【『21世紀の資本』トマ・ピケティ を私はこう読んだ 特集】
   〜‘不平等を歴史に学ぶ’柴山桂太著   新潮45・2015年3月号
  * 上位1%や上位10%への富の集中
 中流社会の、三分の二のサラリーマン対、残り下位の構図が崩れた現在、
この本では、“10%vs90%”又は“1%vs99%”の不平等に焦点を当てている。
ネット社会の到来が、世界をグローバル化を促進させ、一部だけが勝ち組に、
残りは負け組の社会になっていく。この著書で、ピケティは、その点を
クローズアップして我々に問題提示をしている。 
「過去の不平等は戦争や革命により暴力的に解消された、しかし著者の
目論見は、この失敗のスリリングな回避にある」とする。〜ここで筆者は
≪ 格差社会という言葉はすっかり日常に定着した感がある。“1億総中流
 と言われたのも今は昔、最近では社会の二極化が懸念されるようになった。
日本だけではない。不平等の拡大は世界的な傾向である。特に顕著なのが
アメリカ。 “1%vs99%”とも言われるように、人口の1%の富裕層の富が
増加する一方で、大多数の国民の所得は伸びていない。最近では上位1%
どころか0.1%、或いは0.01%の超富裕層の富が急激に増加している事実が
明らかになっている。なぜこれほどの富の集中が起きるのか。
 この問題を考える上で目下大変な注目を集めているのが、
ピケティ氏の『21世紀の資本』である。・・(略)
 本の内容は至極真っ当だ。不平等のデータを過去200年以上に亘って
収集・整理した上で自説を展開するピケティ氏の理論は、類書には無いわかり
やすさと説得力がある。日本の格差論争はこれまで、非正規やワーキングプア
の増加が問題視されてきた。非正規の割合はこの20年で増え続け、現在では
労働人口の35%を超えている。年収が200万円を超えないワーキングプア
(働く貧困層)も、若年層を中心に増加の一途を辿っている。
平均的なサラリーマン(中位層)とそこに入れない貧困層(下位層)の格差が、
従来の格差論争であった。 それに対して『21世紀の資本』が扱うのは、
「上位1%や上位10%の富裕層への富の集中がなぜ生じるのか」という問題。
これまでの格差論争が“65%vs35%”の格差を問題にしてきたとすれば、
こちらは“10%vs90%”又は“1%vs99%”の不平等に焦点を当てている。
この本がアメリカでベストセラーになった理由もここにある。 ・・ ≫
▼ アマゾンのビュアーの『21世紀の資本』の要約によると
《本書の主たる主張はごく簡単に言い表すことができ、何度も繰り返されている。

  • 人類の歴史のほとんどの期間において、資本収益率は成長率を上回っている。

 (つまりr>g)

  • r>gであると、富は賃金所得や産出を上回って成長し、持てるものと持たざる

ものの格差はどんどん拡大する。事実、20世紀以前には一握りの金持ちと
大多数の生活に困窮する庶民で社会が構成されていた。

  • 20世紀後半に比較的格差が縮小し、そこそこ裕福な中間層が出現して穏健な

市民社会が実現したのは、2度の世界大戦による富のリセット、インフレ、
各国の格差縮小的な税政策、歴史的に見て例外的な高度成長の継続、などの
要因が重なったためであったが、今や成長の時代は終わりを告げ再び格差拡大
の時代に戻ろうとしている。

  • 格差拡大を防ぐためには、高度な国際協力と資本に関する情報開示を基礎と

した累進資本税の導入が最適な解決策である。》と、要約を、まとめている。
・・・・・・
2050年の世界 ー14  
2014年10月05日(日)
  2050年の世界 ー英『エコノミスト』誌は予測するー」
           〜英『エコノミスト』編集部 (著)
  第十一章 新興市場の時代 ーのまとめ、
・四十年前、新興国市場は存在していなかった。鄧小平はまだ追放の身。
 インドの首相インディラ・ガンジーは、銀行を国有化し、大企業を押さえ
 込み、社会主義に転向。チリは社会主義政権で、アジェンデ大統領は
 コンピューターで計画経済ができると信じていた。先進国にとって開発
