世界を席捲してきた米国もピークを過ぎようとしているが、まだまだ
その力は侮れない。その文化風土の中で生まれた実用主義たるプラグマティズム
とは、如何なるものか、改めて調べてみた。{参考:「山川哲学」小寺聡編集}
   * プラグマティズムの成立
《 プラグマティズム(実用主義・有用主義)は「行為」「行動」を意味する
 ギリシア語pragmaに由来する。19世紀後半から20世紀にかけて,資本主義を
確立し,工業生産力を急速に増大させつつあった米国の文化風土のもとに
形成されしべんた哲学。
 従来の形而上学的・思弁的哲学に反対し,思想と日常生活とを密接に関連
させる経験論の伝統を受け継いだ米国的な哲学である。この立場は,具体的
経験の中に科学的方法を生かし,知識や観念を行動のもたらす結果によって
絶えず検証しようとする点に特徴がある。当時の発展するアメリカ社会の
雰囲気を反映して,人間生活の未来への楽天的信頼感を基礎にもつ。
この思想の代表者は,米国のデューイ,イギリスのシラーなどである。
パースは,すべての観念の源泉は行動にあるとして,その立場をプラグマ
ティズムと名づけた。》
  まずはでデューイの根本思想から
道具主義: デューイの哲学の根本思想。学問や知識は,人間が行動する時
 にその行動に役立つ道具である,という考え方。デューイによれば,知識・
 概念・理論は,人間の生活実践から離れて実在する永遠不変のものではなく,
 生活過程での矛盾や困難を解決するための「道具」にほかならない。
 したがって,知識や理論などは使用することを通じて絶えず改善されるべき
「仮説」としての性格をもつ。ある知識・理論の価値は,他の道具と同様,それ
 自体の中にあるのではなく,実際に使用された場合の結果の有用性にあるという。
:創造的知性: (実験的知性)デューイの重視した知性のあり方。
 人間が日常生活の中で様々な困難にぶつかる場合,はっきりとした見通しを
 たて問題解決を図り,未来を展望する能力。人間は,この知性の働きによって,
 過去の習慣の修正を遂行し,新たな人間性を発展させていく,とされている。
:デューイの言葉: 概念・理論・思想体系は,道具である。すべての道具の
 場合と同じように,その価値はそれ自身の内にあるのではなく,それを使用
 した結果にあらわれる作業能力の内、にある。『哲学の改造』 
▼「概念・思想・思想体系は道具」とは、プラグマティズムを一言で言い
 表している。創造的知性の背景に、実用主義があったとは。 日本人が、
プラグマティズムに大きく影響されていたことを改めて知った。経済、
経営とは、そもそも、そういうものだとしても。ドラッガーの思想は、その
典型。デューイの課題は、個人の自由・平等・幸福を最高の価値とする
自由民主主義を、時代の要請に合わせて立直すことにあった。その点は、
日本国内の政党も同じだが。問題は、それを実現する能力の格差。
 米国大統領選のトランプ候補の発言を聞いていて、プラグマティズム
限界が、そのまま現われ出ているようだ。 面白には面白いが・・

