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2018-04-23 閑話小題 〜科学がつきとめた「運のいい人」

[] 05:49 閑話小題 〜科学がつきとめた「運のいい人」 - 堀井の「居間 客室 読書室」 を含むブックマーク

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      < ー科学がつきとめた「運のいい人」中野信子(著) >

  * 科学のいう、幸運の人とは

 「運」については、ここで何度もテーマにしてきた(幾つかを後でコピー)。

それは己が引き寄せること、運び込みが可能である。宿命、生来、定められて

いるが、「運命」は自ら変えられるのである。

――

  〜内容紹介(Amazon)〜

 運がいい人と悪い人って絶対いますよね。

では「運がいい人」というのはいったいどんな人なのでしょう?

そのことを優秀な脳科学である著者が語ってくれました。

実は「運がいい」人も「運が悪い」人も、遭遇している事象はそれほど

変わらない場合が多いようです。 しかし、その事象に対するとらえ方、

考え方が違う。 対処の方法も違う。長い年月を積み重ねれば、おのずと結果

は大きく変わってくるのです。では、運のいい人に共通する「行動パターン」

「考え方」「物事のとらえ方」とは何なのでしょうか?

本書を読めばわかります。あなたも運がよくなること間違い無し!

   〜レビューより〜

≪ 運のいい人になる絶対条件は、

・自分を世間の標準に合わせるのではなく、自分を社会のルールや常識よりも

 下に置くのでもなく、一般的な価値観や他人の意見に惑わされることなく、

 自分の価値観で自分の幸せを把握すること。

・また、自分を粗末にせず、自分を大切に扱うこと。他人を敬うのと同じように

 自分自身を敬うことである。日々の選択の基準を「おもしろさ」に合わせよう。

・【運がいい人の図式】

 自分なりの「しあわせのものさし」をもっている

→そのしあわせの状態を積極的につくり出す努力をしている

自分自身が好きな状態になる →人に好かれる。

成功者の条件であり、人を褒められる余裕の源である、セロトニントメラトニン

 を十分に分泌させるためには、サーカディアンリズム体内時計)に則った生活、

 即ち、早寝早起きすること。

・他者への思いやりをもちつつ勝ち続けるためには、勝ちすぎないこと。

 最適応するのではなく好適応する。

 過剰適応するものはクロサイのように「絶滅」する恐れがある。

・自分を褒めよう。失敗したときも「大丈夫、大丈夫、そんな○○ちゃん

 (自分のこと)も大好きだよ」と言おう。自分を褒めればβエンドルフィン

 オキシトシンドーパミンといった脳内快感物質が出て、脳の活性化、免疫力

 の強化、記憶力がよくなり、集中力が高まる。三週間続ければ脳は変わる。

 いつも自分を褒められるようになる。また、他人を素直に褒められる人は、

 他人からも好かれるようになる。

・夢を叶える人、セレンディピティーを発揮できる人は、常に頭のどこかで自分の

 夢や目標について考えている。叶った状態をいつも思い描いている。そのため

 には自分の夢や目標をはっきりさせよう。金や学歴やスタイルは夢や目標を

 叶えるための手段だ。目的は何かを忘れてはいけない。

・そして、偽善は脳にすぐ見破られるけど、自分の目的の延長線上に自分以外

 の幸福がないか考えて、そこに焦点を当てよう。

結局、運というのはその人の考え方とパターンによって変えられるのである。

「運のいい脳」にするには祈りも大切になる。≫

▼「判断、決断が正しかった結果が幸運。間違うと「運」が悪かったという。

 ということは情報と、知識と、経験の質量ということになる。それに素材が

加わる。「いま、ここ、わたし」が、ここに存在していること自体が幸運の

極みの結果である。英語圏の挨拶からして、『グッドラック』である。

その人を知ろうとしたら両親を見ろというが… 家庭環境が、大きく左右する。

それにしても、人生の節目を振返ってみて、幸運の連続であったと実感する。

知ってるか知らないかでも、大いに違ってくる。

『日々 是 好日』のつみ重ねが、幸運を引寄せる。それと『知識』の質量。

 で、この様とは、これ如何に。 『日々 是 幸実』 いや『口実』。

――――

2018/02/21

閑話小題 〜「自分は運がいいほうだと思う?」 −1

   * 自分は運がいいほうだと思うか?

 先週末の朝日新聞で「自分は運がいいほうだと思う?」をテーマにしていた。

 〜要旨といえば〜

< 有名な話では、松下幸之助さんが社員の採用面接のとき、よく

「あなたは運が良い方だと思いますか?」と聞かれたといいます。自身でも、

「自分は運がいい」と一日に何度も言うという。 その理由の一つは、

そう自分に言い聞かせ思い込むと、自信が持てるようになり自分から積極的に

行動できるようになるということ、もう一つは「自分は運がいい」と思う人は、

今を肯定的に捉えて、悪いことが起こっても他人のせいにしないと… 

 そして「自分は運がいいほうだと思う?」に、7割が運が良いと、3割が悪い

と答えるという。

 運が良かったと答えた一番の理由が、良い人間関係に恵まれていること、

良い環境と、良い両親のもとに生まれたため、そして成功が失敗を上回って

いるためという。

 運が悪かった人では、「思い通りの人生ではない」ことと、努力が報われない、

努力が報われない、人間関係が恵まれてなかった、などをあげている。

☆ 〜運について幾つかネット検索からひろってみると、

・人生の岐路で迷った時に、困難な方を選んだ方が運はついてくる。

・楽観主義の方が運がよく成功しやすい。

・夢や目標がかなった状態をいつも頭のどこかで思い描いていると、幸運が

 目の前に現れたときにキャッチできる。ーなどがありました

☆ 「運がいいと思っている人ほど運が良い」ということです。確かに成功して

 いると見られる人ほど「自分は運がいい」という。

正反対の「自分は運が悪い」と言い続けている人がいます。会社の愚痴、仕事

の愚痴が多いですが、思い通りの仕事はなかなか担当させてもらえず…

▼ 運については、30数年前の経営セミナーで、『運の作り方』という

 テーマで聞いたことがあった。創造工学研究所所長の中山正和氏で、川喜田

 二郎のKJ法に対し自身の方法をNM法と名づけた。 〜その要旨といえば、

<何かをする前に、判断をするが、結果が良ければ運が良かったという。逆に

 悪ければ運が悪いという。それには、心が澄んでいるほど正しい判断が出来る。

 そこでまず、般若心経を暗記し、唱え続けることで、心を空にして、現象を

 捉えて判断し、ことに当るに、般若心経は、プラスに働く。> …と。

 そこで3週間かけ暗記することに相成った。暗記してしまえばしめたもの。

 何時どこでも、夜半、眠れない時とか、通勤の車内とか、チョッとした合間に

 唱えることで、悟りに近い状態になれる。私の因縁のある有識者?の多くが、

 例えば二人の息子や、兄夫婦、直ぐ上の、姉、会社の正社員などの人たちが、

 暗記することに相成っていた。100人は下らないない?。

  …で、この有様? 茹でガエルになってしまったからじゃないですか。                       〜つづく

――――

H0605

般若心経のすすめ

 十年前に創造工学の中山正和氏の“運のつくり方”という講演で、

般若心経のすばらしさを聞いて一ケ月がかりで丸暗記をした。

今まで何万回唱えただろうか。

当社では入社教育で丸暗記が必須となっている。

二人の子供ま毎朝の仏壇での私のお経の為か丸暗記をしてしまった。

十年間の経験より(私の実体験より)

直観した事を列記すると

?自分サイズの時空を超えた一つの視点をえた

?心臓音に波長があっている(リズム

?α波がくみこまれている

?“念”がこの中に入っている

?お寺・神社等で唱えるとTPOとして、

 その場のイメージが鮮明に残る

?情報雑念等を切断、整理をする働きがあり、

 結果として“運=無意識の判断”を左右する

?これをくり返しているとベースとして“空”がつみ重ねられてゆき、

 自己の中にその中空がつくられる

?夢の中で“空”を直感するイメージを得られた、

等々限りない。

 

 立花隆宇宙飛行士との対話の中で

「彼等は地球をはなれた体験の中の一瞬に、

キリストや仏等の教祖が苦難の上で直感した“絶対無”を観た」

のではないかと言っている。

それは般若心経をくりかえしの中で、

少しでも近づける様な気がする。

――――

2016/09/25

閑話小題 〜幸運の人と、不運な人

   * 人は、すべからく幸運である

 以前、書いたことばかりだが、思いのまま、「幸不幸」について書いてみる。

・人間は、「いま、ここに、私」として存在するだけで、幸運である。

 「神様の御導きびき」といえば、それまでだが、幸運な偶然の一致の重層で、

 存在している。他者と比較が、この幸運を見えなくしている。

・自らを幸運なタイプと自認する人と、不幸と自認する人との、一生の間の

 運命の差は膨大になる。不運な人は、チェンスがあっても、自分が駄目と

 思っているため、目前にあっても気づかない。どうせ、駄目だからが無意識

 のうちに働き、そのチャンスに気づかない。

・幸運な人は、チャンス到来に、そら来た!と敏感である。何せ、幸運だから。

 幸運であるには、何があっても上位に自らを置かなくては。まずは20%に、

 そして、6%、3%、1%にと。 

・幸運な人は、幸運のある同類を呼ぶ、というより集合する。幸せ本には、

 まず、「幸運の人に近づけ」と。彼らには、幸運を自ら引き寄せる力がある。

・以前、<幸運を呼寄せる力を得るためには、『般若心教』を暗記をして、

 ことあるごとに唱えなさい>と、創造工学の先生の講義を聞いて、早速、

 二週間かけて暗記をした。「色即是空 空即是色」と、心を澄ませておけば、

 情報選択と決断も間違わない。運とは、判断し、その行為が、正しい場合を、

 「幸運」といい、間違った場合を不運という。だから、情報に対する純粋な

 視線が必要となる。特に、情報過多の現在こそ、重要である。

・生活習慣は、第二の天性である。 二ランク上の生活習慣を立て実践すれば、

 二ランク上の人になれる。その差は、時間とともに莫大になる。

・「恒産あって、恒心あり」、長年かけた蓄えが必要となる。なぜ?といえば、

 人の心を自由にも不自由にする力が、金銭の有無に厳然としてある。お金の

 心配からの解放が純粋な心を生み、それが幸運を呼ぶ。(真逆もあるが)

――――

ーS6004事業百訓ー

『人間思いあがったらもうおしまい。そこから先は何も進歩しない。運も同じ、

ああ自分はついていると感謝している間は、運も上昇線をたどってくれるが、

それがあたりまえと思ったり、自力だと過信したとたんに運もストップする。…』

『……自分が運が悪いという人間にかぎって何も努力をしていない。

レベルを上げると、自分をとりかこむ環境もレベルアップする。

それによって自分にみがきがかかり、さらにレベルアップする。

すると運にめぐりあえる機会がふえるのです。

そのとっかかりは何か。競争相手との紙一重の差がはじまりなんだ。

ところがこの紙一重の差、プロの勝負師にとって、天地ほどの差なのだ。…』

『…一生けん命何かをやる。運とはその一生けん命さに対して天が与えてくれる

ご褒美なのだ。だから最初より褒美をねだったり、あてにしてはいけない。

それより一生懸命やる事が大事です。人間つくるのは鍛錬だけなのです。』

(将棋九段 芹沢博文)

――――

2014/02/17

心を上手に誘導する方!              

        「心を上手に透視する方法 」トルステン・ハーフェナー(著)

