2012-02-22
■[感想]組合せ感想文
- 出版社/メーカー: アミューズソフトエンタテインメント
- 発売日: 2011/10/28
- メディア: DVD
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- 作者: 安部公房
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1987/08
- メディア: 文庫
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井上真央さんの浮かない感じの演技は、自分の妹が実家に帰ってきたときの脱力状態と同じ感じに見えたので、本当らしいと思ったし感情移入できた。
小池栄子さんの肩をすぼめながらも実は取りにいこうとする演技も、嘘がない感じで、温かい気持ちで見られた。
話の筋については、盗んだ子どもと一時でも心の通い合う時間を過ごせて、それが最終的にはお互いの自己肯定感の源になったっていう大まかな理解です。
そこから、あえて発想をシェイクしてみると、人間ってやつは、一緒に時間を過ごせばそれなりに和合することができる生き物なので、婚姻とか家族のようなルールでお互いを縛り付けておかないと、何しでかすか分からないよって話が対照的に見えてきた。
こんな見方をするのも、安部公房の戯曲『友達』を読んだからだと思う。これは、無関係な人がある男の部屋に9人も侵入して居座るという話であり、対照的に、社会のルールに守られて個人の権利や自由が保たれている常識的社会はありがたいと思った。
でも一方で、この男は警察にも、恋人にもこの9人が赤の他人であり不当な居座りであることを信じてもらえずむしろ無関係な侵入者の側の見方になっていくというストーリー展開から、はたして人間関係は確かに目に見えないものであり、実際上書きされていく流動性を持つと思い至れば、例えば婚姻であるとか家族であるとかの位置関係を当たり前に漫然な態度でいるとしたら、それは違うんじゃないかという気持ちになった。という意味では、結局『八日目の蝉』と同じような感想になった。
関係ないけど、食堂でご飯を食べていたら、隣の見知らぬ二人連れの一方が「自分の奥さんは体調が悪いのか機嫌が悪いのか分からないけど黙り込むときがあって、そういう時とても気を使う」と言っていた。
この場合の妻は、果たして妻の座に既得権的に安住してしまっている人なのか、辛い顔を見せられる夫と思って安心して素を見せている人なのか、いずれにしろ夫の胸にはひそかなクライシスが忍び寄っているのに。
それはさておき、映画『八日目の蝉』のラスト前に、永作博美さんが連行されながら叫んだ言葉は、芯食った名台詞だ。
おそらく、「この子は・・(一秒の間)・・・名台詞」この名台詞を言わせるためにこの映画があるのではないかとすら思える。
この一秒の間に、観客はその人ごとに心に浮かぶ言葉が異なるだろうが、大きく2つに別れるのではないか。
そして、その映画では言わなかった方の答えを言ってしまいそうな登場人物が皮肉なことに、盗まれた子の実の母親である。
森口瑤子さんは、心の一片を失くしたような母親の振る舞いを見事に演じていた。結局、盗んだ女(永作博美)と盗まれた子(井上真央)だけは最後に失くした心の破片を取り戻したのかなと思えるのだが、森口瑤子演じる実母親だけが最後まで心の一片を見つけることができない。
おそらく、本来は幼少期の子どもを育てることで身に付く母性を、その期間に子を盗まれていたことで、体得する機会を奪われてしまったためなのだろうと思う。
何を偉そうに書くと思う向きもあろうが、このように考えたのは、相田みつを詩『観音さまのこころを』*1を読んだからである。
趣旨は、>赤ん坊の泣き声を聞いただけで母親には赤ん坊の気持ちがわかる、母親は子どもにとっての観音様、母親は子どもの気持ちになりきる、子どもの声を全身で観ている>という前半部分から始まり観音様のこころの大切さを表した詩だ。
永作博美さん演じる盗んだ母が最後に発した、私が思う名台詞は、まさに観音様の一言だったのである。
最後にまとめ。人間の感情は上書きされ本来は人間関係も上書きされそうなものだが、婚姻や家族関係はたやすく上書きしないことを皆が守ることで社会の秩序が保たれている。ただし、当たり前のこととしていると崩れ落ちることがある。
相手の気持ちに立る「観音様のこころ」を持てば、どんな関係でも心を通い合わせる事は可能だ。
ただし、他人の子を盗んではいけない。
2012-02-19
2012-02-15
■[感想]蒲団
- 作者: 田山花袋
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1952/03
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あれは中学時代、受験勉強のため初めて県庁所在地にある進学塾まで電車で通うことになった。
国語の時間、先生がウオーミングアップ的な感じで、ある生徒に出題した。
『蒲団』の作者は誰だ〜?
