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北方学会

北方学会報

北方学とチベット学   煎本 孝

 チベット(西蔵)は南をヒマラヤ山脈、北をクンルン(崑崙)山脈にはさまれたアジア内陸・中央部のチベット高原に位置する。西はカラコルム山脈からパミール高原に至り、東はチベット高原東端部の長江上流域、黄河上流域に至る。
 チベット民族の人口はチベット自治区内で239万人(1995)、中国内では387万人(1982)とされるが、その他の国々に約100万人のチベット系民族がいると推定される。さらに、1959年以降インドに置かれたチベット亡命政府を中心とするチベット難民は約10万人である。面積は中国チベット自治区が120万平方キロメートルであるが、青海省、および甘粛省・四川省・雲南省の一部、インド領西チベットを加えるとこの2倍に達する。
 チベット民族はチベット高原を中心とし、ヒマラヤ山脈南麓をはじめとする北緯28度から40度、東経70度から104度に至る高原周辺地域にまで居住する。チベット語はシナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派、チベット語群に属する。方言には、ウ・ツァン地方の中央部方言、カム地方の東南部方言、アムド地方の東北部方言、ラダック・バルティスタン地方の西部方言、ネパール・シッキム・ブータンなどヒマラヤ山脈南麓地方の南部方言の5方言群が認められる。
 居住地域は中緯度であるにもかかわらず、標高が3,500メートルから4,000メートルの高原・山岳地帯(ラサの標高は3,658メートル、峠は5,000メートル前後、山脈は6,000メートルから8,000メートル以上)であるため気候は寒冷である。ヒマラヤ山脈北側のチベット高原は乾燥し、高山性砂漠、もしくは高山性ステップ(草原)を形成する。しかし、ヒマラヤ山脈南麓はインド洋からの季節風がもたらす雨のためモンスーン林を形成し、チベット高原東端部はさらに太平洋からの季節風のため湿潤となり黄河、長江源流を形成し、山麓では落葉広葉樹と針葉樹の混交林が見られる(煎本 2002a)。
 西チベットのンガリ(Ngari)地区にあるカイラス山(Kailash)(gangs rin po che, gangs ti se (Tb.))(標高6,656メートル)の南のマナサロワール(Manasarovar)(mtsho ma pham (Tb.))湖(海抜4,588メートル)周辺からは、西にランチェン・ツァンポ(サトレジ河)、北にセンゲ・ツァンポ(インダス河)、東にヤルン・ツァンポ(ブラマプトラ河)、南にマプチャ・ツァンポ(ガンジス河)が流れ出している。チベット人によると、その源流はそれぞれ、象、ライオン、馬、孔雀の口から流れ出しているとされる。
 そして、インダス河はインド領西チベットのラダック地方、ヒマラヤ山脈とトランス・ヒマラヤのカラコルム山脈の間を西進し、ギルギット(Gilgit)にて南向し、パキスタンのバリ(Bari)平原でサトレジ河を合流し、アラビア海にそそぐ。また、ヤルン・ツァンポ河はチベット高原を東進し、シガツェ(Shigatse)、ラサ(Lhasa)を経て、チベット自治区東部で南に大屈曲し、ブラマプトラ河となりインドのアルナチャル・プランデシュ州を西進後、再び南向するとバングラデシュにて、東進してきたガンジス川と合流し、ベンガル湾にそそぐ。なお、チベット高原東端では、黄河源流が北に流れ出し渤海にそそぎ、長江上流のチンシャー川(金沙江)はサルウィン河上流のヌー河(怒江)、メコン河上流のランツァン川(瀾滄江)とともに南北に平行する大山脈・大峡谷地帯を形成、南進し、その後東進すると長江(揚子江)となり東シナ海にそそぐ。サルウィン河はミャンマーを南に流れ、アンダマン海にそそぎ、またメコン河はミャンマー、ラオス、タイ国境を流れ、カンボジアを北から南へと縦断し、ベトナムから南シナ海にそそぐ。
 このように、チベットはアジアの主要な大河の源流域を形成する高標高のチベット高原・山岳地帯とその周辺の低標高地帯への移行帯を地理学的、生態学的特徴としているのである。
