* ライフワークの海外ツアー
◉ 40歳代に16回、50歳代に24回の海外ツアーも、60歳代に入って年に一回に、
 60歳半ばからは、諸事情?により隔年に一回。 この数年来のツアーは
(貧者の私は)家内の鞄持ち?と、腰痛との兼ね合いがあり、楽しさ、面白さ
半減だが。それでも、「行ける時に、行ける場所に、行って良かった」と実感。
 これまで私が52回、家内が40回、あと4回で、2人合計100回になるが、もう
無理? 台湾、インドネシアなら可能? このライフワーク、私の魂にとって、
大きな財産であり、心の絶対最適温度を保ってくれる。
◉ 40歳後半から主に欧米文化の外側の秘・異郷から埋めていった後に、
還暦過ぎから欧州中心に切替ていた。 古希からは渡航は中止していたが、先回、
『北イタリア・アルプスと、ドロミテ街道の旅』。 極限近いトレッキングでも、
腰痛が最小で済み、その景観に感動の連発。あの世への土産の一つに加えること
が出来た。「北イタリアからみたマッターホルンと、モンブランと、ドロミテ
街道の絶景の旅」。スイスアルプスの延長シリーズになるが、逆サイドの、
オーストリア・ドイツアルプス」のパックもある。これは、もう無理! 
究極の絶景をみる機会がないと諦めていたが、至福の感動出来たのは幸運だった。
先回も行先がデープのため、同行者は年・数回組ばかり。隔年の私たちとは感覚が
違っていた。<魂の痕跡を残そうと、50歳代に狂ったように?楽しんだのが正解>
◉ イタリアの出国審査時に、パスポートの間に、日本への再入国までの保管の
 ため、千円札6枚を挟んだのを忘れ、そのまま出してしまい、怪しい人の出国
賄賂?と勘違いされる一歩手前… のオチまでついてしまった。また入国手続き
は「完全自動化」。パスポートを指定された画面にはり付け、顔をカメラ前に
さらす認証システムのため、行列はホボ解消されていた。‘全身に溜まっていた
ストレスがバッサと落ちた感覚’は何時ものとおり。世間様とやらの冷たい目線
と、年金暮しと、腰痛を抱えてのツアーも厳しいものがあるが… 何があっても
続けるのがライフワーク。「行けるが花」 いや、何がともあれ、「行くが花」。

・・・・・・
5661,『エゴの力』? 〜総論・B
2016年09月14日(水)
               『エゴの力』石原 慎太郎 (著)
 ネット上の解りやすい概略を検索すると、アマゾンの投稿に、最適なのが
あった。エゴを、「人間の感性の発露以外の何ものでもない」「己の好きなこと
を通じてエゴを磨くこと」と著者はいう。それらから考えると、私の秘・異郷を
中心とした旅行で磨いた感性は、確かに人生を変えた。回数を重ねるほど、
『エゴの力』が増したことになる。好きなことを継続するほど『エゴ』が強く
なる。それが個性である。
    =アマゾンの投稿=
≪ 本書で、「人間の強さとは何かといえば、その人間の備えた個性の力」
(100p)というテーマを中心に、エゴについて語っている。石原さんほど
老成しているわけではないが、私も50歳を過ぎ、このテーマには賛同する。
 石原さんは冒頭、「エゴとは人生を左右する力、人間の個性。個性とはその
人間の感性の発露以外の何ものでもない」(4p)と定義し、織田信長、東郷
平八郎、出光佐三などの行動を引き合いに出し、成功の裏にはエゴの発露がある
ことを紹介する。そして、松下幸之助の言葉「経営には勘が必要だが、勘だけ
ではだめだ。またデータ、コンピューターだけではだめだ。資料をいくら重ね、
データをいくら分析しても限界がある。経営に成功するための原則がある。
その原則のなかで絶対必要条件ともいえるのは経営の哲学、経営理念や志だ」
(46p)を引用する。
・第2章では、恋愛とエゴについて語る。『八百屋お七』『娘道成寺』を引合いに、
「男のエゴの虚弱さというものを、またある意味で人間の備えた弱さを示す象徴
かもしれません」(81ページ)と解説する。 また、明治維新の功労者や太平洋
戦争の英霊達にもエゴを見いだすという。古今東西の小説や歴史上の人物に典拠
を求めるあたりは、いかにも石原さんらしい展開である。
・第3章では、趣味であるヨットを通じて、好きなことを通じてエゴを磨くことが
できると語る。
・第4章では教育や就職について語り、「他者との関わりが自分のエゴ、自我を
切りつけ、損なうことの端的な事例は間違った教育、あるいは間違った躾による
ものが実に多い。特に躾・教育は幼年から始まって成人になるまでの、まだ自我
