* 家族という病
 NHKアナウンサーだった下重暁子が『家族という病』という本を出した。
家族も、国家同様、共同幻想とみることも出来るが、「欺瞞を信じること」
が問題と、いう。 〜アマゾンの内容紹介から〜
≪ 日本人の多くが「一家団欒」という言葉にあこがれ、そうあらねばならない
 という呪縛にとらわれている。しかし、そもそも「家族」とは、それほど
すばらしいものなのか。実際には、家族がらみの事件やトラブルを挙げれば
キリがない。なのになぜ、日本で「家族」は美化されるのか。 一方で、
「家族」という幻想に取り憑かれ、口を開けば家族の話しかしない人もいる。
そんな人達を著者は「家族のことしか話題がない人はつまらない」「家族写真
入りの年賀状は幸せの押し売り」と一刀両断。家族の実態をえぐりつつ、
「家族とは何か」を提起する一冊。≫
  〜ビュアーからの投稿より(アマゾン)
【 世の中には口にすること自体タブーとされる領域がいくつかある。
 出生、能力、死、犯罪歴、宗教、遺伝、国籍などである。
本書は「家族はすばらしい」は欺瞞である、という斬新な切り口から
家族観における1つのタブーに挑んでいる。これまでにないテーマだけに
読後感は様々だろう。本書の主旨、提言などと全く無縁なまま一生を終える人は
ある意味安泰で幸福な人生かもしれない。しかし家族の中にも修復不能となる
アクシデントがなかなかの頻度で発生するものだ。配偶者との離別は無論、
血縁者間でも家族内崩壊は起きる時には簡単に起きてしまう。
 一家団欒を無邪気に肯定するのも悪くないが、ある種の読後感の悪さを
犠牲にしても筆者の視点に一度触れておく効用もあろう。
読み進むと上記の保険的効用だけでなく筆者のより普遍的な家族観を垣間
見ることができる。いかに生きるかは正しい死生観が前提となるように
正しい家族観には本書の主旨の理解が前提になるのかもしれない】
▼ 家族のあり方は、時代により変化していく。TVのインタビューや、
上記の内容を見る限り、納得する部分と、違和感を感じる部分がある。
国家幻想論を、その構成要素の一つの家族に当てはめると、これまた共同幻想
でしかないことが分かる。その家族の形態が情報化の時代の中で、大きく変化
を始めてきた現在、そのあり方を根こそぎ否定してみる必要がある。
 殺人事件の過半数以上が家族内殺人という現実がある。 商家の大家族の
末っ子の環境で、下目目線で家族を見てきた経験から、また両親から孫の
ように扱われたため、その温みが今でも残っている。それもあって、著者の論
は、あくまで一面でしかないことも見て取れる。 私の家族は、戦前、戦中、
戦後と、生き抜く中で、全員が病というより、戦傷の深い痛手を受けていた。
誰一人として、家族が素晴らしい!など思ったことはなかった。ただ自分ひとり
を守り、生きていくだけで精一杯。この時代は誰もそうだったのだろう。
家族は素晴らしくあらねばは、占領国アメリカの洗脳の一つでしかない。
確かに家族は病であるが、魂の故郷でもある!家族が病と割切って良いものか?
・・・・・・
4784,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜①
2014年04月20日(日)
  * 倒産よもやま話(三年後に思うこと)
 倒産など滅多にできない経験である。姉夫婦、兄夫婦の倒産劇を身近にみて、
相談にのっていたのが予備知識になっていた。お陰で、右往左往することなく
比較的冷静に対処できた。「人助けは、結果として自分のため」になる。
幼馴染が10年前に訪ねてきて、倒産の生々しい話をしていたが、姉・兄と共通
する点が、弁護士などの代理人をたてること。そのための資金を必ず確保する
ことを強調していた。それもあって、迷わず弁護士に依頼した。30年来の経理
事務所の合同センター内の弁護士に依頼することになった。兄の倒産も手がけて
いたので、内情を知っていたこともあり、順調に手順が進んでいった。 
無我夢中の渦中、何もかもが新鮮な体験で、ドラマの主人公のような気分。 
過酷というより、「痛・面白い日々」という感覚で、惨めとか、恥ずかしいなど、
思う余裕などなし。動物的本能が自らをつき動かしていた。 2011年3月30日
午後5時に、担当弁護士の主導のもと、弁護士二人と、女子事務員と、私たち