 途上国という言葉は、政府の腐敗を意味しており、途上国にとって 
 投資は、海外資本による纂奪を意味していた。
・それが変わったのは、開発途上国が資本主義と和解し、その技術、資本、
 インフラをとりいれ、世界の資本市場で、安い労働力をつかって製造工場の
 役割を果たすようになったからだ。
ゴールドマン・サックスが、BRICsという言葉を使って新興国市場の成長に
 世界の目を向けさせたのは二〇〇三年のことだが、実際はその予測を二倍
 くらい上回る規模にブラジル、ロシア、中国は成長した。
・これは・経済成長が指数関数的に、すなわち規模が増えた分を利用して
 さらに増えるからで、現在の先進国のうち、二〇五〇年までに、経済の世界
 規模で上位七力国に残るのはアメリカのみ。あとは、中国、インド、
 ブラジル、マレーシア、インドネシア、メキシコにも抜かれると予想される。
・ある国の工業化の時期が遅れれば遅れるほど、その速度は速くなる。
 しかし、その速度は、他の要因にも左右される。そのなかでもっとも大きな
 ファクターは、教育である。生産性を向上させるさまざまな手法や技能は、
 教育程度の高い労働人口を持つ国で速く広まる。
・フィリピン、エジプト、メキシコ、インドネシアバングラデシュ
 パキスタン、ナイジェリアなどの新興国で、教育年数が二〇五〇年までに
 著しく延びて、生産性の高い労働力をその国に生み出し、経済成長を
 あと押しするだろう。
・中国は二〇二五年を境に急速に高齢化が進み、人々はそれまでに海外にため
 込んだ海外純資産をとりくずし始める。そして中国は労働力不足におちいる。
・今中国は、六五歳以上の人ひとりに対して、就労可能年齢の労働者(つまり、
 二○歳から六四歳までの人)が七・九人いる。二〇五〇年には、わずか
 二・二人。日本は現在の時点で、退職者ひとりを労働者二・六人が支える。
▼ 現在の日本が、このまま衰退していくとは思えないが、極東の陸の孤島
 の日本が、その地政学的な有利さの中で、教育に熱心だったことも含めて、
世界第二位の経済立国に上り詰めた。しかし、これまで。これからはネットが
世界を覆う時代である。インドの貧民窟街の少女にも、ネット上では大きく
チャンスがある。そういうハンデを背負った人たちと競っても、太刀打ち
するには、余程のことがないと難しい。
・・・・・・
4210, 異郷日記 ーサンジバル
2012年10月05日(金)
                  「異郷日記」西江雅之
     * サンジバルの逸話
 人は家の中に閉じこもっているほど危険なことはない。外界に出て戦い
続けないと人生の自殺者になってしまう。硬い殻に閉じこもり、しがみつく
しかない人生こそ避けなければならない。ーその辺を抜粋してみるー
≪ 東アフリカのタンザニア国。大陸側からの最短距離で約四〇キロほど
 離れた沖に浮かぶザソジバル。平坦な島の中に、幾つかの町と、多くの村が
散る。住民のほとんどは、イスラム教使だ。そこでは目の前に現れる事物の
すべてが、次々に過去を語り出すザンジバルは史実虚構が入り交じる物語に
埋もれた土地なのだ。散歩に出かければ、崩れかけた石造りの建物や、
アラビア数字が消えかけている大小の墓石が目に入る。海に目を向ければ、
緩やかな波のうねりや潮騒が、すでにこの世を去った冒険家、奴隷商人、
奴隷、征服者、イスラム教徒、ヒンドゥー教従、キリスト教の宜教師たちの
声を告げてくる。それらの声には、優しいものあり、人々威嚇するものあり、
高笑いあり、探い嘆きを伝えるものもある。各々の声は複雑に紺み込まれた
歌となって、何こからか聞こえてくるドラムの音の伴奏に乗り、道行く人の
内部にすべり込んでくる。 (・・・中略)
 わたしがアラビア語に接し始めた頃に聞いた話がいつも頭に浮かんでくる。
ある老人が海辺へと通じる道で、一人の青年に出会った。彼は漁から戻った
ばかりなのだろう、漁に使う道具を担いでいる。「アッ・サラーム・アライクム
(汝の身に安らぎあれ)」。若者は老人に言った。「アッ・サラーム.アライクム」。
老人は挨拶を返してから、「ところで、おまえは海が恐ろしくはないのかね? 
