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法政大学学生会館文化史 1974-2004

2014-11-30

はじめに

 2004年に解体された法政大学学生会館。1973年に市ヶ谷キャンパス内に建てられ、80年代はインディーズ・アンダーグラウンド音楽の殿堂として、「西の西部講堂・東の学館」と並び称されました。その学生会館の文化的営みを再び掘り起こすという目的でこのブログを開設します。主に、学生会館における文化史(音楽・映画を中心)の情報発信をし、学生会館の関係者インタビューも掲載していきます。法政大学学生会館を総括し、未来へと活かす試みです。
 
 全ての記事に関するお問い合わせ先→ w.higher@gmail.com

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2013-07-04

イベントのお知らせ

 2013/07/08(月)に以下のイベントで、「法政学館文化史」についてゲストスピーカーを務めることになりました。
 
 タイトル:「法政学館文化史を今、考える。」
 時間:18:40開始予定
 場所:法政大学多摩キャンパス
 教室:社会学部A棟(4号館)1F、多目的ゼミ室
 
 当日は、音源や映像資料の紹介を中心に30年間の文化史を概観。参加者とのディスカッション、イベント終了後には懇親会などを予定しています。
 
・関係資料のデータ(ダウンロード可能)→ http://p.tl/Kc_s

※イベントは終了しました。ご参加ありがとうございました。

2011-12-23

粉川哲夫氏インタビュー

 東京経済大学教授、批評家、映画評論家の粉川哲夫氏にインタビューを行いました。
 プロフィール・著作やテキストなど詳細は、HP「シネマノート」を参照。→ http://cinemanote.jp/

◆2011/11/11 東京経済大学 地下スタジオにて

――学生会館に関わった当時の事についてお聞かせ下さい。

 僕がアウトノミアのことを『日本読書新聞*1なんかに書いていたのを「支援連」*2の人達が読み、誘いがかかった訳です。支援連の藤木マリ子さんたちは、党派で権力に対抗するのではなくて、いわば横断的な関係の中で、少数の人間達が連帯して闘っていくっていう方法が「アウトノミア」*3と非常に似ているんじゃないかと考えた。何回か研究会などの集まりを持ちました。大きな集会もやった。当時、80年代の初めの頃、支援連をのぞくと、いわゆる新左翼の人達はアウトノミアには関心を持たなかった。アウトノミアから派生したと歪曲された「赤い旅団」のほうには関心を持つ党派はあったんですがね。
 法政の学館で活動していた人達のなかでは、例えば、リアルの吉田シゲオさんとはよく話をしました。そんなことから、「一度アウトノミアの事で何かやりましょうよ」ってことになっていったわけです。学館でのアウトノミア集会はその流れで実現したんです。
 日本読書新聞などに書き連ねていた文章は、当時のマイナーなメディアでも取り上げられなかったから、「密輸思想」だって言っていたんです。スクウォッター(空家占拠)とか電波ジャックとかグラフィティ(落書き)などの運動についても紹介しました。そういう雑文をあとで『批判の回路』*4という本に入れたら、平井玄さんが興味を持って、僕に連絡してきたんですよ。読者としてね。彼は、竹田賢一さんらと『同時代音楽』という同人誌をやっていて、新宿のジャズ喫茶でニュージャズ(当時は「フリージャズ」という言い方はしなかった)の話なんかをしました。僕は60年代にアルバート・アイラーに入れ込んでいたんですが、世代が少し下の平井さんは、ジェームズ・ブラッド・ウルマーのことを教えてくれたのをおぼえています。その後、自由ラジオにも彼を引っ張り込んだりもしてしたんですが、アウトノミアの弾圧で捕まったアントニオ・ネグリが獄中立候補したときにそれを支援する集会をやろうっていう話が支援連の方から出たとき、法政の学館との関係が深かった平井さんなんかのアドバイスもあって、当日、学館にアンテナを立てて、臨時の自由ラジオ局を開設したりもしました。演奏もスピーチも電波で流したんですよ。ネグリは獄中から手紙を送ってきて、それを代読しました。竹田さんのA-Musikの演奏もありました。当然、当時のことだから機動隊とかも聴いてるわけだよね。まあ、聞かせてしまうという意味でやったわけですね。

――「アウトノミアのコピーではなくその創造性の『密輸入』を通じて、"運動の想像力"のトレーニングを積むこと」

 「密輸入」と僕があえて言ったには、日本に思想は入ってくるけれども、権力に対抗する思想とかアイデアとかは入ってこない。ときには禁止されてさえある。それを「密輸入」するという含みですね。

