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日帰れ!!ホラーハウス弾丸ツアー!!

2016-04-22

【映画感想】まるでギリシャ神話のような人生の佳境 『グランドフィナーレ』

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優雅な朝食と豪華なディナー、だだっ広いプールにアルプスが聳える壮大な景観・・・スイスのリゾート地にある高級ホテルを舞台にしたパオロ・ソレンティーノの新作『グランドフィナーレ』は画面に映る全てが最高級品で覆い尽くされている。

しかし、現実世界と同じように、「高級であること」がそのまま「高尚であること」に結びつくとは限らない。そして、高級品を散りばめれば散りばめるほど、気品がすり抜けていく現象も珍しくはない。その逆に、低俗さと戯れ続けたことによって風格を手に入れたクエンティン・タランティーノのような事例もある。よって、『グランドフィナーレ』の美点を「高級であること」に求めようとする人がいれば、その言葉は疑ってかかったほうがいい。よく比較されるフェデリコフェリーニや、上流階級の苦悩をモチーフにしているという点で共通点のあるルキノ・ヴィスコンティの監督作を、セットや美術の高級さによって賞賛している人間がいたとすれば、その人の審美眼を気にかけることなどあるまい。同じことが本作をとりまく言説にも当てはまる。

とはいえ、『グランドフィナーレ』が「高級さ」で埋め尽くされた作品であるのは紛れもない事実である。では、そこに我々は貴族趣味や、観光の快楽以外で、何を見出せばいいのか。

舞台のホテルに集まってくる人間達は、超一流のセレブリティばかりだ。主人公のフレッド(マイケル・ケイン)は世界的な指揮者であり作曲家である。とはいえ、もっぱら今は隠遁生活を送る身だ。親友のミック(ハーヴェイ・カイテル)は有名な映画監督であり、最新作の脚本をスタッフたちとともに構想している最中である。その他、役作りに励むハリウッド・スター、ミス・ユニバースの美女、そしてなんと世界一有名な左利きの元サッカー選手さえもホテルに滞在している。

一般人からすれば手の届かない存在であるはずの彼らだが、それぞれに苦悩を抱えている。フレッドは音楽への意欲を失い、ミックは監督作の失敗が続いている。挙句に、カップルだったお互いの子供達は破局を迎えてしまう。ハリウッドスターは過去の役柄のパブリックイメージに悩まされ、元サッカー選手は過度の肥満に苦しんでいる。

高級なロケーション、超一流の肩書き、しかし、平穏からは程遠い心・・・。その構図はまるでギリシャ神話に登場する神々を見ているようだ。事実、本作の印象的なショットの数々はどこまでも肉感的で、ルネッサンス期の絵画や彫刻を連想させる(イタリアにおけるルネッサンスとは、ギリシャローマ文化の復活を目指していた)。細かいエピソードの多くが痴情に関係しているのもまた、古代ギリシャの神々のようだ。永世中立国であるスイスを舞台にしたのも、作品の隔世感に加担している。

それでは、ギリシャ神話の多くが、恋愛に関連した騒動を扱っていたのはどうしてなのか。それは、神々が人間の父と母だとすれば、神々も人間と同じく恋愛に対して抑制の効かない性格だったとするのが道理だからである。『グランドフィナーレ』の登場人物たちも、それぞれの世界的影響力を思えば、神に近い存在と言ってもいい。しかし、ソレンティーノは彼等の才覚に焦点を合わせるのではなく、より人間臭い面を強調することによって、ギリシャ神話のような普遍性のある物語を紡ぎだそうとしたのではないだろうか。

そして、ギリシャ神話と同様、欲望に忠実な割にはどこか小心者の男性達と違って、現実主義で直情的なのが女性達である。本作で、温泉につかりながらミス・ユニバースの完璧な裸体に見とれるフレッドとミック。しかし、その最中、ミックと旧知の仲である女優、ブレンダ(ジェーン・フォンダ)がホテルを訪れる。ミックの新作はブレンダを主演に構想されていたのだ。慌ててブレンダに会いに行くミック。ブレンダの濃い化粧とウィッグ、派手なファッションに容赦なく照明が当てられて映し出される。ミス・ユニバースの自然な魅力との残酷な比較だ。そして、ブレンダは残酷な事実をミックにぶつける。老齢になっても夢と色恋で頭が一杯のミックと違い、ブレンダは計算高く強かな老女優になっていたのである。