 このため、チベット人の生計活動は牧畜と農耕である。家畜はヤク、牛、ゾー(ヤクと牛の雑種)、羊、山羊、馬であり、耕作物は大麦、稞麦、小麦の他、蕎麦(ソバ)、黍(キビ)などの雑穀を含む。また、種子から菜種油をとるための油菜(アブラナ)をはじめ、野菜、ジャガイモ、豆類などの作物がある。標高の低い所ではアンズ、リンゴ、ナシ、ブドウ、クワ、クルミなどの果樹栽培が見られる。家畜と栽培作物の種類は標高により相違が認められ、したがって生計活動の様式にも標高による変化が見られる。西チベットでは、標高4、500メートル以上のチャンタン高原においてはヤク、羊、山羊による年間を通しての遊牧が見られ、標高が下り3,500メートルくらいになると羊、山羊に、牛、ヤクと牛の雑種が加わった移牧と大麦の農耕による複合生計活動が行われる。さらに、インダス河にそって標高が下り、2,500メートルくらいになると移牧による牧畜活動に加え、小麦の農耕、果樹栽培が主要な生計活動となる。農耕は山脈の積雪を水源とするインダス河にそそぐ小川に依存し、谷間に広がる扇状地に耕作地が作られる。しかし、一部ではインダス河本流からの直接灌漑による農耕も見られる。
 農耕地においては定住的な村が形成され、住民の一部は夏には家畜と共に高山へ移動し、冬には再び村に戻って来るという移牧を行う。また、チャンタン高原やザンスカールの高標高山岳地帯で生産された、バターやチーズはラダック中央部から下手ラダックにおける低標高地帯で生産された小麦や乾燥果実と交換される。したがって、チベット人の生計活動には交易活動が重要な位置を占めることになる。さらに、チベットを越えるような中央アジアやインドを結ぶ長距離交易は王国の成立と維持を可能にしたものでもあった(煎本 1986a ;1986b;1986c;1986d;1986e)。
 チベット人の宗教は民俗宗教とともにチベット仏教である。アニミズムやシャマニズムという民俗宗教はときに仏教と併存し、また、ときには仏教に統合され、実践されているのである(煎本 1989a;1989b;山田 1993;1995;1996;1999)。また、アムチ(am-chi)と呼ばれる医師により実践されるチベット医学の理論も民俗宗教や伝統的身体観と深いかかわりを持つ(山田 1997;2002)。ラー(lha)と呼ばれる神々とともに仏(Buddha)を信仰するチベットにおける宗教体系(煎本 1989b)はモンゴルにおける天(テンゲル)(Tengri)と仏との併存(煎本 2002b)、日本における神々と仏との併存する宗教体系との共通性も認められる。それは、紀元前5世紀にガンジス河中央部マガダ(Magadha)国に始まり、紀元前3世紀にはアショカ(Ashoka)王の保護を受けてインド各地に広まり、紀元前1世紀から紀元5世紀にかけてインド北西部でクシャン(Kushan)朝の保護のもとにガンダーラ(Gandhara)を中心に栄え、ここから中央アジア、中国へと伝播した仏教が、その過程で地域の神々を取り込み、併存し、統合しながら独自の展開をとげてきた結果によるものだからである(煎本 1986e:437;1989b)。
 チベットの起源は吐蕃王国成立以前、西チベット、シャンシュン(Xhang-zhung)の地にピャ部族、もしくはトン部族、ム部族、さらに後に彼らと通婚したダン氏の女国に遡る。このうちのある部族はヤルン・ツァンポ河を下り東遷し、東チベット、カム(Kham)の地に至り、後に吐蕃王国を建てたヤルルン王家となったとされる(煎本 1986:453;山口 1983)。チベットにおける仏教の第1次伝播はソンツェン・ガンポ王(Sroń-btsan-sgam-po)により629年に建てられた吐蕃王国がティソンデツェン(Khri-sroń-lde-brtsan)の治世の761年に仏教を国教化し、パドマサムバヴァ(蓮華生)(Padma Sambhava:Padma-hbyuń-gnas)をインドから招請し、瑜伽行中観派(Mādhyamaka Yogācāra(Sk.))の仏教をとり入れることにより始まる。しかし、吐蕃王国はランダルマ(Glań-dar-ma)による破仏と843年の王朝の崩壊により終焉を迎える。仏教の第2次伝播は、10−11世紀に西チベットで、カシミールに仏教を学んだリンチェンザンポ(Rin-chen-bzań-po)により行われた。