 同時代音楽通信12 6月は闘いの国!? アウトノミアの「密輸入」と右翼への武装自衛(平井玄)
 『インパクション』25号(1983/09/15)より部分転載

●メディアの牢獄から解放のアウトノミアへ
 7月に入ってイタリアでは遂にトニ・ネグリが釈放されたようだ。本誌でも前号から小倉利丸氏が紹介されているように、国家権力による支配状況の新たなレヴェル――記号論的弾圧とも言うべき、バラバラな個人・グループを権力のデッチ上げたシナリオに基いて組み合せる――の国際的な同質性においても、社会的想像力のルツボとしての社会革命の面においても、また暴力―軍事の帝国主義本国における意味の問題においても、おそらく68年以降の資本主義中枢諸国の中でも比類なく興味深く創造的なケースとして、イタリアの"アウトノミア"運動は我々の引用と活用を待っていると言える。ネグリ自身獄中から「選挙に出て当選し、その結果出獄できた事がその豊かさの一般を示している。」6月19日の法大学館大ホールにおける催しにはそうした希望が込められていた。粉川哲夫氏によって、その後の"アウトノミア"の獄中運動の進展、なお続く弾圧、その意味するものへの考察が語られるのと交互に、命名をすりぬけるインプロヴァイズト・ミュージックと言えるサイイング・Pトリオ、フォークではない新しいアコースティック音楽を指し示す友部正人のニュー・バンド(彼は「連赤」を歌った稀有なシンガー)、リアル、A-MUSIK、そしてパフォーマンスを下から活性化しようとしている霜田誠二、風巻隆、ヤタスミらの人々の蠢きがクロスする。それは、朝鮮のマダン劇を擬して集った人々の右脳と左脳の両方と刺激して、トータルな批判的理性と批判的感性を創り出してゆこうとする試みの第一回でもあった。
 確かに、資本主義の「先進性」を逆手に取る"アウトノミア"的な運動の可能性を、そう楽観的にだけ見ることはできないが、この集会がそのまま自由ラジオのトレーニングとして放送されたように、アウトノミアのコピーではなくその創造性の「密輸入」を通じて、我々は音楽を含む"運動の想像力"のトレーニングを積むことができるのである。

●「リダン」弾圧に反撃する緊急音楽行動
 一方、6月30日には同じ法大構内正門付近で、演劇集団・リダンの公演に対する右翼の脅迫電話から予想された妨害・襲撃に対抗するGIGが行なわれた。32のバンド・個人・音楽雑誌・イヴェンターらによるアピールは次のように語る。
 『右翼ウンコ集団の買弁民族主義を嘲弄する――天皇の首を斬り落して何が悪いのか!――リダンの公演ポスターに描かれた幕末錦絵風図柄「ヒロヒト馘首の図」が右翼ファシスト集団どものゲキリンに触れたという。……ジョートーではないか。……小ぎれいなレストラン等で行なわれるたくさんの小市民演劇の文化装置としての育成と、そこからハミ出る部分への徹底した圧殺攻撃。ここには、我々音楽に関わる者総てが黙って通り過ぎることのできない断固として共有すべき戦線がある。……しかし我々は、ラダンの芝居が「政治的」だからその公演を支援しようというのではない。むしろ干からびた政治主義から能う限り遠いからこそ、そうした発想が出てきたのだろうと考えている。問題は真空中の「表現の自由」ではない。音楽を創り出すその現在只今この地点ラダンの諸君と共に起ち、己の肉体をもって国家権力の私兵――骨の髄からドレイ根性に染まった者たちと戦うことである……』
 日帝権力が国家―市民社会の右傾化―軍事侵略体制化への深い衝動を隠そうとしない今日、権力の暴力装置の部品として巷の右翼ファシスト業界の商売はますます繁盛することだろう。しかしこの日、ヒロヒトがカナヅチで額を叩き割られている大きな絵看板を正面にデカデカと立て掛けて挑発したにもかかわらず、営業上の理由からか(?)、お客にでもある右翼どもはとうとうやって来なかったとはいえ、ミュージシャンたちはヘルメット・旗ザオ姿で防衛隊を編隊し、ファシストの襲撃を迎え撃とうという気概を示している。このことの意義は決して小さくないだろう。
 このように、一方で高度テクノロジックな情報資本主義に沿った社会の更新を進めつつ、また一方で右翼的な、天皇制的な要素を温存し、増殖させていこうとする支配体制のパラドキシカルな危機の全幅に対応し、闘い抜くことのできる<音楽=運動>の陣型が確実に形成されつつあると言えるだろう。