が確立される前の未成年の段階で一方的に行われる作業ですから、その影響は
極めて容易だし、また大きなものがあります」(148ページ)と指摘する。
・第5章では田中角栄による金権政治を振り返り、「お金というものは決して
ただのお金ではなしに、人生を左右しかねぬ、その使いようによって極めて
貴重で微妙な人生のための小道具」(213ページ)と語る。
・最後に、「世界がアメリカンスタンダードで統一されることはありえない
のと同じように、人間全体に統一規格があてはまることは絶対にありえない。
それと同じように、それぞれの強いエゴを備えている人間たちに人間の
スタンダードがありうるはずはありません」(217ページ)と結んでいる。≫
▼ 遺伝子の研究から、「生命の本質は利己主義の発露にあり>、と言われる。
 生命は、単独では生延びることが出来ないため、仲間を利するしかない。
だから、尤もらしい理屈をつけて、他のため、生きると社会正義と論じる。
成るほど! 自分に力がなければ、他を助けることが出来ない。「興産あって、
恒心あり」。特に人間は、「利己は生命の本質と認め、他利を加える必要性」
がある。男女間のエゴの発露は、人類最大の永遠のテーマになる。
・・・・・・
6027,死の恐怖は観念でしかない ー明るく死ぬために 〜3
2017年09月14日(木)      、
   * 死ぬということは
「余命数ヶ月」と告げられた作家が、病院の帰路、都内の駅前の喫茶店から、
雑踏を眺めて、「自分が死んでも、彼らは、そのまま、生き続ける!」と氷つく
孤独感そのままを書いていたのを憶えている。哲学者は、これを観念のなせる
虚構とという。死ぬのを恐れるのは、愛する家族との永遠の別離。プッツンの
瞬時、「私」なるのが消えるため、「自分が死ぬ」という言葉が成り立たない
のは自明のこと。一人称の自分が死ぬわけがない。雑踏の通行人が、そのまま、
生き続けることも当人の思い込み…  中島の、<私が住んでいる世界、私が
見ている世界は「このようにある」のではない。 客観的世界のあり方と、
「私がある」というあり方は全く異なる>の言葉に、「独り死にいく恐怖は、
長年かけて作られた観念でしかない」と…。とすると、寂寞の観念そのものが、
自分を孤独地獄に落しこんでいることになる。「明るく死ぬためには、いずれ
死ぬ? そして永遠の彼方に消し去られる「私」と、「他者」の問題を直視し、
問答を続けなければならない。 「存在」と「認識」そして「死」の命題が、
年々、面白く、かつ切実になってきたのは、背後から正面に周ったため?
【 〜2004/10/02
  1278, 人生(時間)のセイムスケール−2 より〜
★「線路を走る列車のように、人生は見えないレールの上を走っていく。
 そして、終着駅が近いと知ったとき、〈別の人生もありえたのでは〉
 と夢を見る。しかし、列車を乗り換えることはできない」
                       (田中 誠)
★「我が命は地球より重い。他人の命は犬より軽い」
                       (山田風太郎
★「人は生まれ、苦しんで死ぬ。人生の要点はそれでつきている」
                       (正宗白鳥
★「みんないう。いつか死ぬことはわかっている。
 しかし、「今」死にたくないのだ」      (山田風太郎

★「幸福な人々の死だけ悼もう。つまりごく少数の人々だけを」
                        (フロベール
★「---いろいろあったが、死んでみりゃ、なんてこった、
 はじめから居なかったのとおんなじじゃないか、みなの衆」
                       (山田風太郎

★「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」
                     (橋本多佳子)
★「死が生にいう。
〈おれはお前がわかっている。しかし、お前にはおれがわかっていない〉」
                     (山田風太郎

★「昔の死は、人が、死にゆく人物を演技する喜劇的な悲劇であった。
 今日の死は、人が自分の死ぬのを知らない人物を演技する悲劇的な喜劇」
                     (フィリップ・アリエス) 】

▼ 『("^ω^)・・・ 御あとがよろしいようで、はい、さようなら!』
(こう言い残し、七転八倒をして死んで逝きたいが、私のは「畜生め」入り?)

