* 『傷ついている人は人を傷つけ、癒されている人は人を癒す!』
 5年前からの一連の中で、倒産をした者に対する『差別』は思いの他、大きい
ことを実感してきた。『被差別民』の扱いである。自分が逆の立場の時は、
「終わった経済敗者」として、排除された人と特別視をしていた。 
資本主義社会なら当然、経済難民と見られて当然。カラスが、生きもが弱点を
曝すだけで、攻撃を加えるのと同じ。で、その先頭に立つのが、「下位にあって、
無為に過ごしてきた人たち」。なぜか、直接攻撃をしてきた人たちが、2〜3年内
に、家族か本人が、事故か、大病などのアクシデントが起こる。これは、今回
だけでなく、これまでの節目でも経験してきた。「傷ついている人こそ、二人称
の人の不幸に、己の傷口が疼くため」である。「他人の傷口に、自分の血を
塗り込みたいその衝動が、自らの毒になり、家族に異変が生じる。
<他人を指さす時、親指は上に(天の理)、他の3本の指は己を指している>
 指摘する対象を天理と信じた思いは、己の内なる認識を指摘しているに
過ぎない。 一般的に、10倍の誇張で思い込む癖が脳にあるから始末が悪い。
 天理思いの、ほぼ全てが、これ。だから「世間」の妄想は、信用してはなら
ない最大の敵になる。 それに、気づくのは、余命数ヶ月と宣告された時。
まだ、気づけば良いが。この世のことは、夢まぼろし、特に世間とかいう、
馬鹿の壁が、自分の世界を狭めていたことに、人生のハテに気づく! 
が、時は既に遅い。一つのことを成そうとすると、他の多くを捨てなくては
ならない。しかし、捨てても捨てても、上手くいかないのが娑婆。だから、
せめて他者の傷を蹴り上げるしかない。そこで一番、痛むのが己の傷口。
自分の傷口は、自分しか癒せない。自己治癒は可能だが、それは長年かけると
自ずと癒しが大きくなる。傷つく度に、傷口を清潔に治療しておかないと! 
膿んでしまう。その膿は、自分だけでなく、他人をも殺してしまう猛毒に化す。
その観察だけでも、この経験は充分の価値がある。その痛痒い!が、面白い!
 その辺りに、膿を振り撒いている輩がいる。「マイナス3に、プラス1」
の状態、いや、「マイナス6に、プラス1」か。 曽野綾子ではないが、
《泥棒以下の人たち》 それからすると、万人が常習万引き者になるが・・

・・・・・・
5303,閑話小題 〜白鵬のいない大相撲も悪くない
2015年09月21日(月)
   * 白鵬のいない大相撲も悪くない
 「終わってしまえば、やはり白鵬か!」が、この8年も続いていた。
先場所、白鵬が序盤に敗れたとき、解説の舞の海が『白鵬、弱りましたね!』
の名文句?に反発したのか、最後に何とか優勝をした。優勝インタビューで、
その言葉に反論したが、思い当る節があったから。そして、今場所の初日
からの二連敗と休場で、彼の指摘が正しかった証明になったのも皮肉。
これだけの大記録をつくりあげたのだから、そろそろ限界になって当然。
 で、三日目から白鵬が不在だが、先入観の[終わってしまえば、白鵬」が
無くなった分、面白みが出てきた。良く出来たもので、大横綱候補の照の富士
の地固めの場所に? そして半年〜一年遅れで、逸の城が照の富士に追いつく? 
あとは、遠藤がどうなるか? 毎日、20本の懸賞がつき、あれだけの大歓声が、
相手力士は目の色を変え挑んでくる。その中で、それ相応の相撲を取らないと
勝てないため、自然と力と勝負勘がついてくる。それ故に潰される可能性も
大だが、過っての千代の富士のような相撲力と花がある。少なくとも大関
可能性はある。一連の不祥事から、危機感を持った力士の真剣度が観客を
呼寄せている。後は、日本人の大力士が望まれるが、どうだろう?