――学生会館の政治的機能・価値とは? 「スペースの政治」をキーワードに

 当時、僕は「スペース」の問題、「スペースの政治」という問題を考えていたわけです。それは、都市に関心を持っている人にはある意味当たり前の話で、すでにアンリ・ルフェーヴルなんかが「パリの5月」、「5月革命」とのからみで言っていたことです。「広場」の機能とか、都市の街路(ストリート)の機能とかがいかに政治行動と切り離せないかという事を論じていたわけです。もっと古い時代のことを考えれば、ヴァルター・ベンヤミンも論じていた。例えば、フランス革命があって以後、パリの都市改造が行われるわけです。それは結局、「革命」ができなくなる空間を作る事です。政治行動をイデオロギーの側からではなく、スペースの側から捉え直すことです。フェリックス・ガタリとジル・ドゥルーズも「スペースの政治」ってことをいっていた。ミクロなスペースが変わらなければ何も変わらないと。ミシェル・フーコーの監獄論もそうです。スペースと政治っていうのは60年代以後のヨーロッパ的コンテキストでは常識だったわけ。けれど、日本ではそれがなかなか具体的には捉えられなくて、イデオロギー(スペースに入れる内容)を問題にしてしまった。器の中身の違いは問題にされても、器自体は問題にならない。日本では器は器、内容は内容っていう発想が強かった。だから、僕らがやっていた自由ラジオの場合も、電子スペースの政治ということを考えながらやっていたんです。
 法政の問題にもどると、大学というのは器としても自治の場だという意識がかつてあったと思うんですね。大学外とはスペース的に違うんだと、大学の中は学生が自主権を持って自主管理できる場所だっていう発想があった。東大の駒場寮もそうだったけど、大学内の学生スペースは、「アジール*5的なスペースだった。それがどんどん崩れていく。大学当局が崩していくわけですよね。それは国家権力の機能変化と繋がっているわけだけれども。都市もそうですね。大学の中のスペースの自律性・自由性というのは失われていくわけです。
 僕が法政の学館を面白いと思ったのは、政治的なアートの空間だった点です。主催者たちが、政治文化のイベントを実際に運営してきたからなんですよ。都心でね。ささやかな形や臨時的な形ではあったかもしれないけれど、一つの政治的かつアート的な「イベント・スペース」として、刺激的なイベントをやり続けてきたところは他になかったわけですよ。スペースはあったとしても、イデオロギー的な、つまり路線がはっきりしていて、色々な出演者が登場する事は難しい場所が多かった。そういう仕切りを外しということでしょうね。当時の学館内は党派のせめぎあいの場だったから、運営していた人たちは「狭間」をくぐってやっていくのは非常に難しいって言っていたけどね。法政は非常に戦略的に党派の間を縫って、クリエイティブなイベントを打つということをやってきたんだね。

――2004年の学生会館解体について

 2004年っていう時代は、9・11も終わってるわけでしょ? この時代になると、僕なんかは大学に何も期待していなかったですね。状況的に見て、もう90年代からそうですがありのままの大学の機能に期待するものはほとんどなくなった。東大の駒場寮とか京大西部講堂に対する圧力は、単に権力が反権力を潰すという形ではないわけだな。砂漠の穴に飲まれていくような感じで、命をかけて反対するっていうことはできなかった。正直にいえば、法政の学館が終わりになったっていうのは「そうか」というような反応しか持てなかったんですよ。もうそれ以前に大学だけでなく、都市も他のスペースも、ガサガサになってたから。もうかつての法政ではなかったですよ。キャンパス自体がジェントリフィケーション*6、都市の優美化で小ぎれいになっていく。もちろん小ぎれいにする為にはそこにあった「うさんくさい」ものとか、低収入で暮らしている人たちをなぎ倒していくわけ。排除していく。80年代は地上げブームだったんですね。それと似たようなことが学内でも起きていたわけで、ある意味で学館なんかも「うさんくさい」場所になっていたわけですね。筑波大のことなんか、もう忘れられているんじゃないかな? なんであんな所に建てられたかというと、「集会ができないようにする」ためなんですよ。それを意識して作ったわけです。そういうロジック、空間の政治を権力側、組織者達は意識していた。建前はきれいな場所を作りましょうとか、勉強や研究に好都合スペースにしましょうとか言っても。だから、もう法政の学館解体は驚きではなかった。2004年ではね。打たれるイベントの数も少なくなっていたし、他ではできないから学館でやるっていうイベントはなくなっていったんです。
 90年代に法政の学館でやっていたノイズとかインプロヴィゼーション性の強い音楽は、当時、他にやる場所がなかったんですよ。そこをフォローしたっていうことはアートのレベルではすごく貢献したと思う。どこでもできるってものではなかったから。しかし、この時代に学館ホールでのイベントに関心を持った人は、政治に関心を持った人よりも、狭い意味での「アート」系の人だと思います。しかも、一般の学生は自分のキャンパス内のレアな出来事にそんな関心を持たなかった。だからそういう意味で特殊な場所になっていった。90年代になると、政治意識自体がバブルでズタズタになりはじめるんですけどね。

