ボアロー&ナルスジャック(1906-1989/1908-1998)
    • 『めまい』(別題『死者の中から』、1954年)
    • 『悪魔のような女』(1952年)
  • フレデリック・ダール(1921-2000)
    • 『Bird in a Cage』(未邦訳/仏原題『Le Monte-charge』、1961年)
    • 『悪者は地獄へ行け』(仏原題『Les salauds vont en enfer』、1956年)
    • 『Crush』(未邦訳/仏原題『Les scélérats』、1959年)【近刊】
    • 『甦える旋律』(仏原題『Le bourreau pleure』、1956年)【近刊】

 

 フランスの作家ではボアロー&ナルスジャックとフレデリック・ダールの作品が入っている。創刊ラインナップの1冊であるボアロー&ナルスジャック『Vertigo』(めまい)がおそらくは叢書名の由来となっているのだろう。日本では、コンビ結成前のピエール・ボアロー単独でのデビュー作『震える石』(仏原題『La pierre qui tremble』、1934年)が2016年内に本邦初訳予定(論創社の書籍紹介ページ)。

 フレデリック・ダールは現在までに『Bird in a Cage』『悪者は地獄へ行け』が刊行されており、今後もフランス推理小説大賞受賞作『甦える旋律』などが刊行予定である。

 ところで、ここまで読んでくださった方は《プーシキン・ヴァーティゴ》のダール作品の装幀がほかと異なっていることにお気づきだろう。これはダールの作品だけが特別扱いされているわけではなく、《プーシキン・ヴァーティゴ》のデザイン自体が2016年5月以降の刊行作品で一新されているのである。やはりタイトルや著者名が分かりづらいという声が多かったのだろうか。

 

 

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のイタリア作品

 

 

 イタリアの作品は、創刊ラインナップの1冊であるピエロ・キアラ(1913-1986)の『ジュリア夫人の失踪』(未邦訳/イタリア語原題『I giovedì della signora Giulia』、1970年)のほか、以下の3冊が叢書に入っている(近刊分も含む)。説明の便宜上、(1)〜(3)の通し番号を仮に振っておく。いずれも邦訳はない。

 

The Mystery of the Three Orchids (Pushkin Vertigo)

The Mystery of the Three Orchids (Pushkin Vertigo)

 

  • アウグスト・デ・アンジェリス(1888-1944)
    • (1)『The Murdered Banker』Il Banchiere assassinato (1935)
    • (2)『The Hotel of the Three Roses』L'Albergo delle Tre Rose (1936)
    • (3)『The Mystery of the Three Orchids』Il Mistero delle Tre Orchidee (1942)【近刊】

 

 アウグスト・デ・アンジェリス(Augusto De Angelis)はイタリア古典探偵小説の時代を代表する作家のうちの一人。上記の3作品はどれもカルロ・デ・ヴィンチェンツィ警部を探偵役とするシリーズの作品であり、(1)の『殺害された銀行家』(仮)はデ・アンジェリスの最初のミステリー長編である。

 3作品のうち(3)は今から約70年前に『三つの蘭花』のタイトルで邦訳出版が予告されたことがある。《現代欧米探偵小説傑作選集》(オリエント書房、1947年、全30巻予定)の1冊として刊行される予定だったのである。しかしこの選集は第1巻のカルロ・アンダーセン(デンマーク)『遺書の誓ひ』(吉良運平訳、1947年1月)のみで中絶してしまい、出版は実現しなかった。

 また、(2)と(3)はイタリアミステリーを多数訳している翻訳家の千種堅氏が1960年代半ば頃に邦訳しているが、残念ながら世に出ていない(「イタリアの推理小説(ジャッロ)」、早川書房『世界ミステリ全集』第12巻付属 月報11、1972年)。千種氏は(2)を『ホテル《三つのバラ》』、(3)を『三つの蘭のミステリー』としている。現在でもその翻訳原稿は残っているのだろうか。千種氏はアウグスト・デ・アンジェリスの作品について、「エンタテイメントのお手本のようなスリリングな筋立てと、そして何よりも文章のよさがきわ立っていて、推理小説の枠をこえ、一般的な娯楽読物としても水準をぬいた出来栄え」と評しており(ルドヴィコ・デンティーチェ『夜の刑事』ハヤカワ・ミステリ、1970年 訳者あとがき)、出版されなかったのが不思議なぐらいである。今からでも、どこかの出版社から刊行されないものだろうか。

 

