「私の幸福論」福田恆存著     
   * 快楽と幸福 ーA
『面白かったから、まあ、いいや』
『折角、80年の地球ツアーに○○しに来たのだから、
 深く広く味わい尽くさないと、勿体ないじゃないか』
の内語を呟いている自分がいる。これは快楽主義に影響されてのこと? 
私のレベル?からみて、数ランク上のスケジュールをたて日々を過ごして
いるが、これが慣れれば快適そのもの。 賢者の快楽主義の、「見とおしを
きかし、よく計算する」ことを意識した構成ではないが、少し近い感がする?
そうもしないと、老人性鬱病か、分裂症、痴呆症に陥る危機を実感するため
実践しているが、慣れてしまえば、快楽まではいかないが、快適である。。
その結果、更に徹底した唯我独尊の個人主義者になっている。
   〜その辺りを抜粋
≪・私たちは疲れないように歩かなければなりません。疲れるくらいなら、
 歩かないほうがいい。しいて目的地を定めて、そこに到達するために、
肉体を酷使するなど、ばかげた話ですし、また悪でもあります。目的は先に
あるのではない。歩くことそのことのうちに快楽が見いだせないくらいなら、
歩かないほうがいい。目的は未来の到達点にあるのではなく、現在の歩く行為
そのもののうちにあるということになります。得られるか得られぬかわからぬ
未来のために、現在を犠牲にしてはならぬわけです。

・私たちは、自分の欲望を真に知ってはおりません。ただ禁じられているがゆえ、
その枠を破ることにのみ、自分の欲望があると錯覚している。 (中略)…
はてしもない欲望に、いいかえれば、つねに求めて得られぬ不満というものに
絶望してしまいかねません。そして、自暴自棄になり、いよいよ快楽からは
遠ざかるというわけです。

・どんな賢者なら「見とおしをきかし、よく計算する」ことができましょうか。
自然と人間との間の、他人と自分との間の、さらに自分のなかの無意識と意識
との間の、さまざまな欲望の衝突に直面して、誰がすべてを見とおし、これに
決定的な裁きをつけることができるでしょうか。一人の個人に、それだけの
大事業が可能であるとは考えられません。

・すべてを見とおし、よく計算することが、個人の力にあまるとしても、
自然科学や社会科学の助けを求めれば、それがなんとか可能になりはしないか
ということであります。大ざっぱにいえば、それは正しい。
が、その科学的方法もまた、なにものかに笑われることがないのだろうか。
人生を、そして社会を快適なものにするということが、現代では最高の
「美徳」になっていはいないでしょうか。    ≫
――
▼ 何か、見透かれているような内容である。以前、「歩行とダンス」という
 テーマで書いたことがある。(以下、参照) 両親がことあるごとに、言って
いた、「好きになるまで集中し続けなさい!」と同じ。「旅行」と「旅」の意味
あいに似ている。「旅」は、行くまでのプロセスに価値をおく。振返れば、長い
「旅」だった。エネルギーを入れた分だけ、そのまま返ってきた。踊りは快適で
快楽で、見通しも計算もないからこそ良いもの。泣いても笑っても同じ空である。
――

2001/12/21
[164] 目的と手段

目的の達成の為の手段’がときとして逆転してしまうから面白い。
‘手段の目的化’に転化してしまう。旅館やホテルの二代目にそういうのが多い。
営業の為のゴルフを始めたのが、いつの間にかゴルフが目的になり、
営業が反対に手段になってしまう。
何処でもある話と同時に,自身にも過去に数え切れないほど経験がある。
手段を楽しむ事は大事な事だ、そうでなくては目的は果たせないといっていい。
といって目的を忘れて手段に没頭してしまうのが、人間の人間たるゆえんである。
以前‘ダンスと歩行’という文章を書いたが(後記)まさしくその喩えがピッタシ。
目的は達成したと同時に次の目的の手段になる。
ドアについたら次の部屋のドアへの出発点になる。
至近の例で旅館の二代目が商工会議所の部会の長に選ばれ、
イベントにウツツをぬかし廃業に追いこまれた例。
どこかの街のことだが、やはり二代目が青年会議所理事長になり‘街の活性
とかを政治家やゼネコンに煽てあげられ、真にうけて社長業を放棄・・・・・、
いまや????とか。まあこれだから娑婆は面白い。
目的が何かも解ってないから、手段が出てこないのか。そう考えれば彼にとって
逆転も何もないのか!そのあたりが本当のところか?
ーー他人のことをいえた事か!どこかの馬鹿(私のこと)、
自画自賛のホームページにウツツをぬかし、つまらん事を飽きもせず毎日書いて。
馬鹿の脳内をさらけ出し恥さらして!−カミサンには冷笑され・・・・。ーー
ーー
H0609歩行とダンス
 丸山圭三郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が
面白かった。“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。
ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。それではドア
に向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?ありうる!”という。
非常に含蓄のある面白い内容で、人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容。
今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、“よしこの仕事とチーク・
ダンスをして、ドアまでいってやれ”と一人笑った。
大手商社に勤めている友人と酒をのみながら右の話をしたら、本人いわく
“私はさしずめ、ホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間
でまわってくる。それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”
当意即妙であった。ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンス
としてリズムをとりながらパターンをマスターし、かつ楽しみまで高めてドアに
向かう事となると誰にでもできない。ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れて
しまう。ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。
そしてその反対に逆の人も。