フレッドにしても、例外ではない。ホテルの中では優雅な毎日を過ごしているが、現実は甘くない。最愛の妻がどのような姿になってしまっているか・・・それは彼が目を背け続けている現実の重みだ。

『グランドフィナーレ』は「高級さ」を纏いながらも、だからこそ全ての人生の佳境に訪れる苦悩と決断が真に迫って描かれる。歓びも苦しみも降り注ぐ人生を肯定するエンディングに至るまで、片時も目が離せない傑作。

2016-04-19

【アイドル本を採点する・その3】 『武道館』感想

武道館

武道館

いまや、アイドルにスキャンダルは切っても切り離せない存在となった。これだけSNSが発達した時代では、ちょっとした目撃情報もすぐ拡散されてしまうし、アイドルになる以前の発言や交友関係ですら簡単に暴露されてしまう。それらの大半は、普通の人間にとってはごくごく当たり前の行為でなかったとしても、「アイドル」という冠がついた瞬間に禁忌となる。最たる例が恋愛スキャンダルだろう。一般的なアイドルの全盛期が十代後半だとして、少女が人生で一番恋愛に夢中になってしまう時間をファン(と企業)に捧げる残酷なシステム・・・アイドルとはそう定義することもできるだろう。

桐島、部活やめるってよ』で高校生のリアルな心情を描いて若者達の共感を得た朝井リョウが、アイドルの心情を描くことに挑戦したのが『武道館』である。握手会、リリースイベント、動画配信グラビア撮影などなど、アイドルグループ”NEXT YOU“の活動の描写は、自身もアイドルファンだと公言している朝井らしく緻密で、アイドルファンなら「あるあるネタ」として楽しめるだろう。それ以外の読者にも、未知の世界を覗き見する楽しさがあるはずだ。その中で、「アイドル」としての自分と年相応の十代女子としての自分の狭間で葛藤する少女達の姿が繊細に綴られていく。『桐島〜』的な心理描写を期待する朝井ファンの期待にも応えてくれるだろう。

だが、本作がアイドル本として画期的なのはそういった活動のシミュレーション心理描写にあるのではない。というのも、それを売りにするのであれば、既存のアイドルドキュメンタリー(主にAKBG関連)で事足りてしまうからだ。『武道館』が興味深いのは、現在のアイドル界で起こっている問題点やスキャンダルを引用しながら、それらを過渡期の現象と捉えている点にある。

「今目の前にあるほとんどは、最近生まれたものばっかり。ずっとずっと昔から当然だと思われてきたことなんて実はほんのちょっとだけ。だから、目の前にあるほとんどは、これから新しく生まれ変わる。」

卒業していく最年長メンバーが、残されたメンバーだけに贈ったメッセージは、本作のハイライトだろう。ここで言う「目の前のほとんど」には、アイドルの恋愛スキャンダルに対する過剰な反応や、握手券商法と呼ばれるCDの販売なども含まれる。

以前は純粋に、可愛いい女の子が可愛く歌って踊ることで大衆から愛される存在だったアイドルは、時を経て複雑かつ繊細なシステムに変容した。ファンの期待のハードルは高くなり、マーケットの規模は広がり、アイドルの数も明らかに飽和している。しかし、朝井はそんな現状を「新しく生まれ変わる」としている。今はまさに、「アイドル」という存在への接し方に、ファンも企業も追いついていないだけなのだと。

今、アイドル商法で蔓延している傾向がある。彼女達の日々の努力を公開し、「普通の女の子」が「アイドル」として生まれ変わる過程をファンと共有しようとするドキュメンタリー的な手法だ。それが悪だとは言わないが、しかし、本当に多くのドキュメンタリーで描かれているように、彼女達は「普通の女の子」から変容してしまった存在なのだろうか?「アイドル」になった瞬間に、彼女達の中の「普通の女の子」は消滅してしまうのだろうか?