・・・・・・
5153,知の逆転 〜⑩
2015年04月24日(金)
           ー知の逆転ー 対談相手〜マービン・ミンスキー
   * 感情とは思考の単純形だ ー感情機械としての人間
 感情で動く多くの人からみたら、元もと感情が単純形と思うのは当然。
逆に、心理学者や哲学者からみれば、感情は複雑で底がしれない泥沼の
ようなものと考えているため、改めて考えることになる。考えつくした
末の感情であれば、決して単純形ではないが・・ 〜その辺り〜より
≪ ミンスキー: 何干年もの間、人々は、「思考」すなわち理性的で論理的
 で機械的なものと、「感情」すなわち自然で論理的でないもの、というふう
に区別してきたわけです。従来の心理学は、自然な行動というものは二種類に
分けられるという考え方に基づいていました。 ちなみに私に言わせれば、
何にせよ世界や物事を二つに分けようとする試みは、大きな間違いです。
そうすると、全てを「これ」か「あれ」であると言わなければならず、両者の
間に位置するものに対して、橋をかけられない。私の発見の大半は、少なく
とも三つの事柄があるという考え方に基づいたものです。ですから、「ここ」
から「あそこ」へ行うとしたときに、障害(三つ目のことがら)があれば、
それを迂回するという考えが出てくる。 
 本来「思考」と「感情」を分けて考えるべきではないと思います。「思考」
というのは非常に複雑で、われわれは実に多様な物事の理解の仕方をする。
一方、わずか10〜20くらいの別のやり方でも物事を理解していて、これらを
「感情」と呼んでいるわけです。従来、「思考」というのはシンプルで論理的
であるのに対し、感情は非常に複雑で強力で神秘的だと考えられてきたわけ
ですが、これが大間違いなんですね。
 「感情」というのは非常に単純な動物でも持っている。ある状態では
とてもお腹がすいているから、食物がほしいと思ってそれが行動を独占する。
別の状態では危険を感じる、だから即逃げる。そしてまた別の状態では――
というふうに、単純な動物は、こういった反応の仕方をするわけです。
 これに対して、哺乳類や鳥類の一部、タコなどの複雑な動物は、状況に応じて
実にさまざまな反応の仕方をするわけで、これらを「思考」と呼んでいるのです。
従来の考え方とは逆に、「感情」というのは単純かつ機械的であり、「思考」は
実にさまざまな状況の判断や反応の仕方をするものだというふうに、見方を変える
必要があると思います。・・・(略) P194 ≫
 ▼ 「思考」が単純で論理的プロセスであると考えるのは全くの間違えで、
単純で、機械的なのは、怒っているとか、恋をしているとか、腹が減っている
とかの「感情」の方であるという。感情的になって事業停止をしたのではなく、
考えつくした上で、決断する。あくまで、感情は思考の単純形というのは、
自分の経験からみて至極当たり前のこと。一時的恋愛感情だけで結婚、その結果、
冷静に互いを見つめて、考えた結果の離婚の多さが、それを物語る。 熱病に
でもなければ結婚など出来ないが! まずは一息、入れろ!さらに、もう一息!
・・・・・・
4788,「道徳」を疑え! 〜2
2014年04月24日(木)
       「道徳」を疑え! 〜自分の頭で考えるための哲学講義〜        
 * 自分の頭で考えるための哲学講義 ー大抵のことは嘘を見抜くこと
   ーまずは、その辺りを抜粋ー
《 哲学の第一歩は疑うことである。なぜ本質や真理に到達するために疑う
 ことが必要かというと、本当のことは常に隠れているからです。私たちは
ついつい人から聞いたことや、実際に見たものをそのまま本当のことと信じ
込んでしまいがちです。でも、たいてい、それは嘘なのです。これには人間の
弱さや未熟さが関係しています。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンは、
それを「イドラ」と呼びました。本当のことを隠してしまう臆見(おっけん)
のことです。 彼によると、人間には四つのイドラがあるといいます。
・一目は「種族のイドラ」です。これは人間という種族に固有のイドラで、
 感情や感覚によって知性が惑わされることによって生じます。人間は自分が
 主張する立場に箇執し、その点からしか物事を判断できないのです。
・二つ目は「洞窟のイドラ」です。あたかも狭い洞窟に考えが入り込んで
 しまったかのように、個人の狭い事情により生じる思い込みです。
 その人の受けた教育、影警を与えた人物、読んだ本などが原因で、狭い
 考えに入り込んでしまう。
・三つ目は、「市場のイドラ」です。これは言語によって生じる思い込み。
 あたかも市場で聞いたうわさ話を信じてしまうがごとく、人は言葉のもつ力に
 弱いもの。いまは市場より、インターネット上に氾濫する言説が原因になる?
・四つ目は「劇場のイドラ」です。あたかも劇場で観たものに強い影響を受ける
 ように、すでに完成した塊のストーリーを目の前に提示されると、人は容易に
 信じてしまうものです。バトルゲームに影響されて犯罪に走る若者がいるように。
 このように、人間は弱い存在であることから、なかなか本当のことが見えなく
 なってしまっているのです。したがって、本当のことを知るにはあえて
 見たまま、聞いたままのものを疑うことが必要になってきます。
 しかもそれを根源にまでさかのぼって徹底してやらなければなりません。
 そうして初めて、答えに到達することができるというわけです。批判的・
 根源的に考える哲学という学問が、出来合いの「正しさ」を植えつけよう
 とする現行の「道徳」とは正反対の営みだということが、これでご理解
 いただけましたでしょうか。・・・ 》
▼ 私が40歳過ぎから還暦まで年に二回以上、秘境・異郷を中心にした
 ツアーに参加して気づいたのが、逆照射の視線である。極北のアイスランド
の地から見れば、日本は極東である。アフリカの最南端のケープタウンから
みても同じで、日本で思いつくのは、空手、忍者、侍、ソニーぐらい。
そこからみた、常識とか、道徳を分解すると、上記の四つのイドラになる。
地球を象に例えると、我々は、その皮膚のヒダに棲むダニかシラミになる。
その視線が行く回数を重ねる度に、強くなっていった。装置産業もあって、
あまり人と接する必要もなかったため、強固な小さな視線しか持ち得ない人
との接点を最小に保つことが出来たことが、人生最良の環境と思っている。
 他人からみたら、変人そのものだろう。それも、人間関係工学(造語?)
を40年以上も独学を続けているのだから、やはりオカシな人間だろう。
