* ソクラテスのパレーシア 
             〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 危険を冒しながら真実をかたること。これがパレーシアだが、とはいえ、
社会において、その実行となると難しい。このブログを書き続けていると、
己の程度を曝け出し、多くの人を揶揄し傷つけてきた。気遣っていてもである。
想定の対話の相手を、数年先の自分にしているが、後で読み返し、第三者
目を想うと冷や汗が出ることしばし。しかし、飾っていたら、長続きをしない
ことを自分が一番知っている。 〜以下の箇所は、哲学の本質を述べている。
≪ ソクラテスにとって最も大事なのは、相手をやりこめることではなく、
 自分の魂を磨くことであった。そのために命懸けで対話を行った。
この営みは「パレーシア」(真実を語ること)と呼ばれている。パレーシアとは、
危険を冒しながら真理を語るという実践を意味するギリシア語。ソグラテスが
裁判の際に立ち向かったやり方が、まさしくこのパレーシアである。
 たとえ心の中で真理が発見されたとしても、「私が思う」だけでは、それは
パレーシアとは無縁なのだ。パレーシアを通じた魂の鍛錬こそ、命のあるかぎり
やめてはならず、見返りを求めることなく、純粋な熱意に発した無償の責務で
あり、かつ、個人の内面的な人生訓にとどまるものではなく、結果的には他者や
共同体にとっても有益なものである、と考えられた。それゆえ、政治家になり、
ポリスを統治し他者の魂を気遣いたい者は、まず自分の魂を気遣うべきである、
ソクラテスは強調する。自分を気遣わない者は統治者としては不適格なのである。
ここには、身の魂の鍛錬に専心することが、他者や共同体を気導つことよりも
優先されるいという揺ぎのない確信が表明されている。 ・・(略)
ソクラテスの対話術は、自らの主張を他者に受け入れてもらうための(もしくは
認めさせるための)技術ではなく、相手に「問いかけること」、相手の主張を
「聞くこと」に主眼があった。そもそもこの「無知の知」の重要性は、この
「聞くこと」のための手法という点にあったのである。何かを「知っている」
から語るのではなく、何も知らないか、もしくは何ごともよく分かっていない
からこそ相手から何かを引きだそうとする。パレーシアの原点はここにある。
それゆえパレーシアとは「実直に語ること」ではあっても、単に一方的に
「包み隠さず語る」ということではない。ソクラテスのパレーシアは、政治家の
ように多数者に向かって語るものではなく、密接な一対一の関係が必要である。
またこの対話は、自分が主役としてふるまうのではなく、相手の話を引きだす
ようなやり方で行われる。それゆえ相手はソクラテスに導かれながら自分自身に
ついて語ることになる。 ここで、注意しなければならないことがある。
率直に語ること、もしくは相手の言葉に耳を傾けることは、後にキリスト教文化
ならびに精神分析においては、「告白」という形態をとって展開され、あたかも
地続きのもののように理解されることがある。だが、この両者は異なる。
パレーシアにとつて重要なのは、自分が語ることができる「ロゴス」(つまり
論法と言葉)が、自分の生き方と確固たるつながりがあることなのである。≫
▼ 成るほど、飽きもせず、連日、書き続けているのは、いまここの私が、
 数年先の、いまここの私に向け話している実感があるため。そして、近未来
の自分の感想を想定することで、私自身を見つめることになる。これを公開
するのは、あまりに危険だが。また、公開しないと続かない弱さもある。
・・・・・・
4799,よくもここまで騙したな
2014年05月05日(月)
   「よくもここまで騙したな これが[人殺し医療サギ]の実態だ!
       ーいのちを奪いながら金を奪うワンワールド支配者」
            船瀬 俊介 , ベンジャミン・フルフォード (著)
 以下の内容紹介だけでも、この書の半分は言い尽くしている?
あのベンジャミン。これぐらいでないと、面白くないが、医者の世界では、
今さらのこと? こういう視点も知っておいたほうがよい。ー内容紹介ー  
〜医療を殺人ビジネス化した者たちよ! 化けの皮はすでに剥がれている!
◎ がん患者1000人殺して一人前!
◎ 日本の内科医は1人平均1000人のがん患者を殺している
◎ 命を奪う、カネを奪う!  医者は完璧に白衣の殺人鬼、白衣の詐欺師!
◎ 日本の近代医学はどこをほじくり返しても詐欺とペテンと強盗と殺人だらけ
◎ 欧米医療というのは基本的に軍隊の医療
◎ 足を切断や伝染病の治療には欧米医療はいいが、糖尿病とがんといった
  慢性病のときは絶対に関わらない方がいい
◎ 漢方も鍼灸も食事療法や整体療法も弾圧された
◎ マッサージ、カイロプラクティック、サイコセラピー、
  ホメオパシーも弾圧された
自然治癒力をサポートして病気を治す伝統的なテクノロジー
  全部弾圧され、薬物療法だけが生き残った
◎ 伝統療法は、金融マフィアによって保険対象外にされた
◎ 強制的に保険料を取って、自分たちの息のかかった殺戮医療マフィア
  にだけおカネを回すシステム
◎ 医療の問題は上に行くとラムズフェルド、ブッシュ、ロックフェラー
  らに行き当たる
◎ 医者に金も命も投げ出す崖っぷち日本人よ! 今こそ、自分の脳を疑いなさい
◎ 薬漬け、検査漬けの放射線大量照射に生物兵器の毒物注入まで
抗がん剤は元々は廃棄に困った化学兵器の原料