本当のことはアイドル本人にしか分らない。しかし、自分も含むアイドルファンに必要なことは、アイドルたちの「アイドル性」と「人間性」が矛盾するものではないと理解する寛容さではないだろうか。当然、「人間性」には「普通の女の子」としての部分も含まれている。

ホラーハウス的採点/77

2016-03-31

【アイドル本を採点する・その2】 『前田敦子の映画手帖』感想

私、映画にはまっています。

そんな書き出しからして、何か違和感を拭えない本書は、AKB48の不動のセンターだった前田敦子が、グループ卒業後に発表した、映画エッセイである。

一日五本見ることもあったというのだから、その熱の入れようは本物である。卒業後、テレビや歌手活動ではなく、映画を中心に女優業を続け、それなりに評価もされている前田だが、そんなキャリアには本人の嗜好が強く反映されているのだろう。

役者に限らず、映画に出たい人や作りたい人は多いが、そういった人々にも映画を見ない人は多い。その弊害は調べたことがないのでよく分からないが、少なくとも前田が大物映画監督から愛され、重用されている事実は、事務所の後ろ盾を差し置いても、本人の映画的素養が関係しているのは間違いない。

そんな前田の映画生活を垣間見ることができる本書は、紹介されている作品も鑑賞方法もバラバラである。基本的に映画館へ足を運ぶことが多い前田だが、DVD見た旧作を紹介することも少なくない。幼い頃、VHSで見たアニメ映画を今になって紹介したりもしている。あまりジャンルの選り好みをしないのは模範的な映画ファンの姿勢であるものの、他人から薦められて見た映画の感想が、あまりにも無邪気すぎてやや面白みに欠ける。

はっきり書けば、この時点で多くの映画ファンは本書を映画本としては信用しない。優れた映画本は、いかにランダムな映画鑑賞をしていようと、その核となる本人の視点がしっかりと存在しているものだ。しかし、本書を通じて前田からは一貫した視点があまり感じ取れない。あえて書けば「感動」、「共感」の二語が賛辞として連発され、「本当に」という強調も劣らず頻出する。しかし、これらは映画について語る語彙が少ないだけで、特に注意することではない。例えば、『ファミリー・ツリー』についての感想では、思春期の娘が父親に、母親が浮気していたと告げるシーンの演技を「本当にすてきでした」と表現する。このような頓珍漢な文章も、映画を語ることに慣れていないことの表れだと思われる。

よって、映画本としてはほとんど機能しない本書だが、前田敦子という個人を語るうえでは非常に興味深い一冊だ。自分にとって、AKB48のセンターだった頃の前田敦子は、大きな違和感だった。どうして、遥かにスタイルの良い篠田麻里子小嶋陽菜ではなく、遥かにパフォーマンス力のある大島優子ではなく、遥かにアイドル適性のある渡辺麻友ではなく、前田敦子がセンターだったのか?それは、前田がセンターでしか生きられないアイドルだったからである。

今挙げた(元)メンバー達は、全員がセルフプロデュースに優れ、自らの長所と短所を完璧に把握していた。それが、パフォーマンスやテレビ番組での立ち振る舞いに反映されていた。しかし、前田はあまりにも自分自身について無自覚だった。「やる気がなさそう」という共通点から島崎遥香と比較された時期もあったが、島崎のそれもまた、(資質もあるものの)セルフプロデュースの一部である。前田の場合は無自覚的にアイドルを演じないことが、演じて当たり前のアイドル業界で異物として扱われ、持て余された。そんな彼女は、センターに置かれることで、周囲の輝きを吸収し、自らの上で倍増させる装置となった。「月」と書けば聞こえはいいが、その実はブラックホール」に近い、危ういフォーメーションだったと今にして思う。活動最初期であったからこそ、そんな異様さがデフォルトとして受け入れられたのが当時のAKB48だったのだろう。

本書はそんな、前田の「無自覚さ」が溢れている。アットランダムな紹介基準、どこかちぐはぐな文章、そして、バリエーションの無い語彙・・・要するに、決定的なつかみどころのなさ。それこそが、前田敦子その人なのである。

その証拠に、本書を読んだ貴方は前田敦子がたくさん映画にはまっている」以上の感想を抱くだろうか?カメレオン俳優ならぬブラックホール俳優として、前田は今日もスクリーンに佇んでいる。

ホラーハウス的採点 55/100

2016-03-26

【アイドル本を採点する・その1】 「乃木坂46物語」感想

乃木坂46物語

乃木坂46物語

週刊プレイボーイ誌での連載をまとめた一冊。メンバーのインタビューを元に、乃木坂46の軌跡を振り返っていく。その構成は、映画『悲しみの忘れ方 Documentary of 乃木坂46』に似ていると言えるだろう。しかし、映画との最も大きな差は、選抜メンバーのみならず、より多くのメンバーが公平にピックアップされている部分にある。

