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ようこそ ようこそ いらっしゃいました。

まあ 読んでいってくださいね。
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2019-01-09 閑話小題 〜フォロアー数が語りかける何かとは

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   * 18年近く書き続けて…

 このブログを続けられる励みがフォロアーの存在がある。旧来の、

個人HP日記エンピツenpitu)」を書き続けて18年近くになる。

この「エンピツ」は日記を中心とした文章コミュニティ。旧タイプで、現在は

20〜40人の安定したフォロアーが存在している。10年前の2007年大晦日

Hatena:Diary」に『堀井の「居間 客室 読書室』を併設を始めた。

 その頃から悪質な書き込みが入りはじめていた。『忍者ソフト』で、その数人

を知った時の驚きは、誰あろう? 驚愕! そう見ると思い当たることが次々!

…何とも恐ろしいこと。 〜話を元に戻す。

 そこで、まず炎上可能性の心配である。お寺では大事門徒の名簿管理

ため、互いの名簿を同門同士で持ち合う習慣があることを思いだし、もう一つ

別のサイトの開設を思いつき始めたのが、この「Hatena:Diary」。今では、

ここが主サイト。二つ合計で、一昨年が430人、昨年は550人になっている。

 時どき「満足のいく内容」になると、3800とか、4500に跳ね上がることが…

ゴールデンウィークとか、年末年始に重なることが多い。読者は冷淡に、内容

を見透かしているようで、末恐ろしくなるが、それが、励みになっている。

以下にコピーしたのは3800に跳ね上がったテーマと内容。 これをよみ直すと、

成る程! この年末年始も、エネルギーが集中できて、まあまあで、2000、

1000、4500のカウント。経験からして一週間で潮が引く様に元に戻る。

 私の高揚も一週間ということ? フォロアーは、その辺りに敏感。

いま現在、読返している私も、考えてみれば時間差のフォロアー。

まあ、真面目に、真剣に書いてある。 誰でしょう、この人は?

――――

6260,閑話小題 〜17年書き続けると

2018年05月04日(金)

   * 5月4日は、このブログ開始記念日

 このブログは、私の人生を根底から変えてくれた。

まる17年間、6260回も続けてきた。学生時代に、基礎教養不足に気づき、

読書習慣と本屋通いを習慣に取入れた。読みっぱなしのためか、

読んだ割に知識が身に付いてなかったことに焦りがあった。55歳時に、

何とかパソコンを我が生活の中心に取り入れたいと近所に出来たての

PC教室の通うことにした。当時は、ブログは出始めた頃。

個人HPの作成の過程ネット社会に近づくこと」を目的にした。

以来、現在に至っているが、2007年12月から、「はてな」のブログ

始めて10年あまり、今では、来訪者は、ほぼ「はてな」に移動した。

 しかし個人HPの「内部検索」が、私にとって非常に効果的になっている。

以下にコピーした過去のテーマは、これによる。例えば、「イスラエル」と

検索すると、数秒もしない内に、時系列で現れ出てくる。脳のクラウド化の

感覚が何とも奇妙。写真も、然り。 下記の中に書いてあるように、学生時代

カード日記作成の下地」がある。下記も「カード日記」で検索したもの。

 ある意味潜在意識化された記憶キーワードで引張り上げが可能に…。

ささやかだが、私には、非常に効果的システムである。TVで「タンザニア

の放映があれば、タブレット検索すれば、たちまち当時の記憶が鮮明に

現われ出てくる。若者子供が、こんなことより遥かに情報機器を使い

こんでいるのだから… 情報化社会の一端を連日、目の当たりにして、

その面白さ、楽しさを充分に満喫できる日々が信じられない感がする。

 何事も一万時間か、10年続けることですか。

――――

2016/12/08

なぜ本を読むといいか? 〜7

       <本を読む人だけが手にするもの>藤原和博

   * 確実によい本に出合う方法はあるのか?