おまけに、創業を20歳の時点で決心したため、視線が現状、現象の先を
見つめることが優先となれば、言動は誰から見ても変? それでも変な
創業事業者という隠れ蓑があったが、それが無くなった今!?
・・・・・・
4421, さっさと不況を終わらせろ
2013年04月24日(水)         
 * アベノミックスの理論的背景は、こんなもの!  
    「さっさと不況を終わらせろ」ポール・クルーグマン (著)
 安部政権の経済政策の大元が、この本ではないか? しかし非常に危険と
思うのは私だけでないはず。国力が無い国が、これを実行したらハイパー
インフレになり国家破綻になってしまう。強者の手法ならよいが。
そこで、日本は強者か、弱者なのか? 腐っても鯛(資源、軍事、金融、
世界共通言語、農業などが出揃っている)のアメリカとは立ち居地が違うと
懸念するが。まあ、ジャブジャブの結果、どうなるか見物である。
   ーアマゾン内容紹介ー
 いま最も信頼できるノーベル賞経済学者がついに叩きつけた不況打破への
最終解答!  リーマンショック以降、いまだに好転の兆しを見せない世界経済。
では、各国政府と中央銀行、そしてわれわれが本当になすべきこととは――? 
いま最も信頼できるノーベル賞経済学者が、ついに叩きつけた最終解答。
(本書「訳者解説」より)ー日経「エコノミストが選ぶ」2012年経済図書第2位
≪ 本書の主張はきわめて単純明快。いま(2012年)はまだ、りーマンショック
 以後の不景気が続いていて回復していない。そして失業者の技能や労働市場
の価値の低下から、その害が一時的なものではなく、長期的被害になりつつある。
だから景気回復策をきちんとやろうということだ。そしてその手法も明快。
【 前書きよりー 昔ながらのケインズ的な財政出動をやろう。
 赤字国債を出して、大ものを一気にやるべきだ。そして中央銀行はそれを
金融緩和で徹底的に支援すべきだ。それに伴う財政破綻だの金利上昇だのは、
悪しき固定為替制度の下にある、ユーロ圏のスペインやイタリアのような
かわいそうな国以外は、全く心配する必要はない。以上のきわめてシンプル
な主張をまとめたのが本書となる。】 ・・・(略)
【 あとがきよりー 本書を読んで、一人でも多くの人が現状の各種政策の
 愚かさに気づけばとは思う。財政出動しようよ。かなり手遅れとはいえ、
復興まともにやって、教育やインフラ補修にどんどん予算だそうよ。そして
予算つけるだけでなく、ちゃんと消化しようよ。必要なら予算執行の細かい
基準とか緩めようよ。日銀は、すでにやっている国債引き受けをもっと
認められた枠いっぱいにやろうよ。それ以外にも、自分たちの保身だけでなく、
日本の人々のことももっと考えてよ。そして増税なんて今やることじゃない
でしょうに! そういうことを理解してくれる人が、少しでも増えてくれれば─ 
 こう書きながらも、それがどれほどはかない望みかは、知らないわけじゃない。
それでも、一人でもそうしたごく基本的な部分を理解できる人が増えることで、
日本経済の未来はすこしはよくなるはずだ、とぼくは信じている。報われない
信仰かもしれないけど…そのために、本書がごくわずかでも役立つことが
あれば、大いなる幸せだ。―山形浩生(訳者) ≫
▼ これで不況が終わるのだろうか?本当に!ハイパーインフレになった時、
 銀行閉鎖かデノミを実施すればよいのは分かっている。現状がすでに待った
なしの事態からみれば、それでよいのか? PIIGSとは違い、自国通貨で
インフレを起すから大丈夫とかは、このグローバルの金融の世界で果たして
通用するのか? そのツケは、社会的弱者にまわってくるので、現在の
選挙システムでは、政権そのものが持たない一年内閣が、続く。
ということは、ハイパーによる自滅が4^5年先と見るのが道理だが。
顔色だけは良い麻薬漬患者?あっそう、アベグロ劇場の始まり!
・・・・・・・
4047, 一時停止 ー5
2012年04月24日(火)
         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010
  * 魂という言葉
≪ フランスのアランという哲学者は、「一つの身体の運命に結びつけられた
 精神が魂(AME)というものである」と定義した。同じフランスの現代の
前衛的文学者たちの中には、魂などという語はもう使えないと言っている人たち
もいるらしい。彼とって人間は魂という言葉ではとらえることが不可能なほど、
細分化され抽象化された存在なのだろうか、だがぼくにとっては、魂という言葉
はまだ或る現実的な手ごたえをもってる。 肉体なしでも成立するかのように
使われる精神という言葉とちがって、魂には人間の肌のぬくみが感じられるんだ。
精神はたしかに個人の肉体を離れて、その死後もかずかずの書物や芸術によって
伝えられてゆく。だが魂は、個人の肉体の死後むしろゆきどころを失って
宙にただようもののように思える。「詩人の魂」という歌があったっけ。
たしか歌の歌詞は忘れられても、そのメロディは人々に口ずさまれて残ってゆく
というような歌だった。自分はいったいどこから来て、どこへゆくのか、自分が
たかだか百年に満たぬ人生を、この無限の宇宙の中の地球と呼ばれる星の上で
過すことに、どんな意味があるのか、そんな疑問にとらえられたことのない人間
はいないだろうか、そして決して本当の答を得ることができないそんな疑問に、
精神は或る仮の答えを出すことが出来る。たとえば、いまのぼくは、自分に
こだわるより、むしろ我を忘れて自分を超えた他人の世界にかかわってゆく
ことに、あるべき生きがいを見出そうとしていると言えるかもしれない。・・≫
▼ アランの魂について、「一つの身体の運命に結びつけられた精神が魂」
 という定義が分かりやすい。 キリスト教徒は、「魂は人間の不滅の本質
であり、魂は死後に 報酬か懲罰を受ける」と信じている。 私の魂の解釈は、
「心は毎日変わるが、魂は、その心を支えている生まれてから死ぬまで一貫した
幹である。感激は心の響きだが、感動は魂の振動」である。秘境の大自然の中で
何度も魂の振動を経験した。それが感動である。全身全霊で何かに没頭した
ときに魂が現れ出てくる。
・・・・・
3681, 逆説を考える
2011年04月24日(日)
 考えるときの一つに、正反対の説を立てる方法がある。「逆も真である」
を試してみると、考え方の幅が広がってくる。とはいえ、逆説を正面から
考えたことはなかったので、その意味を取り上げてみる。学生時代のゼミの