・・・・・・
5412,だれもわかってくれない ー?
2016年01月08日(金)
     『だれもわかってくれない』ハイディ・グラント・ハルバーン著
  *「信用レンズ」「パワーレンズ」「エゴレンズ」
 世間とは、一般的に、個々の立場から延長する人間関係を言い、
本人、家族、近所、その知り合いと広がった人たちの繋がりを総称する。
人間は複雑で、この3つをベースにした歪んだレンズを通した世界に住む。
 個々人にとって、それが現実で、全世界になるが、それを客観視できない
ため、小さな世界から一歩も外に出ることが出来ない世間という名の牢獄で、
一生を終えることになる。  そのレンズを、著者は、「信用レンズ」
「パワーレンズ」「エゴレンズ」の3つに分けて、ここに前向きな
「促進レンズ」と、後ろ向きの「予防レンズ」を加える。のっけから、
そんなレンズの視線を気にしないで、自分のレンズを冷静にみて、
生きていくべきだが、これが難しい。
 〜アマゾンの内容より〜
≪ そんなつもりで言ったのじゃないのに、勝手にそうと決めつけられたり、
 自分では笑顔でいるつもりでも、だれも話しかけてくれなかったり…。
こういった「誤解」は、オフィスでも、学校でも、家庭でも、老若男女関係
なく、つねに起こる問題です。ところが近年、その仕組みは科学的にかなり
解明され、予測することが可能になってきています。社会心理学の研究に
よると、人は育った環境や性格によって、大きく3つのレンズ「信用レンズ」
「パワーレンズ」「エゴレンズ」をつけ世の中を見ていることがわかりました。
あなたがコミュニケーションしようとしている相手はどのレンズをつけて
いるのか、あなた自身はどのレンズを通して相手を見ているのか、まずは
それを理解することが、スムーズなコミュニケーションにつながる秘訣だと、
著者は言います。 本書は、モチベーションと目標達成分野の第一人者で、
コロンビア大学ビジネススクールで教鞭をとる社会心理学者が、誤解の原因と
解消法について具体的事例を挙げながらわかりやすく解説した実践的な1冊。≫
▼ この3つのレンズで、世間の視線を分けると、その嫌らしい縄目が透けて
 見えてくる。多くの人が、この歪んだレンズの共同幻想の飼殺しで終わる。
 3つのレンズを、連れあい相手を探す時のレンズと例えると、解りやすい。
・一生の伴侶として信用してよいか、温かみがあるか? 「信用レンズ」
・自分の望む生活を維持できるパワーを持っているか? 「パワーレンズ」
・我がままを許容してくれるか?のレンズで、相手を見定める。「エゴレンズ」
ライオンの群れが、ボスライオンが失踪したとき、メスグループが、新たな
ボスを選定するプロセスを映しだしたTVドキュメントを見たことがあった。 
メスにすれば、外部の強いオスにボスが群れから追い出されれば、子供は
皆殺しになるため、ボスの選定は当然、厳しくなる。これが人間社会だと、
一つ間違えると、一生をボウにふることになる。「貴方の事など誰も解って
くれない!」 そこで、努力をするか、壁をつくるか? どうでもいいか?
・・・・・・
5047,閑話小題 〜全人類と全アリンコの重さは同じ
2015年01月08日(木)
  * 全人類と全アリンコの重さは同じ
 どうでもよい話だが、全アリンコと全人類の体重は同じぐらいで、地球上に、
一京(一兆の一万倍)のアリが存在し、他の昆虫の総体重の10倍はあるそうだ。
ケニアの草原にはアリズカの山が延々とあり、それを餌にするアリクイという
動物までいる。 アリには奴隷アリもいて、他のアリに強制的に働かされている
のもいる。地下に葉っぱを発酵させ、コケを栽培させているアリもいる。
ある意味、地下社会の支配者でもある。
  * つれづれに 〜アベノミクスって大丈夫? 
 犬も歩けば保守にあたる、って感じになってきた。景気と国勢が右下がりも
あって、20数年かけて総中流社会が総下流に下がっている。世界全体が
重苦しく停滞していく中、不安心理の裏返しなのだろう。アベノミクスの金融
緩和で、株高、円安、物価高に重心が動き出したが、地方には景気浮揚の実感は
なく、どんよりとした黒い雲が、覆いかぶってきた。 隠居の身、40年以上の
緊張感から開放され、フワフワ浮いたような毎日。それが思いのほか良くもある。
そして原油が50ドル以下とは驚き!ロシアなど輸出の8割を占める資源大国は
一挙に変になってきた。ちなみに、最近、モノを買わなくなった。買わなくとも
済むからだ。税収の二倍の国家予算で、国の借金が国民一人当たり7百数十万と
いえば、誰もが不安になろうというもの。目先を、6年後の東京オリンピック
向けて何とか乗り切ろうというのだろうが。
・・・・・・
4682, スマート革命 ー3
2014年01月08日(水)    「ゼロから学ぶスマート革命」山崎秀夫 (著)       
  * エッ 自動運転の車が近未来に販売?             
 スマートカーの現時点の究極は自動運転。それが7〜8年内に発売予定の
ニュースには驚いた。以下は著者の内容だが、この本が発刊されたのが
凡そ一年前。これほど早く自動運転の車が現実になるとは、誰も予測して
なかった。如何に科学技術が進んでいるかの証である。それもあって、
何か、この内容がズレてさえいる。 ーその辺りを抜粋するー
   <ドラマ「ナイトライダー」の夢の実現>
1980年代に国内でもテレビ朝日が放映したドラマ「ナイトライダー」の夢
がスマート革命により実現されようとしています。人工知能の塊である
ドリームカーの「キット」(あの開発用のキットを意味する)と運転手
マイケルとが楽しく会話しながら事件を解決すると言った筋書きでドラマは進む。 
自動車がガソリンから電気自動車へと変化する端境期に当たって、スマートカー
にもWiFiネットワークの根と茎が生えて、各種のサービスをクラウドから持って
来る時代になってます。車のナビゲーションや娯楽は外部からサービスとして
提供される。両手をハンドル操作に奪われた運転者は各種サービス操作を
音声で実施する時代が来ています。そうなればまるで車は人の友達のように