◎ 失敗する医者ほど儲かる /治す医者は失業  
◎ 医療は世にも不思議な失敗報酬の世界!
◎ 一番高い抗がん剤ペグイントロンは1グラム3億3170万円する
◎ マイクログラムまで薄めて使っても1回当たり何十万円、
  利益率は何万%にもなる
白血病はがんではない。 団十郎を殺した!?マイロターグという
  白血病の治療薬は、1グラム4800万円
◎ マイロターグは投与した患者の90・5%が死ぬ!  
◎ 輸血は人命を助けていない、むしろ殺している!?
◎ お年寄りが死ぬとわかるとここぞとばかりに点滴、投薬をやる香典医療
 というのがある。稼ぎどきならぬ殺しどき!
◎ 「現代医学の神は、唯一人しかいない、それは死神である」と
 ベストセラー書籍『医者が患者をだますとき』の著者ロバート・メンデルソン
 はいっている!  だから病院が営業停止中には死人が減る!?
▼ 少し?過激に思えるが、何度か目を通すと決して過激ではなく、こんな
 ものと気づくはず。医者にすれば、見送りの手助けだが、患者からすれば殺人? 
更に言えば、人間ドックや、健康診断が一般的に行われているのは世界で日本だけ。
先日、週刊ポストの広告見出しに、ー「血圧147は健康値」の怪奇ーがあった。
《人間ドック学会が健康診断の基準値を大幅に緩和。他に「総コレストロール
199ー>254」「悪玉コレストロール119ー>178」「中性脂肪149ー>196」など、》 
「これを元に、それまで飲んできた薬は何なんだ?」の疑問が起きて当然。
この変更だけをみても「健康人」を「病人」にして、薬漬けにする利権の闇が
見えてくる。医療行政と製薬会社の利益のため、一般国民が弄ばれている図式が
透けてくる。昔、父親が高血圧で何時も気にしていたが、当時、年齢プラス90が
目安と言う。ところが、5年前に医師から聞かされたのが130。
『これも、いい加減なので』と、言葉を加えていたが・・ で、健康センター
で測ってみると125〜160の間で、平均すると140辺り。父から聞いていた数値から
すると、私は158が目安。140は少し高めだが、これで良しと思っていたが正解。
これからして、医者は偉そうにしているが、詐欺、たかり、殺人集団?
・・・・・・
4432,「死ぬのが怖い」とはどういうことか −4
2013年05月05日(日)
       ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート3:自分の小ささを客観視する道ー「1億7125分の1と、70億分の1」
今度は、時間――宇宙と生命の歴史1についてである。世界の人口からみれば、
私は70億分に1。宇宙年齢からすると、人の一生は1億7125分の1の存在。そう
考えれば、深刻に自分の生き様など考えることはない。その自分の枠組も
勝手な定義でしかない。自分など何ということはない。 やっと、それが
理解できるのが最期の最期とくる。そのことが分からないから、
「死ぬのが怖い」のである。 ー まずは、その辺りを抜粋してみるー
≪ すざまじく荒れ狂うひずんだ宇宙の中の、オァシスのような地球。
 光速で拡大することこそが普通である宇宙の中で、あたかも静かに見える
特殊で局所的な世界。そこに偶然生まれた人の命。なんとはかなく小さく特殊
な現象であることか。生命の誕生は、今から40億年前といわれている。 
地球誕生から6億年経った頃。霊長類が誕生したのは、6千5百年前。
現生人類であるホモ・サピエンスが出現七たのは25万年前。中国その他で
文明が誕生たのが今から6千年前(から9千年前)。そういわれても、どれも
大きな数字すぎて実感がわかない。そこで試しに、137億年前のビヅグバン
を、1月1日の午前零時、現在を一年後の12月31日の24時にたとえると。
つまり、宇宙の歴史を137億分の1に短縮してみると―― 
・ビッグバンは、1月1日午前零時 ・地球誕生は、8月30日 
・生命の誕生は、9月15日 ・霊長類が誕生したのは12月30日午前
 6時26六分(新年まであと1日と約18時簡) 
・原生人類のホモ.サピエンスが出現したのは12月31日午後11時50分 
・中国などで文明が生じたのが新年まで14秒前 
・人間の命は、80歳まで生きるとして、0・18秒。宇宙の年齢の、1億
 7125分の1。ちなみに、宇宙の直径が274億光年、人間の身長が
 170センチだとすると、人間の大きさは、宇宙の大きさの1・44×10
 の25乗分の一というとてつもない小ささだ。それに比べ人間の一生は、
 宇宙が経た時の1億7125分の1。時間の差は、空間の差よりもはるかに
 小さい。これは意外な気もする。1億7125分の1とは途方もなく小さい
 とお思いかもしれないが、地球の人口は70億人。あなたの心は、地球上に
 ある人間の心の70億分の1に過ぎない。一億7125分の1はそれよりも
 約四十倍も大きい。意外と宇宙の中での人間の一生も長いという気がしないでも
 ない。とはいえ、宇宙の年齢を一年にたどえると、人間の一生は0・18秒。≫
▼ 前にも書いたが、この宇宙の他に、10の500乗の宇宙が存在している
 可能性があると知って世界観が変わった。上記のことすら、問題にならない。
ケセラセラだが、当面、死ぬまでの生活もある。一日一回、このような壮大な
宇宙と、その中の自分を考えればよい。象を世界に、その皮膚の間に住む寄生虫
70億分の1の自分。その象も、この宇宙からみれば、10の500乗の宇宙