   * 終活の時節に入ったが・・
 実兄・実姉、私の合計9人きょうだいのうち、4人が既に亡くなった。
末っ子の私が、あと数ヶ月で70歳なら当然だろうが、生存している5人と、
その連れあいの平均年齢も80歳近い。 先日、10数年前に亡く
なった一番上の姉の連れあいの葬式に参席したが、何か寒々としてきた。
寝たきり、痴呆なども他人事でない。 身辺整理も4年前の会社整理で、
大部分が終わってはいるが。14年半にわたって、言い残したいことは、
ここで書いてきたし、死に関する知識も積んできたし、諦念も、ある程度は
出来ている? 良いにつけ、悪いにつけ、時代の激変を目の当たり出来た
ことと、世界の隅ずみの光景を見ることが出来たことも、幸運だったと、
いえることが有難い。としても、まだまだ見たりない、味わいたりないこと
ばかり。「前向きに、貪欲に未知を求める」が、現在の活きる道しるべか。
・・・・・・
4938,閑話小題 ー節目年齢の呼称と、厄年
2014年09月21日(日)
   * 長寿年齢の呼称と、厄年   〜還暦は満年齢、その他は数え年〜
 先年、還暦が終わったと思ったら、あと半年で古希になる。色いろあったが、
アッという間である。ここまで生きてこられたことに我ながら驚いている。 
同期の男の4人に1人の割で亡くなっている。これが10年後には2人に1人の割りに。
もう、何時お迎えがきても、死に時と割切るしかない。
  ーそこで長寿年齢の呼称を調べると
60才 還暦(かんれき)60年で十二支の組み合わせが一回りすることから。
70才 古稀(こき) 唐の詩人、杜甫の詩「人生七十古来稀なり」にちなんで。
77才 喜寿(きじゅ)  喜の草体が七十七と読まれるから。
80才 傘寿(さんじゅ) 傘の略字が八十と読まれるから。
88才 米寿(べいじゅ) 米の字を分解すると八、十、八。
90才 卒寿      卒の通用異体字が卆だから。
99才 白寿(はくじゅ)  百の字から一を引くと99になるから。
100才 百寿(ももじゅ) 白の字に一を足すと100になるから。
108才 茶寿 草冠を二十 その下が米に見立てて88を足すと108。
111才 皇寿  皇の字を白、一、十、一に分解して99を表す白に
             足すと111になる。
112才 珍寿    112歳以上は珍しいため。
 ところで、人には「厄年」がある。人生の中で不幸や災難が降りかかり
やすい年のこと。厄年は、中国の陰陽道・思想からもたらされたもので、これが
一般に広まったのが江戸時代のこと。江戸時代には、厄年は数えで男性が25歳、
42歳、61歳。女性が19歳、33歳、37歳だったが、現在では、男性が25歳、42歳、
女性が、19歳、33歳とするのが一般的である。その中で、男性は42歳、
女性は33歳が「大厄」と呼び、その前後を「前厄」「後厄」といって、
恐れる風潮がある。
 自分を振り返ると、その辺りが絶頂期であると同時に、大きな落し穴があり、
節目時でもあった。家長制度のあった時代から、核家族、弧族の時代へ変化して
いる現在、果たして長寿が幸せか疑問である。 まずは、父の亡くなった歳まで
二年が目安。 次の目安が喜寿が7年数ヶ月。傘寿まで11年ヶ月。健康年齢
(介護を受けないで済む年齢)を3年先と想定して、人生の余白を埋めていく
ことが当面の判断基準になる。老いても3S(チャレンジ、チェンジ、
コンペティション)の開発と、フラッシュで浮かんだ記憶を捉えて、遡ることに
ヒントがありそうだ。 「いい年をして」の「何をするにもいい年」とプラスに
解釈して、ソロで、彼方此方を渡り歩くことが良いのは分かってはいるが、
老いからくる面倒くさい!が先に立つ。
・・・・・・
4571,閑話小題 ー火事に遭遇   
2013年09月21日(土)
   * 火事に遭遇
 何時ものポタリングで、長岡大橋から川西にわたり、大手大橋から再び、
長岡大橋に戻って水道町公園前に来たとき、長岡大橋の道路を隔てた向こう側
から煙が立っていた。工場の煙のような、火事のようでもみえる。まずはカメラ
で写真を撮り、次に近づいて撮ったが、まだ警察も消防もきていない。
写真を撮ったのは長岡大橋のバイパスの上からで、現場まで150m先、
駆付けるか、帰ろうか迷ったが、帰ることにした。少しバイパスを走ると
パトカーと消防が追い越していった。シャッターチャンスにタイミングよく
撮れたが・・・(9・19記)
  ー9・20日、追記ー 
 昨日の火事。今朝の新聞によると、72歳のご主人が亡くなったとある。
18歳の孫と老夫婦の三人暮らしで、6時40分に台所からの出火、孫と
連れそいは逃げて無事。あのまま近くまでいっていたら、修羅場に立ち会った
ことになる。まさか、死者まで出ているとは! 改めて写真をみると凄い煙。
通行人は、まさかと関心なさそうに見向きもしないし、車も止まらずいくし・・ 
死者が出た火災の写真とは!新聞社に送ろうか?いや止めておく! 