・・・・・・
5296,『自分を超える 5つの法』とは 〜『自分を超える法』ー?
2015年09月14日(月)
             ー『自分を超える法』ピーター・セイジ著ー
   * 『自分を超える 5つの法』とは
 自分の長期目標を掲げて、そのための宣言書で明文化をして、それに精進
していけば、日々、自分を超えることになる。そこに自ずと3C主義=
チャレンジ(挑戦)、チェンジ(変化)、コンペティション(闘い)が生じる。
それは現役である限り続くが、楽しむことが出来るかどうかが鍵となる。
  〜その5つの法則とは
法則1: 成功の心理学(「人間の6つの欲求」こそが、人間の行動を突き動かす
  安定感のニーズ 多くの人は何かを求めるとき「安定感」を基準にしてしまう
法則2: お金のつくり方(お金持ちになるダントツの方法は「ビジネス」
  お金とは、「社会への貢献度」を示す指標 ほか)
法則3:リーダーシップを高める(「リーダーシップ」は育てたリーダー数で
  決まるリーダーシップを発揮するカギー 「基準を上げる」 ほか)
法則4:世界観をつくる(自分に「力を与える世界観」をつくり上げる
「成長」と「貢献」が世界観をパワフルにする ほか)
法則5:10倍強くなる文章術(すべての人にとって「文章を書くこと」は、
    最重要の項目である
  コピーライティングは「創造力を高めた状態」で行なおう ほか)
  ――
   * まずは、法則1:の「成功の心理学」より
「人間の6つの欲求」こそが、人間の行動を突き動かす。
  〜そのニーズ(欲求)とは
1、安定感のニーズ
 :多くの人は何かを決めるとき「安定感」を基準にしている。
2、不安定感のニーズ
 :人生の質は、あなたが居心地のよさを感じられる、不安定の量に
  正比例する。 行動のさなかでは、恐怖は消える。
3、重要感のニーズ
 :真の「重要感」を持った人とは、使命を帯びた偉人である。
4、愛とつながりのニーズ
 :すべての出発点は「自分が自分を十分に愛すること」である。
5、成長のニーズ 
 :すべての生物は、成長し自分以外のものに何らかの貢献をする。
 大きな「成長」を得るには、大きな「失敗」は不可欠である。
6、貢献のニーズ
 :「力(パワー)」とは、世の中に貢献したいという思いの強さに
 正比例して与えられる。
  〜法則1 のまとめ〜
◎ 人生の質は、あなたが居心地のよさを感じられる不安定量に正比例する
◎ 行動のさなかでは.恐怖は消える
◎ 真の「重要感」を持つた人とは.使命を帯びた偉人
◎ すべての出発点は「自分が自分を十分に愛すること」
◎ 大きな「成長」を得るには、大きな「失敗」は不可欠
◎ ー力(パワー)とは、世の中に貢献したいという思いの強さに
  正比例して与えられるー 
▼ どうしても人間は、不安定より安定を優先するが、これが間違いの元。
 ブッダが亡くなる時に、「この世の中の ことは、すべてのことは移ろい
ゆくものである。従って怠りなく努めなさい」という言葉を残した。
自然界にも、人生にも、「確実なこと」など何もない。あるのは変化だけ。
 人生には、「変化と、刺激」が必要である。とすると、そこには、不安定
が伴うが、その量に比例して質が上がっていく。安定過剰のヘドロ人間は
大よそ8割と見てよいが、それこそが娑婆である。「したい時が、やれる時!」。
その時にしておかないと、ゾンビになる。しかし、変わりゆく世界の中に
あって変わらないもの、それを つかんだ人間が、世界の、人間の、本当の
意味をつかむことが出来る。それは逆に変化の中にこそ、現れ出てくる。 
何か仏教めいてきたか! 