感じられます。日本家電が須らく負け組みに陥る中、センスの良いトヨタ
トヨタフレンド」のサービスをPHVなどのプリウス向けに開始しています。
ドライバーが「プリ君」(プリウス)に友達申請して会話をする訳です。
「プリ君」は電池切れや最適な充電時間帯をドライバーに教えてくれます。
非常に残念なのは「プリ君」が話さない点ですが、早晩、「プリ君」には
会話力が付加されるでしょう。
  <マウスやキーボード、ブラウザーが不要になる?>
音声処理やジェスチャー処理、顔認識などの擬人化インターフェースの時代
には、機器が人の友達として立ち現れます。(昔、筆者もIBMのオフィス
コンピューターを大型汎用機のハネウエル機に苦労して接続した事がありました
が、その時IBMのS32はハネウエル機を仮想IBM360として認識していました。
技術的に説明するとこうなります)擬人化インターフェースの時代は
ナチュラルコンピューティングの時代とか「ソーシャルロボットの時代
(人が機器を人として認識する時代)」と呼ばれていますが、いよいよ機器が
「現代のピノキオ」に変身する時代がまた一歩深まった。
そうなればマウスやキーボード、ブラウザー、タッチすら時代遅れです。
▼ Googleがメガネ式の情報端末のモニター向け販売を始めた。これが普及すると
 更に世の中が一変する。その意味で、今年は本格的装着式スマート機器の新機種
が表立ってくる年になる。ワクワクする話だが、これが現実の流れになる。
その上に、想像を遥かに超えた知恵を絞ったアプリが次つぎと出現、情報格差
更に大きくなってくる。こと情報端末に関して、未来予測は、不可能である。 
 まさかスマートカーが現実に?
・・・・・・
4315, 考える力
2013年01月08日(火)
 人生をふり返ると、数多の経験をしてきたが、行蔵は大したことはない。
毎日2〜3時間の読書を50年近く続けてきた割に、あまりの無知と軽さに
我ながら驚いている。 商家の家庭環境の中で教養としてのベースを積む
機会が少なかったということか。現在もTVやシネマで映画をみたい放題の上に、
タブレットでPCゲームを一日に1時間は遊んでいる。26歳からの事業人生、
何時も時代を読み、計画を立て、実行、フィードバックをしていた。
 ということは、それなりに考えてきたことになるが、この有様。
点と点を結ぶ最短の方法をさぐるのが考えることだが。読書で心を集中し、
その意図を読みとり、判断に何か役立つアイデアを探す、それが考えることに
繋がっていたはず。それがマンネリとなると、考えも甘くなる。私の考える力が
ついたのは、この随想日記を書くようになってから。常に何かテーマを探し出し、
小文として、起承転結にまとめる。そのこと自体、考える作業になる。
また、公開することで、書きざるを得ない、手抜きが出来ない状況をつくって
しまうと、考えざるを得なくなる。それを習慣にしてしまえば、年月が経つに
つれ進歩していたはずだが、そうでないようだ。 この頃から、哲学書
面白くなっていた。哲学は考えることを考えること。そのため、考えるほど、
己の底の浅さに呆れている。 ある哲学者によると、《人間の脳は
‘先読みする装置’で、未来を作ることがもっとも重要な仕事》という。
でも、まさか9・11、9・15、3・11の一連の歴史的事件の先読みは出来なかった。
これに匹敵する震災レベルの大波は、これからも、次々と襲ってくる。
それは、20世紀前半に起きた第一次、第二次世界大戦と、世界恐慌の一連の
カオスより遥かに大きいはず。 その中にあって、自分の脳に自信がなければ、
他人の先読み装置を利用すればよい。が、確たるベースが無ければ、他人の
先読み装置の利用など不可能。情報化と、厳しい環境は、考えるにベスト。
カオスの中では、考える力、知的筋力をつけることが最優先される。
手持ちの経験と知識で、瀬戸際で考えるとは、何と恐ろしく、面白いものと、
割り切っていた方がよい。 考えるとは、生易しいものでない!
・・・・・・・
3940、新年にあたり ー4
2012年01月08日(日)
  * 御先祖・四四太郎様の警告  ー�
 久々にシャバに出てきたので、もう少し講釈を垂れることにする。
子孫に講釈は楽しいもの。前回の復習のようだが、この津波は世界にとっても
日本にとっても、お主たちにとっても一大事である。これは80年前の
1930年代の大恐慌と同じか、それより遥かに大きいから始末が悪い。
以前は世界戦争で一度精算をしてしまう方法があった。しかし情報化社会では、
その壮大な手品もネタバレ。だから成り行きに任せるしかない。ワシが生きて
いた16世紀あたりから白人が世界を征服を始めて以来、5百年にわたり
支配をしてきた世界構造が現在、崩壊を始めたのだ。日本では私が亡くなった後、
300年も徳川幕府が日本を支配し、鎖国をしてきた。その鎖国を強引に開国
させたのがアメリカである。その後、日本は日清、日露戦争で勝って調子
づいたが、アメリカと太平洋戦争を始めて完敗、その後66年も間接占領をされ
てきた。そのアメリカが、経済恐慌の火種を世界にバラ撒いたのは周知のこと。
 ここで急激に勢いを増してきた中国と、太平洋を挟んで、
覇権を争う図式になってきた。その中で日本が両者の圧力で、ますます体力を
失うことが必定じゃ。この間に日本の第二次大戦の復讐を恐れたアメリカに
骨の随まで骨抜きにされてしまい、元の日本に戻ることは不可能に近い。
まあ、お前さんも66歳、今さらだが・・ せいぜいパソコンなどIT機器を
フルに使って、世界を知ることだ。その点では、この情報化時代は羨ましい。
 ネットとTVをフルに活用して、この地球と人類が創りあげた文化・文明
を深く知ることだ。しかし、この情報空間は実に恐ろしい仕掛けが隠されている
のを知っているのだろうか。 娑婆の道理より、ネット社会の情報の道理の方が
優位に立ってしまうことだ。これは、最優位のものが、情報により総取りが
可能になるからだ。一番以外は、全てが敗者になってしまう世界になるのである。
これが中間の存在を許さなくなるから、ことは重大になる。商品も人間の階層も