お前のおじいさんは、海で命を失った。おまえのお父さんも海で命を落とした。
それでもまだ、おまえは海に出て平気で仕事をする。恐ろしくはないのかね?」
若者は怪訝な表情をして言った。「じいさん、あなたのおじいさんは家で死んだ。
あなたの父さんも家の中で亡くなった。それなのに、よくまあ恐ろしがらずに
平気で家に住んでいられますね」。 妙に頭に残る話なので、わたしは
ザンジバルで、何人もの知人にスワヒリ語で何度も同じ話をした。
「そうなんだ。人はどこかにしがみついて生きているのだ。そのこと自体が
恐ろしいことなんだ」と、わたしの知人の漁師は言った。「どこかにしがみつく。
そして安心する。それにしても、人間は酷い動物ですよ」と、わたしは言う。≫
▼ 目先の安定にしがみき、安心をもとめ人生を棒にふる愚かさを批判し、
 節目時には果然と行動すべしというタンザニアの逸話。何処の道理も同じ。
著者は‘あとがき’に、「私は今も‘異郷の人’である。自分の皮膚の外側は、
すべて異郷と感じている。」と述べている。そうでなくては、流れ者のように
世界中を渡り歩けないだろう。逆にいえば、世界中を渡り歩いたため、皮膚の
外側を、異郷に感じるようになったともいえる。著者からみれば、一般人の
誰もが「どこかにしがみついて、人生を棒に振っている」のである。
 私も、地方の城下町で生まれ、10年間は、外で生きた。それ以外は職場は
新潟、住居は長岡の生活としても、地元に縛られていた。と同時に、しがみつき、
安心していた。リタイア以降は、多くの縛りから解き放され、宙に浮いている
感がする。それでも、まだまだ楽しみが足りない。縛りの残物があるためだが、
それも最期の砦で必要。それを無くすに死ぬしかないが、まだ死にたくはない。
    ・・・・・・・
3845, 地獄への道は善意で舗装されている
2011年10月05日(水)
 20数年前の経営セミナーで、創造工学の中山正和が、
「日本の裁判の中で、9割が善意でしたことが発端で裁判になっている。
『地獄の道は善意で舗装されている』のが、現実社会である。」という言葉が
印象的だった。甘い善意は、地獄の入り口と心に刻んだことを記憶している。 
特に事業においては善意は絶対禁物が人間関係の第一歩。当たり前のことだが、
それを知らない人が多い。善意の積み重ねは、その人の人徳を高める第一歩。
しかし一つ歯車が狂うと、「軒先を貸して、母屋を取られる」結果になる。
営業を生業とするものは善意をノウハウとする。それが相手にとってのニーズ
であり、対象の懐に入る手段。善意、好意を示され喜ばない人間はいない。 
この格言は昔から言われいる基本である。 ーウィキペディアによるとー
≪*「いかに悪い結果につながったとされる事例でも、それが始められた当時
   までさかのぼれば、善き意志から発していたのであった」
  (地獄への道は善意で舗装されている について)ーユリウス・カエサル
 *「天国へ行くために最も有効な方法は、地獄への道を熟知することだ」
  (地獄への道は善意で舗装されている について)ーマキャヴェリ
 *マルクスは、この格言の発祥でこそないものの、これを援用、敷衍させ、
 「地獄への道は善意で、天国の道は階級闘争と俺の濃い髭で舗装されている」
  などと語ったと言う。
 *キリストとその弟子達は、善意からキリスト教を発足させた。
  その結果、十字軍や宗教戦争魔女狩りなどの惨劇が起こり、人々に夥しい
  地獄を体感させた。・・・ 善意という言葉は、法律用語で言えば、
 「知らないこと、認識していないこと」という意味も含有する。 つまり、
  犯罪と知らずに窃盗を行ったり、人を殺したりしても、その原因は善意に
  なるのである。法律用語の善意も考慮に入れると、古来起こってきた
  全ての惨劇や、人間同士の軋轢は、全ては善意が引き金になっていると
  言っても過言ではない。しかし、ウィキペディアでもコミュニティの
  円滑化、利用者の齟齬防止の為に善意にとることが推奨されているように、
  人間同士の意思疎通や、社会の構築とその円滑な運営には「善意」が
  必要不可欠なのだ。この二律背反に、多くの哲人達が煩悶してきたことは
  言うまでも無い。哲学者であり、レスラーとしても著名な木吉カズヤが、
  地獄への道である善意をよすがとしなければ生きていけない人間、
  保てない社会を悲しみ、「救いはないね!救いはないんですか?」
  と絶叫したことは、あまりにも有名である。 ≫
 ▼ 善意をもって事に当たるのは、それはそれで良いが、逆手に取られても、
  恨まない範囲で示すと割り切ることだ。善意も捨石として、直接の見返りを
 求めないこと。「積善の家に福が集まる」は、見返りを求めないから福が来る。
  ・・・・・・・
3480, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー13
2010年10月05日(火)
 * 旅行代理店の選定は?

