* 問題は、充実していたか! 
  〜まずは、この日曜の2人のトークから〜  (ネット検索)
≪ 7日放送の『サンデーモーニング』で、関口宏西武ライオンズの優勝に
 ついて失言を行い、物議を醸した。元ロッテオリオンズで3回3冠王を獲得した
落合博満氏が登場。 冒頭から早速プロ野球の話題となり、関口が
「西武なんだけど、胴上げのシーンがありますか?ちょっと見せてください。
優勝決めたシーンが情けなかった。負け試合ですよねえこれ。負け試合で胴上げ
しなきゃなんないから、もうひとつ盛り上がりに欠けたのかなと私は感じました」
と西武優勝を貶めるような発言。 これに対し、コメンテーターの落合氏が、
「いや、関口さんねそういうけども、勝とうが負けようが胴上げはいいんですよ」
と制す。そして、自分は「負け、雨でゲームがない、引き分けで優勝が決まった
ことがある」と諭す。関口は落合氏に対し、「気分は変わらないものですか?」
と質問すると、「1年間戦ってきてそこで優勝ってのは恥ずかしいような気も
しますが、頭から外れます」と断言。これには関口も黙ってしまう。≫

▼ その時、会社清算をして少し経って気持ちが落ちついてきたと同時に、
『これは、私の人生にとってベストの結果では!』の考えになっていった。
家訓の一つ、『何ごとも万一に備えろ』を前提に、創業の設計図にシェルターを
仕込んでいたこともある。 最後の数ヵ月は如何であれ、20歳で創業を決意して、
準備15年、実業30年、合計45年の人生を振返りみれば、この上なく面白く充実。
こんなことで、否定されるものではない。 そのことを落合が、ずばり
『勝とうが負けようが胴上げはいいもの!』と…  土砂降りの胴上げも?
 私の場合、結果は如何であれ、仕込んであったシェルターで助かったが、
これだけスリルとサスペンスに満ちた45年の人生。溝沼の蚊が飛び交っていても、
蚊よけスプレーをかけておけば何とことはない。としてもシツコク、痒いが…。
 この充実感と、装置産業の利点、時間リッチの御蔭で、幾つかのライフワーク
を満喫できた。最後の最後まで冷や汗の連続だったが、全てをかけた充実感の味
は格別。 小さな物語でも、起業の面白さ、自分を抵当にした博打は、想像を
絶した醍醐味がある。 長嶋、野村、イチロウ、松井の人生、想像を絶する程
に面白味があっただろう。甘じょっぱいというより、激辛の味?喉がカラカラ?
 本人しか分からないが!

・・・・・・
5689,自分のための人生 〜?
2016年10月12日(水)
           『自分のための人生』(ウエイン・W・ダイアー)
  両親の人生訓を要約すると、
『人生を、仕事を、道として楽しみなさい。仕事を楽しんだカスが、資産と余裕。
取組んだ何ごとも、楽しみになるまで追求する』になる。 人生の王道といえば、
「よく学び、よく働き、よく遊べ」がある。他に加えるなら、「よく楽しめ」
を加えたいが、「よく」の中に、楽しみが入っている? とすると、
「よく休め」が考えられるが。 
   ★ 自分の人生を存分に楽しめ!  〜p−26より
≪ < 生きよ・・ おのれ自身たれ・・ 楽しめ・・ 愛せ! >
 私たちに、いつも決まってついてきて、影のように離れない“お供”がいる。
 それは「自分自身の死」。“この客人を恐れることも、あるいは 自分の
 利益のために利用することもできる。どちらを選ぶかはあなたしだい”と。
“ 死は永遠であり、生は息つく間もないほど短い。そこで自問してみよう。
・「本当にやりたいと思うことをしないでよいのだろうか」
・「自分の人生を他人の望むとおりに送ってよいものだろうか」
・「ものは貯めるに値するほど大切だろうか」
・「やりたいことを先延ばすのが賢明な生き方といえるのだろうか」
 おそらく、その答えはほんの数語にまとめることができよう。
  < 生きよ・・ おのれ自身たれ・・ 楽しめ・・ 愛せ! >
 自分の死を恐れてもかまわないが、それは無益なことだ。
 一方、死を効果的に生きるための助けとすることもできる。
  ロシアの文豪トルストイによって描かれたイワン・イリイチの言葉
  (『イワン・イリイチの死』)に耳を傾けてみよう。
 彼は、ことごとく他人中心に過ごし、体制に適合するために自分の人生を
 自由に生きることを放棄してきた一生に思いをはせながら、万人を平等に
 する死神を待っている。
【 もし私の一生がすべて誤りだったとしたら・・・・」
 以前には到底考えられなかったことが、つまり人生を過ごすべくして
 過ごしてこなかったということが結局のところ真実なのかもしれないと、
 ふと思った。これまで、ほとんど感じとれない程度の衝動は即座に抑え
 つけてきたが、そういう衝動のほうが本物で、それ以外は偽物だった
 のではないか。職責も、生活や家庭の切り盛りも、社会的あるいは職務上
 の関心も、みんな偽物だったのかもしれない。こういうものを一切合財
 しっかり守ろうとした私は、突然自分が守っているもののもろさを感じた。
 守るべきものなど何もなかったのだ。
 自分の人生に積極的に働きかけるべきか、自分自身で選択すべきか
 などと思案し、考えあぐねたときは、こう自問してみることだ。
 「私はいつまで死んだような人生を送るつもりなのだろうか」】 ≫
――
▼ ハイデッガーが、「世間人」が、あまりに『死』から、目を背けて
 いることを指摘。「死の哲学」を真正面から取り上げた。ガンで死の
恐怖を平気で口に出している男に、「死」について薀蓄の話をすると、
近くの世間人が、いわく有り気に、『暗い!』と宣う。 受けを狙った
のだが、顔色からみて、重症病気もちのようだ。だから、聞く耳持たない、
いや、持ちたくないのである。   
「本当に人生でやりたいことがあったのか?」
「他人の顔色を窺い、その価値観に従った生き方を良しとして」
「ものを貯めることに汲々するのが生きる値すると信じ」
「やりたいことを先延ばしをする」を良しとする生き方だろう、お前さんは! 
