信じる=コストの節約

「信じる」というのは楽なことです。疑うのは大変なことです。例えば、人を疑えば、その人の言動が何か別のものを含んでいないかといちいち考えるようになりますし、行動の裏をとったりとろうとしたりするようになります。これって、とても面倒です。対象が一人でも大変ですが、多くの相手を疑うとすれば、自分が他人を疑うことで支払うコストは考えたくないものになります。
そのコストをカットするにはどうするか? 対象を信じることです。疑わないことです。たとえ心の底からは完全に信じられずとも、対象を探る努力を止めることです。
よく人は「信じていたのに裏切られた」と泣き言をいいますが、その多くは疑うコストを放棄して楽をしようとした結果に過ぎないのではないでしょうか?
けれども……、僕は疑うコストを支払うのが面倒で、多くのことをまるのみにして暮らしています。けれども、人をきちんと疑えず、騙されてしまったときに、世の多くの人と同じように、いえ、もっと情けない泣き言を言うでしょう。これまで、人には言わずとも心の中でぐちぐちと愚痴りながら、生きてきました。これからも、きっとそう生きるのでしょうが……。
最近、実生活において「信じる」って楽な言葉だよなと思わずにはいられないことが少々ありましたので、ちょっと愚痴を。
ちなみに何もかも疑いながら生きるのは不可能だと思います。そんなことをやっていたら疑っているだけで生きる力の大半が失われますから、なんぼか丸呑みはしゃあないよねとも思っています。丸呑みしすぎるのがまずいだけで……。
ちなみに疑って探ってし続けて、最後に信じるようになるのは素晴らしいことだと思います。僕が「信じる」って楽だよね〜って言ってるのは、世に満ちる軽い「信じる」に対してです。

自然と善悪

自然の中には悪も善も無くて、人間が、自分に関わる事柄を、ときに善、ときに悪というだけだと思いますが、まあ、人の観点から。

[「進化:ダーウィンを継ぐもの」対談:ドーキンス vs レニエ]

レニエ:それというのも,進化は,悪と理解されるべき唯一の自然の力だからです。私たちを作り出した進化の過程は,酷いものでした。

ドーキンス:私が思うには,自然淘汰は,本当におぞましい悲惨さの積み重ねの代表だ。跳躍しているライオンとか疾走しているチーターのようなものと,それらが飛びかかろうとしてたり追っかけたりしているアンテロープを見るときには,厄介な武器競争の最終産物を見ているわけだ。その武器競争の道端に沿って,速く走る武器を手に入れられなかったアンテロープの死体や,飢えて死んだライオンやチーターの死体が横たわっているのさ。だから,私たちが今日世界で目にする,すばらしい美とかエレガンスとか多様性を生じさせたのは,おそろしい悲惨さの過程だというわけさ。

結局、生き物を考えるとき、自然科学によってたどり着くのは、上のような考え方じゃなかろうかと思います。悲惨な積み重ねの上に僕らがいるわけです。けれども、そういう考え方は多くの人が嫌うように見えます。人間という種に高い善性を見いだしたい。倫理と道徳がわれわれのなかにあると思いたい。たとえば、水にまで人間の道徳をあてはめようという「水からの伝言」、あのたぐいの話を信じるのは、そういう心理が作用しているのではないかと思います。でも、そんな考え方では生き物を見誤るのではないかと思います。当然、生き物の一種であるうちら人間自身についても。
ただ、ドーキンスとレニエは、それでも我々は正しく振る舞うことができるのだといったことを上でいっていて、僕もそう思いたい。信じたい。ちっとも正しくない僕ではありますが……。