――学生会館解体のその後 「学内自治システム」及び「自由空間」の剥奪について

 (法政大学での2006年からの逮捕劇については)僕は法政の学校運営の失敗だと思う。結局、弾圧という形になっちゃうというのは、管理が下手なわけだ。今はソフトなスムーズな管理というテクニックがいっぱいあるわけですよね? それがあるにも関わらず、できなかったのは学校がダメなんですよ。経営的に。スペース・マネジメントの古い部分がでちゃったのは、学校がまだ企業化しきれない部分を残していたわけで、かわいいんですけどね。学内の党派を悪玉にして弾圧する。古い形の対立を作り、それを排除することで解決しようとする。これは、管理の失敗に過ぎないんですよ。もっと進んだ組織っていうのは、そういう失敗しないんだよ、今は。そっちの方が怖いのでね、失敗したほうがまだかわいいと思うんですけれど。
 ただはっきりしていることは、大学っていうのはリアリティの一線からずれちゃってるということです。それは無意識にでも学生たちは気付いていて、だからそこで体張ることをしないんだよ、今。学内スペースの自治を取り戻そうとか、あるいは大学の民主化とかいっても、大学自体、いやそれを囲む都市や自治体自体がそういうこととは無縁になってしまっている。だから、学生も、そういう夢の場としては実際上大学に期待してないんだから。僕自身も、学生は大学に何かを期待しないほうがいいと思ってる。
 大学が今のまんまやっていったら、どのみち潰れちゃうんですよ。だから、どんどん潰した方がいい。そしたら全然新しいタイプ大学がでてくる。これはもう世界的にそうなるでしょう。例えばいまネットの大学*7があるわけ(通信教育とは違う)。世界中から教員を集めて、面白い授業が受けられる。ネットで遠隔的にやる分、フェイス・トゥ・フェイスの分もきっちりやる。日本では、文科省の許可が要るからそういう学校がつくれない。今後、学生がどんどん大学なんてやめちゃって、学校が成り立たなくなるようになってから、そういう試みを考えなおすというパターンなんだね。しかし、就職とかいろいろしがらみがあるから、大学をダメだと思っていたって、辞められないじゃない? 多くはね。大学卒業しないと就職に困るっていう条件がいっぱいあるわけだよね。(権力システムの問題として)不安感を醸成するのが依然として管理のスタイルになっているしね。既存組織を生き延びさせる為にそれが役立つってわけ。でも、そんなことを続けていると、才能のある学生はみんな海外に行っちゃうかもね。

――その流れに抗する為に 「大学で面白いことをやれば良い」

 大学って、物理的な場所としての可能性はまだまだいくらでもあるんですよ。図書館だってあるでしょう。コンピューターも揃っている。しかし、学生のほうは、せっかく高いお金を払っているのに学校に来なかったりする。学生が寝たりするから、先生もうんざりする。その結果、授業の質も落ち、学生は月謝に見合ったものを受け取れなくなる。教室に芸人とかミュージシャン呼ぶこともできるけど、あまりやらないよね、先生の方も。*8大学はいま、これしちゃいけない、あれしちゃいけないっていうね自主規制がものすごく強くなっている。学生はバイトに追われて、バイトの現場で「わかりやすい」フォーマットをたたきこまれて、(まあ洗脳ですけど)大学の授業の「わかりにくい」のが受けつけられなくなる。この分では、いずれ大学自体が崩壊するでしょうけど、それ以前に、教員も学生も、やれることはやっておいたほうがいいと思います。大学で何時間かを過ごすなら、そのあいだだけでも意味のある場にしたらいいと思いますがね。僕はそうしてます。

――長い時間、ありがとうございました。

無縁のメディア 映画も政治も風俗も (ele-king books)

無縁のメディア 映画も政治も風俗も (ele-king books)

映画のウトピア

映画のウトピア

*1http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%AD%E6%9B%B8%E6%96%B0%E8%81%9E

*2東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議

*3:粉川哲夫『メディアの牢獄 コンピューター化社会に未来はあるか』より「イタリアの熱い日々――街路と個室を結ぶメディアヘ」を参照 http://cinemanote.jp/books/medianorogoku/m-006.html

*4:全文掲載 http://cinemanote.jp/books/hihannokairo.html

*5http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%AB

*6:粉川哲夫『ニューヨーク情報環境論』より「ジェントリフィケイションの大波がきた」、『シネマ・ポリティカ』より「ジェントリフィケーション」を参照 http://cinemanote.jp/books/cinemapolitica/c-011.html