  *「自分は運がいい」と思っている人ほど、幸運に恵まれるのはなぜ                                  

マインドリーディング」のテクニックメソッドを紹介した本だが、これは

他人だけでなく、まず自分のマインドリーディングに使えばよい。それだけ、

心は未知で、扱いにくいもの。ランダムに、面白そうな部分をテーマにするが、

運、不運は、その最たるもの。運は判断の結果をいうが、その為に必要なのが

「観察力」である。

 このところ長年信じてきたバイアスに気づくことが多い。『もの覚えが悪い!』

と、数十年思い込んできた。そのため、対象を観察さえしようとしないため、

さらに、もの覚えが悪くなっていたことに、最近、気づいた次第。私は「運が強い」

と思ってはいるが、その運を呼び寄せるのは、長年かけた努力の集積の結果と

いうことを経験上、分っていた。運がいい、という思い込みなら良いが。 

  ーまずは、そのあたりからー

《 自動車メーカーの創設者ヘンリー.フォードはこう述べている。

「あなたは、自分は何かがとても上手にできると思おうが、全然できないと

思おうが、どちらも正しい」 あなたの思考パターンが、目標を達成する妨げに

なっていないかどうかをよく考えてほしい。 なぜなら、それがあなたの人生の

運に大きな影響を及ぼすからだ。イギリス心理学者、リチャード・ワイズマンも、

大規模な調査によってそのことを証明している。ワイズマンは、人生における

幸運と不運は本当に偶然によるものなのか、それとも運のいい人と悪い人がいる

ことを心理学的に説明できるものなのか、ということに興味をもった。そこで、

ワイズマンは、自分が幸運に恵まれていると思っている人と、ついていないと

思っている人を探し出した。調査の対象になった人たちは「新聞に載っている

写真の枚数を数えるように」と言われた。その後、ワイズマンは被験者に、写真

が何枚載っていたかを尋ねた。しかし、被験者には知らされていないもっと重要

なことがあったのだ。その紙面の中央に、ワイズマンはある文章をかくしていた。

 その文章とは、紙面の半分くらいの大きさで、「実験の担当者に、これ見たと

言えば、あなたは百ポンドを獲得します」と書かれていたのだ。

自分には運がないと思っている被験者たちは写真を数えるのに必死で、その文章

に気づかなかった。一方で運が良い人たちはリラックスしており、もっと全体を

見渡すことができ、ほぼ全員が百ポンド手に入れた。ワイズマンはこのことから、

運の良い人は、運がない人よりもチャンスに気づくということを導き出した。

私たちの思考は私たちの行動に影響を及ぼし、不思議なことに、幸運か不運の

どちらかを引き寄せるのだ。ワイズマンは、こう書いている。「楽観的な人は

前向きでエネルギッシュで、新たな機会や経験にオープンである。一方運の

悪い人は、控えめで、頼りなく心配そうな反応をし、目前にある機会を見つけて

活かす気がないようだった」》

▼ 運とは、判断の結果であり、判断には対象の観察力が必要になる。

 過去の行蔵を見ると、失敗の場合は、観察をする詰めが甘かったケースである。

運を良くするには充分なる準備が必要で、浮ついて取り組めば、当然、そこには

 失敗が待っていた。そう簡単に成功など出来る程、甘くはない。貧しい家には、

貧乏神が住んでいる。今回の一連でも多くのことを学んだが、それも捉え方一つ。

子の結果が、『あ〜、運が良かった』と思えば思えるし、

『あ〜、何て運が悪かった!』と思えば、そうである。運が良った!と捉えれば、

長年かけたリスク管理を幾つかして いたこと。運が悪いと思えば『長年の努力

の結果が、このザマ!神も仏もあるものか!』になる。モノは考えよう。

2018-04-21 閑話小題 〜工学博士の幸福論とは

[] 05:50 閑話小題 〜工学博士の幸福論とは - 堀井の「居間 客室 読書室」 を含むブックマーク

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        『ロボットだって心を持てる 達人対談

           前野隆司vs・ビートたけし‘新潮45:2017・10月号』

   * 「意識』はすべて「錯覚」というけれど…

 図書館から数ヶ月前の‘新潮45’を借りてきて流し読みをし、ここで

テーマとして取り上げること屡々。たけしとロボット博士の幸福論が面白い。

ありがとうと感謝の念をもって、ありのままで、やってみよう。

そうすれば、なんとかなる。その積み重ねが、幸せをもたらす!>

 これは、創業の基本理念にもつながる。 幸せな人とは、

《夢や希望や強みを持ち、つながりと感謝を持ち、前向きかつ楽観的に、

自分らしく生きる人。あるいは自分を信じ、他人を信じて生きている人》になる。

    〜要所を抜粋〜

≪ たけし: ロボットに心を持たせるにどうしたらよいか研究や考察をしたら、

 人間には主体的な意識はなく、無意識が決めたことを追認する「受動意識」

 しかないという仮説を唱えているという。…

前野: …その「受動意識仮説」とは、私たちは嬉しいとか悲しいとか、この

  ギャグを言おうかとか、意思で決めているような気でいるが、それは全て

 無意識のうちの処理が先にあって、その結果にすぎないということ。

 私たちは自由意志があるようにような気がするけれど、自由意志などは本当は

 ない。脳の背後で動いているプログラムがあって、それが出した結果を自分が

 やっているように錯覚しているにすぎないというのが、「受動意識仮説」です。

 例えば、「コーヒーを飲もう」と決める。自分がコーヒーを飲もうと決めた

 気がするけれど、本当は脳の中に小人がたくさんいて、それらが、色いろ

 検討をして決めた結果を自分が決めたように感じている。

前野: だいたいコンピューターは10年で100倍、20年で一万倍賢くなる。

 何十年後には人間の頭脳を超えてしまう。幸せな人は、利他的で、性格が

 良いという結果が出ている。ロボットが賢かったら、幸せになりたいと思う

 じゃないですか。幸せになるためには良い人でなければいけないと気付くから、

 嫌な奴にならないと思うんです。

たけし: 先生の幸せの研究は、人々がどのようなときに幸せを感じるかの

 アンケートをとって、その中から要因を取りだして、共通要素を分析して

 いく手法ですよね。

前野: 幸せの4つの因子とそれを現す言葉として、

  やってみよう:自己実現と成長の因子

  ありがとう :つながりと感謝の因子

  なんとかなる:前向きと楽観の因子

  ありのままに:独立と自分らしさの因子があります。

たけし: なぜ人は生きているのか? この世を風呂屋に例えると、

  いい温度の風呂につかっていることが幸せ」だとすれば、熱すぎず、

  温すぎない丁度いい温度に水で薄める努力をしないとね。

前野: 何故生きるかという問いに対し、西洋では神の存在を説いて、

  天国に行くために生きるということになる。ところが仏教では、

  「欲は本当はない」と説く。何のためにいきる、といった目的は徹底的に

  ないと説きます。…私の考えは仏教徒と同じ。「人には全く自由意志がない。

  要するに、自分が感じている欲もないし、生きる意味もない本当はない。

  自分が感じているものは全て脳がつくり出した錯覚にすぎない。何もないん

  だから、幸せに生きた方がいいんじゃないか。風呂の話と同じで、何で

  風呂に入るか分からないけど、どうせ入るならあ適温がいい。だから、

  最近やってるのが幸福学なんです。でも、なぜ生きるかとなると決定的

  理由は見つかりません。

たけし: 「阿波踊り」じゃないけど、「同じバカなら、踊らにゃ損、損」と。

――

▼ コンピューターの能力は、「ムーアの法則」からして、10年で100倍、20年で

一万倍、賢くなるが、実生活で、スマートフォンタブレットPCの進化からみて、

決してオーバーと思えない。20年前といえば私が52歳の頃に、中高生時代の同級生

が数人、亡くなったが、生き残った身として、一万倍のコンピューター社会の進化

を目の当たりに出来た彼らとの差の実感は、あまりに大きい。(比べること自体が

おかしいが…)

 成るほど、中村天風の説く「積極一貫」の精神こそ、幸せをもたらしてくれる。

同じ人生、踊らな損だよ。元幕臣でありながら、新政府に仕えたことなどを

「痩我慢の説」で批判した、福沢諭吉に対して、勝海舟が答えた言葉

「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。」

幸せも同じ。意味も何もありゃしない。まず、やってみて、それを楽しむこと。

 ・・・・・・

4418, 残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法 ー7

2013年04月21日(日)                

 * 幸福とは何か ー大富豪とマサイ族   

        「残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法」 橘玲著

 幸福とお金の関係は、なかなか難しい。幸福の必要条件の一つにお金があるが、

十分条件では決してない。その辺りを、以下で大富豪とマサイ族を比較して

分かりやすく説明している。

≪ アメリカでは一九八○年代から、幸福を心理学的に計測するという試みが

 行なわれている。これは厳密に科学的なものではないが、様々な調査によって、

統計的にほぼ同一の傾向を確認できる(大石繁宏著『幸せを科学する』)。 

ある調査によれば、人生の満足度を七点満点とすると、アメリカビジネス

フォーブス』に載った大富豪たちの満足度の平均は五・八だった。彼らは

資本主義社会の頂点に立つ成功者で、豪邸やプライベートジェットなど望む

ものはなんでも手に入れることのできるひとたちだ。 アフリカのマサイ族は、

ケニアタンザニアに住む半遊牧民で、必要最小限のものしかない貧しい暮し

をしている。同じ調査で、彼らの人生の満足度は五・四だった。目の眩むような

大金は、ひとをたった○・四ポイントしか幸福にはしてくれないのだ。

もちろんこれには様々な解釈が可能だが、大富豪がマサイ族の村に行ったと

したら幸福だと思うだろう。マサイ族の若者がニューヨークを訪れれば、

極貧と不幸に打ちのめされるかもしれない。幸福感は相対的なものだからだ。

マサイ族が幸福なのは、家族や仲間との強い絆(愛情空間と友情空間)のなかで

暮らしているからだ。それに対して貨幣空間の成功者である大富豪は、

その成功ゆえに愛情や友情から切り離されて幸福を感じられなくなる。 

 でも彼の人生は、まだマシな方だ。この調査によれば、世界でもっとも

不幸なのはロサンゼルスなどの大都市で生きているホームレスだ。

彼ら貨幣空間の敗残者は富も人間関係もすべて失ってしまい、自分たちより

過酷な生活をしているインドスラム街の人たちよりはるかに幸福度が低い。

もっともこれは、それほど奇異な結果ではないだろう。お金が幸福の必要条件

ではあっても、十分条件でないことは誰だって知っている。ぼくたちがお金に

こだわるのは、それが「安心」「安全」という大切な価値と結びついているから。

ヒトはずっと不安のなかで生きてきたから、安心を得ることは幸福の大事な条件

のひとつだ。そして市場経済においては、この安心はお金で買うしかない。

日本国の財政が未曾有の赤字に陥り、少子高齢化で年金制度が破綻必至になった

ことで、この国を重苦しい不安が覆っている。老後を国家からの年金に頼って

いたひとが、安心を奪われてしまったのだ。 でも単純な経済問題だから、

お金により解決できる。財政破綻で年金の大幅減が実行されても、宝くじで

一億円当たったら、どうだってよいと思うだろう。(当たらないと思うが) 

幸福のためにお金を求めるのは、きわめて合理的な行動。ところが皮肉なこと

に、宝くじの当せん者を追跡調査をすると、実はあまり幸福のなっていない。

買物や豪遊で賞金を使い果たすころには、自分には何も残ってないことに

気づくのだ。 ・・・ ≫

▼ ー我われがお金に拘るのは、「安心」「安全」という価値に結びついて

 いるためーというのは分かる。ならば、日本は世界一の「安全」で、「安心」

して暮らせる国で、万一のことがあっても、生活保護がある。しかし自殺は

先進国の中でトップクラスにあるし、国民は幸せそうでない。何故なら国の

先行きが見えないためである。先行きなど、かつても見えなかった。

中途半端な幸せを長年続けてきた結果、激変の最中、動揺しているのである。

東北大震災から数ヶ月後、アフリカの難民をよびよせ、被災民の状況を見て

もらったが、殆どコメントをしないで帰った。彼らにしたら何をか言わんである。

豊かさの中の極貧生活が不幸の最たる状態であるのは、大都市のホームレスを

見れば分かる。今や夫婦間資産格差が出来た私など、不幸の最たるもの?

でも不幸感はない。「不安感」が最小に縮んだからだ。先行きの不安感は、

今が不安定だと生じ、蓄積していく。着地をした現在、今さら「不安」

など感じようもない。

・・・・・・

4044, 一時停止 ー4

2012年04月21日(土)

         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010

  * 他人との出会い

≪ 肉体的な成長だけで子どもがおとなになれるわけではない。肉体的な成長

に精神的成長が伴わなければ、人間はおとなになれない。その精神的成長とは

どういうものか、知識が増えること、感情が豊かになること、経験を積むこと、

考える力が増すことーいろいろな面から考えることが可能だろうが、そのどれも

が結局は<個>の自分の確立ということにむすびついていることに気づく。

 群棲動物である人間は、ひとりで生きてゆくことができない。そこから

私たちは複雑な社会的構造を生み出し、〈個〉は常に自分と同等な〈個〉、

すなわち〈他〉との関係において生きてゆく。〈個〉の確立とは自我の拡張と

同時にその制限をも意味している。言葉をかえると、他人と出会ことによって、

子どもはおとなへと成長してゆくと言うこともできるのではないだろうか。

もしそんなふうに言えるとしたら、私にとって初めての他人との出会いは、

いったいいつのことだつたのだろうと考えることがある。もちろん人間にとって

最初の他人とは母親であると言うこともできるかもしれない。しかし、ほとんど

子どもにおいては、母親は自分自身の延長のような存在であり、母親を他人

として意識しはじめるのは、むしろ彼がおとなになってからだろうと思う。

似たようなことは他の身内・家族などについても程度の差はあるが、おおむね

あてはまるだろう。 ≫

▼ 学校時代は、進学する度に変わる同級生が、他者を考える上に分かりやすい。

 その時の面々が、その時の自らの分である。それは、自分の広がりでもある。

それが他人との出会いである。その範囲が広がれば広がるほど、その冷たさと

暖かさの差が大きくなる。その段差が、人間を成長させるのである。逆に言えば、

その段差が少ないと、成長が逆行していくことになる。自分を意識する前に

見知らぬものとの出会いがある。その境目が増えるにしたがって、己との枠が

でき、それが自分になる。それぞれの時代の相手の中に、自分の姿が合わせ鏡

となり、自分の姿の一部を垣間見ることになる。

 ・・・・・・

3678, 自己を見つめる −5

2011年04月21日(木)

  「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)

  ー 境遇 ー

【人生においては、私たちは、それぞれの境遇で、様々な経験をしながら、

 自己自身の人生の有意義性を目指して、日々努力を重ね、永い人生行路の

 過程を踏み、自己の歴史が築かれてゆく。人生とは、そうした各自の時間的

 歴史的な行程であり、多様な諸経験を重ねてゆく遍歴の旅路である。

 人生は、しばしば、旅だと言われ、西洋でも、人間とは「ホモ・ヴィアトール

 (旅する人)」だと語られる。しかし、そのような遍歴の旅とは、いったい何で

 あろうか。とりわけ、多様な諸経験を経巡ってゆくということのなかに

 籠められている大事な眼目は、いったいどこにあるのだろうか。・・

  遍歴の労苦を通じてのみ、私たちの人格の花は、大きく咲き出るのである。

 格言に言われるように、可愛い子供には旅をさせねばならず、異境に出て、

 他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ初めて、

 私たちの人格は、大きく実るのである。そうした切磋琢磨と、人格的遍歴の

 過程を、すべての人が、互いに、愛の思いと暖かい心とを込めて見守らねば。

 こうして、人間的振幅や試行錯誤のすべてを受け容れ、また赦すところの、

 裏切ることのない、誠実な追憶の魂もしくは心のなかに、それらの歩みの

 すべてを銘記し、それらを、過ぎ去りゆくことのない、不滅で、貴重な人間的

 経験の全体として、共同でいたわり、保持しようとすることこそが、あらゆる

 人間にとっての、最も崇高な、道徳的かつ人格的な相互的責務であると思う。】

▼ 神話は、まさに異境に出て行って、辛苦の中で勝利し帰還する物語が原型

 である。それは、自分の魂にとっても同じこと。異質なものとの出会い、

そして邂逅のプロセスを通して自己が深まり、広がっていく。ここでも「異境に

出て、他流試合に揉まれ、異他的なものとの交流もしくは対決を経巡ってのみ

初めて、私たちの人格は、大きく実る」現実の世間的価値観の中では、人格は

大きく実らないことは周辺を見れば良く分かること。更にいえば、自己とは

異質なものとの出会いと邂逅の中にこそ存在する。

・・・・・・

5150,知の逆転 〜?

2015年04月21日(火)

         ー知の逆転ー 対談相手 オリバー・サックス

   * 没頭している「平和の時間」こそが

 午前中、4〜5時間、仏間にある書斎コーナーで、本を読んだり、パソコン

に向かっているが、その時間はアットという間に過ぎてしまう。集中している

ためだろう。ネガティブになりがちな身の上?に、老齢化が重なっているため、

落込みへの解毒剤になっている。冬場を除いて、朝方の自転車散歩も加えて、

何とかポジティブ3にネガティブ1の比率を維持している。

 ここで、<没頭している「平和の時間」が、最も望ましい>というが・・

この随想日記の習慣の効用である。没頭には、長年の継続が必要である。

 ーその箇所を抜粋ー p149 

≪ ・・私自身も、書き物をしたり考えたりすることに没頭しているとき、

 あるいはピアノを弾ひたいたり音楽に浸っているとき、神経症うつ病

消えて、時間というものを意識しないで平和な時を過ごすことができます。

われわれは誰もがそういう時間を必要としているのです。フロイト精神分析

では、楽しいことに没頭しているときの平和な時間という部分が看過されて

いると思います。彼の精神分析では、生は緊張として捉えられ、緊張が解ける

と何もない状態になると解釈されているわけです。しかし、ポジティブ

平和な時間というものは芸術や科学の基盤であり、最も望ましい状態では

ないでしょうか。≫

▼ 「平和の時間」は、外界の喧騒から隔絶出来て、気持ちが集中、脳も、

 心もシンプルでいられる。週一のシネマも、ポタリング自転車散歩)も

「平和の時間」。リタイア直後に立てたプログラムは、まず、ストレスによる

自己崩壊を避けるためだったが、結果として「平和の時間」の維持の効用に

なっていた。今までは会社の維持に向けられたエネルギーが、「平和の時間」

に向けられるから、悪いわけがないが、だがストレスは生半端ではない。

それが当り前だが! 知恵を使って、見方、支点を変えれば、逆境さま様!

ものは考えよう、面白いもの。 偶然だが、以下の内容が、丁度良く続く。

・・・・・・

5880,世界がもし100人の村だったら お金篇 〜2

2017年04月21日(金)

   『世界がもし100人の村だったら お金篇

         〜たった1人の大金持ちと50人の貧しい村人たち 』

              池田 香代子 (著), C.ダグラス・ラミス (著)

 21世紀の初年度が始まった2001年の9・11テロかで時世界が様変りをした。

ユダヤキリスト教イスラム教の対立の鮮明化である。これに中国の躍進と、

時代かかった北朝鮮が絡んだ複雑な様相が現在時点である。その結果、強者は

より強く、弱者はより搾り取られる様相になっている。当然、お金のない国家

対金持国家の対立が浮き彫りになっている。北朝鮮アメリカ、欧州対中東、

中東の内乱、IS国家の設立がテロなどを誘因する原因となっている。

 それそのままが、以下の数値で物語っている。

≪ ・2000年、世界のGDPは、ドルになおすと33兆ドル

   2015年は 73兆ドル。増えた富は、一番豊かな人びとの元に貯まった。

 ・世界を100人の村に例えると、世界の富のうち

   49%は、1人のいちばんの大金持のもとに

   39%は、9人のお金持ちのもとに、

   11%は、40人の、わりと豊かな人のもとに貯まりました。

  50人の貧しい人のもとにあるのは、たった1%です。

 100人の村では1人の大金持ちの富と99人の富がだいたい同じです。

インターネットを使う人は28億人増えて 32億人。大よそ10倍に。

・中国では自家用車が300万台から1億2400万台に増えた。40倍である。

・世界の通貨、その国だけでなく、世界中で使われている。

  44%がアメリカドル

  16%がユーロ

  11%が日本円

  6%がイギリスポンド

  3%がオーストラリアドル。

・世界の株の値打ちは、この15年で二倍近く増え、もうすぐに

 世界のGDPと同じになります。 ≫

――

▼ 21世紀は、ネット環境が進化し、世界の半数近くが、情報端末

 持つようになった。今まで権力の乱用は、ネット上で一瞬で表沙汰になり、

権力者は、その座を追われる時代でもある。チャンスとリスクは裏腹だが、

そのバックグランドが、地域社会、国家内から世界に広がってしまった。

しかし、その基盤ルールのコントロールが、全くできてない。あるのは、

弱肉強食」のルールのみ。そしてテロを含めた新たな戦い。

・・・・・・

5515,閑話小題 〜「はてな」のブログ、100万人超え

2016年04月21日(木)

    * 「はてな」のブログ、100万人を超えた!