つれづれに

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  今日のYoutube


今日はシネマの日。先週は行かずしまい。
さて、何をみるかだ。

最近、自宅で面白そうな映画を厳選して見ることにした。
録画したのとか、当日、放映の映画に面白いのが多い。




・・・・・・

4219, 神は妄想である ー2
2012年10月14日(日)

   * 有神論と理神論と汎神論            ー「神は妄想である」 リチャード・ドーキンズ著
 理神論という言葉を、この本で初めて知った。「神を信じますか?」と、問われた時に、口を濁す代わりに、この理論を、
答えればよい。私は汎神論に近く日本人的考え方だったが、理神論を加えることにする。 ただ、「今ここにある自分の存在」
が不思議でたまらない。「類人猿が宇宙の存在と原理を意識して、そこに自然原理を見出し擬人化した『神』をイメージした」
と一言でかたずけられない。 神という言葉の解釈がいくらでも可能だからだ。 
ーその辺りを部分を抜粋してみるー
 ≪ 用語法について念を押しておこう。有神論者は、そもそもこの宇宙を創するという主要な仕事に加えて、
 自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し、影響を及ほしているような超自然的知性の存在を信じている。
多くの有神論的な信仰体系においては、神は人間界の事柄に密接に関わっている。神は祈りに答える。罪を赦し、
あるいは罰する。奇跡をおこなうことで世界に干渉する。善行と悪行に思い悩み、私たちがいつそれを行うかを知っている。
理神論者も超自然的な知性を信じているが、その活動はそもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される。
理神論の神はそれ以後のことに一切干渉せず、人間界の事柄に特別な関心をもっていないのも確かだ。汎神論者は、
超自然的な神をまったく信じないが、神という単語を、超自然的なものではない〈自然〉、あるいは宇宙、あるいは
宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う。理神論者は、彼らの神が祈りに応えず、罪や餓悔に関心をもたず、
私たちの考えを読みとったりせず、気まぐれな奇跡によって干渉したりしないという点で有神論者と異なる。
理神論者は、彼らの神が、汎神論者の神のように宇宙の法則の比喩的あるいは詩的な同義語ではなく、ある種の宇宙的な
知性である点で汎神論者と異なる。汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。
「神は老獪なれど、悪意はない」や「神はサイコロを振らない」や「宇宙を創造するとき神に選択肢があったのか」
といった有名なアインシュタイン語録は、どう考えても、理神論的ではなく汎神論であり、まちがっても有神論ではない。
神はサイコロを振らない」は「すべての事柄の核心に蓋然性が横たわっているわけではない」と翻訳されるべきである。
「宇宙を創造するときに神に選択肢があったのか?」は「宇宙はいまある形以外のやり方で始まることができただろうか?」
という意味である。アインシュタインは「神」を純粋に比喩的、詩的な意味で使っていたのである。≫
 ▼ 読み込めば読み込むほど、こんなシビアな無神論の明快さに驚いてしまう。日本人からみれば、何を今さらだが。 
  「神がいるかどうかでない、存在しなくてはならないのだ!」という言葉があるが、その人には神は存在すればよい。
・・・・・・・
3854, 50歳代が勝負時? 
