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2013-02-07

#11 『忙しい蜜月旅行』


 いよいよここまで来た。ほぼ一年かけてなんとか続いてきたピーター卿シリーズ再読、今回は最終作『忙しい蜜月旅行』ハヤカワ・ポケット・ミステリ、深井淳訳、1937)である。

 なおハヤカワには新訳による文庫版(松下祥子訳 ハヤカワ文庫HM305-1)も存在するが、個人的な好みからあえて旧訳のポケミス版を使うことをお断りしておく。



 まずはいつものように、ストーリーの概略から。

 ハリエットとの長年の恋を実らせ、ついに華燭の典をあげたピーター。うるさい新聞記者や小姑の干渉を避けて、二人はハリエットの故郷の近くにあるトールボイズという古い屋敷でハネムーンを過ごすことにする。

 しかしそこで二人が見つけたのは、屋敷の前の持ち主、ノークスの死体だった。彼は何者かに鈍器で頭を殴られ、地下室の階段の下に倒れていたのだ。運の悪いことに、屋敷についたときにはノークスの死を知らなかったピーターとハリエットたちは屋敷を掃除してしまっており、証拠を見つけるのはまず不可能。蜜月を楽しむために来たはずが、二人はまたもや、殺人事件の渦中にまきこまれることになる。


◆ 戯曲仕立てとコメディと

 セイヤーズ自身の手による感謝の辞にも述べられているが、この『忙しい蜜月旅行』は、もともと戯曲作品として、友人と二人で共同執筆されたものを、セイヤーズがさらに小説作品として書き直したものである。

 戯曲版のほうは未読なので推測するしかないのだが、確かに、全体的にこの作品には舞台劇的な道具立てや会話が目立つ。特にトールボイズ屋敷を舞台にした一連の場面、煙突掃除に来たパフェット氏の描写や、屋敷の居間に入れ替わり立ち替わり人がやってきて会話する運び、後半でオールド・ミスのトウィッタトン嬢の孤独と、ピーターとハリエット夫妻の幸福を二階と一階で対比して見せるところなど、実に舞台的である。

 多少のネタバレになるかもしれないが(気になる人は以下二段落ほど飛ばしてください)、ここで使用されるトリックもまた、実に舞台でやれば映えそうな機械的・物理的トリックである。『本陣殺人事件』とまではいかなくとも、ひとたびスイッチになるものを動かせば、その場にいなくても自動的に作動する機構が相手を殺すシステム。もちろんセイヤーズは周到に複線を引いてはいるが、描かれている犯人の性格からするに、はたしてこんな男がそんな緻密な計算をしてこの大がかりな道具を組み立てるものかしら、とちょっと疑問に思わないでもない。

 そもそもセイヤーズはあまり大仰なトリックを使わない作家で、ちょっとした齟齬や食い違い、すれ違いが重なって謎を構成するミステリが得意である。そのセイヤーズがあえてこのようなトリックを採用したということは、やはり、「舞台において見栄えがすること」を優先したのかもしれない。大仕掛けのトリックは、ピーターによって再演されたとき、きわめて効果的なクライマックスと、カタルシスを同時に演出する。一度、戯曲版をどこかで上演してくれないものかしら、と思うが、それはさておき。


 物語自体も、副題に─推理によって中断される恋愛小説─とあるとおり、新婚のピーターとハリエットのハネムーンに殺人などという異物が闖入してきたおかげで起こるどたばたを、コメディタッチに描いたもの、のように、少なくとも読める。

 まあ確かに、おそらく戯曲版に沿ったのであろう、と思われる部分はたいへん軽くて愉快で(戯曲版をなんとか読んでおくべきだったのだが、間に合わなくて申し訳ない)、ピーターもハリエットも新婚の幸福にすっかりひたっているように見える。またもや殺人にまきこまれたことを心配するハリエットとピーターの会話がありはするが、深くつっこまれるわけではない。事件のほとんどはトールボイズ屋敷で進行し、謎解きのクライマックスはその居間で起こる。脳裏にヴィクトリア朝の屋敷のセットと俳優たちを配置すれば、見事に決まるラストシーンである。


◆ ピーターのための最後の試練

 だが、セイヤーズはただ戯曲をノヴェライズしただけでは終わらない作家である。

 前作『学寮祭の夜』で、ハリエットはついに自分自身のピーターへの恋心を受け入れ、かたくなな自分とコンプレックスを克服した。

 しかし、ここにまだ問題がひとつある。

 それでは、ピーターのほうはどうなのだろう?


 ハリエットとの恋によって、ピーターは変わった。これまでの道化の仮面を捨て、人間であることを身につけ始めた。伯父のデラガルディー氏も、「見せるほどの感情があることを以前ほど恐れなくなりました」と述べている。

 しかし、前作『学寮祭の夜』がハリエットの視点で書かれていたために、実際のところ、ピーターの内面がどこまで変化し、彼が何を感じているのかは、外側に現れた言動からしか読みとれなかった。

 今回、セイヤーズは戯曲版を小説化するにあたって、舞台にのせられた事件部分の前後(特に事件後)を大幅に書き込み、そこにおいてピーターが自分の内に築いていた最後の壁をハリエットの前で脱ぎ捨てるさままでを描ききっている。むしろ、事件そのものより私にとってはその部分こそがこの作品においての読みどころであり、「ピーター・ウィムジイ」がついに本当の人間となったことを象徴するラストシーンは、今後の二人の関係も思わせて、いたましいながらも感動的である。