「はてな」ブログビュアーの数が、昨日で延べで100万人を超えた。

開設以来、9年4ヶ月、一日あたり300弱になる。現在も、月当たり

を均すと、同じ300人になる。 月の4分の3が、250前後だが、

月に一週間ほど、その2〜5倍のウネリがある。なぜか、内容に力が入った

ときにビュアーが増える。

 当初からの個人HP「えんぴつ」が、ちょうど丸15年。この「えんぴつ」

ブログは一日40人前後。当初から増えも減りもしない。旧来からの知人を

中心にしたビュアーが見ているようだ。 内容が「はてな」と同じため、二つ

とも見る人もいないから、合計で一日330人が見ていることになる。

 一つにしないのは、万一の炎上したときのリスク分散のため。 

それにしても100万人とは驚き。それと15年と、9年4ヶ月も。

  * ああ、お金ですか

 誰かの言葉に、『 人々は、お金では貴いものは買えないという。

そういうきまり文句こそ、貧乏を経験したことのない何よりの証拠なのだ 』

がある。学生時代から社会に出だしの頃、自分のお金が手元になかった。

誰ものことだが、金が無いと、希望も夢も、遥か彼方にしか見えてこない。

そして10年、20年経ち、それなりの金額が、資本として見えてきた時、

自分の言葉と、目の前の具体的な夢と自信が見えてきた。貴いものも、貴く

ないものも、具体的な自由を現前に現してくれるのが、お金。問題は、それを

生き金か、死に金にするかである。 それもこれも妄想でしかないなら、

持った上で妄想をみたいもの。

・・・・・・

4785,閑話小題 ー倒産よもやま話 〜?

2014年04月21日(月)

   * 倒産よもやま話(三年目の実感) 〜?

「その直後、気持ちを落ち着かせるため、東京周辺に一週間ほど出たい」と、

弁護士に相談すると、「一番、大事な時。それは問題に対し後ろ向きになる。

苦しいが今は、直面し続けるしかない!」と一喝。そのことは以前から体感して

いた為、納得。問題の中心点を凝視し、立ち向かい続ければ、時間が解決する。

この経験で、身近の経験者のことが、解っているようで実は何も解ってなかった

ことに気づいた。実は、「犯罪者が捕まり、ホッとした気分は、こんなもの?」

という風な、変な安堵感もあった。 現時点では、『人が死ぬって悪いこと?』

と、ほぼ重なる。 バブル崩壊、9・11、9・15、3・11で、時代が根こそぎ

変わってしまった。現在時点の、良い悪いは、表面的な現象。

10年前から、現在に至るまで何が起こった? 身近の天変事変では、中越地震

柏崎沖地震、東北震災。 世界では、数万規模の死者が出た、幾つかの大地震。 

経済では200年に一度といわれるリーマンショック。そして、今後10年で、

その数倍規模?の自然災害、経済災害が、間違いなく起こる可能性が高い現在、

「倒産、廃業が悪」の図式・考えを捨てるべきではないか?というのも、

排除してはならない。その辺は、自分の自頭で考え、判断すべきである。

 その上に、飛躍的なパソコンの携帯の進化で、これまでの現実社会をネット

社会が覆ってしまった。そしてアメリカのルールに習え、のグローバル化

これが、良くいえば創造的破壊という美名の元に始まっている。

その最たるものがTPPである。経済的な日本併合である。それにしても、

国家戦略ゼロの日本の思考能力に暗澹たる気持ちになる。この節目は、やはり

明治維新、太平洋戦争の敗戦に匹敵するか、それ以上の事態。それに、呆気無く、

飲み込まれてしまったのが、この一連から、鮮明に見えている。私のケースは、

事業からの私自身のリストラであり、経済社会からの完全リタイア、排除である。

で、近く避難先で、町を見下ろしている。  

2018-04-15 読書日記 〜‘人生に生きる意味はない!’

[] 06:25 読書日記 〜‘人生に生きる意味はない!’ - 堀井の「居間 客室 読書室」 を含むブックマーク

f:id:horii888888:20180415062509j:image

           <「真理の探究」ー仏教と宇宙物理学の対話

                   佐々木 閑,大栗 博司(著) >

   * 人生に意味がありか、なしか?

 ここで、数多のテーマで取上げてきた問題。‘人生に生きる意味はない!’

とは、身も蓋もない。青春から老いるまで、誰もが考え、悩む問題である。

最期の自らへの問いかけは、『私の人生って何だった?』『何で生まれてきた?』

『生き直せるなら、どんな人生を過ごせた?』 でプツン! それらの問いには

<人生の意味とは何だろう?>がある。

 「意味」の意味を考えるに、近い「価値」から類推すると解りやすい。 

価値観は、その人にとっても、地勢上、国家、人種、宗教によって、当然違う。

それを仏教学者と、物理学者が普遍的な事として語ると、妙に納得する。

 一休の名言がある。

「世の中は、食うて糞(はこ)して寝て起きて、さてその後は、死ぬるなりけり」

小難しく考えることもない。こんなものだが。猿の世界を見ればよい。

  〜Amazon・内容紹介〜

≪ ‘人生に生きる意味はない!’

 大いなる叡智が告げる、この世界の真実

心の働きを微細に観察し、人間の真理を追究した釈迦の仏教。

自然法則の発見を通して、宇宙の真理を追究した近代科学

アプローチこそ違うが、この世の真理を求めて両者が到達したのは、

「人生の目的はあらかじめ与えられているものでなく、

 そもそも生きることに意味はない」という結論だった。

そのような世界で、人はどうしたら絶望せずに生きられるのか。

なぜ物事を正しく見ることが必要なのか。

当代一流の仏教学者と物理学者が、

古代釈迦の教えから最先端の科学まで縦横無尽に語り尽くす。

  〜レビューより〜

≪ 物理学者・大栗博司教授及び仏教学者(仏教者)佐々木閑教授の講演、

 対話などを簡潔にまとめた本である。

 この本では、大栗氏の講演、対話などから、物質の究極が、分子→原子→

素粒子→17種類のクウォーク等に還元されてきた歴史と、現在では17種類

のクウォークすらが超弦理論に還元されようとしている物理学の現状を概観する

ことができるとともに、佐々木氏の講演、対話などから、仏教の概要とブッダ

の述べた思考について概観することができる。

 この本の中で両者が語った内容で、興味深かったのは、次の3点である。

・第1点は、死後の世界はあるか、霊魂は不滅かという問題について、

 両者とも、明確に否定する見解を採用している。

・第2点は、人生に客観的な意味、目的、価値はないことに、両者とも、

 異論がない点である。両者とも、人生の意味、目的、価値は、神や仏が与える

 ものではなく、個々の人が、自らつくっていくものであるという。

・第3点は、自由意思の存否の問題について、両者とも、断定的ではないものの、

 自由意思は、客観的には存在しないであろうが、人の認識の上ではあるように

 感じるものであるという考え方を示している。≫

 TVで見た若者向け映画『リライフ』が、人生の意味について考えさせられた。

大学院を卒業後、新卒で入社した会社を“ある事件”をきっかけに、わずか

5ヶ月で自主退社した27歳の海崎新太。今はコンビニバイトをしながら、再就職

を目指すが、なかなかうまくいかない。そんな新太に、リライフ研究所の所員を

名乗る謎の男が「人生、やり直してみませんか?」と声をかけてきた。

男の言葉に乗せられ、「年齢はそのままに、見た目だけ17歳」になった状態で、

新太は約10年ぶりに、2度目の高校生活を始める。】

▼ 一年後、無事、再生していくが、そこで出会った美少女が、「人生の意味を

 見出せず、自らリライフの一年延長を願い出ていた」ことが、最後に分かる。

「もう一度、全く同じ人生を与えられるとしたら、受けますか?」の厳しい

問いかけがある。大方の人は、「ノー」と答えるそうだが… 父親が、死期を

悟った時に、絞りだすように呟いた言葉、

「今度、生まれてきたら、全く同じ人生を、再び過ごしたい!」

私も、死期を悟った時に、同じ言葉を心の底から絞り出せる生き方をしたいと。

「20歳、30歳代の人生」が非常に満足できただけでも、有難いことである。

 私の人生の意味とは、<「同じ人生を再び!」と思える生き方を貫くこと。> 

 これでも? そのまま結構! 面白かったこと、この上、なかったからね。

大家:まあ周囲の人は大変だよ。

寅:まったくだよ。その毒舌に、どれほど苦しんだか。

熊:「自分のための人生を生きろ!」っていうけど、

 「自分だけのための人生」じゃないか。調子にのって、バカまるだし。

寅:御前が、言えるガラか。でも、大家さんを見ると、ツマラナイよな。

八:少しは反省をしてるけど、じゃあ、如何すれば良かったと思うと、

 『ご覧の通り、そのまま、結構!』と、開き直るしかないね。

 私は私だからね。仕方がないよ。それと、良かった良かったと思えば、

 何事も、感謝できるしね。感動、感激、感謝ですよ。最期はね。

 この三大感情の満足度は、感謝、感激、雨あられ、ですよ。

寅:天上天下唯我独尊じゃないですか。あんたの場合は当然、悪い意味さ。

大家:まあまあ、今日のところは、この辺で、〆ますよ!

・・・・・・

5874,閑話小題 〜朝鮮戦争が現実的に ー1

2017年04月15日(土)

  * 朝鮮戦争が現実にあるのだろうか

 アメリカシリア軍への攻撃で、アメリカによる、北朝鮮への攻撃が想定

されてきた。もし開戦ともなれば、十万、百万単位の死者が出る可能性もある。

戦力として世界四位の力を持つ北朝鮮との交戦なれば、さもありなん。

大統領に相応しくないトランプなればこそ、危ない。朝鮮半島に二隻の空母が

配置されれば、一つ間違えれば、交戦もあり得る。空母には7〜8隻の艦隊が

付き添い、この二つの艦隊に加え、沖縄基地からの攻撃と、集結しているだろう

原子力潜水艦などを考え合わせると、2〜3ヶ月以内に勝負がつく位は周知して

いるはず。ドン様が早々に実兄を葬り去ったのは、それもあっての先手。

交戦ともなれば、ソウル焼け野原になり、百万単位の死傷者が出る。

 2013年04月23日づけの『週刊現代』の記事には息をのむ。

――

≪ ■ 米軍はどう動くのか

北朝鮮情勢が、いよいよ緊迫してきた。 韓国の国防部関係者が解説する。

・「北韓(北朝鮮)は、中距離弾道ミサイルムスダン』の発射を日本海の元山

 から行うなど、東海岸に周辺国の目を向けさせています。

だが攻撃の"本丸"は、あくまでも西海岸(黄海)だと国防部では見ています。

 北韓は、これだけ内外に挑発的な発言を繰り返しているので、何もしなければ、

金正恩の名折れとなります。しかし本当にアメリカと戦争になれば、一溜まりも

ないことは重々心得ている。

 そこで、米軍を参戦させない範囲内で最大限の挑発をする可能性が高い。

それには、首都ソウルに近い西海岸で暴発するのが、一番効果的だというわけ。

 具体的には、西海岸に浮かぶNLL(北方限界線)の南側にある5つの島を砲撃する

のではと警戒しています。NLLは米韓が海上に引いた線で、北韓は認めていない

ので、彼らにとって攻撃の正当性がある。小島くらいの砲撃では、アメリカ

参戦しないという読みもある。実際、'10年11月に、北朝鮮が突如、5島の一角

である延坪島を砲撃した時も、韓国側が泣き寝入りしました」

・前項でやはり「NLL付近が危険」と述べたソウル大学統一平和研究院の

 張容碩博士も続ける。

「北韓は4月9日に、南北和解の象徴と言われた開城工業団地を封鎖しました。

ここは南北軍事境界線まで8kmの距離にあり、元々は朝鮮人民軍の基地があった

場所です。そこへ再度、大量の朝鮮人民軍を配置し、韓国攻撃の拠点にしよう

ということでしょう。北朝鮮との国境付近は、大変危険です」

 実際、38度線に近い韓国京畿道高陽市では、4月1日より「危機対応マニュアル

を市民に配り始めた。「核兵器放射能攻撃時の行動要領」「化学兵器攻撃時の

行動要領」「生物兵器攻撃時の行動要領」など、全10ページにわたる行動指針を

記した、おどろおどろしいパンフレットだ。

――

▼ 自宅から、そう遠くない柏崎に世界最大の原発があるため、8割以上の確率

 の交戦となると、他人事ではない。 狙うなら平和ボケした日本の原子力? 

以前の戦争危機はカーター元大統領が身を挺して阻止したが、「何故、あの時」

の悔いが、右翼勢力に残った。 その右翼が現政権の中核を占めているため、

本格攻撃の可能性が無いとは言い切れない。中国も国境沿いに軍を集結、北への

圧力をかけるだろう。4月末辺りに、その「まさか!」がなければ良いが。

 中国辺りが、取巻きの女たちに亡命を保証し、暗殺か、軍事クーデターを

画策しているのだろうが… 根が深いだけに?        〜つづく

・・・・・・

・・・・・・

5509,閑話小題 〜今年の桜の総括

2016年04月15日(金)

   * 今年の桜の総括

 毎年、恒例になっている福島江と悠久山の早朝の花見に、この時節になると、

飽きもせず行くが、当り年の桜は何度見ても感動する。早朝の桜の花は、朝日の

こぼれ陽が冷気と相まり、神秘的な空気を漂わせる。特に悠久山の通称、

「瓢箪池」を取囲んだ桜が絶品。 子供の頃には、長岡駅から悠久山へ玩具の

ような小さな電車が通っていて、悠久山の花見は長岡花火と共に、市民の二大

イベントになっていた。 しかし、それもとうの昔に無くなり、今では、自動車

で行くのが大勢。元の悠久山駅前から、1キロ近い石畳の参道の両側に桜並木に

なっていた。毎年、家族で行く花見が楽しみで、大きな広場の後ろの高台の

『団子茶屋』で、団子を食べるのが市民の楽しみであった。その参道の石灯籠の

裏側に、江戸時代に献上した、人の名前が記され、生きた証が残っているのは、

そこだけしかないが、確かに生きていた人の確かな証が記されている。

なるほど、名前は小さな物語。冬期間には、子供の丁度よいスキーのゲレンデ

になっていた。 で、今年の桜の咲具合は、上の下=80点辺りか。それでも、

週初めの天気の良かった早朝の桜は絶品に近かった。大当たりは十数年ないが、

この40年間で、数回かあった。

・・・・・・

2003/04/21

散る桜残る桜も散る桜ー2

 ー雨中の花見

 昨日、散歩がてらの悠久山の花見に行ってきた。

毎年のこの時期の恒例の一人花見である。もう十年以上続いている。

他の場所はどうか解らないが、長岡は4~5年に1度があたり年になる。

季節の微妙なバランスが影響しているのだろう。今年は例年並であったが、

満開時期に雨が続いたという点で外れの年と言ってよいだろう。

 午後一番に悠久山に向かって出発したが、小雨がダンダン大粒の雨に

なり、丁度悠久山の参道に到着したと同時に大雨になってしまった。

いまさら帰るわけにもいかないし、とりあえず瓢箪池に行く。

それでも、いろいろな団体がテントの中で「やけ花見?」をしていた。

 雨が桜にとっての天敵ということが散歩をしていて解った。

それまでは大風と思っていたが、雨も桜の花を叩き落してしまう。

最近の桜では6年位前に2~3年に大当たりが続いた。その時に早朝、

悠久山で写真を撮っていると、中年の男の人が話しかけてきた。

「自分はこの近くに住んでいるが、これだけの桜は初めてだ!」

という。それだけすばらしい桜だったのを憶えている。

 ここで桜を見ていると、子供の頃家族で夜きたことを思い出す。

参道の両側に多くの屋台がならんで華やかな雰囲気であった。

もう50年も前のことだ。

 

 花見こそ一期一会である。

吉野とか京都の名所のあたり年の桜は、魂を吸い取ってしまうのだろう。

・・・・・・

2003/04/19

 「散る桜、残る桜は散る桜」

 「散る桜、残る桜は散る桜」は人間の死を一言でいっている。

他人の死も、すぐに自分の死になる人生の無常を喩えている。

この季節の桜の花を見ていると、ものの哀れをつくづく感じる。

桜は生臭い死の臭いがする。

人生の縮図を桜の花に感じるのは歳のせいか?