同じ原理になるのだ。 それを知り尽くしているグループが実際に存在していて、
情報操作をし、間接的支配を始めているのだ。彼らは情報操作で、世界を
どうとでも動かせる。まあ、この辺で話は止めておくが・・ 娑婆は御前さん
の想像を絶した思惑で動いている。まずは、それを察知するしかない。これは
自分の地頭で考えるしかない。要は、それぞれが知っている世界はごく僅かで、
それも殆ど好い加減ということを、いま一度じっくりと考えることじゃ。
度々、娑婆に顔を出すたびに思うのは、マスコミとかいう新聞やTVでみる
評論社会のバッシングじゃ。 何だ、あれは。 言葉狩りとかいうらしいが、
目立つ人に対するバッシング、ここまでくると、病気としか思えない。
あれを、ゴミ集団化したマスゴミというらしいが・・ もう一度言う、
この数年は天地が引っ繰り返るほど激しくなる。 チロリ!
・・・・・・・
3575, 閑話小題
2011年01月08日(土)
  * 帰省中の次男の話
 外資系に勤めて10年になる帰省中の次男に聞いてみた。「中国人は多いのか?」
これに対し「普通の存在のように居るよ」である。中国人が日本の外資系に勤める
のだから信じられない位に優秀だろうが、 そこまでは聞かなかった。 
彼らは一人っ子政策の中で、家族を背負っているから覚悟が違う。その彼らと
働くのだから大変だろう。 土曜、祭日は出勤で、週一しか休暇が取れないとか。
平日の帰宅は22時過ぎ、常に睡眠不足。顔はゲッソリ、30歳前半は誰もそうだが。
  * バーチャル・ビュー
 BSで、最近みたのがズバリ「バーチャル・ビュー」という番組。その場に、
あたかもいるような目線で海岸や、街中を軽快な音楽をバックグランドにして
映し出している。何処かのリゾート地のビーチで自分が横たわったり、また
泳いでいるように画面が構成されている。特に自分が行った先は更にリアル感が
強くなる。 そういえば、以前から「世界街歩き」という番組がある。
 自分があたかも旅先で歩いている目線で、店に入ったり、人に声をかけたり、
家に入れてもらったりする。地デジの切り替えで、各家庭のテレビを大型液晶に
かえた為か、テレビ番組も、それに従い変わってきた。受信機だけでなく、撮影
機材も格段と良くなり、映し出される映像と内容が飛躍的にスケールアップ。
これまでBSで放送していた内容のものが、地デジの方に移行を始めている。
それにともない、BS放送の内容も、バーチャルビューのように、居間の空気を
和ませるような内容が出てきた。その一つがバーチャルビューということになる。
これは録画をして、早朝に聞くにベストである。そして現在、映像入りBGMで、
これを書いている。
  * つれづれに
 4日の15時半発の帰省列車の東京方面に乗ったが、殆どが若い親子連れ。
中高年の姿はほぼ見当たらない。(字数制限のためカット、2,011年01月8日)
  ・・・・・・・・
3200, 年末・年始の「どうなる日本」の新聞論評は?
2010年01月08日(金)
 正月の5大新聞の年末年始の社会、経済など「どうなる日本」の解説や、
対談を目を通してみた。石原慎太郎の「日本よ」の辛口の論ぐらいが、納得した
ぐらいで、あとは殆んど見当たらなかった。あまりに悪いから、マイナス論調
のことを書けないのだろう。 当たり前のことだが、
・現状は恐慌そのものであり、既に二番底にむかっている
・デフレ危機の瀬戸際。 デフレ・スパイラルは5,6月辺りが危ない
アメリカから中国、インドなどに選手交代
・電気自動車などの新しい分野への転換期  等等が、問題と指摘していた。 
株価、為替は大きく揺れるのは必至である。私の商売の動きからすると、
デフレ・スパイラルに去年11月から始ったと思われる。社会的問題の、
ホームレスや、失業問題には、どの新聞も避けていた。新聞は取上げないが、
リーマンショック以来16ヶ月も、輸出入がマイナス40%を続けている。
輸出主導の経済のこの国では、この有り様では景気回復など考えられない。
藤井財務相が辞めたが、この国家予算と800兆の国債総額では、予算委員会
答弁は無理。 なるほど百年に一度の恐慌とは、こういうものか!と実感する。
恐慌が二年目に入り、そのウネリがより大きく覆ってきている。
情報化、グローバル化は、世界を平準化する。その中でアメリカの従属国家
として平和を謳歌し、豊かさを享受してきた日本も、世界の普通の国家並みに
なるプロセスの入ったということ。 今年は政界再編成を含め、大波が次から
次へと襲ってくる。 憂鬱な10年に入ったが、割切って身を委ねるしかないか? 
高度成長期を味わったので、その段差の溝があまりに大きく感じる。 
21世紀になって10年、その一端を経験しているが、成るほど断絶の世界である。
更に、ここにきて電気自動車と、ツイッターである。
・・・・・・・・
2835,夢の中に集中しすぎて、無呼吸に 
2009年01月08日(木)
 去年の暮れになるが、危ない夢をみた。何かの夢をみている中で、
空の上から下をみると砂粒位の人が数人が見える。それを神経を集中して
見ようとしたあまり、夢の中の世界に集中しすぎて、生きている生身の本体が
呼吸が出来なくなったのである。ハッとして夢から覚めたが、何分か息をして
なかったようだ。必死に呼吸をして体に空気を入れるが、何ともいえない気分
の悪さに見舞われる。その時、「死ぬ時の感じがこんなものか? 友人はこんな
気分で死んだのか!?」という死の恐怖感に襲われる。そして数分の間、深呼吸
をした後に目をつむると、その画面が再び自動的に現れ、そこに集中してしまう。 
その繰り返しである。そして呼吸が出来なくなる。よほど、集中したのであろう。 
恐ろしくて目をつぶれないのである。30分ほど寝室の暗闇の中で目を見開いて
いたが、恐ろしい不気味な時間であった。無呼吸症候群ではないのだろうが、
高齢現象なのだろうか。書いていて思い出したが、子供の頃、父がイビキを
かいていて急に呼吸が数分止まることがあった。再び呼吸をしないのではと、
耳を済ませたことがあった。(字数制限のためカット、2,011年01月8日)