 思えば、ピーターの今回の事件への関わり方もいつもとは違っている。いつもはピーターは「自分から」好んで事件に首をつっこんでいくのであり(身内が死刑台に上がりそうになった『雲なす証言』はおくとしても)、平穏に過ごしたかったハネムーンの最中に、迷惑にもいきなり殺人事件に遭遇してしまう『忙しい蜜月旅行』は、そもそもピーターの事件へのスタンスからしていささか違っている。

 しかも、今回はピーターはひとりではない。ハリエットがそばにいる。これまで一人でなんでも勝手にやることに慣れてきたピーターは、ついいつものくせで事件に手を出し、心配するハリエットと幾度かぶつかる羽目になる。


「必要はないさ。しかし結局手をつけることになると思う。殺人事件はアルコールと同じように僕の頭に上ってくる。それを止めようとしてもだめなんだ」

「今の場合でも? あの警察の人たちは別にあなたのお手伝いを期待してはいませんわ。御自分の生活をする権利があるときだってあります」


 この時のハリエットはあまり言い争うことなく、「そうですわ、ピーター。おやりなさい。わたしはちょっと女の愚痴がでたの」といったん退いている。この時まだ彼女は自分の理性と感情を一致させることができずにおり、ピーターにも強いことが言えなかったと見える。

 だがのちになって状況は一変する。ある愛すべき人物に強い疑いがかかったとき、ハリエットは思わず「死んだ人は、死んだ人です。生きている人のことを思ってあげなくては」と口にする。だがピーターの返答は冷たい。「真実は捉えなくてはならない。他のことは問題ではないのだ」

 しかしそのピーターの冷酷さもハリエットの動揺の前に崩れ去る。


「ああ、君、そんなに心配しないで、君の言うとおりにする。こんなみじめな仕事は放り出して、もう関係しないことにしよう」

「あなた本気でそう仰言るの」彼女はまだ半信半疑だ。

「本気だとも。はっきりいう」

 ピーターの声は打ちひしがれた男の声だった。自分のやったことの結果を見て、ハリエットは愕然とした。

「ピーター、あなた頭がどうかしてしまったのよ。そんなこと嘘にもいうものじゃありません、結婚の持つ意味は色々あるでしょうけれど、決してそんなものではないわ(中略)

 わたしと結婚したために、仮にあなたが以前よりもあなたらしくなくなったとしたら、これから先のわたし達の生活はどんなものになるかしら」


 この一連のやりとりは『学寮祭の夜』で、多声音楽の比喩を借りて匂わされた二人のあるべき関係を、はっきりと口に出して表現したものだといえる。


「規律のあるのはバンターだけかと思っていたら、そうでもないんだな。君は自分で正しいと感じたことは、どこまでもやり通さなくてはならない。そうすると約束しておくれ。僕がそれをどう思おうと問題じゃあない。そうやってもきっと意見の違いは生れないと、僕は断言するよ」

 彼女の手を取って、荘重にキスした。

「ありがとう、ハリエット。僕たちの愛は名誉も伴っている愛だね」


 この一連の会話によって、『学寮祭の夜』で提示された二人の「結ばれつつも完全に独立し、かつ対等である二人の関係」がもう一度はっきりと示される。

 ピーターは『学寮祭の夜』でハリエットへの手紙に、「いったん取り組んだ以上は、不快であろうが危険であろうが引き返さないのがあなたです。またそうでなくてはなりません」と書いたが、いざ結婚し、目の前でハリエットの動揺を見せつけられると、思わず感情に流されて、自分の意志を枉げようとする。しかしハリエットはその間違いに気づいて愕然とし、きっぱりとその過ちを正すのである。


 そして物語の最後の最後、いよいよ犯人の死刑が近づいてくる日々が、「人間ピーター・ウィムジイ」誕生のための、最後の試練となる。

 人当たりのよいピーターだが、バンター(と母の前公爵夫人)以外の誰かに心を開くことは実はほとんどない。事件のあと、いつもシェルショックの再発に苦しみ、神経症の発作に襲われては猛然と車を走らせたり、外国へ飛び出していってしまったりするピーター。それはシリーズ当初から示されていたピーターの繊細な心が持つ、「趣味としての推理の興奮」と、「自分の手でひとりの人間を死刑台に送ることになる罪悪感」との、相反する気持ちの衝突から来る。

 だが、いままで、忠実なバンター以外の人間にそれを見せることはなかったし、愛するハリエットにさえ、気分が悪いと謝る程度で、けっして自分の弱い部分を見せようとはしなかった。

 だが、ふたつの対等な心がほんとうに対等であろうとするなら、その弱い部分をも含めて見つめて受け入れ、愛し、愛されなくてはならない。ピーターはいまだに自分の真の気持ちを他人に見せることを──たとえハリエットにでさえも──怖れている。ピーターが最後に越えなくてはならないのはこの怖れ、自分の弱さを他人に見せたくないという、ここまで来ても強固に守りつづけてきた、最後の壁の一枚である。

 この問題はピーターひとりのものであり、ハリエットはただ彼が自分から壁を踏み越えて自分のところへきてくれるのを待つしかない。もし彼女が手を出せば、二人の間に築かれたもろい均衡は崩れ去り、ピーターの壁は永遠にそのままになるだろう。

 犯人の死刑の前夜、帰ってきたピーターを、ただひたすらにハリエットは待つ。


 わたしの方から行ってはいけない、彼の方からこちらへ来なければ。もし彼が、わたしを必要としなければ、わたしは失敗したのだ、この失敗は二人の一生について回るだろう。しかし、この決断の一歩は彼のとるべきもので、わたしの方からとるものではない。わたしはただそれを受けることしかできないのだ。辛抱しなくてはならない。どんな事がおころうと、わたしの方から行ってはいけない。