2011年10月14日(金)
 何度か取り上げているが、51歳時、痴呆症だった88歳の母を見送り、「さて、これから如何しようか?」と考えた時に、
曽野綾子の「人生の良いところは60歳まで」という言葉に出会った。そうすると9年しかない。 そこで考えついたのが、
「残りの人生を、50歳代の9年間の中に押し込んで生きる」ことであった。 想定を70歳か75歳の寿命として、3~5倍
に圧縮して生きることである。 そのためには捨て身で、やりたいことをする。そこで、思いついたのが秘境・異郷ツアー。
行きたいところをピックアップし、何はともあれ行くことにした。 年に4回も行った年もあった。更に10年前の55歳時に、
個人HPを作って、それを公開し思いのままを書き出すことにした。丁度ブログが普及する直前。この随想日記の始まりである。
これを書き始めた5ヶ月後に9・11テロが起き、世界の情勢が一変してしまった。毎年10パーセントの売上減が3年続いた。
そして4年目に入って中越地震が起き、逆に売り上げを二年間下支えをしてくれた。しかし3割の売上減は長期借入れの返済原資を
三分の一にしてしまった。それも血の滲むような合理化の上である。 その中で、やりたいことを実行したから、大変といえば大変。
その結果、60歳辺りから心に大きな余裕が出てきていた。「何だろう、これは?」という感覚である。 人生の元を取った実感は、
心に大きな安心感を持たせてくれる。 その余裕が三年前のリーマンショック以来、毎年20数パーセントの売上げ減の中でも、
そして今回の事態でも、何とか精神のバランスを保させてくれている。準備15年の立ちあげ、30年間の事業、合計45年の結果が、
この結果としても、精神のバランスを何とか保っているのは、50歳代の9年間で、人生のページの余白を埋めた為である。
 事業も、趣味も、自分の範囲の余白を埋めてしまうと、他人との比較も、自分が達成できなかった夢も、余裕を持って諦められる。 
それから考えると一年一年、自分の経験の範囲での余白を、捨て身で埋めることが残された人生の課題ということが分かる。
70歳まで、四年少ししか残されてない。不摂生だったこともあり人生の余白も残されてない。60歳前半は、リーマンショック
エネルギーを奪われ、そうこうしている内に、事業閉鎖になってしまった。 その埋め合わせと、人生の始末は何かを考え抜いて、
捨て身で後片付けをする時節ということ。しかし世界の情勢は、この5年間は大荒れになるのは必定。60歳代は、世界の激変の
真っ只中、それへの適応時期になる。 時速数千キロで回転している地球上に我々は住んでいるが、周囲も同時に回っているため、
それを自覚できない。時流も激しく変化しているが、見ても見えずが、我々。 人間は現象との情死?しかないのか。
 自然と、芸術とに触れ、感動することが、現象との情死から少しは守ってくれる。 さて、信濃川ポタリングに出るか。
 ・・・・・・
3489、金は暴落する! 2011年の衝撃    
2010年10月14日(木)
             「金は暴落する!2011年の衝撃」ー鬼塚 英昭 著
 先日、ここで取りあげた「ロスチャイルドと共産中国が2012年、世界マネー覇権を共有する 」鬼塚 英昭の最近の著書である。
要は、ロスチャイルドが中国と組んで新しい世界マネー覇権を共有するために、金を値上がりをさせ、2011年か2012年の早い時期に
金バブルを崩壊させて、下がりきった金を買い漁るという。そのため金は世界恐慌に対して一番有利な投資と信じ込ませてきた。
わずか3年前の2007年に一トロイオンス700ドルだった金価格が現在1300ドルを超えている。わずか3年で二倍近い値段である。
これを著者はロスチャイルドと金融エリート集団によって仕組まれた説を立てている。 来年から再来年に金価格の暴落をはかり、
逆張りで利益を稼いだ上に、下がりきったところで金を買い漁るという。1985年のプラザ合意で日本は国内需要の喚起のためと、
大幅な金融緩和をアメリカに強要された。そしてバブルの発生と、崩壊で「日本は失われた20年」といわれる大打撃を被った。
バブル崩壊後に狙い通りにユダヤ資本が日本の株と優良な土地を買い漁ったことは言うまでもない。 やはりソ連崩壊後、
ロシアでも似たようなことをした。そして次は、アメリカの住宅バブル。バブル化した住宅債権を束ねて世界中に
ばら蒔いてしまったから始末が悪い。 著者は、これもユダヤ資本の要のロスチャイルドが仕組んだ罠という。 
ロスチャイルドは、今度は中国に目をつけ、供に新通貨システムを作ろうとしている。そのため現在、金のバブルを発生させ、
次にバブル崩壊を狙っている。それが、来年から再来年にかけて発生し、下がりきったところで、金を買い漁る目論見とみる。 