教授が、中根千恵の「日本社会は縦社会=蛸壺社会」という説に対し、
「横社会=資格社会」という説を立てられた。「日本社会には武家社会の
影響が残っており、殿様、家老、家臣、家では家長、嫁、婿、長男、末っ子、
という資格社会ではないか。蛸壺というが、どの世界でも、その資格で評価
されるではないか?」という逆説に驚いてしまった。それを切欠に、
逆照射の見方を常に持つようになった。
   ーYahoo辞書によると、 ー逆説とはー  
1 一見、真理にそむいているようにみえて、実は一面の真理を
 言い表している表現。「急がば回れ」など。
2 ある命題から正しい推論によって導き出されているようにみえながら、
 結論で矛盾をはらむ命題。 逆理。 パラドックス
3 事実に反する結論であるにもかかわらず、それを導く論理的過程のうちに、
 その結論に反対する論拠を容易に示しがたい論法。ゼノンの逆説が有名。
 逆理。パラドックス。  ー広辞苑」によると
「衆人の予想に反した、一般に真理と認められる説。また、真理に反している
 ように見えるがよく吟味すれば真理である説」。逆説といえばマックス
 ウェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』。
 資本主義といえば「自分の利益の為に利益を追求する」ことだが、
 マックスウェーバーは資本主義は「プロテスタント」は「禁欲」「勤勉」の
 基本理念から出発したと主張。「禁欲」を目的とした「プロテスタンティズム
 は「勤勉さ」を旨とする「合理的」生活態度を形成した結果、
「計画的・合理的」に企業経営を行おうとする精神が形成されたという、
 逆説は資本主義社会の大きな精神的支柱になった。
▼ 「逆も真なり」という諺が昔から日本にあったが、両者とも成立する
 確信で考える入口になればよい。考えるための一番の近道だが、正論を
 把握した後でないと単なる歪みになってしまう。 
 ・・・・・・・
3316, 人みな骨になるならば ー11
2010年04月24日(土)
 * 神とは ?
 虚無主義の著者の宗教観がシビア。 この辺が、明るい乾いた虚無主義者の
真骨頂である。大方の人は、以下の論に近いのだろう。 アブラハムがつくり
あげた超越的存在の神、そしてユダヤ教キリスト教イスラム教の内輪もめ。 
これが、現在の世界の宗教戦争を引き起こしている。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 神という言葉を使うと近代以後の知識人は懐疑的になったり警戒したりする
ものだが、それは「神」という概念の内包(意味)に関して伝統的なイメージを
ひきずっているためである。もともと「神」などという超越的観念は、それを
思っている人によって勝手にイメージされてきた。 中世の農夫にとっては
雲の上にいる白髭の老人であり、現代的な信者にとっては、「宇宙に偏在する、
形のあいまいな意志そのもの」である。 どこかの原住民にとっては自分と
同じような腰蓑をつけているオッサンかもしれない。このように、信者たちが
各自勝手に想像しているのが絶対者なのだ。ある意味で、このような多義的に
なんとでも解釈できる教義を備えていない宗教は、レベルもニーズも様々な
多数の信者を引き寄せることができないらしい。だから近代以降のインテリ
たちは、神を否定したがる。確かに、そんなシロモノは実在しそうもない。 
ただ、そうした多様なイメージのむこうに共通項として「それ以上の審級が
存在しないような超越的かつ絶対の存在にして運命の決定者」を想定すること
はできるだろう。それが人間臭い愛や怒りや嫉妬や気まぐれをもつかどうかは、
各信者の想像力の限界を示すだけである。むしろ、その人間の程度を知りた
ければ、その人物が信じている神の特徴を教えてもらえばよい。
神のイメージは、たいていその信者の願望と恐れを投影したものだからである。 
そこで、ここにいう「神」とは「宇宙を統べるなにか」以上のものではない。
そんなものが実在するかはひとまず措く。もしそうしたものが存在するならば、
それとの相談なしに将来を誓うことは人間の分際を越えていることになる。
そして、そうしたものが存在しないなら、ますますわれわれの生や将来には
なんの保証もない。
 〜〜
「その人の程度を知りたければ、その信じている神の特徴を知ればよい。
神のイメージは、その信者の願望と恐れを投影したものである」は、言いえて
妙である。人間が言葉を持ったが故の不安と不幸をカバーするため、未知の
存在の畏敬としての神は、必要である。しかし、それでしかない。
「その人物の程度といえば、連れ添いを知ればよい!」というが、これは
当たっているか?これとは関係ない。神については黙するしかない、
ということか。最後は、神様助けて、というしかないのが人間である。
 ・・・・・・・・
2941,ナチが愛した二重スパイ
2009年04月24日(金)
 「ナチが愛した二重スパイ」  ベン マッキンタイアー著
 新幹線通勤の往き帰りの車中で一ヶ月かけて読んだが、これが何とも面白い。
第二次大戦末期、ロンドン暗黒街のチャップマンは、ナチのスパイとなる。
しかし「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた実録もの。
ロンドンの当時の札付きの泥棒、ジゴロの生々しい犯罪と、監獄暮らしなどが
詳細に書かれている。現在の犯罪者も似たようなものだろうから、我われ小市民
とは全く異質の存在である。肯定的にみれば「何もしないで一生終わるより、
よほど思いのまま生きることも必要では?とさえ思わせるほどである。 
札付きの犯罪者がその経験を生かして二重スパイになって国家のために大きな
働きをすることになるから、皮肉といえば皮肉。
pー234に 著者は、二重スパイのチャップマンを次のように分析している。
 【 二重スパイのチャップマンの話は、地味なスパイの話とは違う。
スパイ小説なら、あり得ないこととして拒否される内容である。主人公は
悪党であるが、悪党としては決して敗残者ではない。彼の犯罪歴は、軍隊脱走
から猥褻行為へ、女から脅迫へ、強盗から金庫爆破へと段階的に進んだ。
あとになると彼の報酬は多くなり、最初はつまらぬことに手を染めたのを恥じて
いるのは疑いない。この男の本質は己惚れで、自ら評価するところでは大物で、
暗黒街のプリンスのような存在である。 (字数の関係でカット09年4月24日) 
・・・・・・・・・
2577, フロー体験 ー2
 2008年04月24日(木)
 ー まずは、要点を書き写してみる。ー