朝のポタリングには必ずカメラを持って出るが、こういう日に限って忘れる
ことが多いが・・ ところで火事といえば長岡駅前の商家に住んでいた頃に、
4軒ほど先の「監物ビル」の大火災があった。近所の二人の少年の火遊びが
原因だったが、自宅のある店のビルが、その熱で熱くなったことと、近くで
遊んでいたため、警察に呼ばれ事情聴取をされたことも記憶に残っている。
更に斜め前の丸大という衣料品店が全焼したのも見ている。
   * 来春、購入予定の自転車を前倒しで発注
 来春三月に購入予定をしていた電動アシスト自転車を、前倒しで注文。
現在の電動アシストのマウンテンバイクのブレーキが前後の車輪とも不調で、
やむなく注文。ブレーキの不調を運転で逆に楽しんでいる自分が怖くなった。
我ながら変な性格である。今度のものはパナソニックの電動アシストで、
タイプはクロスバイク。来週早そうの入荷予定。
・・・・・・
4196, 呪いの時代 ー13
2012年09月21日(金)                                
    * 原発供養          「呪いの時代」内田樹著    
 この東北大震災に際し皇室一族が最大限のお見舞いをしていた。
国家の元首として、歴史的大惨事に現地に真っ先に行かれ、見舞うことが役割
として最優先されることだが、その行為に呪鎮の意味が入っているとみる
ことができる。 ー以下も納得できるがー
≪ 一神教文化圏の人々は荒ぶる神を巨大な神殿に祀り、それを畏れ、隔離
することでいっときの安心を買い、日本人は荒ぶる神を金儲けの道具にまで
堕落させ、その在所をずっぽりとベニヤの書き割りで囲って、「あんなもん、
怖くも何ともないよ」と言い募ることでいっときの安心を買った。 どちらの
安心が長持ちするものだったかは今回の事故があらわにした。 福島原発
ふざけた書き割りを見たヨーロッパやアメリカの原発関係者はかなり衝撃を
受けたのではないかと思う。その施設の老朽ぶりや、コストの安さや、安全
設備の手抜きに心底驚愕したのではないかと思う。どうして原子力のような
危険なものを、こんなふうに「雑に」扱ったのだろう… と海外の原子力
研究者は頭を抱えたはず。そこまでして「コストカット」したかったのか? 