舟底に牡蠣の貝殻(常識)を一杯つけて身動きが出来ない人たちの一員。 
誰でもない、私自身ではないか! もっと酷いのは、気付いてない貴方か?

・・・・・・
閑話小題 ー美人の黄金比
2014年10月12日(日)
   * 美人の黄金比
 誰もがその人を美しいと感じる、“美人の法則”が存在するという。
1:目を中心にして、「頭の頂点まで」の長さと「アゴの先まで」
 の長さが同じであること。
2:「目と目の間」の長さと「鼻の幅」が同じであること。
3:「目と目の間」の長さと「目の幅」が同じであること。
4:「口の幅」が「鼻の幅」の1.5倍であること。
5:「顔の横幅」が「鼻の幅」の4倍であること。
 上記5種類の「顔の黄金比」に対して、誤差が「0」に近ければ近いほど良いと
されています。ちなみに、一般的な人の顔の誤差数値は「1.1」〜「1.3」とか。
どうでもよい話? 要は、傍目でみたバランスが上記だと美人ということ? 
それにしても綺麗で優しく温かみがあり、清潔感がある人が、一般的に美人
というのだろう。それに、教養が、まずベースにあることが前提である。
 美人は、顔と全身のバランスでしかない。そのバランスの均整も一時のもの。
身近で、姉達や、同僚などを見てきて、その時期は、わずか5年間でしかない。
だから、それが良いのである。

・・・・・・
4217, 開国という強迫観念 ー4
2012年10月12日(金)                      
  * 「開国」とは何だろう     
       ー反・幸福論『開国という強迫』ー 京大教授・佐伯啓思 
 「世界標準」とはアメリカの示したルールであり、常に自国に有利に作り
変えることが可能なアメリカに世界は振り回されてきた。TPP(環太平洋戦略的
経済連携協定)も、有利なのはアメリカ。しかし入らないと、競争力が明らかに
不利になるため、従うしかない。属国から離脱など出来ないように囲い込まれて
しまっているのが日本である。  ーその辺りからー
≪ ・・ところで「開国」とは何でしょう。先ほどから、「開国」とは、
「世界の潮流に乗ること」であり、「世界の普遍性に乗ること」だといって
きました。いや、近代以降、日本ではそう考えられていました。しかし、
本当はそうではないでしょう。世界は実は多様です。「開国」とは異質なものに
出会い、世界は多様であることを知ることなのではないでしょうか。
「開国」とは、何よりまず、異質な文化、社会、宗教などに出会うことです。
そして、己の独自性を改めて知ることなのです。特異性ではありません。
独自性です。自国の、自文化の独自性を認識することなのです。もちろん、他
国もまたそれぞれの独自性を持っています。その世界の多様性に触れることが
「開国」ではないでしょうか。決して「普遍的世界」と「特異な日本」ということ
ではない。世界には、西洋もあれば、中国も、インドもイスラム諸国もあるのです。
しかしわれわれは「普遍的な世界」や「グローバル・スタンダード」といった時に、
決してイスラムやインドやアフリカなどを思い浮かべません。「普遍的」や
「標準的」ということで、常に西洋先進国を思い浮かべるのです。
いやもっと端的にいってしまいましょう。少なくとも戦後、我々が「世界」と
いった時に「何か」というと、実は「アメリカ」なのです。「世界標準」とは
アメリカの示したルールなのです。「普遍的な世界」とはアメリカのことです。
「世界に乗り遅れる」というのは実は「アメリカに見捨てられる」という
ことなのでした。 ≫
▼ 軍事的用途で作られたインターネットをアメリカが公開した。
 そしてネット社会が、それまでの世界に張り巡らされ、現実世界を覆って
しまった。そして、タブレットPCとスマートフォンで、世界隅々の個人が
ポケットに持ち歩けるようになった。それで、個人情報の受発信が気楽に、
しかも安価に可能になった。この流れは世界のグローバル化を、より推し
進めることになる。それは、情報をコントロールでき利用できるものと、
出来ない人の格差を大きくする。その最も利益を得ることが可能なのが
アメリカの一部の人たち。日本の中流は、世界から見れば上流の部類に入る。
垣根が低くなれば、世界の中流、そう、現在の日本の水準から見れば下流
下流社会である。しかし、大部分がそれなら、言葉として、それが中流
いうことになる。預金がゼロが三割、借金と相殺すればゼロになる世帯を
入れると、既に国民の過半数を超えているという。失われた20年で、
日本社会は大きき体力を失った。「敗戦で朝鮮のように分割され、
歪にならないで済んでよし」とすべきか? 難しいところ。   
・・・・・・
2013年10月12日(土)
4592, そして、人生はつづく ー3
  * 「アバウト・シュミット」の『そして人生はつづく
 5月の連休明けにシネマでみた「アバウト・シュミット」が、まさに
「そして、人生はつづく」をテーマにしている。
   ーその概略をHPでみるとー
《 仕事一筋の平凡な男が、定年退職を機に第2の人生を歩む姿をユーモアと
 ペーソスを織り交ぜて描くヒューマン・ドラマ。人生の終盤を迎えて大きな
転機に直面し孤独と戸惑いを見せる主人公の悲哀を名優ジャック・ニコルソン