*7:「バーチャル・ユニバーシティとフィジカル・キャンパス ――いかにして大学を再生するか」を参照 http://cinemanote.jp/articles/1999/1999_%E5%B9%95%E5%BC%B5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%8899_021.html

*8:「教室を教室でなくするチャレンジ」を参照 http://anarchy.translocal.jp/shintai/

2011-12-20

平井玄氏インタビュー

 法政大学学生会館と関係が深く、ロックス・オフ草創期にアドバイザーとして関わられた、近・現代思想、音楽文化論に詳しい平井玄さんにインタビューを行いました。当時の音楽シーンや文化的土壌の解説、学生会館解体以後の法政大学にメスを入れるロングインタビューです。プロフィールはこちらを参照→ http://p.tl/QyA0

◆2011/11/14 新宿の喫茶店にて

――法政大学学生会館に関わった経緯

 発端はよく覚えていないんですが…おそらく竹田賢一さんが法政の「ロックス・オフ」のメンバーと接触したんだと思うんですよ。竹田さんはぼくにとって、音楽と政治、その根本から考える思想の多くの面で先輩といえる人ですね。あるいは彼らの方が接触してきたのかな? いずれにせよ、その中心メンバーが守屋君、安井君、あともう一人、後にディスク・ユニオンのジャズ関係のジャケットデザインなんかをやっていた与野君だった。そこでは、灰野敬二さんとかいわゆるアバンギャルドな音楽をやるミュージシャンを呼んで、他のライブハウスとかではできないようなこと、非常に面白いイベントが打たれていたんですね。80年代の初めに「天国注射の夜」という名の奇妙なコンサートがありました。法政の学館から始まって、日比谷の野音でやるころには「天国注射の昼」になる。山崎春美*1が編集していた『HEAVEN』っていう雑誌や、それから吉祥寺マイナーっていうライブスペースがあって、そこに集まる人たちを中心にバンド・ミュージックに限らないパフォーマンスなども含む雑食的な催しだった。1960年代の前衛アーティストたちが教える美学校の出身者たちなんかも参加していました。70年代の終わりぐらいに、高円寺に集まる「東京ロッカーズ*2っていう日本のパンクミュージックのムーブメントがあったけれども、瞬間的なパンクの激発からニューウェイブに音楽が抽象化というか、パンクという「停止」の衝撃を歴史化して深化していったときに、もっとノイジーでアバンギャルドな焦点があったんです。ステージに平気で人間の流血や汚物が出現したりする。その吉祥寺マイナーに竹田さんが深く関わっていて、その成果を記録したピナコテカレコード*3もそこから生まれるんです。そういう汚辱に塗れたミュージックシーンをそのまま東京中心部の日比谷野音に持ってくる、そういうイベントが「天国注射の昼」だったんですよ。それをプロデュースしたのが、武蔵野美大で全共闘運動をやった68年世代の女性だった。彼女が新宿で飲み屋を始めて、吉祥寺のマイナーと絡み合いながら、その周りにミュージシャンたちやパフォーマーや舞踏関係者が蠢く、そういうシーンが作られていった。その一つの形が法政学館にも関わってくる。そういういくつものポイントがあって相互に重なり合っている、1980年代の初めの東京前衛シーンはそういう状態だった。でも僕が法政の学館に初めて関わったのはそのもっと前、「ニュー・ジャズ・シンジケート(NJS)」関連だね。それはお客さんとして聴きに行ってますね。1977年ごろ、新宿3丁目で旧新宿高校全共闘の仲間たちと始めたライヴハウスに、そのピアニストの一人が出ていたんです。