また、中央チベットに招かれたアティーシャ(Atiśa)は無上瑜伽タントラ系仏教(Aunttarayogatantra)によるカダム派(bKah-gdams-pa)を創始し、マルパ(Mar-pa)もインドで学び、弟子のミラレパ(Mi-la-ras-pa)とともにカギュ派(bKah-brgyud-pa)の始祖となる。これは後にディグン派(hBri-guń-pa)、ドック派(hBrug-pa)、カルマ派(Kar-ma-pa)、シャン派(Shańs-pa)などに分派し、また先のカダム派は15世紀はじめにツォンカパ(Tsoń-kha-pa)の改革により、ゲルー派(dGe-lugs-pa)に移行する(煎本 1986e:439-440;TUCCI & HEISSIG 1970:51)。ツォンカパは小乗仏教以来の僧団の戒律を重んじ、帰謬論証派(Prāsaňgika(Sk.))の中観思想(Mādhyamaka(Sk.))を基盤に、顕教による般若波羅密(Prajnaparamita(Sk.))の修習を終えた者が利他行を完成するためこの世で一切智者(Buddha)の境地に到達し、空を体現しようとするとき、無上瑜伽タントラ(Anuttarayogatantra)の修行が許されるとし、小乗(Hinayana)、大乗(Mahayana)、金剛乗(Vajrayana)の三乗を統合しようとするアティーシャ以来のインド仏教最終期の懸案に答えた(金子 1989:300;山口 1985a:421)のである。
 この伝統は現在でも引き継がれ、僧侶がゲシェ(Geshe)(dge bshes (Tb.))(博士)の学位を得るためには三乗を修得することが要求されている。チベット仏教はタントラ仏教を特徴としているが、同時に小乗、大乗を含む仏教全般についての広い知識と実践を基盤に置いているのである。現在のチベットでは、ゲルー派の他、ニンマ派(rNiń-ma-pa)、サキャ派(Sa-skya-pa)、カーギュ派の4大宗派がある。さらに、よりシャマニズム的要素を持ち、仏教に対立していたボン教(Bon-po)もチベット亡命政府により1つの宗派として代表権を認められるに至っている。なお、ボン教はチベットにおける仏教の第1次伝播以前の伝統に遡り、ニンマ派は7世紀から8世紀におけるインド仏教の第1次伝播による古派としての伝統を持ち、カギュ派とサキャ派は11世紀以後のインド仏教の第2次伝播の伝統を持ち、ゲルー派は15世紀はじめに確立した改革派である。
 チベットにおける宗教の特徴は、それが政治と歴史とに深く結びついていることである。すなわち、吐蕃王国において僧が新しい支配階級として現れるが、王国崩壊後、教団は国内勢力のみならず、チベットに侵入したモンゴル軍をはじめ元朝、明朝などと結び付く。ゲルー派のソーナム・ギャツオは1578年、モンゴルのアルタン(俺答)・ハーン(Altan Qan)にダライ・ラマ(Dalai Lama)(tā la’i bla ma:rgyal ba rin po che (Tb.))(モンゴル語のダライ(Dalai)はチベット語ではギャツオ(Gyatso)であり「(智恵の)海」を意味する)の称号を受け、さらに当時すでにカルマ・カーギュ派で始められていた転生制度を取り入れることになる。ゲルー派はカルマ派との抗争において1642年にオイラートのグシ(顧実)・ハーンの軍事力を後ろだてにダライ・ラマ5世を法王とする政権を樹立し、1751年には清朝のもとダライ・ラマ7世を主権者とし、駐蔵大臣との協議を条件に4大臣合議の行政組識であるダライ・ラマ政体を出発させることになる(山口 1985b:703-704)のである。また、ダライ・ラマ5世は、17世紀、自分の尊師(guru(Sk.):bla ma (Tb.))であったパンチェン・ギェーツェン(Panchen Choki Gyaltsen)にパンチェン・ラマの称号を贈る。そして、ダライ・ラマが観音菩薩(Avalokiteshvara(Sk.):spyan ras gzigs dbang phyug(Tb.))の化身であるように、パンチェン・ラマは阿弥陀仏(Amitābha (Sk.):’od dpag med(Tb.))の化身とされ、ダライ・ラマとともに転生制度をとって現在に至っている。すなわち、教団は国内外の様々な勢力との関係を通して政体を形成し、チベット社会を確立してきたのである。