からみれば、チリですらない微細の存在。だからこそ、生きているうち!
・・・・・・
4058, B層の暴走と価値の錯乱
2012年05月05日(土)
 二年前の5月2日にー3324, 「B層」という「IQ]が低い人々ー 
という文章を書いていた。(3日前の、ここにある)
 ところが昨日の産経新聞の一面の【賢者に学ぶ】「素人の暴走と価値の錯乱」
で、このB層の人たちを取り上げていた。選挙対策として、この層を的にして狙い
打つには問題がない。しかし、彼らB層の価値観を押し付けようとする機運が、
全体を導き始めたため、社会が混乱を始めてきている。その危険な状況を
理路整然と論じた問題提起が以下である。
【賢者に学ぶ】ー素人の暴走と価値の錯乱ー(哲学者・適菜収)産経新聞5月4日
≪ ・・19世紀ドイツの哲学者ニーチェは「神は死んだ」と言った。その意味は、
 西欧において 価値の根拠とされてきた《神の視点=普遍的真理》を設定する
ことが理論上不可能になったということだ。にもかかわらず、《神》は平等主義や
民主主義といった近代イデオロギーに姿を変えて私たちを支配している。その根底
にあるのは「神との距離において人間は等価」という信仰だ。近代大衆社会
こうしたキリスト教本能をもつがゆえに、あらゆる格差、階層的なものを破壊する。 
また、《本当に価値があるもの》《偉大なもの》《美しいもの》は貶められ、
《つまらないもの》《新奇なもの》《卑小なもの》が評価されるようになる。
その結果、芸術家気取りのゲテモノ、半可通、あらゆる領域における素人が権力
をもつようになってしまった。テレビの音楽番組では、芸術の対極にあるジャリ
タレが「アーティスト」と呼ばれ、ワイドショーでは有象無象の評論家が専門外
のトピックについて無責任なコメントを垂れ流している。こうした価値の錯乱の
上に成立するのが《B層文化》だ。前回も述べたように《B層》とは平成17年の
郵政選挙の際、内閣府から依頼された広告会社が作った概念で「マスメディアに
踊らされやすい知的弱者、ひいては「近代的諸価値を妄信する層」を指す。 
この《B層》が現在消費者の主流になっている。そこでは大企業のエリートが
マーケティングを駆使し、大量の資本を投入することで《B層》の琴線に触れる
コンテンツを量産している。 ・・ニーチェは言う。「畜群人間は、例外人間や
超人がいだくのとは異なった事物のところで美の価値感情をいだくであろう」  
畜群はまさに《B層》である。真っ当な価値判断ができない人々だ。彼ら《B層》
は、圧倒的な自信の下、自分たちの浅薄な価値観を社会に押し付けようとする。
そして、無知であることに恥じらいをもたず、素人であることに誇りをもつ。
ありとあらゆるプロの領域、職人の領域が侵食され、しまいには素人が社会を
導こうと決心する。これこそニーチェが警鐘を鳴らした近代大衆社会の最終的姿。 
与党政府も素人に陥落されつつある。前防衛相の一川保夫は「(自分は)安全
保障の素人」と誇らしげに語り、続いて防衛相になった田中直紀は素人以前の
「ド素人」だった。 閣僚から地方首長にいたるまで政治家の劣化が急速に
進んだ背景には、《偽装した神=近代イデオロギー》による価値の錯乱という
問題が潜んでいる。
▼ 恐ろしい末期現象に日本は置かれている。その一つにマスコミが流す
 世論調査がある。世論の大方を占めているのがB層の人たち。彼らは質問で、
どのようにも誘導可能。政治のトップ判断の重要事案に、それを使い権力を
駆使する。その背後に、アメリカの巧妙な誘導が見え隠れする。B層が
「近代的諸価値を妄信する層」なら、過っての?私も当然、その層。
この10年、哲学に目覚め少しは盲信から抜けてはきた、しかし森林は
面白かったが・・で、サバンナでは?この蓄群が屯する。
 ・・・・・・・
3692, 自己を見つめる −14
2011年05月05日(木)              
  * 幸福について ー1  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)  
【 私たちは、幸福であるとき、その幸福をあまり感じない。不幸になった
 とき、私たちは、初めて、自分に幸福が失われていることを痛感、深く傷つく。 
幸福は、たいていの場合、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる
失われた桃源郷である。幸福は、不幸という現実のなかで、初めて見つめられる
幻影、そして追い求められる夢、切なく慕われる理想である。ダンテが歌った
ように、「幸なくて 幸ありし日をしのぶより なほ大いなる 苦患なし」
である。否定的な状況のなかで、肯定的な状況に憧れ、それでいて、その達せ
られない悩みをかこつというのが、人間における幸福と不幸の相貌である。 
幸福と不幸は、離れ難く結びついている。人間は、不幸の現実を直視しながら、
嘆きと悲しみのなかで、幸福を思うのである。望みをもたない人間というものは、
存在しない。 人間であるということは、何らかの願いを胸に抱き、その実現を
希求し、その願望の達成を欣求し、そのために励むということである。何らかの
目的を定め、それに向けた自己拡充において、その可能性から現実性への転換と
具現を冀い、そのために熱い胸を躍らせるというのが、人間であることの根底を
形作っている。してみれば、現在の欠如状態から、いつの日にか将来の充実状態
へと、恋いこがれる熱情は、人間にとって本質的である。そうだとすれば、