つれづれに

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他のブログ
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  今日のYoutube

 早朝の仏間の部屋の寒さで、一度、直った喉と鼻風邪が再発?
まだ軽いが、どうなることやら。 昨日は、念のためSJを休んだが。

 まだ、本格的な積雪はない。 今週中に1m以上の積雪がなければ
冬物商戦は完敗だろう。とはいえ、降るのが例年のならわし。


・・・・・・・・
2470, アメリカをWeb世界に類推する
2008年01月08日(火)
                *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ
     「ウェブ時代をゆく」-4  読書日記
 
  現在のWeb世界の現状を、人工国家アメリカの建国と同じ位置づけをして
  考えているところが面白い。 また、否定的にみる傾向の強いアメリカを
  プラスの面から照射しているのも新鮮である。弱肉強食とはいえ、
  強者であればチャンスが開かれているのもWeb世界と同じである。
  これから考えると、Web社会は弱肉強食を強める可能性もある。
  逆に弱者でも、最低の保障も与えられる?が・・・

ーその一部を抜粋してみるー 
「もしこの地球上にアメリカという人工国家がなければ、私たち他の一角にすむ者も
息ぐるしいのではないでしょうか」司馬遼太郎は「アメリカ素描」で、
老境に入った在日の韓国人の、こんな言葉を引き、次のように書いた。
「いまもむかしも、むかしも地球上のほとんどの国のひとびとは、文化で自家中毒する
ほどに重い気圧のなかで生きている。そういう状況のなかで、大きく風穴をあけたのが、
十五世紀末の新大陸発見だった。(中略) 文明のみであなたOKですという気楽な大空間が
この世にあると感じるだけで、決してそこへ移住はせぬにせよ、いつでもそこへゆける
という安心感が人類の心のどこかにあるのではないか。この人のみじかいことばは、
そういう意味のようであった」(二〇頁)
アメリヵ素描』はアメリカ論の名著である。私も何度読み返したかわからない。
司馬の在日韓国人の友人は、司馬がアメリカに行くと聞き、冒頭の言葉を発する。
アメリカとまったく関係のない人がこういう言葉を発するのかと司馬は感慨を持ち、
アメリカという国を、「決して、そこへ行かないにせよ、いつでもそこへゆける
という安心感」を「人類の心」にもたらす存在と認識するのだった。
さまぎまな矛盾を炮えるアメリカのすべてを肯定する気はないが、
「あなたの国の疲れた者、貧しき者を、私のもとに寄こすがいい」で始まる
自由の女神」の台座に刻まれたエマ・ラザルスの詩に象徴される開放性と寛容の理想が
私は好きである。二〇〇一年の同日多発テロ以来その内向化や閉鎖性が指摘されるアメリカだが、
人工国家アメリカの他国とは全く違った開放性を私は相変わらず日々感じながら暮らしている。