つれづれに

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 今日のYoutube

 アフガンで、米軍が病院を誤爆をして多数の死者を出した
ニュースがあった。 偽情報で爆撃したのだろうが・・・
 昨夜、タイミング良く、WoWoWでアメリカ軍の男女二人の兵士が、
アルカイダNO2を、孫など家族もろともにクローンのミサイルで殺害
するかどうかの緊迫した物語を放映していた。 現地でなく、部屋で
パソコンゲームのように映像をみながら、発射をする内容。
 イラクや、シリアで現在進行中で、似たような攻撃を、IS国に
しているのだろう。 現地と緻密に連絡をとった作戦なら、これだけ
効率のよい戦争はないだろうに・・・ 恐ろしい時代である。

・・・・・・
3480, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー13
2010年10月05日(火)
  * 旅行代理店の選定は?
 旅行代理店の選定は、金に糸目をつけないなら別だが、
如何に良くて安いパッケージを探し出すかは他の商品選定と同じである。
・まずは趣味の問題になるが、地方の代理店は避けるべきである。
地方名士様ならチヤホヤしてくれるので、それが目的なら問題がない。 
 同じような目的の人が来ているから、同レベルの人なら良いが・・
とにかく、添乗員の場数が少ない人が多い。地方同士のなれあい客
 しか相手にしてないので全国区の質の差が歴然としている。
・初心者なら、JTBとか日本旅行辺りで良いだろう。
「ビールばかり飲んでいたが、今度から日本酒を飲んでみたいが・・」
 という人は、全国区の灘の酒辺りのブランド品で、そのイメージで味わえばよい。
同じ外国に行くなら同行の人は異質の全国区がよい。
・初心者としてアフリカや、南米など異郷に行くなら、秘境・異郷専門の
ワンランク上の客を狙っている「ユーラシア」とか、「旅のデザインルーム」 など
が良い。JTBや日本旅行でもワンランク上のブランド名でツアー募集をしている。
アフリカ専門とか、南米専門とか、特定の地域に絞った代理店もあるが、添乗員の質
のムラが非常に大きい。これも外れると、場所が場所だけに、客にとっては大問題。 
名前の通った代理店は必ず御客のチェックリストがあり封書に密閉して送られ厳しく
審査されるので、外れは少ない。 旅行は添乗員の質で半分近くは決まってくる。 
何度か、添乗員で旅行そのものが台無しになった経験がある。しかし怒りを会社に
ぶつけるのも大人気ないので、二度と行かないという消極的手段しかない。
ブランドなどで高いのは外れが少ないし、安いのは外れの危険が多い。 
安いものに、シーズンの終わり間じかのものがある。これは経験からして外れが多い。
しかし安さの誘惑で負けて何度か失敗をした。 反対に少し高いと思ったが、他に
ないので仕方ないので、という大当たりというケースが何度かあった。 
行っている人達の人品が良いと心が洗われる。南アフリカ、南米のマケドニア
北スペイン、新羅ウィグル地区・カラコルムハイウェー、などは同行客の人品の
御かげで、厳しい日程でも楽しく過ごすことが出来た。行き先を決めて、
それにあった代理店のコースの選定に集中すれば自ずと見えてくる。
旅行先で、良かった旅行先の情報を聞いたら、代理店と、その時期まで
聞いて、その通りに選定するのがベスト。 何ごとも同じ。
 ・・・・・・・・
3105,我にたためる翼あり
2009年10月05日(月)
「我にたためる翼あり」という言葉には考えさせられた。
なかなか含蓄がある。バーネット作「小公子」を日本で初めて紹介した
若松賎子の言葉。「私の中に、たたんだ翼を持つ者と信じて努力をして、
大きく羽ばたく時を待つ」という意味。賎子自身は、若くして病に倒れ無念
の思いと祈りのこもった言葉。 それを知っていれば尚のこと深さが覗きみれる。
何かを志す者にとっては、これほど励ましてくれる言葉は少ない。翼を才能、