日本人は命より金が大事なのか? もちろんそうではない。話は逆なのだ。 
あまりに怖かったので、「原子力は所詮金儲けの道具にすぎないという嘘」
を採用した。原発の設備をあれほど粗雑に作ったのは、原子力に対する
恐怖心をそうやってごまかそうとしたからなのである。「こんなものいくら
粗雑に扱っても抵抗しやしねんだよ」と蹴ったり、唾を吐きかけたりして、
「強がって」みた、 (・・・中略)
・・原子力についても、そもそもその設営のときに、伝来の古法に則って、
呪鎮の儀を執り行うべきだったと思う。盛り土をして、原子炉を土中に置く
のである。塚に草が茂り、桜が咲き、鳥がさえずるような広々とした場の下に
原発を安置する。そこに神社仏閣を勧請する。「原発神社」。荒ぶる神が
とりあえずは「よきこと」だけをなし、恐るべき力の暴発を抑制してくれて
いることを感謝するのである。 そして、桜が咲く頃には地域の人を集めて、
原発祭り」を挙行する。荒ぶる神がとりあえずは「よきこと」だけをなし、
恐るべき力の暴発を抑制してくれていることを感謝する。(・・中略)
 ・・・ 福島原発の設概工事のときにも、間違いなく地鎮祭は行われた
はずである(地鎮祭を執行しなければ、建築現場には誰も入らない)。
なぜ地鎮祭の執行を禁止しなかったのか。地鎮祭をしないと、日本人の作業員
が現場に入ってくれないのなら、中国からでもフィリピンからでも建築労働者
を連れてきて断行すればよいではないか。 なぜ地鎮祭を行うのか。
それは平屋の家を建てる工事においてでさえ、行われる。「恐るべきもの」
の不意の現場での警戒を怠れば、思いがけない事故が起こることを現場の
働く人は経験知として知っているからである。地鎮祭は地祇を鎮めるため
ではなく、人間の緊張を亢進させるための心的装置なのである。・・・≫
▼ 「原発供養をすべし」とは、思いもよらぬ切り口。供養すれば済む問題でも
 なかろうが。ビル建設で地鎮祭を何度か経験したが、それはそれで大事な神事。
しかし世界中のビル工事で行われるかといえば、そうでもなく、日本的心的装置。
施工業者と、施主と、土地・建物を一つの魂にする儀式ということか。
最後は祈るしかないという、ブラックジョークか。
 ・・・・・・
3831, 閑話小題
2011年09月21日(水)
  * 学生時代に経験した、都会人と地方出身者の差
 東京の学生時代は寮暮らしだったが、そこは地方出身者の巣窟。
それに比べ大学はミッション系で比較的裕福な人たちが集った学校。
クラブに入って驚いたのは、都会人の会話のセンス。常にジョークか駄洒落を
飛ばし会話を楽しんでいる。友人も教養課程のクラスでは席が固定されている。
そこで二分されるのが、都会出身者と地方出身者。服装からセンスが違う。
しかし都会出身者は、地方人の素朴さに惹かれ反面、どこか田舎者と見下げる。 
地方出身者は更に言葉にコンプレックスを持つ。が、それ以前に、日常の三食の
食事など生活のハンデがある。友人を見てキツイそうなのがアパート生活者。
地方出身者は孤独な都会の一人暮らしに辟易としてしまう。 入学早々に彼女を
つくるなど、まだ純真な身にとって考えられない。チャンスは幾らでもあるが、
どの辺が自分に妥当かどうか判断できない。やっと声がかかってくるのが学生
生活に慣れた二年の後半から三年にかけてになる。とはいえ、女性の方は二段階
上の人が対象。(これは40歳を過ぎて初めて知ったこと)その中で4人の姉
たちを比較し、その上というとナカナカ適正な相手が見つからない。
 現在振り返ると私も1〜2ランク上の相手を求めていたということ?
それからして、ギャップは、あまりに大きい。という訳で私は学生時代に結婚
相手を見つけないまま終わってしまった。友人をみると、学生時代の相手と結婚
したのは三分一ぐらい。結婚相手を決めることは互いに、人生を大きく左右する
ほどの決断。目先の熱にうなされ、一生の大惨事になる可能性があるのが結婚。 
更に驚いたのは都会人の読書の絶対量が違うこと。25人の地方出身者の寮に
入っていて、確かに何時も酒を飲み騒いでいた。しかし、必死に本を読んでいた
ことも確か。それでも、都会育ちに人たちは、その絶対量が違う。
それでも、色いろの大学の学生が入り交じっていた寮、クラブ、ゼミ、
一ヶ月の欧州旅行、アルバイトでの多種の人との接点が非常に恵まれていた。
小学校から大学時代を通して、大学が最も恵まれていた。卒業直後、就職で地方
にいったこともあり、もう一皮ぬけなかったのが、良かったのか悪かったのか。 
それもこれも、同じだが・・ しかし、話が合うのは今でも都会の人たち、
というより揉まれた人たち!  