見事に表現。監督は「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!」の新鋭
アレクサンダー・ペインアメリカ中西部オマハ。この日、勤め先の保険会社で
定年退職の日を迎える66歳のウォーレン・シュミット。彼はこれまで妻ヘレンと
今は離れて暮らす娘ジーニーと共に、平凡だが特に不満のない人生を送ってきた。
そして次の日から新たな人生を歩むことになる。しかし、翌朝目覚めてみると、
シュミットは会社中心の生活リズムが染みついていたせいか手持ち無沙汰になる
日々が続いた。そんなある日、妻ヘレンが急死。そして葬儀の準備に追われる
シュミットのもとへ、愛娘ジーニーが婚約者ランドールを伴い戻ってくる
のだった…。》
▼ 一流保険会社で働き、良き同僚や妻と一人娘に恵まれて、自分でも
 それなりの人生を送っていると思っていたが、定年をむかえた直後、妻が
急死、その葬儀も終えたところで、何をしてよいか分からなくなり、離れて住む
娘を車で訪ねるが、何か来て欲しくない様子。ラテン系娘婿の家族は、これまで
接したことのない世界の人たち。その旅で、これまでと違った様々な経験をする。
それが何か無様で、ホロ寂しい姿で、哀愁が漂う。職場と連れ添いの喪失で、
なす術のない男の悲喜劇が、人生の終末期の有り様を浮き上がらせている。
妻に先立たれた寡夫ほど大変なものはない。5月の連休明けに、この映画を
見たが、会社を整理をして二年。主人公の姿に自分が二重写しの部分がある。
また、「そして、人生はつづく」の著者に似ている部分がある。
 10年近く前の話になるが、幼馴染が倒産と同時に離婚。一人アパートで
自閉症になって半年、お金も尽き、辛うじて知人に拾われ、働き出し、営業
で私のところに訪ねてきた。が、風貌は歯が数本抜け、やせ細り、20歳は
老けていた。数年後、年金生活に入ったが、重症のアル中になって県外の
娘夫婦の住宅近くのアパートへ引越した。現在も「そして、人生は続いている」
のだろう。豊かな老後には、十年以上かけたライフワークがあるかどうか・・
・・・・・・
6056,閑話小題 〜恐ろしい身近な現実 −2
2017年10月12日(木)
   * 一億総中流の終わりと言われて暫くたつ
 バブル崩壊から10年程経過した2001年の9・11辺りから総中流時代が終わり、
一強多弱になっていた。その結果、豊かだった中流層が総貧困層になった。
そこでネットで「中流の崩壊」で検索をすると、簡潔な内容があった。
≪ 世界の歴史を見れば、「一部の人間に富が集中する社会の成立」と
「その崩壊」が繰り返されているとわかります。ある社会学者はこのように言う。
「世の中には軍人・政治家・富豪・庶民の4種類がいる。
・軍人が過激な政策で国民から人気を集めると国民は圧政で苦しめられ、それを
 解放するために政治家が革命を起こす。
・政治家が人気を集めると国民は豊かになるが、富豪が現れて政治家と癒着し、
 国民は格差で苦しめられる。
・すると富豪を排除するために軍人が過激な政策を言い始めて人気を集め、
 革命が起こる。」この繰り返しだと。

近年で見ると、「金融ユダヤ」として一部の庶民から嫌われたユダヤ人は、
ナチスの過激な政策で虐殺されました。それを反省した西側諸国は、戦後に
「庶民を豊かにする政策」を政治家が行い続け、「共産党が富を独占する国家」
を打ち破ります。
実際にアメリカの所得格差(ジニ係数)は、アメリカが統計を開始した1947年から
1968年まで減少、1970年代も横ばいで推移しましたが、1980年代から格差拡大が
続くようになりました。「日本が一億総中流を目指せたのは、戦後復興のおかげ」
ではなく、「第2次世界大戦(ユダヤ虐殺)という強烈なインパクトが、先進国に
おける格差是正をもたらしたから」です。

繰り返しますが、このような「富の独占と崩壊」は何度も起こっていて、
恐らく今の「富豪の時代」が続けば、また何らかの社会的混乱が起こるでしょう。
実際に欧州では極右政党が出てきていて、移民に対する過激な批判を行って
いますし、日本では中韓に対するヘイトスピーチ問題が見られます。 庶民生活
が困窮していくと、このような誰かを攻撃する過激な政策が人気を集めます。
誰かのせいにしないと自分達の苦しみが緩和されないからです。 現実を見れば
みるほど「なるべく平和的に格差を是正しなければならない」と思います。≫

▼ 自由を重んじた公平を良しとする資本主義社会より、平等を重んじる社会
 主義圏が存在していたため、日本は総平等社会を一時的としても実現する
ことが出来た。それもバブル崩壊で、消滅しつつある。今では情報化社会。
格差の矛盾を大多数の貧者に、その実態を露呈してみせる。アメリカと、北朝鮮
の摩擦も、国家間格差の問題。貧困の最たる軍事独裁国家と、金融ユダヤ国家の
欧米国家の摩擦である。北朝鮮の背後には、イラク、イラン、シリアなど、貧困
に苦しむ国家が存在している。日本も、アメリカの実質は非占領国家でしかない。
そのアメリカもピークを過ぎた焦りで、ロシアのプーチンの謀略もあって、得体
のしれない泡沫候補を大統領に選んでしまった。その結果、第二次朝鮮戦争とも
なれば、国家としての力が落ち、中国、ロシアに重点移動が早まることになる。