努力の蓄積、志、夢とも、とることができる。賎子の魂が、この言葉の中に
篭っているような響きがある。 それも女性の言葉、それも「たためる翼」
という内に込めた大きなエネルギーを感じ取ることができる。何かを目指して
いる若者がいたら、是非とも教えてやりたい言葉である。 
縁あって、この文章を読んで感銘をしたならば、近いくの青年に是非とも
教えてやって欲しいもの。ところで我に、たためる翼があっただろうか? 
精一杯翼を広げ羽ばたいたが、雀は雀。翼を持っていると自分で信じて
努力していれば、それだけで良いということで納得するしかない。
「我にたためる翼あり」を私の小さな経験に鑑みると、自分の翼?で
飛んだのは「秘境・異郷ツアー」。 たたんでいる時間は少なかったか。 
翼といえば、一羽ばたきで数百里を飛ぶ大鵬のイメージが沸いてくる。 
私にとって「我にたたむほどの翼ありや」である。 また軽く飛びまわる
ことの出来る天使の翼のイメージである。そう、私にとっての翼は読書や
映画などを通して異世界に入る「イメージそのもの」である。 
 それなら、ある。 毎日、何回も開いているが。 
私に当てはめると、せっかくの言葉が壊れてしまうか。
 ・・・・・・・・・
2740, 貨幣経済は「ねずみ講
 2008年10月05日(日)
「資本主義は嫌いですか  ―それでもマネーは世界を動かす 」-2  
                     竹森 俊平 (著)
 紙幣は「ねずみ講」の札と同じ!と言われれば 「エッ!」と思うだろう。 
しかし直感的に納得する事実である。アメリカのドル一極基軸体制だった数年前
まで、正に、それに近い感覚を持っていた。それをズバリ「ねずみ講」とはね!
 ーP74ーにそのことをズバリと書いてある。
《「ねずみ講」というのは、【親」の会員が「子」の会員から利益をもらい、
「子」の会員は「親」の会員から利益をもらい、といった連鎖を繰り返して
いくことにより、会員全暴利益を享受するとをねらったものである。何のことは
ない、この仕組みは、より先の世代の会員たちが受け取る利益の「つけ」全部を、
連鎖の最後の世代に回しているに過ぎない。しかし、もし「ねずみ講」連鎖が
永遠に続くならば、「つけ」を回される連鎖の最後の世代の存在は無限時点の
彼方に消滅する。それゆえ、この場合には「ねずみ講」に参加する会員全員が
利益を受けるという奇跡が起るのである。ここでは、何も有益な生産活動が
行われているわけではなく、単に「つけ」のたら回しがされているだけなのだが、
それでも会員全部が利益を受ける。それは無から有を生じる「錬金術」のような
奇跡である。ただし会員全部が利益を受けるといっても、誰もがまったく同じ
だけ利益を受けるわけではない」「ねずみ講」の第一世代、つまり「親」は、
自分自身は他人に利益を与えることなしに、自分だけが利益を受けるのだから、
受ける利益は人一倍である。これは「貨幣経済」についてもいえる。
胴元や、始めたものが貰い得なのが、「貨幣経済」である。》
 ーー 
 以上だが、犯罪としての「ねずみ講」を主催していた連中は、そのことを
熟知していたはずだ。そして、アメリカの金融システムの支配者達もである。 
ねずみ講も、それが拡大しているうちは問題にならない。しかし、一度それが行き
止まった瞬間に破綻をする。 それと同じことが「紙切れ通貨制度」にも言える。
次回にとりあげるが、著者は現在世界の各国が取り入れている
「賦課方式の年金制度」を「公営ねずみ講」と看破している。私の過去40年近く、
2000万以上も支払ってきた年金、前の世代が使ってきただけで我われの将来の
ために保全はされてない。これでは、権力者による公営詐欺である。国債も未来
に対する先取り詐欺と同じである。今回の「サブプライム問題」については、
資本主義体制の中の「紙切れ通貨」そのものから起因しているから根は深い。
さて、この大混乱の行く末は、やはり戦争だろう。 民族間か、宗教間か、