欠如状態としての不幸と、充実状態としての幸福の二つは、人間を構成する
基本要因だということになる。】
ー「幸福は、不幸を介して、その姿を浮かび上がらせてくる桃源郷」は、
 言いえてる。「幸福は不幸という現実を通して見つめられる幻影」である。
時代背景があるが、若い時には「自分は間違いなく幸福になるだろう」
という変な確信があった。 大かたの青春時代は決して幸せとは言えない
四苦八苦を過ごしている時期である。その頃の幸せの願望は祈りに近い感がした。 
ところが人生の終盤に差し掛かってくると、幸せの願望も失せてしまい、死の不安
が立ち現れてくる。精一杯生きてきたのに、あの桃源郷の正体も見え隠れする。
先に逝った人たちの最期は、不幸に見えてしまう。老いが進み、死が現実問題
として迫ってきて、漠然とした不安が心を覆ってくる。その時に、過去の充実
していた時の思い出に逃避するしかなくなる。その時、人生を生きてきた通りの
老いと死が、自分を覆いつつむ。 これが自分の人生だったのかと!
・・・・・・・
3327, 偏差値導入が日本人を劇的に変えた
2010年05月05日(水)
「知の衰退」からいかに脱出するか? ー大前研一 (著) ー3
  * 偏差値導入が日本人を劇的に変えた
 大前健一は、改憲論者であると同時に新自由主義者である。
また「安保闘争以降の偏差値による選別教育が日本人の愚民を押しすすめる
結果になった」と主張。 偏差値による選別教育の年代とは 現在の40歳代
前半から20歳後半である。  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
≪ 日本で、詰め込み教育、受験一辺倒教育、偏差値による選別教育が始った
 のは1960年代後半の安保・大学紛争以後である。今から考えると、あそこが
分岐点。あの紛争で、政府は、過激な学生運動に非常に強い危機感を持った。
ここで、国民教育を民化政策に転換した。その象徴が「偏差値教育」である。
・・ 本来、人間の能力は自分で判断すべきである。自分のやりたいことは、
その判断に基づいて自分で決めること。ところが、日本の子供たちは、自分の
能力の判断をする大切な時期を偏差値に支配された世界で過ごすため、自分で
自分を判断する力をなくし、やりたいことも自分ではなく、偏差値で決めること
になってしまったのである。こうなると本人も偏差値による数字を先生に
言われることで‘予定調和’して、「自分はこの程度」と簡単に思ってしまう。
学校や塾で「この数値では、この学校は無理だ]と、繰り返し言われれば、
目標を上にあげることなぞ無理になる。これが、偏差値教育の持つ最大の弊害。
 これは工業化社会の確立を目指す政府には非常に都合のよい政策である。
それぞれが、能力に見合った位置で仲良く協力しあってやっていくことが
必要とされるからだ。こういう飼いならされたロボット人間が、大量に必要
なのが、工業化社会であって、そのために、偏差値による選別有効に働いた。
これは、個人個人から意欲というもの、アンビションを奪ってしまった。
現在の40代前後の偏差値世代の人たちは、非常に従順なのが多い。彼らは
共通の思い込み「偏差値が高い=頭がよい」と子供の頃から植えつけられていて、
そこから抜け出さないのである。クラスメート、同級生といった狭い範囲で
考えてみると、自分たちより数値の高い人が、マスコミに行ったり、役所に
行っているのを見て、彼らは偏差値が高いから頭がよい。だから、彼らの言う
ことは正しいと、勝手に思い込んでいる。
▼ この年代が社会の中心になってきたのが、この日本の不況の隠れた真実。 
 この年代の人たちと、この十年来、ツアーなどで一緒になる機会が多かったが、
前頭葉がゼロというほど思いざるを得ないと感じていた。勝手に自分たちの
階級を決め付け、それ以外には一切を無視をする。無視なら、まだマシだが、
否定をしてくる。その後の年代を大前は、「少年ジャンプ世代」、
「ゲームキッズ世代」と分けているが、それは次回。
・・・・・・・・
2952,スリルな瀬戸際だった日々 ―2
 2009年05月05日(火)
前回の凍りついた二日間で思い出したことがある。 
《まずは、以前書いた文章を御覧あれ!》
  (字数制限のためカット2011年5月5日)
・・・・・・・・・
2588, 閑話小題
2008年05月05日(月)
   * パペット
パペットとは、手や指を入れて遊ぶことができるぬいぐるみのことをいう。
他には影の人物や国に操られる人間や国を指す。日本などは、ある意味で
アメリカのパペットとである。以前に「新潟県を活性化する会」を何度か
やらされたことがあった。いい様に操られる猿回しのエテと気づいて、
さっさと役割を降りたが・・。3〜4回まで!と始める前に約束をしたが、
それを了解をしておいても、「縛り付けをして役割から抜けられなくなるのが
世の常」 チャンと、そういう役割の英語「パペット」という
専門単語があったのである。それが仕事ならパペットとして納得するが。
地元のために発展を考える中小企業の社長という役の振り付けで、ボランティア
だとか。それを知っていて巧妙に役割に収めようというのも、その人の仕事
なのだろうが、私は何の価値もない。乗りかかる私も甘いが、いや三回ぐらい
なら面白いと割り切っていたから、甘くはないか?
それ以上は絶対にやらないこと位見抜けなかったのか? いや見抜けないか?
 (字数制限のためカット2012年5月5日)