つれづれに

イメージ 1

他のブログ
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http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

今日のYoutube

 今朝のポタリング信濃川の土手で、道を塞ぐような
人だかり。 ジョギングのグループの一人が手当てを受けて、
担架に乗せられていた。救急隊員が5~6名、ジョギングの
グループが10人ぐらい。 なかなか、道が開かないので、
少し強引に、隙間を自転車で通り抜けたが。 さすがに、
デジカメの撮影は控えることにした。

 


・・・・・・・
3316, 人みな骨になるならば ー11
2010年04月24日(土)
 * 神とは ?
 虚無主義の著者の宗教観がシビア。 この辺が、明るい乾いた虚無主義者の
真骨頂である。大方の人は、以下の論に近いのだろう。 アブラハムがつくり
あげた超越的存在の神、そしてユダヤ教キリスト教イスラム教の内輪もめ。 
これが、現在の世界の宗教戦争を引き起こしている。
  ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 神という言葉を使うと近代以後の知識人は懐疑的になったり警戒したりする
ものだが、それは「神」という概念の内包(意味)に関して伝統的なイメージを
ひきずっているためである。もともと「神」などという超越的観念は、それを
思っている人によって勝手にイメージされてきた。 中世の農夫にとっては
雲の上にいる白髭の老人であり、現代的な信者にとっては、「宇宙に偏在する、
形のあいまいな意志そのもの」である。 どこかの原住民にとっては自分と
同じような腰蓑をつけているオッサンかもしれない。このように、信者たちが
各自勝手に想像しているのが絶対者なのだ。ある意味で、このような多義的に
なんとでも解釈できる教義を備えていない宗教は、レベルもニーズも様々な
多数の信者を引き寄せることができないらしい。だから近代以降のインテリ
たちは、神を否定したがる。確かに、そんなシロモノは実在しそうもない。 
ただ、そうした多様なイメージのむこうに共通項として「それ以上の審級が
存在しないような超越的かつ絶対の存在にして運命の決定者」を想定すること
はできるだろう。それが人間臭い愛や怒りや嫉妬や気まぐれをもつかどうかは、
各信者の想像力の限界を示すだけである。むしろ、その人間の程度を知りた
ければ、その人物が信じている神の特徴を教えてもらえばよい。
神のイメージは、たいていその信者の願望と恐れを投影したものだからである。 
そこで、ここにいう「神」とは「宇宙を統べるなにか」以上のものではない。
そんなものが実在するかはひとまず措く。もしそうしたものが存在するならば、
それとの相談なしに将来を誓うことは人間の分際を越えていることになる。
そして、そうしたものが存在しないなら、ますますわれわれの生や将来には
なんの保証もない。
 ~~
「その人の程度を知りたければ、その信じている神の特徴を知ればよい。
神のイメージは、その信者の願望と恐れを投影したものである」は、言いえて
妙である。人間が言葉を持ったが故の不安と不幸をカバーするため、未知の
存在の畏敬としての神は、必要である。しかし、それでしかない。
「その人物の程度といえば、連れ添いを知ればよい!」というが、これは
当たっているか?これとは関係ない。神については黙するしかない、
ということか。最後は、神様助けて、というしかないのが人間である。
 
・・・・・・
2941,ナチが愛した二重スパイ
2009年04月24日(金)
 「ナチが愛した二重スパイ」  ベン マッキンタイアー著
 新幹線通勤の往き帰りの車中で一ヶ月かけて読んだが、これが何とも面白い。
第二次大戦末期、ロンドン暗黒街のチャップマンは、ナチのスパイとなる。
しかし「二重スパイ」として、ベルリンに偽情報を送っていた実録もの。
ロンドンの当時の札付きの泥棒、ジゴロの生々しい犯罪と、監獄暮らしなどが
詳細に書かれている。現在の犯罪者も似たようなものだろうから、我われ小市民
とは全く異質の存在である。肯定的にみれば「何もしないで一生終わるより、
よほど思いのまま生きることも必要では?とさえ思わせるほどである。 
札付きの犯罪者がその経験を生かして二重スパイになって国家のために大きな
働きをすることになるから、皮肉といえば皮肉。
pー234に 著者は、二重スパイのチャップマンを次のように分析している。
 【 二重スパイのチャップマンの話は、地味なスパイの話とは違う。
スパイ小説なら、あり得ないこととして拒否される内容である。主人公は
悪党であるが、悪党としては決して敗残者ではない。彼の犯罪歴は、軍隊脱走
から猥褻行為へ、女から脅迫へ、強盗から金庫爆破へと段階的に進んだ。
あとになると彼の報酬は多くなり、最初はつまらぬことに手を染めたのを恥じて
いるのは疑いない。この男の本質は己惚れで、自ら評価するところでは大物で、
暗黒街のプリンスのような存在である。 (字数の関係でカット09年4月24日) 


・・・・・・

2577, フロー体験 -2

2008年04月24日(木)

 オハ*・゜゚・*:.。..。.:*・゜(≧∀≦)゚・*:.。. .。.:*・゜゚・*!!!!!
   まずは、要点を書き写してみる。
 ~~
我々が幸福であるかどうかは、世界の大きな力に加えることのできる統制に
よるのではなく内側の調和による。肉体的生存が外部環境に依存している以上、
外部環境を支配する方法を学び続けることは確かに必要である。 
しかし、外部環境を支配するとは、すでに経験して解るように、我々が個人
としていかに喜びを感じるか、または世界めカオスをどのように減少させるかに
関しては、それほど役に立たない。カオスを減少させるためには、意識そのもの
を支配すること学ばなければならない。
 ーフロー体験の構成要素が存在すると、
   次の8つを挙げている。
1. 明確な目的(予想と法則が認識できる)
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。
  (活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
3. 自己に対する意識の感覚の低下、活動と意識の融合。
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、
行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
7. 状況や活動を自分で制御している感覚。
8. 活動に本質的な価値がある、だから活動が苦にならない。