――ロックス・オフのアドバイザーとして

 法政で企画したコンサートの主体は竹田さんたちとつくった実行委員会みたいなものだったんだけど、そこにロックス・オフのスタッフが実質的な実行者として関わっていた。彼らはほぼパンクスの世代ですね。つまり、パンク・ニューウェイブの音楽的な衝動から現れた新世代の人たちと、竹田さんや僕のように現代音楽やフリージャズが政治的な事と絡み合う状況に関心をもっていた人間たちとの接点が、法政の学館だったのかもしれない。雑誌『インパクション』で連載していた「同時代音楽通信」で80年代に同時進行する音楽=運動のレポートを書いていました。「音楽=運動」というのは音楽が運動をテーマ主義的に取り上げるのでも、運動が音楽を人集めに利用するのでもない、音楽そのものに内在する力が運動になるという僕らなりの表現です。まあ、足立正生*4さんの「映画=運動」から発想したんですが。僕の最初の本『路上のマテリアリズム』(社会評論社)という本に報告が載っています。その企画のひとつに「コンタムポラン・オーケストラ」というコンサートがあった。フリージャズ系やニューウェイヴ系のミュージシャンに加えて、暗黒舞踏系のダンサーやパフォーマーが同じステージに上がる。そこにさらに、ラテンアメリカのグアテマラから来た活動家が加わって「不屈の民」をいっしょに歌うなんていうことが起こる。ステージ作りは竹田さんが関わっていたんだけど、僕は企画者として関わっていた。さらに批評を書くことによって介入したり、という関係ですね。政治的な力学でいえば、学館はセクトとノンセクトとの連合体によって運営されていたと思うんですが、そこに直接関わったことはないですね。あくまで外部の人間としてロックス・オフのプロジェクトに関わっていた。特に主体として参加したのは、粉川哲夫さんと企てたアントニオ・ネグリの逮捕に抗議する「アウトノミア」イベントとか、木幡和枝さん、川仁宏さんたちと話した「アルバート・アイラーと未完の60年代」とかですね。68年が10年続いたという1977年イタリアのアウトノミア運動紹介のおそらく先駆けだったと思う。アイラーの方も、情念的に語られすぎていた60年代のニューヨークと東京に着地させる試みだった。その後は、山谷の日雇い労働者たちの闘いに没入していったせいか、少し足が遠のいてしまうんですね。だから、1996年の「MASADA」のライブには客として足を運んだだけですが、そこからまたユダヤ人たちの音楽クレズマーに首を突っ込んでいくことになる。僕にとって、だいじな節目に法政の学館があったということかな。そうかその前に、フレッド・フリスとトム・コラによるツイン・ワンマンバンドである「スケルトン・クルー」のライブがあったなー。竹田さんが中心となってニューヨークのダウンタウンから呼んだんだけど、これはその後、篠田昌己や大熊亘大友良英たちの動きに大きな影響を与えていく。その招聘にロックス・オフが密接に関わっていたんです。

――『PF』誌について

 80年代半ば当時、京都大学の助手だった浅田彰をはじめ、伊藤俊治、四方田犬彦松浦寿夫といった少壮の学者たちが『GS』という名前の雑誌を出していた。「ニューアカデミズム」と呼ばれる思想動向の拠点でした。日本におけるポスト構造主義、いわゆるフランス現代思想の紹介の出発点になるんだけど、その傾向は68年の闘争から生まれたといえる思考法をバブル時代に合わせるように「脱政治化」した、とてもファッショナブルなものでした。硬直し乾涸びてしまった60年代新左翼思想に抑圧を感じるのはよく分かるんだけど、「闘争」はどこへ行ったんだ? という反発が僕なんかにもあったし、学館っていう場所そのものが、一方では先鋭的な企アート系イベントをやって、一方では政治的なものとの関わりが手放せないというスタンスの空間だった。『PF』(ポテト・ファシズム)っていう名前は『GS』(悦ばしき学問)に対するアンチテーゼなんですね。「悦ばしき知」というのは、ヘーゲル的なドイツ観念論体系に対するニーチェの哄笑なんです。一方で「ポテト」っていうのは、ドゥルーズ=ガタリ思想のキーワードである「リゾーム(根茎)」、高く繁る樹木ではなく地中に這う根の広がりという思考のイメージへのパロディでした。ポテトという鈍重な根を持つファシズムがあるよ。つまり、あまりに軽やかな脱政治化の風潮に対して政治的なものを対置するんだけど、それは新左翼セクトがいっているような政治ではない。もっと深いミューズ的なものが絡み合った政治の新しい形態みたいなものはありうるはずだ、ということなんです。

――法政大学学生会館の文化的価値とは?

 70年代の後半ぐらいから、日本では京大の西部講堂と法政の学館だけが、僕の言い方だと「60年代の未完の可能性」を継続して追求していった場所だと思う。そういう意味ですごく大事なところだった。大学と社会の境界線上にある、重要な空間だった。大学のバリケードが次々に破壊されていって、大学が学生運動を越えた解放空間としてあったような時代がついえていくような時に、残されたとても貴重で豊かな場所だったと思います。法政の場合は音楽の要素がかなり強かった。大田昌国さんが映画運動としての「黒いスポットライト」に関わっていたけれども。オランダのフリージャズ組織ICP(インスタント・コンポーザーズ・プール)が日本で初めてライブをやったのは法政学館だったはず。そういう実験的で社会的なミュージシャンを呼べるスペースがないんですよ、他には。ここで「社会」というのは国家に対抗するものという、日本では通りにくい意味なんです。僕が法政の学館でやっていた音楽で面白いと思ったのは、何かこうストレートに政治的なことをやりたいって思っていた人がほとんどいないところだと思う。政治的な文脈に音楽が乗せられるってことではない。学館で演奏すること自体が新左翼スローガンより豊かな「政治性」の萌芽を孕んでしまう。