 今年の桜は[あたり年ではなかった?]が、例年並だった。

2~3日前が近所の桜の福島江の桜が満開だった。

「悠久山の桜」は今日あたりが満開だろう。

悠久山の桜も絶品だ!

5〜6年に一回はあたり年になるが、雪などの季節の要素が微妙に

関係してくる。

 桜は毎年思うことだが、自分の生死を考えさせられる。

以前、桜の精の女に迷って死んでいく侍の映画をみた事を思い出した。

ゾクッとする日本的エロチックの内容であった。

 また7~8年前に近くの従兄が桜とともに自殺をした。

多くの写真を撮り残して。

新潟は桜とともに春が来るという感覚である。

・・・・・・

2005年04月22日(金)

1480, 桜咲くーつれづれに

昨日か今日あたりが長岡の平地では満開である。

もう散りかけてもきている所もある。

近くの山は大よそ一週間おくれになる。

何でも咲きがけか蕾のころがよいものだ。

満開で散りかけも良いが、何か心さびしいものがある。

近くに福島江という桜の名所があり、この時期の楽しみになっている。

車で10分ほどの悠久山の桜も良い。特に豪雪の年は良い桜が咲く。

家内は如何いうわけか「桜が好きでない」という。

「どうして?」と聞いても解らないと言う。

「すぐ散るからじゃないか」と言ったら、

「恐らくそうじゃない」と答えた。

私は、すぐ散るから気にいっているのだが。

10年に一度位は大当たりになる。

悠久山などで早朝に見ると、思わず息を呑むような神秘的な

光景を目にすることが何度かあった。

一瞬の艶めかしい雰囲気が漂っている。

全国的にみたら、無数に名所があるのだろう。

サロンに、時々訪ねてくれる井上さんの桜の写真も楽しみだ。

現場で見る桜は、写真では表現できないほどの濃艶な妖精が

無数に漂っているのだろう。

先日の日経新聞の最後のページの「文化欄」に作家の山本一力氏が、

吹かずともと言う文章を書いていた。

桜の花と、人の引退時を重ねて書いていた。

ー引き時に迷ったら、桜に教わればよいー

今週の長岡は、桜の週である。

庭の梅の花も散り始めてきた。

近くの川に鴨の姿がチラホラ見えてきた。

本格的な散歩が、この時期から始まる。

・・・・・・

2006/04/20

1843, 桜の話

               才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)

近くの福島江の桜は昨日・今日が満開である。

「花」と言えば桜を意味するくらい、桜は日本人にとって特別な花である。

今年の花便りだと桜の当たり年のようだ。

私のHPに投稿してくれる井上さんのHPも、

桜の花が多い。

長岡にも幾つかの桜の名所がある。

自宅から数分のところにある、福島江の桜と、悠久山の桜だ。

毎年、開花を楽しみにしている。

5年に一度は大当たりの年になるが、

今年はその年か如何か?

桜をぬきにして日本人の自然観や人生観を語ることは出来ない。

文学・能・歌舞伎・絵画のどれをとってみても、

桜は大事な役割を果たしている。

日本人の考え方や生き方を表しているとも言える。

春になると「桜前線」が、天気予報のように、

(今どこが満開かと)放送される位だ。

十数年前の話になるが、私の近くに住んでいた従兄弟が

桜の散り際を待っていたように「自死」をした。

その納棺の儀式の時、桜吹雪が部屋の中に吹き込んできた。

ゾクッとするような不思議な体験であった。

5月3日に、その法事に行くことになっている。

         (*^ー^)/C□~~ コーヒーいかが?

               

ー幾つかの花に関する和歌・俳句を

   HPからコピーしてみた。

世の中に たえてさくらの なかりせば 春の心は のどけからまし

                    在原業平

ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

                    細川ガラシャ

人はいさ 心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂いける

                     紀 貫之

こえぬ間は 吉野の山のさくら花 人ずてにのみ ききわたるかな

                      紀 貫之

みよしのの 山辺に咲けるさくら花 雪かとのぞみあやまたれける

                      紀 友則

色見えでうつろうものは世の中の人の心の花ぞありける

                     古今和歌集

願はくは 花の下にて春死なん その如月の望月のころ                        西行

吉野山 こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき

                         西行

浮世には 留め置おかじと春風の 散らすは花を惜しむなりけり

                         西行

仏には 桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば

                         西行

吉野山 梢の花の色々に おどろかれぬる 雪のあけぼの

                     太閤秀吉

咲く花を ちらさじと思うみ吉野は 心あるべき春の山嵐

                     徳川家康

花咲くと 心にかけず 吉野山 またこむ春を 思いやるにも

                      前田利家

花にねて よしのや吉野の吉水の 枕の下に石走る音

                     後醍醐天皇

吉野山 陵ちかくなりぬらん ちりゆく花も うちしめりたる

                     昭憲皇太后

まだ咲かぬ 花のあかりや 蔵王堂     芭蕉                

古寺に 誰が植え捨てし 花一       芭蕉

妹が垣根 三味線草の 花咲きぬ      蕪村

そのくせに 花はくれない 人は武士    古川柳

難波津に 咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花

                     古今集

こち吹かば 想いおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ

                     菅原道真

さくら さくら やよいの空は 見渡す かぎり

かすみか くもか におぞ いずる

いざや いざや 見に ゆかん

 ーー

 桜は死の匂いがする。

 一瞬にして咲いて散るからである。

 それが、また良い! 

今朝は強風が吹いている。

 こういう日の強風は、

 何か腹立たしくなるものだ。               

                 ε(´',_c')зβyё☆βyё

・・・・・・

2005/04/22

1480, 桜咲くーつれづれに

昨日か今日あたりが長岡の平地では満開である。

もう散りかけてもきている所もある。

近くの山は大よそ一週間おくれになる。

何でも咲きがけか蕾のころがよいものだ。

満開で散りかけも良いが、何か心さびしいものがある。

近くに福島江という桜の名所があり、この時期の楽しみになっている。

車で10分ほどの悠久山の桜も良い。

特に豪雪の年は良い桜が咲く。

家内は如何いうわけか「桜が好きでない」という。

「どうして?」と聞いても解らないと言う。

「すぐ散るからじゃないか」と言ったら、

「恐らくそうじゃない」と答えた。

私は、すぐ散るから気にいっているのだが。

10年に一度位は大当たりになる。

悠久山などで早朝に見ると、思わず息を呑むような神秘的な

光景を目にすることが何度かあった。

一瞬の艶めかしい雰囲気が漂っている。

全国的にみたら、無数に名所があるのだろう。

サロンに、時々訪ねてくれる井上さんの桜の写真も楽しみだ。

現場で見る桜は、写真では表現できないほどの濃艶な妖精が

無数に漂っているのだろう。

先日の日経新聞の最後のページの「文化欄」に作家の山本一力氏が、

吹かずともと言う文章を書いていた。

桜の花と、人の引退時を重ねて書いていた。

ー引き時に迷ったら、桜に教わればよいー

今週の長岡は、桜の週である。

庭の梅の花も散り始めてきた。

近くの川に鴨の姿がチラホラ見えてきた。

本格的な散歩が、この時期から始まる。

・・・・・・

2567, 閑話小題

2008年04月14日(月)

  *桜咲く

 今日現在、桜が満開である。三分咲き、六分咲き、七分咲き、そして満開と

自分の人生を開花の中にみる。毎年、同じ桜でも気持ちが新たになる。短時間

に咲いて散るから心を打つのである。一日ごとに、それぞれの姿を見せてくれる。

そして今日あたりから一日一日と散っていく。通勤途中だから、それがよく

見える。散るのもまた良しの気持ちにはどうしてもなれない。 

2018-04-14 閑話小題 〜加山雄三とヨット −2

[] 06:06 閑話小題 〜加山雄三とヨット −2 - 堀井の「居間 客室 読書室」 を含むブックマーク

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   * 加山雄三、ヨット全焼で何を思う?

寅: 悲しいだろうにな〜

八: いや、そうでもないと思うよ。保険にかかってるかどうか、下りるかの

  問題ですよ。自分が会社整理をして綺麗サッパリと割切れたのも、万一を

  考えて保険かわりに家内名義の預金をし続けていた前提があればこそ。

大家: この一件で、もう一つや二つの歌詞とメロディーが出来てヒットでも

  すれば、不幸中の幸いになりますよ。

寅: 歳が歳だから、前のように簡単につくれないよ。でも、あの面構えから

  して、もう一艘、購入して、最期の墓場として海遊びツアーでもするさ。

  幸せな奴は、何があってもバネにして幸せになるさ。それが男だろう。

熊: まさか、万歳!と諸手を挙げられないしね。でも、本心は、誰も、いや

  自分さえ分からないからね。

八: 気力が萎えて落込むのが、一番心配だね。今頃は、中古か、サラのヨット

  の資料を探しているかだ。幸が多きい人間は、そういう考え方をするんだ。

  世の中には、それを妬む、不幸な奴がいるから、隠密裏だろうけどね。

大家: わしなんぞ、甲斐がないから妬む方の部類になるがね。それにしても、

  羨ましいよ。遊びと、仕事が、両立しているんだから。過っての印税も

  入ってくるからね。私なら、大型クルーザーに乗って、ノンビリして

  いた方が気楽で良いけどね。そんな金もないがね。

八: 私なんぞは、寝室に4k・TVを入れてね、世界各国をユーチュブの映像で、

  遊ぶくらいですよ。でも、それが面白いから、カウチポテト族そのもの。

  早速、<4k、金沢ひがし花街>で映像を楽しんだけど、実に良かった。

熊: ったく! 楽しみを二倍三倍にしてしまうんだからな〜。

八: 大家さんと同じく、老い先が短くなって来たからね。

寅: 八つぁんは、俺と熊と違って、さほど加山雄三を羨ましく思ってない

  ようだが。如何して?

大家: 好きなことの幾つかを年月かけて楽しんでいたからですよ。

  そうすると、内なる世界があって、他人の世界と比べなくなりますよ。

八: 最後の最後は、自分の行蔵しか残らないもの。金沢バスツアーをキッカケに

  20歳代半ばの行蔵が多く思いだされたしね。それと、好きな非日常を味わえ

  たしね。また桜の時節も、花見という非日常を楽しんでいるし。

大家: 人間、感情の動物だもの、そう簡単に割切れないですよ。

八: ここで至高体験の絶対量が問題になるの。彼は、それは信じられないほど

  の経験があるから、行蔵の内側は宝庫の山さ。そんなチャチなものではないよ。

熊: 人間って、不平等過ぎないか。普通、良いこと2に悪いこと1、って

  言うけど、俺の場合、真逆で、1対2の感じがするね。

八: そんなことはないね。なら鬱病で、病院通いさ。私が見る限り、2対1さ。

熊: なら普通だ。

大家: 近くに私と八つぁんが居るからさ。それと楽しみに長けている寅さんもね。

  それも、死んでしまえば、ハイ、それまでよ。何も持っては逝けないしね。 

  後期高齢者の身には、一日一日を楽しむしかないね。

八: <笑って過ごそう、ハンカチーフ!> ですか。泣いても笑っても同じ人生

  だもの。泣くも良し、笑うも良いだと、つくづく思うよ。

寅: それにしてもさ、娑婆には、つまらなそうな老人が多いね。

大家: そりゃ、生老病死の問題が色濃くなって、身体は日ごと弱って、

  周辺は次々に亡くなり、内面は穏やかじゃないよ。

八: 問題は、横の顔色ばかりみてさ、笑いものにする腐ったような奴ら…

大家: 「早く死にな!」と、思うが、あれじゃあ、当分は死なないね。陰口、

  悪口のオンパレード。私も、そう思われているし、現にそうだろうがね。

八: 今回の金沢ツアーの帰路の車内で、キミマロの漫談のDVDを流していたが、

  年寄りの悪口が、冴えわたっていたが、途中でハッとしたね。28人の参加だが、

  私が一番の御年寄り。自分の姿を笑っていることに、途中まで気づかないとは。

大家: まだ八つぁんは、私より10歳近く若いけど、80歳の峠は、それはキツイよ。

  キミマラ、いや失礼、キミマロも、年寄り弄りだったのが、自虐ネタの年齢

  に入ったためか、それはそれは、漫談ネタの毒が重苦しくなってさ。

八: そうだ、加山雄三の話に戻そう。失えばこそ、見えてくる己の人生を

  味わるのも、これも人生。どのみち、生きている内の泣き笑い。加賀百万石の

  金沢を46年ぶりに振返ってみて、その折々の「いま、ここ、わたし」と再会し、

  自虐の漫談を味わいつつ、現実に溺れつつある日常の中からドロップしながら

  日々を過ごしている自分との対話も悪いものではない。

大家: おやおや、丁度よく話を、まとめましたね。

 ・・・・・・

3670, 節目どきに ー5

2011年04月13日(水)

  * 娑婆には知らないことばかり

 先日、最近できたSC内のスポーツジムの施設を見学に行ったところ、

10時のオープンに50人位の行列。「プール関連の新しいサービスが開始

されるため」というが、今どきに、あの熱気は凄い。館内設備の案内をして

もらっていたら早速、小中学校時代の同級生に声をかけられた。

「よう、八ちゃん、入れって!」だと! 時が時だけに「まずい!」と

思ったが・・ 何を今さらと気を持ち直して一時間ぐらい見学をしたが、

成るほど人が殺到するわけである。ここは契約時間内なら何時間いてもよい。

家内の新潟在住の知人は駅南のスポーツジムに、日中5時間も行っていると

聞いていたが、成るほど合点がいった。家内の、別の新潟の友人は、二つのジム

に入っていて、交互に行っているとか。家にいるより快適で、金がかからない

上に、主婦にとって癒しの場。漫画喫茶のパソコンとTVの替わりに、

ウォーキングマシーンなどを入れかえたスポーツ用レジャー施設である。

平均年齢が女性の方が5歳以上も多いのが分かる。 風呂・プール関連、

ウォーキングマシーン・サイクリングマシーン、エアロビックスのプログラム

そしてマッサージ機の4本が柱になっている。考えた末に、10〜17時の

平日コース(金、日、祭日 休み)に入ることにした。 月15回行くとして、

一回につき400円なら価値は充分にある。 これと市営の福祉センター内の

運動ジムと、図書館が当面の日中の外部空間になる。考える時間が多く

なった分、身体を動かさないと! 