そのため、金の上場投信(=金ETF)の市場をつくりあげた。それが金バブルの崩壊を容易にさせる手立てになる。
 大雑把の要約すると以上だが、ウソか本当か、信じられない内容が面白、おかしく書いてある。      ー つづく
 ・・・・・・・・・
3114, つれづれに ー閑話小題 
2009年10月14日(水)
   * 低反発マクラ
 最近、ニトリに行くと低反発マクラとマットレスが山積みになって多く並んでいる。 売れ筋なのだろう。
(次数制限のためカット 2012年10月14日)
   * 最近の万歩計
20数年前から早朝ウォーキングを始めたが、15年前辺りから万歩計を腰につけて年間1万5千歩を数年の間歩いていた。
(次数制限のためカット 2011年10月14日)
・・・・・・・・・
2749, ソロスは警告する -2
 2008年10月14日(火)
 「ソロスは警告する」 ジョージ・ソロス著  講談社   ー読書日記ー
アメリカ経済の終わりの始まり』などの著者の松藤民輔の解説の中の次の文章が、
欧米のエリートの意識感覚を言い表している。これがアメリカのエリートだけでなく、日本の官僚や、
エリートの偽らざる意識である。 所詮そんな意識とて、猿回しの芸を仕込まれたエテコウが一方的に
大衆をブタと決め付けているだけのこと。そのエテコウの舞い上がった演技で最悪の犯罪を犯したのが、
このサブプライム問題。 しかし彼らから学ぶことは「哲学と歴史を学び続けること」である。
歴史と哲学は最も重要な基本的な教養であるからだ。といって所詮あんなものかと、冷笑して学ばなければ、
ブタと言われた時に認めざるを得なくなってしまう。
 まあ、面白いから、一度は知っておくべき彼らの意識構造である。 世の中は差別で出来ているのです、
 ー松藤民輔(解説文)よりー
 (次数制限のためカット 2011年10月14日)
・・・・・・・・・
2007年10月14日(日)
 2385, 私の嫌いな10の人びと -3
「私の嫌いな10の人びと」 中島 義道 (著)  ー読書日記
2章の「常に感謝の気持を忘れない人」が中島らしく面白い。少し歯切れは悪いが、それでもただ無闇に感謝する
日本人の感覚に疑問を持つのも、ご尤もである。感謝を売りにして一財産をなした小林正観という人もいる。
この人の本を何冊も何度も読んだが、一度ひいてみれば、所詮は「感謝という言葉を売りにして、一財産を築いた男」
でしかない。英語で、まず憶えるのはイエス、ノーの次にサンキューであるから、大事なのだろう。
営業の場合、この人の本を読んで心から感謝をする訓練をすれば、営業ギアは一桁は間違いなく上がるだろう。
 (以下、字数制限の関係上、カット09年10月14日)
・・・・・・・・
2006年10月14日(土)
 2020, 13日の金曜日恐怖症               
    (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ~ ヨウ
昨日は「13日の金曜日」であった。日本では、あまり騒がれないが、西欧社会では「13日の金曜日恐怖症」が
ある位、この重なりの日は自重をしている人が多いようだ。さっそくネットの検索で調べてみたが、インター
ネットは手軽に調べることができるから便利である。古代から、13という数字が不吉というのは、初めて
知ったが金曜日との重なりを嫌うのは週末もあるのだろうか?数年に一度しかないので、この機会に知って
おくのもよい。まずは、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』のー13日の金曜日ーから抜粋。

≪・キリストの最後の晩餐に13人の人がいたことから、13は不吉な数とされた。
 ・またキリストが金曜日に磔刑に処せられたとされていることから、13日の金曜日が不吉であるとされた。
 ・一説には、イヴによるアダムの誘惑も大洪水からノアが脱出したのもバベルの塔が壊されたのも
  13日の金曜日だと言われるが、聖書にそのような記述はなく迷信の域を出ない。    
    (中間、字数の関係でカット2008年10月14日)
 ーリアルの例としては、
オーストリアの作曲家シェーンベルクが有名である。彼は1874年9月13日に生まれた。
13は縁起の悪い数とされており、7と6をたすと13になるから彼は76歳で死ぬと思い込んでいた。
1951年、76歳になった年の7月13日の金曜日。その日が来ると彼は用心してベットから一歩も外に出なかった。
そしてその日がいよいよ終わろうとする午後11時47分、彼は死亡した。
 ----
まあ、13日の金曜日は皆で、このような話を楽しむ日ということか。    (。^0^。)ノホンジャ、マタ!