その生徒が黙っていると、先生がヒントを出した。
「ヒント、やわらかい。笑」
そのヒントでまったくピントこない私。
そう、答えは「田山花袋(かたい)」だったのだ。
その一連のやり取りに対し、傍観者となった私は、それまで授業で置いていかれた経験のなかっただけに、ショックを受けた。
県庁所在地といっても田舎の一つなのだが、そのときは、さすが街の中学生は進んでいる、上には上がいると度肝を抜かれたものだった。
それからというもの、自分の能力は一枚落ちるという呪縛が、志望校に合格した後も残った。
ということもあり、手をつけられずにいた『蒲団』であったが、先日買った携帯端末で小説が読めるということで、手頃な長さの『蒲団』にチャレンジした。
内容がぶっちゃけた感じで、かの印象的なラストシーンを含めて、ある意味、試験問題でこの小説をありがたく扱うのって、「裸の王様」なんじゃない?的に昔のトラウマもひきずった読み方をしてみたが、どうにも説得力がある。
おそらく、小説家を志す者は一度この小説を読んだほうがよい、この小説の二番煎じを量産してもしかたないと悟るのがよい。
自然主義文学というジャンルらしいが、島崎藤村の『破戒』もそうだが、内心を率直に暴露するタイプの小説形式として、『蒲団』は日本の小説の中の白眉だと言える。
内容は、「自己愛」に対する人間の己に対する欺瞞や渇きであり、内心の暴露である。
愛されたいと渇望した太宰治『人間失格』のようなストレートでストイックでピュアな感情とは反対の、迷い、情けなく、人間らしいやり方で描かれたのが『蒲団』だと吟味すべきである。
要するに、中心的に扱われる女性に対して、その父親と小説家と彼氏の三つがそれぞれのやり方でその女性を奪い合い、それぞれの主張がしょせん自分勝手であることに無自覚な様が描かれているのである。
ただし、その自分勝手に思い当たらない人はいない、誰もが自分の弱さに思い当たるのがこの小説が普遍的な価値を持つ理由だと考える。
クエスチョンマークが48個出てくる。まったくカタいんだかヤワラかいんだかw
- 「私共とは何だ!何故私とは書かぬ、何故複数を用いた?」
- 「神聖なる恋とは何事?汚れたる行為の無いのを弁明するとは何事?」
- 「妻を子に奪われ、子を妻に奪われた夫はどうして寂寞(せきばく)たらざるを得るか」
恋愛面の構図を書くと、小説家は妻子持ちである点でその女性を奪う資格がない、彼氏は無職で将来設計が不確かな点でその女性を奪う資格がないっていう状況。
やや本質はずれを恐れずに書くと、私の偏見かもしれないが、誰もが応援するような恋愛というのは、配偶者のない者同士が将来性もセットで和合することだと、この小説のストーリーの反対として浮かび上がってくる。
しかし今回改めて考えると、それって割とゾーンが狭いんじゃないかなあと感じる。
結婚はお互いの束縛なのか、雇用が不安定だと結婚できないのか、現代的な感覚もその意味では保守的であるように思うが、じっさいそのゾーンに収まらない関係は多いはずで、その多くが窮屈な思いをしているのかなあと余計なお世話。
ところで、主人公の行動が笑えるという感想が多いのかなと思い「蒲団 ウケる」で検索してみたが、多少その向きの感想はあったが、特筆すべき結果は出なかった。
一方で、同意しているのかと「蒲団 同意」で調べたがこれも、多少その向きの感想はあったかなという程度。
「蒲団 納得」で検索すると、もう布団のクリーニングが納得という別件になってしまったっていう。ネタみたいな話。あ、蒲団なだけにネタ。
まとめ、主人公が自ら述懐するように、冷静でありながら抗えない衝動に突き動かされる様にツッコミを入れるもよし、思わず田山花袋と「対話」するかのごとく読み進めるもよし、読んで何か自分の生活が変わるかと言われると具体的には浮かばない、分かった振りにすぎない意味では、私の方こそ「裸の王様」である。