 本の選択能力を磨くには、どうしたらいいか。

“どのよんなジャンルでもいいから、数にあたることが大切”と著者はいう。

あたり前のことだが、その中で、著名人読書指導書を、何処かで読んでおく

べきである。ツボを心得ているかどうかで選択肢が変わってくる。

それ以前に、あらゆるジャンルの絶対量の読書が必要になる。

 〜その辺りを、第5章に具体的に述べてある。

≪・“こうしたよい本に出合う機会は、当然のことながら、読書の量を

 重ねれば重ねるほど多くなる。「これだ!」という本を数えたことがない

から確かなことはいえないが、私の場合、おそらく300冊ぐらいだろうか。

300冊という数字だけを見れば多いかもしれないが、それでも3千冊読んで

の300冊だ。9割の本は、私の感性には引っかからなかったということ。

でも、それで損をしたとは思わない。無駄な本に出合わずに効率的に本を選ぶ

ことなど、どだい無理だと思っているからだ。

・また、他人の脳のかけらをつなげて新しい視点を獲得したいと思うならば、

自分には相場観のないジャンルや著者の本を手に取ることも大切だ。相場観を

持たない世界では、だれだって効率もクソもない。全く外れになる可能性も、

おおいに歓迎しよう。そのリスクを取ることで、リターンが得られるのだから。

大事なので、結論を繰り返す。

本当に自分に必要な本と出合いたいと思う人には、「乱読」の習慣化をすすめる。

予想もしなかった考え方に出合ったり、本を介して未知の人物との遭遇が将来

起こる可能性もある。その化学反応は、読む前にはわからないことが多い。

本に即効性を期待する人もいるが、私は違うと思う。

本1冊の値段は文庫本で500円前後、新書で700円〜900円、単行本

1300円〜2000円程度である。買ったうちの9割がダメでも我慢できる。

外れる確率は高くても、偶然の出合いがあるほうが、よほど面白い物語

なると思う。それは人生における人間との出会いと変わらない。 人生における

偶然の素晴らしい出会いを、効率的に設定することなどできはしない。

本との出合いも、同じなのである。数をこなそう。≫

――

▼ 現実体験読書評を連日書いてきたが、一つのテーマに対して、

 その選定から、起承転結をマトメルに膨大のエネルギーを入れている。

文字認識度が低いためである。子供の頃から漫画が好きで、絵からの

認識度があるが、読書脳は希弱のベース。 まして、文章化など・・ 

 それに気づいたのが学生時代。それを取り戻す為、毎日2時間以上の読書

の確保と、日記と、メモを小まめにとることにした。 で、辿りついたのが、

ブログ、この雑記帳的随想日記である。 大学卒業直後、何か足りないと

気づき、一年間、独学に近い状態で、産能大学遊学。フィールド(現場)の

情報効率よく残すには、如何すべきか? そこで得たのが、記録方法

この随想日記の原型の方法カード日記である。それも、大型カードに、

記録を残し、日付を入れて、毎日、得た知識カード化。新聞切抜きは、

それを二枚重ねホチキスでファイル状にして、カードに挟んで茶封筒に入れる。

 ところが、これに問題が生じてきた。そうすると、最少単位テーマ

二度と見ることがなくなる。その弊害が、その習慣の自然消滅の原因になって

しまう。 現在のブログに、毎日、同月同日の文章コピペをしているのは、

かって書いた内容を、一年に一度、目を通す為である。また、ブログ検索で、

思い出すキーワードで過去文を瞬時に引出している。実際、この随想日記

私には非常に有効システムになっている。「私は無能で、遊び好きで、怠け者」

自覚しているため、習慣化という第二の天性を多く重ねるしかないことを、

人生で学んできた。 他者の冷たい蔑視に、殆ど気にしないでいられるのは、

<少し離れてみれば、所詮、石の形、大小が違えども、砂利、砂でしかない> 

 を自覚しているため。 良質の量の増加は、質の自然変化を促す。それも、

 砂利の中の比較世界の話、アフォと、パーの違い。

トランプクリントン女史の討論を見れば、自明? 韓国の女子たちも然り。

すると、安倍麻生コンビも如何だろう?と 自然考えてしまう。・∀・)ニ 

・・・・・・

2005年11月03日(木)