・・・・・・

5872,トランジション 〜人生の転機に、トランジション理論 〜6

2017年04月13日(木)

  * 30歳辺りが最大の転機というが

 ・この論の中で、人生最大の転機を「30歳」としている。

責任と権力を持ち、力量を問われる究極の時節。目の前に次々と現れ出る

難問を一つずつ解決する日々。振りかえみれば成る程、30歳は人間として、

真に独立する分岐点である。孔子は15歳で学問の道を志し、自分なり学問の

基礎を築いたのが30歳。彼も20代は、まだ学びの只中であった。

 ・高校を卒業をし、地元から大学、就職、創業と12年近く県外で携わり、

30歳直前に実家の衣料量販店にUターン。何も知らない事業を、一つずつ、

出たとこ勝負で解決をしていたが、鞘から抜身の真剣で立ち向う感覚で、

何とか切り抜ていた。 真剣なればこそ、幸運が寄り添ってくる。 

 終戦直後、両親の必死に働く背中をみて育ったこともあり、20歳で創業を

目指す志をたて、その10年後の30歳が一番の転機といえば、そうである。

血相を変えて、一日一日を熟すしか手立てはない。そして30歳代半ばで、

本番の創業に向かうことに。

 20歳の創業の決意。27歳の父親の死と千葉郊外の創業。30歳時のUターン。

34歳の独立。46歳の?。51歳時の母親の死。そこで、還暦までの9年間で、

余命30年分を濃縮して生きると決意をし、その実行。最後は、何匹かの

ブラック・スワンの到来の結果、65歳で事業清算。その歳代の基点が30歳と

すると、納得できる。私の場合、35歳でもよいが。「節目を打て」というが、

準備万端の上で打ってこそ、「予定挫折」の良い節が出来ようというもの。

背骨は幾つかの骨が節で繋がって出来ている。「背骨を立てよ」というが、

人生にとっても、問題は、その節目と、骨の鍛錬と、栄養が必要である。

18歳からの腰痛持ちで、何とか、この年齢まで辿り着いた。今は何とか週4回

のヨガで持ちこたえているが… 

 落語の御隠居と八っん熊さんの掛け合い。御隠居目線の現在の私から

見えてくる過去の姿が、まさに八っあん熊さん、そのもの。 笑えるが、

もの哀しくもある。まだ笑っていられるから、救いがあるのか?

 「無知は罪」というが、これだけは、器量で決まる。

石ころの大きさを競っても、所詮は砂利でしかないか… 当人は必死だが。

・・・・・・

4410, 夫源病と妻源病

2013年04月13日(土)

 昼のワイドショーで、ゲストの医者が「最近の病の原因が夫婦間のイザコザ

が多い」という。それについて何人かの主婦や、夫に街頭で互いの不満について

インタビューをしていたが、その殆どが我が身に当てはまる内容。驚いたのは、

「それでも旦那を愛していますか?」という質問に、イエスと答えたのが20人

いた番組の参加者の僅か5名。キャスターは唖然。そんなものだろう、夫婦は! 

  ーそこでネット検索で「夫源病」を調べるとー

≪ 最近の病の原因を探ると、妻は主人への不満を語り出し「夫源病」と診断

 されるケースが多い。夫の言葉や行動に対する不平や不満がストレスになり、

妻の身体に更年期のような症状がでてしまう。まずはコミュニケ不足と家庭内の

役割分担がうまくいっていないことが問題、と言われる。家庭の主婦がおこす

病名として、大阪大学大学院医学研究科の准教授・石倉文信先生が名付けた病名。 

夫源病の症状として、原因不明の不定愁訴や強い耳鳴り、横揺れのめまい、

激しい頭痛、のぼせ、ひどい肩こり、全身の痛み、動悸、息切れ、呼吸困難、

不眠などがある。妻の置かれた状況を察しない夫への日々の小さな不平や不満

が、脳の視床下部(自律神経やホルモンのバランスを司る部位)にストレス

かけ続け、次第に自律神経がバランスを失い暴走し、色々な症状をおこす、

と考えられる。その夫源病の対策として、感情を爆発させる、秘密を持つ、

プチ家出をする、などがある。≫ 

▼ 夫も同じで、モンスターワイフのストレスの「妻源病」が増えている。

 以前からあったが、こういう病名が付けられると、互いに我慢していた夫婦

の亀裂が更に大きくなる。 中国で巣立った後の家庭を「空巣家庭」という。

また英語には、「Empty nester」という言葉がある。ヒナ鳥が巣立った後の

「空っぽの巣」 を守る親鳥に喩えて子供が育った後の親の事を指す。日本中、

団塊の世代が定年を向かえ、空の巣で「妻源病」「夫源病」が向き合い、互い

の首輪の紐を持ち合い、引っ張り締め付けあう。とはいえ、状況からして

今さら離婚も無理。さらにリタイアによる収入激減が、不満に火をそそぐ。

多かれ少なかれ、何処の空巣でもバトルがある。

で、やはり強いのは大方は御夫人の方? 

・・・・・・

5507,恐竜と人類どっちが凄いか ー�

2016年04月13日(水)

            〜文芸春秋オピニオン。2016年の論点100〜

              〔国立科学博物館 海部洋介〕より

 人類誕生からの人類史について、ここでも何度か書いてきた。

以下は、その復習であり、簡略にまとめてある内容。その一端として私の

70年の人生を生きたが、生命史からみれば、僅かな一端でしかない微小の

己の立ち居地を垣間見ることが出来る。20億年の生命と、700万年の

人類の生命の歴史の上に、我々は存在している。

  * 地球全体に広がり人生を謳歌する人類は凄い 

≪・人類の未来というと、どうしてもネガティブな話になりがちだ。

 現代社会には、終わらない紛争、貧困、環境破壊と暗い話題がいくらでも

あるから無理はない。しかし人類が現在の繁栄に至った道を、文明史を

越えて進化の次元で辿ると、我々のとてつもない過去が見えてくる。

・人類は誕生から700万年の歴史しか持たない、自然界の新参者だ。

恐竜からみれば、この数字はまったくとるに足らないだろう。しかし

数字の大きさが全てだとは、私は思わない。

・初期の人類は、アフリカにしかいなかった。誕生から500万年もの間、そうで

あった。やがて185万年前以降に、原人や旧人のグループがユーラシアの低〜中

緯度地域に広がったが、5万年前まではそこが限界だった。

・激変が起こったのは、それからだ。アフリカで進化したホモ・サピエンス、

つまり我々の種が、大拡散を開始したのである。一部のグループは、海を越え

無人のオーストラリア大陸へ辿り着いた。 別のグループは、冬期の気温が

マイナス30度を下回るシベリア奥地に人類として初めて進出。やがてアラスカ

へ渡る陸橋をみつけて、無人のアメリカ大陸へ広がった。もう少し時代が下る

と太平洋へ乗り出す者が現れ、この広大な海洋世界に散在するほぼ全ての島が

植民された。体格や体力でみれば決して自然界の強者ではない人類が、こんな

ことを成し遂げたのである。生物進化史の尺度からみれば、一瞬とも言えるほど

の短期間で。その旅路には、恐竜が経験しなか三酷寒の地、海、砂漠、高山など

様々な自然障壁が待ち受けていたが、彼らはそれを越えた。

・そのとき人類は、身体が新慨境に適応進化するのを待つのでなく、他の生物

がやったことのない新戦略をとった。技術を創造し、継承.発展させたのである。

衣服、住居、移動手段としての舟などを生み出し、火の管理や食料心存法を

開発・改良する行動的柔軟性がホモ・サピエンスの大拡散を可能にした。

・かつての世界には、ジャワ原人、フローレス原人、ネアンデルタール人など

の異なる人類が共存していた。その多様性は今では失われ、現在いるのは

ホモ・サピエンスだけとなった。しかしその幅が、世界中にいる。

世界のどこに行っても、我々のなかまに会える。当たり前すぎて気づかない

かもしれないが、これは自然界の常識からかけ離れた、異様な状態なのである。

私はこの異様さこそが逆に人間の凄さであると思う。≫

▼ 生物は己を環境の変化に合わせて変えてきたが、人間は、環境を己に

 合わせて変えてきた。牧畜と農業と住居。そして村と都市。それを統率する

権力者と、その同調者たちと、その奴隷化され搾取される3分の2の従属者。

権力者3%、同調者30%、従属者67%の比率は、ギリシャの時代も、現代

アメリカ社会と全く変わってない。表立ってないのは、ただ、オブラートに

包まれているだけのこと。とはいえ、この環境を人間に合わせて作り変える

仕組みも、そう長くは続かないことがハッキリしてきた。で、偶然だが、

以下につづく。

・・・・・・

4036, 一時停止 ー2

2012年04月13日(金)

         「一時停止」 谷川俊太郎ー自選散文ー1955〜2010

  * 昼と夜  ー ある感受性のプログラム 1955年5月 ー より

≪ 私「それで、あなたは、昼と夜とのどちらをお選びになるのですか。」 

 詩人は目を地に落としたまま答えた。「私は両方を選ばねばなりません。

私は詩人ですから。しかしあなたは昼を選ばなければいけない。あなたは

詩人ではないのだから。あなたは夜、眠ることが出来るのです。そうです、

人間はみんな夜、眠らなければいけないのです。眠りこそ最も知恵深い

行いなのです。」 私「あなたは昼も夜も眠らないのですね。」

詩人は答えなかった。 私は詩人の深い孤独を思わずにいられなかった。 

その私の気持を見ぬいたかのように詩人はいった。「しかしそれが運命なら

詩人はそれを不幸とは呼ばないでしょう。どんな不幸であろうと、それが

言葉になった時、詩人は幸せなのです。その時彼は人間になれるのです

「だから。詩人の本当に怖れるのは言葉になり得ない不幸なのです。」

その時、すべての夜が詩人の中に集ったかのようであった。 私たちは

黙って立ち上り、歩き出した。夕暮が近づいていた。詩人「こんな日は、

ぼくはかえって気楽なんです。どうも曇りの方が晴れよりも人間的な

ところがありますね。 ぼくは天を見ずにすみます。だからぼくは人間

の中にいられます。ほんとうに雲ってやつは、大気や水が無ければ出来ない

んだから、それだけでもどこかわれわれに親しいような感じがしますね。」 

私「で、あなたは今、昼を選んでいらっしゃるというわけですか。」 

私の問は半ば冗談だったのだが、彼の顔は生真面目であった。 

詩人「そうもいえるかもしれません。 しかし詩人は昼を選んでいる

ように見えている時でも、決して夜をあきらめてしまっているわけでは

ありません。また逆に夜を選んでいるように見える時でも、決して昼を

諦めているわけではないのです。」≫

▼「どんな不幸であろうと、それが言葉になった時、詩人は幸せなのです。

 その時彼は人間になれるのです。だから詩人の本当に怖れるのは言葉に

なり得ない不幸なのです。」 言葉になり得ない不幸が夜という言葉に滲んで

いる。谷川のいう言葉は、言霊である。「不幸も言霊になった時、それも

夜半の闇の中で熟成して生まれ出ると、不幸が不幸でなくなる」のである。 

夜半に目がさめ、色いろ考えが吹き出てくる。それはマイナスが多い。 

詩人は、そこで多くの想いの中で、葛藤し言霊を生み出すのである。

・・・・・・

5142,知の逆転 〜�

2015年04月13日(月)

                ー知の逆転ー

  * 帝国主義の終わり ーC  (民主主義の限界と、ネット)

              対談相手 〜ノーム。チョムスキー

 帝国主義の限界が見え始めてきたが、まだ当分の間は続いていく。

新しい時代に入り世界の枠組みが激変を始めた現在、民主主義も

限界にあるようだ。  〜インタビュアーの質問に

≪ ー侵略者はいつだって、気高い志に燃えているー

 もしブッシュをインタビューして、真実についてどう考えるかと聞いたら、

おそらく真実は素晴らしいもので、自分は真実というものに挺身するつもりと

いうでしょう。ヒョッとしたらヒトラーも同じように・・ 

アメリカ南部の奴隷所有者たちも実際かなり的を得た論理を重ねていた。

  ー民主主義の限界ー

 アメリカ世界中で最も自由な国のはずだが、国内に力の不均衡がある。

情報システム、メディア、広告などが、ほんの一部の手に集中している。

巨大な力を持つアメリカの企業は、地球温暖化というのは根拠のない仮設

に過ぎないと、大衆の説得を試みていて、しかも成功しつつある。

人為的な理由による地球温暖化を信じているのは人口の3分の1にすぎない。

先の(2010年)中間選挙で当選した共和党の大部分は、温暖化を否定。

共和党の主要委員会の若いリーダーは、「そんなことを神が許すわけがない。

神が許すわけがないことは存在しない」と言ったのです。

  ーインターネットなどの垂れ流しの情報は、情報がないのと同じー

 生物学者が、ハーバード大学の図書館にある全ての論文を読んだところで、

ほとんど何の役にはたたない。 生物学でノーベル賞をとるような人は、

論文を片っ端から読むような人でなく、何を探すべきか、何が大事か、

ということがわかっている人です。だから、こちらで大事なことを拾い、

あちらで大事なことを拾うという風に働く。・・・

 世界事情も同じで、何が必要か知っておく必要がある。そのために、

理解あるいは解釈の枠組みというものをシッカリと持っていなければ

ならない。これを個人で獲得するのは大変で、機能している教育制度や

組織が必要だし、他の人たちとの交流が必要になる。ちょうど科学分野の

大学院のようなものです。≫

▼ 世界の富の半分は、およそ80人が所有するという。グローバル化が、

 そのために大きな力に働いている。イスラム国は、それに対する抵抗

勢力とみると、その意味の一端が見える。アラブやアフリカの国は、

欧米の都合によってつくられた人工的国家であり、元首はポチと見做す

のも、一理ある。そして、日本の保守本流も、そう見ると肯ける。

・・・・・・

4777, 閑話小題 ー消費税3%値上げの実感

2014年04月13日(日)

   * スタップ細胞の真偽について

 世紀の発見といわれたスタップ細胞の存在の真偽問題で、小保方リーダー

の記者会見がライブでTV放映をされた。理化学研究所のトカゲの尻尾切りで

終わらせようとした目論見は失敗。冷静にみれば、やはり小保方氏に問題が

あったとみるしかない。200回もつくったなら、期限を決めて201回目を専門家

を総動員してやればよい。共同研究者の上司が降りたことからみても、疑われて

仕方がない。世界的な大問題になった中での、彼女の会見の受答えには驚いた。

本人が撒いた種としても、問題が表沙汰になってからは地獄だったろうに。

彼女が醸し出ている怪しげな雰囲気が、ドラマ仕立てに妙にピッタリである。

「傷口が膿んだ後に皮膚が再生するのだから、それらしき何かがあって

然るべき」という専門家がいたが、いやに納得させられた。

   * 消費税3%値上げの実感

 毎週、木曜日のスーパーのシルバーディに酒とツマミなど一週間分を

買い込む。で、先日の値上げの実感といえば、思いの他、大きいというのが

実感。他の値上げを加えた家計は、これでは大きく響くはずだ。私にとっては

酒を控えるチャンスにもなる。ウィスキーの水割りと黒ビールの二本を、

350mlのノンアルコールビールと、黒ビールの二本にすればよいが。つい売場

で、他に日本酒かウィスキーのボトルに手がいってしまう。この値上で、電化

商品とか車などの売上が、駆け込み需要の反動で激減しているが、ファミレス

とかコンビニは、影響が少なそうだ。 年金だけが収入の我家。家内の買物

行動をみていても、異常なくらいシビアになってきたが、何かゲームを楽しん

でいるふう?これでは当分は、さらなる消費の落ち込みになる!それと価格に

転嫁の難しい中小企業も、厳しい事態である。世界的株価の暴落の可能性も

膨らんでいる現在、危険な日々が続くことになる。「10年前から今日まで、

何が起こった?」そして、「今後10年間で、同じレベルか、それ以上のことが

今後起こるとしたら、それ何?」とすると? それより我身の存在?

・・・・・・・

3305, 金の価格は談合で決まる!って本当 ? ー2

2010年04月13日(火)

 ハイパーインフレへの対策は、少しは金でヘッジをすべきと思っていた。

前回のレポートからみて、投機、投資の世界は、私たちの窺い知れない世界。 

金融シンジケートの手中にあるようだ。そのうえ、国家が金を吸い上げようと

思えば、朝飯前。利益に8割でも9割でも税金を賦課すればよい。その結果、

金売りが殺到し暴落する。その後、政府が買い上げた上、その法律を元に戻す。 

一般の国民は、一時的の収益があっても中長期の利益を上げ続けることなど

不可能である。アメリカの金融占領国の日本は、そのコントロールから抜け

出すことは出来ないのが現実。近々に為替か株式かで、乱高下が起こるはず。

金は世界共通通貨である。ネズミ溝システムの米英通貨体制とすると、

ドル体制を守るために金の価格をコントロール下におくのは当然。金が真実で、

ドルを虚偽と仮説すると、ドルを発行するアメリカは、金の価格を可能な限り

下げておく必要があった。 しかし借金棒引きために、数十年かけて静かに

買い集めたゴールドを、今度は暴騰させドルの価値を下げる必要性が出てきた

のである。ドルの下げはアメリカの対外債務が大きく減額される。1〜2年か

遅くても3〜5年後には金の暴騰を中国などと組んで仕掛けてくる。と同時に

デノミなどを世界中が一斉に実施するだろう。その前に金融シンジケートは

何度かは大きな株や債権の上げ下げをしながら、売りだされた金などの現物

商品を買いに入る。だから、5〜10年スパンの長期保有の覚悟があるなら、

金は買い。「世界は、ごく一部の人たちによってコントロールされていて、

99パーセントの人たちは、彼らに搾取されている」という、眉唾的な本を

度々見かけるが、一連の恐慌謀略説など、あれは本当だったのかと考えざるを

得なくなる。G7の首脳を動かしている力の存在は、当然、存在している

はずである。今更何をいっているかだが!