とすると、この戦争危機は、差し迫った憂いの強い事態とみるのが妥当。
色いろあった結果、アメリカの前線が韓国だけでなく、日本も… 有り得ること。
「さて、第二次朝鮮戦争の始まり!」と、ならなければいいが。可能性が高いから
始末が悪い。私がプーチンなら、北を装った偽装攻撃をすることに… そこまで
しなくとも、あの二人のオツムを見越し自然発火を待つ。…本当のところ危ない!
総貧困の時代も、国内基準でなく、世界レベルの貧困国家に陥る可能性もある。
・・・・・・
5324,「ウェブ2・0」はどこへ消えた? ー?
2015年10月12日(月)
         ーウェブ2・0」はどこへ消えた?ー古市憲寿
   * 「残念」な日本のネット社会
 ネットが普及し、「ウェブはバカと暇人のもの」になってしまったというが、
アラブの春民主化が正しかったのか、間違っていたのか? を例にとると
分かりやすい。独裁者は、「バカがウエブで繋がった結果」と見ていたのだろう。 
烏合の衆は、所詮、流砂のように掌から零れ落ちていく。ネットの利点は計り
知れないものがある。当然、その影は付いてくるが、それも一つの社会悪と
割切るしかない。問題は、それに慣れてないこと。 〜その辺りから〜
≪ 結局、何でもほどほどのバランスで食べればいいのだろうが、
 ネット上の意見にはとにかく極端なものが多い。深刻に悩んでいる人が多い
からだろうが、癌や妊娠、出産、子育てに関ずる話題にも、トンデモ知識が
溢れている。知り合いの医師も、ネット上での知識を患者が頑なに信じすぎて
いて、「知恵袋ではこう書いてあります」と言って聞かないと愚痴っていた。
 結局、ウェブ2・0は実現したのだろうか。少なくとも『ウェブ進化論』を
書いた梅田望夫自身は、その夢をあきらめてしまったようだ。
 彼は2008年、自身のプログで水村美苗の『日本語が亡びるとき』を好意的に
紹介したが、それに批判的な意見が殺到した。さらに梅田が役員を務める企業
のサービス「はてなブックマーク」も、彼への批判で溢れた。これに対して
梅田は、「はてぶのコメントには、バカが本当に多すぎる」とツイッター
発言、大炎上した。さらに2009年にはネットメディアでのインタビューで、
日本語圏のネット空間が「残念」であるとコメント、再び炎上。要は、ネット
で発生してしまう「衆愚」問題に梅田は耐えきれなくなってしまったのだろう。
 中川淳一郎が断じるように、インターネットが普及しすぎた結果、
ウェブはバカと暇人のもの」になってしまったようだ。確かに中川の論じる
ように、ネット上には読解力がなく、ジョークも通じない、「暇人」が多い
ように思う。このーヶ月で3回くらい炎上した僕も、どうしても中川説に賛同
したくなってしまう。しかし、『ウェブ進化論』ではすでに、衆愚の問題に
ついても論じられていた。たとえネットに溢れる情報が玉石混合でもいい。
それを個入に合わせてカスタマイズしてくれる「自動秩序形成システム」に、
梅田は期待をかけていた。実は同じような議論は最近でも続いている。
要は、技術の力でネット空間がよりよいものになるはずという楽観論である。
現在、ネット空間は、PV数(閲覧数)至上主義。だから、とにかくアクセスを
稼こうと、扇情的な見出しや、誰かを傷つけるようなコンテンツが跋扈して
しまう。しかしそれはネット空間が発展途上だからと楽観論者は言う。
 先日収録した「ニッポンのジレンマ」という番組でも、ウェブメディアで
活躍する論者たちが素敵な未来語りをしていた。そのような未来が本当に
実現されるのかはわからない。だが、少なくとも言えることがある。
そうした「情報技術が明るい未来をもたらす」という議論は昔から繰り
返されてきたということ、そして技術の力では、大して社会が変わって
こなかったという残念な事実である。「ニューメディア」「マルチメディア」
「高度情報化社会」、そして「インターネットと形を変え流行してきた。
しかし、衆愚の問題}にとってもそうで、技術の力で社会の形が大きく変わって
きたようには思えない。少なくともウェブ2・0が宣言されてから10年で、
日本社会は大きく変わってない。ネット空間には「バカと暇入」が増えた
だけのように見える。なぜか。答えは簡単で、衆愚とは何もネット空間
だけの問題でなく、この社会の問題である。
▼ 問題は、衆愚の結合である。これまで衆愚を一神教が、結合してきた。
 問題は、その手段としてウェブが使われるのか、それとも、その虚構を
根こそぎ破壊してしまうのか。何せ、相手は2000〜3000年の歴史がある
絶対神アッラーである。当分の間は、ネットで衆愚を収めるだろう。
残念なのは、日本の衆愚だけでない、世界の衆愚である。バカは世界の
何処にも存在し、底辺ほど直ぐに繋がり結合する。しかし、優秀な者同士も
繋がり、アップスケールの機会が与えられている。情報環境空間がネットで
地球上に広がったのである。

つれづれに

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 今日は、シネマの日。何時もの通り、一週間が速い。
あまり変わりばえがないためだろう。

 目先では、来月の中間選挙がどう出るか。惨敗か、はたまた
意外と思わぬ結果か? 