三人の役員が起立をして礼をした後、「これで会社は消滅しました!」と宣言。
その後、経理総務は全てが弁護事務所に引き継がれた。その時から、二人の役員
は弁護事務所の引継ぎと、資産処分の補佐になる。と同時に、私は倒産会社の
前社長。翌日の午前、弁護士と二人で、地元銀行に報告を兼ねた御詫びまわり。
午後からは、従業員への事情説明と解雇の宣言。その後は、取引先からの問い
合わせは一切なく、私個人の身の回りの整理だけ。そのため、40年近い事業
人生の緊張感が切れて、浮いたような軽い気持ちになる。数日間は、町内と、
取引先しか情報は流れてないため、普段通りだったが、一週間経ってから、
マスコミが騒ぎ出す。どのチャネルを回しても、倒産騒ぎ。それも、震災絡み
もあってか、日テレ「真相報道バンキシャ!」(毎週日曜18:00〜放送)から
自宅に取材依頼の電話。尾ひれ羽ひれが流される位は解っていたので、迷わず
断る。東北震災絡みで、数軒のホテルなどが廃業・倒産をしていたが、規模
から見て、当方が最大規模の為、あわや全国版ニュースになるところ。 
振返ると、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、「痛・面白い」など、とんでも
ない事態ではあった。時間が経つにつれ、記憶の書き換えをするしかない
典型的事例か! ーつづく
・・・・・
4417, 閑話小題 ー昨夜は高校の同級会
2013年04月20日(土)
  * 審判のミスジャッジ
 一昨日の巨人対阪神戦で、一塁審判が明らかにセーフのジャッジをアウト
にした。残酷なのは、走者の足が一歩先に塁に着いているのをビデオで何度も
流していること。後で注意勧告されるのだろうが。目から火が出る思いだろう。
恐らく、ビデオで流されているのだろうと気が気でないはず。甲子園の高校
野球で審判のミスジャッジを見かけるが、これも純真な子供の心を傷つける
ことになる。審判もミスをするが、致し方がないと割り切るしかない。
ビデオの方が人間の目より明らかに優れている。その結果の現象だが・・試合が
流れているため、ミスとしても後に戻せない矛盾がある。これと同じことが、
政治にもある。誰が見てもミスジャッジの政治判断としても、変えることが
出来ない。私利私欲や党略で、正当な判断が出来なくなり方向を誤ってしまう。
  * 昨夜は高校の同級会。
 昨夜は高校の同級会。幹事は気をゆるして酒が飲めない役回り。このところ
二回に一度は、私と幹事相棒Mの役目。別に好きでやっているわけでないが、
大学の寮とか、会社経営をしていた頃の宴会を含めると、間接を含めて二百回
以上は仕切りをしてきた。いや、もっと多いか。まずは盛り上げに役回りに
徹すること。酒を飲むのも一期一会。人生を振り返ると、いつも、「宴会ととも
にあった」。 気の合う相手であれば二人でも宴会。
 ネットの「日本大百科全書」によると、
≪ 酒や歌舞などを伴う高揚した心の触れ合う機会。宴とも饗宴ともいう。
また宴会の性格によって祭宴、祝宴、招宴、酒宴、狂宴などとよばれる。
一般に宴会は季節ごとの折り目や人生の節目に行われ、忘年会や新年会が年末、
年始という折り目に行われる宴会とすれば、子供の誕生祝いや結婚の披露宴は、
人生の節目に行われる宴会ということになろう。≫ 
とあった。以前は、各家ごとに料理をつくって御客を招待したり、料理屋で
宴会を開いたが、今では居酒屋の大部屋で開くケースが多いという。小・中学校、
高校、大学の同級・同期会だけは、最優先に出席にしてきた。同級会は魂の世界。
心の故郷が魂とすると、年々「遠き日は 年とるごとに 近くなり」というのが
実感できる。結局、家に帰ったのが一時過ぎ。
・・・・・・
4043, 一時停止 ー3
2012年04月20日(金)         
  * 出会い ーフェルメール 1967年     
「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
≪ 私がほんとうにフェルメールを見たのは、その本物を見たときである。
本物を見たから、フェルメールが見たくなったのだし、旅に出ずに複製しか
見る機会がなかったら、もしかすると一生私はフェルメールに気づかなかった