 しかし、1876年、清とイギリスの間に結ばれた芝罘(チーフー)条約に基づき、イギリスがチベットへの入国権を主張するが、ダライ・ラマ13世は清が日本との戦いに敗れた後であったため、清の宗主権を否定する。1904年ヤングハズバンドによるラサへの武装使節団の派遣により、13世はモンゴルに亡命し、北京を経て1910年ラサに帰る。しかし、同時に清がラサに軍を送ったので、13世は今度はインドに亡命し、ラサではパンチェン・ラマ6世が清に協力することになる。1911年に清が辛亥革命で滅ぶと、1913年にダライ・ラマは帰国し独立を宣言する。パンチェン・ラマは北京に脱出し、没するが、ラサ政府とは別に国民党で選出され共産党に引き継がれていた転生者パンチェン・ラマ7世が1951年チベットに入り正式に身分が定まった。しかし、ダライ・ラマ13世の転生者であるダライ・ラマ14世は1959年、中国共産党との協力をやめてインドに亡命することになった(山口 1985b:704)。こうして、今日ダライ・ラマ14世を精神的指導者とするチベット亡命政府はインドのダラムサラに拠点を置き、国際的広がりを持ってチベット難民社会を形成することになったのである。
 チベット人の民族性(エスニシティ)と帰属性(アイデンティティ)の特徴は地方差が認められることである。伝統的にチベットは3つの地方に分けられている。第1は中央・西部のウ・ツァン地方(U-tsang)(dbus gtsang (Tb.))、第2は東南部のカム地方(Kham)(khams, mdo stod (Tb.))、第3は東北部のアムド地方(Amdo)(a mdo, mdo smad (Tb.))である。ウ・ツァン地方にはチベット西南部のンガリ・コルスム(Ngari korsum)(ngari korsum(Tb.))地方が含まれる。チョル・カ・スム(chol kha gsum (Tb.))と呼ばれるこの3地方は歴史的背景も異なり、方言のみならず文化的相違が見られる。人々は地方ごとに帰属性を異にし、チベット人の間では「最もすぐれた宗教はウ・ツァンの地から、最もすぐれた男はカムの地から、最もすぐれた馬はアムドの地から」(シャカッパ ‐992:2)といわれる。
 チベット系民族を含めるのであれば、さらに巾広い帰属性の地方差を指摘することができる。インド領西チベットのザンスカール(Zangskar)、ラホール(Lahaul)、スピティ(Spiti)、キナウル(Kinnaur)を含むラダック(Ladakh)地方、パキスタン領カシミールのバルティスタン(Baltistan)地方のチベット系民族、さらに、ネパール、シッキム、ブータンなどヒマラヤ南麓地方の諸民族をあげることができる。彼らはそれぞれ王国を形成するなど歴史的背景を異にするため、民族的にはチベット人であるにもかかわらず、チベット人という共通の国民的帰属性は持たない。また、中国チベット自治区と青海省の東側には雲南省迪廣(デチェン)チベット族自治州、四川省木里(ミリ)チベット族自治県、甘孜(カンゼ)チベット族自治州、阿壩(アバ)チベット族羌族自治州、甘粛省甘南チベット族自治州、天祝(パリ)チベット族自治県、粛南裕固(ウイグル)族自治県が接しており、ここではチベット人は漢族、回族ウイグル族などと混住している。
 さらに、今日重要なのはもう1つのチベット文化、チベット民族の存在である。1959年にチベット亡命政府が誕生して46年が経過し、インド、ネパールなどにおけるチベット難民社会も3世代目を迎えるようになっている。ダライ・ラマ14世を精神的指導者とし、民主主義による政治体制を樹立し、チベットの自由を目標に、チベット難民社会はチベット文化とチベット人としての帰属性の継承を行ってきた。これはチベットの伝統文化に基づいたチベット文化の創造であり、チベット内の地方差を超えたチベット人としての新たな民族性と帰属性のもとに、国際的な広がりを持って形成された集団であるということができるのである。
 チベット研究は17−18世紀のイエズス会の宣教師、18世紀末から19世紀末にかけてのイギリス、ロシア、スウェーデン、日本の探検家、地理学者、僧侶などにより始められた。たとえば、地理学者のスヴェン・ヘディン(Sven Hedin)は1900年と1906−08年にチベットのトランス・ヒマラヤを探検するが、同じ1900年には日本の僧侶である河口慧海がネパールからチベット入りし、1901年から14ヶ月間にわたりラサに滞在している。さらに、1913年から1923年の10年間にわたり、西本願寺の多田等観はラサに滞在しチベット仏教を学び、また青木文教はラサ市民の生活についての記録と資料を残している。もっとも、その後のチベット学に関しても、日本においては現在に至るまで仏教学、歴史学、言語学からの研究が主流を占め、人類学的研究は限られたものであった。