 そしてついにピーターはやってくる。ためらいながら、だが自分の意志で。


「君にもひどい迷惑をかけたね。すまない。馬鹿ないい方だが、僕は忘れていたんだ。何しろ今までずっと一人きりでくらしていたので」

「そうね。わたしも同じようなものだわ。わたしは這い出してどこかの片隅に隠れたいの」

「そうだ」一時彼本来の輝きをとりもどして、「君は僕の入る片隅だよ。僕は隠れに来たのだ」

「さあ、どうぞ」

(中略)

 まったく突然に、彼が叫ぶ。「ああ、駄目だ」そして泣き始めた──はじめはおかしな馴れない調子で、それからもっとすらすらと。ハリエットは膝のところにうずくまった彼を胸にしっかり抱きしめてやった。頭を両腕でかかえ込んで、時計が八時を打つのが聞えないように。


 これまでピーターはけっして自分の傷ついた心の内を誰かと分かち合うことはなかった。もはや彼の一部ともいえるバンターは別としても(そもそも彼がもっとも酷い状態にあったときにやってきたのがバンターなのだから──その逸話はこの作品内で語られているが──今さら隠す必要もないというものだ)、そのバンターの前でさえ、涙を見せることはけっしてしなかっただろう。

 しかし今、彼は傷ついた心を抱きしめてくれる相手を見つけた。「僕の入る片隅」を見つけ、そこに入って泣くことを覚えたのだ。

 強さと弱さをあわせ持ち、揺れ動く繊細な感情と知性、そして涙を流すことのできる心──そのすべてをためらいなくさらせる相手。ここについにピーターとハリエットの恋は本当の意味で成就し、互いは互いを真の意味で抱きしめあうことができたのだと思う。

 それはピーター卿という「お人形」から最後のおがくずの一粒が叩き出された瞬間であり、「人間ピーター・ウィムジィ」が、ついにしっかりと両脚で立った瞬間でもあるのだ。


◆ 最後にひとつだけ、おまけを

 最終回ということで、ちょっとだけ、どうでもいいようなおまけを。

 最終章で母前公爵夫人がいるダワー・ハウスへやってきたハリエットが、前公爵夫人といっしょに陶器を眺めているシーンがある。


「この絵はセアラ・ウィムジーが描いているのよ。(中略)この頃は白の素焼きのまま素人で絵の好きな人に売って、絵を描いてから工場へ戻して釉をかけて焼いたのです」


 と前公爵夫人が説明しているのだが、シャーロット・マクラウド『下宿人が死んでいく』には、謎の下宿人のあとをつける主人公セーラ(!)は、その途中でふと陶器工房に立ち寄り、前公爵夫人の口にしているような、素焼きの陶器と絵付けの道具を買っているのである。この買い物は別に後の話に関係してくるわけでもなく、まったくのお遊びエピソードとして挿入されたとおぼしい。

 マクラウドはセイヤーズの評伝も書いており、セイヤーズ・ファンなのは確実。個人的にミステリ界でいちばん可愛いヒロインであると思っているセーラが、もしかしてこういうところから出てきたのかしらと考えると、とても楽しい。先年亡くなったマクラウド(アリサ・クレイグ名義もあり)だが、コージーなユーモア・ミステリ好きには、たいへんおすすめしておく次第である。


 それではやっと完走したセイヤーズとピーター卿の読解、お付き合いありがとうございました。またいつか、なにかで出てきましたら、覗いてみてやってください。


五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

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 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

 

〔著作〕

パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナーハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。

 

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金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件 (角川文庫)

金田一耕助ファイル2 本陣殺人事件 (角川文庫)

学寮祭の夜 (創元推理文庫)

学寮祭の夜 (創元推理文庫)

2012-12-27

#10『学寮祭の夜』


 大作『ナイン・テイラーズ』を経て、ピーター卿シリーズもあと二作を残すばかり。(創元推理文庫版ではラストである)この『学寮祭の夜』創元推理文庫浅羽莢子訳、1935)で、いよいよピーターとハリエットの関係はひとつの山場をこえる。

 とにかくまずは、いつものように作品の紹介から。


学寮祭の夜 (創元推理文庫)

学寮祭の夜 (創元推理文庫)

『死体をどうぞ』事件ののち、長い旅行に出たあと、引っ越しをして新居に移ったハリエット。だがそんなハリエットのもとに、かつての友人から、母校オクスフォード大学シュローズベリ学寮においての学寮祭への招きが送られてくる。病気を抱えた友人の懇願に負ける形で出かけたハリエットは、しばし懐かしい人々と出会い、自分の仕事についてあらためて考えることとなる。

 ロンドンに戻ったハリエットは精力的に仕事をこなすが、シュローズベリ学寮での出来事がしばしば頭を悩ませ、なんとか関係を断とうと努力しているはずのピーターとも、言い出す機会が持てないままにずるずると日々が過ぎていってしまう。

 だが、冬の初め、シュローズベリ学寮からもたらされた緊急信号によって、ハリエットは事件の渦中におぼつかない探偵役として足を踏み入れることになる。シュローズベリ学寮に口汚い手紙や落書きを残す何者かが存在しており、その行動を阻止するために、恩師たちから探偵作家であるハリエットに助けが求められたのだ。

 こんな時に必要なピーターは、なにやら事件が起きたのか、外国へ行ってしまっている。ほかにとる手段もなく、愛する母校のために、ハリエットは急遽シュローズベリに戻り、暴れ回る姿なき犯人を阻止するために奔走することとなるのだが……