1675, 「自薦エッセイ集 魂の光景」−1

                      −読書日記

創造する心 日野啓三対談集」につづいて、図書館から

日野啓三著「自薦エッセイ集 魂の光景」を借りてきた。

読めば読むほど、日野啓三の深い洞察に驚きざるを得ない。

数年前に亡くなったが、1990年代、60歳代に入ってから大きな

手術をし、死と向き合うことによって、一段と深い所に達したようだ。

心の奥底に、先祖たちの、生物のあらゆる記憶存在を感じている。

神秘思想に非常に近いところにいる。 しかし同時に心の奥底に、

神秘思想のところがありながら、「意識は脳の働きである」という

意識を明確に持ったまま、心の奥深い世界描写している。

 印象に深い章から抜粋しながら考えてみる。

ー「書くことの秘儀」ー

小説を書くってことは、なにひとつ実在しないところから、

リアリティを生み出すことだ、”

”だが死は恐怖であると同時に、生をより自覚的に劇的に物語的に、

悲壮の輝かしく喜ばしいものと痛感させる条件ではなかっただろうか。

死者を弔い。祖霊、神霊への祈り祭り

それに伴う様々な建築物、道具、装備品の洗練。 歌と壁画

食って寝て性交をして子供を育てる以上の膨大な事柄が、

われわれの生を満たすようになったのだ、意識と言葉の進化によって。

一口に言語といっても、他人とのコミュニケーションのための話し言葉と、

ひとり物思い思考しその過程と結論を刻みつける書き言葉とは、

ほとんど異質なものである。 新人を、その抽象的・象徴能力

特徴づけるのは、書き言葉とその洗練である。

”「書くことは、話し言葉領域とは違う領域からやってくる」

当人は口をきかない、別の人格言葉なのだ」

本当に、このことはとても微妙で重要だ。

<「別の人格」とは何のことか>ユングは「神話的元型」といった。

インディアンの祈祷師マツゥスは「沈黙の知」といった。”

自分自身言葉自分自身の想念、思考、予感、物語を書く人は、

よく知っているはずだ―文章を書き進んで自然にふしぎな加速度がついて、

自分の内部がどんどんめくれ上がって、何者かに乗り移られたような状態

なる瞬間があることを。 以後、自分はいわば巫女のように、自動筆記機械

のように、その正体不明の何者かの、言葉以前の暗い想念のエネルギー

ゆらぎを言葉翻訳するような具合になることを。”

”少し落ち着いて考えてみれば、”自分言葉”などないのだ。何万何十

万年の間に数え切れぬ人々の体験と感情と思考が折り重なり、まといつき、

溶けてはまた固まってでき上がってきた言葉の連なりのシステムがある。

ただしとても曖昧で重層的なシステムだ。”

”より自分に近く言葉を使う人の方が、もの言わぬ「別の人格」あるいは

沈黙の知」に、つまり自分を超える何者かに近づき触れることができる。

心ならずも近き触れて、その無言者の代弁ないし通訳になってしまう。”

自覚的に書く人―書く前からわかっていることを他人に伝えるためにではなく、

書くことによって自分の奥の、あるいは夜の果ての何かを呼び出して、自分を、

世界を少しでも意識化しようとして書く人、すなわち職業的にではなく運命的に

”書く人”である人=作家にとって、書くという事態はそういうことである。

神秘的とまで言わないにしても、逆説的、背理的な異様なことである。

彼あるいは彼女を駆立て支えるものは、そのように<自分のために書くことが

特定の読者層に向かって書く作家より)、より普遍的な声に至るであろう>

という信念というより信仰に近いものだ。”