――法政大学学生会館の解体について

 90年代に入ると、日本の学生運動っていうのは大学にとってもう完全に「不良債権」なんですよ。いかにして犠牲を少なく、資産的にもダメージを受けることなく、かつ社会的なイメージを悪くしない形で、この負債を処理できるかというのが経営的な問題になっていった。恐らく、政治的な体面を保ちたいセクトとの間で駆け引きが行われていて、取り壊しまでの期間が長引いたんだと思う。でも、その時には既に学館の文化的な生産力は失われていたと思う。
 学館解体については、大熊君から情報が伝わってきていた。「なんかやろう」と呼びかけられてね。でも率直に言うと、なくなるって事に対して抵抗はすべきだと思ったけれど、そこにしがみつくような運動でいいのかとは思っていた。どうしてもノスタルジックな思いが強くなってしまうね。

――法政大学学生会館解体以後の状況にメスを入れる 管理機能の肥大化

 それは当時、非常勤講師をしていた早稲田大学でも地下部室解体—新校舎建設が同時に進行していたことだったので、僕は考えていたんですけど。治安警察的な発想よりは、新自由主義的な発想によるものが強かったと思う。つまりコーポレート・ガバナンス。大学が完全に企業と同じように統治される。大学の理事会に金融機関系役員が送り込まれて、経営理念の新自由主義化がほぼこの頃に完成している。これを政治的な文脈だけで考えると、面白い対抗策は発想できないと思う。学生たちの「内面」がすでに統治されている。安全清潔派の支配というか、薄汚いものを排除したいという欲望に入学以前から満たされている。かつて法政大学は、米騒動の衝撃に始まる大原社会問題研究所や翻訳書で名高い出版局があるように、戦後社民的な左翼思想が強い大学でした。その法政ですら一番遅れた形で、徹底的にスマートになろうとした。いってみれば、10%ぐらい左翼的な色彩を残しながらネオリベ化していくってことになるわけだよね。立命館にちょっと似ている。
 大学に行く学資がない家庭の層がますます増えているわけで、まず一度はネオリベ大学から徹底して距離を置く必要があると思う。学費に比べてステータスが低い短大や専門学校に行く高校生が減ったから、進学率が上昇してきただけで、去年ついに大学院進学者も5000人減少したんです。院のコストパフォーマンス低下も明らか。これから人口減より下層化が大学生を減らしていくんじゃないか。小ぎれいな大学だけではもう対抗戦略は生まれない。まず大学からこぼれた連中から何かを創り出そう。これが「地下大学」*5を始めた理由の一つなんだよね。路地裏的な「場所」の匂いや可能性を考え直す必要があると思う。法政学館にはそういう汚れや匂いがあったんですよ。そこから大学会社空間に攻め上る。大学が完全に「就職予備校」化したのは常識だけど、半分はフリーターになるしかないのに「キャリアデザイン」ていうのは笑わせるよ、ホント。それでも定員割れしている大学が半分ぐらいあるんだけど、何故潰れないかっていうと文科省の交付金があるから。それを取るためには文科省のいいなりになるしかないわけで、ますます大学制度を維持するっていうことが、従順で安く働く、いつでも首を切れる人間を作る工場経営と化している。学生運動は、大学がただの「企業」になっちゃったから企業をどう攻略するかっていう問題になったと思う。企業の中で運動をすることと同じなんです。文科省自身が「新しい教養」とか「学子力」とか言い出して、AO入試に歯止めをかけるなど、あまりの「清潔従順工場」に危機感を持ってるよ。