◆「ピーター卿小伝」に見る、生身の人間ピーター


 ハヤカワのポケミス版『忙しい蜜月旅行』の冒頭にも収録されている、「ピーター・ウィムジイ卿小伝」(ピーターの伯父ポール・オースティン・デラガルディーの手記という形を取った、誕生時からこれまでに至るピーターの伝記)が、原典ではどちらの巻に付されているものなのか恥ずかしながら私は知らない。

 しかし、推測ではこちら、『学寮祭の夜』の冒頭に置くほうがふさわしく、物語の構成にも叶っていると考える。ポケミス版はシリーズから独立した形で一冊だけ訳出されており、探偵役である「ピーター・ウィムジイ」とヒロイン「ハリエット」が、どのような人物で、どういう経緯をたどって結婚したか、を簡単に紹介するためにこの部分が取りだされて最初に置かれた、と見てよいと思う。

 それは今巻の、横井司氏による解説にも指摘されている。『ピーターを、肉体を持った一個の人間として描写し直すこと』を目的にして、これまでの彼の人間としての生育歴を問い直す必要があったのはこちら、『学寮祭の夜』のほうと見られるからである。

 ハリエット登場の「毒を食らわば」でごく軽く口にされていた「バーバラという女性への失恋」が、この伯父の手による小伝では、若いピーターにとって「戦死を念じて」戦場に戻るほどの深い傷であったことが明かされる。戻った戦場でピーターは爆弾をくらって塹壕に生き埋めになり、それが原因で(一巻からすでに言及のあった)重度のシェルショックに陥る。しかし、もと軍曹であったバンターの帰還と従僕としての献身的な務めで、少しずつ回復を見、おなじみのピカデリーのフラットに居を構えるようになる。


 この「ピーター卿小伝」のもう一つの役割は、あまりにも大きな乖離となってしまったシリーズ前半の「喜劇役者ピーター」と、後半の、人間としての厚みと内面を備え始めたピーターとの溝を埋める意図にもあるように思う。

 大戦直後のピーターについては、「気持ちのいい率直さがかけらもなくなり、母親と小生も含めた全ての人に心を閉ざし(中略)実際の話、完璧なまでの喜劇役者になってのけたのです」と断言される。これはまさに、『誰の死体?』で描き出された躁状態のような道化役者ピーターの姿である。

 伯父が見るに、軽薄を装いながらも人に心を閉ざし続けたピーターは、事件を解決するという知的な楽しみと、壁の奥に隠した繊細な心との間でいつも引き裂かれていた。しかし、『雲なす証言』で兄を絞首台から救ったことが彼の仕事に自信を与え、おかげで、「今は、自分の『趣味』が立派に社会の役に立つ仕事であることを認め、世事にも興味を持ちだし、外務省の要請下、ささやかな外交活動もときおり請け負っています(この一文が、ハリエットの勘違いといきなりこの巻で出てくる、「事件ではなく、外務省の仕事で海外へ行かされるピーター」の、読者への抗弁となっている)」という。

 老いたる遊び人であり、世間の裏も表も酸いも甘いも噛みつくした粋人である伯父は、この巻の軸となるハリエットとの恋愛関係についても、当時の男性としては実に先見的な意見を甥に伝えている。


 先方は結婚を拒みました。骨のある女性なら当然です。恩と卑屈な劣等感は結婚の基盤にはなり得ません。最初から立場に嘘があるのです。(中略)相手の娘は頭がよく、骨があり、正直です。ピーターが教えなくてはならないのは人の厚意を受けとることですが、与えることを学ぶより、こちらのほうがはるかに難物です(※そして、同じことはピーター自身にも言えることが、次作『忙しい蜜月旅行』で明らかになるのだが、それはまた次回──五代)。この場合、自由意志による同意以外の同意はあり得ないことは、ピーターも悟っています。


 全体的に見て、この「ピーター・ウィムジイ卿小伝」が、『学寮祭の夜』で、ピーターとハリエットが迎えるラストシーンへ続く道を整えるために書かれたものであるのは間違いない。自由意志による同意。言葉で言うことは簡単だが、ハリエットもピーターも、そこにたどり着くまでには、作中時間にして五年の年月と、シリーズ中最厚のこの『学寮祭の夜』を通しての彷徨が必要だったのである。


◆恋愛小説としての『学寮祭の夜』


 前置きについての話がいきなり長くなってしまった。本編についての話に移ろう。

 ピーター卿シリーズといいながら、この巻では、探偵役(というより、事件の渦中で証拠集めと犯人の追及に奔走し、また翻弄される)はずっとハリエットである。シリーズ探偵であるピーターが実際に事件に踏みいってくるのは、分厚い本のなかばもすぎたころ、700ページのうち400ページを超えたあたりでしかない。

 しかも事件はシュローズベリの人々のあいだで過ごすハリエットの日々や、あれこれの人間関係、何かのきっかけで噴出するピーターへの複雑な想いといった出来事のあいだを縫って起こり、しかも単なる怪文書やいたずらといった(一見)軽く見える事件の連続のため、これまで、抄訳でしか日本に紹介されなかったのは、確かに仕方のない面もあるかもしれない。探偵小説、名探偵が死体を前にトリックをあばき、快刀乱麻の推理を述べる「推理小説」を期待する向きには、確かに前半のシュローズベリの人々の群像や、恋と創作に悩むハリエットの独白など、長たらしいだけの退屈なものだろう。