・・・・・・・・
3466, 秘・異郷ツアー、よもやま話 ー10
2010年09月21日(火)
 * アフリカに魅せられて ー4
  ー奇跡の自然動物園のクレーター「ンゴロンゴロ」ー
 初めて足を踏み入れたときに、自然が創り上げた自然動物園に奇跡を
目の当たりに見たような気がした。 ここは数百万年前に出来た火山のカルデラ
に広がる平野である。 もとはセレンゲティ国立公園の一部だったが、遊牧民
マサイ族の生活保護のため国立公園から分離、ンゴロンゴロ然保護区となった。
ンゴロンゴロとはマサイ語で「大きな穴」。野生保護区は、直径約16キロMの
火口跡があり、クレーター内では多くの野生動物(キリンやインパラ以外)の象、
ライオン、バッファロークロサイ、カバなどが見られる。外輪は2,400mの
高さがあり、カルデラ内部の平野(1,800m)と比べ標高が高い。このためカルデラ
内部はカルデラ外部と遮断されており、ここで生息する大型動物のほとんどは
カルデラの外にでることはない。(象とか一部は出入りの道がある) 
そこは周囲と隔離された生態系が形成されるに至った。そこでは東アフリカの
サバンナに生息する動物はほぼ観察することができる。植物にはじまる食物
連鎖は一つの大きな生態系のシステムをつくっている。上から下に下りて
見渡すと本当に小さく感じる。僅か16×14キロの平原に2万5千頭もの
野生動物たちが暮らす「最後の楽園」。それぞれの動物のテリトリーがあり、
ジープを少し走っただけで、色いろな動物に遭遇する。
実際に地球上にアフリカ大陸がそのまま圧縮されたような自然界である。
そのこと自体が信じがたく奇跡的である。 クレーターから約50キロMに
数百万年前の初期人類が発見されたオルドバイ渓谷がある。ここから人類が
アフリカ大陸全体に、世界に向け進出していったと言われる。 
だから、人は本能的に惹かれるのである。
 ・・・・・・・・
3091,猫背の話
 2009年09月21日(月)
 ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2015年09月21日)ー
・・・・・・

つれづれに

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 連日の雨のため、この数日間は、ポタリングはなし。
今朝、久しぶりに信濃川土手を一周したきたが、川の雨量は
普段より大目だが、満水ではない。
 出発時点では、雨が降りそうな気配だったが、途中から
晴れてきた。北の空が明るいと、降ることはホボない。

 


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・・・・・・
3091,猫背の話
2009年09月21日(月)

 数ヶ月前に、何気なく全身鏡の自分の猫背姿をみて愕然とした。 
腰を痛めていたこともあるが、首が少し前に出た猫背の初老の男の姿が、
そこにあった。毎日、散歩をして軽いストレッチをしていたのだが。 
しかしストレッチを一年ぐらい気を抜いていたのは事実。
意識して背筋を伸ばすように心がけてはいたが。そこで、さっそく
朝起きる直前に布団の中で全身を伸ばし、背筋を伸ばすマシーンを探して
取り寄せ矯正を始めた。 朝晩に使っているが、これでかなり矯正はした。
 ところで先日、TVのワイドショーで「猫背」をテーマにしていた。
・猫背には「首猫背」と「腰猫背」がある。 首猫背は首が前に
 出た猫背で、腰猫背は腰が少し引けて上半身が前に傾いている姿勢。
・壁を背に密着して立って、脚から頭までピッタリとくっ付けば猫背ではない。
 首が壁につかないのが首猫背、背中もつかないのが、腰猫背。 
・静止して立っているときに、片方に重心を置く人や、脚を開いて
 立つ癖のある人には、猫背の可能性がある。
・姿勢にしても、歩行にしても、座っている姿も、理想的なカタチを
 自覚して、常に意識すること。
・中年女性のモデルが姿勢矯正のポイントして「モデルは壁の御友達」
 という言葉と方法を紹介していた。先ほどのように壁を背にして立って、
 膝の前に組んだ両手を首の上まで引きあげて姿勢を正すのを日常とする。
  等々・・・ 参考になる内容であった。
 ウォーキング時の姿勢と、歩き方を理想的なカタチを意識していると、
普段と違った歩きになる。新幹線の窓から、駅のホームに歩いている人を
上から見ると、7割かたの人は猫背に近いのが見て取れる。面白いもので、
胸を張ってリズムかるに歩くと、自信が沸いてくる心持になる。
何時も颯爽としている女性の話によると、「腕まくりをして、胸をはり、
リズムカルに歩くと、自分に自信がつく。どんなに御洒落をしても、