本書でたびたび登場したアンディー・グローブは1956年、二十歳のときにハンガリ
動乱に関わり祖国を脱出して難民輸送船でアメリカにやってきた。
アメリカに下り立つと、歯医者.眼鏡、補聴器の費用から、
大学の奨学金・教科書代・生活費の一部まで・支援団体が支払ってくれた。
そのことに彼は感激し・アメリカでの自立に向け猛勉強し「自立の精神」
でたくましく成長し、機会を与えてくれたアメリカへの愛国心を抱く
アンディ・グローブ著一僕の起業は亡命から始まった!一樫村志保訳、日経BP社)。
私はこういう話を聞くとなぜか無性に嬉しくなる。
一般的に、リアル世界で満足度が高い人ほどネットには関心を持たない。
リアル世界で満足度が低い人(若い人たちはその代表》ほどネットの可能性に興奮している。
私はこの「リアル世界」(リァルの地球)対「ネット世界」(もうひとつの地球)の関係が、
「地球上のほとんどの国」(文化の世界)対「人工国家アメリカ」(文明の世界》の関係に、
構造としてよく似ているように恩えるのだ。
だから「リアル世界」だけで満足できない人たちでも、リアルとネットを自由に創造的
に行き来することで、より良く生きる可能性や選択肢が生まれるのではないか。
また創造的に行き来しなくとも、「もうひとつの地球」の存在ゆえに
「いつでもそこへゆけるという安心感」を抱けば、
「リアル世界」を少しは息ぐるしくなく生きられるのではないだろうか。

しかし忘れてならないのは「ネット世界」は「リアル世界」以上に、「自助の精神」が
必要な世界だということである。学習するにせよ、志向性を探索するにせよ。

ーーーーーーー
これほど、肯定的にアメリカという国をシンプルに書いてある言葉に
出あったのは初めてである。能力のあるものにとって、野心のあるものにとって、
ここほど生きやすい国は他にない。力のない者にとって、絶望を感じさせられる国でもある。
チャンスはマイナスにもプラスにも大きく働く。大きな矛盾を抱えながら、
それでも自由を大きく認め理想に向かっていることは事実である。                        (´∀`σ)σ サイナラ!
・・・・・・・・・
2007年01月08日(月)
2106, それがどうした!それでどうした!
     b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪よう♭さん♯
     
「それがどうした!」 究極の開き直りの言葉である。
そして「それでどうする」が、ギリギリのところで思考から手順への
転換点への切り替えの最後の言葉となる。

   「エ・アロール それがどうしたの」は渡辺淳一による小説作品になっている。
    フランスのミッテラン元大統領が、女性問題について質問した記者に対し、
    応えた言葉「Et alors?(それがどうした?)」もコミック的である。

人は他人の誹謗とか中傷に弱く、常に不安感に悩まされる動物である。
この中傷・誹謗や不安感のために人生の一番大事なチャンスを逃してしまう。
その時の悩みに対して、「それがどうした!」「それでどうした!」
と開き直ってみると、ほとんどは何ということもない。 
そうでもないか?まあ、話を逸らさないために、そういうことにしておく。

「それがどうした!」と開き直ったとき、その対象を考え始める基点とするか、
思考停止にするか大きな分かれ目になる。その対象の問題の本質の
「正一点中心無」に向かって開き直って掘り下げていくか、中断するかの分岐になる。
掘り下げると、殆んど「そんなもの、何とことない!」に行き着く。   
 関西で「何ぼのもんじゃい」という言葉もあるが・・・
   
    事業を一つ立ち上げる時、常にこの言葉と向き合うことになる。
   「それでどうした!」そして、「それが何だ?」
   「それでどうする?」とつづき、「それしかできないのだから、しかたない!」
    となり、そしてあとは「なるようにしかならない」となる。
    その繰り返しの中から手順をみつけていく。

先日、飲みにいったママさんが、あるお客に
「御前はこの辺の飲み屋の中で評判が悪い!」と言われた、
と深刻そうな顔をしていた。「ああ、引っ掛け言葉にやられたな!」と。
これは定食屋の定番言葉で、迷っている時ほど、これにやられる。
卑しい「世間屋」のあれらの「低俗男」が何も考えないで、
二軒で同じような話を聞いていう、あの引っ掛け言葉である。

    「週間ポスト」「週間現代」「週間文春」の低俗記者の記事レベルの
    売らんかなのタイトルレベルの引っ掛け話である。
    その程度の話を一度いった連中は二度と身辺から遠ざけてきたが。
    それでも寄ってくるが・・・
    
    長岡のある不動産関係の??の男に
   「あんた、不動産仲間の中で評判悪いよ!」と言われた事があった。
    ムッとして思わず言ってしまった。
   「私にとって最高の褒め言葉として聞いておく!」と・・・
    これが本人にとって大うけをしたらしく、それをその連中に
    言って回ったと言う。これだけ侮蔑した言葉は無いだろうが
    ますます、世間屋様に嫌われたか!
      それがどうした!