つれづれに

イメージ 1

d他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 
  今日のYoutube

 何ごともなく、日々が過ぎ去っていく。 まあ、幸せということ。
昨日は祭日で、本来の日祭日は、スポーツジムには行けないが、
このゴールデンウィークの一日だけは、特別に参加が可能。
 で、行ったが、普段の三分の一か、四分の一しかいない。
あまり少ないのも・・・ 
 今日は、特別参加券を使って、行く予定にしているが・・


・・・・・・
2952,スリルな瀬戸際だった日々 ―2
2009年05月05日(火)

前回の凍りついた二日間で思い出したことがある。
 《まずは、以前書いた文章を御覧あれ!》
 ーH0905 魂が万代橋の上を彷った話 ー
第2新館の役所の検査の直前の話である。担当の設計士が顔をひきつらせ
青い顔をして言うには、“今回の検査はパスしない!...”
一瞬耳を疑ったが、次の瞬間頭の中は真っ白、地獄の底へつきおとされた
思いであった。“それが本当であれば、あの建物は単なるゴミの山、
そして私は?、会社は?..‘パニック状態’である。 それも夕方の
飲み会の直前である。 まあ明日の話として、頭も冷やすという事も含めて、
そして焼け酒という事で浴びるほど飲んだ。
そして、その夜は満室という事で事務所の長椅子に仮眠した。
恐らく長椅子が不安定という事と、頭がパニック状態という事と酔いを
含めて妙な夢になった。魂が身体より抜け出し、さっきまで飲んでいた
古町より万代橋までを、目線が5mの高さでプカプカ浮遊しているのである。
“ああ自分は浮いている。 それも魂が”という感覚であった。
そして目が覚めて! 「魂が浮いていたのはたしか夢か!
でもあの話は本当である!それも夢であってほしい!」と念じた事を
今でもはっきり覚えている。(2001/07/04 )
 ――
 これも担当設計士の思い違いだったが、この時の恐怖は・・・
魂が身体から抜け出し浮遊するのも当然であり、夢とは言えない現実味
のある経験であった。 もっと凄い経験を、それまでも経験をしたが・・。 
その都度、必死になっていたので、危ない場面も危ないと思わなかっただけ。
これは「役所の手続き上の問題の一つの範疇」として書いただけ。 
自分で事業を起こし、続けることは一見面白そうだが、極めて危険に
晒されることになる。人は忘れるから生きていけるのだろうが! 
20歳の時に、父親のような生き方=起業を思い立ったのだから、
危険は当然のことである。それでも準備に準備を重ねて万全を確認?
をしても、振り返ってみると冷や汗ものである。 生きていれば
誰もが際どい経験しているのだろうが!

・・・・・・・・・
2588, 閑話小題
2008年05月05日(月)
 *パペット
パペットとは、手や指を入れて遊ぶことができるぬいぐるみ。
他には影の人物や国に操られる人間や国を指す。日本などは、
ある意味でアメリカのパペットとである。以前に「新潟県を活性化する会」
を何度かやらされたことがあった。いい様に操られる猿回しのエテと
気づいて、さっさと役割を降りたが・・。3?4回まで!と始める前に
約束をしたが、それを了解をしておいても、「縛り付けをして役割から
抜けられなくなるのが世の常」チャンと、そういう役割の英語「パペット」
という専門単語があったのである。それが仕事ならパペットとして
納得するが。地元のために発展を考える中小企業の社長という役の
振り付けで、ボランティアだとか。それを知っていて巧妙に役割に
収めようというのも、その人の仕事なのだろうが、私は何の価値もない。
乗りかかる私も甘いが、いや三回ぐらいなら面白いと割り切っていたから、
甘くはないか?それ以上は絶対にやらないこと位見抜けなかったのか? 
いや、見抜けないか?パーペットのサル。 そういえば、周りに多い。
パーのペットということだ。地方大名に多いが。 実際には利権が絡んで
いるのだろうが。ということは、私に利権が無かったということだ。
無いから出来ることもある。 政治がらみのことはお断りであるが、
普段は垣間見ることの出来ない面白い世界の一端が何とも愉快であった。
でも東京駅からの直接の日本海乗り入れの新幹線、造っておくべき
だったことは間違いないことである。   
歴代の政治家の怠慢である。そして現在の政治家も。
 ーー
*HP開設、まる7年!
昨日で、このHPが開設して、まる7年になる。これを作った直後から
「ブログ」なるものがアメリカ発で、ブームになった。個人用HPで、
キーワードで互いにネット上でリンクするもの。5年もしないうちに
世界中の数千万、いや数億?のブログが出来上がってしまった。
これに「Web2.0」という情報公開の流れが出来て、あらゆる
情報がキーワードで簡単に得ることが出来るようになった。
そして、これが世界を根底から変え始めた。ウェブの世界は、時間と
エネルギーをかけることしかない。それと奥行きが深い。
「自分をグーグル化せよ」といっても、そのグールの世界は私のレベル
から見たら魔界といってよいほど、深く迷路のように感じるのである。 
実際に情報革命の先に何が起きているかも訳が解らないほどである。
IT格差という言葉を目にするが、間違いなく情報量の質と量が、
圧倒的に変わった。