 なお、ラダック、チベット、チベット難民に関する煎本孝、山田孝子による人類学的調査研究については現在までに以下のものがある。

[煎本 孝 ラダック調査、第1次−第7次:1979−1991年]
1.第1次ラダック調査
 1979年12月 [インド、カシミール、スリナガル(Srinagar)、ネパール]
2.第2次ラダック調査
 1980年7―9月 [ラダック、ザンスカール]
3.第3次ラダック調査
 1983年6月―1984年4月 [ラダック、ザンスカール、マナリ(Manali)、ダラムサラ(Dharamsala)、バルティスタン(Baltistan)、スカルド(Skando)、カプル(Khapul)](昭和58年度文部省在外研究員派遣)
4.第4次ラダック調査
 1988年8−10月 [ラダック、ラマユル(Lamayuru)](昭和63年度庭野平和財団研究助成「西チベット、ラダック地方における宗教の果たす社会的機能に関する実証的研究」)
5.第5次ラダック調査
 1988年12月−1989年1月 [ラダック、レー(Leh)、カラツェ(Kalatse)]
6.第6次ラダック調査
 1989年5−8月 [ラダック、カラツェ、ラマユル](平成元−2年度日本学術振興会国際共同研究「西チベット民族の生態と世界観の動態に関する文化人類学的研究」)
7.第7次ラダック調査
 1990年11月−1991年3月 [ラダック、カラツェ、ラマユル](平成元−2年度日本学術振興会国際共同研究「西チベット民族の生態と世界観の動態に関する文化人類学的研究」)

[煎本 孝 チベット調査、第1次−第9次:2001−2005年]
1.第1次チベット調査
 2001年8月 [中国チベット自治区ラサ、ナクチュ(Nakcu)、ギャンツェ(Gyantse)、シガツェ(Shigatse)](平成13年度科学研究費「東北アジア諸民族の文化変化とアイデンティティの形成に関する文化人類学的研究」)
2.第2次チベット調査
 2001年9−10月 [ブータン、インド、カリンポン、シッキム、ガントック、ダージリン](平成13年度科学研究費「東北アジア諸民族の文化変化とアイデンティティの形成に関する文化人類学的研究」)
3.第3次チベット調査
 2002年12月[ネパール、ボダナート(Boudhanath)、スワヤンブナート(Swayambhunath)、カトマンドゥ(Kathmandu)、インド、ダラムサラ(Dharamsala)、デリー](平成14年度21世紀COEプログラム「心の文化・生態学的基盤」)
4.第4次チベット調査
 2003年1月 [インド、ボドガヤ](平成14年度21世紀COEプログラム「心の文化・生態学的基盤」)
5.第5次チベット調査
 2003年3月 [インド、マイソール(Mysor)、ビラクッペ(Bylakuppe)](平成14年度21世紀COEプログラム「心の文化・生態学的基盤」)
6.第6次チベット調査
 2003年8月 [インド、ガンゴトリ、デラドゥン(Dehra Dun)、ムスーリー(Mussoorie)](平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」)
7.第7次チベット調査
 2004年7−8月 [インド、ダージリン、ソナダ(Sonada)、カリンポン、シッキム、ガントック、デリー](平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」)
8.第8次チベット調査
 2005年7−8月 [中国、四川省、甘粛省、青海省](平成17年度21世紀COEプログラム「心の文化・生態学的基盤」)
9.第9次チベット調査
 2005年10月 [インド、ラダック、レー、チョグラムサル(Choglamsar)、ダーハ(Da-Hanu)](平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」)