・・・・・・
・・・・・・

3852, ツレがうつになりまして ー3
2011年10月12日(水)

  鬱病のタレントは、音無美紀子小山明子萩原流行千葉麗子生田悦子岸部四郎音無美紀子
高島忠男、小川宏木の実ナナなど多くいる。作家では夏目漱石北杜夫がいる。 タレントの何人かが
手記を出しているが、本当に辛そうだ。老齢化してくると誰しもが軽い鬱状態が日常になる。
長生きの人生の利子。 私の倒産のストレスは実際のところ大きいが、長年、その方面の知識を積み
重ねていたので、今回も最小? で済んでいる。 対策として、直後から、
 * 早朝の一時間のサイクリング+スポーツセンターの二時間 =合計三時間の運動で身体を動かす。
 * 10年間続けてきた、この随想日記を書き続ける。 
 * 孤独を守り、人の目線を意識的に遮断する。その為に、哲学書を一歩踏み込んで読み込むこと、と
   決め実行している。
  しかし、この結果に対しては外部要因が三分の二としても、当然、無念な気持ちは残る。当然のことだが。
 欝状態は、気分の落ち込みの底から自分を解放できなくなること。一度、底に落ち込むと、這い上がるには
膨大なエネルギーを要する。そして更に泥が蓄積し沼(心)の泥は深くなり、ますます辛さが積もっていく。
私事になるが、元もと人間関係はアウトサイダーを保っていたので、その崩壊は最小で済んでいる。
所詮は、娑婆娑婆! もしインサイダー人間だったら、私の性格からみて袋叩きだろう。それも娑婆娑婆。 
地域社会を象の皮膚の隙間とすると、そこの住人は寄生虫でしかない。そう考えると気持ちが楽になる。 
その自分も、その一匹。経験からして、心の傷は癒えるのに長くて三年、短いと一年。平均で二年弱。 
時間が全てを解決すると腰を据えるしかない。結局は、自分で這い上がるしかないのが、この病気。 
見渡してみると重い経験者は一割。 軽いのを入れると三分の二あたり。問題は独り遊びが出来るかどうか。
独りで飲みに行く、読書に没頭する、映画館の梯子をするとか、新しい何かに挑戦するとか。
 それが出来ないから欝になるから、これ愚答。 そうすると自立(脱皮)しろ!というサインと考え、
悶えるしかないか。で、悶える? 住んでいる場所を変える、生活習慣を変える、趣味を変える、
仕事を変える、どれかが短期的に効果的。 書店か図書館に行くと、(神経が研ぎ澄まされているので)
そこの天使が感応し、ピッタリの書棚に案内をしてくれる。 これは神様の情け。気づかないで通り過ぎる
のがいるが、それは本人の問題。 朝日をクラシックを聴きながら浴びると、毒素が出ていくのが分かる。
  ・・・・・・・
3487, ジョハリの窓
2010年10月12日(火)
 「ジョハリの窓」という原則がある。 ーネットによると
ジョハリの窓とは、1955年にJoseph Luft とHarry Inghamが考案した自己理解のメカニズムを指す。対人関係
における自己理解について、4つの窓の視点を提示し、自己理解がどのようになされるのかを分かりやすく説明。
 コミュニケーション心理学の分野で認知されており、研修や能力開発の場面で使用されることが多い。
  <4つの窓>
A.自分も他人もよく知っている自由な行動領域「開放の窓」: 
B.他人は知っているが、自分は気づいていない領域「盲点の窓」
C.自分は知っているが、他人には隠している領域「秘密の窓」 : 
D.自分にも他人にもまだわからない領域「未知の窓」    
 ・いつも失敗する人は、「盲点の窓」が大きい。自分の悪いところも、いい部分も気づいていない。
 ・「秘密の窓」が大きい人も、表と裏の顔が違うもう1人の自分を隠していて、いざというときに、
 その自分が顔を出して「こんな人じゃないのに・・・」と言われることもある。その、もう1人の自分を
 できるだけオープンにすること。その窓を広げるためには、自分の気持ちを率直に話すこと。自分を開示して