猫背で自信無さそうな姿は、全てを壊してしまう」とか。
衣服と、姿勢は、もっとも大事な身だしなみ。 年齢を重ねると自然に
俯きかげんになる。私の身辺では猫背の人は少ない。新入社員の教育で、
まず教えることは「猫背を直すことから始る。アゴを引いて、胸を張り、
背筋を伸ばすことから入る。 接客商売の基本である。

 ・・・・・・・・・
2726, 議論に絶対負けない法 -2
2008年09月21日(日)

ランダムに面白そうなところから選んで考えてみる。「力の議論」の
十大要素が纏めてあったが、この本の要点である。よく読むと気がつくが、
議論というより人生を前向きに活き活きいきるコツでもある。
孫氏の兵法にも通じる。 この本から多くのことを教えられる。
 ー「力の議論」の十大要素ー(12章、どんな議論でも「絶対負けない」
1、まず十分に準備しなさい -自分が議論そのものになるまで、準備しなさい。
 ー適切な準備には、ストーリーを話すことと、関係者に役を割り当てる
 ことが必要だ。
2、あなたの議論を受け取ってもらえるよう相手の心を開かせなさい
  -ただただ真実を語りなさい。自分自身になりなさい。それで十分だ。
3、ストーリーの形で議論しなさい -おとぎ話、たとえ話は皆、成功する
  議論に欠かせない道具だ。
4、真実を語りなさい-力の議論は、真実を語ることに始り、真実を語る
  ことに終わる、真実は言葉だ。
5、相手に自分の望んでいることを話しなさい -人間とは、どんな種類の
  どんな性格の苦しみも耐えれる種なのだ。―ただ一つ不正という苦みを除いては―
6、皮肉を言ったり馬鹿げたことを言うのを避けることーユーモアを使う時に
  注意しなさい。相手を侮辱する言動に注意しなさい。皮肉屋、馬鹿にする人、
  卑怯な人を尊敬する人はいない。相手に敬意を払うことによって私達は
  高い次元に上がる。忘れてはならない敬意とは相互に働くものだ。
7、論理は力だ -サミュエル・バトラーが言ったように、
  「論理は剣に似ている。論理に訴える人は、論理に滅ぼされるだろう」
8、行動と勝利とは兄弟だ-もっとも緻密な防御をするより、最悪のものでも
  真正面から攻撃をした方がよい。絶対に相手に主導権を握らせてはいけない。
  攻撃する時には防御をしてはいけない。
9、最初に自分の議論の弱点を認めなさい
  -自分から弱点をさらけ出した方が良いだろう、そうしないと相手は
  可能な限り陰険なやり方でそれを暴くだろう。それを先に認めれば信頼
  を得ることが出来るし、認めたことに何も言うべきことがなくなる。
10、自分の力を理解しなさい-自分自身に許可ー勝つ許可だけーを与えなさい。
   だが放漫と横柄と愚かさは近い親戚であることを忘れないことだ。
  --
 以上だが、物語にするための準備を積み上げること、それも真実の、ということか!
次は、その準備について述べている部分を抜粋して考えてみる。日本の検察の手法に、
これがあるという。告訴する時に、荒筋をつくって強引に容疑者を当てはめようとする。
そのストーリーを書いてしまえば、真実は二の次になってしまう。これが恐ろしいという。
マスコミも、しかりである。それだけ、物語の力があるということだ。 共同幻想は、
物語から沸いてくる。そういえば、ここで「物語のつくり方」みたいな本を
取り上げたことがあった。

・・・・・・・・
2007年09月21日(金)
2362, コーヒーの由来
ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2008年09月21日)ー
~~
以上が、コーヒーの歴史と由来である。
ところで余話を一つ・・  昨年春のこと、事務所の至近距離に喫茶店が移転してきた。
50歳前後の夫婦が10坪足らずの店を開いているが、一年は持たないだろうと思いきや、
一年過ぎても、それなりに客が入っている。開店・閉店を含め朝の7時から夜は9時
過ぎまで、盆暮れを除いて年中無休。実際のところ、喫茶店という業種は20年以上前
から成り立たなくなってしまっている。一部の例外はあるが、年中無休か、他の収入
手段があり、趣味的に運営しているか、喫茶店は表向きで、実は食堂の店が例外的に
生き残っている。 チェーン店のコーヒーショップは、あれは喫茶店とは別物。
この話は長くなるので、ここでは止めておくが・・・

・・・・・・・・
2006年09月21日(木)
1997, 「私」のための現代思想    読書日記
   \(^▽^*)おは!   (光文社新書)  著者・高田 明典

 「私」とは何か、「他人」とは何か、そして他人の集まった「世界」とは何か?