父親の下で「うだつのあがらない二代目」などの小池宇宙の世間屋様の商品に対し、
「それがどうした」「それがなんじゃい!」を自分の脳を守る「超越確実言明」
にするしかない。 石ころが遠くから見れば同じような砂利でしかないが、
ただ変形度がおおきいだけ!じゃないかい、という声が大きく聞こえてくるが。
 「それがどうした」そして、「うんで~?」と呟いていれば知恵が出てくるから。
     ゴミ取り言葉!  蝿取り言葉! か? そんなところだ!
              
              ウンジャ(o ・д・)ツ 蝿、いやバイ!
・・・・・・・
2006年01月08日(日)
1741, 教養とは -1

「教養の意味」を検索で調べてみた。 (/´Д`)/Hei !!!!!
     (;¬_¬)  sonnnamon 今日用がない monn!
    
・高く評価される人間性の背景となると想定される知識・経験。         
           勉強勉強!!((φ(◎ロ◎;)φ)))ウラウラウラー!!
・(一般には)一人前の人間が当然持っているべきと考えられる
 一定レベルの知識や 常識を持っていることは当然として、
 古典文学や芸術などに対する幅広い知識を備えており、 かつ、
 それらの知識が品位や人格およびものごとに対する理解力・創造力に
 結びついている状態を指す。       
      ーギリシア語ではパイディアであり、
       意味は「子どもが教育係に指導されて身についたもの」のこと。
      ー英語ではcultureで「粗野な状態から耕された、人の手を経たもの」、
      ードイツ語ではBildungであって「つくられたもの」のこと。
        それぞれに教養の捉え方に対する文化的な温度差がある。
        学問や芸術および精神修養などの文化的活動のことを指す。
        伝統的に西欧の大学で扱われていたリベラル・アーツに
        相当するものとしても捉えられる。         
        大学の専門課程以前に身に着けておくべき幅広い知識。
      社交界や人付き合いの場面において、洗練された会話や身のこなしができる能力。
       (ノ^^)乂(^^ )ノ (ノ^^)八(^^ )ノ
       --
        以上が検索で調べた内容である。
       
     私が理解していたのは
   「教養=過去に蓄積された知識・経験で全て忘れた後でも残っている素養」
   という言葉である。「高い人間性の背景になる知識・経験」というのが
   解りやすい。 私など無教養を自認しているのは
 「高い人間性とは、程遠い生き方をしてきた」からだ。 ( ゚д゚)ンマッ!
  何故必死に本を読むかというと、「せっかく人間として生まれたなら、
  可能な限り人類が蓄積してきた文化を知りたい」からである。
 
  「教養は愛の別名」というのがある。 愛[*´ω`人´ω`*]愛
  「既存の学問分野を縦断しながら、人生への愛を学ぶのが教養」
     というとなお納得できる。 
  豊かな人間性の背景になる経験・知識というのが一般的な意味である。
 
  ~~匸Pヽ(・ω・`)コーヒーデモノモウ…  つづく
・・・・・・・・
2005年01月08日(土)
1376, 日常最上

書店で「日常最上」という言葉に目が吸い寄せられた。
 日常の何げない生活の中にこそ、実は最上の時間であるという意味である。
  それに気がつくのに、何年かかったことか。

   この随想日記に「22・23歳の日記」を書き写してきたが、三十数年ぶりに
   読み返してみると、当時の「日常の何げない些細な友人との会話や議論、
   そして感情の起伏や感動全て」が光り輝いていたことに、初めて気づく。

    現在でも日常の些細なことが全てが実は最上ということに気がつけば、
    毎日が充実した生活を過ごせるのである。
    あの35年前に、そのことに気がついてはいなかった。
    それを今にあてはめて考えてみればよい。
    逆に言えば、日常にドップリつかってる俗世間を否定するのではなく、
    その俗世間そのものを味あうことがも必要である。

    以前読んだ本で、印象的な内容があった。「神様に過去の、ある一日に戻してあげる」
   と言われた人が、昔のある日に戻ったという。 両親・兄弟がいて幼馴染の友達がいて、
   何げない全てが光り輝いていた。何故その時、それに気がつかなかったというと、
  「どうでもよい事」ばかりに気がいっていた為だった。

  日常最上は「生きていること、そのこと」が素晴らしいということである。
  悩みも、恐怖も、不安も、怒りも、全てが最上ということに、
  気がつくことである。「生まれてこなければよかった!」なぞ言語道断である。
   そう思える人が多いが。他人から見たら、そう思われているのだろうが。

・・・・・・・・・
2004年01月08日(木)
1009, 心を軽くする言葉

何気なく図書館で借りてきた本を読んでいたら,ある項目にこの言葉があった。
そうそう手軽に「心が軽くなる言葉があるのだろうか」と思いつつ読んでみて、
ナルホドと思ってしまった。この随想日記も考えてみたら心を軽くする効用がある!
を軽くする映画シリーズは「男はつらいよ」であるが、少しテーマから外れるか。

  私自身にとって「心を軽くする言葉は何だろうか」と考えてみた。
 「何とかなるだろう、何とかならなくなったら、何ともならないでよい。
  ただ問題の中心点からは眼はそらさないこと、最善を尽くすこと。
  何があっても卑しくはならない事、そして人を騙さないこと」ということか。
   この本の中で、ある女性には魔法のような呪文があるという。
   引用の引用になってしまうが。