”少なくとも結果の保証のない賭け。

賭け金は自分でもよく分からない自分の生涯の体験の闇の奥行と自己判定

不能の才能。確実に失われるのは、保証された人生の幾つもの現実

その安定と安心。”

読んでいるといつの間にか、深い心の底に導かれてしまっている。

[深いことを書くこと]は、読者を深いところに導くことになる。

・・・・・・

2017/08/25

閑話小題 〜 随想日記、6000回超え、

   * 随想日記も、6千回超え

 千回単位を超えた度に、その時々の実感を書いてきた。この16年と数ヶ月の間、

テーマ探し’が、遊びの柱になっている。 凡庸な者が書上げるには、膨大の

時間エネルギーを使うしかないのが最大の利点になるが、時おり何も浮かばず、

茫然とする。 この下地が20歳半ばにあった。卒業の直後に感じたことは、

「長い人生で、多くの経験をするのだろうが、それを高めるため、現場体験や、

情報をコンパクトに纏める能力( =経験言葉に変換し、起承転結に完結する

物語化する技能)こそが重要と… そこで会社を辞め、産能大に籍を置き、KJ

法や、創造工学の書を独学で学んで、辿りついたのが、ハガキ大のカード二枚を

ホチキスでとめファイルにし、カードに感想文などを書き、その間に新聞やメモ

を挟み、カードボックスに分類して放りこむ、システムである。それそのままが、

個人HPであり、ブログになっている 16年前に、ネット上のブログとして公開、

外部脳として、活用している。 情報収集検索と、ネットサーフィンが非常に

有効に働いている。まだ、ブログが出揃う前後で、パソコン教室で「個人HP

の共同制作を通して、ネットに別世界をつくり始めていた。現在でも、細菌対策

バックアップ役割として続いている。これは、ブログ閲覧の10分の1以下

だが、当初からの閲覧者が根強く存在している。6千回も続くのは、それなりの

軌跡があってのこと。批判批評なら誰も出来るが… 好きにならなきゃ無理。

 2つの合計、350人前後の閲覧者が、今年に入って500人近くに増えた。

少しでも力を抜くと、即、減るため… 抜くに抜けないのが実情。結果、馬鹿

丸出しになる。自覚をしているため、平気だが… 

 要するに、「ライフワークになってしまった」ということ。

――

2014/11/22

閑話小題 ー今日で5000回!

   * この随想日記も5千回

 気持ちを入れた文章は足跡として残る上に、過去の同月同日に、再び、

その時の自分と出会える。5千回は、以前より大きな目安としていたので、

やはり感慨が深い。とにかく続けることだが・・

 この随想日記と、50回の海外ツアー(来年達成)と、新潟駅前事業が、

この30年の大きな行蔵だが、これ、何の価値意味)があるの?と、改めて

問いなおせば、何もない。ただ、ひたすら生きてきた中で、これがあっただけ。

面白く、厳しい場面が多くあったが、悔いは無い。いや、そう思うしかない。

 読み返すと千回までが大変だったのが見てとれる。 5分遅れでアップできな

かったことが一回あったが、我ながら五千回もよく続いたもの! 