映画では、乃木坂46象徴である生駒里奈エピソードが中心に置かれて、その他のセンターやフロント経験者がほぼ同等に描かれていった。しかし、シングル選抜経験の少ないメンバーにはほとんど光が当てられず、そのファンにとっては消化不良な内容であった感は否めない(映画自体の出来はともかくとして)。

しかし、本書ではアンダーメンバ−や二期生のエピソードも数多く盛り込まれている。例えば、映画ではラストに登場しただけだった二期生のエース、堀未央奈は、オーディション時の様子から、初選抜にして初センターに指名されたときの苦悩などが、本人の証言を交えて事細かに描かれていく。今では乃木坂一の明るさで頭角を現してきた二期生、北野日奈子も、オーディションに至るまでの半生に落としていた影が明かされ、ファンの驚きを誘うだろう。言うまでもなく、こういったエピソードは、映画が打ち出していた「乃木坂46=影のある女の子達が集う場所」というイメージに当てはまるものである。一期生との比較で、まだまだ世間一般での知名度を獲得し切れていない二期生だが、「乃木坂46らしさ」は受け継がれていることが分かる。

そう、「乃木坂46らしさ」とは、2015年乃木坂46を語る上で重要なキーワードだった。何しろ、乃木坂46が夏に開催した全国ツアーのテーマが「乃木坂らしさ」であり、コンサート中にも「乃木坂46らしさ」を表現する時間が設けられていたのだから。

AKB48の公式ライバルとして結成された乃木坂46だが、結成から4年以上の月日を経て、最早、そのコンセプトは溶解したと言える。むしろ、AKB48を踏襲しながらも、別の可能性を追求したグループとして、広く認知されてきているのではないか。なので、CDの売り上げが右肩上がりであり続け、アルバム発売、グループとしての主演ドラマ放映など、大きなトピックが相次いだ2015年で、一度グループの目標をリセットする意図があったのではないか。本書や映画といった、ドキュメント要素の強い表現が相次いだのも、そうした意図の一環だったと推測できる。ついでに書けば、ドラマの主題歌で全国ツアーのテーマソング的な位置づけだった「太陽ノック」のセンターを、2年ぶりに生駒里奈が務めたことからも2015年が活動の節目になる年だったのは間違いない。

しかしながら、こうしたグループの打ち出す「乃木坂らしさ」に若干の不満がないわけではない。というのも、「乃木坂らしさ」として語られる要素が、バラード曲であったり、メンバーの負の部分を挙げたりと、あまりにも一面的な「影」に偏りすぎているように思えるからだ。例えば、エース格の白石麻衣西野七瀬のファッションセンスの高さや、秋元真夏高山一実のバラエティー能力などもグループの魅力を形成している要素の一つであるはずだし、楽曲にせよ、「乃木坂らしさ」に固執するあまり、近年の表題曲が意外性に乏しくなっている印象がある。

自分が「乃木坂46物語」を読んで感じたのは、「乃木坂らしさ」のもう一つの軸としての、アンダーライブの可能性だ。映画では完全にオミットされていたアンダーライブだが、本書では開催の経緯から、発展に至るまでの流れが重厚に描かれている。アンダーライブに賭ける「非選抜メンバー」の意気込みや、創意工夫に富んだライブ、中心メンバーであった井上小百合伊藤万理華に起こった確執と和解など、そこで描かれていく事象は、運営側の打ち出す「乃木坂らしさ」とは違った熱さがある。

本書では、2015年の全国ツアーで、選抜とアンダーの心が一つになったかのような結論がなされている。しかし、ファンの実感として、その結論が共有できるかは疑問だ。もしも、本当に二つの「乃木坂らしさ」が融合したなら、乃木坂46キャプテン桜井玲香が言うところの「どこにも負けないグループ」になれるのだろう。

ホラーハウス的採点 72/100

2016-03-14

『アーロと少年』がコケたアメリカについて思う。けっこう病んでない?