世代間か、国家間か・・・淘汰されるのは弱者! 潮流は、情報化社会からくる
既成体制の崩壊の本格化である。 それらが直接、個々人に影響してくる。
今回のサブプライム問題では当然、ねずみ講の親は結果として被害最小になる。 
最大の被害者は、日本と中国になる。金と情報が絡まるから、ことは重大である。      
 ー つづく(次回は年金制度は公営「ねずみ講」?)
・・・・・・・・・
2007年10月05日(金)
2376, 人は60歳で何をしたか -4    ー読書日記
 「人は60歳で何をしたか」藤原治・著
            |* ̄o ̄|お|* ̄O ̄|は|* ̄。 ̄|よ
この本の中で古今東西44人の「60歳時の本や作曲などの作品」を
紹介しているが、その中で、神谷美恵子「こころの旅」が一番印象的だった。 
図書館から借りたような記憶があるが、見れど見えず!だったということか? 
この本は人間の生から死までを「こころ」というキーワードを使って分析している。
それは目次からみれば解ることだが、自分を省みる時の案内役になる。
さっそく中古本だがアマゾンで、この本を発注した。
(何と値段が1円、発送料が300円=301円で、新本の5分の1である)
 まずは、彼女の著書の目次をコピーしてみる、
第1章 人生への出発  第2章 人間らしさの獲得  第3章 三つ子の魂  
第4章 ホモ・ディスケンス 第5章 人間性の開花  第6章 人生本番への関所  
第7章 はたらきざかり 第8章 人生の秋 第9章 病について 第10章 旅の終り
 著者の藤原治は、中でも三章 「三つ子の魂」に感激、そしてここを再読、
あらためて、その意味の深さに考えさせられ、さらに 第8章の「人生の秋」が、
気になったという。著者は、そこを抜粋してながら60歳の心象風景をみている。
 ーー
「社会的に無用者となった、という意識は否応なしに老化した自己の全体像を
こころの中に浮きぼりにする。じつは向老期ではふつうまだ真の無用者ではない
はずだが、少なくとも覚悟として、この新しい自己像を受け入れるがこの時期
の困難な課題である」「老いて引退した人問の最大の問題の一つは、こうした
『社会的時間』の枠がしだいに外されて行くところにある。(略)・・・
このことをよく覚悟して、向老期のころから、自主的に自分なりのペースで
『生きる時間』の用いかた、配分のしかたを考え、また時間そのものについても
洞察をふかめ、『超時間的に』時間を観ずることができるようになるのが望ましい。
そうすれば自分の一生の時間も、悠久たる永遠の時間から切りとられた、
ごく小さな一部分にすぎないことに気づくであろう」「どんな一生を送って
きた人でも、人生の終りに過去の旅路をみはたすとき、こころというものの変幻
自在なふしぎさに感嘆しないではいられないはずである。 宝積経にはこころの
詩ともいうべき長い部分があるが、この中でこころはじつに多くのものに
たとえられている。 幻の像・いなずま・虚空・猿・画家、王、怨敵、砂で
つくった家、盗賊、などなど。一生のあいだ、私どものこころもこれらの比喩に
該当するような、まざまな姿をとってきたときがあった、と思いあたるとこと
が多い」神谷の著作に最初に接したのは、『生きがいについて』だった。 
多分、何かの原因で、かなり落ち込んでいた時に読んだのだと思う。
「生きがいを感じている人は他人に対して恨みや妬みを感じにくく、寛容で
ありやすい。それはマックス・シェラーが言っているように、自分より幸福な
人々に対する密かな憎しみの念が入り込む余地がないからであろう」という
この本の記述が、僕を励ましてくれた。この人は、どんな生き方をしてきた人
なのだろう。 ハンセン病との献身的かかわりを思い、「キリスト者だな」
と推測したが、当たっていた。クエーカー的キリスト信者である。
「育ちもいいはず」と思ったが、これもずばりだった。
父親は内務省職員のエリート官僚であり、後に国際労働機関(ILO)に勤務したり、