 学生時代日記と、卒論を書いた以外は、社内報に二月に一度、書く以外は、

殆ど書くことはなかった。それまで本を読みっぱなしで、ダイアリーにメモ書き

で残す以外、感想も、要約も書き残すこともなく、一番大切なことをしてなかった

ことに気づいていた。そこでHPの存在を知り、記憶雑記帳としてネット上に

公開すればと、思い立った。そこに、通勤途中に開業したばかりのパソコン教室

を見つけて本格的にのめりこんで行った。当時は、まだブログの出だしの頃で、

手作りのHPだった。それが、今でも、エンピツの「随想日記」と、「分類」

として続いている。 そして7年前に、この二つのフォロー用に始めた「はてな

ブログに、読み手の殆どが移動してしまった。そのことに気づいたのが一月前。 

13年の日時もあって、「ヤフー」のブログを加えると、300人の閲覧。

もっとも、最大のファンは、同月・同日の自分と、未来自分だが。

アップをした瞬間、その全てを忘れるため、読み返すと奇妙な気持ちになる。

なるほど、言葉言霊! 「その瞬間の自分は、集中すればしただけ残るんだ!」

を、読み返すと分かる。ーまずは初回からー

――

4000, 4000回の随想日記

2012年03月08日(木)

 千、二千、三千回目に、それぞれの感想を書いてきた。旅行中も「書きだめ」

をしたのを知人に頼んでアップをしていたのでほぼ休まず書いてきた。自分でも

11年近く四千も連続して書いたと驚いている。次は五千が目標になるが、四千回

を契機に、時どき休むことにする。 また五千回に到達した時点で半年位は休む

つもりである。この程度の文章は誰でも書けるが、一応自分で納得した内容を

書き続けるのは大変である。充実感があり、習慣化したから可能だった。

「チョット聞いてよ。こんなことがあったよ!」という長屋のハッツァンが、

クマサンに自慢気に話している感じである。もちろん、自分のために整理し知識

して残すのが目的だが、せっかくの獲物?を共有することで、学び続ける動機づけ

にしている。気楽に、面白可笑しく、バカ丸出しで、地頭で、書いたため、その

まま伝わっていたはず。それも四千ともなると、自分脳内そのものでもある。 

自分の貯めた文章を毎朝、同月同日分を読む楽しみは格別。今では、その日書いた

分を含めると11年分の同日の自分に出会っている。書いたことも、その内容も、

ほぼ忘れた文章が、早朝に読み返すのは不思議で奇妙な感覚になる。だから倒産

とか、それに関わる嫌な日々も、この御陰で毎朝、心が洗われる。文章起承転結

でまとめるのはプロならいざしらず、気力が無いと無理。 但し、一度、その習慣

をつければしめたもの。 しかしブログ字数制限があるため、当日分の書いた分

だけ、過去に書いた文章をカットする。それが、身を切る思いになる。

しかし、それが好い加減な文章を書くと数年もしないうちに、自分の手で削除する

ことになるので、内容の質を落とせなくなる効用がある。 文は、一度書き、

アップすると、あとに戻せない。何気なく書いたために明らかに傷をつけた人が

何人かいる。 注意はしているが、厳重な注意が必要だが、それが見えなくなって

しまう。時系列に書き続けていると、ある意味で、メモ帳雑記帳にもなるが、

毎日、書き連ね、別ボックスに分類すると、違った意味で、価値が出来てくる。

また分類ボックスの一番下に、過去に書いた文章検索可能になっている。 

時々、検索をすると、キーワードの入った文章が出てくる。もし、秘境旅行、と

入れれば、過去に書いた文章が時系列に出てくる。これは記憶検索になる。

――

3000、3000回か〜

2009年06月22日(月)

 この随想日記が3000回になった。1000回、2000回の時ほどの感慨がない。

書き続けることに慣れてきたのだろう。 誰に頼まれたわけじゃなし、ただ習慣

だから続けているだけ。確かに、続けているとプラスにはなる。考えざるを得ない

からである。それと、常に何か書く材料がないか注意を周囲に向けるようになった。 

その現場で、キーワード探しと、その組み合わせをするようになっている。書く

ことを職業にしている人は、考えることを職にしていることになるが、紺屋

白袴で…? ところで、千回、二千回の時に何を書いていたか、調べてみた。 

なるほど、今回も同じような気持ちである。ふと、気づいたが、自分とは時間

経過と同時に広がっているということ。それと、心の底の変わらない‘X’が

魂ということになる。