かもしれない。現代の進歩した印刷技術は、複製と本物との差をだんだんに
小さなものにしてゆきつつある。複製で見ても本物で見てもそんなに変わりは
ないという絵画もあるだろう。複製を見ることが、本物を見ることにつながる
絵画もあるだろう。だがフェルメールはちがう。複製と本物との間に、越え
がたい断絶がある。 あたかもヴィニールの花と、野の自然の花とのように。 
あるいはこう言いかえてもいいかもしれない。本物を見ても、複製を見たのと
同じ感動しかなければ、私はその絵にほんとうに感動してはいないのだと。
そういう形で感動した絵は実は私にはまことに少ないのだが。 はじめて見た
フェルメールに感じた気持ちを、そのときの状態のままにことばにすりとしたら、
それは「ああきれいだなあ、ほんとになんてきれいなんだろう」ということに
しかならない。 美は人を沈黙させるという。その通りである。その沈黙の中に、
無数のことばにならぬことばがひしめいているのではないかと言う人もあるが、
少なくとも私の場合、そう言えば嘘になる。沈黙はもっと深く、ことばにならぬ
ことばなどといった不純なものはない。しんとした純正の沈黙なのである。 
ことばはずっとあとになってから、やっと重い腰をあげる。その時でもことばは
謙虚だ、ただいちばんふさわしいオマージュを捧げ、絵の美しさにほんの
少しでもあやかりたいと思うだけなのだ。≫
▼ 本物の絵画や美術品を数多く見てきた。TPOもあるが、その前で
立ちすくし、身動きが出来なくなる。ダビンチのモナリザ、サンピエトロの
ミケランジェロピエタの像、ゴッホのヒマワリなどを目の当たりにした感動。
対象が浮き出てくるようなエネルギーが満ち溢れていた。 特にゴッホ
ヒマワリは、周囲に誰もいなかったこともあり、10分間ほど、釘つけになって
しまった。出会いである。そういえば、近じかフェルメール展が日本で開催される。
・・・・・・・
3677, 自己を見つめる −4
2011年04月20日(水)
    「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 節目どきは、境遇の節目でもある。特に乗り越えることが不可能と思える壁に
直面した状況を「限界状況」と、ヤスパーが指摘している。 その限界状況に
「人生の不条理」に突き当たる。その時、それまで隠されていた真実が現れ出る。
節目を打つとは、人生の不条理を受け入れ目を背けないことである。
正中心一点無になり、変化を受け入れること。
  ー 第三章 境遇 ーから、抜粋
【 現在、変えることのできない定めを帯びた宿命的な境遇のなかへと投げ
出され、置き入れられて、人生の途上にある。その私たちの無に貫通された
現世における存在のうちには、宿命的な境遇のもつ変えることのできない定めが
刻印されている。ヤスパースが指摘するように、私たちの生存のうちには、
どうしようもない「限界状況」が巣くっていると言える。限界状況とは、
それに突き当たっては、私たちは挫折し、崩れ去る崩れ去るような、乗り越る
ことの不可能な壁に直面した状況を言う。そうした限界状況に面座して、
私たちは途方に暮れた困惑のなかで、解決しようのない自己の人生の不条理の
根源的事実に突き当たる。しかし、そのときにこそ、私たち自身の、ほんとう
の「実存」が目覚めてくる。実存とは、私たち各自の生存の、赤裸々な真実、
その拒否できない現実のあり方のことである。自己の実存を自覚し、それにも
とついて生きるよりほかに、この世を生きる生の根拠を、私たちはもたない。】
【 ハイデッガーが述べた通り、私たちは、それぞれ何らかの世の中に投げ
出されと「被投的」存在である。その「現事実性」を引き受けて生きて
いかなければならない存在である。その存在としての自己を生きていかなければ
ならない辛い気分を取り払い、重みや憂いを取り払い、それらを忘却させよう
という気晴らしや、慰めを求めて、無邪気な明るい朗かさ愉悦を、好んで受け
入れようとする傾向にある。しかし、そうした気晴らしが、瞬時の儚いもの
ということを骨身で知っている。その人生の底を見つめ、底知れぬ深遠を
予感し戦慄をする。その深遠が、「限界状況」の時に直面する実在である。】
  自己を見つめるとは、節目の境遇の人生の底を見つめ直すことと、