 「どうにもならないことは、どうでもいいことだ」
    この一説を目にしたとき、スッと肩の力が抜けたという。
    努力のかぎりを尽くしたのに成果が出なかった。
    といって、誰かを傷つけた訳でなし、死んだわけでもない。
    どうしても必要なものなら何とかなったはずだから、
   どうにもならなかったことは、それだけのものでしかなかったのだろう。
   これがその人の解釈だという。本人にとって正しく魔法の呪文だったのだろう。

   この文章を書いていて、気がついたが今実行している「ありがとう」という
  言葉の呪文こそ、「心を軽くする」言葉である。
 ウォーキングをして、1千あたりからスッと気持が軽くなるのが解る。

 この本ではシンプルな例として
 ・「時間はすべてを解決する」
 ・「小さなことは気にしないことだ。そしてすべてのことは小さなことだ」があった。
  ところで、この不景気ほんとうに心が重くなる。
  心のレッスンと受け止めて、日々過ごしているが。 
   
・・・・・・
2003年01月08日(水)
 640 ,ラスベガス

去年の年末にBSTVでラスベガスのショーを連日放映した。
その華やかさにただただ驚いた。NHKの紅白より豪華で格段の差があった。
センスといい規模といい比べること自体が可笑しいといってよい。
アルゼンチンでタンゴのショーを見て圧倒されたとき、ラスベガスの
ショーはこんなものでないのだろうと思った。

先日図書館で借りてきた本に偶然そのラスベガスを書いてあった。
浅田次郎の「絶対幸福主義」である。
彼は仕事の頭の切り替えにラスベガスに年5^6回行っている。
そこでこの街をわかりやすく描写している。
ーラスベガスというのは、カジノだけでなくホテルもレストランも、
全体が堅気ではない。すべてが遊び場、夢の世界なのです。
だから24時間、私を別の自分にしてくれる。こんな街は世界に二つとないでしょう。
何を求めて年に5回も行くかというとリフレッシュのためです。
いやリライフー生き返る・蘇生するという造語を言わせてもらう。

まずホテルからして面白い。私が滞在しているのは「トレイジャーホテル」ですが。
その名のとおり、コンセプトが「宝島」。で、地下のフロアーに行くと海賊が
ウロウロしているんです。隣の「ザ・ミラージュ」は、ホテルそのものが
ジャングルになっている。
その隣の「シーザーズ・パレス」は、古代ローマそのままの内装なんであります。
街そのものがワンダーランド。ディズニーランド顔負けであります。
意外と思われる方も多いでしょうが夫婦や家族ずれで来るとさらに楽しいところだ。

どこに行ってもきれいだし、治安がいいし、買い物をするにも世界一というほど
ショップが揃っている。洒落たレストランもそこらじゅうにある。
この街の健全性に、私は感動してしまいました。
と同時に、いかに日本人が博打を罪悪してるかを再確認しました。
   ・・・・・・・・・
等々、目に浮かぶような描写である。俗っぽく言えば
「如何にお金を持つことが大事であるかと、またそれを使うには能力が必要」
ということだ。

私の場合は秘境旅行を、そのままこの文章に当てはめることができる。
「こちとらは、ニセモノのジャングルや古代ローマや宝島じゃないぞ。
本物なのだ」というのも金と能力の限られた人間の負け惜しみだ。
一度ラスベガス行ってみたくなった。
何時も乗換えで飛行場から遠く街を眺めていたがこんな楽しい街なら行ってみたい。
金をたっぷり持った人種に圧倒されて帰ってくるのが目に見えているが。

 ・・・・・・・・
 2002年01月08日(火)  
 294、正面突破しかないのでは?

今の日本は6掛け規模に収縮になるべき立場にある。
何をもって6掛けかはただ勘であるが、間違いはない。
今の生活を維持をしようとして、それを嫌がりどんどん銀行から金を借り、
雪達磨式に借金が年収の10倍以上に増えていった家庭の状態と仮定できる。

今もその範疇より一歩も出れない状態にある。
「こうすれば、よくなるという」視点より脱却しなくてはならない時期に来ている。
やはりクラッシュに向かって正面突破しかない。
もっとも自然にそうなっていく。しかし今の評論家のほとんどが、
この視点から一歩も出ていない状況である。

ソ連の崩壊までの前提と、それ以降の前提が全く変わってしまった。
アメリカの優待の立場が消滅してしまった、その事実が解ってない。
解っていてもどうにもならないのだ。
この10年ああすれば、こうすればと小出しにいろいろやってきて気づきはじめた。
一度清算しなくては、これを小泉首相が建前で言った。
しかし見ていると、まだ腰が引けている。
恐らくクラッシュがおきるだろう、いやおき始めたと言ってよい。
仕方がない、いや長期的にみたらよいことだ。大津波がきている、
しかし全ての知恵を使って各自が自助努力するしかない。
恐ろしいことだが!近じか地元の大手の建?業が倒産するとの噂も入ってきた。

・・・・・・・
1月8日  1969年

9時過ぎに起床。
10時半に両親と料理屋の「青木楼」へ行く。
11時から実家の店の新年会だ。
70人ほどの会であった。
大広間にこれだけ集まるとさすがに凄い。
終了後店の二人の女性とボーリング場に行く。
その後4人が来る。
6人の女性とのボーリングは楽しい。
その後、ゴーゴー喫茶に行く。
一時間で切り上げて一人で帰ってくる。
家に変えると、株屋の田中さんがきて父と話をしている。
22時に就寝。