 を解りやすく書いてある本がないかと思っていた矢先に、図書館でこの本に行き
 当たった。哲学、そして現代思想で、常に言及している問題である。
 この本では、<言葉><価値><社会><世界><物語><私><身体><他者>
 という現代思想の主要概念を検討する構成をとっている。この著書の中で、凝縮
 されたポイントを抜粋してみよう。まずは「はじめに」の中から、ポイントの部分
 を抜粋してみる。
・フランスの哲学者のシモーヌ・ヴェイユは、哲学の教師でありながら、一介の労働者
 として工場に入り込み、そこで辛い体験を通して、自らの思想を研ぎ澄ました。
 そこで工場での体験で意志の発揮の機会はことごとく奪われてしまいました。
 そこで私たちは「時間の流れ」にさからうことはできません。
 しかし時間の流れの中で、次に到来する時点において何をしているかを思い描き、
 その通りに行動することはできます。 それを人は「意志」といいます。
 また、「精神」とも、「魂」ともいいます。すなわち「魂」とは、人が「時間を
 支配すること」です。もしも「次の瞬間」、もしくは「次の時間単位」に発生する
 ことが、自分の意志とは全く関係なく起こるものであれば、人は「瞬間的に生きる」
 ほかなくなります。 その自由は失われます。
・教養とは「自由になるための技術」です。そして哲学や現代思想は、その柱の一つ。
 私たちに与えられた武器は、思考であり言語であり論理である。それ以外の武器を、
 私たちは持っていません。自由になるための「技術の束縛」から逃れるためには、
「技術を所有する」ことです。「お金の束縛」から逃れるには、「お金を所有」する
 しかありません。所有するとは権限を持つことと同義語である。何に束縛を感じるか、
 その人によって違います。その違いは、それぞれの個人の「物語」の違いによります。
 物語は「人が生きていく上での行動の道筋」です。束縛は、外部に存在して人の
 行動を制限するものではありません。その人が採用する「物語」が遂行していく
 途上に存在する「壁」のことです。「金銭という束縛」を感じているとすれば、
 それは「金銭が壁となって邪魔をする」という「物語」が遂行中であることを意味
 しています。「思考による束縛」の場合は、「思考を捨てる」ということは、
 すなわち「何も考えない」ということなので、その実現はかなり難しいと思われる。
 「思考の束縛」から逃れるためには、「思考を所有する」ほかはないようです。
                     おわりに      (。^0^。)ノ! 
  ・・・・・・・・
2005年09月21日(水)
1632, 記憶する身体、飛翔する意識
         ー 日野敬三 対談集  -3
 柄谷と保坂の違って、三木は本人自身が生死の淵の大手術をしているので対談の
内容は、よりリアルになっている。ー手術の前前日、夜に病院を抜け出して、
信濃町の駅の向かいの喫茶店に一人座って茫然とコーヒーを飲んだのです。
ふと見たら駅の改札口が、ひどく明るく見えるのです。そこだけ輝いて見えるのです。
努め帰りの人たちがドンドン出てくる。以前だったら、疲れて不幸そうな顔をして
いるなと思うんですけど、そのときは出てくる人たちの顔がみんな輝いているのですよー 
のクダリなど、挫折を何度か繰り返してきた経験から、痛いほど解る。現在、リストラ
にあった人の心象風景そのものである。 以下は、少し暗いが真実の声である。
   ー記憶する身体、飛翔する意識ー 三木卓
ー三木
生死ぎりぎりの大手術をして、人生の荒治療を食らったという感じは大いにありますね。
突如として目の前に「シャッター」がダーンと落ちてきたときには、やはりかなり慌てた。
多少は死のことを考えていたつもりなのに、やはり本番の覚悟はできてなかったのですね。
ー日野
2001年宇宙の旅』というSF映画の中に、モノリスという不思議な金属が出てくる。 
ツルツルの黒っぽい。三木さんは先ほど、シャッターとおっしゃいましたが、僕は
あれが目の前にスーッと現れた気がしたの。
ー三木
モノリスが?怖いな!