フロー体験は外面的報酬とは隔離され、ひとつの活動に深く没入し、その経験
それ自体が楽しいので、純粋にそれをするために多くの時間や労力を費やすこと
ができる状態をいう。したがってフロー体験は、悲しい、辛い、煩わしい、
妬ましい、腹が立つ、焦るといったネガティブな感情とは隔絶した、うれしい、
楽しい、歓喜に満ちた十全感、充足感、楽観、自己効力感をもたらしてくれる。

 ~~
最近、ipodを常に携帯して機会があるごとに聴いているが、それはマシン+
音楽でフロー状態を作っていることになる。特にアルファー波が出るのがよい。
マリファナを吸ったときに出る脳波と同じ状態になる音楽だけを集めたシリーズ
もある。スナックや居酒屋のバックグランドミュージックとして流しておけば、
再び来たくなる効果が出るだろう。成功者は、フロー体験を人一倍持っている。 
だから、人を引きつける。失敗者は、その逆の波が身についている。だから
人は近づかなくなる。逆境のときは、あまり人と接しないことだ。
この毎日書いている随想日記もフロー体験の構成要素をみると、当てはまる。
居間のコタツの上で書いているが、目がパソコンに向かった瞬間、他の情報は
ホボ遮断する。フローの状態そのものであ
               (。´_`)ノ ほなぁ。
・・・・・・・・・・
2007年04月24日(火)
2212, 宇宙的自己?が語りかけてきた?
              (。・8・。)ノ おはよう!
  *一昨日の朝方の夢*
10年近く前に亡くなった母の夢を時々みるが、一昨日の夢が不思議な夢だった。
晩年の母は5年半ほど痴呆症だったが、夢の中の母は平常の状態。
不思議に思い、「如何したら呆けないでいられるのか?」と聞いたら、
「何を経験しても、その都度ごとに文脈としてまとめることよ、また、
一つ一つの要素をキッチリと言葉にしておくことよ。」と諭すように答えた。

そして、家の宝として、小さな仏像を5~6個持ってきた。さらに家にある
大きな封書を持ってきた。神聖な昔から家にある「書置き」のようだ。
そこで目が覚めた。普段の自分の世界から一歩抜け出た不思議な感覚であった。
‘遥か遠い向こうの世界からの魂の呼びかけ’のような、‘宇宙的自己としての
母の自己が、地上の私に直に語りかけてきている’ようであった。
現に毎晩、私が寝ているところが、母が30年以上寝ていた処である。

「魂とは何なのだろうか?」不思議で不思議で仕方がない。誰もが持っている、
不死の何かなのだろうか?あの夢に出てきた母とは誰なのだろうか?
自己の創り出した(記憶の底から出てきた)母のイメージだろう。
夢も考えてみたら不思議である。 犬も夢をみるというが、自分の無意識が
つくり上げた物語である。

以前は不思議な夢を多くみたが、最近はめっきり少なくなった。
モーニング・ページに起きざまにみたばかりの夢の内容を書いている。
そのまま、大学ノートに書きなぐるが、生々しい夢を書くのも面白いもの。
モーニング・ページの大きなコーナーになっている。
内容は他愛もないが、それでも時どきハッとするような深い内容がある。
夢と魂とは何か結びついているんじゃないのか?と時どき思う。
それも身近な母や父などの夢は、特に!

ところで母が持ってきた、あの封書の中味は何だったのだろう?
  母の残した、「詩」だろうか?それとも家を守りなさいというサイン?
  あのイメージは、家筋としての記録である。家系としての筋道? 
胡散臭いが!        
               ホンジャ  (~▽~*)/
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2006年04月24日(月)
1847, 安楽死について-2
         (’0’)d おっ w(゚Д゚)w ハァ?
昨日の随想日記の過去分(2002年4月23日)に、安楽死について
書いてあった。(あとでコピー)
数日前の毎日新聞のー記者の目 ーで安楽死について取り上げていたが、
鋭い論評であった。私は積極的安楽死論であるが、この記者も安楽論のようだ。
両親や親戚の叔母などの死際を身近に見ていて実感したことは、
激痛を伴う終末の延命は無意味であり、カタチを変えた拷問の容認である。

ーまずは、毎日新聞からー
 「射水市民病院の呼吸器外し問題」=根本毅(大阪科学環境部)
◇「医師が命の線引き」、嫌だ
--延命治療、議論を尽くせ

 富山県射水(いみず)市の射水市民病院で末期患者7人が人工呼吸器を
外され死亡した。病院側や多くの医療関係者の意見は「越えてはならない一線を
越えた」と、6件の関与を認めた外科部長(50)=自宅待機中=に厳しかった。
しかし、病院周辺では「家族との信頼関係の中で外した」とする外科部長に同情
する声が強い。どちらが正しいのか、現地で取材しながら悩んだが、偶然あたった
主治医の死生観で自分の死に方が決まるとしたら、納得できない。外科部長の
取った行動は誤りだったと思う。

医療技術が進み、意識の戻る見込みがない重体に陥っても、
人工呼吸器や栄養・水分補給の点滴などで延命が可能になった。
今回、呼吸器を外された7人は末期患者で、うち5人はがんを病んでいた。

 問題は昨年10月、別の患者の呼吸器が外されようとしているのを、
看護師長が院長に報告し発覚。院長は外科部長と話し合い、県警に届けた。
病院側は日本医師会が04年にまとめた「医師の職業倫理指針」に基づき、
延命治療の中止に必要な要件の
(1)回復の見込みがないという複数の医師の確認
(2)本人の意思表示--がなく、問題だとしている。