 しかし白状すると、私にとって、『学寮祭の夜』は、この世で一番理想的な推理小説、かつ、恋愛小説なのである(ああ言ってしまった)。

 ハリエットが自分と同じく、小説を書く女性であることも思い入れのひとつとしてあるだろうが、感情に溺れることを自分に許さず、努めて理性的、実際的に、学究的な態度で事態の収拾に奔走するハリエットは、実に爽快で気持ちがいい。

 対するピーターも、ユーモアは失わないながらもふざけた態度は影をひそめ、これまでキャンディのようにぽんぽん投げだされてきた結婚の申し込みも、ラストシーンに至るまで(少なくとも面と向かっては)ただ一度も口にされない。

 だからこそ、二人がたどりつく抱擁シーンはそれは素敵で、いつか結婚を申し込まれるならこんなふうに言われてみたいなあ、などと、身の程知らずにうっとりしてしまうのである。ああ本当に、別に貴族でなくても金持ちでなくてもいいから(まあ今の日本でそれは無理だろうし)、どこかにピーターみたいな考えの人いないのかしらん。

 二人が選ぶ関係性、それは、バッハの多声音楽の隠喩をかりて示される。

 解説の横井司氏は、最終章でハリエットがバッハのヴァイオリン協奏曲を聴くピーターを観察する描写に触れ、


 多声音楽の二つの独立した旋律のそれぞれに、ピーター卿とハリエットが重ねられていて、(中略)二人の関係が、どちらかがどちらかに依存するのではなく、それぞれ独立した精神の持ち主として、ともに一つの音楽を(すなわち人生を)紡ぎだしていくことが合意されているのだ。 

(解説より)


 この隠喩はさらに、同じ場面でピーターとハリエットがバッハについてかわす会話でも補強されている。


「ピーター──あれはどういう意味だったの? 和声は人に任せる、自分たちには対位旋律があれば、と前に言ったのは」

「いや、あれは」ピーターはかぶりを振った。「多声音楽のほうが好きだという意味さ。他のことを意味していたと思うんだったら、何のことかもわかったはずだ」

「多声音楽の演奏は大変よ。ヴァイオリンが弾けるだけじゃだめ。音楽家である必要がある」

「この場合はヴァイオリン弾きが二人だ──どちらも音楽家で」

「わたしは音楽家としてはたいしたことなくてよ」

「(略)確かにバッハの曲は、独裁的な巨匠とおとなしい伴奏者の組み合わせでは無理だ。だがそのどちらにせよ、なりたいと思うかね?(後略)」


「音楽家」が「自立した一個の人間」を示し、「独裁的な巨匠とおとなしい伴奏者」が、これまでさんざん二人を苦しめてきた「金持ちの恩人と救われたあわれな女」という関係、「一方が絶対的にもう一方の上に立ち、下位の者は依存するしかない関係」と読めば、二人が真に話していることの内容は明らかだ。

 ピーターもハリエットも、音楽の話をしているふりをして、実は、自分たちの関係がどのようなものでありうるかについてこわごわと語り合っているのだ。ピーターの「他のことを意味していたと思うんだったら、何のことかもわかったはずだ」という一言は、本当に言いたいことの周囲をぐるぐる回りながら言い出さない相手に向かって、そっと差しだしたお手柔らかなひと突きである。

 それに対してハリエットは「多声音楽の演奏は大変よ。音楽家である必要がある」「わたしは音楽家としてはたいしたことなくてよ」としりごみするのだが、ピーターは「この場合はヴァイオリン弾きが二人だ──どちらも音楽家で」「(独裁者と伴奏者の)どちらにせよ、なりたいと思うかね?」ときっぱり否定する。

 このように、ピーターが求めているのは「自立した知性ある人間同士の対等な関係」である、という回答は、さまざまなエピソードや隠喩や台詞の形をとって全編にばらまかれている。ハリエットが書きかけた十四行詩に、ピーターが後半を補って新たな意味を持たせたエピソード。旅先からピーターがハリエットに送ってきた手紙の「いったん取り組んだ以上は、不快であろうが危険であろうが引き返さないのがあなたです。またそうでなくてはなりません」というくだり。まだ事件の起こらないころのピーターとハリエットの会話。鋭い眼を持つディ・ヴァイン女史の指摘。


「自分の戦は自分で戦いたい。わたし──わたし──ごろつきだろうが、匿名の手紙の主だろうが、そんなものにあなたを消されるなんて冗談じゃない!」

 いきなり座り直したため、ウィムジイの歓声は苦しげな唸りに変わってしまった。

「ああもう、絆創膏のやつめ! ……骨があるね、ハリエット。手を取らせてくれたまえ、倒れるまで一緒に闘おう」

(ピーター&ハリエット)


「でもあのかたはなさいませんよ。それがあちらの弱点。代わりにあなたの心を決めてさしあげるようなことは、決してなさらない。ご自分で決断するしかない。自立できなくなるなんて心配することはありません。あちらのほうでいつでも、むりやり自立させてくださいます」

(ディ・ヴァイン女史)


◆推理小説としての『学寮祭の夜』


 そしてセイヤーズの凡手ならぬ腕前に驚嘆するのは、こうして全編にばらまかれた、一見事件とは何の関わりもないように見える、男女の関係と役割、恋愛というものに対しての思考と姿勢と意見が、実は、事件の根幹そのものにかかわっていたことが、最後になって明らかになることである。

 真相を知った状態で再読すると、長大な作品のごく初めから、いかにセイヤーズがさりげなく、周到に伏線を敷いていっているか、一見なんでもない描写に重大な手がかりが隠されていたか、にただため息が出る。