2018-04-05 閑話小題 〜遊びについての断章

[] 05:51 閑話小題 〜遊びについての断章 - 堀井の「居間 客室 読書室」 を含むブックマーク

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           <「群れるな」寺山修二著>

 昨日、「加山雄三とヨット」のテーマで、遊びについて書いたが、手元に

図書館から借りて積上げてある10冊の本の中に、『遊びについての断章』が

あった。これまで「遊び」について繰返しテーマにしてきた。

 「遊べるうちに遊んできなさい! 直、泣くときが来るんだから!」と

諭され、数十年が経つ。確かに切ない場面が多々、あったが、その数倍、

数十倍、楽しいことがあったのが実感。遊びの価値を両親の後ろ姿に

学んだことに加え、学生時代に味わっていたこともある。

      

   * 『遊びについての断章』 

       ー人生は遊びながら年老いて行く―

  ‘JRA’のCMのために書いた原稿。

実際に使われたものはこれからの抜粋である。

このCMのなかでの寺山は得意の肩かけコートで町をあるき、府中のスタンドを

バックにたたずむ。その後ろであの独特の語り口でこの断片を朗読していた。

 

――

かもめは飛びながら歌をおぼえ

人生は遊びながら年老いてゆく

   *

遊びはもうひとつの人生である

そこにはめぐり逢いも別れもある

人は遊びのなかであることを思い出し、あることを忘れ、

そしてあることを捨てる

   *

人はだれでも

遊びという名の劇場をもつことができる

悲劇 喜劇 活劇 メロドラマ

そこで人は主役になり、同時に観客になることもできる

   *

ぼくは人力飛行にあこがれていました

飛行機はただの道具にすぎなかったが、飛ぶことは思想でした

ぼくあ大空を見あげて思いました

プライバシーなんかいらない

フライバシーがほしい、と

遊ぶことは 冒険することであり、

ためすことであり、知ることだったのです

ぼくは「運の悪い女」がきらいです

なぜなら「運の悪い女」には、人生が一つしかないからです

遊びは、不運な人たちにも

「もう一つの人生」があることを教えてくれるのです

だからぼくは、いつでも自分に掛ける

   *

どういうものか「誰が故郷を思わざる」という歌をうたうと、

ツキがまわってくるんです

はじめて競馬場へ行ったとき

はじめて玉突きを覚えたとき

はじめて女を口説いたとき

だからぼくは

皆で一度、一緒に唄ってみたらいいんじゃないかと思っているんです

政治の悪い時代には、「誰が故郷を思わざる」でも唄ってみる

そういうもんじゃないのかな、遊びなんて

   * 

人生が終わると、遊びも終わってしまう

しかし、遊びが終わっても人生は終わらない

遊びは何べんでも終わることができるから、何べんでもやり直しができる

出会いと別れのくり返し

そこが遊びのいいところなんだね

   *

人生では敗けられないが、遊びなら敗けられる

そして敗けを知ったものだけが味わえる風景というものがある

「誰が故郷を思わざる」なんて唄は

競馬をやったことのある者にしか、味わうことができない唄ではないだろうか

   *

人生が、いつばん安上がりの遊びである

死が、いちばん高くつく遊びである

   *

遊びは、人生の時刻表である

人はそこに立ち止まり、自分の乗る汽車をえらぶ

人生は汽車である

旅をしながら年老いてゆく

   *

遊びは不幸な人間の第二の人生である

遊びは不幸な人間の第二の魂である

   *

人は誰でも、もう一つの人生をもつことができる

それは遊びである

ドストエフスキーは言っている

「一杯の茶のために、世界など滅びていい」

   *

夢の中で無くしたものを

目がさめてからさがしたって見つかる訳はない

現実で失くしたものを、夢の中でさがしたって見つかる訳はない

人は誰でも二つの人生をもつことができる

遊びは、そのことを教えてくれるのです

▼ 個人のHP内の検索で調べると、次々と出てきた。

 まあ真面目に遊びながら書いだこと。


・・・・・・

2688, 「エリック・ホッファーの 人間とは何か」

2008年08月14日(木)

                   −読書日記−

 ー遊びをせんと生まれけむー

亡き佐治敬三氏がサントリーの会長だった頃(1995年頃)、

口ぐせのように言っていた言葉に「美感遊創」がある。

・「美」は、羊が大きいが語源。大きく艶やかな羊の美しさを表わしている。

美に感応する心である。

・「感」は、 感性、感動、共感。 旅に出て自分の世界の外に出会って感動したり、

  絵画、音楽、映画、演劇などに感動することが人生を豊かにしてくれる。

・「遊」は、神代の昔から人間にとって一番大事なこと。 

「遊びをせんとや生まれけむ」と「梁塵秘抄」にあるように、人間は「ホモ・ルーデンス」。

  遊ぶことで人間性を回復し、活力を得る。遊び心。

・「創」は、新しい断面、局面を切り開いて、個性のある創造をすること。

一瞬の新しいものへのシュンパツ力。 以上だが、この4つが人間の心の豊かさの要素。 

確かに、人生はこれを磨くプロセスであった。この中でも、「遊び」が、

人間にとって最も有用な行為になる。

「エリック・ホッファーの 人間とは何か」という著書に、

 遊びについて次のように述べている。

《実用的な道具はほとんどすべて非実用的な関心の追求や暇つぶしにその起源がある。

最初に家畜化された動物ー小犬1は、もつとも役に立つ動物ではなく、もつとも遊び

好きな動物であった。猟犬が出現したのはかなり後のことである。最初に家畜化された

動物は子供たちのぺットであった。おそらく,植物栽培と灌漑も、初めは遊びとして

行なわれたのである。 車輪・帆、煉瓦なども遊びの中で発明された可能性が強い。 

たとえば、南アメリカのアステカ人は車輪を使わなかったが、足の代りにローラーを

つけた動物の玩具をもっていた。装飾が衣服に先行した。弓は武器となる以前は楽器

であったといわれている。人間が初めて粘土を使用したのも、土器をつくるためではなく、

土偶をつくるためであった。 こう見てくればわかるように、昔から人間のもつとも

有用な行為は、遊びであった。土器をつくり、布を織り・金属を加工し、動物を飼育

するはるか以前に、人間は絵を描き、線刻画を描き、彫刻をし、像をつくったことを

銘記すべきである。 芸術家としての人間の誕生は、労働者としての人間の誕生より

もはるかに早かった。 遊びが労働に先行し、芸術が有目的な生産に先行した。

人間はしばしば必要に迫られて楽しむためのものを有目的なことに利用した。

必要に迫られて働いている間は、依然として人間は動物界の一員である。

人間は、ただ生きるだけであったら不必要なもののためにエネルギーを注ぎ、さらに

生命の危険さえもおかす場所に、特異な存在としての人間となり、最高の創造力を

発揮する、したがって、人間の人間化が起こったのは、自然の恵みで豊かで、

余暇があり、遊び戯れる性向があった状況においてであったと考えるべきである。 

自然界における人類の台頭は、心細い戦場においてではなく、

エデンのような遊びの庭において起こったのである。・・

私にいわせれば、オートメーションの時代の到来は、魔法円の完成である。人間は

エデンという遊びの庭で初めて人間になった。そして今、人間は遊びの庭に帰還して、

人間の究極的使命を、すなわち人間性の完成をはかりうる機会をてにしている。 》

〜〜

遊びの重要性を上手く説明している。良く遊び、良く学び、良く働く、を

バランスよく豊富にすることが人生の豊かさだが、私の場合は、そのバランスは

とってきたが、「良く」に問題があった? まあ、いいだろう。遊びが4、学びが3、

働きが3というところだろうが、厳しい娑婆では、働きが4で、他が3だろう。

学びも、働きも、遊びまで持ち上げるのが理想である。そのためには好きなことを

仕事にすれば良い。

・・・・・・

2786, 人生ゲームを楽しまむため、生まれけん!

2008年11月20日(木)

 ー次は、ある雑誌(文藝春秋)の中にあった、角川春樹の文章であるー

【私は平成五年八月二十八日、麻薬取締法違反で逮捕され、ニ年五ヶ月、

干葉拘置所に拘束されていた。その間、私を悩ませた課題は、

「自分は何故生まれ、何処へ還るのか」という古代ギリシャ以来の疑問。

ある時、一冊の本が差し入れられた。立花隆の『宇宙からの帰還』である。

その中で私を惑動させたのは、宇宙飛行士のエド・ミッチェルの、次の発言。

〈 すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。

そのプランは生命の進化である。個別的生命は全体の部分である。個別的

生命が部分をなしている全体がある。すべては一体である。

この全体の中で、人間は神と一体だ。宇宙は創造的進化の過程にある(略)。〉

彼の言葉が、完壁に理解できたのは、平成十年の大晦日である。朝から二度

倒れ、四度嘔吐した。その時、突然、次の唱句が天から降りてきた。

  年ゆくや天につながるいのちの緒   春樹

この瞬間、あらゆる生命が宇宙意識と繋がっていること、宇宙は一つである

ことを直感したのだ。エド・ミッチェルが宇宙で体験したことを、私は地上で

体験したのである。そして平成十六年九月一日、私は静岡刑務所の独房の中で、

自分の意識が宇宙の果てまで辿り着いた時、逮捕されて以来の長い間の疑問が

あっけなく感受できた。 答えは、人間は人生ゲームを楽しむために地球に

生まれて来た、ということだった。】

▼ 人生のゲーム化については、ここで何回か書いているが、彼が他の人と

 違うところは、そのコンセプトのもとに雑誌を刊行したことと、刑務所の中

で、絶望の底で、実感として掴み取ったことである。‘ゲームとは、到達地点

を決めて、その間に障害を置いて、如何に効率よく到達するかを競う遊び’。

人生ゲームの醍醐味は、死の完成までの障害を乗り越えるプロセスを如何に

楽しみ、味わうかにある。それも命がけに取り組むほど、ゲームが面白くなる。

【 父母に 呼ばれてこの世の 客となり用が済んだら はいさようなら 】

という一休の詩がある。せっかく、客として呼ばれたからには、この世の

人生ゲームを充分楽しまなければ、生まれてきた甲斐がないじゃないか! 

ということだ。そうこう考えると幸せの4階建ての4Fが、克服できない苦難

や悲しみ、というのが少しは分かるが。

 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。

 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。

 2階:獲得した「快」を永続させる。

 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。

人生ゲームは、このビルの中で遊ぶようなものである。   

何か際どい話になってきたが。

・・・・・・

2789,人生ゲームを楽しまむため、生まれけん! −2

2008年11月23日(日)

  人生ゲームの基準を、私ならどのようにするかを考えてみる。

 昔から言われているように「良く遊び、良く学び、良く働く」を

目安にすると解りやすい。

 ・どのような趣味をもって、ライフワークにしてきたか。

 ・どのような仕事に従事して、楽しんだか。

 ・長年かけて教養を積み上げてきたか。

 ・それらを達観できる視線を、自分の孤独の世界で創りあげたか、である。

人生の価値基準は心の内の問題だから、第三者がとやかくいえることではない。

この4つを、どうバランスよく拡大、深耕したかを、自分のゲームとして

楽しんだかが人生ゲームを楽しむことと、定義づけてみた。

鼻歌を歌いながらスキップするしかない場面も人生には往々にある。

人生には、ある程度の長生きも必要である。人生を楽しむには、楽観的で、

能動的でなければなるまい。そのためには、常に楽しい明日をイメージして、

その実現の準備を地道にすること。耳には、何時も心地良い音楽を流すことは、

誰でもできる。 目は、大自然の風景や、美術館で良い絵や陶器をみたり、

本やネットで良い写真や、ビデオで映像をみることができる。鼻や口は、

季節季節の新鮮なものを食べればよい。 誰でも、身の回りに楽しめることは、

幾らでも転がっている。「おもしろきなき世を おもしろく」は、長州藩士、

高杉晋作の辞世の歌である。彼が死ぬ間際に、そばにいた野村望東尼

(福岡の女流歌人)が受けて、「すみなすものは心なりけり」と下の句をつけた

というが、成るほど上手い歌である。いずれにしても、ゲーム化した段階で、

自分を客観視する冷静さを持つことになる。何が起きても「その時は、その時。 

それも、また娑婆経験」と、魂が、自分の心に語りかける冷静さこそゲーム化で

身に付けることで可能になる。 人生を振り返ると、全く下手なゲーマーの自分

が見えてくる。そういえば、最近、「人生ゲーム」というゲームがマスコミで

話題になっている。ウィキペディアによると、

【原型は1860年ごろ、イギリスの印刷業の社長Milton Bradleyによって考案

された「The Checkered Game of Life」。日本版は、1968年、株式会社タカラ

(現タカラトミー)から発売された。タカラトミーの発表によると、日本版の

累計出荷数は 1000万個を超える。 ゲームシステムは、双六の発展形。

ゲーム序盤のルーレット目によって「人生の筋道」が決まり、その後の人生が

左右されていく。プレイヤーはサイコロではなく「ルーレット」を回し、

人の一生になぞらえたイベントをこなしていく。現在でも改良版が発売されて

いる、息の長いゲームである。】 面白そうなので、一度試してみたいもの。

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2017/10/02

閑話小題 〜「遊び」の意味合いとは

       <意味としての心〜「私」の精神分析用語辞書ー北山修著>

   *「遊び」の意味合いとは

「遊び」については、数多く読み、ここで書いてきた。『夜と霧』の著者、

ランクルの、<人生の要諦は「よく遊び、よく学び、よく働く」にある>

に納得し、また身近では両親の生き様の後ろ姿をみて、バランスをとって

生きてきた。 想い返せば12歳頃までは無心に遊んでいたが、中2後半から

受験勉強に重心を移動、暗い受験生になっていた。

 そして20歳から将来設計を考え、両親に倣って「創業」を目指す人生を

考るようになっていた。その翌年、「30日間・欧州一周旅行ツアー」への参加

で人生観が一変。 当時の海外渡航は20万人。殆どがビジネス関係者の中、

当時の私の精神的体力では極限?であった。一ヶ月で当時の40万、現在で

350万を遊びに費やした経験は甚大。旅行先の大自然、文明、文化との邂逅に、

何度も絶頂体験をしていた。腹の底から笑ったり、感動したのは幼児期以来、

いや初めての経験である。世界は想像を絶した広がりと、深さがあることを

実感した。それまでの世界認識は何だった? 「遊び楽しむこと自体が目的」

の意味合いを僅か1ヶ月で実感してしまった。「絶頂体験を求め、ひたすら

努力し続けること。その為に、「良く学び、働く」こと。その「良く」には、

目的地と、「遊び、学び、働き」のバランスと効率を良くすること。

 年齢を積重ねるにつれ、「より資金を貯めておけば、もっと働いておけば!」

よりも、「もっと遊んでおけば良かった!」と思うのが人間の常。

 つい最近まで、「勤勉・勤労」の反対語が「遊び」の宗教的な意味合いが

強かったが、今では、「健康や創造性の原点」に位置づけられ、

<車のハンドルとタイヤ間の「遊び」のような「ゆとり」「自在さ」「自由」

 な遊びとして認められ、強調されるようになっている。

「ハレ」と「ケ」が、交替するように働いたり、遊びこそ、効率を上げる

楽しい人生の必要条件、絶対条件として… >

 情報化社会の中で、知識と経験は益々膨らんでいく中で、狭い肉体と柵に

縛られ、心は自由を求めて悲鳴を上げている。それを開放してくれるのが、

「至高体験」。この上ない感激、感動体験。これは映画でも、絵画鑑賞でも、

音楽会でも可能。その感受性の鋭敏さは、それらの経験の蓄積から生じてくる。

そのためには、極限に自分を置いて追い求めなければなるまえに…

 真剣に遊ぶのも、ちゃらんぽらんに遊ぶのも、お好みによる。

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2017/08/14

閑話小題 〜「遊びに金のかからない人は、最も幸福」

  * 楽しみに金のかからない人は、最も幸福

 ソローが、「楽しみに金のかからない人が最も幸福である」というが、

「楽しみに無条件で金をかけられる人は、更に幸せである」とも、いえる。

楽しいと思うかは心の素養の問題でもある。書籍の購入と同じで、命の次に

大切な金を、割切って使うことは難しい。仕事を楽しみまで昇華すれば良いが、

仕事バカも面白味がない。実際のところ、そこそこの「お金」は「遊び」に必要。

「一万を持って千円を使うのと、二千円を持って使うのと、気持ちが違う。」 

現在、一番効率良く遊べるのはネットである。次は「読書」だろうが、

これも素養が必要となる。

   

・・・・・・

2016/12/15

スーパーベターになろう! 〜1

  『スーパーベターになろう!ゲームの科学で作る「強く勇敢な自分」』

                     ジェイン・マクゴニガル著

   * 実生活のゲーム化

 志を持ち、それに突き進むこと自体が既にスーパーベターになるための行為

になる。自分が書いた展望の主役になって目標に一歩二歩進むことに楽しみを

持つことがゲーム化になる。創業の起承転結の立上げの「起」の段階に必ず?