[山田孝子 ラダック・チベット調査、第1次−第9次:1983年−2005年]
1.第1次ラダック・チベット調査
 1983年6月−1984年3月 [ラダック、ザンスカール、マナリ、ダラムサラ、バルティスタン、スカルド、カプル]
2.第2次ラダック・チベット調査
 1988年8−9月 [ラダック、レー]
3.第3次ラダック・チベット調査
 1989年7−10月 [ラダック、カラツェ、レー](平成元−2年度日本学術振興会国際共同研究「西チベット民族の生態と世界観の動態に関する文化人類学的研究」)
4.第4次ラダック・チベット調査
 1990年8−11月 [ラダック、カラツェ、レー、サブー](平成元−2年度日本学術振興会国際共同研究「西チベット民族の生態と世界観の動態に関する文化人類学的研究」)
5.第5次ラダック・チベット調査
 2003年9−10月 [ラダック、レー、ヌブラ(Nubra)](平成15年度科学研究費広領域研究「資源人類学−資源の分配と共有に関する人類学的統合領域の構築」)
6.第6次ラダック・チベット調査
 2004年2−3月 [インド、ビラクッペ](平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」)
7.第7次ラダック・チベット調査
 2004年9月 [インド、ビラクッペ、コリガール(Kollegal)](平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」)
8.第8次ラダック・チベット調査
 2004年12月 [インド、ダラムサラ](平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」)
9.第9次ラダック・チベット調査
 2005年7−8月 [中国、四川省、甘粛省、青海省](平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」)

 上記の煎本孝によるラダック調査は計7次、21ヶ月間、チベット調査は計9次、6ヶ月間にわたり、その合計調査期間は27ヶ月(2年3ヶ月)である。また、山田孝子によるラダック・チベット調査は9次にわたり合計調査期間は19ヶ月(1年7ヶ月)となっている。なお、1979年に始まり、1991年に至るインド領西チベット、ラダック地方における調査は1974年のカシミール、ラダック地方の入域解禁直後に行われたものであり、その後の観光化による変化以前の伝統文化の観察が可能であった。さらに、2001年に始まるチベットの調査も中国チベット自治区などへの外国人の入域が可能になったことに伴い、特別入域許可を取って行われたものである。煎本孝による2005年の第9次チベット調査はラダック地区におけるチベット難民と隣接民族としてのダルド(ダ-ハヌ)を研究対象とし、特別入域許可を得て調査が行われ、山田孝子による2003年の第5次ラダック・チベット調査は観光化によるラダックの文化変化に関する調査であり、特別入域許可を得て行われた。煎本孝による2003年、2004年、2005年の第6次、第7次、第9次チベット調査、および山田孝子による2004年、2005年の第6次、第7次、第8次、第9次ラダック・チベット調査は平成15−17年度科学研究費「チベット難民における新しいエスニシティの形成に関する文化人類学的研究」による調査研究である。また、これら調査研究の成果の一部は論文、口頭などにより発表されており、以下に業績として示す。

[煎本 孝 ラダック・チベット関係業績]
1.論文
煎本 孝
 1981b「西チベット、ザンスカール地区における人口と性比の村落間変異」『民族学研究』46(3):344−348.
煎本 孝
 1986a「ラダック」田村仁・他『ヒマラヤ仏教王国1』東京、三省堂、10頁。
煎本 孝
 1986b「ザンスカール」田村仁・他『ヒマラヤ仏教王国1』東京、三省堂、88頁。
煎本 孝
 1986c「ラダック王国史覚書」田村仁・他『ヒマラヤ仏教王国1』東京、三省堂、214−222頁。
煎本 孝
 1986e「ラダック王国史の人類学的考察−歴史・生態学的視点|」『国立民族学博物館研究報告』11:403−455.
煎本 孝
 1989b「ラダックにおけるラーの概念」『印度哲学仏教学』4:305−324.