朝日新聞論説委員にもなった。戦後すぐに成立した内閣では文部大臣にも抜擢
されている。彼女も、そんな父の関係でスイスやアメリカで教育を受けている。
医学への志は、叔父とともにハンセン病患者の施設を訪れた際、患者の病状に
強い衝撃を受けたためという。後に彼女は、この時に自分が身を捧げる生涯の
目的がはっきりとした、と語っている。猛反対だった父を説き伏せコロンビア
大学や東京女子医専(現東京女子医大)で医学を学び、30歳で精神科医になった。
結婚したのは32歳だった。
 ーーー
こういう文章を読むと、宗教の偉大な力を感じとることが出来る。 
それと、自分の小さな世界の歪な姿がリアルに感じとることが出来る。 
こういう人は、60歳の時の心は安定した安らぎで満ちていて当然である。
明日あたりに送ってくるはずである。歳を重ねると見えなかったモノゴトが、
雲の彼方から一つずつ現れてくるようだ。ヾ(=・ω・=)o☆ばいばい!
・・・・・・・・・
2006年10月05日(木)
2011、「私」のための現代思想  -8
          (。^0^。)オッ(*^○^*)ハ~
私たちを束縛しているものから自由になるには、束縛している対象を理解
しなくてはなりません。 第一章では、その束縛するものの正体を論じたが、
いま一度それを取り上げ、それから逃れるには如何すべきかを論じているのが、
この章である。「私」を束縛するものとは、 <言葉>と<価値><社会>
<世界><物語>などがあります。束縛から逃れるためには「所有」が必要。
所有者になることによって、主体者になるのです。所有することも捨てることも
できるのが主体的ということである。 この随想日記を毎日書き続けることは、
その範囲で「言葉」を所有していることになり、自由に考えを述べていることに
なり、開放されている。「<価値>の主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、
それ<価値>を「受益する者」であるということです。」当然といえば当然だが、
私たちはその反対と思いがちである。「消費者本位」というのは、今では
当たり前になっているが、提供者の方は、それを一番忘れてしまうのです。
言葉も相手の受け止め方で、救われもするし、加害もする。       
                 ( ̄▽ ̄)■]~~~ 珈琲TIME♪
ーー
第三章 「私」とは何か
ー束縛から逃れるー :<言葉>と<価値>の束縛から逃れる
  私たちが<言葉>の束縛から逃れるためには、「<言葉>を所有すること」
 が必要になる。「言葉による束縛」とは、「自分が使った言葉が、新しい
 意味を帯びる」ということを認識しないことによって発生する。また、
 「自分が受け取った言葉に自分が新しい意味を付与することによって、
 それを認識している」ということに気づかないことによって発生する。
  これを換言するならば、それは「私がある時点で使った単語は、常に
 新しい意味で用いられている」と認識し、また「他者から発せられた言葉も
 同様である」と認識することです。私たちは、厳密な意味で同じ単語を同じ
 意味で使うことができません。言葉による意思疎通が(不完全であれ)
 可能となるのは、「了解不可能な他者を了解しようとする意思」によって
 発生するものでしかなく、ある言語体系よって適切に語を使用することで
 発生するものではありません。私たちは、何らかの概念を伝達しようとする時、
「この単語は、この程度の意味に使われていたはず」と推測し、それに
「近似した」新しい意味を付与しつつ発語している。そのとき、言葉の主体者
 は<私>です。ー <価値>の束縛から逃れるためには、<価値>を所有する
 しかありません。しかし、ここで注意しなくてはならないのは、<価値>の
 主体者は、<価値>を生み出す側ではなく、それ<価値>を「受益する者」
 であるということです。
