I me Mine

根暗なマイハートのネジを巻け!

versus


Versus

Versus


大ヒット曲のない本作を高く評価することを「逆ばり」という。
ミスチルが音作りを楽しんでいたのは本作の時期ではないかと思う。
それはメロディに頼りすぎずリズムやビートが前に出る音作りだからそう思うのかもしれない。
本作が最高傑作ではないかなどと言えば、どんだけ深いところで音楽を聴いているんだって感じがする。
でも実行すると沈黙が訪れる。たぶん。

組合せ感想文


組合せ感想文


空中庭園』では、家族が複層的な生活をしていて、その一階層が「ザ・家族劇場」でありと、難しく考えすぎたけれど、要するに家族に隠れて何してるか表と裏のある嘘の多い人達の話だった。
自分も家族に全て話すわけではないけど、家族に隠し立てして一体何を守ろうとしているのか考えたけど分からなくなった。
表と裏と書いたけど、家族の団らんって表かな、裏かな、違うな全面に出すものをセレクトしているんだな。よくお笑い芸人が、家族には面白くない奴と思われていた、学校ではどっかんどっかん笑わしてたのに、という昔話をすることがあるけど。例えば、昼間のパパは男だぜ、という歌もあるけど、でも、昼間パパが仕事頑張るのは家族の為でもあるわけだし、つまり誰しも複層的に生きていて、つまりいくつかの社会の顔を持っていて、例えば会社では課長、地域の消防団放水係、家庭では父親、趣味仲間では釣り仲間の会計係、少年野球の監督など様々な顔を持って生きているのであって、家族はその一階層、側面にすぎない。
しかし、かなりの確度で言えるのは何をさておいても家族が大事ということだ。そして、世界に50億人もいるのに数人の家族の言動に一喜一憂し気持ちを屈折させて生きているのだ。それに嘔吐して終わったのであれば、この小説は救いがなかったが、単行本では、最終話で母と娘のなんとなく救われたのかなという終わり方をしている。
『八日目の蝉』では一歩進んで、家族と血縁を分解して何が本質かってところで、結局は大切にされた記憶が人を強くつなぎ付け元気づけるものだという結論をつかみ取る。この相互作用が同居する家族で連鎖することで強まっていく。
では何故家族を大切にするのかって話に戻り、親が子を大事に思うのはどうしてか。理屈を超えた本能だとは思うけど、自分の遺伝子を受継ぐ生き物に対し抱く自己愛の一種かもしれないし、そういう物語を多く見聞きして刷り込まれただけかもしれないし、自分が大切に育てられた記憶を再現しているのかもしれない。人それぞれでその欲求も物差しで測れたら違いは大きいだろうし、その質も異なると考える。
ある人にとってはトイレットペーパーのように無くては苦痛な生活必需品だし、ある人にとってはアクセサリーのように社会的に認められる為のアイテムなのかもしれない。家族を生活必需品だと思っている人にとっては結婚とは、スーパーで消耗品を購入するのと同じように必要なときに陳列棚にあるものを買うだろう、アイテムだと思っている人はお店にいっても買いたい商品がなければ買わずに帰るだろう。昨今の少子化や非婚化は結婚や家族は生活必需品から、アイテムつまり宝飾品などと同列に思う人が多くなったからだろう。そして、生活必需品と思うか、アイテムと思うかは育った環境によって異なる刷り込みの結果なのだろう。
空中庭園』の家族でも、それぞれの家族感は異なり、妻とその母にとっては自分を取り戻すための唯一のアイテムであり、夫にとっては多少汚れていても毎日つかう茶碗(生活必需品)みないなものであり、子ども達にとっては寄生に近い感覚(生活必需品)、ミーナ先生にとっては嘔吐すべきものであった(大切にされた記憶がないから家族が分からない)。
ただし、この小説が家族を表しているのか、単に社会的な活動領域の狭い人達の閉塞感を表しているのかよく分からなくなってきた。
一方で落語の「六尺棒」は親子げんかの話であり、これを聴いてすっきりしたのは、不満があればケンカをすればいいのだ、親子関係を離縁すると突き放し家から追い出すのだが、気持ちは通じていて嘘がなさそうだ。角田光代の世界と真逆なのである。