煎本 孝
 1996『文化の自然誌』東京、東京大学出版会。
2.その他
煎本 孝
 1981a「北西インド、ザンスカール地区におけるチベット系住民の生態と世界観に関する調査報告」『日本民族学会第20回研究大会(国立民族学博物館)研究発表抄録』59−60頁。
煎本 孝
 1984 「チベット系住民(ラダック地区)の親族名称」『日本民族学会第23回 研究大会(国立民族学博物館)研究発表抄録』35−36頁。
煎本 孝
 1986d「写真解説」田村仁・他『ヒマラヤ仏教王国1』東京、三省堂、240−246頁。
煎本 孝
 1989a「ラダックにおけるラーの概念」『第10回北海道印度哲学仏教学会研究例会(北海道大学)』平成元年3月11日。

[山田孝子 ラダック・チベット関係業績]
1.論文
Yamada, Takako
 1993. Spirit Possession and Shamanism among the Ladakhi in Western Tibet. In: Hoppál, Mihály & Keith Howard (eds.), Shamans and Cultures, Budapest: Akadémiai Kiadó, ISTOR Books, vol. 5, pp. 214−222.
Yamada, Takako
 1995. The Ladakhi Shaman as Performer of Oneness with Local Gods, Lha. In: Kim, Tae−gon & Mihály Hoppál (eds.), Shamanism in Performing Arts, Budapest: Akadémiai Kiadó, pp. 89−95.
Yamada, Takako
 1996. The Ladakhi Shaman's Communication with His Patient: Folk Etiology Reproduced. Shaman, vol.4, nos. 1−2, pp. 167−183.
山田孝子
 1997「西チベット、ラダックにおける病いと治療」山田慶兒(編)、『歴史の中の病いと医学』 京都、思文閣出版、567−590頁。
Yamada, Takako
 1999. An Anthropology of Animism and Shamanism. Bibliotheca Shamanistica, vol.8. Budapest: Akadémiai Kiadó.
山田孝子
 2002「西チベット、ラダッキの民族医学―アムチの医学理論とその実践」寺嶋秀明・篠原 徹(編)『エスノ・サイエンス』講座生態人類学7巻、京都、京都大学学術出版会、215-274頁。
山田孝子
 2004「現代化とシャマニズムの実践に見る身体性―ラダッキの事例より-」内堀基光(編)『資源の分配と共有に関する人類学的統合領域の構築―象徴系と生態系の連関をとおして(資源人類学)』中間成果論集、東京、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、348-354頁。
山田孝子
 2004「ラダック地方における現代化とシャマニズム実践の意味」『北方学会報』10:45-52、2004.
Yamada, Takako
 2004. Meaning of Modernization and Practice of Shamanism in Ladakh. Northern Studies Association Bulletin, 10: 4-9.
Yamada, Takako
 2005. Modernization and the Body in the Practices of Shamanism: With special references to the Ladakhi and the Sakha. In: Sugawara, Kazuyoshi (ed.), Construction and Distribution of Body Resources: Correlations between Ecological, Symbolic and Medical Systems, Tokyo: Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa, Tokyo University of Foreign Studies, pp. 200-223.
山田孝子
 2005 「現代化とシャマニズムの実践にみる身体―ラダッキとサハの事例より」『文化人類学』70(2):226-246.
山田孝子
 2005「チベット難民社会における学校教育と『チベット人』意識」『北方学会報』11号。
Yamada, Takako
 2005. School Education among Tibetan Refugees in India. Northern Studies Association Bulletin, No. 11.
山田孝子
 2006「チベット難民社会の大僧院が担う新たな使命|セラ・ジェ僧院の事例より」『北方学会報』12号(印刷中)。
Yamada, Takako
 2006. The Creation of New Missions by Tibetan Buddhist Monasteries in India: With special reference to Sera Je Monastery. Northern Studies Association Bulletin, No.12.(印刷中)。
2.その他
山田孝子
 1984 「チベット系住民バルティの親族名称」 第23回日本民族学会研究大会、国立民族博物館。
山田孝子
 1985「バルティの生態」『北海道民族学会通信』 85-1:2.