 <言葉>と<価値>の束縛から逃れるためには、この二つの本性を理解する
 だけで充分である。逆にいえばー<言葉>とは言語体系のこと、そして<価値>
 は、それを発生する側が主体者である、と考えていることによって、それら
 による束縛が発生します。その両方が「誤りである」ということを認識する
 だけで私たちはその束縛から逃れることができるのです。
ー<物語>と<世界>の束縛から逃れるためにはそれを所有しなければなりません。
 そのとき<物語>所有する主体者は、いうまでもなく<私>です。私達は
 <物語>も<世界>をつくることも捨てることもできます。その状態が
 「所有」であり、そのときそれらの束縛から逃れることができるのです。
    ーー
 ここで、<私>と《私》について、もう一度整理をしてみる。
 <私>は、
 ? 言葉を用いて対象化された「私の像」
 ?「超越確実性言明(つまり言葉)」の束、もしくはそれに支えられている
 「自己の像」
 ?「私」の「論理的」な側面(言葉によって認識・構築された「私」)
  の意味を持っています。     これに対し、《私》は、
 ?<私>の中核にあり、<私>の存在を支えているもの
 ?<身体>の中核部分にあり、<身体>(=対象化された身体)を支ているもの
 ?「生そのもの」としての「私の存在」
  サルトルに「対自」「即自」「対他」というキーワードがあるが、
  それに《私》を関連付けると、さらに面白くなる。
.......
2005年10月05日(水)
 1645.マグロ屋福助ー亭主・宗親の独り言・・5  
 5・ゴールドクラブ
宗親
酒はこの商売をしていて、つくづく気違い水と思うね。まあみんなこの世智辛い
世の中、気でも狂わなくてはやってられないのは判るけどね。 陽気な酒、
喧嘩っぽくなる酒、助平になる酒、理屈っぽくなる酒といろいろあるね。
まあ気違い水を売って此方も食べてるんだから、なにも言えねんだがね。
本当のところ、素面で酔っ払いを見ていると面白いよ。
気違い水を脳に叩き込むなら。その中で特に面白いのは、シラケ酒って言う奴さ。
独り浮いてしまって、暗い自分の殻に入ってしまう奴。オールドミス、いや~あ
あなるとゴールドミスさ。グランドオールドで、G,OLD、ミスって奴さ。
独りでいつもある時間が来ると泣き出す。皆もそれを知っていて、待っている。
普段イライラを周囲にぶつけているんで、皆心の中は喝采さ!でもそれが
バレタラ、あとで数倍も陰湿にそれもあるけど最近は女も恐ろしいよ。 
自分で誘っておいてさ、都合が悪くなるとセクハラという奴。
見ているとおとこの方が馬鹿だね。もてない男ほど、すぐ引っかかるね。 
あまり慣れてないから、引き際が判らないんだよね。こうやって色色見て
いると人生いや人間なんて結局さ、その人間が実際行動した全体だと思う
ようになってきたよ。それから一歩も大きくもないしさ、小さくもないしさ。 
これが意外と判ってないんじゃないかな。
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2003年10月05日(日)
ある時間の断片ー34  11月7日 -1968年
・10時半起床。12時に池袋に出発。掲示板をみていると川崎と出会う。
「ヤタロー」で食事。その後、「価格理論」の授業を聴講。12月5日に試験。
産業関係論が11月21日に試験と帰りに寄った掲示板に書いてあった。
明日のゼミの工場見学の資料を取りに武沢教授の部屋に行くが、助手の横浜さん
が居ない。川崎君と一時間位喫茶店で話す。磯部嬢とバッタリ会う。石川とは
上手くいってないみたいだ? 数ヶ月前に行ってきた欧州旅行のことを
話したいみたいだ。  17時に帰寮。
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540,お経
2002年10月05日(土)
 ーH0605般若心経のすすめ ー
 (字数制限の関係でカット 09年10月5日)