 ピーターとハリエットの恋愛の帰結を描きつつ、恋愛と男女関係というものが本質的に含む矛盾や、愛と呼ばれるものがいかにたやすく歪むか、それがもたらす結末がどんなに悲惨で目をそむけたくなるほど醜いかを、容赦のない筆でセイヤーズは描く。一歩踏みはずせば愛がどのようなものに成り果てるかを、犯人が明らかになる場面で、読者とハリエットはともどもに見せつけられることになる。

 何を書いてもネタばらしになるような気がしてなかなかこれといったことが書けないのだが、たとえなかなか事件が起こらなくても、ピーターが登場しなくても、ぜひハリエットやシュローズベリの人々の人間模様を愉しみつつ、最後までたどり着いて、そして再読して欲しい。セイヤーズの周到な手並みに、あらためて感じ入るはずである。


 恋愛と論理がこれだけ密接にからみあい、双方において重要な主題となっている小説を、私はほかにあまり知らない。戦前に紹介された「抄訳」というのは、いったいどういうものだったのだろうと考えてしまう。『学寮祭の夜』は、すべてのエピソードと描写に周到な作者の思考と作為が編み込まれており、一個のエピソード、一個の台詞を落としただけでも、感触が変わってしまうのではないか。

 愛ゆえに歪み、さまざまな犯行を犯した犯人が人々に投げつける呪詛も悪罵も、ピーターとハリエットによる恋愛と男女関係に対する考察が前提として描かれているからこそ、すさまじく胸に刺さる咆吼として読者の耳に轟くのである。

 トリックと推理と犯人を抜き出して示しただけでは、この作品はさほど込みいった話ではない。それ以外の、「恋愛」と「論理」の密接な絡み合い、「知(あたま)」と「情(こころ)」がたがいに響き合って奏でる対位旋律こそが、『学寮祭の夜』という一個の小説(メロディ)であり、聞き所であるのだ。


 そして、そういった愛の醜さを見せつけられてなお、自立した個々の人間として結びあうことを選ぶピーターとハリエットの姿はこの上なく美しい。

 幸福の象徴のように思える二人の姿だが、まだ、ピーターにはもう一つ、克服しなければならない問題が残っている。ハリエットが『学寮祭の夜』で克服したこと、「受けとることを学ぶ」「気持ちを見せることを恐れない」という壁である。

 それにはもう一冊、最終作となる『忙しい蜜月旅行』が必要となる。長くなりすぎたため今回は割愛した、『学寮祭の夜』のメタフィクション的側面もあわせて、次回最終回は、そのことについて書いてみたいと思う。


五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

 

〔著作〕

パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナーハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。


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雲なす証言 (創元推理文庫)

雲なす証言 (創元推理文庫)

2012-11-15

#9『ナイン・テイラーズ』


 さて今回は遅刻してしまってまことに申しわけありませんでした。そんなわけでちょっと間が空きながらも『ピーター卿の作り方』第八回、シリーズ中もっとも有名な大作である『ナイン・テイラーズ』の登場である。



 それでは今回も簡単なストーリー紹介から。

 雪嵐の夜、友人の招待に応じるべく沼沢地フェン地方に車を走らせていたピーターは、嵐に目をくらませて溝に車を突っ込ませてしまう。おりしも大晦日の夜、助けを求めた先の小村、フェンチャーチ・セント・ポールの教区長ヴェナブルズ牧師は、年明けを九時間にも及ぶ組み鐘の奏鳴曲で祝うつもりだった。ところが村では流感が蔓延し、ぎりぎりの人数だった鐘方の一人も、奏鳴が始まる前に倒れてしまう。がっかりするヴェナブル師だったが、ピーターが鐘鳴術に通じているとわかるとがぜん元気になり、ピーターは、倒れた男の代わりに、大晦日から元日の夜にかけて、一晩中教会の鐘を鳴らし続ける。

 そして冬は過ぎてフェン地方の春、村では赤屋敷と呼ばれている屋敷の主人、ヘンリー卿が病死した。元日の朝に同じく病死した妻の隣に埋められるべく、屋敷代々の墓が掘り返されるが、そこから出てきたのは、顔を潰され、手首を両方とも切り取られた、見も知らぬ男の死体だった。ピーター卿が素人探偵としても名を馳せていることを知ったヴェナブルズ師は、さっそくロンドンに戻ったピーターに手紙を書き、調査に乗り出してくれるよう要請する。


◆ 前作につづいて『主人公』ではないピーター


 この作品におけるピーターの立ち位置については、巻末の巽昌章氏の解説の冒頭に置かれた一言、「『ナイン・テイラーズ』の主人公は鐘です」につきる。前作『殺人は広告する』の主人公がすべてを呑みこんで動き続ける商業主義という怪物であったのと同じように、この作品でもまた、ピーターは人権を解き明かす探偵という役割を振られてはいるが、その実、本質的にはこれといって役に立っていない(いや、暗号を解いて失われたエメラルドを無事見つけ出す、という点では役に立ったか)。

 すべてを支配するのは『鐘』、フェンチャーチ・セント・ポール教会の鐘楼の八つの鐘、ガウデ、サベオス、ジョン、ジェリコ、ジュビリー、ディミティ、バティ・トーマス、テイラー・ポール。この八つ、いや、八人の鐘たちが、最初から最後まで、自らの足もとでちょろちょろと走り回り、運命に翻弄されて右往左往する人間たちを、超自然的な沈黙のうちに見下ろしている、これはそういう物語なのだ。