・・・・・・・・・
2007年05月05日(土)
2223, HP開設、6周年
          [○´・ω・]ノオハヨウ!
毎年のように、開設記念日に感想を書いていた。今年も二日遅れに
なるが書くことにした。実のところ、全エネルギーを入れて書き続て
いて複雑な気持ちがある。ネタ(テーマ)を選ぶだけで神経を集中
せざるを得ない。それと、ネタ切れになるので、何処かからネタを
探してこなけかればならない。しかし良寛の発句「焚くほどは風が
持てくる落葉かな」の、落ち葉と同じように何時の間にか湧いてくる。
その感覚とスリルを楽しまないと続かない。考えつく全てを吐き出して
何も書くことが無くなれば、その境界の外に出ざるをえない。
それが、この随想日記を書き続ける一番のプラスになる。
書くために読む、書くために考える、書くために本を買う、そして
借りる、そしてウソも吐き出す。それが限界という塀の上にいるから
見えてくる。 こういう日常を六年間続けていると、他人の脳が合せ鏡
で見える瞬間がある。「考えること」を殆んどしていない?と・・・
自分が経験したこと、そして知りえたことの範囲が、そのままバカの
壁になっている。書くという行為は、そのバカの壁を自覚させてくれ、
脳の底ー本質を刺激する。書くということは、考えるということである。
誰もが考えるだろうし、書いているだろうが、更に書き続けることが
ー考え続けることが如何に大事かということが6年間の経験上、
身に沁みて解った!業際(ごうさい)いや限界を、それぞれの
人生経験と知識で乗り越えるかが、バカの壁を乗り越えるポイントになる。
この程度で思っているのだから、何をか言わんかだ。
そろそろ、ブログに移行過程に入る時が来たようだが・・・
ブログというロングテールがドンドン大きくなっているが、
それが、世の中の根底を更に変えている。ブログがどう進化するかが、
見ものである! ビデオか?ライブ映像か?はたまた、映像チャットか?
                    byebyeヽ(o・ω・o)ノ
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2006年05月05日(金)
1858, ローマから日本が見える?10
                  ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
この本を読んでいると史実を読んでいるというより、壮大な歴史小説
を読んでいるようだ。一人一人がそれぞれの立場をわきまえて役割を
こなしている。当然、ローマに敵対する英雄もいる。
カルタゴの英雄ハンニバルである。まずは第5章のハンニバルの挑戦 
の概略を抜粋する。
 ー第5章 ハンニバルの挑戦 ?1
ポエニ戦争や、ハンニバルを書いていたら中途半端では終える
ことができない。当時のローマ(BC264年頃)のローマは地中海では
新興国もよいところ。ようやくイタリア半島を統一したまではよいが、
もとが農牧民族のため航海術さえ、ろくに知らなかった。
ましてや海を渡ってカルタゴを征服など夢にも考えたことがない。そ
のような時代にポエニ戦争が始まった。当時の地中海ではカルタゴ
圧倒的な力があり、経済力の差は全く違っていた。それでは何故大国
カルタゴと新興のローマはポエニ戦争を戦うことになったのか?
イタリア半島の先にある、シチリア島であった。その半分の支配下
あったカルタゴが、残りの半分を支配下に置こうとしたことが、
きっかけになった。もし、全島を支配下カルタゴが置けば、ローマの
防衛体制が瓦解する可能性があった。{著者の塩野のいうとおり、
ポエニ戦争を軽く書き飛ばすことなど不可能なので、なぜカルタゴ
ハンニバルが強かったのかを書いてある部分を抜粋してみる}
  (字数の関係でカット2,008年0505)

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2005年05月05日(木)
1493, いま・現在についてー1
「人生の贈り物」ー読書日記