 いくのは難しい。横にA→Bへと窓を広げるためには友達や周りの人からの率直な感想を謙虚に聞く姿勢が
 必要です。そして友達も気づいたことや感じたことを率直に伝えることが大切。
 このよう知らなかった自分に気づくことで、人は成長し、「未知の窓」を広げていく。】とあった。
~~
私のHPは、ジョハリの窓そのもの。10年近くも頭の中と私生活をオープンし「C・B」から「A」へ
移行してきた。そして自分で自分が書いた内容を読み返している時に、「D」領域が垣間見ることがある。
過去を思いやった時に、鳥瞰の視線でBとCに気づくと同時に、Dの影?も見え隠れする。 その時点で
気づかない未知の窓の気づきがある。そこには、戦略、夢、目標、神の視線、純粋なギブ&ギブ、血筋、教養、
等々色いろある。未知の窓こそ人間に進化?するプロセスの生命、動物の進化のプロセスが遺伝子に書き
込まれている潜在意識の世界が隠されている。 開放の窓・Aと未知の窓は対角線・Dの位置にある。
自分を開放し、自由な行動をすればするほど、自他ともが窺い知れない未知の世界に飛び出す確率が高くなる。
驚き、感動が人間にとって最も重要な受容能力だが、それこそ未知の窓へ通路。驚き、感動の周辺に
知識・知恵が豊富に存在する。外は、広い、内は、深い!そして人間には限界があり、それぞれの外は狭く、
内は浅いのである。それをソクラテスが・・・
 ・・・・・・・・・
3112,返済猶予法案の成立から見えてくること! ー5
 2009年10月12日(月)
 初めは、この返済猶予法案は難しいだろうとみていたマスコミなどの観測を尻目に、あれよあれよのうち
に成立しそうである。4~5年前とは180度違う様相になってきた。アメリカの都合の良い基準に強制されて
弱った会社を整理するのが金融庁の役割で、徹底的に弱者切捨てを指導してきたのが、今度はこれである。 
去年の9・15から、日本では恐慌が静かに深く浸透している。
  (字数の関係上、カットします-2011年10月12日)
 ・・・・・・・・
2747, 仙台視察の二日間ツアー? に参加して
2008年10月12日(日)
 商店連合会の仙台市の商業事情の視察バスツアーに参加してきた。これまで地元の名士様と群れる
のをタブーにしてきたが、全て無料と、仙台が一極化で顧客を集めているのをニュースで見ていたことも
あり、有難い誘いと参加してきた。 時系列に日程と概要を書いてみると・・・
 28人乗りの中型観光バスで、総員17名で、まずは牛タンの専門店で昼飯を食べ、仙台の商工会議所訪問。
仙台の実情を聞いた後に、駅周辺の繁華街を見て周り、一度ホテルに戻って、18時から宴会。
2時間飲んだあとは、30分ほど飲食ビル街を散策後、国分町のトアル店に入る。少し高級そうで
6千円位の店と思ったが、「うちは飲み放題で4500円よ!」と言われ安心して、ダブルの氷割りを5~6杯
を飲む。客種は背広族のエライさんみたいな人たちばかり、二時間ほどいたが、一ゲンの客二人に最後まで
ママが相手をしてくれた。仙台の夜の雰囲気を味わってホテルに戻り、ベッドで熟睡。 翌日は一次会・
二次会と飲んだ割りに二日酔いはない。バスは運動量が多いからアルコールを吸収・消化しているのだろう。 
翌朝は仙台駅から飛行場への直通アクセスの電車に乗る。20分あまりで便利でよい。その後、一月前に
出来たばかりのアウトレットの専門店が120軒集まっているSCへ行く。あか抜けをしたセンスのよいSC。
何気なくみている内に、ビジネス鞄と柄物のシャツを衝動買い。鞄は6万円の半額だが、一目みて購入。 
少し高そうなジャケットも買いそうになったが、止めた。昼飯は昼飯代と貰った1000円で、マグロ丼を
食べたが、丼の中身の半分がマグロの刺身でビックリ、中トロが多くて大満足。帰りのバスでは、一番前
の座席に座って缶ビールを三本飲んでしまった。新潟に泊まろうと思ったが、缶ビールのお陰で?