 探偵小説、推理小説としての巧みさ、プロットと事件のみごとな融合──ほとんど渾然一体となって全体を作りあげている、語り手としてのセイヤーズの技巧のみごとさは、この作品でほとんど頂点に達しているといっていい。一度読了して、もう一度最初から真相を知りつつ読み直してみると、一見平和そうに見える場面の後ろでいったい何が起こっていたか、思い出して慄然とするに違いない。そしてすべてを知っていたのは、やはり、鐘たちだけだったのだ……。


◆ ゴシック世界のさまよいびと


 ピーターがあくまで人間の探偵役だとすれば、鐘たちはここでは、超自然の『神の指先』とも言える裁き手として存在する。ピーターがここで解決しうるのは、あくまで人間同士のちっぽけな盗みと暗号解読である。

 本来の主体である殺人事件は、その真相も、関係した人間も、わかったときにはすでに、村を襲った黙示録的な大洪水と(この洪水の避難シーンに聖書のノアの方舟についての言及があるのは偶然ではあるまい)、鋼鉄の裁き司として鳴りわたる鐘によって、人の手の届かぬところへ運び去られてしまっている。


「へえ!」ヘゼカイアは言った。「ほんとでのす、お若いかた、ほんとでのす、あれに忠実で、怒らさんかぎり。鐘はおのれがこと誰が引いちょるか、よう知っちょるのす。えろうもののわかった娘らじゃで、よこしまな人間には我慢がならん。待ち構えちょってやっつける」


 これは八番鐘(もっとも低い音の、大きな鐘)テイラー・ポールを鳴らすヘゼカイア老人の弁だが、ほかにも、鐘の持つ超自然的な雰囲気に登場人物が震え上がったり、実際に二度(事故とはいえ)人を殺しているテイラー・ポールの挿話が語られたりと、『鐘』の存在感は、『ナイン・テイラーズ』の中で人間以上のものを発している。

 ごく現代的で合理的な精神を持つはずのピーターでさえ、暗闇の中で沈黙する鐘たちの下で、目眩を覚えるのである。


 さらに登って鐘の真下に出る。そこにしばし佇み、薄暗がりに目が慣れるまで、黒い口をずっと見上げていた。やがて、鐘の覆い被さるような沈黙に息苦しさを感じた。わずかに眩暈を覚える。八つの鐘がゆっくりと重なりあい、自分の上にのしかかってくるような気がした。魅入られたように、それぞれの名を口にする。ガウデ、サベオス、ジョン、ジェリコ、ジュビリー、ディミティ、パティ・トーマスそしてテイラー・ポール。囁くような静かなこだまが四方の壁から生じ、梁の間でひそやかにやむかに思われた。ウィムジイはいきなり声を張り上げた。「テイラー・ポール!」すると音階上の倍音にたまたま一致したらしく、かすかな真鍮の響きが、遠く脅すように頭上で応えた。


 まるでゴシック小説の一場面のような描写である。実際、あとのほうでエメラルドを盗んだプロの泥棒から「人殺しのあとを追うように呼びかけてくる鐘が出てきて」という台詞が口にされ、ピーターもまた「僕も知っている。『助けて、ジュアン! 助けて、ジュアン!』と叫んだんだ」と頷くのだ。

 ちなみに最終章に、言及されているそのゴシック小説からの引用がかかげられているので、(『青銅の怪物に打ち殺されたのだった』 ──ジュリアン・セルメ『ロザモンド』)どんなストーリーか知りたくて検索してみたのだが、どうやらマイナーな作品らしくてひっかかってこない。どなたかジュリアン・セルメ、もしくは『ロザモンド』について何かご存じの方があったら、ご教示頂きたい次第である。


『鐘』以外にもしこの作品の主人公を求めるとしたら、「全体」と答えるしかないだろう。解説の中で巽氏も指摘なさっているが、怪奇的なゴシック趣味を持ち味にした探偵小説の大家であるカーはもちろん、死体を舞台装置として、一貫した謎解きプロットを貫き通すクリスティ、クイーンに比べ、この『ナイン・テイラーズ』──前作の『殺人は広告する』も含めて──セイヤーズが目指した方向は、「謎と錯綜する人間ドラマ、そしてそれを呑みこんでゆくもっと巨大な何か」を渾然一体として表す方向であるように思う。

 八つの鐘がかもしだす異様な雰囲気に加えて、ほかにもさまざまなゴシック的道具立てが詰めこまれている。首吊りに取り憑かれた頭の弱い青年、鐘楼に落ちていた不気味な文章を書きつけたメモ、墓場をさまよう光、不吉な言葉をわめくオウム。


「変ちきピーク」と呼ばれる頭の弱い青年は、どことなく横溝正史作品で、異様な言動で不安な影を残す者たち──『本陣殺人事件』の三本指の男、『八つ墓村』の濃茶の尼などを思わせる。彼自身はいくつかの目撃証言以外あまり事件に関係してこないが、それでも、執拗に首吊りにこだわり、ピーターたちが話している間にも首吊りと不吉な殺人の、夢とも妄想ともつかぬ言葉を憑かれたように発する彼もまた、『鐘』とその象徴する運命が鳴りひびくこの小説世界の空気を醸成するひとつの要素だと思う。

 ピーターは主人公、というより、語り手、一つの視点としてそこに立ち会うが、結局彼には、ほんとうには何かをすることはできない。自分を巻きこむ何か巨大なものにもてあそばれ、流されてもがきながら、真実をつかもうとする姿は、探偵小説の名探偵というよりは、むしろ普通小説の主人公に近いものがある。

 商業主義という怪物の腹に呑みこまれ、吐き出された『殺人は広告する』、八つの鐘たちが下した運命的裁きの目撃者かつ語り手、そして(バレのため伏せ)となった『ナイン・テイラーズ』セイヤーズの興味が、ピーターという一人物からしばし離れ、全体小説とでも言うべきものを目指した作品として、この二作は記憶されるべきと思う。


 この作品を読むとき、いつも思い出す童謡がある。マザー・グースの詩の一編である。

 オレンジとレモン

 セント・クレメントのかねはいう

 おまえにゃ五ファージングのかしがある

 セント・マーティンのかねはいう

 いつになったらかえすかね?