・・・・・・・・・
2005年10月14日(金)
 1655, 北イタリア旅行記-6
 イタリア三大巨匠 ーダ・ヴィンチミケランジェロ、そしてラッファエロー
このイタリア旅行まではフィレンツェの「ウッフィッツェ美術館」の存在を知らなかった。
この美術館にはイタリア美術史に燦然と輝く名画が勢揃いしてあり、馴染みある絵画を次々とみることができた。
 ・ボッティチェッリの「春」「ヴィーナスの誕生」         ・ミケランジェロの「聖家族」
 ・レオナルド・ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」「受胎告知」  ・ラッファエロの「ヒワの聖母」
 ・フィリッポ・リッピの「聖母子と二天使」 などなどである。
特に印象的だったのが、ダ・ヴィンチの「東方三博士の礼拝」である。この絵は下書きの未完のものだが、
モナリザ」「最後の晩餐」に匹敵するもである。また、ボッティチェッリの「春」と「ヴィーナスの誕生」が素晴らしい。
「春」を壁紙のHPよりコピーして一ヶ月位パソコンの背景画にしていたので身近な感覚で観ることができた。
地元の女性ガイドが絵画の説明の中で、同時代に生きたダ・ヴィンチミケランジェロ、そしてラッファエローの
三人の関係を解りやすく説明してくれた。特に、ダ・ヴィンチミケランジェロの人間臭い対立のエピソードが面白い。
それぞれの絵画の中の意味を知れば知るほど、その奥行きの深さが伝わってくる。
きしくも、三巨匠にボッテェチェリーなどが同時代にいたことが不思議である。
「旅は肯定である!」と、何かの旅についての随想にあった。ー旅は、肯定するためにある。ときにおこなう否定もまた、
肯定の一種なのだ。人間は、存在そのものが「!」であり、肯定なのだ。-
全くそのとおりであり、人生にも通じることである。如何なる場合でも人生は前向きにあらねばならない。
憎むためでなく、愛するためにある。苦しむためにあるのではない、楽しむためにある。
疲れたら、休めばよい。 急ぐことはない。 旅行は、そのことに気をつかせてくれる。    ーつづく
・・・・・・・
2004年10月14日(木)
 1290, ダイエーが再生機構活用!