言われると、挫折体験を振り返ることになる。その意味で、挫折体験の中には
  多くの教えがある。 が、時間がたつにつれ、それを忘れてしまうのが
 人間の性である。そう人間、皆、馬鹿!
 ・・・・・・・
3312, ゴールドマンを訴追
2010年04月20日(火)
 1929年から始った世界恐慌では、その直接の仕掛け人達が多くが逮捕された。
しかし、これまで逮捕までされたという話は聞いてない。何か不思議な感がして
いたが、やっとSEC(証券取引委員会)が訴追に動き出した。アメリカは金融
マフィアが仕切る国でも、歴史に残る犯罪を、見逃すことは歴史が許さない。
以下は、毎日新聞の数日前の社説だが、毒入り債権を欠陥車に例えるとは、
トヨタの喚問もあったこともあり比較するに分かりやすい。
例え話は本質をより分かりやすく整理してくれる。
  〜まずは、その部分から〜
  = 毎日新聞社説: 「ゴールドマン訴追 金融危機解明の弾みに」 =
(字数制限のためカット 2011年4月20日)
・・・・・・
2937,レーシック専門眼科医院
 2009年04月20日(月)
姉三人が私と同じく強度の近視。その姉三人とも「矯正手術をうけて良かった」
という。知人の何人かが経験者、聞いてみると「白内障の手術時にレンズを
入れたが、出来たらやらない方がよい」と真剣にいう。 迷いに迷っていたが、
去年の半ばに、春先になったら決断しようかと決めていた。そして春は過ぎよう
としているので、 検索に「新潟 レーシック」といれたところ、何と自宅から
数分のところの所在地に「長岡眼科医院」が、あった。三年前ぐらいに出来た
(眼科らしくない)ミニ結婚式場みたいな医院があったが、まさか、そこが気に
していたレーシック専門眼科とは思ってもみなかった。本気にならないと
見えてこないものである。(字数制限のためカット 2012年4月20日)
・・・・・・・・・
2573, 「好き」という言葉の重み
 2008年04月20日(日)
「好きと嫌いじゃどれほど違う、命ただやるほど違う」という川柳があるが、
これほど人間の本質をあらわしている言葉はない。私も好みの激しい人間だが、
この感情は、何に由来するのだろうか。「あの男は好かん」とか、「あの女性は
私のタイプだ」とか、思うにつけて、その意味を考えたことがない?育ってきた
環境が似ているとか、教養レベルが同程度とか、趣味が一緒だとか。反対に
「俺は堀井が嫌いだ」と何人から言われたことか。でも、相手が相手だけに
心の底では?私の経験上からみて「嫌い」いう言葉は禁句である。いわれた方が、
それで一生恨まれるからである。犬でも猫でも、相性があるから、これだけは
如何にもならないことと割り切るしかないのか。私の好き、嫌いの基準は娑婆
経験の中からハッキリ自覚している。女性は長女、血液型A型、教養と品性があり、
顔はノッペリ。優しい雰囲気があり、明るい人である。大体、好きなタイプは
概ね、これを満たしていた人。興味のないタイプは、冷たいタイプで、神経質な
近寄りがたい正統派美人と個性的な自意識の強いタイプ。 殆どいないが!
コンプレックスの強い人。 犬でいうと、宅上犬タイプが好きで、シェパード、
コリーのような人は苦手。同性は、品性と教養のない人と、社会的な肩書き
だけで人を判断する人とか、チャラチャラした人は苦手。商工会議所、
ロータリー、ライオンズとかの人間関係に没頭している人種。
それと女性関係に派手な人。軽薄な二代目。 もう一度いうと、品性のない人!
それをいったら、地方では誰も相手に出来ない?とはいうが、それはそれでよい。
そういう御前さん、どうなの?といわれるが、他人に厳しく自分には甘い?
 ところで好き嫌いということは、如何いうことか?相性ということ? 
それとも持って産まれた先天的な本質。これだけは、どうにもならないこと?
好きなことを選んで、それを一生を通して追求することが、幸せと不幸の
分かれ目になる。好き嫌いが、先天的なものとすれば、この道理は正しいこと
になる。 神=自然が与えた本質的素養だからである。シカゴ大学の心理学者
ミハイリ・チクセントミハイによると、人間には“フローの状態"
と呼んでいる精神状態がある。(字数制限のためカット 2011年4月20日)
 