 病院の別の医師は「外科部長は呼吸器のスイッチを切る時に手が震え
なかったのだろうか。命の重さを考えたら、私にはできない」と話す。
 別の病院の外科医は
「消極的安楽死という言い方もあるが、スイッチを切るのは積極的行為。
やはり一線を越えている」とする。 大阪府内の脳神経外科医は「20年前
までは医師の都合で平気でやっていた。死亡日を決めることも可能で、実態は
殺人と同じようなものだ。そもそも人工呼吸器をつけるかなど延命治療に
ついて事前に聞かないといけない」と指摘した。

取材では、外科部長を擁護する言葉の後で「患者はまな板のコイ」
(入院中の62歳男性)、「医者は信頼するしかない」(妻のリハビリに
付き添う84歳男性)という声も聞いた。
医師は、患者の命や健康について本人以上に知っている。患者は絶対的な
弱者だ。外科部長が主張するように、医師と患者・家族の信頼関係で治療
方針を決めたとしても、医師の説明で判断するほかなく、医師の能力や
考え方が大きく左右する。別の医師の意見を聞く「セカンド・オピニオン」
が重要なのはこのためだ。

 外科部長は、外科以外の医療スタッフに相談せずに呼吸器を外した。
患者の当時の状態についてはカルテが残るだけで、その時点で本当に回復
不能だったのかという点などを第三者が検証することは難しい。 
手続きは不備だった。

一方で、忘れられないシーンがある。病院から出てきた男性(55)に
声を掛けた時のことだ。男性はうんざりした口調で「介護したことある?
ないなら現実の大変さは分からないよ。外科部長の気持ちは理解できる」
と話した。私は末期患者をみとったことはない。返す言葉がなかった。

 病院は13診療科、200床を有する地域の中核病院だ。外来は圧倒的
にお年寄りが多い。女性患者(80)は「病院は外科部長で持っている、
と言われていた。外科部長を悪く言う人は一人もいない」と話し、入院中の
男性患者(50)も「殺人にはしてほしくない」と捜査の行方を心配していた。

 大阪府豊中市でがん患者の在宅医療を手がける「千里ペインクリニック」
の松永美佳子院長は「往診では『早く楽にして』と、毎日のように言われる。
呼吸器外しは日本では許されないが、外科部長の気持ちは分かる。
支える家族が費やす金と体力は大変だ」と説明。その上で、
「呼吸器を外さなくても、点滴を減らしたり止めることは現場で行われている。
どこまでなら許されるのか、線引きがあいまいだ。
どこまで延命するかの判断は医師によって全く違う」と指摘した。

 取材をきっかけに、死について妻(32)と話した。
妻はがんの姉の最期をみとった経験がある。
「延命治療をしなくていいからね」と話すと、妻は「あした、あなたが
そうなったら、私は延命治療を希望するわ」と言った。妻が望むなら
それでもいい、と思った。

 人の死についてはさまざまな意見がある。
終末医療ガイドラインを一律に決めることは簡単ではないだろう。
しかし、個々の医師の考えで生死が線引きされる状況は、明らかにおかしい。
今回のケースも、「いい先生だから」といって、外科部長が免責される
ようなことがあっていいとは思わない。臨終の時をどう迎えるか。
死をタブー視せずに、まず広範な議論から始めなければならない。
         (。・・)_且~~ お茶 
                   ヾ(^ω^*) バイ
・・・・・・
2005年04月24日(日)
1482, ラジウム岩盤浴-2

スモールビジネスとして岩盤浴経営も増加しつつある。新潟市内にも、
先日郊外に開店をした。数年前に流行したアカスリブームや、足マッサージ
に似ており、一時的ブームも可能性も充分考えられる。三~四年が目安?

料金は一回600円~1500円。 天然ミネラル風呂と併設されているところもある。
女性の利用が9割ということもあり、女性専用のところが多い。
最近は男性も利用者が増えつつあるという。取引先の社長が、この岩盤浴
興味を持って岩盤温泉サウナを準備をしていたが、開店直前に失火で全焼
してしまった。現在、違う場所で開店準備に入っているという。

失火した店を、その数日後に社長と見てきたが、見るも無残であった。
その時にラジウム石?を一部譲ってもらって風呂に入れたり、枕の下に入れて
いる。特に風呂に拳大の大きさの石を入れたが、身体に保温効果が出ている。
風呂のタイルに付いていたカビや水垢も不思議なことに自然と消えていた。

また、この素材でできているカップでコーヒーを飲むと一段と美味しい。
また酒やワインも、この小石を入れて飲むと味が一段と美味しくなる。
最近はラジウム石のブレスレッドや、ネックレスも身に着けている。
パソコンに集中しているためか目が異常に疲れるが、その疲れが減っている。

ーあるHPのこぴーです。
 ルルドの泉って何?
フランスのスペイン国境近く、ピレネー山脈の麓にルルドという村があります。
1858年2月11日、この村に生まれたスビルーという13歳になる娘が、たきぎに
する流木を拾い集めている時、彼女の前にマリア様が姿を現しました。
それから7月16日まで18回にわたってマリア様は彼女の前に姿を現しました。
2月25日の9回目に、マリア様がお告げになられた場所から湧き出た泉が、
後に数多くの病人を奇跡的に治したと言われる”ルルドの泉”です。

1879年4月16日、35歳という若さで昇天された聖ベルナデッタは、
現在ヌヴェ-ルの聖ギルダー修道院の聖堂に安置されています。
昇天されてから120年以上経った現在も、そのお姿は腐敗しておらず、
”もうひとつの奇跡”がここにあります。