といってよい普段なら起きようもない困難の問題が生じる。近親者の大病、事故、

世界単位で、ドルショック、石油ショック、バブル崩壊など ホテルの立上げ

の時々、「今回は、これか!」と、見据えて冷静に対処するようになっていた。

想定外の問題を解決するためには冷静に楽しむゲームにすればよい。

会社清算時の決断直前に3・11東北大地震が起こっていた。ならば一つずつ

ゲームのように潰していけばよいと、脳内の小さな自己が語りかけていた… 

それが第三者から見たら不謹慎に思うのは至極当然。

 時々、真面目くさって、この随想日記を書き続けることや、スポーツジムに

週に5日も通うことに疑問を持つが、「良いこと3、悪いこと1つ」と、気を

取り直すと、まさに、その通り。事業も、私生活にしても、ゲーム化をすると、

毎日が楽しくなる。 〜内容紹介より…

≪ スーパーベターは実生活をゲームにする方法。憂鬱や不安から解放され、

 自信や活力を取り戻したことがペンシルヴェニア大学の調査でわかっています。

ただよくなって、これまでどおりの生活に戻るのではなく、"すごくいい"

(スーパーベター)を目指す人のためのゲームです。解説を読み、本の中にある

クエストと呼ばれるワークに取り組むことで、もっと強く、もっと幸せに、

もっと勇敢に、もっと打たれ強くなることができます。実行するとどうなるのか?

自身の中にある力を引き出すことができるジェインは、誰もが以下3つの資質を

既に持っていると言います。

•あなたは自分が思ってるよりも強い

•あなたには仲間になってくれる人がたくさんいる

•あなたは自分自身の物語のヒーローである

本書を読むことを通じて、すでに自身の中にある力を理解し、そうした

力を引き出すことができる、誰もがスーパーベターになれるのです。≫

――

▼ ゲームとは、目標達成の過程に障害を据えて、乗越えるプロセスを味わい、

 楽しむこと。遊びまで高めれば、それでOK。ダイアリーに、その日こなした

スポーツジムのエアロを点数化したのをメモをする。イージーラインを二回する

と、二点。ヨガを二点、ランニングを30分で一点として、週合計15点、月に60点

を最低ラインにする。ジムの良さは集団エアロにある。単独では到底無理な内容

の運動量を、集団の勢いと習慣でやり遂げる。問題は、メモに残せるかどうか。

 〜HP内の「検索」に、<ゲーム化>を入れたところ、以下の過去文があった。

人生、生活、事業など何ごとも、遊ぶにすることが「ゲーム化」ということか。

追文) 過去文を読んで気づいたが、4年前に、この著書を元に、NHKの「クローズ

アップ現代で、取上げていた。記憶からスッカリ抜けていた。それだけゲーム化

は重要な要素があるということ。これが航空会社の『マイレージ』、チェーン店

の『ポイント制』の販促に応用されている?

・・・・・・

2016/02/24

遊びをせんと 〜遊びを哲学する ー?

           〜『世界の哲学・思想』小須田健著 より

   * 遊びを哲学する

 楽しむといえば、「遊び」である。「遊び」に関しては、内なる評価は90点。

進学、進級するにつれ、遊びが一そう面白くなっていた。 実社会でも歳を

重ねるたびに、質量は上がっていた。その背後には、ストレスが解消もあった。

仕事も面白かったが、遊びも、数限りない蓄積がある。

『よく働き、よく学び、よく遊ぶ』は、人としての目指す行動指標。

 充実の実感は、学びも、働きも、80点。その手ごたえが有難い。

仕事の面白かった経験より、辛い中での、遊びのトリップの経験こそ、人生の

価値にとって良いことは、今さら言うまでもない。 〜その辺りから〜

≪ ・理性と感性による二つの衝動が人間にはある、ということです。

 この二つの、一方は不変へ、一方は変化へ動こうとする人間の中でいかに

調和させるか? そこで、シラーが気づいたのは「遊戯」と「遊び」でした。

彼は、人類の大いなる遊びを歴史に求めます。ギリシャのオリンピアの競技、

ローマの闘技、マドリッドの闘牛、パリの見世物、ヴェニスのゴンドラ競漕、

ウイーンの狩猟等々。そして、血を流さずに、人体の美をも競いあい、鑑賞

させるギリシャのオリンピアの競技の遊びこそ最上と思いました。それは美を

求める遊びなのですから。シラーは、そこで「美しいものは単なる生命でも、

単なる形態でもない。人間に対し、絶対的な形式性と絶対的実在性の二重の

ものを授けてくれる生き生きした形態、それが美である。しかも、動物が

巣をつくる遊びは、その美を得させてくれる」としている。・・・

・ホイジンガーは、目を人類全体の歴史に向けて『ホモ.ルーデンス』年刊を

 まとめました。・・・ そこで、

「ホモ・ルーデンス」とは、ラテン語の学名になぞらえた人間の性格付けで、

「ホモ.サピエンス」(知性人)や、「ホモ・ファーベル」(作る人間、工作人)に

対比させた言葉で、意味は「遊ぶ人間」です。すなわち、人間を遊びを知るもの、

遊びと切り離せないものとして定義付けようとしたのです。彼はそこで、

人間の遊びの歴史は、「ホモ.ファーファル」の歴史より古いことを実証し、

「人間は遊ぶ存在である」と定義したほどでした。遊びの歴史を探ることこそ、

人類の歴史、文化の歴史を探る直接の素材であり、その手掛かりでもあるのです。

また、ホイジンガーの言葉で言いますと、「遊びの面白さは、どん名分析も、

どんな解釈も受け付けない」ものでした。いったん遊びだしたら、面白くて

もうやめられない、その遊び心を歴史的に記述したのが、ホイジンガーの

「ホモ・ルーデンス」でした。ホイジンガーは、カナダのインディアンなど

各国の諸民族に伝わる儀式を伴う遊びを検証し、古代ギリシャのアゴン

(競技や、子供の遊びなども含めて考証しながら、改めて「遊び」をキーワード

に、数々のその特性を発見しました。

「遊びは文化より古い」

「遊びは本気なものではない、と言ってはならない」

「遊びは、われわれのまだ知らない秩序を創っている」

「遊びは、人やものを結びつけ、また解き放つ共同性をもつ」

「遊びは、人間がさまざまな廓象の中に認めて言い表わすことのできる

 性質のうち、最も高貴な二つの性質によって充たされている。

 リズムとハーモニーがそれである」

「遊びは、本気でそうしているのではないもの、日常生活の外にあると感じ

 られるものだが、それにもかかわらず、遊んでいる者を心の底まですっかり

 とらえてし塞うことも01麓な、一つの自由な活動である」

「遊びは本気で何ものかを求めての競争であるか、あるいは何かを表す表現

 であるかのうである」  ≫

▼ 晩年の両親の後姿から、遊びは、その時点時点で計画的に消化しなければ

 ならないと、学んでいた。あれだけ楽しめば、悔いも、何も残らないだろう。

仕事の合間に遊ぶより、遊びの合間に働く位で丁度良いのかもしれない。

もっと遊んでおけば良かったと思っても、もっと事業拡大をしておけばなど、

終盤にさしかかった現在、全く思わない。仕事を趣味にし、楽しんだ実感が

あって満足できれば、それも遊び。思え返せば、仕事も、遊びも、面白かった!

 TVの番組に「YOUは何しに日本へ. Why did you come 」(東京放送)

があるが、これを「YOUは何しに、地球へ」と、問われ、『働いて金儲けする

ためやってきた』とは、答えない。 ・・これは、長くなるので次回へ!

・・・・・・

2015/02/28

遊ぶこと ー人間であること −?

        〜「人間であること」時実利彦著

    * 遊ぶこと 〜勝負すること

・ 第三の遊びは勝負をすることで、前頭連合野にそなわっている競争意識、

 そのうらはらの劣等感や嫉妬心などの暴発をやわらげようとする。

 人間はオリンピックを頂点に、様々な勝負事を考え出した。勝負の世界には、

 職場の上下は関係ない。仕事の上の鬱憤を、マージャンや、ゴルフ場で晴らす

 ことが出来る。これは、動物世界にはない。

▼ 今ではワールドカップが、その頂点になっている。これは一種、代理戦争

 のようである。もう一つ、仕事や事業をゲーム化して、自分自身との勝負事に

 してしまう自己達成がある。 度が過ぎると勝負依存症になる危険が潜む。

   * 遊ぶこと 〜創造の喜び

・ 第四の遊びは、仕事や芸道、日常の行為に創造の喜びを体得することで、

 もっとも人間らしい人間だけができる崇高な遊びの行為である。趣味に

 生きるということも、そのねらいは同じ。この4つの遊びには、それぞれの

 存在意義があるが、最初の三つは誰でも出来るが、問題は、この、芸道や、

 仕事に、「創造の喜び」を体得することである。人間の尊厳というが、この

 創造の喜びを具現している姿に当てはめることが出来る。どんな僅かな仕事

 でも、どんな厳しい仕事でも、そこに喜びの心が体得できる人間としての

 遊びをしたい。

▼ 仕事でも、創業でも、趣味の世界でも創造の喜びを見出すことが出来る。

 子供のセーターを編む母親の姿が、それを物語っている。

小さいながらも小さな商業ビルなどを立ち上げてきた。初めて手がけた時に、

問題の全てが吐き出された。創造には、まず難問が次々と襲いかかってくる。

そこで、思いもしなかった内なる底力が、湧き出てきた。その過程が、創造

行為になり、そのまま次に繋がる。主体的難問解決過程を「遊び」にすればよい。

・・・・・・

2013/04/14

隠居大学ーよく遊びよく遊べ −8             

  * 心清く、よく遊びよく遊べ ーつれづれに

 老後を考える上で、なかなか面白い本である。何事にも自然体で、拘りを

持たず、自由に気楽に生きることがベース。人間は、それぞれ固いバイアス

囲われている。それを一枚一枚、そぎ落としていくのが人生。老いるにつれ何事

も面倒になり、過去に目を向けて、周囲の現象には上から目線になりがちになる。

両親の晩期を供に生活をし、冷静に身辺整理をした父の姿を見ることが出来た。

母からは何事にもチャレンジする姿を見た。

「始める前に、あるレベルまで到達できるかどうか見極めること。

決心をしたら、先生を見つけ集中すること。ライバルを見つけること」と、

教えてくれた。道を極めようと一心不乱で日々過ごすと、心が純化されていく姿

が見て取れた。「心の純化」こそ、極意。 以前「何かに集中していると、ある

ゾーンに入る瞬間がある」と書いたが、それは心の純化の状態。

何事も純化の心から生まれ出てくる。「童心に帰り、純化の心で、遊べ遊べ!」。

 人生を振り返ると、その時々、面白く遊んだことが思い出される。 事業も、

遊びも、何でも、遊びになるまで対象に入り込まないと。それは楽しむことから

始まる。楽しみになるまで対象に同化することだ。「おもしろき こともなき世を

おもしろく すみなしものは 心なりけり」 これは高杉晋作の言葉だが、その心は

純化した心。論語の雍也第六に『子曰。知之者不如好之者。好之者不如樂之者』

がある。「師曰く、真理を知る者は真理を好む者に及ばない。真理を好む者は

真理を楽しむ者に及ばない」という意味である。 真面目に学べば「知ること」

ができる。 しかし、知ったことは、よく忘れる。だが、好きでやったことは

身に付くから忘れることも少ない。更に良いのは「楽しむ」こと。

孔子は「知る」も、「好む」も、「楽しむ」も道徳である、という。何が良い

ことかを知るだけより、良いことが好きだ。という方がすぐれている、つまり

「徳を楽しむことが必要」としている。更に、楽しみを遊びにしていくこと。

遊びは、現代風にいうと、ゲーム化することになる。ゲームは仮想世界の競争

である。人生を夢幻として、難関を乗り越えていくことになる。人生のゲーム化。 

夢幻の劇場で自作自演の役割を演じ、それを味わい楽しむことである。

心清く、遊んでいれば、その役をこなすことが出来る。「うれし、たのし、

おもしろし」の世界を、持つこと。ただし、節度を持ってである。

だから、そこに「良く」がなければならない。その辺りに少し気を使いながら。

・・・・・・

H0609

歩行とダンス

 丸山圭一郎と黒鉄ひろしの対談集で

“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。

“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。

ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。

それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?

ありうる!”という。

 非常に含蓄のある面白い内容である。

 人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。

今回の仕事(第二新館増築)の最中にこれをよみ、

“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と、

 一人笑った。

私の学生時代の大手商社に勤めている友人と、酒をのみながら右の話をした。

 本人いわく

“私はさしずめ、それはホーク・ダンスだな!。

 好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。

 それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”

当意即妙であった。

ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、

それをダンスとしてリズムをとりながらパターンをマスターし、

かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。

ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。

ダンスを忘れある年令に達して愚痴を言っている人が何と多い事か。

そしてその反対に逆の人も。

――

2006/09/05

1981, 歩行とダンスー2

「歩行とダンス」というて、テーマで文章を書いて、はや12年も経つ。

12年ぶりに引き継いでの文章化も面白い!と思い立ち書いている。

当時、転勤で大手商社の新潟支店に来ていた大学時代の友人と、

この話を酒のツマミにして酒を飲んだことを思い出す。

その友人が、ダンスをフォーク・ダンスと喩えたのは面白かった。

その後、

「一人踊りでドアに行くとしたら何だろう?」と誰かにいったら、

「鼻歌を歌いながらスキップすることじゃないか」と答えた。

  なるほど、そのとおりである。

この話、よく酒のツマミにするが、けっこう受ける。

「ドアはドアでも、どの部屋のドア?

まさかベッドルームじゃ、話が落ちるか?」と、言った人もいた。

ダンスの相手も色いろ考えられる。「困難」と考えると面白い。

困難を嫌がらず、むしろ踊りの相手として一緒に楽しむ?

まあ、かなり難しいが、それがゲーム化ということになる。

事業の立ち上げも、ダンスの相手と思うとよい。まあ、人生の全てを

賭けてのダンスだからスリルとサスペンスがあり命がけである。

人生、ストリッパーの裸踊りのようなものと言うと、例えが悪いか?