2015年の桜 ー悠久山の花見 ~3

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

d他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 
 今日のYoutube

昨日の朝の悠久山の花見、神社脇の駐車場から出発したが、
今朝は、正面の参道のコースにした。 この参道は、小学校の頃の
スキーコースに丁度よい。やはり昨日が満開で、そろそろ散り際に
なっていた。明日は、桜吹雪で、桜絨毯になっているだろう。




・・・・・・・
2208, 下流志向
2007年04月20日(金)

     おはよう!♪~ ヽ(´π`)ノ
        
    一週間前の毎日新聞・文化欄「本の現場」のコーナーに、
   「下流思考」著者の内田樹氏へのインタビューをまとめた、
   { 若者はなぜ学ばず、働かないのか
    <「下流志向」内田樹著 講談社> } 
     という記事があった。
   本屋では平積みであったが、数回立ち読みをしていた。
   面白そうだが、買うほどでもない本と判断していた。
   この記事と書評で八割は把握できたようだ。
    言わんとしているエキスを著者から引き出している。

毎日新聞のHPに記事があったので、コピーして置きますー
    ----
 ◇固まった頭をぐちゃぐちゃに

 フランス現代思想の研究者にして武道家が「学力低下」「ニート」という
若者をめぐる二大問題を論じた。
約2カ月で10万部と、この手の本としてはかなりの売れ行きだ。
 丘の上に南欧修道院を模した校舎が建ち並ぶ、神戸女学院大(兵庫県西宮市)
で話を聞いた。「ここより美しいキャンパスは見たことがありません」という。

 「ずっと考えていたけれど、背後にある巨大な地殻変動の正体がわからなかった。
オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著)を読んで、腑(ふ)に落ちたんです。
『それってグローバリゼーションだったのね』と」

■過剰な「消費主体」
「オレ様」を元に話を広げていった。商品経済は世界の隅々にまで行き渡った。
日本人は過剰に適応し、子どものころから「消費主体」として振る舞うように
なったという。
 消費主体とは、商品を買うように「今の自分に損か得か」によって、
物事との関係を判断するあり方。学校や仕事にもそれを持ち込み、
すぐ役立たないことを学んだり、簡単に稼げない仕事をやるのは、
高くて不必要な買い物と同じと考える。学ばず働かずとも、とりあえず何とかなる。
だから学力は低下し、ニートが生まれる。

「消費主体化が進んだのは、日本人みんながすぐ『右へならえ』になるから。
国策が成功しすぎたんです。グローバリゼーションへの過剰適応は、
子どもを規格化するような教育政策が大成功した結果でしょう」
 問題解決には、かつての地域社会や大家族、学生寮といった損得ではない
人間関係を持てる場が必要だ。自身は将来、<寺子屋のような、道場のような、
コミュニティの拠点を作りたい>と思っている。
「子どもに武道や哲学を教え、書生を住まわせ、宴会やマージャンをしたり…」

■忍耐強く聞こう
 普通の人にもできそうなことはないだろうか。
「商品のように流通している出来合いの言葉しか知らない子どもたちに、
『オリジナルな言葉を聞かせてよ』と言うこと。たとえ言語の体をなさなくとも、
大人は忍耐強く聞くことです。楽しいですよ、決まり文句しか言わなかった子が、
初めて生の言葉を発する瞬間に立ち会えるのは」

 これは、キャンパスで日々実践していることでもある。
「18歳までに固まった学生の頭の中を、ぐちゃぐちゃにして社会へ送り出す、
 それが私の仕事なんじゃないかなあ」

 校舎の中庭に出た。抜けるような青空にクリーム色の外壁が映える。
 「昔は全寮制だったそうです。今の寮も定員を増やしたいのですが」
 「ぐちゃぐちゃにする仕事」への思いを新たにしているようだった。
                        【鈴木英生】
  ====
 ■人物略歴  ◇うちだ・たつる 神戸女学院大教授(フランス現代思想)。
「『おじさん』的思考」「先生はえらい」ほか。 毎日新聞 2007年4月13日 