 関連文献として入手が難しいものを挙げるのは心苦しいのだが、アウグスト・デ・アンジェリスについては「非英語圏ミステリー賞あ・ら・かると」連載時に紹介した加瀬義雄氏の『失われたミステリ史 増補版』(盛林堂ミステリアス文庫、2014年)に詳しい紹介がある。同書には(2)のレビューも収録されている(初出はミステリー研究同人誌『ROM』126号、2006年)。また(1)と(3)は『ROM』135号(2010年)につずみ綾氏によるレビューがある。

 

 イタリア古典探偵小説の時代を代表する作家としてはほかにジョルジョ・シェルバネンコ(1911-1969)らがいる。アウグスト・デ・アンジェリスがファシストによる暴行で1944年に非業の死を遂げた一方、シェルバネンコは1943年からスイスに逃れ、終戦後はイタリアに戻って再度小説家として活躍した。元医師で警官のドゥーカ・ランベルティを主人公にした長編シリーズ4作(1966年〜1969年)が彼の代表作で、そのうちシリーズ第1作『傷ついた女神』、第2作『裏切者』、第3作『虐殺の少年たち』が邦訳されている。第2作『裏切者』はフランス推理小説大賞を受賞したこともあってか1972年にいち早く邦訳されたが(千種堅訳、早川書房『世界ミステリ全集』第12巻に収録)、このシリーズはシリーズを通した登場人物が出てくるので、『裏切者』だけを読んでも意味が分からない箇所があった。《論創海外ミステリ》が近年、シリーズ第1作(と第3作)を出版してくれたのはありがたいことである。第4作『ミラネーゼは土曜に殺す』もぜひ出版していただきたいところである。

 

 

 

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》の中南米の作品

 

Death Going Down (Pushkin Vertigo)

Death Going Down (Pushkin Vertigo)

 

  • マリア・アンヘリカ・ボスコ(アルゼンチン)(1909-2006)
    • 『Death Going Down』La muerte baja en el ascensor (1955)【近刊】

 

 マリア・アンヘリカ・ボスコ(María Angélica Bosco)は日本ではまったく知られていない作家だが、プーシキン社の著者紹介ページによれば「アルゼンチンのアガサ・クリスティーとして知られているのだとか(表紙にもそう書かれている)。『Death Going Down』は彼女の最初の長編小説。

 アルゼンチンのホルヘ・ルイス・ボルヘスがペルッツの『最後の審判の巨匠』に惚れ込み、アドルフォ・ビオイ=カサーレスとともに監修を務めたミステリー叢書《第七圏》(El Séptimo Círculo、1945年〜1983年、全366巻)にこの作品を加えたことはペルッツファンならご存じかと思う。ミステリー叢書《第七圏》は英米のミステリーがほとんどだが、ビオイ=カサーレスとその妻シルビーナ・オカンポの共著『愛するものは憎む』(未邦訳/スペイン語原題『Los que aman, odian』、1946年)やマヌエル・ペイロウ『薔薇の雷鳴』(未邦訳/スペイン語原題『El estruendo de las rosas』、1948年)など、アルゼンチンの国産ミステリーもいくつか収録されている。《プーシキン・ヴァーティゴ》に入った『Death Going Down』も《第七圏》で刊行された数少ないアルゼンチン作品の1つである。

 

※アドルフォ・ビオイ=カサーレス&シルビーナ・オカンポ『愛するものは憎む』は『ミステリマガジン』2010年12月号に垂野氏によるレビューが掲載されている。

 

 ところで、《第七圏》の刊行リストを見ていたら、ピエロ・キアラ『ジュリア夫人の失踪』が入っていることに気がついた。今のところ《プーシキン・ヴァーティゴ》と《第七圏》の共通作品は『最後の審判の巨匠』『ジュリア夫人の失踪』、そして『Death Going Down』の3作だけだが、《プーシキン・ヴァーティゴ》の編集者が世界中から作品を選定するにあたって、《第七圏》のラインナップを参考にした可能性はあるかもしれない。

 

※マリア・アンヘリカ・ボスコの生年は、最晩年のインタビューや死去を報じるオンライン記事で1909年とされている。「こちらの記事」(スペイン語)によると、1954年に『Death Going Down』が出版社主催の賞を受賞して《第七圏》で出版されることになったときから、「1917年生まれ」と生年を偽っていたそうである。それがまだ尾を引いているようで、プーシキン社の著者紹介ページでも、2004年に刊行された『Latin American Mystery Writers: An A-to-Z Guide』でも、生年は1917年とされている。