「ゾクゾクするような生き方ができないのはなぜだろう。」
「一日一日が何かが足りない。」 「なんだか面白くない。」
多くの人が、そう思っているようだ。
そのような人に、大きな「ヒント」をあたえてくれる本である。
 ー大筋を書いてみるとー
少年がいました。ある日、老人から不思議なプレゼントの事を聞きました。
「かけがえのないプレゼントだよ」「それは、贈り物なんだ」と老人は
おだやかに言いました。少年は若者となりかけがえのない贈り物を
捜しつづけて、かけがえのないプレゼントとは、プレゼント=現在の
ことだとわかったのです。過去でもなく、未来でもなく、かけがえのない
現在ということです。現在の瞬間というのは、常にかけがえのないものです。
それがまったく完全なものだからではありません。完全に思えないこと
の方が多いくらいです。現在がかけがえのないのは、その時点では、
それがすべてだからです。あるのままの状態が。現在とは、ありのまま
ということで、それがかけがいのないことなのだ。なぜそうなのか
わからなくても。現在は、そうなるべくしてなったものなのだ。
その現在を知り、現在を受け入れ、現在を生きるなら、満ち足りて、
幸せになれる。苦しみとは、ありのままのことと、望むことが
くいちがっているということだ。思いどおりにいかなかった過去を
悔やみどうなるかわからない未来を おもいわずらうのは、
現在を生きてないということだ。 それは、みじめで、不幸なことだ。
過去もその時は現在であった。そして、未来も現在になる。現在の瞬間
こそが、経験できる唯一の現実なのだ。現在にとどまっているかぎり、
永遠に幸せでいられる。永遠も、常に現在なのだから。
私がさがしていた、かけがえのないプレゼントとは、ただ、いま現在
あるがままの自分のことだ。それはかけがえのないものだ。かけがえの
ないプレゼントは、自分から、自分に与える、かけがえのない贈り物なのだ。
自分というのはかけがえのないものだから。自分こそ、かけがえのない
プレゼントなんだ。
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以上が、大筋で結論である。この本は70ページ足らずのシンプルの内容だが、
一番大切な「いま・現在」の大切さを述べている。「いま・現在」こそ、
永遠である。「いま」までの「いま」の積み重なりが自分である。
その「いま」というプレゼントを、その時その時に大切にしなくては、
「自分というかけがえのない人」に申しわけが立たない。
たまたま同時に借りてきた 「どうせ死んでしまう」という哲学書
「いま現在」について解りやすく書いてあった。
近々に、中島義道の、この本の読書日記を書いてみる。

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2004年05月05日(水)
1128, 「ライフ・レッスン」ー10
ー忍耐のレッスン

「耐えることは信じることー信仰をもつことーに似ている」という
著者キュープラ・ロスの言葉がよい。耐えることによって、その信仰は
深く強く根を地中深く入っていく。『石の上にも三年』も、耐えることの
重要性をいっている。耐えることによって、はじめてレッスンにまで
高めることができる。『耐えがたきを耐える』のが忍耐になる、いずれは、
うまくはいくのだからという信念をもって。忍耐にも、じっとしている
べき時にじっとしている忍耐と、積極的に立ち向かいながら耐える忍耐がある。
また絶望に中で、その絶望を受けいれる忍耐がある。それぞれの忍耐を
経験するのも人生では必要なことだ。
 ー以下は抜粋である
・忍耐の要諦は、すべてはいずれはうまくいくものだと悟るところにある。
宇宙の計画を信じる力を養うことだといってもよい。でも、その悟りは
すぐに忘れられる。だからこそ自分が思うとおりのタイミングで進行
させるべく、状況をコントロールしようとする人が多いのだ。
・忍耐はある意味で、筋肉のようなものである。普段からつかってないと、
いざという時に役に立たないものだ。日常の生活の中でささやかな忍耐の
筋肉を使ってなくては。
・「結果でなくてプロセスを大事にすること、自分の感情とつきあうこと、
起こっている事態が送ってくるメッセージに耳を傾けることを学んだみたい。
宇宙の力と自分自身の力を信じることもね。自分の中にこんなにつよい力があり、
必要なときにそれを使うことができるなんて、考えてもなかったもの。
何を変え、何を受け入れるかも学ぶことができたみたい。」
・人生は経験の連続だ。たとえそのときの自分がわからなくても、
すべての経験には理由がある。何らかのメッセージがある。だが、いらいら
して「これはまずいぞ!この事態を変えなくては!」と思っているうちは、
そこからレッスンを学ぶことはできない。現におこっている事態を否定したり、
泣言をいったり、変えようとしたりするのでなく、黙然とそれを経験すればよい。
・時間は楽しむためにあるって思えるようになったんだ。そう考えれば、
楽しいことはいくらでもある。この世界には力がある。みえなくても、
気づかなくても、すべてのものごとは善の方向に向かっていることを信じてほしい。
それが信仰というものである。耐えることは信仰を持つことと同じことなのだ。
いかなる状況、いかなるときにあっても、宇宙があなたの人生にもたらすものは、
あなたがそうなることになっているような人になるために必要な経験である。
真実の鍵は信じること・・・耐えることにある。
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  【-忍耐について-】
・忍耐は仕事を支えるところの、一種の資本である。 ?エドマンド・バーク
・天才とは強烈な忍耐者である。          ?トルストイ
・艱難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず。?「新約聖書-ロマ書5章」
・忍耐??肉体的な小心と道徳的勇気の混じり合い。  ーハーディー
堅忍という美徳は、しばしば頑固と混同される。   ーコッツェブー
・君の心の庭に忍耐を植えよ、その草は苦くともその実は甘い。?オースティン
・我々は現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。
 過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから。 ?アラン
・重要な事はなにを耐え忍んだかという事ではなく、
 いかに耐え忍んだかという事だ。ーセネカ
・世の中の事はなんでも我慢できるが、幸福な日の連続だけは我慢できない。ーゲーテ
・忍耐??それによって凡人が不名誉な成功を収めるくだらない美徳。 ーA・ビアス
・大いなる精神は静かに忍耐する。           ーシラー
・現在我々は悪い時期を通過している。 事態は良くなるまでに、
 恐らく現在より悪くなるだろう。しかし我々が忍耐し、我慢しさえすば、やがて
 良くなる事を私は決して疑わない。 ?チャーチル
・立派にやり遂げたことに対する最大の報酬は、
  それをやり遂げたことそのものにある。ーボルテール