ーーーーーーー
なるほど、と納得する。
学生時代は寮生活、ゼミ、クラブ、世界一周旅行と当時としては
恵まれた経験を多くした。
その中で一度、「固まった頭がぐちゃぐちゃ」になった経験があるから、
その重要性が深く理解できる。
馬鹿の壁を一つずつ叩き壊す経験をしたが、
振り返ってみてどこまで壊してきたのか?疑問である。
何も壊していなかったのか、いや壊した!の、自問自答である。
その時に生の言葉を発していたかどうか分らないが、
傷口から出る血のような言葉であったことは間違いない。

ー著者の次の指摘も、ずばり急所をついているー
「ずっと考えていたけれど、背後にある巨大な地殻変動の正体がわからなかった。
オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二著)を読んで、腑(ふ)に落ちたんです。
『それってグローバリゼーションだったのね』と」・・・
 ・・
グローバルぜーションの上に共産圏が一挙に資本主義社会に組み入れられ、
更に「ゆとり教育」の失敗が、無気力の若者を造成していまった。
また、アメリカの実質占領政策が、この国民を無気力にしてしまった。
団塊世代ジュニア以下の年代の人たちは、明らかに自ら下流を目指しているのでは?
と思うことが度々である。 彼らは、お消費様なのだ。
逆の立場は数パーセントの人たちが確実に占拠してしまっているのである。
この時代の変化に、やはり一度、グチャグチャにして、己を変えるしかない!
変わり方によるが、少なくとも、アメリカ型の消費社会を見据える知識は持たねば!

                  (℃゛)/ また、明日!
・・・・・・・・
2006年04月20日(木)
1843, 桜の話
               才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)
近くの福島江の桜は昨日・今日が満開である。
「花」と言えば桜を意味するくらい、桜は日本人にとって特別な花である。
今年の花便りだと桜の当たり年のようだ。
私のHPに投稿してくれる井上さんのHPも、桜の花が多い。

長岡にも幾つかの桜の名所がある。
自宅から数分のところにある、福島江の桜と、悠久山の桜だ。
毎年、開花を楽しみにしている。
5年に一度は大当たりの年になるが、今年はその年か如何か?

桜をぬきにして日本人の自然観や人生観を語ることは出来ない。
文学・能・歌舞伎・絵画のどれをとっても、桜は大事な役割を果たしている。
日本人の考え方や生き方を表しているとも言える。
春になると「桜前線」が天気予報のように(今どこが満開かと)放送される位だ。

十数年前の話になるが、私の近くに住んでいた従兄弟が、
桜の散り際を待っていたように「自死」をした。
その納棺の儀式の時、桜吹雪が部屋の中に吹き込んできた。
ゾクッとするような不思議な体験であった。
5月3日に、その法事に行くことになっている。
               (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?
               
ー幾つかの花に関する和歌・俳句を
   HPからコピーしてみた。

世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし
                    在原業平
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
                    細川ガラシャ
人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂いける
                     紀 貫之
こえぬ間は 吉野の山のさくら花 人ずてにのみ ききわたるかな
                      紀 貫之
みよしのの 山辺に咲けるさくら花 雪かとのぞみあやまたれける
                      紀 友則
色見えでうつろうものは世の中の人の心の花ぞありける
                     古今和歌集
願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ
                       西行
吉野山 こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき
                       西行
浮世には 留め置おかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり
                       西行
仏には 桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば
                       西行
吉野山 梢の花の色々に おどろかれぬる 雪のあけぼの
                      太閤秀吉
咲く花を ちらさじと思うみ吉野は 心あるべき春の山嵐
                     徳川家康
花咲くと 心にかけず 吉野山 またこむ春を 思いやるにも
                      前田利家
花にねて よしのや吉野の吉水の 枕の下に石走る音
                     後醍醐天皇
吉野山 陵ちかくなりぬらん ちりゆく花も うちしめりたる
                     昭憲皇太后
まだ咲かぬ 花のあかりや 蔵王堂     芭蕉                 
古寺に 誰が植え捨てし 花一本      芭蕉