 オールド・ベイリーのかねはいう

 おかねもちになってから

 ショアディッチのかねはいう

 それはいったいいつのこと?

 ステプニーのかねはいう

 わたしにゃけんとうもつかないね

 バウのおおきなかねはいう


 さあろうそくだ ベッドにつれてくぞ

 さあまさかりだ くびちょんぎるぞ

(谷川俊太郎訳)


 最後の一連の唐突な残酷さはいったいどういうことなのだろう。鐘が言っているのか、それともほかの何者かが言っているのか? いったい誰に? 何の罪で?

 いずれにせよ、ロンドンの主要な教会の鐘をうたったこの童謡でも、鐘という存在がどことなく人々に与えていた威圧感や恐怖感、畏怖のイメージがわかる。

 さあまさかりだ くびちょんぎるぞ。その通りに(首は切られていないが)悪人は鐘によって裁かれ、『目をかっと見開いて、まるで地獄を覗きこんだみたいな顔で』死んだ。

 セイヤーズがどこから鐘と鳴鐘術を小説の題材にしようと思ったか動機はわからないが(セイヤーズの暗号趣味が鳴鐘術を引きよせたのは疑いのないところにせよ)、もしかして、この童謡が発想の隅っこにでもあったのかな、と思うと、ちょっぴり楽しい。


◆ その他の人々──三人目のセイヤーズの自画像


 ところで、『ナイン・テイラーズ』には、前作『殺人は広告する』のミートヤード女史同様、セイヤーズの自画像であろうと思われる少女が登場する。赤屋敷の一人娘であり、短い間に両親を亡くしてひとりぼっちとなった少女、ヒラリーである。

 短い間に両親を亡くした彼女だが、めそめそと悲しみに落ちこむようなことはしない。自ら考えをめぐらし、旧弊な伯父に反発しながら、ピーターに励まされて果敢に謎解きに手をつける。奇妙なメモを発見してピーターに渡し、結果、暗号解読に一役買ったのは彼女である。作家志望で、自活を夢見、才気煥発で溌剌とした彼女は、まさに少女時代のセイヤーズを彷彿とさせる。


「でも、興味を持った方が現実味がなくなるでしょう? 現実味って言葉は違うか」

「身近でなくなる?」

「それだわ、そう言いたかったんです。どうやって起きたのか想像していると、だんだん、自分ででっち上げたことみたいに思えてくる」

「ふむ!」ウィムジイは言った。「そういう頭の構造をしているのなら、将来は作家になりそうだね」

「ほんとですか? まあ、不思議! だってわたし作家志望なんです。でも、どうして?」

「ものを創り出す方向に働く想像力を持っているからさ。それは外側へ向かい、持ち主はついには自分の体験を突き放し、自らの手で創り出した、自分とは別個に存在するものとして見ることができるようになる。運のいい人だ」


 私生活では辛いことも多かったセイヤーズだが、ピーターがヒラリーに与えたこの言葉は、彼女自身が迷い、迷い抜いた末にたどり着いた真実であったのかもしれない。不幸な恋愛生活や私生児の誕生など、心折れそうになるたびに、自分自身を支えてきた創作的本能を、ピーターはここで少女時代のセイヤーズの投影である少女に告げている。それはセイヤーズが、むかし、ヒラリーのようだった自分に向けて、また、今、ヒラリーのように感じている不幸な少女たちに向けて発した、励ましの言葉であったろう。

 

 さて、次回はいよいよハリエット・ヴェインが再び語り手の位置に立つ第九作『学寮祭の夜』である。しばしピーター個人の人格からは離れていたセイヤーズの筆が、二人の恋愛と人間的成長の面にふたたび戻ってくる一作でもある。

 二人のこんがらがった恋にも、ようやく決着がつくことになる。また、もっともセイヤーズ自身に近いキャラクターとして、ハリエットの目からセイヤーズの自作に関する姿勢の変遷の描写が読み取れるのも、貴重な読みどころであると言える。どうぞお楽しみに。


五代 ゆう(ゴダイ ユウ)

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 ものかき

 blog: http://d.hatena.ne.jp/Yu_Godai/?_ts=1286988042

 読むものと書くものと猫を与えておけばおとなしいです。ないと死にます。特に文字。

 

〔著作〕

パラケルススの娘』全十巻 メディアファクトリー文庫/『クォンタムデビルサーガ アバタールチューナーハヤカワ文庫JA全五巻/『骨牌使いの鏡』富士見書房 等

 

 書評をしていく予定の本:活字中毒なので字ならばなんでも読みます。節操なしです。どっちかというと翻訳もの育ちですが日本の作家ももちろん読みます。おもしろい本の話ができればそれでしあわせなのでおもしろいと感じた本を感じたまんまに書いていこうと思います。共感していただければ光栄のきわみです。


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本陣殺人事件 (角川文庫)

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八つ墓村 (角川文庫)

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