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今年の米国アカデミー賞を見たんですけど、酷かったですね。正直、受賞が何かとか誰かとかはどうでもいいんですよ。僕はアカデミー賞ってアメリカにおける紅白歌合戦だと思っているから。なんとなく権威が持続しているように見えるけど、その実がすごく保守的な価値観に根付いていて、選考基準とか言及し始めたら腹しか立たない。でも、年中行事だと思ってみていればいいんですよ。初春の風物詩っていうかね。

でも、今年はスパイク・リーの発言があって、それを受ける形になってしまった。僕はスパイク・リーのファンでもないし、むしろ映画監督しては苦手。だから、彼の言うことも「またか」くらいにしか聞いてなかったんだけど、アカデミー側の反応があまりにも鈍感で、驚きました。

リーが「黒人がノミネートされていない!」って怒ったのって、単に映画界だけの話をしているわけじゃないじゃないですか。例えば、2015年アメリカの音楽界でセールスと評価と話題性を一番両立させていたミュージシャンって、ケンドリック・ラマーとディアンジェロだった。ディアンジェロはリリースこそ2014年でしたけどね。で、二人とも楽曲に人種問題を反映させていた。ファーガソン事件もそうだし、リリース後にもフレディ・グレイ事件が起こりましたよね。

『ストレイト・アウタ・コンプトン』が大ヒットしたのって、そういう時流を反映している。『クリード』にせよ、若い黒人監督が黒人主演で『ロッキー』サーガを撮ったっていう背景があるわけでしょう。にも関わらず、アカデミーが両作を主要部門にノミネートしなかったのは感度が低いとしか言いようが無い。リーの怒りはそこにあるはずなんです。

でも、アカデミー賞が始まって、くだらないMCが延々と続いたところで「ダメだこりゃ」となりましたね。論点がズレすぎている。普遍的な意味での「映画における人種問題」にすり変えていたけど、アメリカで警官に黒人が殺されたのはいつだよ、ついこの間だろ、っていう。チューバッカ弁論を思い出しました。それくらいの暴論。

ほんで、直後にスーパーチューズデーでしょ。トランプ候補、ヤバいですね。あんな漫画の悪役みたいな人がここまでのし上がってきちゃった。最近ウェルベックの『服従』を読み終えたばかりだったから、恐怖は募りました。アメリカの実在する右翼政治家と、フランスの架空のイスラム政権とじゃ、比較にならないかもしれないけど、国民が生温く賛同しているうちに国家が狂ってしまう構図は一緒。ちょっとこの一ヶ月足らずで「アメリカ大丈夫かよ」って気持ちになってます。

そんなテンションで『アーロと少年』を見ました。まず、抱き合わせの『ボクのスーパーチーム』が割合良い出来で安心した。もしかしたら『アーロ』より良かったかもしんない。最近のディズニー/ピクサーの短編の酷さはすごかったけど、これは感動した。で、これがヒンドゥー教徒移民である父親と、アメリカナイズされちゃってる息子の話なんですよね。どうも監督の実体験らしい。

これが『アーロ』とセットになっているのは考えさせられましたね。絶対に意図的だと思う。『アーロ』は平たく言えば、恐竜が滅ばずに文明を持って、人類が誕生しても存在している架空の世界の話。あくまで存在であって、共存じゃないんです。恐竜同士も、肉食獣は牛を放牧して食料にしているし、草食動物は農場を作って暮らしているし、お互いに捕食の関係が無くなった分、接点がなくなっている。干渉もしないし、されない世界。

で、ベースになっているのが西部劇なんですよ。途中、『赤い河』とか『怒りの河』みたいなシーンも出てくる。

これ、つまり、インディアンを侵略しなかった場合のアメリカ史、と置き換えることも可能で。もしも白人と原住民がお互いに干渉せずに住み分けていたらどうなっていただろう?という世界。もちろん、子供向けというコンプライアンスが働いているのは事実だし、それで描写がヌルくなっているとも思う。でも、情操教育として理想主義を見せるのはいいじゃないですか。キッズ向けの映画で、こういう優しい世界を見せるのは悪くないでしょう。

つまり、『アーロ』は現在のアメリカと対照的なユートピアを提示していると言える。でも、これ、アメリカでコケてるんですよね。ピクサー/ディズニーは『アナと雪の女王』でベタな個人主義をやった後、『ベイマックス』でも『インサイド・ヘッド』でもわりかし登場人物の個性が無条件に肯定される映画をやってきましたよね。ベイマックスなんてダッチワイフみたいなもんでしょ。それが良いんだけど。『アーロ』は久しぶりに他者との関係性の中で成長する主人公を描いている。しかも、共存はできないかもしれないけど、相互理解には至れるよね、というメッセージがある。

映画の出来としてはかなり良く言ってB+。泣こうと思えば泣ける。このモチーフをなんで2015年に?という気もしないではない。でも、ピクサー作品の水準は満たしていると思いますよ。これが受け入れられなかったアメリカは、今、けっこう病んでるのかもしれない。まあ、深読みだと信じたいですけどね。