一昨夜、自宅の近くにあるダイエーの紳士売り場と、靴売り場を見て驚いた。売り場に商品が、あまりに少ない。
債権が焦げ付く可能性があれば、メーカーや問屋が商品の納入はしない。まさに末期現象と思っていた。
ところが、昨夜のTVのテロップで、「ダイエーが再生機構を受け入れる」と臨時ニュースを流していた。
これで、解体、売却の手順が踏まれることになる。一つの時代の終わりの象徴といってよい。学生時代、ダイエー
流通革命の旗手として飛躍を始めていた。チェーンストア理論を売りにしていたペガサスクラブの優等生であった。
 (以下、字数制限の関係上、カット09年10月14日)
・・・・・・・・
2003年10月14日(火)
 923, アイスランド旅行記ー3
 ーオーロラハントー
 数年前に、ノルウエーのトロムソにオーロラハントに行ったことがあった。その時は「何だこんなものか」
という程度で、期待とは全く違うものであった。薄い雲がスジ状に光っているだけであった。だだ行きの飛行機
から見たオーロラがカーテン状に広く光っていたが。今回も5日間で一日しか見えるチャンスが無かった。
夜になると寒くなる為か曇ってしまうのだ。感動するような大きなオーロラのはそうそう見ることができないのだ。
そしてたった一回だけの私にとって一生もののオーロラが出たのだ。天空に展開した時の感激は、想像をしていた
より遙かに神秘的かつ荘厳であった。写真など撮っている余裕など無く、ただ呆然と見とれるだけであった。
これをどう言葉で表現したらよいのだろうかと考えていた。 天空の黒をキャンパスに、滝が降るように頭上の
両側に壁になり揺らぐ青白光の波がこの世のものと思えない、神秘的なものであった。あとは「・・・」である。 
取材できていた共同通信社のカメラマンが、「このオーロラをどう東京の友人に説明したらよいか解らない」と
私に話しかけてきた。「これは実際、この目で見るしか理解はできないでしょうね」と答えるしかなかった。
その時、涙が出そうになっていた。以前ツアー仲間から、この体験談を聞いたことが何回もあったが。
「もういつ死んでもよいと思った!」「聞くと見ると大違い、実際見なくては!言葉で表現できない」
それを聞いて、「ちょっとオーバーではないか?」としか思ってなかった。しかし、この言葉の意味が実際見て
初めて解った気がした。 あと一度見たら、アフリカの大地のように完全にハマってしまうだろう!
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549,「宣戦布告」
2002年10月14日(月)
 先日、映画の「宣戦布告」を見てきた。 北朝鮮拉致事件の帰国も迫っていることもあり、
迫力と現実味のある面白い内容だった。「日本海沿岸の海に,一隻の国籍不明の潜水艦が海岸近くで座礁した。
浮上した潜水艦からは、戦闘服に身を包んだ男たちが出現、夜の闇の中に姿を消していった。-そんな中から
かって無かった未曾有の緊急事態に見舞われる。 今の法律では北朝鮮の戦闘員に発砲すら許されない。
追い詰めるが、一方的に射殺されていく。そして全面戦争への危機に発展していく姿」をまねいている。
 この危機状況は、現実に起きても不思議でない状況である。スターリン時代のソ連がプチ状態で存在して
いるのが北朝鮮。   (以下、字数制限の関係上、カット09年10月14日)
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[186] 野村と円楽  
2001/10/14
 10年前の話になるが、新潟の大蔵ホテルで野村と円楽の講演会があった。
メインが円楽で前座が野村であった。もちろん私も円楽がまず面白そうで、野村も面白いのではと期待していった。
まず野村が出てきた、そして黙って会場を見渡し、ニヤッと笑い、「大部分は女性ですね、私の話なぞ如何でもよい
と思っているんしょう。円楽の刺身のツマぐらいと思ってるのでしょう」実際そうでだったから、ザワツイテイタ
会場はシーンとなってしまった。その瞬間に野村のペースに聞き手をのせてしまった。
 ー要点はー
・自分は投手の練習用のキャチャー「壁」として採用され
・数年後解雇を言い渡された・丁度その時父親が癌になっていた
・直接上司と掛け合い絶対に辞めないと粘りかろうじて首を免れた
・そのぎりぎりのところでどうしたら一流になれるか考えた
・一流の選手は持って生まれた天性ある、努力だけでは埋めがたい差がある
・そこでぎりぎりのところで、どうしたら一流になるための方法を考えたー頭を使ったー
等々、底から這い上がってきただけに、一言一言が経験のうらずけがあるため説得力があった。
また彼も浪人の真っ最中の状態で、話に力が入っていた。 今までー王、広岡、森と講演を聞いたが、
野村だけは底から這い上げって来たためか、ずば抜けた内容があった。
その日の円楽の話も力が入っていたが、所詮噺家の内容はしれたもの、しらけた会場の空気が漂っていた 。
さすがキャチャー、瞬間その場を雰囲気をとらえ、自分のペースに捉える術。今でもありありと憶えている。
キャッチャーは9人の選手のうち、一人だけ逆方向を見ているのだから。