山田孝子
 1987「西チベット、ラダック地方における疾病観と治療体系について」 第41回日本人類学会・日本民族学会連合大会、京都大学。
山田孝子
 1988「ラダック地方のam-chiの医療における病名の語源から」 第25回日本民族学会研究大会、中部大学。
山田孝子
 1988「西チベット、ラダック地方におけるam-chiの使用する薬|民族科学的アプローチ」第42回日本人類学会・日本民族学会連合大会、大阪国際交流センター。
山田孝子
 1992「人はいかにしてシャマンとなるのか?:西チベット、ラダックのlha-phog(神格の招入)儀礼より」日本民族学会第27回研究大会、南山大学
山田孝子
 2002「ラダックにおける農耕・牧畜生活と地域開発」日本地理学会2002年度秋季学術大会、9月26―28日、金沢大学[『日本地理学会発表要旨集』62 (2002): 27シンポジウム「ヒマラヤ住民の生活世界と地域環境―生態・文化・開発」]

 チベットには南の特徴である農耕文化とともに北の特徴である遊牧文化がみられ、アニミズムやシャマニズムとともにインドに起源する仏教がみられる。また、その歴史はモンゴルをはじめ、中国、インドと深い関係を持つ。さらに、現在のチベット難民は民族性や帰属性と深くかかわる。平成3年(1991年)に北方学が創立された時、「北方学では文化的特徴をそれが北方の特質なのか、人類に普遍的なものなのかを常に比較検討しながら研究を進め、そうすることにより、北方文化を人類文化全体の中で位置づけ、同時に人間とは何かという、より一般的な問題に近づく」(煎本 1992:11)という方法論をとることがすでに述べられている。その後、北方学の枠組みの中で日本のアイヌをはじめとする東北アジア諸民族の文化動態が明らかにされ(煎本 2002a;2004a;山田 1994;2001)、北方の宗教と生態(IRIMOTO and YAMADA eds. 1994)、北方のアニミズムとシャマニズム(YAMADA and IRIMOTO eds. 1997)、北方の民族性と帰属性(IRIMOTO and YAMADA eds. 2004)についての国際共同研究が進められてきた。これらの成果に基づき、さらなる人類の普遍性の探求(煎本 2004;IRIMOTO 2004b)における重要な研究対象としてチベットを位置づけることができるのである。

文献
煎本 孝
 1992 「北方学会の設立にあたって」『北方学会報』1:11-12。
煎本 孝
 2002a「東北アジア諸民族の文化動態」札幌、北海道大学図書刊行会、1-566頁。
煎本 孝
 2002b「モンゴル・シャマニズムの文化人類学的分析」煎本孝(編著)『東北アジア諸民族の文化動態』札幌、北海道大学図書刊行会、357-440頁。
煎本 孝
 2004 「北方学と人類学」『北方学会報』10:52-54。
IRIMOTO, Takashi
 2004a The Eternal Cycle − Ecology, Worldview and Ritual of Reindeer Herders of Northern Kamchatka. Senri Ethnological Reports 48, Osaka:National Museum of Ethnology.
IRIMOTO, Takashi
 2004b Northern Studies in Japan. Japanese Review of Cultural Anthropology 5:55-89.
IRIMOTO, Takashi and Takako YAMADA (eds.)
 1994 Circumpolar Religion and Ecology. Tokyo:The University of Tokyo Press.
IRIMOTO, Takashi and Takako YAMADA (eds.)
 2004 Circumpolar Ethnicity and Identity. Senri Ethnological Studies 66, Osaska:National Museum of Ethnology.
金子英一
 1989 「チベット」『仏教文化事典』東京、佼成出版社、293-304頁。
シャカッパ,W. D. (三浦順子・訳)
 1992 『チベット政治史』東京、亜細亜大学アジア研究所。
山田孝子
 1994 『アイヌの世界観』東京、講談社。
YAMADA, Takako
 2001 The World View of the Ainu. London:Kegan Paul.
YAMADA, Takako and Takashi IRIMOTO (eds.)
 1997 Circumpolar Animism and Shamanism. Sapporo:Hokkaido University Press.
山口瑞鳳
 1983 『吐蕃王国成立史研究』東京、岩波書店。
山口瑞鳳
 1985a 「ラマ教」『平凡社大百科事典』第15巻、東京、平凡社、420-421頁。
山口瑞鳳
 1985b 「チベット」『平凡社大百科事典』第9巻、東京、平凡社、703-704頁。
[煎本孝、山田孝子の引用文献については、本論中に記載したラダック・チベット関係業績以外の文献を記す]

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