里心がつき、真っ直ぐ帰る。 これが、今回のアラスジ。土産など買ったことがないが、今回は、仙台の
萩の月』を買って帰る。仙台は東北6県の首都化のため、土地が大きく値上がりしていることは聞いて
いたが、駅近くの商店街も、周辺からの顧客で賑わっていた。 仙台の町内会の連合会の会長の鼻息に、
なるほどと感心した。しかし、バブルの反動と、いずこも同じ郊外の大型SCの影響は、いずくも同じ。
町内会の会合や、連合の寄り合いには参加したことがないので、旦那様的な雰囲気の中で、ただただ
大人しく?していた。一言一言が、私の常識からかけ離れた言葉の中、40年前の世界にタイムスリップ
した感覚。それはそれで立派と感心してしまった。今回、iPhoneを持っていって、株の暴落を
リアルタイムで知ることが出来、ベンリなものだと再認識した。それより頭は世界恐慌になるかどうかの
瀬戸際、視察より、そのニュースが気になった二日間であった。
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2007年10月12日(金)
2383, 私の嫌いな10の人びと -2   中島 義道 (著)     ー読書日記
まずは、この本をダイジェスト的に書いてある最終章をコピーしてみる。
「世間の感受性に漠然と合わせて、無批判的に従っている人が嫌いで、自分の固有の特性に基づいて
考え抜き鍛え抜いているかが決め手」というが、哲学者じゃあるまいし、殆どの人間は目の前、生きる
ことに精一杯のはず。この哲学者にかかったら、世の中の大部分の人は嫌われる対象になる。しかし、
その辺の「世間人」を見ると、そうだそうだ!と肯いてしまう。自分の弱さをしりつくしている我が身は、
大多数の中で自分だけは違う!と心の奥で呟いているだけでしかない。 好き嫌いはその人の固有の
問題だから気にすることはない。
( 字数の関係上、カットします-2008年10月12日)
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2006年10月12日(木)
2018、「私」のための現代思想  -10                        
「『孤独』とともに『自由』が発生する」の極みは一人旅であろう。
そういえば自由は孤独の極みにあった。過去を振り返ってみて、孤独の極みのときに一人旅に出ていた。
そして結婚と同時に自由は狭まり、孤独(感)も激減した。互いに首輪をつけて紐を握られ、握って
しまったからだ。「自由になりたい」というが、自由ほど厳しいものはない。自由にはまず「個の確立」
が要求されるからだ。 <他者>了解不可能性というが、これは同時に<自己>了解不可能性になる。
「誰も自分を理解してくれない」と、悩んでいるとしたら、それは悩んでいること自体が、無知から
きている。もし誰かに「理解してもらっている」と思ったら、一時的な妄想を抱いているだけのこと。
 いい歳をした男どもが、群れているのをみると気の毒になる。程度と比較の問題で、誰もが群れな
ければ生きてはいけないことも事実・・  それも人生だが!孤独の人ほど、それが人間の自然の姿。
孤独とは、他者と一線を画すこと、「自らの分」を他者と画すことである。和して同ぜずの精神である。 
和して同じたとき自由が狭まる。
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第四章 「私」にとって「他者」とは何か-?
     ー孤独と自由ー
「存在する」が「存在者」という「かたち」をとることによって、何が発生するか、レヴィナスは「孤独」
が発生すると言います。「私」は<他者>の「声」の存在を通して「境界」の存在を察知するのみです。 
その境界の中で芯としての《私》に気づきます。自分の外部が存在し、そこに<他者>が存在するのですが、
それは<他者の了解不可能性」のよって推測されているに過ぎない。このとき《私》は、入り口も窓も無い
「閉ざされた部屋」の中にいることを知ります。 これがレヴィナスのいう「孤独」です。
その部屋の中で、《私》はいろいろな概念をつくります。 なに不自由なく暮らすことができます。
しかし、親も子供も、友人も恋人も、そこに「存在しているように」見えるのですが、それは単なる
「映像」でしかありません。彼らは全て<他者>であり、それは恐らく壁の向こうに側にあるだろうと
しか思えません。境界が発生することによって、「孤独」とともに「自由」が発生します。「存在する」
ということを「液体である」という状態にたとえるなら、そこには「自由」は存在しません。なぜなら、
それは「全にして一」の存在であり、動きは取れない状態。どのような場合に「自由」が存在するので
しょうか。それは境界によって他と仕切られた状態になった時です。
( 字数の関係上、カットします-2009年10月12日)
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 2005年10月12日(水)
1653, 北イタリア旅行記-4
字数の関係上、カットします-2007年10月12日
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 2004年10月12日(火)
1288, 「閑」のある生き方ー読書日記 -2
11章の「今ココに」の心得が含蓄が深いので抜粋して、そして考えてみる。
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・ー現在只今の自分を全肯定できること、これが人間として達しうる究極の境地である。
 そこに達すれば現世の中で翻弄されている最中でも平然としていられるのだ。
・「今ココニ」は過ぎ去っていくのではなく、自分が生きている事実がつづくかぎり同一のもの
 としてあり、しかもそれがただち永遠につながっていることが、次第にわかってくる。
 それは心の時間というべき状態である。 鈴木大拙はそれを「零=無限」として、こう言う。
 「空」は空間の義に思い違えられるおそれがある。それで仏教者はいつもその弁明に悩まされるが、
 存在といえば、いつも空間の存在の義に考えられ、時間を入れない。 しかし実際は空と時とを
 分けるわけにはいかないのである。空と時を合わせて「一念」というほうがよい。