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2003年05月05日(月)
761, 歌は過去に向かって歌うもの

「歌は過去に向かって歌うもの !」先日Tvで歌手の「さだまさし」が
何気なくトークでいった言葉だ。なるほど言いえて妙である。すべての歌は
思い出のメロデーになるのか?心を込めて歌うとは、その過去にタイムスリップ
をして歌うことである。それは過去の喜怒哀楽に対して歌うということだ。
それぞれの歌にはその時代の背景と、それぞれ人の人生がある。
また情念を瞬間冷凍をする。その意味でいろいろな歌を振り返ってみると、
過去が地の底から浮き上がってくる。特に幼児の頃に聞いた童謡や流行歌は
魂の故郷といってもよい。その時の光景を思い出して歌ってみると、その時の
記憶がどんどん湧き上がってくる。美空ひばりは歌っているときは、過去の
その時の世界に入りきっている!また、青春時代の失恋など、それぞれ
生きてきた時代ごとにの歌があった。人生のバックグランドミュージック
といってよい。笑いと歌には、心というよりもっと深い魂の世界で、行蔵の
ラベルでもある。それでは「こんにちは赤ちゃん」は過去に向かって歌うのか?
というが、むしろ母親が、あとの思い出としての歌うのほうが、心いや魂の歌
になる。私が生まれたのは第二次世界大戦終戦直後である。ラジオで復員兵
の名前や尋ね人のコーナーがあった。それと同時に、「異国の丘」とか、
「上海帰りのリル」「みかんの花」が流れていた。幼児期の記憶は希薄だが、
歌だけは記憶にしっかり残っている。青春期はポップスの黄金の昭和40年代
であった。いま聞いても本当によい歌が多い。高度成長期の時代背景が
あったためである。60歳までは過去を振り返らないことにしているが、
もう数年で、その歳になる。カラオケに手を出して失敗した時の歌や、
NTTの株で失敗した時に涙をして憶えた歌など「一曲数千万円」もした
歌がある!たくもう、高くついた!話は少し変わるが、歌の先生を
していた一番上の姉の正子さんが、ある時「人間は歌うとき、
自分の肉体は楽器なのよ!」と何気なく言った事を思い出した。

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2002年05月05日(日)
397, たとえ話ー人間の姿を犬に例えるとシビアなわけ?

以前も書いたが、たとえ話はより深い真実をあらわす。
犬のたとえがシビアである。犬は狼を数千年かけて、人間の都合のよいように
作り上げた動物である。(人間に絶対服従の性格に)社会もしかり、権力者が
自分に都合のよいように作り上げた制約社会である。イスラム教のアラーの
神はその発明の典型といってよい。砂漠の中で規範が必要であった、それだけだ。
宗教は一番権力者に利用される。キリスト教は未開発国に放たれた尖兵ー細菌であった。
論語もしかり孔子が権力者に自分を売り込むための教えである。鼻声で唱和するのも、
歳をとってからならよいだろう。人間は従属しか出来ない哀れな猿でしかない。
人間の95?は従属を望んでいるという。したがって狼を犬に創りあげた人間を、
逆に犬に例えるとより本質的になる。「番犬、野良犬、捨て犬、雑種、負け犬、
闘犬、噛まし犬、狂犬・・」あまりにシビアに人間の被支配性の本質を顕している。
ー番犬のような男、野良犬のような男、座卓犬のような人間、牧羊犬、しかし
それが自然の推理なら、それに従うのが人間の姿である。それに気づいているか
どうかである。話が変わるが、ハワイでの事、現地のガイドが日系?の事を
バナナと言っていた。外が黄色で、内側が白(白人)、いい得て妙であった。
いまの日本人は正しくそうだ。日本人のキリスト教信者もそういえる。
白人の仏教信者は白瓜、アメリカの黒人は茄子か。

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2001年05月05日(土)
連休はパソコン・ウオーキング・TV・外食三昧

連休はパソコン・ウオーキング・TV・外食三昧 である。
もっとも連休でなくても、そうであるのが可笑しいが!
大型連休はほとんどそうだ。以前は会社の自分の部屋までわざわざ
行っていたが今は自宅で過ごす。特にパソコンとBSーTVが暇を充分
満たしてくれるためだ。1ヶ月後に秘境ツアーに出かける為、極力節約する。
1日1回居酒屋かファミリーレストランからーめん屋に出かけける事と、
図書館に行く事がリズムをつくるみそである。ここでインターネットと
ホームぺージが特に面白くなったのも、さらに連休の過ごし方を快適にしてくれる。