 

 

 

◆《プーシキン・ヴァーティゴ》のその他の作品

 

 《プーシキン・ヴァーティゴ》の創刊前、出版社はこの叢書について、1920年代から1970年代の世界の古典的ミステリーに焦点をあてた叢書だと紹介していたが、現代の作品も今までに2作品刊行されている。(占星術殺人事件も1981年発表の作品であり、年代が少しずれてはいるのだが)

 

You Were Never Really Here (Film Tie-in)

You Were Never Really Here (Film Tie-in)

 

 『Clinch』(2016年5月刊)はスウェーデンの作家、Martin Holmén(1974- )が2015年にスウェーデン語で発表した最初の長編を英訳したもの。全3部作の予定。

 『You Were Never Really Here』(2016年7月刊)はアメリカの作家、ジョナサン・エイムズ(Jonathan Ames、1964- )の作品。《プーシキン・ヴァーティゴ》で現在のところ唯一の非翻訳作品である。2013年にKindleで出版されていた短編を紙の書籍化したもののようだが、加筆・改稿などがあるのかどうかは分からない。Amazonのデータによると96ページしかない本のようである(プーシキン占星術殺人事件は320ページ)。

 

 

◆次回予告、「Locked Room International」

 

 プーシキン占星術殺人事件がおそらく編集者の目に留まったのだろう。今月(2016年8月)末にブルガリアで、ブルガリア語版占星術殺人事件が発売の予定である。「日本語が読める編集者」は東アジアを除けば極めて稀だと思われるが、「英語が読める編集者」は世界中にいる。ことさら「英訳」のみを称揚するのはあまり好きではないが、やはり英訳されることが、さらなる世界への翻訳の道を開いてくれるのは確かなことだろう。

 今までに占星術殺人事件は私の知る限りで英語、フランス語、中国語(簡体字・繁体字)、韓国語、タイ語、インドネシア語、ベトナム語に翻訳されている。そこに8つ目の言語としてブルガリア語が近く加わることになる。

 

 

 ところで、英訳占星術殺人事件の改訂版はもともとはアメリカの小出版社「Locked Room International」(以下、LRI社)から刊行される予定だった。ちょうどその準備をしていたところにイギリスのプーシキン社から声が掛かり、占星術殺人事件は《プーシキン・ヴァーティゴ》の創刊ラインナップに加わることになったのである。その経緯については『本格ミステリー・ワールド2016』(南雲堂、2015年12月)の巻頭言、島田荘司「「HONKAKU」船出の時」で詳しく語られている。

 

本格ミステリー・ワールド2016

本格ミステリー・ワールド2016

 

 LRI社はその名のとおり密室・不可能犯罪物の刊行に特化した出版社で、元々はフランスのポール・アルテの作品を英訳出版していたが、最近ではアジアにまで目を向け、綾辻行人十角館の殺人有栖川有栖『孤島パズル』の英訳版なども出版している。

 

The Decagon House Murders

The Decagon House Murders

 

 アジアの作品ではほかに、台湾の林斯諺(りん しげん、Szu-Yen Lin、1983- )の長編の英訳もLRI社から出版の予定である。この作家は2004年の台湾推理作家協会賞を受賞した短編「バドミントンコートの亡霊」が邦訳されている。ちなみに、同回の最終候補作である冷言(れい げん、1979- )の短編「風に吹かれた死体」も邦訳がある。この2人の作家はどちらも、台湾で実施されている島田荘司推理小説賞(長編の公募賞)の最終候補にもなったことがある実力派である。

 

風に吹かれた死体

風に吹かれた死体

 

 本当は「Locked Room International」についても今回扱うつもりだったのだが、プーシキン・ヴァーティゴ》についてだけでかなりの分量になってしまったので、LRI社の紹介は次回とさせていただく。というわけで、〈日本ミステリー英語圏進出の「その後」(4)〉に続く。

  

松川 良宏(まつかわ よしひろ)

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 アジアミステリ研究家。『ハヤカワミステリマガジン』2012年2月号(アジアミステリ特集号)に「東アジア推理小説の日本における受容史」寄稿。論創ミステリ叢書『金来成探偵小説選』(2014年6月)解題執筆。ほかに「日本作家の英米進出の夢と『EQMM』誌」(『本格ミステリー・ワールド2015』)、「日本作家の英米進出の現状と「HONKAKU」」(『同2016』)。マイナーな国・地域の推理小説をよりメジャーな世界へと広めていくのが当面の目標。

 

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