この村にある泉の水を飲んだり、身体に接触させると、近代医学では不治
の病と考えられている病気や身体の不調・障害が急速に回復していくという
実例があります。ローマ法王庁からは奇跡と認定されています。後の研究の
結果、泉の中には、実は驚くほどの多量のゲルマニウムが含まれている
ことがわかりました。

現在この奇跡の泉には年間300万人を超える病人が世界中から訪れています。
また東洋でも評判の良い漢方植物にゲルマニウムの含有が知られています。
ルルドの泉の奇跡が全てゲルマニウムで説明がつくわけではありませんが、
現在医学界ではゲルマニウム(元素番号32)は予防医学の切り札として、
大変な脚光を浴びています。

・・・・・・・
2004年04月24日(土)
1117, 「ライフ・レッスン」ー6
 ー罪悪感のレッスン

・罪悪感は自己の判断に根ざしている。自分が何か悪い事をしてしまった
という意識である。
それは自己の信念体系に抵触をしたときに生じる、内側に向かう怒りである。
多くの場合、その不幸な判断基準は、幼児期に受けた教育によって
形成されるものだ。それもしばしば「売春婦」になるべく育てられたという
ことが原因になっている。不穏当な表現だが、これは事実である。象徴的に
売春婦とおなじく、われわれは他者の親愛の情を得るために自己を売るべく
育てられてきた。自己のためのアイデンティティを強化するよりも、
他者の願望実現の為に専念するのがいい子であると教えられてきた。
真の独立や相互依存よりは、共依存すべく訓練されてきた。
われわれは自己の幸福実現のために自己の欲求を満たす方法を知らないまま
に育ったのだ。 適切な時に「ノー」といえることを学ぶべきなのに。

・罪悪感は時間とも密接に結びついている。
罪悪感はつねに過去から生じ、人は過去に生きつづけさせるものである。
罪悪感とは、現在というリアリティを見ないようにするための方法なのだ。
それは過去にまでひきずっていく。過去の罪が未来の罪をつくりだす。
罪をてばなした時、人ははじめて過去を手放すことができ、あたらしい
未来創造ができる。人は罪に値するものではなく、許しに値するものである。
そのレッスンを学んだとき、われわれはまったき自由になるのだ。

ーー
笑い話に「こどもの嘘」を思い出した。
あぶらげを隣から貰ってきた子供が、思わずかじってしまった。
それをとがめらると「トンビが下りてきてかじっていった!」この類だが。

良心という問題が出てくるが、両親ー良心ーの姿が一番影響する。
自分も両親ー良心ーの片割れだ。

・・・・・・・
2003年04月24日(木)
750, ある人生

 先日親戚の葬式で、故人の息子の一人に30年ぶりにあった。
2歳年下で、中学を卒業したと同時に日本橋蕎麦屋に勤めにいった。
といっても出前持ちである。一度その店に行ったこともあったが、将来
自分の店を持ちたいといっていた。大人しい無口な、あまり機転が
利かないタイプで、店を出せるタイプでない典型の人と思っていた。

 その彼が何と店を持ったという。そして数年前に7年やった店を
閉鎖をしたと聞いて驚いた。涙がドッと出てとまらなかった。
大小にかかわらず創業がいかに大変かを身にしみてわかっている
から、彼がまがりなりにも新潟で単身で店を出した苦労が解るのだ。
 
 20数年働いた1千万で、誰の力も借りないで新潟市で、あの大人
しい彼が開店から閉鎖まで自分一人でやったという。彼の性格からいって、
人の数倍の苦労があったのが想像できる。若い時の甘い顔は一仕事を
やり遂げた野武士のような面構えに変わっていた。そして自分のやって
きたことに自信を持っていた。 この自信こそ人生で一番大事なことだ。

 一心は岩をも通すというが、正に彼はその人生を貫いたのだ。
20数年かけて一心に働き、店の営業を含め合計30年以上のワンクルー
を一心にやりとげたのだ。隣で、その兄が「凄いことだ!」といっていたが、
それを聞いてただ涙が出て止まらなかった。「それが如何したことか?
何処でもある話ではないか」というストーリーかもしれないが、
彼の純粋な大人しい性格を知ればこそ感動したのだ。それも独身で!

 彼の30年以上のスパンで、やり遂げた一心さは,どんな成功者より凄い。
少しオーバーかもしれないが、「山田太一の世界」といってよい。
人生の何たるものかをこの人に教えてもらったようだ。私の尊敬する人が
一人親戚にできた。 今は柏崎の実家で母親と住んで、掃除会社に勤めて
いるといっていた。この経済の暴風の中やる気をもらった。

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2002年04月24日(水)
386, 宗教的タカリ

オウム教はとんでもない犯罪行為をしたが、一つだけよい事を、いや
結果的に良いことをした。宗教の怪しげな一面を浮き彫りにしたことである。
その一つが現在の仏教界の集り体質である。葬式仏教の陥っている偽善体質。

数百年かけ巧妙に、そのシステムを作っていったのだ。
彼らも商売?のだから仕方ないと、誰もが疑わないのもおかしい。
仏を盾に集っているのだ。 彼等の法事等の話など聞けたものでない。
こちらの知識の数段下レベルである。 プロの素人化の典型といってよい。

戒名料とかなんとか、勝手に値段を決め金をせびる。
彼らも生活をしなくてはならないのは判るが、豪奢な生活が問題である。
幸福の科学にしろ、創価学会にしろ、その怪しげな一面を見ると、もっと
その共通点を洗い出し、白日にさらけ出さなくてはならない。信じさせて
金を騙し取るという点で、詐欺師のテクニックとほぼ同じである。
特に結婚詐欺に似ている。

夢を売って金を騙す、お布施と称して。