妹が垣根 三味線草の 花咲きぬ
                     蕪村
そのくせに 花はくれない 人は武士
                    古川柳                     
難波津に 咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花
                     古今集
こち吹かば 想いおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ
                     菅原道真
さくら さくら やよいの空は 見渡す かぎり
 かすみか くもか におぞ いずる  いざや いざや 見に ゆかん
 ーー
 桜は死の匂いがする。 一瞬にして咲いて散るからである。
 それが、また良い! 今朝は強風が吹いている。
 こういう日の強風は、何か腹立たしくなるものだ。               
                   ε(´',_c')зβyё☆βyё
・・・・・・・
2005年04月20日(水)
1478, 居酒屋放浪記

土曜日は家内と至近にあるサエゼリアか、歩いて十数分の駅周辺の
全国チェーンの居酒屋に行っているが、もうソロソロ飽きた。
そこで、昔からの居酒屋をあらためて見直すことにして三週続けて行った。
今更の感もあるが、年齢もあるのだろう。家内はもう行きたくないというが。

最近、BSi・6で「吉田類の居酒屋放浪記」を放映している。
平日の19時半に放送しているが、毎日これを見るのを楽しみになっている。
全国のレトロな居酒屋を訪ね歩く内容だが、吉田類と現場で酒を飲んでいる
ようなカメラ目線がよい。先々には、何十年も積み上がられた味と雰囲気が
漂っている。店と料理と親父・女将とお客の醸しだす暖かさがよい。
それと、その地域の日本酒の紹介も時々ある。

以前に「居酒屋の親父」のミニ小説?を書いたことがあったが。
男の楽しみは酒と女と博打であるというが、軸は一つという。
 間違いなく私は酒である。
そういえば32年前に初めての創業で貸しビルつくった時に、
その中に「養老の滝」を立ち上げて経営したことがある。
二年間だったが、忘れられない経験だった。

酔っ払いの恐ろしさ、嫌らしさ、そして面白さをジックリ味わった。
居酒屋は客としてはよいが、自分がやるものではない。
カウンターの外と内側は全く違う世界である。
人間、酒が入ると別人になる。
歪みと誠実さなどの人間性がそのまま露呈する。
割り切ってみれば、これほど面白いものはない。
人生の縮図が、そこにある。 書き出したら止まらない。

 ーーー
吉田類の番組の幾つかを、HPからコピーしておきます。

#86 「とんちゃん」
老舗居酒屋として知られるとんちゃんは 
戦後間もない頃、昭和29年から屋台として現在の場所で開業。
その後、店舗営業に切り替えて現在に至っている。
黄色に赤い文字ののれんがひと目をひく
豚のあらゆる部分をトコトン味わえることで有名で 
連日会社帰りのサラリーマンで賑わっている。
人気の銀鍋、にらとん、蒙古ステーキなど全て200~600円と
どの料理も安くてうまい。
屋台の心を忘れないために 天井には窓が・・、
月が姿を現すと お客は見上げながら月を肴に一杯やれる
ーー
#87 「葉牡丹」
昼間の散歩では 今高知で一番人気の場所ひろめ市場を覗いてみる。
何が凄いのか、入ってみましょう。
高知の新鮮な魚や、野菜。
お惣菜やからラーメン屋、うどん屋、100円ショップまで。
小さなお店がいっぱい。
 そして・・・市内にはなんと昼の12時から営業している居酒屋がある。
創業50年、ここ、葉牡丹。その日にならないと入荷がわからないドロメ、
チャンバラ貝などでまずはひっかける。
煮込みトーフ110円、豚串350円、お財布にも優しい。

ーー
これからは私の文に戻るが、
東京の中野の居酒屋もよかった。

創業以来47年の女将と、それ以来のお客との会話が何とも味がある。
苦しい時の居酒屋の酒の味の何とも心の気休めはなかった。
神戸のガード下の中華料理店の油にまみれたモツの炒め物とか、
おでん屋(関西では、たしか関東煮といった)のスジ肉の美味しさ。
誰もが、甘じょっぱい酒のつまみの思いでは数知れずあるだろう。