――対抗・抵抗の可能性を探る

 ツイッターやフェイスブックやブログなどのネットメディア自体が「T.A.Z」*6なわけだけど、それだけじゃすぐ「日本」とか言い出して、陳腐でナショナルな欲動に引き込まれる事態が生まれているんじゃないかな、まさに今。歌や音や映像が自分の知らない場所へ人を惹きつける力みたいなもので、ありもしない「会社」の安定や「国家」の崇高なんかじゃないところへ繋ぐことができないかな、と思いますよ。党派が未だにやっているようなカルト集団化した形ではない空間政治の可能性はあると思う。法政では松本哉*7という一人の人間自体がもうT.A.Zだったんだよ。彼や矢部史郎*8のようなキャラが立つ奴が運動を作るということになっていったのは、ある時代の必然だったと思う。場所もないし、学内でデモもできないから個人の身体感覚だけが拠点になる。それさえ、追い出される形になった。
 具体例としては、学生自身が非正規労働者として働いている人間と同じレベルで要求を行っていく。日本だと実際に、大学生が借りている奨学金を踏み倒す運動がある。そういうタイプの、学生が学生としての立場でいうよりも、学生が社会で生きていけないからやると。大学は「会社」「幻想製造工場」なのに賃金も払われず、逆に払っている。だから払わん。法政にいる学生がそこまで追い込まれているかどうかはわからないけれど。でもやっぱり、会社と同じように大学の中で運動をやるのは苦しいと思う。ニュートラルな規制として「統治」が現れて、それを学生が内面化してしまう。そこに隙間をつくるのがT.A.Zで、その隙間を広げるのがoccupy(占拠)運動だと思うんだけれどね。法政の学館の記憶は必ずその役に立ちます。

――長い時間ありがとうございました

新版 路上のマテリアリズム―電脳都市の階級闘争

新版 路上のマテリアリズム―電脳都市の階級闘争

2011-12-12

安井豊作監督『Rocks Off (未完成版)』

 法政大学学生会館のドキュメンタリー映画、安井豊作監督『RocksOff(未完成版)』について


 この映画は法政大学学生会館の末期――解体時の映像と灰野敬二氏のピアノ演奏によって構成されている。前者は人の息吹きさえ感じず、がらんどうの廃墟となってべったりと大学に張りついているホール棟。(監督談:工事中の為、学生がいない状態で大学に許可を得て撮影とのこと)後者は法政学館音楽文化の象徴である灰野敬二氏が、これまた西洋音楽の象徴であるピアノを即興によって解体していく。(監督談:灰野氏はピアノのライブ演奏は初めて挑戦とのこと)この両者の交差によってこの映画は成立し、相互に作用している。法政大学学生会館のドキュメンタリー映画といえば、80年代における幾多のGIGや90年代のインプロビゼーション性の強いコラボレーションの映像、上映映画の断片等々を使えば学生会館の文化的営みをストレートに描くこともできる。なぜならば、安井監督は初期のロックスオフとシアターゼロの両者に関わった人間で、学館の全盛期をリアルタイムで体験しているからだ。しかしこの映画は、末期の学生会館、衰弱しきった廃墟のような学館の「壁」を撮り続けている。壁には30年分の歴史が刻まれ、アジテーションの落書きが薄くなっている様からそれを読み取ることができる。ホール棟の廊下をゆっくりと横にスクロールしながら、壁を淡々とカメラに収め続けている。ここで灰野敬二氏のピアノ演奏の場面に舞い戻ると、がらんどうの学館にピアノの痛切な(決して哀切ではない)音が響きわたる。氏の演奏自体が、法政学館のアバンギャルドな音楽性を代弁しているかのようでもある。新たなライブを体感している心地よさに浸っていると、ショベルカーが学生会館を解体している現実に引き戻される。この時に葛藤するのだ――学生会館を過去の栄光とするのか、現実を受け入れるのか? しかし、灰野敬二氏による学生会館大ホールでの演奏で締めくくられる時に、この映画は臨界点を迎えて、その二者択一をしりぞける。廃墟の学館に灰野氏の音が文字通り吹き込まれる時、学館の30年は葬送される。この映画も学館を葬送する。学生会館を即興によって解体する。この映画は学生会館の解体は必然であって、偶然ではないとはっきり証明してみせたのだ。
 
1:本作を一人でも多くの法大生に観てほしいと願わずにはいられない。学館での文化的営みはいつだって「未知との遭遇」だったのだから…
2:トークで登場する佐々木敦さんの著書のタイトルが『即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア』,『未知との遭遇』なのも偶然ではなく必然であろう。

・補遺
◆2011/12/11「ロックス・オフの話をしよう」安井豊作×佐々木敦(批評家)
・すごい異様な映画だった。80〜90年代半ばまで学館には足を運んでいた。特に80年代は一番映画を観た時期なので、シアターゼロの上映企画は印象に残っている。(佐々木)
・なぜこういう映画になったのか?(佐々木)→壁(歴史)が学館の客観的な特徴だから。(安井)
・灰野さんはこの映画を"お気に召した"と。(安井)
・この映画は学館のレクイエムで、ノスタルジックな要素はゼロだと思う。(佐々木)

◆2011/12/12「法政学館の話をしよう」安井豊作×真利子哲也、田中竜輔氏による『Rocks Off』評はこちらを参照のこと→ http://p.tl/Aafr

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現場写真 撮影:鈴木淳哉 協力:nobody編集部