ー三木
病室の窓から、恵比寿の町の灯が見えるんです。そうすると街のどこかのバーで僕が
一杯ひっかけていてもいいわけですよ。ところがその風景が、何か、明治時代のガス灯
の世界か何かに思えてくる。その間にあるガラスは厚いですね。驚くほど厚いガラス
なんです。そこに僕が行って飲むということは素晴らしいが、もう絶対できない。
ー日野
僕は、手術の前前日、夜に病院を抜け出して、信濃町の駅の向かいの喫茶店に一人
座って茫然とコーヒーを飲んだのです。
ふと見たら駅の改札口が、ひどく明るく見えるのです。そこだけ輝いて見えるのです。
勤め帰りの人たちがドンドン出てくる。以前だったら、疲れて不幸そうな顔をしている
なと思うんですけど、そのときは出てくる人たちの顔が、みんな輝いているのですよ。
僕はここにいて、10~20m先の改札口の皆が帰っていく姿が、この世のものならぬ光に
包まれて、そして自分とそこの間には絶対の隔りがあった。その光景は忘れられません。
ー三木
日野さんも僕も、シャッターが落ちたときから、そういう時間が始まったんだと思う。
僕はときどき高校に講演に行くんですが、入試に絶対に受かる方法があると、冗談
めいたことを言うんです。君達には、まだ一年があると思って悠々としているだろう。
しかし、入試一ヶ月前になったら必死に勉強しないではいられない。それは一ヶ月と
いう時間ならそれを実体として把握できるからだ。その実感としての時間を一年前に
見通して把握できるなら、つまり一ヶ月前の時間の質と同じように一年前の時間を
感じることができればいい。きっと優秀な人間はそういう能力を持っていると思うと。
ー以下字数の関係で中間をカットしました。 (2009年09月21日)ー
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死を直面する時に、だいたいこんな気持ちになるのだろう。そして、ひとり悶絶
して諦念するしかないのだう。そのときの準備のために、人類は宗教をつくりあげた
のだ。最後の最後は、『神様助けてください、お願いします』になるだから心に
迫ってくる。しかし、この二人は神ではなく科学的に死を見つめている。

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2004年09月21日(火)
1267, 書いてなかった旅行記ー2
 カナダ旅行紀ー2

バンフスプリングス・ホテルが一つの芸術作品のようである。重厚な石造りの
建物に、豪華なロビーとレストラン。もちろんホテルとして、世界的に有名な
ホテルである。その庭先にはレイク・ルイーズがある。いや、レイク・ルイーズ
のほとりにホテルを建てたのだ。朝、昼、夜(白夜)とその湖の色が大きく
変わって見える。ロビーの窓が、あたかも絵の額縁のように作ってある。
早朝、その窓から見た湖の美しさに息を呑んでしまった。白夜の11時過ぎに、
一人でレイク・ルイーズの畔のウォーキングコースを散歩をした。
よそ者は入ってくるなと脅しているように稲妻と雷の音が鳴り響く、自リスや、
ラッコが威嚇の声を上げる。それが、その背景とピッタリなのである。恐ろしく
なり引き返そうとした。ふと人の気配するので、目をやると若い白人女性が
一人でハイキングから帰ってきたところだった。男でも恐ろしいところをよく
一人で歩くものだと感心をした。高台から見えたペイト・レイクの美しさも
心に焼き付いている。コバルトブルーの色は、過って一度も見たことのない色。
右を見ても左を見ても、全てが絶景というのがカナデアン・ロッキーの特徴である。
旅行の都度、添乗員に必ず次の質問をしていた。「貴方の主観でよいから、一番
良かったところは何処ですか?」殆どの添乗員答えは「カナダのロッキー」。
次がスペイン。そして、インド。そういわせるだけのものは確かにあった。
ところで現在の私に同じ質問をしたら、迷わず、「ケニア!」と答える。

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2003年09月21日(日)
900,『 V・E ・フランクル