隠すべきところは隠しておかなくては、色気も面白みも無いところが同じか。

手段の目的化と、目的の手段化、そしてその融合化と言ってしまえば

話はつまらなくなる。

たまたま去年の同月同日に『楽しく生きる』というテーマが書いてあった。

この文章を引き継ぐのに、丁度よいテーマである。

12年前の文章である。

・・・・・・

2007/06/18

2267, 「遊び」

                (゜∇^*)オハヨ♪

 遊びの重要性は、両親をみていたり、学生時代などの経験から

「働き」と「学び」と同じくらい位置づけてきた。

その三つのバランスを如何に組み合わせるかが人生の豊かさと信じて、

年、月、週の計画に組み込んでいた。

人生で最後残るのは、特に「遊び」の中の充実感である。

                

「遊び」をネット百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』調べてみた。

  ーーーーwww**ww*w(/⌒∇⌒)/〜∞**www***w ーーーー

  

楽しむ、娯楽、休養、リラックスストレス (生体)解消などの目的で

生物がする行動の総称。普通は生命活動を維持するのに直接必要な食事、

睡眠や、自ら望んで行われない労働などは含まれない。

 また、工学などにおいて作られる、ある一定のたゆみ、ゆるみ、余白のこと。

これを作ることを「遊びを持たせる」という。

ハンドル等、機械で人間が操作する部分の遊びは、不覚筋動を機械の動きに反映

させないという効果遊びとは、楽しむ、娯楽、休養、リラックスストレス解消

などの目的で生物がする行動の総称とされます。どのような時代においても

遊びは存在し、太古の昔から現代まで私達の心を楽しませてくれています。

人間以外で、動物は遊びの中で狩りやコミュニケーションの方法を学んでゆく。

ヒトは成熟後も遊びを行なうのが一般的である一方、ヒト以外の動物は成熟すると

あまり遊ばなくなるが、ペット化(家畜化)された犬や猫などの動物は成熟後も

遊びたがる傾向があるようであり、野生動物でもカラスには、

成熟した個体に遊びと思われる行動が見られる。

フランスの思想家、ロジェ・カイヨワはホイジンガの著書「ホモ・ルーデンス」

に影響を受け、「遊びと人間」を執筆した。

その中でカイヨワは遊びを次の4つに分類している。

・アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ

・アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など)

・ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ままごと

・イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ

カイヨワの説は遊びはこれらの4つの区分に分けられるとしたものであったが、

遊びは必ずしもこれらの単一の要素からなるものではなく、

複数の要素を含むものも多いとする説もある。

 ーーーー  (^Q^)/゛ d(o^v^o)b !!(^Q^)/゛ \(^o^)/!!

        ヽ(*^^*)ノ \(^^@)/ \^o^/ d(^_^o)

 なるほど、と思うが・・・

「遊び」については、今まで何回か取り上げてきた。

人は良く遊び、良く働き、良く学ぶことが、良く生きることを目ざすことだ。

そのどれも必要なことであり、それぞれにとって、背後に二つを必要とする

何ごとも楽しみになるまで追求すれば、しめたものである。

私の場合、ゲーム化が楽しみへ持ち上げるポイントであった。

ゲーム化に対しては批判もあるだろうが、何ごともやりかたである。

到達地点を設定して、その間の障害を乗り越えながらプロセスを楽しめば、

遊びへ転換するゲームは、勝ち負けを争う遊戯、競技もしくは賭博として

一般的に認められているが、日本では、「ゲーム」という言葉を使う場合、

漠然とした「遊び」と比べ、「パッケージ化された遊戯の一形態」という印象

を与える。

 学び、働きに対して、遊びが一番充実していた!ようだ。

遊びは他の二つと違って、他者との対比の必要はない。

一番好き嫌いの主観的要素が生かせるからよい。

同じ人生、楽しまなくては!

何ごとも「遊び」まで持ち上がるまで集中すべし!ということか。

 

 ー以前、カラスの遊びについて書いた部分を抜粋してみるー

 カラスは「羽の生えた類人猿」というほどの高い知能が、

 動物学者の研究観察から認められている。

 その一つに人間と同じような“遊び”の感覚があることである。

・目的もなく電線の巻いてあるテープをはがしたり、

・空中でゴルフボールや小枝を落として奪い合うラグビーのような行動で仲間と遊んだり、

・滑り台で、人間の子供のように滑り降りたり、

・くちばしでレールに小石を並べる行為も、電車が石をはじくのが面白くて始めた

 “遊び”といわれる。

 そのように無駄な行動を楽しむことをみても、彼らが知的動物であるといえる。

「無駄」なような行動も、「ラグビー行為は、オオタカなどの猛禽(もうきん)類に

 襲われた場合に備えてのチームプレーの訓練」という見方もあるが、

 それを遊びにすることが、高度な知的行為である。

 ーー イルカや、サルなど知的レベルの高い動物ほど日常の中に

 遊びが入っているところが、注目に値する。   d=(^_^)=b

     

  競争、偶然、模倣、めまい、か〜〜〜!

 何かの偶然の重なりで娑婆に生まれ、ママゴトのような人生の中で、

 ワッペン取りや、かけっこ競争や、ブランコ遊びをして、

 ふと、気づくと孫に囲まれ、遊びの手助け!、 これが人生。

                   

          Bye♪  ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪

2005年09月05日(月)

1616, 楽しく生きる−1

「楽しく生きる」を、

私流に「面白おかしく生きる」というコンセプトにして自分に課してきた。

それも20歳代の頃からである。むしろ「楽しみを見つけだす」という生き方

であった。私の行蔵の中の「楽しい時間」の中には、溢れんばかりの行蔵が

詰まっている。(他人からみたらガラクタだろうが、私にとってお宝である)

楽しいときは、どういうときであろうか。

・自分のしたいことをしているとき

・何かを期待してワクワクしているとき

・感動をしているとき

・自分の望んでいたことが実現しているとき

・人に褒めてもらえたとき

・自分の生き方に自信を持ってるとき

等々、上げられる。

いずれも肯定的な感情に包まれ、自分の欲求が満たされたときである。

一度だけの人生、肯定的な感情で、かつ自分の欲求を満たさなかったら、

人生を浪費していることになる。特に人生の後半は前半ほど単純ではない。

多くの過去を背負っているからである。

ならばこそ、その中で「楽しく生きる」喜びも深くなる。

文筆家(哲学者)池田晶子 の

「楽しく生きるためにどうすべきか」という文章がよい。

彼女は、哲学することの意味を平易な言葉で語ることに定評がある。

ーまずは、彼女の文章をそのまま書き写してみる。

 

 人生は短い。と、どうしてもやはり思いますよね。平均寿命は80とは

言われますが、歳をとってからできることは当然若い頃より制限されますし、

ましてやその歳まで生きるかどうかの保証はどこにもないわけです。

ひょっとしたら、明日、心臓発作で死ぬかもしれない。

 

縁起でもないと、普通はやはり思いますよね。しかし、よく考えてみると、

いやよく考えるなどしなくても、生きている限り人が死ぬのは当たり前で、

この当たり前を当たり前として認識しているかどうかで、人の人生観は全然違った

ものになるようです。

今のここに死はあるからこそ今のここの生はあるのだと思えば、

人生は長いとか短いとか言いようもなくなるはずだからです。

だって、いつだって、「この今」しかないのだから。「この今」しかない

と気づけば、先のことをあれこれ悩んで苦しむことはなくなるようです。

悩みや苦しみというのは、人生には先があるとする錯覚的時間認識が作り出す、

まあ一種の気の迷いみたいなもんでしょう。

未来への不安、もしくは過去への後悔、いずれも時間認識の勘違いです。

だって、未来や過去を悩んだり苦しんだりしているのは、まさしくこの現在では

ないですか。あ、なあんだ。 と、気がつけば、錯覚としての悩みや苦しみは脱落

します。そして、なんらそういった感情は湧かなくなり、逆に楽しみや喜びと

いった感情が湧いてくるようになるようです。むろん、悩みや苦しみのタネは

変わらずに存在していますよね。我々は生身の存在だからです。仕事上の悩みが

存在すれば、病いの苦しみだって存在する。 それは偽りのない事実です。

しかし、それらを言わば受け身で悩み苦しんでいるということではなくて、

妙な言い方ですが、悩むことを楽しむとか、苦しむことを喜ぶとか、そんな

ふうに変えられるようです。要するに、楽しみや喜びというのは、どこか外に

あるものではなくて、自分の側の心の構えのことだということです。それを

楽しんでやろうという構えでいれば、それが何なのであれ、それはその人に

とって楽しみとなるはずです。楽しむということは、今しか存在しないのだから、

その今を楽しむということ以外ではないでしょう。

 

矛盾したことを言うようですが、それでもやっぱり時間というのは存在する。

我々は生身の存在であって、肉体は刻々老いてゆく、以前できたことが今は

もうできない、体の故障は不愉快だ。

昨今はアンチエイジングブームで、それら加齢に伴う現象を否定的に

捉える向きがあるようですが、しかしこれはもったいないことのように思います。

なぜなら、老いるという経験は、誰も初めてのことであるはずで、せっかくの

未知なる体験を、否定してないものにしてしまうのは惜しい。

死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから人は

苦しむことになるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、なお

それを楽しむという構えが、ひょっとしたら人生の極意なのかもしれません。

 

まあこの人生、何のために生きるのかとは、生きている限り避けられない問い

ではありましょう。それは人間にとって最も根源的な問いであって、だからこそ

こんな問い、人に問うて答えが得られるものではない。根源的な問いほど、自ら

問い自ら答える以外はあり得ないのです。本当に答えを得たいのであれば、

生きている限り一度は必ず自らに問うてみるべきでしょう。

「私は、食べるために生きているのか、生きるために食べているのか」

 さて、本当に楽しい人生は、どっちだと思いますか。

 ーー

「死ぬとか病むとか老いるとか、当たり前のことを否定として捉えるから

人は苦しむことになるのでしょう。やはり、当たり前を当たり前として捉え、

なおそれを楽しむという構えが、人生の極意なのかもしれません。」

の言葉が、彼女の言わんとすることだ。現在という一瞬の連続が人生なの

だから、その「いま現在」を楽しんでやれというしか、楽しく生きるコツは

無いはずである。老いるにしても、苦しむにしても、その経験は、未知なる

体験であるのであるから否定してしまうのは惜しいはずであり、楽しむ材料

でしかないと考えればよいのだ。

・・・・・・

2004/05/12

1135, 「ライフ・レッスン」−13

  ー遊びのレッスンー

 遊びは仕事とともにもっとも大事にしなくてはならないことである。

何のために働くのかと問われれば、遊ぶために働いてますと真から

答えることができ、何のために遊ぶのですかと問われれば仕事を

じゅうぶんできるために遊ぶのです、と答えることが理想といえる。

 遊びとはつかの間の気楽な時間ではなく、遊びのためだけに捧げられた、

じっさいの時間である。私にとって、この随想日記を書くことじたい遊びである。

遊びでなくては絶対に1000回も書くことは無理であった。

 散歩もわたしにとって、最大の遊びである。

初めは腰痛対策であったが、いつの間にか遊びに昇華してしまった。

歩いて楽しいのだ。

 晩年になって過去を振り返ったときに、あの時は良かったという記憶に残るのは

やはり無心で遊んでいた時であろう。それぞれの年代において、それぞれの遊びの中で

我を忘れて楽しんでいた時である。

ー抜粋

・われわれは趣味や遊びが何であるか忘れている。

家具つくりを趣味でしている人が、ある日突然「これを仕事にしよう」と思い立つ。

好きなことをして、それが仕事になれば、というかもしれない。

しかし趣味とは成果を気にしないで純粋に楽しむものである。

売るための家具をつくれば、もう趣味といえなくなる。

それは仕事である。そのことに気づかずに、好きなことを、純粋に楽しめないことに

ゆがめていく人が少なくない。

おもしろくって、一日中でもやっていたい、本当に好きなことを

やらずに、欲求を最大限おさえて生きていくなんて、何ておぞましい

人生だろう。遊びにかけているサファーを、われわれは並以下の人間に感じる。

しかし、真剣に問われるべきは、われわれの大半が遊びのない世界に住んでいるのは何故かということだ。

自分自身に上質な時間をあたえてほしい。

愛する人とすごす上質な時間が必要だということを、誰もが知っている。

ところが、自分だけのための、ひとりですごす上質な時間もまた

必要なのだ。ひとり取り残された時間でも、気がついたらひとりになっていた

でもなく、純粋にひとりを楽しむ時間が一番大事だということを知って

ほしい。

   ・・・・・

 

 ー以前書いた文章

 

 ――――

 

 2002/01/05

  一人遊び

孤独に強い人、一人遊びができるかどうかにある。

一人で楽しみを見つけ・・・、書いていて気がついた、

それって「お宅」でないか。似ているがやはり違う。

それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのではないか?

結局中途半端のそれをいうのではないか?

字のとおり、部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。

山登りや釣りはやらないが、これなど一人遊びの典型である。

別にそれをお宅といわない。

読書好きの人もお宅といわない。

自分の強みは孤独に強いことだ。人に何かを求めないこと、求めても

そこに何もないことを、経験上知っているためだ。

結局人間最後は一人だ。そこでボールを一人でバウンドさせていくしかない。

そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくるものだ。

「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)ということを示すことだ「示単」。

これはある有名な禅僧から直接聞いたことだ。

そこで自分の好きのことを見つけ、それを楽しむことから始めなくてはならない。

その積み重ねが個性を作る。

ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。

常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。

・・・・・・

2002/02/24

遊びについて−1

人間にとって「遊び」は最も重要の一つである。

そこで「遊び」とは何かを考えてみよう。

まずその達人を事例で考えてみる。

一番身近では母がそのプロ?であった。

戦前、戦中、戦後の動乱期に10人の家族が生きていく中で、

父とともに苦労の連続であった。そして長男、次男の連続の

不幸な死で今の重症のノイローゼーなった。

心筋梗塞、死の一歩の手前までいった。

亡くなった時、医師の要望で心臓を解剖したら、心臓の4分の1が壊死していた。

それを乗り越えた後は、それまでのエネルギーを遊びに全て向けていった。

約40年近く遊びきって亡くなった。

日本舞踊、短歌、お花、旅行、茶道、写真。

毎日いそいそと何か遊びを見つけ楽しんでいた。

子供ながらに、そのエネルギーに感心をしていた。

遊びの重要さもそのため学んだ。

重点としてだが父は「働く人」、母は「遊ぶ人」と役割分担がハッキリしていた。

ただ父も仕事の合間に、結構遊びを作っていた。

「遊び」を儒教的影響の為かキリスト教的倫理観の為か、

罪悪と教えられてなかったか。

子供のころ誰もが、毎日目を光らせて遊んでいた。

ただただ無心に遊んでいた。

あの遊びをいつの間にか我々は忘れてしまった。

人間は生きていかなくてはならない。

その為に働かなくてはならない。

競争に打ち勝たなくてはならない。

その為に勉強もしなくてはならない。

しかしそれだけでは、それだけの人生だ。

それがクロなら、その対象の白が必要になる。

どちらが大事かでない、どちらも必要なのである。

それを特に母の生き様から学んだ。

一般的にいうと、遊びの優先順位があまり高くない。

どうしてだろうか、やはり生活をしていかなくてはならないからだ。

そして厄介な不安という心理がある。

その為に、お金をセッセと溜め込まなくてはならない、

「馬鹿な?生き物」である。

遊びとは、「好きな事をして、それを楽しむ事」をいう。

そうすると、仕事も遊びになりうる。

天才はその典型であろう。

あの子供の時の遊びを我々は忘れてしまった。

何でも遊びの対象にした「遊び心」を。

純真の心を失っているからだ。

「純真な遊び心」をいつの間にか忘れてしまった。

「遊んでないで、笑ってないでもっと真面目にやれ!」

と暗示をかけられてないか?

私の趣味の一つにウオーキングある。

初めは腰痛対策であった。今は大事な趣味ー遊びになっている。

純真に楽しいーヽ(^o^)丿(^^♪!(^^)!(#^.^#)(*^^)vのである。

その中に純真な遊び心が躍動を始める。

何々のためにといった場合は、遊びでなくなる。

それを乗り越え、純真な遊び心になった時点で「遊びに昇華」する。

パソコンもそうだ、このホームページもそうだ。

そこまで持ち上げる必要性を人生で学んだ。

「遊びになるまで集中する」という事か。

これから散歩だ!