今度、養老の滝の立ち上げの時の話をジックリ書いてみよう。
あまり思い出したくないが、書きたくなったということは、
その時のことを受けいれる余裕が出てきたのだろう。
その時の相棒もこのHPを見ているとメールが入った。

・・・・・・
2004年04月20日(火)
1113, ヘビー級の醍醐味 -2

 ー家内性手工業ー

昨夜、世界ヘビー級ボクシングを見ていたら、アナウンサーが面白い言葉
をいった。IBFの世界チャンピオンのセコンドが何とトレーナーが父親で、
カットマンが母親であった。
解説者も長くボクシングを見ているが初めてと言っていた。
その時のアナウンサが「家内性手工業」と言ったから笑ってしまった。
上手いジョークである。

大型の選手が小型の選手を、追い回している試合であった。その内容を
称して「コンニャクを押さえつけて包丁で叩き切ろうとしているようだ」
という表現もおもしろい。際どい壮絶な試合だからこそジョーク?
が出るのだろう。

大型選手の名前がまた良い「ゴロタ」というポーランドのゴロツキあがりの
柄の悪い選手なのだ。いつも負けそうになると相手の下腹部を叩きつけて、
反則負けになる。 数年前もタイソンに負けたばかりだ。

この試合ではないが、観客席で見ていた母親が、負けそうな息子を助け
ようと興奮して「ハイヒール」で、相手の選手に殴りかかったこともあった。
この試合は最後の最後までわからない大接戦でドローであった。
 ヘビー級は面白い。

そういえば具志堅というチャンピオンが
「あなたの職業はどういう関係?」と聞かれて
「肉体関係」と答えた話しを聞いたことがあるが。
まあ、どうでも良いことだが。

 ・・・・・・・・・
 2003年04月20日(日)
746, 笑われている自分を笑っている面

 数年前の話である。 
高校の同級生が、ある会ー精神修養団体支部ー主催で講演会をやるから、
聴講して欲しいと頼まれた。
たまたまその話し手の手記を読んだ事があったので、二つ返事で参加をした。

 300人位の講演会で同級生が開会の挨拶をした。
恥ずかしいそうな顔をしての挨拶が何とも可愛らしい味のある顔であった。
それから数ヶ月後に、同級会で顔を会わせた。
何げなく「お前も、やっと面ができてきたな!」と言うと、
本人がすかさず「どういう面か?」と聞いた。
正直にそのまま「笑われている自分を笑っている面になっていたぞ!」
と言葉がでてきた。どうしようも隠せない心の顕れが純粋にでた面であった。
それも他人に良かれという仏心のが表れた表情は何とも良いものだ。
本人も何か嬉しそうな顔をしていた。

 自分の心の傷を最小にするには、他人に笑われる前に先に自分で笑ってしまう
のがコツである。その意味で、この随想日記も赤裸々に心の奥を曝け出して
笑われるのを承知の上で書いているのも「笑われている自分を先に笑っている」
ことにになる。

 ところで人間の顔というのも面白いものだ。気持ちや品性がそのまま
出てしまう。酔っ払った時の(^。^)y-.。o○-顔を鏡で見てビックリした
事がある。漫画のアトムで小さく出てくるブタの顔そのものの顔であった。
実際そういう顔をしているのだろう。そういう顔をして、総てを
忘れたい為飲んでいるのだから、それも仕方がないが。

顔はごまかせない。 バカな女が必至で化粧をするのも解る。

・・・・・・・・
2002年04月20日(土)
382,能力とは

人間の能力は無限だ。
問題は発揮できる環境をどうやって作り上げていくかだ。
それを伸ばす為に、人生設計ーグランドデザインが必要である。
それを前提にして目標の設定を立て、その達成のプロセスと
その結果が能力。したがってグランドデザインが明確でかつ高く
なくては伸びない。 まとめると
・高い志を持ち
・ウオームハート&クールヘッドで
・事の本質を見つけ
・自ら常にその時点の最重要の問題を見つけだし
・失敗を恐れず、その重心と中心点に向かい
・全エネルギーを持って
・チャレンジとコンペテションとチェンジをする

知性と愛と力のバランスをとり、それぞれの価値を見つけ継続
してやり続ける。その為には好きな事を見つけそれをやり続けるか、
それを好きになるかだ。  まあこんなところか。