 hereーnow が、それである。(略)とにかく、「空」を時の上から解釈して、「即今」という。
 平たくいえば、ーただいまーである。 「空」がわかるというのは、その「ただいま」がわかる
 という意味である。「ただいま」を手に入れなくてはならぬ。この「ただいま」を無限そのもの
 だと悟るとき、零すなわち見元の式が成立する。アッというこの一瞬が直ちに無限の時間そのもの
 であると気のつくとき、東洋思想の根底にふれることができる。<鈴木大拙「東洋的な見方」岩波文庫
 「今ココニ」を丸ごと心で把握するなら、そこにはあとに残る過去も先に待つ未来もなく、ただ永遠
 の今があるだけということに気づく。空間が時間であり、時間が空間であり、その空間とも時間とも
 名付けられぬ絶対の現在がある。それが生きている場である。そこから見れば、物差しのような時間
 観念はただ外にある人工的尺度にすぎない。我々にあるのが「今ココニ」だけであると同様、
 二千年前に生きたセネカエピクロスにも在るのは「今ココニ」だけである。だから現在の自分と
 セネカは「今ココニ」というところで一つになる。これが人間の生きる時間の面白いところで、
 過ぎ去っていく時間という観念から自由になれば、人は永遠の時の中に行き始めるのだ。
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 以上であるが、この随想日記の過去分を読んでみると数年分の同月同日の「今ココニ」に、毎日
 出会っていることになる。いや36年前の日記の自分の今ココニとも同じことだ。その意味で感情を文章
 に込めて書くことの重要性の意味が納得できる。気持ちを込める、魂を込めるということは、現在の
 今ココニに現世を 超越した永遠の世界に入っている事になる。「茶道」の世界に「一期一会」も、
「今ココニ」の世界である。 その瞬間こそ、自分に生きていることになる。
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 ー「閑」のある生き方ー
    著者 中野孝次 発行元 新潮社  2004年10月3日長岡中央図書館
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2003年10月12日(日)
921, アイスランド旅行記-1
           ー2003年 10月4日~10日 
  ーアイスランドという国とは ー
直行便がアイスランドに初めて出発するという新聞広告をみて、急に思い立ってアイスランドのツアーに
参加をしてきた。行って解ったことだが、今年から捕鯨を開始をしたアイスランドに対して欧米の観光の
予約のキャンセル相次いだという。その穴埋めということで国をあげての企画であった。9月27日、
10月4日、10月11日とそれぞれ240名、合計720名の満員の大盛況。何か秘境?に行った感は
ほとんどなかった。もちろん直行便はよいが、乗り継ぎで現地の人の間に好奇の目にさらされて行くから
面白いのだが。乗り継ぎのエネルギーも大変だから贅沢は言ってられない。 アイスランドと聞けば
「氷と火の島」というのが印象である。 一般的には『それってどこにあるんだ』ってことである。
この国の位置はイギリスと北極点の丁度中間に位置している。大きさは北海道と四国を足した大きさ。 
そこに人口僅か28万人、首都レイキャビックに18万人が住んでいる。イメージは極寒の地であるが、
実際はそうではない。
・火山の国である為、地熱で温泉があちこちに沸いている。
・更にメキシコ暖流が周辺の海に流れ込んでいる。
・また氷河によって永い年月で出来上がった小さなテーブルマウンテンが多くあり、それが北極の冷たい
 風を防いでくれる。そのため北極圏にしては暖かく、住めば都のようだ。人口の50パーが漁業関係に従事。
また地熱を利用したビニールハウスで野菜や果物ートマトやバナナやメロンなどが栽培されているのだ。
家も92?が地熱のお湯で暖房されており、地熱利用の発電所も多くある。
  ー日本人の若い女性現地ガイドが面白い内情を話してくれた。
・一見豊かさそうに見えるが、習慣としてローンを組む国民性があり、
 借金でどの家庭も火の車という。一般的には手取りで20万足らず、物価が高い為夫婦共働きだという。
 反面社会保障が充実しているため、将来の不安は少ないという。
 医療費は大病の場合は無料とか。島国根性で見栄っ張り、外見を飾りたいとか。
ー何処かの国に似ている。
・自殺の割合が、十代ではヨーロッパで一番多いという。-これは一日八時間の日照時間に関係している。
・消費税が24?もあり、更に小国のこともあり食料以外の殆どが輸入品である。
 そのために物価が非常に高いのが特徴。だいたい日本の物価の1・5倍である。いかに高いか解る。
・犯罪はほとんど無く、殺人は三年に一度あるかないかという。大統府も小さなオフィスのようであった。
・どの人も何処かで人間関係が繋がっているという。 したがってあまり目立ったことができないとか。
                     -続くー
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547, 人生で一番よい時
- 2002年10月12日(土)
母から聞いた話である。
母が堀井に嫁いで数年たった時、多くいる小姑との折り合いがうまくいかず、離婚を覚悟に実家に帰った時の
祖母の励ましの話が良かった。「一番苦しい時は人生で一番いい時なのよ!」私の一番苦しい時に聞いた言葉で
あった為か、強い印象が残っている。小姑とイロイロあったと聞いていたが、こういう話しを聞くと納得する
ものである。祖母もその経験があるから?その瞬間、その言葉が出たのだと思う。人生の深淵のある言葉である。
「苦しいときは逃げては絶対に駄目、前向きに生きなさい」という気持ちの意味が背後にある。
人生から逃げ回っている人が本当に多い。逃げても、その自分が何処までもついて来るのさえ気づかない。
そしていつも逃げ回ろうとしている。このような人には「人生のいい時は来ない!」来ても気がつかない。
「苦しみを通り抜けて歓喜に!」というベートーベンの言葉がある。苦しむから歓喜があるのだ。 
マゾはそれをセックスプレーで楽しむのだろう。 最後の一言は必要ない?! 硬い話を最後で落とす為です?